ミハイ1世 (ルーマニア王)

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ミハイ1世
Mihai I
ルーマニア国王
Mihai.jpg
ミハイ1世
在位 1927年7月20日 - 1930年6月8日
1940年9月6日 - 1947年12月30日
全名 Mihai
ミハイ
出生 1921年10月25日(94歳)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国シナヤ
配偶者 アナ・デ・ブルボン=パルマ
子女 マルガレータ
エレナ
イリナ
ソフィア
マリア
王家 ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家
王朝 ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン朝
父親 カロル2世
母親 エレナ・デ・グレチア・シ・ダネマルカ
宗教 キリスト教正教会
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ミハイ1世ルーマニア語: Mihai I, 1921年10月25日 - )は、ルーマニア王国国王(在位:1927年7月20日 - 1930年6月8日1940年9月6日 - 1947年12月30日)。

生涯[編集]

1回目の即位[編集]

敬礼する幼君ミハイ1世。伯父のギリシャ国王ゲオルギオス2世や母エレーニ・祖母マリアらとともに。

1921年10月25日、ルーマニア王太子カロルギリシャ国王コンスタンディノス1世の長女エレーニの長子として生まれる。

1927年に祖父フェルディナンド1世が死去するが、本来ならばこの時に父カロルが王位を継承するはずであった。ところが父は数々の醜聞により王位継承権を1925年に放棄しており、愛人とともに国外逃亡してしまっていた。そのため、わずか6歳の王孫ミハイが即位することになった。

しかしその3年後、父のカロルが突如帰国してミハイ1世を退位させ、代わって自身が国王カロル2世として即位した。退位したミハイは父の王太子と定められた。

2回目の即位[編集]

カロル2世の親政は安定せず、カロルは1940年に元国防相のイオン・アントネスクの圧力によって退位に追い込まれて再び亡命、ミハイ1世が国王の座に返り咲くことになった。アントネスクは国家指導者(Conducător。総統とも訳される)に就任してルーマニアの独裁権を握った。

1941年6月、独ソ戦が始まると、アントネスク支配下のルーマニアも枢軸国側に立って参戦した。しかしドイツが劣勢にまわるとともにアントネスク政権も動揺する。1944年8月23日、ミハイ1世は自ら宮廷クーデターを起こしてアントネスクを追放し、連合国側につくことを宣言。しかしソ連軍による占領を免れることはできず、ルーマニア軍兵士13万人が捕虜としてソ連に送られその多くが消息を絶つなどした。

共産革命と退位[編集]

退位文書

ミハイ1世は親共産党政府の任命を強要されたため、以降政府の上奏する裁可文書への署名を拒否する「国王のストライキ」で対抗したが、ソ連に加えて米英も政府に従うことを要求したため、政府への非協力を中止した。しかし1947年12月30日に、親共産党の陸軍部隊による包囲の中、銃口を突きつけられ退位文書に署名し、亡命に追い込まれた。その翌年の1948年ブルボン=パルマ家アンヌ・アントワネットと結婚した。

亡命当初は「ホーエンツォレルン公」の称号を名乗ったが、すぐに退位は強制であり無効であるとし、ルーマニア国王の称号を再び名乗る。その後反共政権下のスペインに渡り、イベリア航空のパイロットなどをしながら亡命生活を強いられた。

帰国後の生活[編集]

アルバ・ユリア訪問時のミハイ1世(2007年)

ルーマニア革命によるルーマニア社会主義共和国の崩壊後、1992年にようやく一時帰国を許され、1997年以降ルーマニアに在住している。帰国後もミハイ1世はルーマニア国王の称号を名乗り続けており、ルーマニア政府に君主制復活を要請している。

2001年7月、娘のマルガレータ王女とともに共和国政府より特別の地位を与えられ、住居・生計・活動費すべてが国庫で保証されるようになった。NATO加盟やEU加盟のために、ヨーロッパ各国王室との縁戚関係をもつ旧ルーマニア王家のチャンネルを有効活用しようとするルーマニア政府の意図によるものである[1]。またミハイ1世自身もこれらの対外交渉を支援しており、その際に接受国では公賓に準じる待遇を受けている。ルーマニア政府との関係はおおむね良好で、大統領や首相から公式に「国王陛下」と呼ばれるなど、国家からの生活保障も相まって現在のルーマニアは君主制と共和制の折衷のような状況となっている。

90歳の誕生日となる2011年10月25日、退位後初めてルーマニア議会での演説を行った。この演説において、「国家としての誇りの回復」と「民主主義の強化」を呼び掛け多くの議員からスタンディングオベーションを受けたが、トラヤン・バセスク大統領や一部閣僚は記念式典を欠席した[2]

2016年3月2日、慢性白血病および転移性類表皮癌の治療のために公的活動から引退することを発表した。この発表はルーマニア国内に大きな衝撃を与え、クラウス・ヨハニス大統領やダチアン・チョロシュ英語版首相は相次いで「陛下」の病状を憂慮し、健康の回復を願うとの趣旨のコメントを発表した[3]。また、同じルーマニア人の国家モルドバニコラエ・ティモフティ大統領も同様の声明を発表している[4]

評価[編集]

ナチス・ドイツと同盟した国家指導者アントネスクを失脚させた功績が高く評価されており、2016年現在でもルーマニア国民から広く人気を集めている。

2012年1月の世論調査では、過去のルーマニア政治指導者のなかで最も信頼できる公人として選出された[5]。2013年7月における調査では、対象となったルーマニア人の45%が、ミハイ1世に対して「良い」もしくは「非常に良い」感情を持っていた[6]

家族[編集]

1947年に、イギリス王女エリザベス(のちのエリザベス女王)とエディンバラ公フィリップとの結婚式で、ブルボン=パルマ家アンヌ・アントワネットと出会い、翌1948年に結婚し、5女を儲けた。

  1. マルガレータ1949年 - )
  2. エレナ(1950年 - )
  3. イリナ(1953年 - )2013年8月、亡命先のアメリカで闘鶏賭博容疑で、夫婦そろって逮捕された。
  4. ソフィア(1957年 - )
  5. マリア(1964年 - )

ルーマニアの王家継承法において、女子には王位継承権が与えられていなかった。ミハイ1世には兄弟もいないため、ルーマニアの王位請求権は、最も近親の男子である又従弟のフリードリヒ・ヴィルヘルム(2010年死去)に移ることになっていた。しかしミハイの退位60周年となる2007年12月30日、ミハイ1世は「ルーマニア王家基本家憲」を定め、長女マルガレータを王位継承者とし「ルーマニア王太女(Principesa Moștenitoare a României)」を名乗らせた。

マルガレータと夫ラドゥ・ドゥダには子供が無いため、次女エレナの長男ニコラス・メドフォース=ミルズ(Nicholas Medforth-Mills, 1985年 - )が次世代の後継者になると考えられていたが、ニコラスは2015年8月1日に価値観の相違から王位継承順位から外され、その妹エリザベータが継承順位第3位となった[7]

出典・脚注[編集]

  1. ^ 「饗宴外交の舞台裏(65):ルーマニア王子が日本外交に投げかけた難問」(新潮社『foresight』、2003年6月号)
  2. ^ 「元ルーマニア国王ミハイ1世、初の議会演説[社会]」(『NNA.EU』、2011年10月26日)
  3. ^ http://stiri.tvr.ro/regele-mihai-este-grav-bolnav-si-se-retrage-din-viata-publica--principesa-margareta-il-va-reprezenta-in-actiunile-publice_71482.html 2016年3月6日閲覧。
  4. ^ http://www.president.md/rom/comunicate-de-presa/presedintele-nicolae-timofti-transmite-un-mesaj-de-sustinere-regelui-mihai-i-al-romniei 2016年3月6日閲覧。
  5. ^ Romanians Have the Highest Confidence in King Mihai I. Retrieved 31 July 2012.
  6. ^ 41% dintre romani ar vota pentru mentinerea republicii, 27,2% ar alege monarhia – INSCOP. Retrieved 2 August 2013.
  7. ^ http://stiri.tvr.ro/principele-nicolae--exclus-din-linia-de-succesiune-a-casei-regale--titlul-de-principe--retras_63861.html 2016年3月6日閲覧。

関連項目[編集]

ミハイ1世 (ルーマニア王)

1921年10月25日 - 存命中

爵位
先代:
カロル2世
フェルディナンド1世
ルーマニア王国の旗 ルーマニア国王
1940年 - 1947年
1927年 - 1930年
次代:
王制廃止
カロル2世