中ソ対立

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ソ連共産党のニキータ・フルシチョフ第一書記(右)と中国共産党の毛沢東党主席

中ソ対立(ちゅうそたいりつ,ロシア語: Советско–китайский раскол)とは、1960年代から表面化した中華人民共和国ソビエト連邦の対立状態である。イデオロギー軍事対立、政治に至るまで広がった。

主な事件[編集]

対立の始まり[編集]

軍事的対立と米中接近[編集]

関係好転とソ連崩壊[編集]

  • 1981年6月、中華人民共和国が鄧小平胡耀邦体制になり、ソビエト連邦との関係を好転させる方向へ向かい始める。

中ソ対立と東側諸国・各国共産党[編集]

中ソ対立と東側諸国 赤=ソビエト連邦およびソビエト連邦に与した東側諸国(第三世界の諸国を含む) 黄色=中華人民共和国および中華人民共和国に与した東側諸国(アルバニア社会主義人民共和国民主カンボジア) 黒=ソビエト連邦と中華人民共和国の両者にもつかなかった東側諸国(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国北朝鮮ソマリア

中ソ対立が、東側諸国内部の関係に及ぼした影響を一枚の地図に図示するならば右図のようになるが、実際には各国の立場は微妙なニュアンスと時代ごとの変化を含んでいる。以下、代表的な国を例示する。

中ソ対立では中華人民共和国と友好し、ソビエト連邦と敵対。1971年にはアルバニア決議を出して、中華民国国際連合から追放させる。1976年毛沢東の死後は中華人民共和国とも敵対し、孤立。
1948年コミンフォルムを除名処分。非同盟諸国の有力国家となる。
ワルシャワ条約機構経済相互援助会議に加盟するが、1968年のプラハの春では、ワルシャワ条約機構軍の軍事介入を非難するなど、ソビエト連邦とは距離を取り西側に接近。一方、1971年にニコラエ・チャウシェスクが中華人民共和国を訪問、1978年には華国鋒がルーマニア社会主義共和国を訪問するなど、中華人民共和国とも一定の外交関係を有していた。
金日成統治下の北朝鮮は、ソビエト連邦と中華人民共和国の双方と等距離の友好外交。
ベトナム戦争では、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)が、ソビエト連邦と中華人民共和国の両国から双方から援助を受けた。しかし、ベトナム戦争が終結し、1976年に南北ベトナムが統一されると(ベトナム社会主義共和国の成立)、1979年カンボジア侵攻中越戦争で中華人民共和国と敵対し、1979年以後は中華人民共和国との領土紛争が起こって敵対する一方、ソビエト連邦との友好は維持された。ソビエト連邦崩壊後の現在でも、ベトナム社会主義共和国と中華人民共和国は冷戦状態にある。
ポル・ポト政権(民主カンボジア)は親中共。ヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)は親ソ連。
アメリカ合衆国との対立によりソビエト連邦に接近。中華人民共和国とは友好も敵対もせず。しかし、1966年に「カストロ首相、中共を激しく非難」という記事が毎日新聞に大きく掲載されていることなどから、やはり当時はキューバもソビエト連邦に与しており、中華人民共和国との関係は悪かった。
  • その他

日本の左翼党派の立場[編集]

日中共産党の関係を参照
反スターリン主義の立場から、中ソを全面否定。
反スターリン主義の立場から、中ソを全面否定するが、中国総路線の「虚偽性の暴露」のための理論闘争を展開しなければならない。
帝国主義の評価の点で、中国のほうが正しい。しかし、中国共産党には、世界革命論が欠落している。
平和共存を支持する。中ソ論争の評価に対しては、中ソ論争が帝国主義者に利用されないよう、留意すべきである。
ソ連を支持する。
ソ連労働者国家無条件擁護・官僚制打倒。

脚注[編集]

  1. ^ 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書,平成15年,87頁
  2. ^ 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書,平成15年,87頁
  3. ^ 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書,平成15年,88頁
  4. ^ 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書,平成15年,88頁
  5. ^ 清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文春新書,平成15年,88-9頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]