フィリップ (エディンバラ公)

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フィリップ
Prince Philip
エディンバラ公
Duke of Edinburgh
Prince Philip March 2015 (cropped).jpg
2015年
称号 エディンバラ公爵
メリオネス伯爵
グリニッジ男爵
身位 Prince
敬称 His Royal Highness(殿下)
出生 (1921-06-10) 1921年6月10日(96歳)
State Flag of Greece (1863-1924 and 1935-1973).svg ギリシャ王国ケルキラ島
配偶者 エリザベス2世
子女 ウェールズ公チャールズ
プリンセス・ロイヤル・アン
ヨーク公爵アンドルー王子
ウェセックス伯爵エドワード王子
父親 ギリシャ王子アンドレアス
母親 アリス・オブ・バッテンバーグ
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エディンバラ公フィリップ王配[注釈 1]Prince Philip, Duke of Edinburgh1921年6月10日 - )は、イギリス王室の成員、イギリス女王エリザベス2世の夫(王配)。次期王位継承者チャールズの実父。爵位称号Prince of the United Kingdom[1]エディンバラ公爵メリオネス伯爵グリニッジ男爵イギリス海陸空軍元帥Lord High Admiralen:List of Lord High Admirals (United Kingdom)) 、日本学士院名誉会員。敬称は His Royal Highness(殿下)。

祖父にギリシャ王ゲオルギオス1世 、曾祖父にデンマーク王クリスチャン9世、高祖父にロシア皇帝ニコライ1世、高祖母にイギリス女王ヴィクトリアがいる。

イギリス海軍第2次世界大戦に従軍後、当時即位前のエリザベスと結婚。女王即位後は海軍を退役し、長年女王を支えてきた。女王の公務の大半に同伴、単独での海外訪問も143カ国637回に上り、公務は単独でも65年間で2万2千件以上行った。現在も785団体の会長や支援者を務める[2]

96歳と高齢になっていた2017年8月2日にバッキンガム宮殿イギリス海兵隊閲兵したのを最後に、全ての公務から引退した[3][4]

家系[編集]

ギリシャおよびデンマークノルウェーの王家であるグリュックスブルク家(正式には、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家)出身。ギリシャ王国の第2代国王ゲオルギオス1世の四男アンドレアスバッテンベルク家(英語名:マウントバッテン家)出身のアリキ(英語名:アリス)の長男として誕生。ギリシャ語名フィリッポス(Φίλιππος)。ヴィクトリア英女王の玄孫であり、連合王国王位継承権を持つ(2012年2月現在第485位)。

姉が4人おりすべてドイツ人と結婚、中にはナチスと関係を持った者もいるといわれる。長姉マルガリタ(ホーエンローエ=ランゲンブルク侯妃)、次姉セオドラ(バーデン辺境伯夫人)、三姉セシリア(ヘッセン大公世子妃)、四姉ソフィア(ヘッセン=カッセル公子妃、ハノーファー王子妃)である。母方の叔母ルイーズスウェーデングスタフ6世アドルフ妃。第2代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ジョージ・マウントバッテン第二次世界大戦のビルマ戦線でその名を馳せた初代マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵ルイス・マウントバッテンは母方の叔父にあたる。

フィリップは、父アンドレアスと同様「ギリシャ王子及びデンマーク王子(Prince of Greece and Denmark)」の称号を有していたが、エリザベス王女との結婚にあたりこれを放棄している。

ヴィクトリア女王 - アリス(ヘッセン大公妃) - ヴィクトリア(ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人) - アリス(アンドレアス王子妃) - フィリップ

略歴[編集]

少年時代[編集]

エディンバラ公フィリップの紋章

1921年6月10日、ギリシアのイオニア諸島のコルフ島(ケルキラ島)にある別荘の台所で、ギリシャ王子アンドレアスアリキ妃の末子として生まれる。

生後1年程してギリシャでクーデターが発生、ギリシャ国王コンスタンティノス1世は退位を余儀なくされ、ゲオルギオス2世が即位し、コンスタンティノス1世の弟である父アンドレアスは革命政府から死刑を宣告された。

それまでケルキラ島に滞在していた一家は、イギリスのジョージ5世の差し向けたイギリス海軍の軍艦によりギリシャを脱出した。なおその後1924年4月の国民投票により王制の廃止が決定、共和政への移行が決定された。

亡命生活[編集]

一家はフランスパリへと向かい、父の兄ゲオルギオス王子の妃マリー・ボナパルトの所有するパリ郊外サン=クルーの別荘に滞在し亡命生活を送った。家庭は円満でなかった。王子の座を失った父アンドレアスは次々と愛人を作り、家庭を省みない父は不在が多かった。夫の不貞に母アリキは精神を病み、南仏の病院に入院した。

姉達が結婚で家を離れるとフィリップは一人になった。1928年に渡英し、祖母ヴィクトリア、叔父ジョージ、ルイスとともに生活する。1933年からは、母の家と縁の深いドイツの南部にあるバーデンの学校へ転校する。1934年5月にはギリシアの王制復活が決定されたが、コンスタンティノス1世ではなくゲオルギオス2世が王に復帰したため、帰国することは叶わなかった。

イギリス海軍[編集]

ラミリーズ

1939年にイギリス海軍兵学校を卒業し、士官候補生として海軍に入隊。第二次世界大戦に従軍した。1940年には戦艦ラミリーズ」に乗艦し、インド洋で半年余り任務にあたった。なお同年に祖国のギリシアはイタリア軍の侵略を受け、ドイツ軍とイタリア軍、ブルガリア軍の枢軸国3国によって分割占領されることになった。

1941年1月からは、戦艦「ヴァリアント」に乗艦し、地中海での任務にあたる。この年「ヴァリアント」は複数の海戦に参加しており、マタパン岬沖海戦でのフィリップの勇戦が認められ、ギリシア十字勲章(Greek War Cross)を受章した。

1942年7月には海軍中尉に昇進し、駆逐艦「ウォーリス」で先任将校として勤務する。1943年7月の連合軍のシチリア上陸作戦を支援した。その後駆逐艦「ホエルプ」 に異動。「ホエルプ」は第27駆逐艦隊の一隻で、インド洋方面へ向かいやがて終戦を迎えた。日本政府が降伏文書に調印した1945年9月2日には、「ホエルプ」は東京湾に停泊していた。終戦後の翌1946年1月にイギリス本国へ帰還する。

なお、フランスに亡命していた父のアンドレアスは、フランスがドイツ軍に占領された後は事実上ヴィシー政権の監視下に置かれ、それ以降はフィリップを含む家族の誰とも会うことはないまま、1944年モナコで死去した。

イギリスへの帰化[編集]

ギリシャの枢軸国による占領は終わったが亡命生活は続き、帰国後の1947年2月イギリスに帰化した。帰化した際、イギリスにおける軍務を継続するために母の実家の家名である「マウントバッテン」(Mountbatten、「Battenberg」を英語化したもの)を姓として選択した。

これに伴いフィリップは、ギリシア正教会からイギリス国教会への改宗を行い、さらに形だけとなっていたギリシャ王子及びデンマークの王子の地位を放棄することを宣言した。

結婚[編集]

フィリップとエリザベスの肖像(1950年)

1947年7月9日に、イギリス国王ジョージ6世の第1王女エリザベスとの婚約が発表される。同年11月20日に、ロンドンウェストミンスター寺院で結婚した。

同日からRoyal Highness 「殿下」の敬称が与えられ、翌日にはジョージ6世からエディンバラ公爵、メリオネス伯爵とグリニッジ男爵の各爵位が授与された。結婚後の数カ月間をマルタで過ごした。

結婚後も軍歴を重ね、1949年にフィリップは地中海艦隊第一水雷戦隊旗艦の駆逐艦「HMSチェッカーズ」の副長となる。1950年には海軍少佐に昇進し、スループ艦「HMSマグパイ(HMS_Magpie_(U82))」の艦長となる。

1952年には海軍中佐に昇進した[5]が、同年ジョージ6世国王が死去し、妻であるエリザベスの女王即位により、「将来的には海軍提督に出世するであろう」と言われた輝かしい軍歴には終止符が打たれた。

イギリス女王の夫に[編集]

オーストラリア訪問時(1954年)
ロナルド・レーガン夫妻とともに(1983年)
エリザベスとともに(2012年)

1952年2月に、エリザベスがイギリス女王に即位した。1957年にエリザベス2世からPrince of the United Kingdomの称号を与えられ[1]、それ以降は、His Royal Highness The Prince Philip, Duke of Edinburgh(エディンバラ公フィリップ王配殿下[注釈 1])が正式な呼称となっている。

ヴィクトリア女王の夫アルバートとは異なり、共同統治者としての地位を示すPrince Consortの称号が与えられず、従って機密書類閲覧権もない。女王一家の姓は「ウィンザー」のままであり、フィリップの姓である「マウントバッテン」に変わらなかった。その後1960年に夫妻の子孫の姓を「マウントバッテン=ウィンザー」とすることになったものの、フィリップの屈辱的な思いは残った。

Prince Consortの称号を得られなかったことはフィリップに屈折した心理を生み、不倫が報じられたほか、王子や王女たちにも悪影響を及ぼしたと言われる[6]。なお子供達には厳格な躾を施し、また将来の国王となるべく影響を与えた。

公務[編集]

しかし王室としての公務には献身的に取り組んだだけでなく、王室の改革、近代化に積極的で、初めて王室の日常をテレビジョンで公開するなど、王室と国民の関係を近いものにすることに心を砕いた。なおこのような改革についてエリザベス皇太后との確執があったが、後に沈静化した。

また南極大陸・南大西洋の訪問を機に自然保護への関心を深め、世界自然保護基金の初代総裁を務めた。また、イギリス国内のケンブリッジ大学エディンバラ大学ソルフォード大学などの総長なども務めている。

1956年には「エディンバラ公賞」(The Duke of Edinburgh's Award)を設立し、優れた技能を持った世界各国の若者を表彰している。特に、自然保護に貢献のあった人物を表彰していることで有名である。

2007年11月19日には結婚60周年を祝う祝賀行事が催された。イギリスの君主で結婚60周年を迎えるのは、エリザベスが史上初である。翌日からは新婚時代を過ごしたマルタを訪問した。

長年海軍の実務より離れていたものの、フィリップの90歳の誕生日である2011年6月10日に、イギリス海軍の最高指揮官であるLord High Admiralに就任した[7]

公務引退[編集]

2017年5月4日、同年8月中をもって、一切の公務からの引退を決断したことを発表[8][9][10][11]。同年8月2日にバッキンガム宮殿におけるイギリス海兵隊のパレードに参加し、単独の公務を全て終えた。しかしエリザベスは引き続き公務を行う意向で、それに同伴する可能性は残されている[4]。11月20日に結婚70周年[12]

子女[編集]

エリザベス2世との間には3男1女がいる。

系譜[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブル=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
8. デンマーク国王クリスチャン9世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ・カロリーネ
 
 
 
 
 
 
 
4. ギリシャ国王ゲオルギオス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム
 
 
 
 
 
 
 
9. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. デンマーク王女ルイーセ・シャロデ
 
 
 
 
 
 
 
2. ギリシャ及びデンマーク王子アンドレアス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. ロシア皇帝ニコライ1世
 
 
 
 
 
 
 
10. ロシア大公コンスタンチン・ニコラエヴィチ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. プロイセン王女シャルロッテ
 
 
 
 
 
 
 
5. ロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフ
 
 
 
 
 
 
 
11. ザクセン=アルテンブルク公女アレクサンドラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. ヴュルテンベルク公女アマーリエ英語版
 
 
 
 
 
 
 
1. エディンバラ公フィリップ王配
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世
 
 
 
 
 
 
 
12. ヘッセン大公子アレクサンダー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ
 
 
 
 
 
 
 
6. バッテンベルク公子ルイス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. ヤン・マウリツィ・ハウケ伯爵
 
 
 
 
 
 
 
13. ユリア・ハウケ伯爵令嬢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. ゾフィー・ラフォンテーヌ
 
 
 
 
 
 
 
3. アリス・オブ・バッテンバーグ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. ヘッセン大公子カール
 
 
 
 
 
 
 
14. ヘッセン大公ルートヴィヒ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. プロイセン王女エリーザベト
 
 
 
 
 
 
 
7. ヘッセン大公女ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート
 
 
 
 
 
 
 
15. イギリス王女アリス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. イギリス女王ヴィクトリア
 
 
 
 
 
 

失言[編集]

フィリップは人種性別に絡む発言をたびたび行い、問題となることが多い。また1978年に日本の皇室に宛て送ったイリオモテヤマネコの保護を訴える手紙の付属報告書の中に、住民の島外退去の提案などがあったため、西表島住民の強い反発を招いた。

  • 「英国人女性は料理ができない」(1966年
  • 「国民は、我々の生活にはもっと休みが必要だと言ってたくせに、今度は仕事がないなどと文句を言っている」(1980年代の不況時に発言)
  • 「あなたは女性ですよね?」(1984年ケニア訪問時、現地人女性に質問)
  • 「ここに長くいたら、(中国人みたいに)目が細くなりますよ」(1986年中華人民共和国訪問時、西安に留学中の英国人学生に向かって)[13]
  • 「生まれ変わったら、死のウイルスになって人口問題を解決させたい」(1987年、著書の序文で)
  • 「あなたたちはほとんど海賊の子孫なのではないのですか?」(1994年ケイマン諸島訪問時、現地人に質問)
  • 「なんとか食べられずに済んだのですね」(1998年パプアニューギニアを探検した学生に発言)
  • 「うん、この工事はインド人がやったに違いない」(1999年スコットランド訪問時、ワイヤーが外れたヒューズの箱を見て発言)
  • 「きみは太りすぎているから無理だろう」(2001年「将来宇宙飛行士になりたい」と語った12歳の少年に返答)
  • 「まだを投げ合っているのですか?」(2002年オーストラリア訪問時、オーストラリア先住民ビジネスマンに質問)
  • 「どうやって免許取得試験中、スコットランド人は酒を飲まないようにするんですか?」(スコットランド訪問時、現地の自動車教習所の教官に質問)
  • 「このくそったれ!」(相手がフィリップと気付かず、駐車違反の切符を切ろうとした警察官に対して)
  • 「耳が聞こえない? このバンドの近くにいたら、不思議じゃないですね」(打楽器のバンド演奏の際、聴覚障害者に発言)
  • 「おお嫌だ。酷い病気にかかるかもしれないじゃないか」(オーストラリア訪問時、コアラを撫でるように頼まれた際の返答)
  • 「さっさと写真を撮れ、この野郎」(バトル・オブ・ブリテンの75周年式典で写真撮影の際、撮影時間が掛かったことに対しカメラマンに発言)
  • 「イギリスでは、親が子供を学校に行かせるのは家に居させたくないからだよ」(2013年10月 マララ・ユスフザイバッキンガム宮殿に招かれて学校教育の重要性を説いた自著を女王夫妻に手渡した際の返答。マララは笑って受け流した)[14]

その他[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b Princeの称号は必ずしも適当な訳語があるものではないが、外務省[1]において「王配殿下」、宮内庁[2]において「英国王配エディンバラ公フィリップ殿下」と呼称していることに鑑み、「王配」の訳を当てている。なお、エリザベス2世女王との間の息子らも同じ称号を名乗るが、この場合には同様の理由により「王子」の訳を当てている。イギリスにおけるPrinceという称号の意義についてはBritish princeを参照。

出典[編集]

外部リンク[編集]

フィリップ (エディンバラ公)

1921年6月10日 - 存命中

イギリス王室
先代:
インディア・ヒックス英語版
イギリス王位継承順位
ヴィクトリア女王の娘アリスの子孫)
次代:
プリンツ・オブ・バーデンドイツ語版
名誉職
先代:
メアリー王妃
大英帝国騎士団
グランドマスター英語版

1953年3月24日 – 現在
次代:
在職中
爵位
先代:
新設
イギリスの旗 初代エディンバラ公爵
1947年 -
次代:
受爵中