大躍進政策

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大躍進政策(だいやくしんせいさく、繁体字: 大躍進簡体字: 大跃进拼音: dàyuèjìn: Great Leap Forward)とは、1957年反右派闘争で党内主導権を得た毛沢東1958年から1961年までの間、中華人民共和国が施行した農業工業の大増産政策である。毛沢東は数年間で経済的にアメリカ合衆国イギリスを追い越すことを夢見て実施したが、現実を無視した手法と経済の大混乱を招いて推計3,000万人から4,000万人の中国人[1]餓死者を出す大失敗に終わった。毛沢東はあまりの失策に生涯でただ一度の自己批判を行って[2]国家主席を辞任した。しかし、中国共産党中央委員会主席だった毛沢東賛美教育は変わらず、劉少奇国家主席が尻拭いを担当した[3]

概説[編集]

ソ連共産党のニキータ・フルシチョフ第一書記(右)と中国共産党の毛沢東党主席

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、「ソ連が工業生産(鉄鋼石油セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろう」と宣言した。

中ソ対立が鮮明化しつつあった中、毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した。

しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて3年間で英米を追い越すほどのノルマ人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。

1959年の7月から8月にかけて、江西省廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は、労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。

また、高等教育を受けた者が少ない当時の同国の指導層の無学が故に、需要流通、輸出入やインフラストラクチャーなどを含めたマクロ経済ミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。

詳細[編集]

当初、農民たちは人民公社の食堂で、食事が無料で提供された。しかし、食料が逼迫すると、この方針は変更された
原始的な方法で、鉄を量産する農民
農家の庭に造られた炉
福建省南靖県書洋鎮五更寮村にある製鋼炉の遺跡。現存する「大躍進」の遺跡としては貴重である

大躍進政策は多くの「運動」の総称である。ここでは、主要なものを列挙する。

大製鉄・製鋼運動[編集]

概要[編集]

1958年10月から、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなかった。

建設資材[編集]

土法炉を建設するための主な資材である耐火煉瓦の供給は皆無に等しく、一般住居用の煉瓦ですら供給不足の状態だった。このため、煉瓦製の寺院城壁など、全土で多数の歴史的建造物が、土法炉建設用の煉瓦採取の目的で解体・破壊された。

燃料の確保[編集]

目標としていたイギリスやアメリカに比べ電化が遅れていたことから、農村部等、ほとんどの地方では木炭を燃料としていたため、必然的に土法炉の還元剤にも木炭を使用することになった。この事は、木炭を生産する目的で、全土で樹木の大規模な伐採が開始されることを意味した。

伐採の対象は事実上、無差別・無分別であり、果樹園の果樹・園芸用の灌木も例外ではなかった。石炭が入手可能な都市部でも、コークス炉を備えていない場合が多く、石炭を地上で直接燃やしてコークスを生産する方法を採用したことにより、結果的に大量の石炭を浪費することになった。(通常、石炭はコークス炉で蒸し焼きにしコークスにしてから高炉に投入する。そうしなければ、多くの硫黄分を残すことになり鉄の品質は非常に悪くなるため、直接投入することはほとんど無い)

原料の確保[編集]

鉄鉱石は石炭同様産地が限られ、かつ供給不足の状態であり、多くの地方では砂鉄の入手すら困難な状況にあった。このため、都市部では鉄製の各種設備・構築物を解体し、農村部では鉄製の農機具・炊事用具を供出させ、それぞれ屑鉄にした上で土法炉に投入した。鉄製器具を消費して屑鉄を産みだすという、全くの本末転倒な行為といえる。

結果[編集]

1117万トン生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。さらにこれらの無理な増産計画によって作られた粗悪なものを含む鉄の用途、さらに販売流通も全く考慮されていなかったために、工業生産から流通までに長期間にわたり悪影響を残した。

また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、2010年代に至っても中華人民共和国では毎年洪水が発生している。しかも農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

四害駆除運動[編集]

1958年2月から、四害(伝染病を媒介するハエネズミと、農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開された。正式には「除四害運動」と呼ばれたが、スズメを大量に駆除した(北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除した)ことから、「打麻雀運動」、「消滅麻雀運動」とも呼ばれる。しかしスズメの駆除は、かえってハエ、カ、イナゴウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。

スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。指導層の無知が故に、食物連鎖の生態バランスを完全に無視した結果だったのである。後にスズメは南京虫に変更され、ソ連から大量のスズメが送られたといわれている。

密植・深耕運動[編集]

伝統的な農法も科学的知識に基づく近代農法もまったく無視した政策が実行に移された結果、農業などにさらに大きなダメージを与えることとなった。まず、第一に人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がったが、1978年生産責任制が導入されるまで一応システムとしては存在した。

また、ルイセンコの学説に基づいた農業開発を行った。これは度を越えた密植(同じ種類の種はお互いの成長を阻害しないとする理論に基づく)や種を2メートル以上の深い穴に埋める(穴が深ければ深いほど根が発達するとする理論に基づく)事であり、農業技師の助けも借りずに素人を動員して灌漑機構を作ったりするなどという稚拙なものであった。当然のごとくこれらの手法は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。

チベット地域[編集]

大躍進政策は、軍事侵攻の末に同国に併合されて間もないチベットでも行われた。しかし餓死者は続出し、1989年の中国社会科学院の調査では、飢饉で死亡した数は1,500万人とされる[4]。この他、人口統計学者のジュディス・バニスターは、3,000万人と推計している[4]。1980年代の北京経済制度研究所による報告書では、パンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45%に当たる90万人が死亡し[4]四川省では900万人が死亡したという[5]。飢饉について研究したジェスパー・ベッカーは、「中国のいかなる民族も、この飢饉によってチベット人ほどの苛酷な苦難に直面した人々はいない」と指摘している[4]

パンチェン・ラマ10世の諌言[編集]

チベットに対する中国共産党政府の抑圧政策の実状に触れるにつれ、パンチェン・ラマ10世は1962年、中華人民共和国のチベット支配を批判した諌言「七万言上書[6][7](7万字の覚書[4])」を上奏した[4]。七万言上書は長らく極秘文書であったが、のちに発見された。

パンチェン・ラマは1962年5月18日に、チベット政府首班の地位を周恩来首相に譲る[4]中国統一戦線部部長李維漢は、3カ月間諌言を受けて改善を実行しようとしたが、同1962年8月、毛沢東は中止を指示し、李はパンチェン・ラマとの結託を批判され[4]、パンチェン・ラマも自己批判を命じられ翌1963年、ラサで50日間の闘争集会に掛けられたあと、北京に送還された[4]。なお1960年に法学者国際委員会報告書は、チベットにおいてジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)があった明らかな証拠があると発表しており、七万言上書はこの見解を裏付けるものとなった[4]。この七万言上書について周恩来は「事実ではない」と答えている[8]

七万言上書は1959年のチベット動乱(1959年のチベット蜂起)に対する中共政府の過剰な報復的処罰を批判している[4]

大躍進政策によるチベットの惨状についてパンチェン・ラマは周恩来首相に改善を求めている[4]

チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[4]

また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[4]、パンチェンラマは次のように書いている[4]

この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった

カム地方でも1965年まで飢餓が続き、パンチェン・ラマが批判した惨状が継続していた[4]。他にもパンチェン・ラマはチベット民族の消滅を危惧している[4]

パンチェン・ラマ10世は文化大革命の際に紅衛兵に拘束されて1968年から1978年まで10年間投獄され、出獄後も1982年まで北京軟禁された。パンチェン・ラマ10世は1989年の演説で「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない一つの過ち」と自説を述べた。これは中共政府の用意した原稿を無視した演説であった。その発言のわずか5日後、パンチェン・ラマ10世は死去した。中華人民共和国政府は死因を心筋梗塞と発表したが、チベット亡命政府や西側のチベット独立運動家などは暗殺説を主張した。

政策の結末[編集]

毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が全土で横行した。

ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。

「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[9]

結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は3,635万人であったという[10]。1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。

文化大革命[編集]

天安門広場に集まる紅衛兵(1966年)

大躍進政策の失敗と毛沢東の辞任ののち、党中央委員会副主席兼国家主席に就任して実権を握った(「実権派」と呼ばれる)劉少奇や鄧小平共産党総書記が、混乱した経済の立て直しを目的に市場経済を部分的に導入し(このため、実権派はまた「走資派」とも呼ばれた)回復しつつあったが、毛沢東はこの政策を、「共産主義を資本主義的に修正するもの」として批判していた。

1966年5月16日に党中央政治局拡大会議は「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)を通過した。この通知は『海瑞罷官』を擁護したとみなされた彭真らを批判し、新たに陳伯達康生江青張春橋からなる新しい文化革命小組を作るものであったが、同時に中央や地方の代表者は資本階級を代表する人物であるとして、これらを攻撃することを指示した。そのころ、清華大学附属中学(日本の高校に相当)で回族張承志ら学生によって紅衛兵が結成され、その後1969年に「文化大革命」正式に宣言される権力闘争が本格化した。

8月5日に毛沢東は、「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新聞)を発表し、公式に紅衛兵に対し、党指導部の実権派と目された鄧小平や劉少奇国家主席らに対する攻撃を指示する。毛沢東の腹心の林彪共産党副主席は指示を受け、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。その後実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが全土で横行した。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて大規模な武力闘争を展開するなど毛沢東すら制御できない大混乱に陥った。

その結果、西側の研究機関やメディアでは「死者数百万人から数千万人」と推測され、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第十一屆三中全会)でさえ「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計された[11]ほどの大混乱が、1976年に毛沢東が死ぬまで続くこととなった。

脚注[編集]

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  1. ^ 『墓碑-中国六十年代大飢荒紀実』(邦訳:『毛沢東 大躍進秘録』文藝春秋、2012年)の著者である楊継縄は、独自の調査により、人口損失を「約7600万人」と主張している(毛沢東時代の大飢饉暴いた中国人記者が出国禁止に - 夕刊フジ2016年4月9日)。
  2. ^ 日本経済新聞 2011年10月2日 読書 書評 この一冊「毛沢東の大飢饉」毛里和子
  3. ^ [1]歴史的悲劇の裏で進められた「子供たちの洗脳」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q [2]TIN News Update, 5 October, 1996 Secret Report by the Panchen Lama Criticises China(小林秀英訳「パンチェン・ラマの秘密文書、中国を非難」)
  5. ^ ジェスパー・ベッカーの研究(1996年)による
  6. ^ 「パンチェン・ラマの意見書(「七万言上書」)概要」(イザベル・ヒルトン〈三浦順子訳〉『ダライ・ラマとパンチェン・ラマ』、ランダムハウス講談社、2006年)
  7. ^ ジャンベン・ギャツォ『パンチェン・ラマ伝』平河出版社,1991
  8. ^ 毛里(1998), 110頁
  9. ^ ジャスパー・ベッカー「餓鬼」
  10. ^ 茅於軾のブログ、「毛沢東の大飢饉」ディケーター
  11. ^ 『毎日新聞』1979年2月5日付記事

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]