カール・ハプスブルク=ロートリンゲン

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カール・フォン・ハプスブルク
Karl von Habsburg
ハプスブルク=ロートリンゲン家
Blue-Shield Vienna 3406.JPG
2017年9月撮影
称号 オーストリア大公(非公式)
全名 Karl Thomas Robert Maria Franziskus Georg Bahnam von Habsburg-Lothringen
カール・トマス・ロベルト・マリア・フランツィスクス・ゲオルク・バーナム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生 (1961-01-11) 1961年1月11日(56歳)
西ドイツの旗 西ドイツバイエルン州シュタルンベルク英語版
配偶者 フランツェスカ・ティッセン=ボルネミッサ
子女 エレオノーレ
フェルディナント・ズヴォニミル
グロリア
父親 オットー・フォン・ハプスブルク
母親 レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン
役職 欧州議会議員(1996年 - 1999年)
代表なき国家民族機構事務局長(2002年1月 - 2003年1月)
ブルーシールド国際委員会英語版代表[1]
国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部長
宗教 キリスト教カトリック教会
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カール・ハプスブルク=ロートリンゲンドイツ語: Karl Habsburg-Lothringen, 1961年1月11日 - )は、ハプスブルク=ロートリンゲン家の現在の当主で、政治家、資本家。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクと、ザクセン=マイニンゲン公家の公女レギーナの長男。最後のオーストリア皇帝カール1世と皇后ツィタの孫。

「カール・フォン・エスターライヒ」や「カール大公」などの名でも呼ばれる。しかし、現在のオーストリア共和国では、貴族の称号が「フォン」の名乗りに至るまで公的には一切認められていないため、「カール・ハプスブルク」または「カール・ハプスブルク=ロートリンゲン」が法律上の名前となる。

父親同様、汎ヨーロッパ主義の推進者として知られており、現在は国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部長。1996年から1999年まで、オーストリア選出の欧州議会議員を務めた(オーストリア国民党所属)。代表なき国家民族機構事務局長、ブルーシールド国際委員会英語版代表などを歴任。その他、さまざまな名誉職にも就いている。

生涯[編集]

ザルツブルクアニフドイツ語版に位置する現在のハプスブルク邸「ヴィラ・スウォボダドイツ語版」の敷地
カール(1989年撮影)
カール(2016年8月撮影)

オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクの長男として、1961年1月11日に誕生した。父オットーは、洗礼式の際、受洗者名簿に「大公」と記載した[2]。オーストリア共和国は当時、王朝との絶縁を宣言しなければハプスブルク家の入国を認めない姿勢をとっており、カールが誕生したこの年、父オットーはオーストリア入国のために、ハプスブルク王朝と絶縁することと、あらゆる支配権の要求を放棄することを宣誓した[3]。生後間もないカールは、この際にハプスブルク家の領地に対する個人的請求権をオットーから移譲された[4]。このため、カールは1歳に満たない年齢でハプスブルク家の形式的な家長となった。

1981年から、オーストリアのザルツブルクに在住している。1989年、祖母でかつてのオーストリア皇后ツィタが崩御。なおツィタは、皇帝カール1世は国事への関与は放棄したが、退位はしていないと主張していた。オットーに代わってハプスブルク家の家長となったカールは、祖母ツィタのような主張の人々から見れば正当なオーストリア皇帝「カール2世」であった。ただし、カール自身が皇帝や王を称したことはない。

1993年1月31日、ティッセン=ボルネミッサ男爵家令嬢フランツェスカと、マリアツェルの教会で結婚式を挙げた[5]。花嫁の父ハンス・ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサ男爵は世界で最も裕福な者のひとりに挙げられる人物であり、ハンガリー貴族さながらの華やかな恰好だった[5]。これに対してハプスブルク家の人々はみな質素な恰好であった。結婚式の後、カールは長いインタビューの中で、ハプスブルク家には金がなく、生活のために働かねばならなかったことを明らかにした[5]

1996年、オーストリア選出の欧州議会議員になった(オーストリア国民党所属)。当時は父オットーもドイツ選出の欧州議会議員であったため、親子で同時に欧州議会議員を務めたことになる。しかし、ワールド・ビジョン・オーストリアドイツ語版の寄付金スキャンダルに巻き込まれ、1999年に欧州議会議員としての活動を断念した。なおワールド・ビジョンによると、カール自身はこの問題に関与していなかった。

2000年11月30日、父オットーに代わって金羊毛騎士団長になる。次いで2007年、ハプスブルク家の家督を譲られた。オットーが1961年に「ハプスブルク王朝との絶縁」をオーストリア共和国に宣誓したのに伴い、自動的に生後間もないカールがハプスブルク家の家長ということになるはずだが、実際にはオットーが引き続き家長としての役割を果たしていた。2011年、父オットーが98歳で死去。カールはローマ教皇ベネディクト16世から弔意を受け取ったが、その宛名は「皇帝陛下オーストリア大公カール[6]」であった。

2014年4月、欧州連合加盟を支援するためにセルビアを訪れ、ニコリッチ大統領や首相、王太子アレクサンダル2世などと会見した。「第一次世界大戦の開戦責任をセルビアに負わせることはできません。特定の国や個人の責任ではなく、サラエボ事件が起こらなくても、ヨーロッパのどこか別の場所で事件が起こり世界大戦となったでしょう」と持論を述べ、またセルビア抜きではEUは未完成だと語っている[7]

2015年7月4日、トンガ国王トゥポウ6世戴冠式に弟ゲオルクらとともに参列。2016年11月5日、ハプスブルク一門およそ300人を引き連れてバチカン宮殿を訪れ、ローマ教皇フランシスコに謁見した[8]

君主制をめぐる発言[編集]

君主制復活への希望をなお抱いているか、と質問されたカールは、こう答えている。

私は十分に現実主義者であるつもりです。しかし、こんな風に言わせてください。イギリス連合王国のなかに共和国を求めるのは、スイスのなかに王国を求めるように、馬鹿げたことです。しかし、オーストリアでは――どうでしょう? それは、未解決の問題です[4]

また、2013年にスロバキアのメディアからのインタビューに応じた際には、ドナウ川の流域諸国で君主制が復活すると思うか、と尋ねられ、「100年前、この地域は一つの君主でまとまっていて、誰も数年でバラバラになるとは思っていなかった。だから、未来がどうなるかはわからない」と答えている[9]。このようにカールは、将来的には変化がありうるという見解をしばしば述べている.2013年12月、インタビューを受けた際に、ハプスブルク家の行動に制約を加えるハプスブルク法ドイツ語版について、ベネシュ布告同様「完全なナンセンス」だと批判した[10]

なお、2017年現在、オーストリアのシュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツやチェコのチェコ・コルナチェコ語版など、中央ヨーロッパに立憲君主制を再導入しようとする王党派も少数ながら活動しており、彼らの大半はカールかその長男フェルディナントのどちらかが自国の君主になるべきだと考えている。

家族[編集]

父オットーの葬儀の際のカールの家族、弟ゲオルクの家族(2011年撮影)

フランツェスカ・ティッセン=ボルネミッサとの間に1男2女をもうけているが、結婚生活が破綻したため双方合意の上、2003年から別居生活を送っている。

フランツェスカは王家や旧王家、あるいはそれに準じる古い大貴族の出身ではなく新興の男爵家の娘であり、かつてのハプスブルクの家憲の基準では貴賤結婚に相当する結婚であった。しかし、父オットーが一族の中で同意を得て1980年代に基準を緩和していたことから、1993年にカールとフランツェスカが結婚した際にも、フランツェスカや子供たちの権利が制限されることはなかった。そのため、長男フェルディナント・ズヴォニミル・ハプスブルク=ロートリンゲンハプスブルク=ロートリンゲン家家長の法定推定相続人である。

出典[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

カール・ハプスブルク=ロートリンゲン
ハプスブルク=ロートリンゲン家


存命中

先代:
オットー
ハプスブルク=ロートリンゲン家家長
2007年 - 現在
次代:
フェルディナント・ズヴォニミル
先代:
オットー
金羊毛騎士団
2000年11月30日 - 現在
次代: