赤軍

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労働者・農民赤軍
Красная армия
Red Army flag.svg
赤軍の軍旗
創設 1918年1月28日 - 1946年2月25日
指揮官
最高司令官 ソビエト社会主義共和国連邦最高指導者
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赤軍(せきぐん、ロシア語Красная армия クラースナヤ アールミヤ)は、1918年から1946年にかけてロシアおよびソビエト連邦に存在した軍隊1917年より始まったロシア内戦の最中に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、Рабоче-крестьянская Красная армия ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍РККА エールカーカーアー)として設立され、1937年に海軍が赤軍から独立した後はソ連の地上軍(陸軍)を指す呼称となった[1][2]

規模[ソースを編集]

独ソ戦(大祖国戦争)開戦時、赤軍は約240万人であったが、祖国防衛のためにソ連政府は大動員を実施し、第二次世界大戦中は後方の部隊も合わせると1500万から2000万人という空前絶後の大兵力に膨れ上がっている。その内、700万から1000万人が死亡した。第二次世界大戦後は、約500万人に減少し、冷戦の終結時には、300万人になっていた。

歴史[ソースを編集]

創設期[ソースを編集]

1917年に発生したロシア革命後の1918年1月28日(ユリウス暦1月15日)、ウラジミール・レーニンを首班とした人民委員会議(ソヴィエト政権)は、それまでにあった赤衛隊を基に、「労働者・農民赤軍労農赤軍)」の創設を布告した。2月23日には、戦闘継続中の第一次世界大戦でペトログラードへ進むドイツ軍の侵攻に赤軍が抵抗し、後にソ連の陸海軍記念日となった。ただし、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国の優位そのものは覆せず、ソビエト政権は3月3日にブレスト=リトフスク条約によって敗北を認めた講和に踏み切った。大戦離脱後も反革命軍(白衛軍)勢力や諸外国の介入によって続くロシア内戦中の赤軍創設を指揮したのが、1918年から1925年にかけて軍事人民委員(軍事大臣に相当)であったレフ・トロツキーである。初期の赤軍は、志願兵によって構成されたもので、階級やそれを表す記章がなく、将校は民主的な選挙によって選ばれていた。のちに軍隊への参加が義務となり、またすべての部隊に軍を統制するための政治将校が割り当てられた。創設者であるトロツキーは党による軍の統制を重視し、統一されたドクトリンの制定と職業軍への変貌を明確に否定していた[3]。それにたいして職業軍を核とした大衆軍の創設を唱えたのがミハイル・フルンゼである[4]。トロツキーの後任として陸海軍人民委員に就任したフルンゼはドクトリンの制定を求め、世界に社会主義を輸出するため攻撃的な機動戦ドクトリンを主張[5]。自ら陸軍士官学校の校長を務め、将校の育成と軍の専門家・近代化に活躍し、職業軍を核とする民兵制度や指揮系統を一元化した単一指揮制を導入した[6]。フルンゼの下には後に赤軍野外教令や縦深攻撃論の制定で活躍するトハチェスキーらがいた。

改革期[ソースを編集]

赤軍はロシア内戦やソビエト・ポーランド戦争で積んだ経験やドイツとの軍事交流で得た機動戦や航空戦の知識を基に新時代に適合した新たな軍事理論の形成に全力を注いだ。旧ロシア帝国軍は日露戦争での諸軍統率の混乱を反省し、現地軍を一つの上級司令部に統合した正面軍制度を導入した。正面軍制度は第一次世界大戦で効果を発揮し、ブルシ―ロフ攻勢では4個正面軍が投入され同盟軍に大損害を与えた。攻勢では複数の正面軍同士の連携が重視され、シンクロナイズの概念が生まれた[7]。正面軍制度とシンクロナイズの概念は赤軍に継承された。ロシア内戦では敵縦深を撃破する騎兵軍が活躍し、騎兵攻撃は縦深攻撃の母体となった。ソビエト・ポーランド戦争では正面軍間の連携齟齬により赤軍は敗北、北西正面軍を指揮していたミハイル・トハチェスキーは戦後、近代戦での連続作戦の必要性を唱えた[8]。一度の会戦で決着がつかない近代戦では複数の作戦で敵を連続的に撃破する必要があり、戦略的勝利は作戦を段階的に達成することで完遂される。こうしたフェイズ管理の概念は連続作戦や作戦術の制定につながった[9]。(連続作戦の成功例として1943年秋からウクライナで実施された諸作戦があげられる。)

ロシア帝国軍の将校だったスヴェーチンが戦術と戦略の間に位置する作戦術という新たな概念を提唱[10]。ファロフォロメーエフ とトリアンダフィーロフ は連続作戦を正式に理論化し、打撃軍と砲兵、空挺部隊を一体化した諸兵科連合攻撃の有効性を唱えた[11]。作戦術を連続させることで戦略的勝利を得る連続作戦理論の作成が1925年から開始され、連続作戦理論を原型としドイツの機動戦理論を取り込んだ縦深攻撃ドクトリンがトハチェスキーら改革派将校達により1920年末~1930年前半にかけて理論化された。1920年台末から理論に基づいた諸兵科の機械化が推進され、1929年秋には西欧諸国に先駆けて常設の機械化軍団が編成された。赤軍は機動戦に適合する一方でロシア帝国軍時代からの伝統である砲兵重視の火力主義を堅持し、敵軍の全縦深を対象とする火力集中を可能にするため砲兵軍団を創設。スタフカは常に数個の砲兵軍団を戦略予備とし、砲兵軍団は効率的な火力集中を可能にするため支援対象の部隊に拘束されない高位な指揮権を有した。縦深攻撃ドクトリンは作戦規模の火力支援を行う砲兵軍と大規模な機械化軍による共同作戦を前提とする赤軍独自の機動戦ドクトリンとして発展し、1936年には赤軍野外教令が公布され正式な戦闘教義となった。

縦深攻撃における攻勢部隊は主攻を担う打撃部隊と助攻を担う拘束部隊に分けられる。攻勢では両部隊のシンクロナイズが重視され、濃密に連携した打撃部隊と拘束部隊が二重三重に配置され梯団が形成される。複数の梯団が突破口を開き、大砲兵軍が敵軍の全縦深を麻痺させる。その後機械化部隊が敵縦深を踏破して無力化をはかり、航空部隊・空挺部隊が支援する。空陸一体の諸兵科連合戦闘を可能とした縦深攻撃ドクトリンは欧米諸国に先駆けて制定された、世界最先端の機動戦理論であり、その威力はドイツとの戦争で発揮されることになる。

ソビエトの軍事理論形成に大きな役割をはたしたのがドイツである。ヴェルサイユ体制で孤立していた独ソ両国は軍事・経済上の連携を求め、1922年にラパロ条約を締結、両国の軍事交流がはじまった。ドイツ軍は兵器生産用の工場設備をソ連領内へと移し、ヴェルサイユ条約で禁止された航空機や戦車の開発・量産を行った。またソ連から提供された演習場で航空部隊や機甲部隊の演習を実施した。その見返りにソ連領内で量産された最新兵器が赤軍に提供され、ドイツ軍参謀将校が赤軍将校を育成した。

ドイツ軍将校のシュパイデル は赤軍将校を評価し、

「参謀訓練過程ではソ連将校の方が向上心の点でドイツ側をしのいでることを思いしらされた。語学上のハンディキャップにも関わらず、彼らはドイツ 語の教本をほぼマスターしドイツの同期生をも凌ぐようになった[12]。」と述べている。

なかでも後に改革グループの中心となったトハチェスキー元帥はドイツ軍将校から高い評価をうけた。

ドイツ軍将校のシャライヒャは

「きたるべきロシアの軍事的政治的発展においてトハチェスキーは大きな役割をはたすのに最適であると思われる。現赤軍指導部内の最も有能な軍人の一人であり、今後より高い地位につくことは疑いない[13]。」と述べている。

ドイツ軍の機動戦理論や航空部隊・機甲部隊の運用は赤軍の理論形成にも大きな影響を与えた。一方で戦時の大動員が可能なソビエト軍の民兵制度に国民軍への発展を試みるドイツ軍将校は深い感銘をうけた。

ヒトラー政権の成立後に独ソ交流は途絶えたが、トハチェスキーは「ドイツ国民とドイツ国軍に関する赤軍の感情は従来通りである。  ドイツ国軍が赤軍建設に決定的な役割をはたしたことを決して忘れはしない[14]。」と述べ、ドイツとの軍事提携を高く評価している。 一方で赤軍将校のドイツとの蜜月関係はスターリンの疑惑を招き、トハチェスキーは後にドイツのスパイとして告発されている。

粛清期[ソースを編集]

1936年の時点で赤軍は世界最大の機械化軍と世界最先端の軍事理論を有していたが、スターリンの大粛清がこれらの成果を台無しにした。スターリン政権は当初軍の近代化・機械化に積極的であり、トハチェスキーの改革を手厚く支援した。とくに砲兵はスターリン個人の庇護を受けて飛躍的に発展し、世界に類を見ない大砲兵軍へと成長をとげた。しかし1937年から1939年に行われた赤軍大粛清により、改革の中心となったミハイル・トゥハチェフスキー元帥への裁判と処刑を皮切りに、アレクサンドル・エゴロフ(元参謀総長)・ヴァシーリー・ブリュヘル両元帥の処刑など、ほとんどすべての高級将校が粛清された。優秀な将校団を一瞬で喪失した結果、トゥハチェフスキーが進めた機械化・近代化は停滞した。粛清後の赤軍はクリメント・ヴォロシーロフセミョーン・チモシェンコなど騎兵閥の軍人達が台頭した。なかでもノモンハン事件(ハルハ河戦争)での機械化戦力による日本軍殲滅を評価されたゲオルギー・ジューコフは急速に栄達し、1940年5月にはキエフ特別軍管区司令官に、1941年1月には参謀総長に就任した。1939年~1940年の冬戦争では小国フィンランドを相手に予想外の苦戦を強いられ世界に醜態をさらした。スターリンは冬戦争で活躍したチモシェンコ元帥に軍の改革を命じ、1940年~1941年までに冬戦争での失敗を踏まえた近代的な改革が実施された。(チモシェンコ改革)

二重指揮権問題を解決するため政治将校の権限が縮小され指揮権は赤軍将校の下で一元化された。また粛清の影響で解体されていた機械化軍団が復活し、縦深攻撃理論の研究も再開された。ドイツの大軍が独ソ国境に集結すると、ドイツとの戦争に備えジューコフら参謀本部は新たな動員計画と防衛計画を作成した。スターリンと赤軍参謀本部はドイツ軍の攻勢軸がウクライナであると判断し、キエフ特別軍管区に戦力を重点的に配備した。しかし防衛計画に基ずく戦力移動や防衛体制への移行は、ドイツとの戦争を恐れたスターリンの指示により実施されなかった。

大戦期[ソースを編集]

1941年6月22日、ナチス・ドイツによるバルバロッサ作戦の発動で独ソ戦(大祖国戦争)が開始されると、ぎりぎりまで戦闘許可を出さなかったスターリンの方針が災いし前線の赤軍は一方的な奇襲をうけた。機動戦に特化したドイツ軍は装甲部隊を駆使した縦横無尽な作戦機動で赤軍を包囲し、逃げ遅れた赤軍将兵は次々と殲滅された。赤色空軍は初日の奇襲で全戦力の2割を撃破され、四か月の戦闘で8000機を失い損害率は100%にまで達した。 開戦時の参謀総長ゲオルギー・ジューコフは序盤の大敗を攻撃型ドクトリンにあると述べている。 「ソ連の軍事理論は攻撃だけが敵を撃破する唯一の手段だと決めつけていた。攻撃の補助的手段としてしか防御を考えなかった。 」 防御を戦略的に位置ずけず作戦に活かさなかったので41~42年に守りの戦いができなかった。」[15] ドイツ国防軍は機動力をなによりも重視し、足枷となる砲兵部隊は分散・縮小されていた。砲兵にかわる代替火力として空軍の航空支援を採用したドイツ軍にとって制空権の確保は電撃戦の成功に欠かせない要素であり、制空権を維持していた1941年には次々と電撃戦を成功させた。機動力上昇のため火力を犠牲にしたドイツ軍の電撃戦理論は火力主義を堅持した赤軍の縦深攻撃理論とは対照的であり、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス)が反共主義政権を作る1933年まで、独ソ両国は軍事面でもドイツ側の技術供与やソ連側の訓練場提供など協力関係にあったが、ここではその後の進化の差が明確に現れたと言える。赤軍は連戦連敗を続けたが包囲下でも戦闘能力を保ってしぶとく抵抗し、スタフカ予備の投入により西部軍の東方脱出を成功させた。ドニエプル以西で赤軍主力を殲滅するドイツ軍の作戦計画は失敗に終わり、予定になかったモスクワへの攻勢作戦は兵站計画を破綻させた。1941年10月ドイツ中央軍集団はモスクワへの攻勢を開始したがドイツ空軍は赤色空軍との連戦で消耗し、赤色空軍は残された戦力をモスクワ正面に全力投入しモスクワ上空での制空権を掌握した。スタフカは温存していた砲兵の戦略予備をモスクワ防衛に投入、前線での火力集中を成功させ航空支援を欠いたドイツ軍装甲部隊を撃破した。モスクワでの勝利は機動戦理論に対する火力主義の有効性を示す結果となった。

スターリンの強い意向により1941年冬~1942年春にかけて全戦線での大攻勢を実施したが、戦力を分散した攻勢は失敗に終わった。とくにハリコフへの攻勢作戦は大失敗に終わり、ソ連はウクライナ全土と予備戦力を喪失、ドイツ軍は南部ロシアへの攻勢作戦ブラウ作戦を発動した。 前線の死守を命じていたスターリンは方針を転換。南部ロシアでの撤退を許可し赤軍は戦力の温存に成功した。 ドイツ軍は1941年のような包囲殲滅戦を成功させられずスターリングラードの消耗戦にひきずりこまれた。 包囲を巧みにかわした赤軍は戦線を膠着状態に持ち込み、攻勢限界をむかえたドイツ軍に大反撃を実施。1942年冬スターリングラード攻防戦で攻勢を開始し、側面のルーマニア軍を粉砕し突出したドイツ第6軍を包囲殲滅した。 スターリングラードでの勝利は転機となり赤軍は攻勢に転じた。ドイツの城塞作戦を察知した赤軍はクルスク突出部に戦力を集結させ、1943年8月にはドイツの攻勢を撃退、ウクライナ解放のための連続作戦を開始。 クトゥーゾフ作戦・ブルシ―ロフ作戦・ルミャンツェフ作戦と連続作戦を成功させた赤軍は南方軍集団を崩壊させ、ドニエプルを渡河してキエフを解放した。 1943年までにウクライナの大半が奪還された。 ドイツ軍との戦いを通じて縦深攻撃理論を発展させ1944年には完成系であるPU44ドクトリンを公布した。1944年6月22日に実施されたバグラチオン作戦はPU44ドクトリンに基ずく攻勢作戦であり、縦深攻撃ドクトリンの集大成として評価される。バグラチオン作戦の結果、ドイツ中央軍集団は壊滅状態となりドイツの東部戦線は崩壊した。PU44ドクトリンを完成させた赤軍は戦力だけでなく理論面でもドイツ国防軍を上回っていた。

1944年夏までにほぼ全ての開戦前領域を奪還した赤軍はドイツの同盟諸国(枢軸国)へと侵攻。ルーマニア王国への侵攻作戦ヤッシー・キシチョフ攻勢を開始し、8月に首都ブカレストへと入城、ルーマニアを降伏させた。9月にはブルガリアとフィンランドを降伏させ、ルーマニア軍とともにハンガリーへと侵攻した。10月にはユーゴスラビアのパルチザンを支援しブルガリア軍とともにセルビアを解放。枢軸軍の撤退後、パルチザンはユーゴスラビア全土を掌握した。12月にはハンガリーの首都ブダペストを包囲、2月にはブダペストを攻略しハンガリーの枢軸軍を壊滅させた。

1945年1月にはドイツ本国への侵攻作戦が開始され、ヴィスワ=オーデル攻勢を発動。2月までにドイツA軍集団を壊滅させオーデル河に到達した。東プロイセンでは第3白ロシア正面軍と第2白ロシア正面軍が北方軍集団を壊滅させ、3月には第1白ロシア正面軍がベルリンへの攻勢を開始。ゼーロウの戦いで勝利した赤軍はベルリン市街へと突入。

1945年5月のベルリンの戦いでの勝利においてナチス・ドイツを打ち破り欧州をナチスの支配から解放した。ドイツ国防軍の東部戦線における損失は戦死者110万5980人、負傷者349万8065人、行方不明者101万8365人であり総計562万2411人に達する[16]。一方西部戦線の損失は戦死者10万6000人、負傷者33万9000人、行方不明者42万人、総計75万人に過ぎない。アフリカ・イタリア戦線の損失を足しても総計は110万人であり、赤軍がドイツ国防軍に与えた損失の4分の1にも満たない。アメリカのルーズベルト大統領は「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」とのべ連合国におけるソ連と赤軍の貢献を高く評価した。

エマニュエル・トッドはその著書『帝国以後』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。」と述べている。

1945年8月にはヤルタ協定にもとずき満州国への侵攻を開始し、わずか20日で100万近い関東軍を戦闘不能においこみ、日本の降伏に絶大な影響を与えた。

1946年2月25日、「赤軍」から正式に「ソビエト連邦軍」という名称に変更された。

将校[ソースを編集]

赤軍を指導した将校団は兵卒や下士官上がりが多く、労働者や農民など平民層の出身者が多数を占める。ユンカー出身者が多いドイツ国防軍とは対照的であり、第1次世界大戦で高級将校として経験を積んだ将校は非常に少なかった。故に赤軍の高級将校は非常に若く、ミハイル・トハチェスキーは1935年に42歳で元帥に任命され、ゲオルギー・ジューコフは1941年に44歳で参謀総長に就任している。(同時期の各国の参謀総長と比較するとアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル61歳、日本陸軍参謀総長杉山元61歳、ドイツ陸軍参謀総長フランツ・ハルダー57歳、イギリス陸軍参謀総長アラン・ブルック58歳) 赤軍はロシア人将校が多数を占めたがソ連邦元帥の中には非ロシア系将校も少なからず存在し、ロコソフスキー元帥は父がポーランド人であり、バグラミャン元帥はアルメニア人、エレメンコ元帥はウクライナ人である。クルスクの戦いで活躍した第5親衛戦車軍は将校6645人中4520人がロシア人、1210人がウクライナ人、323人がユダヤ人、202人がベラルーシ人、78人がタタール人[17]

編成[ソースを編集]

正面軍[ソースを編集]

赤軍の最高単位は正面軍(方面軍、戦線)であり、最高司令官に直属する。二つ以上の正面軍を統括する場合は戦域軍(戦区軍)が設置される。 複数の正面軍の作戦指導は最高司令官が任命した最高司令官代理(スタフカ代表)が担う。正面軍は複数の諸兵科統合軍を基幹とし後方補給部隊と支援用の飛行軍を持つ。また必要とするときは機械化軍や砲兵軍を直属の部隊として加えることもある。

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複数の狙撃師団を基幹とし直属部隊(戦車旅団・騎兵軍・砲兵連隊など)と後方補給部隊を持つ諸兵科統合軍。作戦攻勢時には打撃軍の名がつく時がある。目覚ましい戦功をたてた軍は「親衛」の称号があたえられる。

軍団[ソースを編集]

狙撃軍団と機械化軍団が戦略単位として設置されることがある。 機械化軍団は2個戦車師団と1個自動車化狙撃師団、オートバイ連隊を基幹とし後方支援用の通信・工作支援大隊を持つ。独ソ開戦時、単位の巨大さから運用の困難さが指摘され1941年7月に解体された。1943年に復活。

師団[ソースを編集]

狙撃3個連隊を基幹とし砲兵連隊と後方補給部隊を持つ。西欧の軍隊に比べ師団の兵員数が少なく8000~9000人程度である。

階級[ソースを編集]

ソ連軍将校の階級は少尉、中尉、上級中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、少将、中将、大将、上級大将であり、米英軍の准将がない。 元帥号は兵科元帥、兵科上級元帥、ソ連邦元帥の3種類が存在する。

勲章[ソースを編集]

赤旗勲章[ソースを編集]

1918年9月16日に制定された。ソ連最初の勲章。民間人を対象とする赤旗労働勲章と差別化するため軍務労働勲章と呼称されることもある。

レーニン勲章[ソースを編集]

1930年4月6日に制定された。軍人だけでなく民間人や政治家にも授与された。

赤星勲章[ソースを編集]

1930年4月6日に制定された。国防・治安関係者限定の勲章。

ソビエト連邦英雄[ソースを編集]

1934年4月16日に制定された。下士官から元帥にわたり階級に関係なく授与された。主な授与者はゲオルギー・ジューコフセミョーン・チモシェンコレオニード・ブレジネフ

祖国戦争勲章[ソースを編集]

1942年5月30日に制定された。独ソ開戦後に初めて制定された勲章。受勲に必要な具体的な戦果が規定され、授与者の死後も遺族の保持が認められた。

スヴォーロフ勲章[ソースを編集]

1942年7月29日に制定された。帝政ロシアの名将アレクサンドル・スヴォーロフの名を冠した勲章。指揮官専用の勲章であり、階級によって等級が異なる。部隊に授与されることもあった。

クトゥーゾフ勲章[ソースを編集]

1942年7月29日に制定された。帝政ロシアの名将ミハイル・クトゥーゾフの名を冠した勲章。スヴォーロフ勲章と同じく指揮官専用の勲章だが、1945年には戦車生産に尽力したチェリャビンスク・トラクター工場に授与された。

アレクサンドル・ネフスキー勲章[ソースを編集]

1942年7月29日に制定された。中世ロシアの英雄アレクサンドル・ネフスキーの名を冠した勲章。下級指揮官専用の勲章。基本的に前線指揮官に授与されるため受勲者の戦死率は極めて高かった。

ボグダン・フメリニツキー勲章[ソースを編集]

1943年10月10日に制定された。ウクライナの英雄ボグダン・フメリニツキーの名を冠した勲章。ウクライナ語表記の勲章であり、ロシア語以外の表記はこの勲章がはじめて。ウクライナ解放を目指す諸作戦の最中に制定され、受勲者は第1~4ウクライナ正面軍に属している将校が多かった。

勝利勲章[ソースを編集]

1943年11月8日に制定された。指揮官や政治家、国家元首専用の勲章であり、受勲の対象者は大作戦を成功に導いたものに限られる。主な受勲者はヨシフ・スターリン、アレクサンドル・ワシレフスキー、ルーマニア国王ミハイ1世

栄光勲章[ソースを編集]

1943年11月8日に制定された。対象者は一般の兵卒と曹長以下の下士官。敵陣に一番乗り、夜間の切り込みで敵軍の資材集積所を破壊など困難な任務を達成した兵士に授与された。

戦争犯罪[ソースを編集]

東部ヨーロッパ地域の「解放」において、赤軍は残忍で大規模な殺戮・略奪・強姦を行った。これはソ連領内で行ったドイツ国防軍やナチスの親衛隊による住民や投降した兵士への残虐行為と対を成す物だったが、赤軍兵士の凶暴化は1945年4月のベルリン攻防戦でその頂点に達した事が、当項目の英語版で出典として用いられたヨーク大学教授のリチャード・ベッセルの"Germany 1945: From War to Peace"などで指摘され、自らもその一員となったドイツ人女性ジャーナリストの著書『ベルリン陥落1945』では強姦被害者を200万人と推測している。世界難民問題研究会協会のドイツ課長にあたるライヒリンク博士によれば、ソ連赤軍がベルリンまで侵攻してくる間に、190万人の女性が強姦されたという。また、第二次世界大戦末期にソ連が日ソ中立条約を一方的に破って千島列島南樺太満州から朝鮮半島に侵攻したソ連対日参戦時も、ソ連赤軍は満州・南樺太・朝鮮半島などに住む多数の日本人女性を集団的に強姦した。これらの行動は、戦後の日本・西ドイツ両国政府の外交政策、及びソ連圏に組み込まれた東ヨーロッパ諸国の民衆における対ソ感情を険悪・拒絶の方向へ大きく導いた。

組織[ソースを編集]

1941年6月22日時点での組織。

赤軍郵票(1938)

統制機構[ソースを編集]

軍事行政単位[ソースを編集]

海軍[ソースを編集]

海軍は、海軍人民委員部に所属していた。

戦歴[ソースを編集]

参考文献[ソースを編集]

  • 「機甲戦の理論と歴史」芙蓉書房出版
  • 「ソヴィエト赤軍興亡史I~III」学研
  • 「労農赤軍臨時野外教令」
  • 「詳解 独ソ戦全史」学研
  • ジェフリー・ロバーツ/松嶋芳彦訳『スターリンの将軍 ジューコフ』(白水社、2013年)

出典[ソースを編集]

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  1. ^ ハリエット・F・スコット,ウィリアム・F・スコット『ソ連軍 思想・機構・実力』乾一宇 訳、p.101
  2. ^ ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所『第二次世界大戦史(История Великой Отечествнной Войны Советского Союза)1』弘文堂、pp.156-168
  3. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p290
  4. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p291
  5. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p292
  6. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p292
  7. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p287
  8. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p293
  9. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p300
  10. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p297
  11. ^ 用兵思想史入門 著者 田村尚也 p294
  12. ^ 20世紀最大の謀略 赤軍大粛清 p120
  13. ^ 20世紀最大の謀略 赤軍大粛清 p124
  14. ^ 20世紀最大の謀略 赤軍大粛清 p128
  15. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ 134p
  16. ^ ПОСЛЕДНИЙ ГОД ВОЙНЫ: сравнение потерь Третьего Рейха на востоке и на западе. Личный состав Автор: Андрей Кравченко
  17. ^ 1943年7月5日時点における第5親衛戦車軍の民族構成表http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/zatuwa25.html

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]