ノモンハン事件

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ノモンハン事件
ノモンハン事件
ソ連軍の戦車・装甲車を捕獲して万歳する日本軍兵士
戦争日ソ国境紛争
年月日:1939年5月11日 - 9月16日
場所:満蒙国境
結果:ソビエト連邦の勝利[1][2]
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国
満州国の旗 満州国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the People's Republic of Mongolia (1924-1940).svgモンゴル人民共和国
指導者・指揮官
大日本帝国の旗植田謙吉
大日本帝国の旗荻洲立兵
大日本帝国の旗小松原道太郎
ソビエト連邦の旗グリゴリー・シュテルンソビエト連邦の旗ゲオルギー・ジューコフ
戦力
総兵力[3]
58,000名
(内戦闘参加二万数千名)[4]
戦車92両[5]
8月20日時点
歩兵8,000名[6]
ないし5万よりはるかに少ない数[7]
戦車なし[8]
火砲70門[9]
総兵力[10]
ソ連軍69,101名
モンゴル軍8,575名
8月20日時点
総兵力51,950名[11]
火砲542門
戦車438両
装甲車385両
損害
日本軍
戦死 8,440
戦傷 8,864
戦車 約30輌
航空機 約160機
ソ連軍
戦死 9,703
戦傷 15,952
戦車及び装甲車輌 約400輌
航空機 約360機

モンゴル軍[12]
戦死 280
戦傷 710

日ソ国境紛争

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国モンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代日本大日本帝国)とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍モンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍ソビエト労農赤軍戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

目次

紛争の概要[編集]

清朝1734年(雍正十二年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。しかし、1932年(昭和7年)に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を境界と新たに主張し、以後この地を国境係争地とした。1939年(昭和14年)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢であった[13]が「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わった」[14]

呼称[編集]

事件の呼称[編集]

日本とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国は、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘(ロシア語: Бои на Халхин-Голе)」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河戦争(戦役)」と称している。ソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である(ハルヒン・ゴル[15])。ほか、田中克彦ノモンハン戦争という呼称を使用している[16]

ノモンハンという地名[編集]

この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンは、モンゴル語では「ノムンハン」といい、「法の王」を意味する。

この名称は、清朝1734年(雍正十二年)に外蒙古イルデン・ジャサク旗エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古新バルガ旗)との境界上に設置したオボー(祭礼場)の一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマク中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。

また、この土地を牧場としたハルハ系集団のうちダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くチェチェン・ハン部中国語版左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教僧侶としての位階の呼称にも由来する。チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつなどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。

背景[編集]

北東アジアの国際情勢[編集]

1917年ロシア革命共産主義の波及を恐れた日本はイギリスフランスイタリアとともにロシア内戦への干渉を決定、1918年にチェコ軍救出を名目にシベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年大正14年)に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本とソ連は大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和国を勢力圏に置いた。

両国の勢力圏の中間にある満州地域は、1920年代後半には中国奉天派が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党北伐に降伏(易幟)した奉天派の張学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年(昭和4年)の中ソ紛争(中東路事件)で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。

満州国建国[編集]

日本の関東軍1931年(昭和6年)に満州事変を起こし、翌年満州国が建国され勢力下に置いた。翌1932年(昭和7年)の日満議定書で満州国防衛のため関東軍は満州全土に駐留するようになった。満州国軍は1935年時点で歩兵旅団26個と騎兵旅団7個の計7万人と称したが、練度や装備は良好ではなかった。ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採った。北清鉄路南満州鉄道の売却交渉が始まったが難航した。

ソ連・モンゴル軍事同盟[編集]

ソ連はモンゴルと1934年(昭和9年)11月に紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年(昭和11年)にはソ蒙相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年(昭和8年)には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた[17]

こうして日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、満州事変以後、日本とソ連は満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した[18]

係争地と国境画定問題[編集]

モンゴル側は1734年以来外蒙古内蒙古の境界をなしてきた、ハルハ川東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張。満洲国ハルハ川を境界線として主張した。

満洲国、日本側の主張する国境であるハルハ川からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。係争地となった領域は、従来、ダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くチェチェン・ハン部中国語版左翼前旗中右翼旗などハルハ系集団の牧地であった。この地が行政区画されたのは1730年代で、清朝はモンゴル系、ツングース系集団を旧バルガ新バルガのふたつのホショー(旗)に組織し、隣接するホロンバイル草原に配置し、1734年(雍正12年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものであった。

満ソ国境[編集]

満州国図。東部・北部でソ連と、西部でモンゴルと、南西部では中国と隣接している。

北東アジアの満州地域の対ソ国境については、満州国建国以前から領土問題が存在していた。ロシア帝国の間のアイグン条約北京条約などで国境は画定されていたが、中華民国はこれらは不平等条約であるとして改正を求めてきていた。うちアムール川(黒竜江)は水路協定も1923年に中ソ間で締結されたが、これも中国に不利な内容であったため問題となっていた[19]

1933年(昭和8年)1月、日本はソ連に対し国境紛争処理に関する委員会設置を提案[20]。しかし、ソ連はアイグン条約などで国境は確定済みとの立場であった。また、日本が不可侵条約提案を拒絶していたことや、北満鉄路売却問題が優先事項であったことなども影響し、委員会設置は実現しなかった。

満州国南西部の中華民国との国境でも1934年末から紛争が起きており、日本は緩衝地帯設置などを意図した華北分離工作を展開した。

満蒙国境[編集]

モンゴルは、1911年辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部およびダリガンガドルベト即ち外蒙古)を確保するにとどまり、モンゴル南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまった。バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年人民革命党政権1924年人民共和国への政体変更があった。これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中におさめた中華民国歴代政権との間では、ハルハ東端と新バルガの境界に問題が生ずることはなかった。

東三省東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ川を主張し、本事件の戦場域は、国境紛争の係争地となった。これは、満洲国を実質的に支配する日本が、シベリア出兵中の戦利品であるロシア製の地図に基づいて、ハルハ川が境界と認識していた事による[要出典]

しかし、日本軍は既に1934年の段階で現地調査により歴史的な境界線の存在を確認していたが、参謀本部は調査の結果は不適当であるとし、独白の検討と称するものに基づきハルハ河に沿って国境線を引いた[21]

モンゴルと満洲国の国境画定交渉は1935年(昭和10年)より断続的に行われたが(満州里会議)、1937年(昭和12年)9月以降途絶した。

1937年の6月から10月にかけて、日本と満洲国は現地を調査し、本来の境界を示す標識となるオボーの存在を確認している[22][23]。その調査後も日本側は当初の主張を変更せず、不利な地図や資料は発禁、隠蔽し、関係者にも口止めした[24][25]

このように領土問題を継続させ、モンゴル側の「越境」を主張したことが、ついにはノモンハン事件の戦端を開くに至った。

軍事情勢[編集]

満州方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が優っていた。1934年(昭和9年)6月の時点で日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて5個歩兵師団であったのに対し、ソ連軍は11個歩兵師団を配備(日本側の推定)、1936年末までには16個歩兵師団に増強され、ソ連軍は日本軍の三倍の軍事力を有していた。日本軍も軍備増強を進めたが、日華事変の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年に日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備をゆだねていた。

日ソ国境紛争[編集]

満州事変以後、1934年(昭和9年)頃までは紛争といっても、偵察員の潜入や住民の拉致、航空機による偵察目的での領空侵犯程度の小規模なものだった[18]1935年(昭和10年)に入ると国境紛争の規模が大型化したが、これはソ連側の外交姿勢の高圧化によるとされる[26]ソ蒙相互援助議定書の締結もこの時期であり、ソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍中央と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、騎兵集団高級参謀片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに寄与していた[27]

1935年1月、満州西部フルンボイル平原の満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生。哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃をかけ、月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も出動したが、モンゴル軍は退却した。以降、満州軍はフルンボイル平原に監視部隊を常駐させ、軍事衝突が増えた。6月にはソ連と接した満州東部国境でも、日本の巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する楊木林子事件が発生した。

10月、モンゴルのゲンドゥン首相が「ソ連は唯一の友好国」であるとして、ソ連への軍事援助を求めた[28]

12月のオラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。杉本支隊は装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍は退去した。関東軍は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があればやむを得ず越境することも許すとした方針を決め、独立混成第1旅団の一部などをハイラルへ派遣して防衛体制を強化した[29]

1936年1月には金廠溝駐屯の満州国軍で集団脱走事件が発生し、匪賊化した脱走兵と、討伐に出動した日本軍・満州国軍の合同部隊の間で戦闘が発生。その際に脱走兵はソ連領内に逃げ込み、加えてソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した(金廠溝事件[30]

ソ蒙相互援助議定書[編集]

1936年2月14日、ソ連のストモニャコフ外務人民委員代理は太田為吉駐ソ大使に対して、モンゴル人民共和国に脅威が発生する場合、ソ連は必要な援助を行うと述べた[31]。3月12日、ソ蒙相互援助議定書が締結。これを機に、日ソ国境紛争が次第に大規模化していった[32]

タウラン事件[編集]

3月29日、タウラン事件が発生。オラホドガ偵察任務の渋谷支隊(歩兵・機関銃・戦車各1個中隊基幹)がフルンボイル国境地帯に向かったところ、モンゴル軍機の空襲を受けて指揮下の満州軍トラックが破壊された。モンゴル軍は騎兵300騎と歩兵・砲兵各1個中隊のほか、装甲車10数両の地上部隊を付近に展開させていた。渋谷支隊はタウラン付近で再び激しい空襲を受け、偵察に前進した軽装甲車2両がモンゴル軍装甲車と交戦して撃破された。モンゴル軍地上部隊は撤退したが、日本軍航空機の攻撃で損害を受けた。この事件で日本軍は戦死13名、捕虜1名、トラックの大半が損傷、モンゴル軍も装甲車を鹵獲された。本格的機甲戦や空中戦はなかったが、装甲車両や航空機を投入した近代戦となった[33]。同月、長嶺子付近でも日ソ両軍が交戦し、双方に死傷者が出た(長嶺子事件)。

1936年にはへレムテ事件、アダクドラン事件、ボイル湖事件、ボルンデルス事件など衝突が激化、その結果、ソ連はモンゴルでの軍事力増強に取り組むようになった[34]

帝国国防方針から日独防共協定へ[編集]

日本はソ連モンゴルの共同防衛体制が確立したことを警戒し、8月7日の四相会議で決定した帝国国防方針で、ソ連は「赤化進出を企図し、益々帝国をして不利の地位に至らしめつつあり」と書かれた[35]。さらに日本は、ソ連の極東攻勢の強化を受けて、11月25日にドイツと日独防共協定を締結した[36]

カンチャーズ島事件[編集]

日華事変が勃発した1937年(昭和12年)以降、紛争件数は年間100件を超えた。ソ連は大規模なソ連軍をモンゴルに進駐させた[37]。1937年6月から7月に、ソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺で、日ソ両軍の紛争である乾岔子島事件が起きた。アムール川の国境はアイグン条約によって全ての島がロシア帝国領と定められていたが、水路協定では航路が乾岔子島よりソ連領側に設定され、国際法の原則や居住実態からも日満側は同島を満州国領とみなしていた[38]。ソ満間の水路協定の改定交渉は前年に決裂、ソ連は5月に水路協定の破棄を通告した。6月19日、ソ連兵60名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。日本陸軍参謀本部は関東軍に出動を命じたが、石原莞爾少将の進言により、6月29日に作戦中止を命じた。同日に外交交渉によってソ連軍の撤収も約束された[39]。ところが、6月30日にソ連軍砲艇3隻が乾岔子島の満州側に進出したため、日本の第1師団が攻撃を開始し、1隻を撃沈したが、それ以上の戦闘とはならず、7月2日にソ連軍は撤収した。

モンゴルにおける大粛清[編集]

ソ連は強大な在蒙ソ連軍を背景にモンゴルへ内政干渉を大々的に開始、1937年から1939年にかけて「反革命的日本のスパイ」としてモンゴル政府指導者やモンゴル軍人に対して大粛清が実施された[40]。ソ連によるモンゴル大粛清以降、親ソ派のチョイバルサン元帥が政府権力を掌握し、対日満政策を硬化させていった[41]

張鼓峰事件[編集]

1938年(昭和13年)7月、豆満江近くの張鼓峰で、日ソ両軍の大規模な衝突が発生した(張鼓峰事件)。7月中旬にソ連軍が張鼓峰に進軍、日本の朝鮮軍隷下第19師団も警備を強化した。日本の国境守備隊監視兵が射殺されたのをきっかけに7月29日から戦闘が始まった。(張鼓峰事件は満ソ国境でおこったが、関東軍満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。)しかし、日本は不拡大方針で第19師団の一部のみで対処した。これに対してソ連軍は戦車や航空機多数を出撃させた。8月に入って日本軍も増援の砲兵部隊を出動させたが、モスクワでの日ソ交渉により8月11日に停戦。日ソ双方が停戦時点で張鼓峰を占領していたと主張している。動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1500人、ソ連軍3500人であった。

満ソ国境紛争処理要綱[編集]

張鼓峰事件陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し関東軍は不信を抱き、断固とした対応を強調した「満ソ国境紛争処理要綱」を独自に策定した。辻政信参謀が起草し、1939年(昭和14年)4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱では「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針が示され、安易な戦闘拡大は避けるべきだが、劣兵力での国境維持には断固とした態度を示すことがかえって安定につながると判断された[42]。この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる[43]。この要綱を東京の大本営は「正式な報告があったにもかかわらず正式の意思表示も確たる判断も示さなかった[44]。」また、関東軍司令部ではハルハ川がソ連との確定された国境線とみなされるに至った[45]

1939年には紛争件数は約200件に達した。

外交交渉[編集]

一連の紛争のうち、外交的に解決されたものは少数であった。例えば1936年に起きた152件の紛争に関して、日本側からは122件の抗議が行われたが、ソ連側から回答があったのは59件にとどまり、遺体返還などのなんらかの解決に達したものは36件だった[46]

哈爾哈廟事件をきっかけに、満州国とモンゴルは独自の外交交渉を開始していた(実質的には日ソ交渉[47])。1935年2月に満州国軍の興安北警備軍司令官ウルジン・ガルマーエフ(烏爾金)将軍がモンゴル側に会合を提案、1935年6月3日から1937年9月9日まで満州里で5回の満州里会議が開かれた[48]。満州は全権代表の首都常駐相互受け入れ・タムスク以東からの撤兵を要求したが、モンゴル側は難色を示し、タウラン事件後に起きた凌陞の内通容疑での処刑などで難航した。紛争処理委員の現地相互駐在は妥結しかけたものの、ソ連の指示により1937年8月末から始まった粛清でモンゴル側関係者の大半が内通容疑で処刑され、打ち切りとなった[49]

ソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる。張鼓峰事件では、直前のゲンリフ・リュシコフ亡命事件があったため、ソ連側としては威信を示す必要があった。ノモンハン事件に関しては、日本に局地戦で一撃を加えて対ソ連積極策を抑える狙いを有していたとの見方がある[50]。ソ連は、日本国内での報道やリヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実らによる諜報活動などで日本側の不拡大方針を熟知していたため[51]、全面戦争を恐れることなく大兵力の投入に踏み切れたと考えられるという。

戦争の経過[編集]

第一次ノモンハン事件(5月11日~31日)[編集]

軍事衝突と前哨戦[編集]

モンゴル軍騎兵隊。

係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は不明である。

第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。

5月13日に飛行第24戦隊は出撃命令を受け、18日以降1個飛行中隊をカンジュル飛行場へ進出させ哨戒にあたらせた。5月20日に第一中隊鈴木中尉らがハルハ上空でソ連軍偵察機1機を撃墜し初戦果をあげた。日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決め、日本軍は飛行第11戦隊の第1、3中隊を5月24日に増援投入し、6月10日に一旦原駐地帰還命令がでるまで制空爆撃機支援を行った [52]

日本軍とソ連軍の衝突[編集]

擱座したソ連軍装甲車の横で九二式重機関銃を撃つ日本兵、ノモンハン事件で有名な写真の一つ

国境での衝突を受けて、ソ連軍は日本軍より機敏に行動を開始した[53]。第57特別軍団長フェクレンコが、第11戦車旅団から機関銃狙撃兵大隊(狙撃兵中隊3とT-37戦車8)砲兵第2中隊(自走砲4)装甲車中隊(BA-6及びFAI装甲車21)に進出命令を出した。指揮官には狙撃兵大隊の大隊長であるブイコフ上級中尉が任命された。(指揮官名からブイコフ支隊とよく記される)さらに、5月19日にはブイコフ支隊はM-30 122mm榴弾砲や化学戦車(火炎放射器搭載の戦車)の増援を受け、ハルハ河に向かった。5月23日にはモンゴル軍の第6騎兵団も加わり、総兵力は2,300名(内モンゴル軍1,257名)T-37が13輌、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6 16両を含む装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲8門、KHT-26化学戦車5輌と戦力的に充実していた。指揮はウランバートルから来着した第57特別軍団参謀部作戦課長のイヴェンコフ大佐が執ることとなった[54]。ソ連軍はさらに後詰としてウランバートルからタムスクに車載狙撃兵第149連隊と、砲兵一個大隊を移動させた[55]。ハルハ河に達したブイコフ支隊は、工兵中隊がハルハ河に架橋し、ブイコフ支隊の主力の内、戦車と装甲車と狙撃兵2個中隊とモンゴル軍騎馬隊を渡河させ、距岸8kmの砂丘(日本軍呼称733高地)に陣地を構築、また122mm榴弾砲などの砲兵は西岸の高台に布陣させた[56]

一方、第23師団長の小松原は、追い払ったはずのモンゴル軍がまた係争地に舞い戻ってきたのを知り、5月21日に、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両を持つ)、輜重部隊340など総勢1,701名の日本軍と満州国軍騎兵464人の混成部隊を出撃させた。この部隊は、歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた[57]

しかしこれまで、日本軍が兵力を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといった『ピストン方式』の兵力派出方式で際限がない戦いをしていると、第23師団参謀長の大内大佐から状況報告を受けた関東軍作戦参謀辻政信[58]、山県支隊出撃の方を聞くと「こんな方法では際限がない、何とか新しいやり方を」と考え、軍司令や他参謀の同意を取り付けると関東軍参謀長名で「ハルハ河右岸に外蒙騎兵の一部が進出滞留するようなことは、大局的に見て大なる問題ではない。暫く静観し、機を見て一挙に急襲したは如何」という電報を打った[59]。この時点で関東軍は大本営の方針通り、日ソ間の紛争については不拡大の方針であったのでこのような自重の指示が行われたが、小松原はまったく意に介すこともなく5月22日の日記に「山県支隊は出動の直前なり。今さら其の出動を中止すること統率上出来難し。防衛司令官の遣り方異議ありとて軍が制肘すべきにあらず」と書くなど開き直った[60]。 それでも小松原は関東軍の指示に一旦は躊躇し、3日間部隊を待機させたが、5月25日に戦機到来と判断し部隊に出撃命令を下した[61]。この出撃は、関東軍の指示を無視した形とはなるが、辻はこの小松原の行動に対して「師団長の善良な人柄は、関東軍のこのような電報に対してもなんら悪感情は抱かれなかったのである。」と逆に小松原を気遣うような表現で理解を示している[62]

小松原がこうも強気であったのは5月20日に捕らえた捕虜の尋問などで、ソ連軍の兵力は兵員500名、トラック80台、戦車5両、対戦車砲12門と誤認していたからで、この程度の戦力であれば山県支隊にとって危険性はないと考えていたからであった[63]。小松原は翌26日の午後に、山県支隊本部に出向き「28日払暁を期し、ハルハ河右岸に進出中の外蒙軍を攻撃し、右岸地区において補足撃滅せよ」という『作命46号』を下した[64]。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。

しかし、兵力は日本軍1,701名に対しソ連・モンゴル軍2,300名と防御に回るソ連・モンゴル軍の方が多かった上に、砲も日本軍は射程の短い四一式山砲九二式歩兵砲の5門しかないのに対し、ソ連・モンゴル軍は自走砲も含め76mm砲12門と122mm榴弾砲4門、戦車に至っては日本軍は0に対しソ連軍は多数を投入したが、この戦力差を知らない山県大佐は「歴史の第1頁を飾るべき栄えある首途に際し必勝を期して已まず」という大げさな支隊長訓示を行い行動開始を下令した[65]

東捜索隊壊滅[編集]

東捜索隊攻撃に威力を発揮したソ連軍化学戦車(火炎放射器戦車)

先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功した。橋の1.7キロ手前に陣取り、応急陣地を構築していたが、東捜索隊の動きは既にソ連軍に察知されていて、3時40分にはブイコフ支隊のルビーノフ上級中尉が「砲と装甲車を伴った自動車化歩兵の縦隊が移動中」と報告している。その報告を受けたイヴェンコフはブイコフに装甲車6輌で東隊を攻撃に向かわせた。しかしブイコフの装甲車隊は、東捜索隊が構築中の応急陣地に突入してしまったため、東隊の激しい攻撃によりブイコフが搭乗していた指揮官車が擱座させられた。行動不能となったブイコフの指揮官車を鹵獲しようと日本兵が接近してきたため、やむなくブイコフは指揮官車を放棄して日本軍の追撃をかわし退避した。東捜索隊はブイコフが残していった書類を見て自分らがソ連軍の後方に達していたことを初めて認識した。ブイコフはどうにか戦闘指揮所に逃げ戻るとイヴェンコフに「敵はわが軍を包囲し、渡河施設を奪取した」と報告している。この時点では東捜索隊は渡河点までは達していなかったが、ブイコフは混乱により誤った報告をしたことなる[66]。戦闘には勝利した東捜索隊であったが、これで存在がソ連軍に知られてしまったため、不安を感じた隊長の東は6時10分に「敵の進路を遮断し、目下敵と対戦中にして、すでに戦車2(実際は装甲車)トラック1を捕獲す。速やかに支隊の進出を待つ」という打電をしている。しかしこの電報が山県大佐に届くことはなかった[67]

山県支隊主力は28日の8時にソ連・モンゴル軍陣地中央を攻撃、攻撃を受けたモンゴル騎兵隊15連隊とブイコフ支隊のソ連狙撃兵第2中隊は退却した。日本軍はそのままソ連・モンゴル軍を包囲しようと2個中隊を前進させたが、ここでソ連・モンゴル軍は唯一予備部隊として残していたモンゴル第6騎兵師団学校隊を形勢逆転のために投入した。しかし、騎兵隊は進撃直後に日本軍の猛射で立ち往生させられたところに、ソ連軍の122mm榴弾砲と自走砲が日本軍と誤認し砲撃したため大混乱に陥り、さらに日本軍の追撃でバラバラに分散し潰走、師団長のシャリブが戦死した[68]

この日の日本軍は、支隊主力、東捜索隊など6隊に分かれて前進したが、無線機の欠陥で互いに連絡が取りにくかった上に、目標物が乏しく地点評定ができなかったため、幅30㎞に近い広正面で各部隊がバラバラに戦うことになってしまった[69]。その中で前進しすぎた東捜索隊が敵中で孤立することとなったうえに、支隊主力との戦闘で後退したソ連・モンゴル軍部隊と、ハルハ河西岸に集結しつつあった149自動車化狙撃兵連隊と砲兵1個大隊の増援部隊から挟撃されるという最悪な状況に陥りつつあった[70]。一方、ソ連軍も全く同じ状況で、部隊や車両に無線機が十分行き渡っていなかったため[71]、有線電話や連絡将校による通信に頼っていたが「交戦が始まった後指揮所と各部隊を結ぶ有線連絡は途絶し、統制は失われ、各部隊は放任され、分隊単位で現場の状況を想像しながら独自に戦った。」とソ連側が記録している通り、各部隊が個別判断でバラバラに戦闘しており、日ソ両軍とも上級司令部の指揮の及ばない中で独自の判断で戦うこととなった[72]

日本軍の山県支隊主力が攻撃を開始した8時ごろから東捜索隊はソ連・モンゴル軍の猛攻を受けることとなった。ハルハ河西岸高台に配置されていたソ連軍の122mm榴弾砲と自走砲が直接照準の撃ちおろしで支援砲撃を加えてくる中で、東捜索隊は戦車や装甲車を伴った騎兵や狙撃兵の攻撃を何度も受けたが、死傷者続出ながらもその度撃退した。戦車8輌を伴ったソ連軍狙撃兵部隊の攻撃に対しては十三粍重機関銃を対戦車兵器として使用し、敵戦車2輌とトラック2台を撃破し撃退している[73]。東捜索隊を完全に包囲したソ連・モンゴル軍は、接近することなく、榴弾砲と速射砲での砲撃を加えてきたが、撃ちこまれた砲弾数は3,000発にもなった[74]。砲撃されている東捜索隊のもっとも強力な火器は十三粍重機関銃で、砲撃に対して対抗できる火器はなく、一方的に撃たれるのみであったため、砲撃を避けるため全兵力を背斜面に退避させた[75]。隊長の東は支援要請のため、伝令を3度出したが、山県のいる指揮所ではなく、他の部隊に到達している。しかし、他の部隊も優勢な敵と相対しているか、高台の砲兵陣地から狙い撃たれているかで東捜索隊を支援する余力はなかった。17時にはようやく山県に連絡が通じた。実はこの時点で山県ら支隊主力は東捜索隊から3㎞におり、双眼鏡により山県は東捜索隊の苦境を見ていたが、他の隊同様に、過小評価していた敵の予想外の戦力に、増援を出すことはできず、武器・弾薬の支援しか行わなかった。しかし、この武器・弾薬も東捜索隊には届かなかった[76]

28日の夜にタムスクからソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊の一部が自動車輸送で到着すると、残存の部隊の到着を待つこともなく行軍体勢のまま東捜索隊を攻撃した。しかし、隷下の部隊と全く統制が取れておらず、各隊バラバラに戦闘に突入したため[77]、主要な火器が重機関銃2に擲弾筒しか持たなかった東捜索隊の夜襲攻撃により、放棄した戦車4輌とトラック数台を残して撃退された[78]。この時点で東捜索隊は全兵員157名の内、中隊長2名を含む戦死19名、重傷40名、軽傷32名、合計の死傷者91名にも上り、戦闘力を喪失していたため、捜索隊に派遣されていた師団参謀の岡元少佐より「このままでは陣地の維持困難、後方へ後退」との意見具申があったが、山県からの正式な撤退命令は届いていなかったため隊長の東は「命令なき以上、一歩も後退せず」と突っぱねると全員を集めて「この方面で、日本軍が始めてソ連軍と戦うのだから、ここで退却しては物笑いの種になる。最後の一兵まで、この地を死守して、この次は靖国神社で会おう」悲壮な訓示をした[79]

翌朝から東捜索隊には激しい砲撃が浴びせられた。温存していた捜索隊唯一の九二式重装甲車にも着弾し撃破された[80]。その後、砲撃の支援を受けながら第149連隊の一個大隊がKht-26化学戦車5輌を伴って東捜索隊の陣地攻撃を行った。化学戦車の火炎放射にそれまで固く陣地を守っていた東捜索隊の兵士もひとたまりもなくなく陣地を放棄した。この事例により火炎放射が日本軍歩兵に対し有効であるということが立証され、この後も要所要所で投入されることとなった[81]。14時に東は負傷兵に脱出を命じたが、もはやそのような状況ではなくなっていた。15時に鬼塚曹長を呼ぶと、山県への戦闘経過の報告と遺書を言付け脱出させ、18時、残存の20名の兵員を連れて突撃し戦死した[82]

その後の動き[編集]

28日の夕刻には師団長の小松原は敵の殲滅に成功しなかったことを知り、山県に29日をもって後退するよう命令した[83]。しかし、激戦続く中ですんなりとは退却できないと考えた山県は「敵に一撃を加えた後、撤退する」と時間稼ぎをおこなったが、それを真に受けた師団は機関銃・速射砲の計5個中隊を増援に送った[84]。5月29日には、関東軍参謀の辻が支隊本部を訪れ、山県に「あなたの用兵のまずさによって東中佐を見殺しにした」と非難を浴びせると「今夜半、支隊を挙げて夜襲を決行し、東捜索隊の遺体収容しなさい。新京に帰ったら山県支隊は大夜襲敢行して敵を国境線外に撃退したと発表する。」と命じた[85]。山県は辻の命令通り、30日の夜半に自ら600名の兵力と辻と第23師団の参謀を連れ、捜索隊陣地跡に夜襲をかけた。その時には、捜索隊を壊滅させたソ連軍が、軍団司令部の命令によりハルハ河西岸に撤退していたため、山県支隊は妨害されることなく東捜索隊の103名の遺体を収容した。ここでも辻は強権を振るい「3人で1人の遺体を担げ」と命令している[86]

30日には、モンゴル第6騎兵師団部隊がハルハ河の東岸へと再度進出している。そこを日本軍航空部隊が攻撃し、モンゴル軍は軍馬に大きな損害を受けたが、午後6時にハルハ河東方7kmの高地頂上に到達した。そこで、日本軍の機関銃射撃により前進を阻止され、ハルハ河の西岸へ撤退した[87]。このようにまだ戦闘は継続中であったが、辻ら関東軍による、東捜索隊の全滅を隠匿し「敵を包囲して之に一大打撃を与えたり」とする過大な報告を信じた大本営は30日に「ノモンハンに於ける貴軍の赫赫たる参加を慶祝す」との祝電を関東軍に送った。そして関東軍は植田謙吉司令官名で小松原に賞詞を送っている[88]

ソ連軍のフェクレンコとイヴェンコフは、29日に日本軍の増援を恐れソ連・モンゴル軍に撤退命令を出し、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した[89]。小松原も31日に山県に撤収命令を出した[90]。小松原は山県の指揮に大いに不満を抱き「前進せず、又捜索隊を応援せず。遂に見殺せしむるに至り」「任務を達成せんとするの気魄なし」と散々な評価を自分の日記に書き、山県が帰投するや呼びつけて作戦の細部について問い詰めているが、ソ連軍戦力の過少評価により、十分な砲兵等の支援兵力を出さなかった自分の失策についての反省はなかった[91]

戦場を視察した辻は報告に「外蒙騎兵がこんなに戦車を持っていようとは誰も思ってはいなかった」、「戦場に遺棄された外蒙兵の死体には食糧も煙草もないが、手りゅう弾と小銃の弾丸は豊富に持たされていた」と気がついたことを記述し、この戦いの反省として「第23師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車戦闘の未熟さであろう」としていたが[92]、そこにも十分な速射砲などの対戦車兵器を準備できなかった自分らの反省はなく、第2次ノモンハン事件以降も同じような光景が繰り広げられることとなった[93]

第一次ノモンハン事件における損害は、日本軍、戦死159名(内東捜索隊105名)、戦傷119名、行方不明12名で合計290名、九四式37mm速射砲1門、トラック8台、乗用車2台、装甲車2輌に対し、ソ連軍の損害は戦死及び行方不明138名、負傷198名、モンゴル軍の損害は戦死33名の合計369名、戦車・装甲車13輌(内2輌はモンゴル軍のBA-6)、火砲3門、トラック15台であり、戦力が勝っていたソ連・モンゴル軍の方の損害が大きかった。6月1日には赤軍参謀総長B.シャーポシ二コフがクリメント・ヴォロシーロフ国防人民委員(国防相)にノモンハンの5月の戦闘について報告に出頭した際、ソ連軍の指揮官であるフェクレンコ第57特別軍団長について「ステップ砂漠地帯という特殊な条件下での戦闘活動の本質を理解していない」と辛辣な評価が下され更迭されている[94]

ノモンハンの日本陸軍航空隊第24戦隊のパイロット。(右より、西原曹長、佐藤伍長、石沢軍曹、後藤曹長、斉藤(千)曹長、吉良伍長)

この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保ち、ソ連軍の航空機を数十機撃墜し、損失は軽微であった。また、日本の戦闘機と軽爆撃機はモンゴル領内の陣地飛行場を攻撃した。なおモンゴル軍の航空機はわずかで、満州国軍は航空戦力を持たなかった。

東安鎮事件[編集]

ノモンハンの紛争中の1939年5月27日アムール川方面でも満州国軍とソ連軍の交戦があり、満軍の出動させた騎兵中隊1個と砲艇2隻が全滅した(東安鎮事件)。しかし、ノモンハン事件の拡大誘発を警戒した日本の関東軍が反撃を自重したため、それ以上の戦闘は発生しなかった。

第二次ノモンハン事件に向けての両軍の動き[編集]

ソ連軍[編集]

長年に渡って、ゲオルギー・ジューコフの『ジューコフ元帥回想録』の記述により、ジューコフのノモンハンへの到着は、第一次ノモンハン事件が終結した6月5日で、更迭されたフェクレンコに代わり軍司令に任命されたのが6月6日とされてきたが[95]グラスノスチによりロシア軍事公文書館の記録が明らかにされ、山県支隊との本格的な戦闘開始前の5月25日に、当時、ミンスクの白ロシア軍管区副司令官であったジューコフが、ヴォロシーロフ国防人民委員から、モンゴルに急行しソ連軍の問題点を洗い出すよう命令を受けていたことが明らかになっている。そこでフェクレンコらの作戦指揮を観察していたジューコフは、5月30日にスターリンとヴォロシーロフに向けて「5月28日、29日の極めて非組織的な攻撃の結果、わが軍は大きな損失を被った。戦術は稚拙で作戦指揮も構想力を欠いた」と辛らつな戦況報告を行っている[96]。またジューコフは後日さらに、フェクレンコらの作戦指揮に下記の峻烈な評価を加えている。

  1. 第57軍団とモンゴル軍の訓練は極めて劣悪で、準備態勢は犯罪的な怠慢ぶりであった
  2. 日本の挑発行為を誘引したのは、誤った無責任な国境警備体制であった
  3. 5月の戦闘を通じ120㎞も後方のタムスクから動かなかった軍司令部は国境の些事としか受け止めず、部隊指揮は稚拙で前線の状況を把握していなかった
  4. 無能なフェクレンコ軍団長とイヴェンコフ作戦参謀は5月29日、日本軍の来援を恐れ、ハルハ河東岸の拠点を捨て、指揮者不在のまま無秩序な西岸への撤退を命じた

これらジューコフの報告を聞いていたヴォローシーロフは、ノモンハンの5月の戦闘状況を報告しに来たシャポニーコフとも協議し、スターリンの裁可を受けてフェクレンコを軍団長から更迭し、6月12日に更迭されたフェクレンコに代わりジューコフを軍団長に任命した[97]。軍団長に就任したジューコフはさっそく、先の戦闘で部隊を指揮したイヴェンコフと軍団の参謀長クーシチェフと前線で戦ったブイコフを「日本のスパイ」と糾弾し「本来は軍法会議だが」と但し書き付きで、修理や厚生といった二線の部署へと更迭した[98]

モスクワは第57軍団の戦力の増強を進めたが、特に力を入れたのは、5月の空戦で熟練の日本軍機に圧倒された航空隊の立て直しで、飛行6連隊を送ると共に、スペイン内戦でソ連空軍を指揮したスムシュケビッチ少将(空軍副司令官)と熟練飛行士48名を教官とし、徹底して再訓練にあたらせた[99]

日本軍[編集]

第57特別軍団の幕僚や前線指揮官まで、拙い戦闘をした咎で更迭したソ連軍に対し、日本軍は、敵の戦力を過少評価し敵の撃滅に失敗した小松原も、また、小松原や辻から「東捜索隊を見殺しにした」と散々非難された山県も留任させ、小松原には賞詞まで送っているなど、人事面では非情なソ連に対し関東軍の温情ぶりが際立つ結果となった[100]。また、戦力の増強についても、ジューコフの希望を上回る増援を送り込んできたソ連に比べると、「ソ連に事件拡大の意図はない」と完全にソ連の意図を読み違え、兵力の増強を怠った日本陸軍中央の甘い情勢判断が対照的となった[101]。そのような状況下でも小松原は再戦の機会を窺がっていたが、6月17日になってソ連軍航空部隊の再訓練の目途がつくとジューコフは航空隊に出撃を許可し、19日には陸上部隊にも偵察行動を命じた。17日から19日にソ連軍による満州軍への空襲と小規模な地上部隊による偵察攻撃が続いたため、19日に小松原は戦況について関東軍司令部に報告するとともに、之を撃滅すべしと意見具申している[102]

ノモンハンへの再度の出撃は小松原による意見具申の前に関東軍司令部でも検討を始めており、後方担当の第3課参謀芦川春雄少佐によれば、小松原の報告前の6月17日時点で、服部卓四郎や辻ら関東軍参謀がノモンハン方面の敵の跳梁に鑑み、第23師団の他、第7師団も投入し敵の撃滅を図るとする計画を検討していた[103]。19日に小松原の意見具申が届くと、関東軍司令部第一課で具体的な作戦計画について協議された。その席で関東軍作戦課長寺田雅雄大佐が慎重論を述べたところ、階級は下の辻が猛然と食い下がり「事ここに及んで、ノモンハンを放置すればソ連軍は我が軟弱態度に乗じ大規模攻勢をかけてくるだろう。撃破する自信もある」と説き、服部らも辻に同調したため、寺田の慎重論は却下されている。後に寺田は「職を賭しても主張すべきであった」と悔やみ[104]、辻も「素直に寺田参謀の意見を採用しておけばノモンハン事件は立ち消えになったかも知れない」と反省しているが[105]、後の祭りであった。 辻はこの会議の結果を「対外蒙作戦計画要綱」としてまとめたが、その使用兵力として計画していた第7師団については、第23師団司令小松原のプライドを慮り「統帥の本質ではない、自分が小松原だったら腹を切るよ」との関東軍司令官植田の反対意見で除外された[106]。作戦の見直しを余儀なくされた辻は、第7師団の中から4個大隊を引き抜き第23師団に編入するという策を講じることとしたが[107]、この計画には初めからソ連軍との戦力差が考慮されておらず、第7師団を小松原の面子を尊重して除外したことは、第一次ノモンハン事件で小松原が手もとの戦力を出し惜しみし、東捜索隊を壊滅に追いやった戦訓が活かされていなかった[108]

この辻による関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となっていた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は認められた[109]

第二次ノモンハン事件前半(1939年6月27日からの日本軍攻勢期)[編集]

ソ連軍の越境攻撃と日本軍のタムスク爆撃[編集]

6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。ソ連軍の小規模部隊も満州国領内に侵入し偵察攻撃を繰り返していた。20日からは満州国内のデブデン・スメ地区に戦車・装甲車十数輌とソ連軍狙撃兵・モンゴル軍騎兵の約200名が来襲[110]、ソ連軍は日本軍の宿営地と集落を発見し、戦車砲で攻撃してきた。兵舎が砲撃により炎上し、集落内はパニックとなったが、この野営地の日本軍は速射砲や機関砲などの対戦車火器を配備しており、戦車1輌と装甲車3輌を撃破、ソ連軍は45名の死傷者を出し撃退された[111]。この戦闘が第二次ノモンハン事件の最初の戦闘となった。

関東軍の計画では、ハルハ河を渡河した地上部隊をモンゴル領内深くに進撃させるとともに、航空部隊によりモンゴルのソ連軍前線基地タムスクの航空基地を爆撃することとなっていた。しかし中央の参謀本部は越境攻撃を原則禁じていため、関東軍は越境攻撃について中央に事前相談せず秘匿することとした[112]昭和天皇は関東軍に不信感を抱いており、陸軍大臣の板垣が関東軍への野戦重砲2個連隊の増派の裁可を得に参内した際に、板垣の楽観的な説明に対し「満州事変の際も陸軍は事変不拡大といいながら、彼の如き大事件となりたり」と陸軍と関東軍への不信感を露わにした上、武力ではなくむしろ話し合いによる国境画定をおこなったらどうかと示唆している[113]。許可を得ない越境攻撃は、天皇の統帥大権を犯す陸軍刑法第三十七条に該当する犯罪で、死刑または無期にあたる重大な犯罪であったが、満州事変の折り、当時の朝鮮軍司令官林銑十郎が関東軍の求めに応じ、独断で軍を鴨緑江を渡らせ独断で越境したにも拘らず『越境将軍』と逆に持て囃され、首相にまで栄達した先例もあった[114]

6月中旬航空部隊には出撃命令が下り、戦闘機部隊は飛行第11、24戦隊に飛行第1戦隊が新たに加わり20~26日の間に3個戦隊が、カンジュル廟、採塩所の両飛行場に展開した。関東軍のタムスク爆撃は、出撃直前に関東軍参謀の片倉衷中佐の内部告発により、参謀本部に知れる所となり、参謀本部は慌てて関東軍に「モンゴル領内の爆撃は適当ならず」と自発的中止を促す打電をした。それを受けた関東軍は騒然となったが、中央より連絡将校が到着する前に爆撃を強行することとし、計画通り、27日に戦闘機77機と重爆撃機24機、軽爆撃機6機でタムスクを爆撃した。この作戦計画の主導した辻はわざわざ戦果確認のために自ら爆撃機に同乗するほどの力の入れようであった[115]。空襲は成功し、関東軍は華々しく撃墜98機、大破18機、中小破38機の合計149機を撃墜破する大戦果を挙げたと参謀本部に報告した[116]。大戦果を報告してきた関東軍作戦課長の寺田に対し、陸士29期の同級生であった稲田正純参謀本部作戦課長は「馬鹿ッ、何が戦果だ」「余りと言えば無礼の一言」と怒鳴りつける異例の展開となったが、この独断専行が参謀本部と関東軍を決定的に対立させる導火線となった[117]

侍従武官畑俊六大将が、ことの顛末を昭和天皇に報告すると、昭和天皇は「関東軍司令官を譴責するか、何らかの処分をすべきである」との意向を示し、その後に詳細を報告に参内した中島鉄蔵参謀次長に対しては「外蒙を無断で爆撃した責任は誰がとるのか」と下問したが、中島は「まだ作戦中ですので、終結した時点で、必要な処置を講じます」と返答し、結果的に関東軍の独断専行を容認することとなった[118]。しかし、昭和天皇はよほど不満であったのか「将来もこのようなことは度々起こらざる様注意せよ」と閑院宮載仁親王参謀総長に念を押している[119]。この頃になると関東軍を実質的に動かしているのは少佐に過ぎない辻であると参謀本部で認識されつつあった。作戦課長の稲田は陸軍省に出向き、参謀人事を所管する庶務課長や課長補佐に辻の更迭を申し出たが「あれは役にたつ男ですよ」と煮え切らなかったため、陸相の板垣に直談判したが、板垣はかつて辻を部下として重用したこともあり、稲田の直訴に対し笑みを浮かべながら「そういわないでかわいがってくれよ」と取り合わなかった[120]。そのため、辻の独断専行はこの後も続く事となった。

昭和天皇の懸念もあり、関東軍に一定の歯止めをかける必要に迫られた参謀本部は、昭和天皇の裁可を得た『大陸命320号』で関東軍の役割を規定し、『大陸指491号』で関東軍の作戦範囲を「地上戦闘行動は概ねブイル湖以東における満州国外蒙古境界地区に限定するに勉めるものとす」「敵根拠地に対する航空攻撃は行わざるものとす」と定めた。しかし、この大陸指に対する補足が、後日参謀本部から関東軍に示されたが、その中に「一時国境外に行動する件は、常続的権限としての御裁可は得られないが、万やむをない場合は、当方でも、それ相当の配慮をする所存である」とあり、タムスク爆撃で昭和天皇を激怒させた越境爆撃については明白に禁止していたが、陸上部隊の越境攻撃には含みを持たせており、結局辻ら関東軍参謀が計画していた陸上部隊による越境攻撃を抑止する効果はまったくなかった[121]

日本軍の作戦計画[編集]

1939年7月のノモンハン作戦図。橙矢印:日本軍の攻撃、赤:ソ連軍の防御

辻の計画では突撃部隊でハルハ河を渡河し西岸に渡り、敵軍の後方に進出し、同時に主力部隊が敵を正面に釘づけにするためハルハ河東岸にいる敵軍を攻撃、そうして後方に進出した突撃部隊と主力部隊で敵を殲滅するという作戦であった。この作戦のために小松原に任された戦力は第23師団、第7師団より抽出した歩兵2個連隊、戦車2個連隊に砲兵・工兵・満州騎兵で、兵力は日本軍21,953名(輸送・補給等の後方部隊も含む)、満州軍2,000名、砲124門(速射砲32門)戦車73両、装甲車19輌であった[122]。特に戦車第3連隊と第4連隊は日本軍初となる機械化部隊独立混成第1旅団が前身の日本軍の主力戦車部隊となる第1戦車団の中核部隊で、これほど多くの戦車がまとまって作戦に投入されるのは日本陸軍史上初めてであった[123]

ハルハ河を渡河して敵軍の背後に回り込むのは第1戦車団を主力とする機械化混成部隊で第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。編成は戦車第3連隊戦車第4連隊、歩兵第64連隊、自動車化部隊の歩兵第28連隊第2大隊、独立野砲第1連隊、砲兵第13連隊第1第2大隊、工兵第24連隊、配属高射砲3個中隊の合計6,000名(安岡支隊と呼称)、正面攻撃する小松原直率の部隊は歩兵第71連隊第72連隊第1第2大隊、砲兵第13連隊第3大隊、工兵第23連隊、歩兵第26連隊、捜索隊、配属高射砲9個中隊の合計7,500名(小松原兵団もしくは指揮官小林恒一少将から小林兵団と呼称)、それで満州軍1,700名と通信隊、衛生隊等非戦闘要員を含めた総兵力は16,670名になった[124]。関東軍参謀服部はこの作戦を「鶏を割くに牛刀を以ってせんことを欲したるもの」[125]としソ連軍を『鶏』程度の戦力と考えていたが、『ジューコフ最終報告書』によれば、ソ連軍歩兵12,547名、戦車186両、装甲車266輌、火砲109門、航空機360機と兵員数で少し日本軍が上回っていたが、戦車・装甲車ではソ連軍が圧倒しており、後に歩兵も火砲も増援によりソ連軍が圧倒することとなった[126]

当初の作戦では、ハルハ川に橋を架けて戦車を含む安岡支隊が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、第23師団が持っていた架橋用資材は教育用として熊本から携行してきた80m分の乙式軽渡河材料と、漕渡用の折畳船20隻しかなかったため、戦車を渡すことができないことが判明した[127]。水深が1m以下なら戦車がそのまま渡河することもできたが、水深は深かった上に河底の土壌の硬度などの情報もなかった。そこで様々な対策が考えられ、中には戦車数台を橋の支柱とする案や、ソ連軍の機材を奪うなどの奇策も考案されたが、どの対策も実現性に乏しかった[128]。渡河資材に不安があることは師団長の小松原は十分に認識しており、渡河作戦を強硬に主張していた辻が渋る小松原を「師団長が独断でやれんようなら、関東軍司令官の名をもって軍命令を出す」と説き伏せたものであったが、結局、小松原の心配通りの結末となってしまった[129]。6月30日に第23師団司令部が置かれていた将軍廟で小松原と辻らが協議した結果、小松原兵団がハルハ河を渡河し、西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った安岡支隊が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅する作戦に、作戦開始直前になって変更せざるを得なくなった。

ハルハ河東岸両軍戦車隊の戦い[編集]

ハルハ河東岸の前線へ向かう日本軍戦車

6月30日に戦車第4連隊の九五式軽戦車中隊がソ連第11戦車旅団の対戦車砲と初めて交戦した。そこでソ連軍の53-K 45mm対戦車砲の砲撃により95式軽戦車1輌が撃破された。その対戦車砲と砲弾200発は日本軍に鹵獲されたが、その弾速の速さに日本軍戦車将校たちは「閃光を見るか見ないうちに我が方の戦車に穴が開いていた」と衝撃を受け、第4連隊の玉田美郎連隊長は「敵の兵器の性能は我が方より優れており、敵の資質は予想していたより遥かに高い」と悟らされた[130]

7月2日、第1次ノモンハン事件で消極的な戦い方で非難を受けていた山県率いる歩兵第64連隊が、ハルハ川東岸のソ連軍に対し攻撃を開始したが、進撃を開始するや、ソ連軍の砲兵2個連隊の激しい砲撃に前進を停止させられた。特に西岸の砲兵陣地に設置されていたノモンハンでは初めて投入されたML-20 152mm榴弾砲の威力は絶大で、2時間に渡って砲撃を受け続けた第64連隊の兵士らは「筆舌に尽くしがたい敵の弾幕に恐れを抱いた」、「ソ連軍の砲撃は中国で経験したことのない効果的なものであった」との感想を抱き、日本軍の第13砲兵連隊も阻止射撃が強力過ぎて、効果的な反撃ができなかった[131]

吉丸清武大佐率いる戦車第3連隊は、歩兵支援のために夕刻6時15分より前進開始、ソ連軍砲兵陣地の撃滅を目指したが、降りはじめた雨が目隠しとなり、8時ごろに最右翼を進む第1中隊が砲兵陣地に突入成功し、野砲2門撃破、2門を捕獲した。しかしピアノ線鉄条網に引っかかって行動不能となった装甲車2輌が対戦車砲の直撃を受け撃破された。第4小隊長の古賀康男少尉は撃破された九七式軽装甲車の車載機銃を下ろして、包囲したソ連兵相手に戦い、激闘1時間30分、最後は拳銃まで撃ち尽くして戦死している[132]。連隊長の吉丸も新型の九七式中戦車に自ら搭乗し攻撃の先頭に立って装甲車や野砲を撃破したが、機械化部隊とは名ばかりで、十分な自動車が無い歩兵第64連隊や輓馬が引く砲兵隊は戦車に付いていくことができず、折角蹂躙したソ連軍陣地を戦車単独では確保することはできないため、後退を余儀なくされた[133]

安岡は日中はソ連軍の砲撃が激しいため、夜襲を行うこととし、戦車第4連隊は7月2日から3日の夜間に、戦史上初のまとまった戦車部隊での夜襲となったバルシャガル高地攻撃を行った。暗闇と雷雨にまぎれて突入した第4連隊の八九式中戦車9両、九五式軽戦車28両、94式軽装甲車3両の内、日本軍の損失は95式軽戦車1両に対し(行動不能となったが回収できず放棄、後にソ連軍が鹵獲)ソ連軍戦車2両・装甲車10両・トラックを20台・砲多数を撃破し、ソ連軍防御陣地の奥深くまで突破するなど活躍を見せている[134]

ハルハ河周辺を巡る7月の戦いで、ソ連・モンゴル軍は合計で452両の戦車・装甲車を投入したのに対し、日本軍が投入した戦車・装甲車は92両と五分の一の数であったが[135]、この時点でハルハ河東岸に配備されていたソ連・モンゴル軍は3,200名の兵員に、122mm榴弾砲8門を含む重砲・野砲28門、対戦車砲7門、装甲車62輌、それに第11戦車旅団から分遣された戦車30輌と、攻める安岡支隊の兵力のほうがやや勝っていた[136]。日本軍による戦果判定ではその内300名の兵士を死傷させ、20輌の戦車と多数の砲を破壊しており、ハルハ河東岸のソ連軍陣地は相当に弱体化していたが[137]、東岸のソ連軍陣地を援護できる位置には152mm榴弾砲12門、122mm榴弾砲8門、76mm野砲・連隊砲14門が配置されおり、また予備戦力であった第11戦車旅団と自動車化狙撃兵連隊と装甲車旅団がタムスク近辺から戦場に急行しており[138]、早急にソ連軍東岸陣地を攻略する必要があった。

前日、ソ連軍の野砲陣地を襲撃し大戦果を挙げていた戦車第3連隊は、翌3日の日中にソ連軍陣地に正面攻撃をかけた。途中で遭遇した装甲車隊を殲滅し、反撃してきたBT-5や装甲車計20輌との戦車戦で、2両の八九式中戦車を失いながら3輌のBT-5を撃破し撃退したが、やがて防衛線に近づくと、巧みに擬装された対戦車砲の激しい砲撃を浴び、損害が増加していった。また陣前に張られたピアノ線鉄条網に履帯を絡めとられた戦車は行動不能となったが、そこを戦車と対戦車砲に狙い撃たれ、連隊長の吉丸大佐の搭乗する九七式中戦車が撃破され、吉丸は戦死した。ソ連軍戦車も加わった集中砲火の中で、日本軍戦車は次々と命中弾を浴びたが、日本軍戦車の多くがディーゼルエンジンであり、命中弾があっても容易に炎上せず、装甲は薄いながらも予想外の打たれ強さを発揮した[139]。それでも日本軍は19輌の戦車を撃破され、撤退を余儀なくされた。防衛していたソ連の連隊指揮官は初の大規模な日本軍戦車攻撃を撃退し、司令部に喜びのあまり「日本戦車を食い止めました、奴らは次々に燃え上がっています。ウラー(万歳)」と興奮した報告を行っている[140]。この戦闘は後に『ピアノ線の悪夢』と呼ばれることとなった[141]

3日に撃破された日本軍戦車の多くは回収され、後日に修理され部隊復帰したが、4日の時点では戦車第3連隊は戦闘力を喪失しており、第4連隊のみとなった日本軍戦車部隊は攻勢を取れず、逆に増援が到着したソ連軍戦車・装甲車部隊の執拗な反撃を受けることとなった。4日午前には戦車・装甲車19輌、対戦車砲数門と歩兵500名のソ連軍が攻撃してきたが、戦車第4連隊はこれまでの戦訓を活かし、装甲の弱さを補うため、砲塔のみを丘の稜線上に出して砲撃を加えた。乗員の練度は日本軍が圧倒的に上回っており[142]数も主砲の威力も勝るソ連軍戦車に次々と命中弾を与え、装甲車2輌と対戦車砲数門を撃破し撃退している。日本軍の損害は八九式中戦車1輌の損傷のみであった[143]。午後8時にも戦車5輌と歩兵の攻撃に対し2輌の戦車を撃破し撃退すると、午後9時には、戦車第4連隊の総力でハラスティン川河谷を攻撃し、ソ連軍戦車4輌を撃破している[144]

翌5日も執拗なソ連軍の混成部隊の攻撃を何度も撃退したが、6日になると更に数を増したソ連軍から、夜明け直前から断続的に猛攻が加えられた。それまでの激闘で戦車第4連隊は、八九式中戦車4輌、九五式軽戦車20輌、94式軽装甲車4輌まで戦力が減っており、ソ連軍から鹵獲した対戦車砲まで戦闘につぎ込んで、ソ連軍の攻撃があるたびに数輌の戦車や装甲車を撃破し撃退し続けたが、第4連隊の損害も大きく、八九式中戦車は全滅、九五式軽戦車も5輌が撃破もしくは損傷し、戦闘力が著しく損なわれた。その状況を見た安岡支隊長より、6日の午後4時に「後方支援部隊の位置まで転進し、以後の行動まで準備せよ」との命令が下り、連隊長の玉田は命令通り転進して今後の出撃に備えることとしたが[145]、7月9日には戦車の完全喪失が30輌に達っしたことを知った関東軍が、このままでは虎の子の戦車部隊が壊滅すると懸念し「7月10日朝をもって戦車支隊を解散すること」との両連隊に対する引き揚げを命じた[146]。小松原や安岡はこの命令を不服とし、現地軍首脳と関東軍司令部でひと悶着起こったが、ノモンハンでの日本軍戦車隊の戦績はここで終局をむかえることとなった[147]。戦車第3連隊は343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死し戦車15輌を喪失、戦車第4連隊は561名の内28名戦死し戦車15輌喪失し戦場を後にした[148]

日本軍の渡河作戦とハルハ河西岸での戦い[編集]

折畳鉄船で渡河中の日本兵

歩兵団長小林恒一少将が指揮する西岸攻撃隊は15名乗りの折畳鉄船と乙式軽渡河材料により渡河することとしたが、架橋作業に手間取った上、川の流速が早く橋の強度が足りなかったため、トラックや弾薬などの重量物を同時に渡らせることができず、渡河終了が予定よりも7時間も遅れてしまった[149]。ジューコフは、7月2日に安岡支隊がハルハ河東岸を攻撃したことを知ると、東岸が主攻正面と誤認し、安岡支隊の側面を突くべく、予備部隊であった第7機械化旅団、第11戦車旅団、第8装甲車旅団、第24自動車化狙撃連隊を出撃させた。ジューコフは全く日本軍の渡河作戦を予想しておらず、虚を突かれる形となり、西岸を進む小林兵団に対応できる兵力はモンゴル騎兵1,000名程度であったため、小林兵団は殆ど妨害を受けることなく渡河に成功した[150]

渡河に成功した歩兵第71連隊は、反撃してきたモンゴル軍騎兵隊を蹴散らすと渡河地点近隣のバイン・ツァガン山に達した。ソ連軍は、偵察活動を十分に行っておらず日本軍の動きを全く把握していなかった。しかし、ハルハ河東岸に送るため進軍を急かせていた第11戦車旅団などの機甲部隊が、偶然にも小林兵団の渡河地点のすぐ近くまで達しており、7月3日午前7時にバイン・ツァガン山から前進していた日本軍歩兵第72連隊とソ連軍第8装甲車旅団の装甲車8輌が不意の遭遇戦となった。日本軍は九四式37mm速射砲を装備しており、8輌の装甲車の内5輌を撃破し1輌を鹵獲した[151]。この時点では日本軍の戦力規模が不明であったため、ソ連軍司令部は第11戦車旅団の第2大隊に日本軍の 渡河地点攻撃を命じた。8時45分に23輌のBT-5と東捜索隊殲滅に絶大な威力を発揮したkHT-26化学戦車5輌が日本軍歩兵第71連隊を攻撃した[152]。小林兵団は第一次ノモンハン事件の戦訓を活かし、対戦車戦闘班として志願者により肉薄攻撃隊を組織していた。肉薄攻撃隊はサイダーの空き瓶にガソリンを詰めて作った火炎瓶を1名あたり2~3本持っており[153]、導火線に火をつけてソ連軍戦車に向かって投げつけると、100㎞以上の連続走行と炎天下の暑熱で高温となっていたソ連軍戦車は容易く炎上し、やがてガソリン燃料に引火し弾薬が誘爆を起こしたり、たまらず飛び出してきたソ連軍戦車兵が日本軍に撃ち倒された。また九四式37mm速射砲も威力を発揮し合計16輌の戦車を撃破した。最後に残った化学戦車には、日本軍肉薄兵が履帯に爆薬を設置、爆発により行動不能となった戦車を包囲し、ソ連戦車兵に降伏を呼び掛けたが応じなかったため、戦車から引きずり出し銃剣で刺殺している[154]

ここで初めて日本軍が大部隊をもってハルハ河を渡河したことを知ったジューコフであったが、到着した予備部隊は戦車と装甲車だけで、歩兵や砲兵の支援戦力は当分到着しそうになかった。そこでジューコフはソ連野外教令188条『砲兵の支援を受けない戦車の単独攻撃の実施は許さない』とする規定を破り、歩兵・砲兵の到着を待たずに、手もとにあった重砲部隊のみの支援で、到着した戦車と装甲車だけで直ちに反撃させることとした[155]

午前11時より、ソ連軍第11戦車旅団と第8装甲車旅団が日本軍の各部隊に対し戦車133輌、装甲車59輌で攻撃を開始した。小林兵団には戦車・装甲車は1輌もなく、役に立ちそうな対戦車兵器は九四式37mm速射砲34門、三八式野砲12門、四一式山砲8門に火炎瓶と対戦車地雷だけであったが、歩兵の支援がないソ連軍装甲部隊に対しては大きな効果があった。11時30分には第11戦車旅団主力が戦車94輌で攻撃してきたが51輌を撃破して撃退、15時には第7装甲車旅団が歩兵第72連隊を装甲車50輌で攻撃してきたが36輌を撃破するなど、日本軍は戦果を重ねた[156]。多くのソ連軍の戦車・装甲車が戦場の至る所で撃破されて炎上しているので、その立ち上る黒煙を見た第71歩兵連隊の兵士はその黒煙を工業地帯の煙突から立ち上る煙に見たて「時ならぬ八幡工業地帯を現出」と戦闘詳報に記している[157]

損害を顧みない猛攻撃で、ソ連軍は戦車77輌と装甲車36輌を1日で失ったが[158]、日本軍の進撃は完全に停止し、防戦一方となった。歩兵第26連隊(連隊長須見新一郎大佐)は渡河地点から3km先まで進撃したが、そこでソ連軍機甲部隊の猛攻を受け、多数の戦車・装甲車(須見の申告では83輌)を撃破しながらも、司令部との連絡が途絶し、傘下の大隊も個別バラバラに戦闘する情況に陥っていた。そのうち火炎瓶や地雷などの対戦車資材が枯渇すると、第1大隊(大隊長安達少佐)はソ連軍戦車に蹂躙され、大隊長と中隊長が戦死し、部隊も3つに分断されて敵中に孤立してしまった。歩兵第26連隊のほかの大隊も激しい攻撃を受け続けており、須見は一旦渡河地点まで第2、第3大隊を後退させ態勢を立て直すと、夜に第1大隊を救出し、死傷者を回収することとした[159]

前線に帯同していた辻ら関東軍参謀は、いくら損害を被っても止む事のないソ連軍の攻撃を見て「恐らく敵は今夜更に新鋭を増加して、明朝から反撃に転じるだろう。ハルハ河東岸の戦線も、漸く膠着の色が見える」と判断し、小松原に西岸よりの撤退を勧告した[160]。砲弾を中心とした弾薬も枯渇しつつあったし、何よりも撤退路がたった1本の脆弱な橋であるということも不安材料で、このままならソ連軍戦車に先回りされて橋が破壊され退路が断たれる危険性も大きかった。辻がこの責任はすべて関東軍が負うと約束すると、内心は撤退したがっていた小松原と第23師団参謀も同意し、16時に小松原は「師団は速やかに左(西)岸を徹し、以後右(東)岸のソ蒙軍を撃滅する」と命じた[161]

翌7月4日から日本軍は撤退を開始した。先日の大損害でソ連軍は大規模な追撃を行うことができなかった。ジューコフはそのような状況を見て「歩兵の不足は敵残存将兵に河向うに退去するチャンスを与えた[162]」と悔やんだ。それでもソ連軍航空機による爆撃、重砲による砲撃、第24自動車化狙撃兵連隊の攻撃で日本軍は少なからず損害を被っている[163]。ここでもソ連軍の152mm砲が猛威をふるい、第23師団司令部付近に着弾、参謀長の大内大佐が戦死し司令部要員も四散しバラバラとなった[164]

日本軍の他の部隊が撤退中の4日夜半に、歩兵第26連隊は第1大隊の救出作戦を敢行した。第2大隊、第3大隊から抽出された救出部隊は、自らも多くの死傷者を出しながら第一大隊の生存者の救出と遺体の回収を完了し、日本軍の殿として最後に橋を渡って撤退した[165]

7月5日に小林兵団は撤退に成功した。ソ連軍は日本兵数千人を戦死させたと過大戦果報告をしたが、この一連の西岸渡河戦での日本軍の死傷者は8,000名の兵力の内800名であり[166]、この大半が第26連隊の死傷者であった[167]

夜襲攻撃[編集]

ノモンハンの日本兵、ソ連軍から鹵獲したDT機関銃とガスマスクを持っている

渡河攻撃に失敗した小林兵団は『作命甲112号』により安岡支隊と合流し、ハルハ河東岸のソ連軍陣地を攻撃することとした。作戦としては戦車第3、第4連隊と砲兵の支援の下で、歩兵第26、64、71連隊が主攻正面を攻撃し、歩兵第72連隊が大きく迂回し背後からソ連軍陣地を挟撃しようとするものであったが[168]、日本軍が攻撃に出る前の5日にソ連軍が、新たに東岸に到着した第5狙撃機関銃旅団を主戦力として大規模な威力偵察を行ない、激戦の中で戦車第4連隊が大きな損害を被り、関東軍の意向で日本軍戦車部隊がすべて戦場を離れることとなったため、安岡が6日に予定していた総攻撃は延期せざるを得なくなった[169]

支援する味方の戦車は1輌もなく、西岸高台よりの152mm砲を主力とするソ連軍の砲火は引き続き強力な状況で、小松原は、歩兵の夜襲で敵の縦深陣地をひとつずつ突破し、日が明けたら砲火を避けるために奪った拠点を捨て発進点まで戻るといった攻撃を連日繰り返し、ソ連軍の消耗を誘い、ハルハ河まで達したらソ連が架橋した橋を撃破し、東岸のソ連軍を干上がらせるといった作戦を実施することとした[170]

7月7日より開始されたこの大規模な夜襲戦法は、ソ連軍にはまったく想定外のことで、第149自動車化狙撃連隊の第1大隊は慌てて退却したため、放置した対戦車砲と76mm野砲を日本軍に鹵獲された。第3大隊も周囲の状況も見ずに退却したため、第175砲兵連隊第6中隊が中隊長のアレーキン上級中尉ごと日本軍内に取り残され、日本軍との激戦の末に全滅している[171]。また、夜襲を支援した日本軍の砲撃も効果的であり、前線指揮官であるレミーゾフ第149自動車化狙撃連隊長は8日に砲弾を受け戦死している。レミーゾフはソ連邦英雄の称号が与えられ、戦死した高地はレミーゾフ高地と呼ばれることとなった[172]

真っ暗闇の中での日本軍の夜襲でソ連兵は混乱の極に達し、味方同士での同士討ちまで起こっており、損害が増大しソ連軍陣地は危機に陥った[173]。その知らせを受けたジューコフは、西岸で待機していた第7装甲車旅団と第82狙撃兵師団第603狙撃兵連隊を東岸に増派することとしたが[174]、第603狙撃兵連隊は第一次ノモンハン事件直後に急きょウラル軍管区のベールシェチ駐屯部隊をかき集めて編成された寄せ集め部隊であり、部隊は7月にモンゴルに到着するや300㎞の過酷な徒歩行軍をすることとなったが、その行軍途中で指揮官らは識別票や階級章をはぎ取り身分を隠そうとしたり、多くの自傷事件を引き起こしていた。また一部では反共産党分子が兵士らを唆し、指揮官の殺害を企てたりしていた。そのように軍としての体裁が整っていないような部隊であったので、10日に自動車で東岸に着くや否や、日本軍の数発の銃声を聞いただけで連隊はパニックに陥り潰走し、大損害を被った[175]。ジューコフは第603連隊を西岸に呼び戻すと、軍法会議により容赦なく銃殺刑に処し、再訓練を施したが「なんでこんな弱体部隊を投入したのか」という非難を受けることとなった[176]。また、日本軍の夜襲で脆くも後退を繰り返していた第149狙撃兵連隊においても、連隊司令部が督戦により兵士らを厳格に処し、部隊をどうにか元の防衛線の位置まで戻している[177]

日本軍は夜襲と並行して、ソ連軍が架橋した軍橋を爆破するための工作班を8チーム編成し、ハルハ河に向かわせた。ソ連軍の警戒厳しくなかなか軍橋に接近できなかったが、7月8日の深夜2時に、歩兵第72連隊で編成した高山正助少尉以下60名の高山班が軍橋への接近に成功した。軍橋に接近する途中で野営しているソ連兵に誰何されたが、高山の片言のロシア語で誤魔化して突破すると、軍橋の歩哨を手榴弾で倒し、軍橋に爆薬を大量に仕掛け爆破に成功している[178]。他部隊が他に1本の爆破に成功し、合計2本のソ連軍軍橋を撃破したが、この時点で既に9本の軍橋が架かっており、ノモンハン事件終結時にはこれが28本にまで増加していたので焼け石に水であった[179]

ソ連軍司令部がいくら厳格な処置を行っても、日本軍の夜襲にソ連軍兵士は混乱し、退却し続けた。11日の夜には、第1次ノモンハン事件で中心となって戦った山県連隊長率いる歩兵第64連隊が総力を挙げて夜襲を決行している[180]。夜襲を受けた第5狙撃機関銃旅団の旅団長フェドルコーフが予告もなしに退却したため、日本軍の歩兵第64連隊の1個中隊が前線を突破しソ連軍陣地奥深くの第11戦車旅団の司令部まで達し、ヤコブレフ第11戦車旅団長を討ち取ることに成功した。しかし中隊はソ連軍の集中攻撃を受け、最後は穴の中で包囲され全滅した。この穴は後に『サムライ墓』と呼ばれるようになった[181]。山県はさらに前進を続けソ連軍がレミーゾフ高地と名付けた重要拠点バルシャガル(733)高地を占領した[182]

日本軍の夜襲はソ連軍に大きな損害と混乱をあたえたが、日本軍の損害も次第に蓄積しており、一連の夜襲で日本軍は2,122名の死傷者(内戦死585名)を被り損失率は23%となった[183]。中でも山県の第64連隊は、戦死107、負傷221名で損失率は33%と一番高くなった[184]。結局、夜襲して敵を叩いて戻るという戦術では、一部の拠点の占領には成功できたが、大きく前線を前進させることはできず、夜襲作戦開始時には「左(西)岸にある敵砲兵の妨害あるも、右(東)岸の敵を撃破するは時間の問題なり」や「今日、明日位の攻撃を以って右(東)岸を占領し終わるべく」[185]などときわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。

ソ連の状況も厳しく、前線を視察に来た国防人民委員代理のクーリクは、ハルハ河東岸陣地のソ連軍の苦境を見てジューコフに7月13日に全軍西岸に撤退させるよう指示したが、ジューコフは拒否している。後にこの一件についてジューコフから報告を受けたヴォロシーロフ国防相はクーリクをモスクワに召還し、戦闘指揮への介入について叱責している[186]

ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力をあわせて、関東軍砲兵司令官内山英太郎少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。

大砲撃戦[編集]

砲兵観測のためノモンハンでも使用された日本軍気球連隊の気球

関東軍は、参謀本部への対抗心からか、独自の戦力や資材で戦おうとする意気込みが強く、参謀本部が第5師団の増派を打診したことがあったが辞退している。しかし、6月22日に参謀本部から打診があった重砲2個連隊の増派については、歓迎はしなかったものの現実的な判断で受け入れてる。しかし、独力に拘ったためか、7月からのハルハ河渡河作戦にこの重砲隊を間に合わせようという意識は全くなかった[187]

しかし渡河作戦が失敗し、東岸の夜襲攻撃を行っていた10日ごろには投入を前提に準備が開始され、千葉より増派された野戦重砲兵第1連隊野戦重砲兵第7連隊の2個連隊を編合した野戦重砲第3旅団(指揮官畑勇三郎少将)と関東軍指揮下の3個重砲連隊を統合して『砲兵団』を編成し、団長には関東軍砲兵司令官内山英太郎少将を補職した[188]

内地から増派された砲兵旅団は15センチ加農砲などの大口径重砲を主力に、最新自動車(牽引)砲兵として、日本軍の中でも最精鋭の虎の子扱いであった[189]

『砲兵団』は合計82門の重砲・野砲を保有したが、これは1939年3月の南昌攻略戦で投入された90門に匹敵する規模であった[190]。日本軍でこの規模で砲兵が投入されることは殆どなく、「建軍いらい」と誇称されていた[191]。そのため内山団長は「3時間でソ蒙軍砲兵は撲殺され、射撃目標はなくなってしまう」と胸を張り、戦闘計画書には「攻撃1日、全砲兵をもって一挙にソ軍砲兵を撲滅し、かつ橋梁を破壊すると共に、事後主力をもって歩兵の攻撃に強力す」と書かれていたほどであった[192]

しかし、砲弾は29,130発しか準備されておらず、日華事変の最中で弾薬の消費も激しく今後の補給のあてもなかった。この砲弾数でまともにソ連軍と撃ち合えば半日でなくなってしまう量であったが、日本軍はこれを振り分けて使うしかなかった。例えば十五糎加農砲は一日に60発しか砲弾が割り当てられなかった[193]。 砲兵団が弾薬不足にも関わらず、強気であったのは、自分の部隊の戦力を過信していたのと、ソ連軍の火砲を今までの戦場での観察をもとに合計76門と判断していたからで、数が互角なら精鋭のわが軍が有利と判断していたためであるが[194]。、実際にソ連軍がこの地域に投入した76mm以上の野砲は108門、中でも10cm以上の重砲は、日本軍38門に対しソ連軍は76門だから二倍の数であった。また砲兵部隊とは別に76mmの連隊砲70門も砲撃戦に投入されたため、重砲でも火砲全体でも日本軍の2倍の数があり、さらに砲弾数は比較にならないほど多かった[195]

砲兵団は7月23日の日本軍総攻撃の支援として、6時30分に砲撃を開始した。まずは敵の砲の位置を暴露するための誘致砲撃を行い、応射してきたソ連軍砲兵陣地の位置を特定し全砲で集中砲撃を行った[196]。日本軍の砲撃によりしばしばソ連軍の応射が沈黙し、日本軍砲兵は「我が砲弾による命中粉砕」と喜んだが、実際は日本軍砲兵陣地より目視可能な西岸高台上から後背地に移動しただけで、まもなく砲撃を再開してきた。日本軍の砲兵陣地は稜線に遮られた平地にあったため、ソ連軍の応射で破壊される砲はなかったが[197]、同様にソ連軍の火砲も一向に勢いが衰えず、「友軍の重砲が3~4時間も撃ったんだから、もう撃滅できただろう」とたかをくくり出撃した日本軍歩兵は激しいソ連軍砲撃により殆ど前進できない有様であった[198]。 『ジューコフ最終報告書によれば』ソ連軍は10cm以上の重砲のみで7月1カ月で消費した砲弾は31,705発であり、これは総攻撃に際して日本軍が砲兵団全部に準備した砲弾の数を上回っていた[199]。日本軍歩兵は損害を出すばかりで総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。

元々、日本軍の砲陣地より50m高い西岸高台に位置していたソ連軍砲陣地は、日本軍観測所から奥までは見通しが効いていなかったうえ、日本軍の砲兵、特に内地より増派された野戦重砲第3旅団は訓練不足もあり、砲撃の正確性を欠いた(#日本とソ連砲兵隊の比較)。野戦重砲第3旅団には千葉に駐屯していた気球連隊から百一号気球2個と200名の部隊も帯同しており、日本軍観測所から死角になっていたハルハ河西岸後方を観測するため、25日にその内1個の気球が掲揚され900mの高度に達したが、観測する間もなくソ連軍戦闘機に撃墜された。この光景は戦場の至る所から視認され、日本軍兵士の士気を落としている[200]

畑は砲兵情報連隊の測定分析により「完全破壊を確認した敵砲数は24門、他に損傷させたもの20余門で、3日間で敵砲兵戦力を半減せしめたのに対し、わが重砲の損失は2門のみであった。」と勝ち誇ったが[201]、ジューコフによれば「7月23日には敵砲兵はわが重砲弾の破砕を狙って約1万発と推定される大量の砲弾を撃ち込んだが、ハルハ河西岸に沿った15~20kmに広くばらまかれ、多くは空き地に落下した。一日かかっても敵は1個砲兵中隊も制圧できず、歩兵にも被害は殆どなかった」とのことであったので、畑の見立てほどの大損害を与えていなかったのは明らかであったが[202]#日本とソ連砲兵隊の比較ソ連軍の主要火砲投入数と損失数一覧表の通り、ノモンハン事件でソ連軍は10cm以上の重砲だけでも36門が撃破されているので、相応の損害を与えていたのも確実であった。しかし、火砲の効果的な運用を行ったのはソ連軍の方であり、ソ連軍は弾量の過半を日本軍砲兵との撃ち合いに使うのではなく、日本軍の歩兵部隊に集中することにより、日本軍の攻勢を挫折させると同時にソ連軍の東岸橋頭堡を援護するという二重の目的を果たしている[203]

日本軍砲兵団は3日目の25日には砲弾を使い果たし沈黙した。逆にソ連軍の勢いは衰えるどころか援軍の到来もあり増す一方であったので、小松原は「砲兵の効果予想に反せり、何等砲兵の助力を予期せずにて、歩兵の攻撃続行せざりしやを悔やむ、我過てり」と砲兵への失望感を露わにしている[204]

戦線膠着[編集]

日本軍は25日まで4,400名の死傷者を出しており、早急な戦力補充が必要であった[205]。一方ソ連軍の死者は、1991年のロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告で、7月中で日本軍を上回る6,240名の死傷者(戦死1,242名)とされていたが[206]、ワルターノフ大佐の報告は、2001年のロシア歴史家の共同研究『20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析』で過少と判明しており[207]#ソ連軍の損失参照)実際は7,000名以上の死傷者を出していたものと推定される。

しかし、損害が遥かに大きかったソ連軍には続々と援軍が到着していたのに対し、第23師団に満州全域の各部隊から抽出した4,000名の補充兵が到着するのはまだ先のことで[208]、関東軍は第23師団が現状でこれ以上の攻勢を維持するのは困難であると考え、総攻撃2日目の24日に第23師団に対し陣地を構築して防衛体制に入れと命令した[209]。この命令を主導したのも辻であったが、辻は満州の自然を熟知しており、「満州近辺の冬は零下51度にもなる。9月には降雪が始まる。そんな状況で攻勢作戦をとれば冬越えの準備が疎かとなり、兵士は戦ではなく寒さに凍え死ぬことになる。」と意見具申し、この作戦の大転換を決めてしまった[210]

しかし、兵士の越冬対策を第1目的に考えるのであれば、敵の砲撃が届かないハイラル地区か第23師団司令部が置かれている将軍廟付近まで退いて、耐寒設備のある兵舎に収容するのが常識的判断であり、駐ソ大使館付の土居明夫駐在武官が「ハルハ河より適宜離隔せる位置に、至短時間に最も効果的な陣地を構築すべき」と進言したのもそれを含んでのことであったが[211]関東軍は「係争中の右(東)岸地区を確保することは絶対に必要なり」と決意しており、部隊を後退させる意思はまったくなかった[212]。ソ連軍は8月になってからも、西岸の重砲が15分間に2,000発以上の支援砲撃を行う下で歩兵による形勢回復のための攻撃をしてきたが、いずれも撃退している[213]。しかし、西岸重砲の砲火をしのぎつつ、増強される一方の西岸ソ連軍と戦い、その合間に越冬準備しながら陣地構築するのは至難の技で、結局、ソ連軍の総攻撃までに陣地は1/3程度しか完成させることができなかった[214]

第二次ノモンハン事件後半(1939年8月20日からのジューコフ攻勢から停戦まで)[編集]

第6軍の新設[編集]

第6軍司令官荻洲立兵中将

8月4日、参謀本部は、作戦中にも関わらず、ノモンハン方面全般の指揮を執らせるために新たに第6軍という中間司令部を新設し、司令官として荻洲立兵中将が補職された(元々第6軍は、西部ソ満国境警備の上級司令部として創設計画であったが、事件のため創設目的を変えて創設された。当初の創設計画人事では後宮淳中将が司令官の予定だったが、事件前に第4軍司令官と第6軍司令官の人事が入れ換えられた)。新設した意図について、参謀本部作戦課長の稲田によれば「関東軍は大局的な視点に立った事件の収拾に注力するため」とのことであった[215]。しかし、軍編成にあたって、関東軍司令官植田などから第7師団を追加するという提案もあったが、辻ら作戦課参謀が「関東軍唯一の戦略予備である第7師団を極東ソ連軍が全面的に不穏な動きを見せている今、軽々しく動かすべきではない」や「築城と冬営設備の輸送を続けているため、これ以上の輸送量が増大する方策は不可」という反対意見を主張したため見送りとなり[216]、結局、第6軍に編入された戦力は第23師団と第8国境守備隊であったが、第8国境守備隊の一部はすでにノモンハンのノロ高地の守備についており、実質の追加戦力は7月中に到着した速射砲以外は殆どなかった[217]

戦力の追加もないのに突然できた上級司令部を第23師団の幕僚らは冷淡に見ており、第6軍幕僚らの初の部隊巡視に帯同した小林兵団指揮官の小林は荻洲の印象を「休憩所にて酒を催促され、ちょっと面くらえり。誠に無造作なる、相変わらず磊落なる軍司令官なり」と日記に書くなど呆れている[218]。また、第6軍の幕僚らはノモンハン戦に当初から関係している人物はおらず、参謀すらも関東軍参謀20数名から横滑りした参謀はおらず、参謀長の藤本鉄熊少将は朝鮮の航空団団長から転じてきた航空畑の人物だった[219]。これまでノモンハン戦を主導してきた辻は「破れそうな茅屋を、雨漏りのままで譲る」という後ろめたい気持ちがあったというが[220]、中間司令部ができたことにより「軍の自主性を尊重しよう」という建前で、戦局が悪化する一方のノモンハン戦から離れて、東部国境に出向している[221]

13日の第6軍と第23師団の作戦会議では、戦場の実情をよく知らない第6軍司令部が「敵が外翼または間隙から侵入するときは、これを入れてから、叩くこと。部隊の配置は、攻防とも極力、縦深配置とすること」との訓示を行ったが、軍とは名ばかりで実質は1個師団程度の兵力しかない第6軍が、37kmにも及ぶノモンハン正面で縦深配置することなど初めから不可能で(通常1個師団の担当は7~8㎞とされる)この訓示を聞いた小松原は第6軍萩洲に対する不信感を強めた[222]。また、急造の第6軍司令部には司令部直属の通信兵すらいなかったので、第23師団との連絡のため師団司令部のある将軍廟に参謀を1名残しておくべきではという提案があったが、自前の護衛兵すらいないので師団に負担をかけるという理由で、前線より200kmも離れたハイラルへと戻ってしまった。そのためソ連の総攻撃時には軍参謀は前線に不在で、ジューコフから「日本軍の幹部は休暇をとって後方で遊んでいた」と揶揄されることとなってしまった。

ソ連軍の攻勢準備[編集]

総攻撃前のソ連軍、手前は第36自動車化狙撃兵師団のペトーロフ師団長

ノモンハン東岸で日本軍の攻勢が続いていた7月5日にモスクワは、今後の反転攻勢のために極東の軍の指揮系統の再編成を行った。国防人民委員の直属しチタに司令部を置く臨時編成の前線方面軍を編成し、グリゴリー・シュテルン2等軍司令官、軍事会議審議官を司令官とした。前線方面軍は極東方面の海軍を含めた全軍を統括する巨大な軍となった[223]。さらにノモンハンで戦闘中の第57特別軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮をとらせた。従って形式上は、ジューコフはシュテルンの指揮下ということになるが、ジューコフは作戦において、シュテルンを経ずに直接軍中央と連絡できる権限が与えられており、シュテルンの前線方面軍司令部は後方支援の役割をモスクワ は期待していた[224]。しかしそれは必ずしも徹底されておらず、シュテルンは作戦に介入したがったが、ジューコフがそれを押しとどめたため[225]後に戦闘の重要局面で両者の方針が食い違い対立することとなった[226]

ソ連軍は7月末より、大反転攻勢に向けて入念な準備を開始した。まずは55,000トンにも及ぶ膨大な軍需物資をピストン輸送した。ここでシュルテンは見事な手腕を発揮し膨大な物資の輸送を円滑に行った。またザバイカル方面軍から7月末に第57狙撃兵師団に第6戦車旅団、8月には第152狙撃兵連隊第1連隊と第212空挺旅団が増援として移動を開始した[227]。 モスクワは最終的にジューコフが要請してきた以上の3個狙撃兵師団、2個戦車旅団、3個装甲車旅団を増援として送り込んだ[228]。増援の兵員数だけでも総勢30,000名以上となったが、あまりにも物資と兵員の輸送量が多かったので、一部の狙撃兵部隊は徒歩でノモンハンまで行軍させられた。7月末からのソ連軍の増強は、実質増援なしの日本軍と好対照の戦力増強であった[229]

ソ連軍は総攻撃準備の3週間に渡って、その意図を気づかれないに様々な欺瞞工作を行った。陣地構築中の日本軍に対し砲撃と小規模部隊による攻撃を繰り返した。特に8月1-2日と7-8日にかけ行われた第149狙撃兵連隊と第5狙撃兵機関銃旅団による攻撃は、欺瞞攻撃とは思えないほどの強力な攻撃であり、準備砲撃は「生きとし生けるもの全てが掃滅」されるほど激しいものであったが、いずれの攻勢もソ連軍が大損害を被り撃退されている。日本軍はこの攻撃により、大規模な偵察攻撃に慣れてしまい、大部隊の移動に警戒が薄れ、総攻撃部隊の移動を見過ごした上に、両翼の兵力を中央に集約する動きを見せ、ソ連軍は「攻撃は失敗ながら、日本軍司令部の判断を狂わせた」と評価している[230]

そして、総攻撃を行う主力については、その移動・集結・再編成を日本軍に気付かれないよう、全て夜間に行った。特に攻撃開始場所への移動は総攻撃前日の19日深夜から20日に渡って行われた。日本軍が無線を傍受し電話を盗聴していることを逆に利用し、防御陣地構築や越冬準備に集中しているような偽情報を解読が容易な簡単な暗号で送った[231]。 また、情報工作の分野でも布石を打っており、ハルビン特務機関に潜入させた工作員に「ソ連軍現地司令官は準備未完了を理由に攻撃延期を申し出た」、「補給困難のためソ連軍は悲鳴を上げている」などの偽情報をながしている。この情報は、関東軍司令部の緊張感を緩める効果があった[232]

小松原はこのソ連の欺瞞工作を見抜けず、日記には8月5日「噂されし8月攻勢の企画も見えず。戦場概して平穏なり」、12日「戦線平穏」との記述が散見され、第23師団司令部の情報記録もソ連軍総攻撃2日前の18日の記述は「特に変化なし、平穏なり」、「コマツ台上羊群の放牧せるを散見せり」という緊張感のないものであった[233]。しかし呑気な司令部と違い前線部隊は「機甲部隊がわが左翼を包囲する企図確実」(8月18日歩兵第71連隊)[234]や「8月17日から18日にかけ、ハルハ対岸の敵は活気を呈し、渡河しつつある車両の音を聞く。19日はその動き尋常ならず、私も 一大決戦を覚悟し準備す。同夜将兵一同不眠不休で部署に就く」(井置捜索隊)とソ連の攻撃の意図を事前に察知していたが、この報告に第6軍や第23師団司令部が反応することはなかった[235]

ソ連軍の総攻撃開始[編集]

1939年8月のソ連軍総攻撃作戦図

8月20日早朝6時15分にソ連軍による爆撃と砲撃が開始され、9時に全線で地上部隊が進撃を開始した[236]。防衛線についていた日本軍部隊は、北から、フイ高地を守備する第23師団捜索隊、ハイラースティーン(ホルステン)川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)、ホルステン川の南にある第8国境守備隊と歩兵第71連隊であった。加えて、ノモンハンから約65キロ南に離れたハンダガヤに第7師団の歩兵第28連隊があった。その陣地は横一線に長く、兵力不足のため縦深がなかった。防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたった。その兵員数については、正確な公式データーがなく、兵員8,000名(除後方部隊)~最大で25,000名と重砲・野砲70門であったと推計されている[237]

ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものであった。具体的には、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなるシェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍が、フイ高地の捜索隊を攻撃して南東に進撃。第57狙撃師団、第8機械化旅団、第6戦車旅団、第185砲兵連隊第1大隊、第11戦車旅団機関銃狙撃兵大隊、第37対戦車大隊、自走砲大隊、化学戦車中隊、モンゴル軍第8騎兵師団からなる、ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は日本の第71連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進し、南方軍と北方軍で日本軍を包囲するが、両軍が包囲を完了するまで、第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団からなる、ペトロフ准将が指揮する中央軍が、ハイラースティーン(ホルステン)の両岸で正面から攻撃をかけ、日本軍主力を釘づけにする計画であった[238]。 総攻撃に投入されたソ連軍の兵力の合計は兵員51,950名、戦車438輌、装甲車385輌、76mm以上の重砲・野砲292門、高射砲87門、対戦車砲130門と圧倒的なもので、兵員数で2倍~6.5倍、火砲4倍以上、戦車に至っては日本軍は0でありその戦力差は歴然であった[239]

日本軍は一部前線部隊を除けば、完全に不意打ちを食らった形となった。第23軍はソ連軍の意図を読み取ることが出来ず、3方面の攻撃についてもどこが攻勢の重点が見極めることができなかった。さらに今まで何度も繰り返してきたように敵戦力を過小評価し、攻撃開始日の20日の夕刻に小松原は反転攻勢の準備を下命している。しかし、これは小松原の独断ではなく、ソ連軍の総攻撃があった場合には、ソ連軍の重点攻勢地点を逆に日本軍が側面迂回し、後方を遮断し一挙に殲滅するというのが関東軍以下第6軍、第23師団の共通の方針であった[240]。関東軍の作戦参謀らも「我の最も好機に敵が攻勢に転じたるものにして、この機会において敵を補足し得るものと信じたり」考えていたが、ソ連軍の総攻撃を「我の最も好機に敵が攻勢に転じたる」と思った理由が

  1. 第23師団正面の陣地は逐次強化され、相当の強度を有している。
  2. 満州軍興安軍に代わって指揮官が日本人である満州軍石蘭部隊が陣地防衛に参加したこと
  3. 第7師団の森田旅団(歩兵2個大隊 砲兵1個大隊)が戦場付近におり、速やかに戦闘に参加できる。

とのことであった[241]。しかし、陣地はソ連軍の妨害で工事進行度は1/3、満州軍石蘭部隊はソ連軍の攻撃を受けるや日本人指揮官を殺害しソ連軍に降参し[242]、森田旅団程度の戦力の追加では焼け石に水であるなど、関東軍の情勢分析は実情と大きく乖離していた。そんな中で、ノモンハンから離れていた辻は不慣れな第6軍参謀らの「関東軍の作戦課参謀、特に本作戦の主任参謀たる辻少佐が出向いてくれることを切に望んだ」[243]という事情もあり、8月23日に関東軍司令官植田の命令で再度ノモンハンの前線に派遣されることとなった。ソ連軍の手強さを身に染みて思い知らされていた辻は、関東軍司令部の状況判断を見て「その戦場感覚は楽観的であった」と考えたが、第6軍の反転攻勢に対して異を唱えることはなかった[244]

フイ高地攻防戦[編集]

BT-7戦車と進撃するソ連軍狙撃兵(歩兵)

8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍北方軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の日本軍は孤立した。ジューコフの計画では「北方軍は一部兵力でフイ高地を遮断して、主力はノモンハンに向かって急進し、包囲環を形成する」であり、フイ高地は第7装甲車旅団で簡単に蹂躙できると考えていた。これはフイ高地を防衛する第23師団捜索隊(指揮官井置栄一中佐)の戦力を2個中隊程度の歩兵と過少評価していたからであるが[245]、井置捜索隊の実際の戦力は騎兵2個中隊(内1個は装甲車小隊を含む自動車化中隊)、歩兵2個中隊、歩兵砲1個中隊、工兵1個中隊、九四式37mm速射砲4門、山砲2門、重機関銃29丁であり、総兵員は約800名と連隊には達しないが、ソ連軍の推測よりは大きな兵力であった[246]

ノモンハン事件では日ソ両軍ともに偵察活動が不十分で、お互いに誤った情報による作戦ミスを犯しているが、ソ連軍は総攻撃の際も同じ轍を踏んでおり、攻撃に際しての偵察活動もお粗末であった。軍司令部は全く情報を持たなかったし、各部隊は日本軍に攻撃を悟られないよう偵察活動は禁止されていたので、ソ連軍は司令部から前線部隊までまともな情報を持たずに総攻撃を開始したことになった[247]。しかしシュテルンとジューコフは日本軍の前線の戦力を50,000名以上と、実際の2倍~6倍に過大に見積もり、その過大な推定に基づいて慎重な作戦計画を練ったため、不十分な偵察活動が原因となって全体的な作戦に大きな支障が生じることはなかった[248]。 しかしフイ高地の井置捜索隊については、戦力の過少評価の他に、井置中佐の指揮の下で、高地全体が全周1.5kmの全周囲陣地になり、コンクリートを使用した掩体壕など、陣地内を張り巡らされた壕で高地が要塞化されているとの情報も持たないまま強攻することとなってしまったため[249]。北方軍の兵員約6,000名、戦車200輌、装甲車123輌に対し、井置捜索隊は800名の少数の火砲しかなかったが、北方軍は大苦戦を強いられた。陣地攻略に絶大な威力を発揮する化学戦車を先頭に、ソ連兵は「ウラー」と喚声を上げながら突撃し塹壕に大量の手榴弾を投擲してきたが、塹壕を巧みに活用する日本兵により、陣地内の塹壕に化学戦車が擱座すると、日本兵が得意の白兵戦に持ち込み、ソ連兵を銃剣突撃で圧倒し大損害を与えて撃退するといった一進一退の攻防が20日の終日に渡って繰り広げられた[250]

北方軍が第601狙撃兵連隊連隊長スターク少佐戦死を含む大損害を出しながらも、フイ高地を突破できなかったことを知ったジューコフは、これ以上の作戦の遅れは容認できないと予備兵力全てをフイ高地攻略に投入することとした。それを知ったシュテルンがジューコフの下にやってきて「無理をせず一息入れて、2~3日かけて準備して再度攻撃せよ」と勧告したが、ジューコフは拒否し「戦争に犠牲はつきもの、特に頑強な日本軍相手であれば当然のこと、2~3日も延期すれば、途方もない作戦遅延と損害を出す、貴方の勧告を受け入れたら損害は10倍にもなる」、「貴方の勧告が命令なら書面にしてほしい、もっともそんな命令書はモスクワが拒否するはず」と突っぱねた。この後にジューコフが手を回し、国防相のヴォロシーロフがシュテルンに何らかの助言を行い、シュテルンは勧告を取り下げている[251]。結局、その後の展開を見ればジューコフが正しかったのだが、シュテルンは納得しておらず、戦後に「予備部隊については、これは理解できない作戦である」と報告書に記述している[252]。これでシュテルンとジューコフの対立はさらに深まることとなった。

さらにジューコフはシュテルンの不興を無視してフイ高地の攻略に手間取った北方軍司令シェフニコフ大佐を更迭し[253]、アレクセンコ大佐を司令官に任命し、予備部隊の212空挺旅団899名と第9装甲車旅団1,809名を追加投入して、猛攻を加えてきた。既に戦力差は10倍以上となっていたが、それでも井置捜索隊は弾薬尽きるまで戦い続けた。その頑強な抵抗は戦後にソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編纂した『大祖国戦争史(1941~1945)』に記述されるぐらいであったが、24日には800名の兵員の内戦死182名、負傷183名で半分の兵員が死傷しており、食糧・弾薬も尽きかけていた。指揮官の井置は拳銃で自決しようとしたが、部下に制止されると、24日の16時には日本軍としては殆ど前例がない独断での撤退命令を出した[254]。残存兵269名は奇跡的にソ連軍の重包囲を掻い潜り、オポネー山まで撤退した。散々ソ連軍を足止めし大損害を与え、「ジューコフが指揮官なら井置に勲章を授けていただろう優秀な指揮官」とも賞された[255]井置は、独断撤退を小松原や辻から責められ、ノモンハン戦停戦後9月16日に自決している。

日本軍の攻勢移転[編集]

第6軍はソ連軍の猛攻撃の中で、反転攻勢に出るべく準備を進めていた。小松原は増援の第7師団森田旅団ができるだけ敵主力を引き付けている間に、第23師団主力が短距離でソ連軍の側面に回り込むという作戦を主張したが、安全策をとって東南東に大きく迂回してハルハ河まで追撃するとした第6軍案と真っ向から対立し8月21日を丸1日浪費してしまった。22日には砲兵団の畑少将も加わって激論を交わしたが、結局上部組織である第6軍の案が採用され、23日に各部隊に伝達された[256]

作戦計画によれば小林少将率いる歩兵第71、72の諸連隊をあわせて右翼(北)を進み、森田少将率いる歩兵第26、28連隊が左翼(北)を進撃し、ソ連軍主力で南方から日本軍を包囲しようとしていた南方軍を逆に包囲する作戦を立てた。攻撃開始は翌24日と決められた。攻撃計画が決定した23日午後に関東軍司令部から派遣された辻が、道中ソ連軍戦闘機や砲撃により命からがら前線司令部に辿り着いたが、司令官の荻洲はウィスキーを飲んでいたところで、辻に「君一杯どうかね、明日の前祝に」と語りかけるなど余裕綽々であった[257]。翌24日になって、攻撃参加予定部隊はすでにソ連軍の猛攻で防戦一方で、攻撃開始前に間に合った部隊は歩兵第72連隊と第28連隊の合計5個大隊であり、予定の9個大隊の半分に過ぎず、支援の砲兵の展開も間に合わないことが判明した。また攻撃開始直前には、フイ高地が全滅(実際は撤退)したことが知らされ、辻は「何たる幸先の悪さ」と考えたが[258]、悪いのは幸先ではなく、第6軍や第23師団が初めから戦況や敵状を無視して立てた無理な作戦計画そのものであった[259]

前線の指揮官や下士官のなかにははこの攻撃が無茶ということは十分に認識した者も多く、第72連隊の平塚少尉が小倉第2大隊長へ「このままやったら全滅ですよ」と話しかけると、小倉は「おれもそう思う」と返事をしている[260]。攻撃は9時に開始となったが、戦車を含む重武装の第57狙撃師団第80連隊が守る780高地(ヤレ高地)に向かって白昼堂々と4~5kmも突進するという近代戦では考えられない作戦で[261]、突撃を開始すると、ソ連軍の圧倒的な火力で日本兵はバタバタと倒され、小林少将、酒井連隊長、小倉大隊長などの指揮官・部隊指揮官も負傷するなど、8月24日のわずか1日で、第72連隊の損害は戦死324名、負傷377名にも上り、死傷率50%で連隊は壊滅状態に陥った[262]。一方攻撃を受けたソ連軍の損害は、公式戦史で死傷285名、戦車4両撃破と、日本軍の損害の1/3とされているが[263]、この公式戦史は、実際に被った損害の約1/3の記述とグラスノスチによるソ連軍公文書解析で判明しており、実際は日本軍と同じぐらいの損害を被っていた可能性もある[264]。攻撃に同行していた辻はこの状況を見ると、独断で『師団命令』を出し攻撃を中止させた。辻にはそんな権限はなく、越権行為であったが、小松原からその判断を感謝され不問にされている[265]

同時に攻撃した左翼の森田兵団も同様な展開で撃退された。小松原は攻撃を諦めず翌25日も攻撃を続行したが、今度は歩兵第28連隊にも5割近い損害が生じ、『ノモンハンでもっとも拙劣な作戦』と酷評された反転攻勢は大失敗に終わった[266]。この攻勢の失敗は単に日本軍が大損害を受けたに留まらず、戦力を抜かれて無駄に消耗した日本軍の防衛線を崩壊させるきっかけとなってしまった。シュルテンは後にこの日本軍の攻撃を「大喜びでおびき寄せたかった場所」に日本軍が自らはまりこんできたと評した[267]

ノロ高地攻防戦[編集]

ノロ高地での戦いなどで多数のソ連軍戦車・装甲車を撃破し活躍した九四式37mm速射砲

日本軍陣地の南翼にあたるホルステン川南岸は、ノロ高地を中心拠点として、その中心拠点を守る第8国境守備隊の長谷部支隊、歩兵第28連隊梶川大隊、歩兵第71連隊主力が配置されていた。7月20日にソ連軍の総攻撃が始まると、狙撃兵第82師団と同57師団を主力とする圧倒的なソ連軍と、747や757といった高地を巡って激しい争奪戦を繰り広げた。747高地には歩兵第71連隊第3大隊主力が進出していたが、化学戦車を先頭として、守る日本軍兵士が『黒山のような』と形容したほどのソ連軍歩兵の大群が何度も攻撃してきた。化学戦車はハルハ河西岸で日本軍歩兵に苦戦させられた経験により安易には日本軍陣地に近づかず、50m離れた場所で一旦停止し火炎放射で攻撃してきたため、日本兵は化学戦車に肉薄すると手榴弾を何個も縛り付けた結束手榴弾を投げつけ、ソ連軍歩兵とは高地の至る所で白兵戦を展開し、2時間戦い続けようやく撃退している[268]。しかし、日本軍は弾薬・食糧も底をついたのに対し、ソ連軍は次から次と新戦力が攻め込んできて、7月22日には各拠点が包囲されたので、夜には一旦拠点を放棄し、翌23日に第71連隊は三角山とヒョウタン砂丘に集結したが、第3大隊は壊滅していた[269]

そこに第6軍司令部より、攻勢移転のため連隊全兵力を攻撃開始位置に移動せよとの命令が入ったが、第71連隊がホルステイン川南岸から転進すると、ノロ高地を守っている長谷部支隊が孤立することになるため、師団司令部に意見具申したが回答はなく、やむなく森田連隊長は独断で第1大隊だけを転進させ主力(第2大隊と残存兵)はそのまま現地に残らせた。しかし、ただでさえ少なかった兵力が第1大隊の転出により各部隊の境界地域が手薄となってしまい、各拠点が孤立して戦うこととなった。7月22日にはノロ高地北翼に戦車18輌で攻め込んできたが、第1師団から派遣されていた岡崎速射砲中隊が迎撃し、速射砲と火炎瓶などを駆使し13輌を撃破して撃退した。中には戦車に飛び乗ってツルハシで砲塔のハッチをこじ開け車内に結束手榴弾を投げ込み撃破した日本兵もいた[270]

ソ連軍は日本軍の抵抗が激しいと認識すると、確保した『蒙古山』と呼称されたノロ高地至近の砂丘に重砲や野砲を設置し、至近距離から直接照準でノロ高地の日本軍守備隊に集中砲撃を行った。またここでも化学戦車が活躍し、掩体や地下壕から現れた日本兵を焼き尽くした [271]。長谷部支隊の指揮下にあってノロ高地前面陣地を死守していた歩兵第28連隊の梶川大隊は、砲撃が終わった後に肉薄してきたソ連軍歩兵と、大隊長自ら銃を撃ち手榴弾を投擲するとこまで追い詰められながら何度もソ連軍を撃退し続けたが、弾薬と水が尽きかけている状況で、これ以上は持ち堪えられないと判断した大隊長の梶川は、支隊長の長谷部に暗に玉砕を申し出たが、拒否され「なるべく長く陣地を確保せよ」との命令が届いた[272]。命令を知った梶川大隊の将兵は、最後の突撃による玉砕を梶川に進言するが、梶川は「死ぬときはこの陣地で死のう」と部下を諭した[273]。この梶川大隊の勇戦敢闘は後にアメリカ陸軍戦史部英語版のエドワード・ドレー博士より、「その勇気と頑強さはノモンハン戦では随一」と特筆されている[274]

ソ連軍は味方の砲撃や爆撃による同士討ちを避けるため、各部隊の最前線には赤旗を立てていたが、もはやその赤旗が梶川大隊の陣地やノロ高地の至る所に立っている末期的状況で[275]、25日には、猛攻を受け続けていた長谷部支隊主力も兵員の死傷率は70%に達していた。ノロ高地は完全に包囲されていたが、包囲したソ連軍は拡声器を使いさかんに日本語で降伏勧告を行ってきた。その降伏勧告の合間には日本兵の郷愁を誘うべく佐渡おけさ等の日本の歌も流された[276]。長谷部は一旦、敵陣地に玉砕覚悟で夜襲をかける気であったが、25日の21時には翻意し、全部隊に撤退命令を出した。この命令は苦闘する梶川にも伝えられたが、その頃梶川に付き従う兵士はわずか6名になっていた[277]。26日の夜にソ連軍の目を逃れて暗闇の中でソ連軍の包囲網の突破を試みたが、1個大隊規模まで戦力が落ち込んでいた脱出部隊は、翌27日に第127狙撃兵連隊と第9装甲車旅団に発見され、蹴散らされた[278]。それでも長谷部残存部隊は8月28日に、増援として戦場に到着した第7師団の歩兵第25連隊と合流することが出来た。しかし、長谷部の行動はフイ高地を独断撤退した井置と同じであり、戦後に井置と同様に軍団長の萩洲と師団長の小松原より自決勧告され、9月20日に自決している。長谷部は部下に愛され尊敬された温厚篤実な指揮官であり、荻洲らに抗弁や恨み言をいうこともなく静かに運命を甘受した[279]

26日にノロ高地の戦況が最後の段階に達すると、その東方で同様に苦闘していた歩兵第71連隊主力の命運も尽き、連隊長の森田がソ連軍の重機関銃の銃撃を受け戦死した。8月8日に連隊長に着任しわずか18日での出来事であった。第71連隊は第2大隊遠井大隊長が代行したが、第23師団からの命令で撤退したため、27日にはホルステン川南岸からは日本軍が駆逐され、残る日本軍の拠点は第23師団主力が守るバルシャガル高地(ソ連名レミーゾフ高地)のみとなってしまった[280]

第23師団壊滅[編集]

残された日本軍最後の陣地はバルシャガル高地のみとなり、攻勢移転で多くの兵力を失っていた日本軍はこの高地を、第一次ノモンハン事件からこれまで最前線で戦い抜いた山県大佐率いる歩兵第64連隊と第7師団歩兵第26連隊の1個大隊で守っていた。またその後方では、7月25日からの砲撃戦でソ連軍に巨弾を浴びせた砲兵団主力が支援する形で配置されていた[281]。 対するソ連軍は高地全周を、狙撃兵第601、第602、第603、第127、第293、第149、第24の7個連隊と、第5機関銃狙撃兵旅団、第9装甲車旅団で完全に包囲し、他の部隊は国境線まで進出し、日本軍の増援の進出を牽制した[282]

山県は兵力不足から、指揮下の4個大隊を単線式配備しかできず、後方に配置していたはずの重砲隊は、ソ連軍に包囲されたことにより最前線となってしまっていた。それで8月24日にソ連軍は日本軍陣地の攻撃を開始し、自分らの身を守る術がない重砲隊は、ソ連軍の戦車と歩兵に包囲された[283]。各重砲隊はそれでも簡単に全滅することはなく28日まで、重砲の零分角射撃(直接照準・水平射撃)でソ連軍戦車隊と渡り合った、重砲の巨弾が戦車に命中すると砲塔が吹き飛んだという[284]。野戦重砲第1連隊第2中隊長山崎昌来中尉は、敵の攻撃で負傷し顔面を血に染めながらも、部下を鼓舞し九六式十五糎榴弾砲の零分角射撃でソ連軍戦車の攻撃を何度も撃退、砲弾を撃ち尽くすと、砲の照準器を破壊しソ連軍戦車に最後の突撃をしようとしたところで、重砲の死角となる200mまで近づいたソ連軍歩兵の狙撃を頭部に受け戦死した。その活躍により山崎はノモンハン事件で個人としては、関東軍による唯一の感状を授与されている[285]。重砲連隊も次々と壊滅していた。ムーリン重砲兵連隊は連隊長の染谷中佐が8月26日に観測所で自決し全滅、野戦重砲第1連隊の三島連隊長は負傷し後送、野戦重砲第7連隊の鷹司信熙連隊長は8月27日に残った重砲が1門となったため、第64連隊に合流しようとしたが、既に敵の包囲下で果たせず、残った砲の保守のために残置させた29名以外を陣地から脱出させた。破壊を免れた3台の乗用車に鷹司と2人の副官と負傷者を乗せて、後方の砲兵団司令部への戦況報告と再起を図るため後退したが、後にこの行為は無断脱出と看做され、謹慎を命じられ、停戦後には停職処分と男爵礼遇の停止の処分を下されている[286]

8月27日にはバルシャガル高地の歩兵第64連隊も風前の灯火となっていたが、このまま第23師団が全滅してしまっては、国際的に日本の大きな不名誉になると考えた小松原は手持ちの残存兵をかき集めてバルシャガル高地を救援することとした。合計の兵力は歩兵第71・72連隊の生存者を含め1,440名であったが、数万の兵力でバルシャガル高地を包囲するソ連軍の包囲を突破し高地まで達するのは極めて困難と思われ、第6軍は救援を止めるよう勧告したが、小松原は勧告を無視し自ら救援隊の指揮をとることとし28日に出撃した。一方第64連隊の山県は師団よりの知らせで28日に救援部隊が到着すると認識していたが、第6軍の勧告などで出撃が遅れたため28日には到着しなかった。事情を知らない山県は小松原救援隊は敵の妨害によりもうバルシャガル高地には到着できないと判断し、唯一砲兵隊で指揮官が健在だった野砲第13連隊の伊勢高秀大佐と協議し、主力に合流するため29日午前2時に高地の脱出を命じた[287]。山県の命令で隷下の部隊は同時ではなく時間差を置いて後退しており、小松原直率の救援隊がバルシャガル高地に到着したときには既に山県と伊勢率いる主力は撤退済みであった。脱出した第64連隊主力はソ連軍に捕捉され、進退窮まった山県と伊勢は、ソ連軍の重囲下で軍旗を奉焼した後自決した[288]。ソ連軍は狙撃兵第24連隊を第64連隊が撤退したバルシャガル高地に進攻させ、日本軍残存兵が籠る陣地を一つ一つ虱潰しに殲滅していったが、完全にバルシャガル高地を制圧したのは31日となった[289]

山県らと入れ替わりでバルシャガル高地の左翼陣地に到達した小松原救援隊であったが、そのまま引き返すことなく陣地を構築し防衛態勢をとった。辻はその状況を知ると8月30日に第6軍司令部にかけつけたが、そこで司令官の荻洲が辻に「辻君、僕は小松原が死んでくれることを希望しているんだがどうかね君」と話しかけられたため、辻は憤然として荻洲に「軍の統帥とは師団長を見殺しにすることですか」とどなり、その後に第6軍の参謀らに「誰か若い参謀が決死隊を連れて師団長を救出して来い」と命じたが、これまでの第6軍幕僚と小松原の感情的なしこりから誰も反応しなかったため、辻は「よしっ、君たちが行かないのなら、俺が行く」と立ち上がるとようやく高級参謀の浜田大佐が自分が行くと名乗り出た[290]。 しかし、敵の重囲下に小規模部隊を派遣しても損害が増えるばかりという結論に達し、救援隊の救援は出されず、30日に小松原に第6軍より撤退が命じられ、小松原救援隊は大損害を被りながらも31日に敵中突破に成功している。しかし、第23師団の損耗率は最大で78%にも達し文字通り全滅した。8月だけの死傷数も8,500名に達した[291]。一方力押ししたソ連軍の損害も大きくロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告では死傷者数11,205名と日本軍を上回っているが、前述の通りワルターノフ大佐の報告はその後のロシア人研究家たちの調査により過少と判明しており[292]、実際はもっと大きな損害を被っていたと推定される。

独ソ不可侵条約[編集]

独ソ不可侵条約に署名するソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフの後ろで談笑するスターリンとドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

ノモンハンで戦闘が続くなか、1939年8月23日スターリンはドイツと独ソ不可侵条約を締結した。日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、宇垣一成はその時の陸軍の様子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、とりどりの形相」と記述している[293]。25日には平沼騏一郎内閣が日独同盟の締結交渉中止を閣議決定、28日に平沼が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と声明し、総辞職した[294]

ナチス・ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相は、独ソ不可侵条約締結のためモスクワに向かう前日に、日独軍事同盟を先頭に立って推進してきた大島浩駐独大使を呼び、独ソ不可侵条約を締結することを伝えた。面目を失い怒り心頭の大島に対しリッベントロップは、ノモンハン事件の仲介を申し出て、ゆくゆくは日本、ナチス・ドイツ、イタリアの三国同盟にソ連も加えて四国同盟に発展させたいとの構想を語っている[295]

ソ連軍総攻撃前の7月末には、日本政府は停戦を模索しており、東郷茂徳駐ソ特命全権大使に停戦交渉を指示していたが、土居明夫駐在武官よりの「戦勝の裏付けがなければ見込みは薄い」との進言通り具体的な交渉には進めなかった[296]。ソ連も外交交渉による事件解決の希望を持っており、ソ連軍大攻勢開始直後の8月22日に、東郷が樺太の諸問題について協議するためソロモン・ロゾフスキー外務人民委員代理と会見した際に、ロゾフスキーより「日ソ国交の正常化はソ連も希望している」との話があり、東郷がそのためには国境諸問題(ノモンハンを示唆)を解決する必要があると力説したところ、ロゾフスキーは「日本側から具体的な申し出有ればソ連は検討する」と回答している[297]。しかし、ソ連軍の大攻勢で、戦勝どころか第23師団が壊滅状態に陥っていた状況下では、独ソ不可侵条約の締結は日本の立場を更に弱いものとした。独ソ不可侵条約が締結された8月23日に、リッベントロップは大島との約束通り、スターリンに日ソの仲介を申し出たが、スターリンは戦局が有利に進んでいたことから「時には彼ら(日本)を厳しく取り扱わなければ」と拒絶はしなかったものの、即答を避けている[298]

戦局は不利であったのにも関わらず、依然関東軍の方も強気であり、独ソ不可侵条約の締結を受けて、8月27日に植田司令官名で『欧州情勢の変転に伴う時局処理対策』という意見書を作成し、わざわざ情報課長の磯村武亮大佐を参謀本部に説明のために派遣した[299]。その内容は「対ソ戦備を一層充実すると同時にノモンハン方面のソ連に対し徹底的に打撃を与えつつ、ドイツ、イタリアを利用し休戦を提議せしむると共に、速やかに日ソ不可侵条約を締結し、更に進んで日独伊ソの対英同盟を結成し、東洋に於ける英国勢力を根本的に芟除して支那事変の処理を促進完成するを要す」と雄大だが、関東軍の権限を遥かに超える意見であり[300]、その前提条件となる「ソ連から休戦を申し込ませる」策として、「軍は既定方針に基づきノモンハン方面に於けるソ連に痛撃を与う、之がため、第2師団、第7師団、第23師団を戦場に使用」とソ連軍に一撃を加えて、外交交渉を有利に進めようというものであった[301]。参謀本部も、この時点では詳細な戦局を把握できていなかったこともあり、『一撃を加える』という方針では一致しており、関東軍がノモンハンに戦力を集中する穴埋めとして、第5師団、第14師団、重砲2個連隊、速射砲9個中隊、飛行59戦隊などの増援と大量のトラックを送ることを決定している[302]

停戦成立までの戦闘[編集]

ノモンハン戦で『唯一不敗の連隊長』と言われた宮崎繁三郎(写真は少将時代のもの)

関東軍は、ソ連軍の総攻撃に対し、8月26日に第7師団の主力をチチハルからノモンハンに増援として向かわせた。しかし関東軍は意外なほどに戦局を楽観視しており、日本軍最後の拠点バルシャガル高地がソ連軍の猛攻を受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え、一大鉄槌を加うる」、バルシャガル高地が事実上陥落した8月29日には「冬季前速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍に第2師団、第4師団、第1師団主力、第8師団の一部と関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢を目論んでいた[303]

参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況を掴み、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされるなど[304]、8月29日ごろには戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針を転換した『大陸命第343号』を起案し、趣旨説明に参謀次長の中島らが関東軍に出向いた[305]

参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった[306]。この頃にノモンハンでの戦いを仕切っていた関東軍参謀の辻は、今までの経験により「戦法も改めねばならぬ、戦車と重砲と飛行機において我に数倍する敵に、従来のような原則的戦法では到底勝つ見込みはない」と考え、その新しい戦術として、前代未聞の3個師団もの大兵力による集中的な夜襲攻撃を考案していた[307]。ただしこの作戦は苦肉の策とも言えるもので、発案者の辻ですら「名案ではなく、これ以外に勝ち目はない」としていた。

参謀本部から関東軍を説得に来たはずの中島であったが、8月30日新京で行われた関東軍司令部と中島らの作戦会議で、関東軍司令官の植田、作戦課長の寺田から辻考案の3個師団夜襲作戦を説明されると、関東軍との融和を第一に考えていた中島は関東軍の作戦案に同意してしまう。その夜は祝宴が開かれたが、中島らと関東軍司令部は大いに打ち解け、辻も「これなら今度の攻勢は必ず成功するぞ。必勝を信ずる空気に満ちた。」と当時の思いを回想している[308]。中島が丸め込まれたことを知った参謀本部作戦課長の稲田はすぐに次の手を打ち、「情勢に鑑み大本営は自今「ノモンハン」方面国境事件の自主的終結を企画す」「関東軍司令官は「ノモンハン」方面に於ける攻勢作戦を中止すべし」とより具体的で断定的となる『大陸命349号』を出した。前回丸め込まれた中島が、この命令を持参して9月4日に再度関東軍司令部を訪れ、命令と「大陸命に基き隠忍自重、他日の雪辱を期しよく上下を抑制して、時局の収拾に善処せんことを切望す」との参謀総長の言葉を植田に渡している[309]。中島の説明に植田と関東軍参謀長の磯谷は「前命令からわずか4日しか経っておらず、戦況には何の変化もないのに、この急変は、なぜか」と激怒し詰め寄ったが、前回に懲りた中島は「大命です」の一点張りで突き通した。そこで植田は「戦場に残された遺体の収容をするための出撃だけはぜひ許可して欲しい」と懇願したが、中島は「それさえも、お許しにならないのが大命の趣旨です」と突っぱねた[310]。関東軍は「戦場整理」の名目で攻勢発動をする目論見であったが、中島はそれを見抜き拒み続けた。最後に植田は辞任もちらつかせ迫ったが、中島は「上司に伝えます」とだけ答えると、今回は新京に長居することなく半日の滞在で東京に引き上げた[311]

参謀本部の頑なな態度に植田ら関東軍司令部もついに観念し、9月6日に植田の署名では最後となる関東軍命令『関作命第178号』が発せられ、ノモンハン方面での攻勢作戦は一切中止され、実質的にノモンハン事件は終わった[312]。しかし第6軍に関東軍より増援された各部隊は引き続き指定されたノモンハンの展開予定地に突き進んでおり、その第6軍に対して関東軍は「自重せらるると共に別命ある迄万一に応ずる作戦準備は依然継続」などと思わせぶりな指示を与えていたため[313]、この時点で、関東軍より多くの増援を得ていた第6軍司令荻洲は高揚していた。この時荻洲の指揮下には第23師団の残存の他に、第2、第4、第7師団と第1、第8師団の一部に重砲と全満州からかき集めた速射砲230門があり、総兵力は65,000名にもなっていた。ノモンハン戦に関する記述で、よく日本軍の参戦兵力として記述されるのが、この時点での兵力である[314]。さらに9月3日には、参謀本部が第5、第14師団などの増援を決定したという報告も受けていたが、その増援を加えると10万以上の規模に達するため、荻洲の気持ちはさらに高まり「速に敵に鉄槌的一撃を加え、国境鼠賊掃滅の蠢動を一挙に封殺し、皇軍の慰武を宣揚し以って大元帥(天皇)陛下の信綺に応え」と部隊に檄を飛ばしている。そんな司令官の高揚が全軍に伝播したのか、『関作命第178号』が第6軍の参謀に到着した際は、参謀長の藤本は一読するとポケットにねじ込み「当分のうちはこの電報は絶対に他に漏らしてはならぬ」と部下参謀に厳命している[315]

第6軍は、関東軍から派遣されていた島貫参謀の計画で、『関作命第178号』の発令前の9月4日に第2師団の第15旅団(旅団長片山省太郎少将)に997高地への夜襲を計画していたが、6日に一旦中止、しかし『関作命第178号』発令後の9月7日に、島貫が直接片山旅団の歩兵第16連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)に当初計画通り977高地への夜襲を命じた。宮崎連隊の夜襲時に977高地を防衛していたのは、狙撃兵603連隊とモンゴル兵の300名前後であったが、激戦の末、8日朝に977高地を占領した[316]。同日の日中にソ連軍は、第6戦車旅団の戦車50輌を含む宮崎連隊を圧倒する戦力で逆襲してきたが、数回ソ連軍の攻撃を撃退するなど、激戦を繰り広げた後に、宮崎連隊は10日に977高地を撤退している。しかし宮崎は引き揚げる前に、今後の停戦協定に備えて証拠を残そうと、部隊の石工出身の兵士に命じ、十数個の石に部隊名と日付を刻み付けて、占領地の地中に埋め込んだが、これが後の国境画定交渉で日本側の主張が通る大きな要因となり、宮崎連隊は『ノモンハン唯一の勝利部隊』と称賛された[317]

また、11日には独立守備歩兵第16大隊(大隊長深野時之助中佐)と独立守備隊15大隊黒崎中隊の日本軍合計400名が吹雪の中、1031高地(ハルハ山。ソ連側の呼称はマナ山)に進攻し、1031高地を防衛していたモンゴル軍騎兵第8師団22連隊(600名)を白兵戦で潰走させ占領した。モンゴル軍が退却した後には、遺棄死体22体、砲4門、数十頭の軍馬が残されていた。ノモンハン戦最後の戦いでの日本軍の快勝劇であり、責任を問われモンゴル軍騎兵第8師団22連隊のバダルチ連隊長は処刑されている[318]。その後、モンゴル軍の要請を受けたジューコフが奪還を準備していた9月15日に停戦となり、1031高地は最後まで日本軍が確保した。この1031高地占領のおかげで、停戦後の領土交渉の際に日本は、ソ連軍に占領されたホルステン川周辺の係争地とほぼ同じ面積(500㎢)の広大な土地を確保することができた。

航空戦[編集]

九七式戦闘機乙型(キ27乙)
ソ連軍のI-16戦闘機
撃墜されたソ連機

航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153I-16であった。当初はソ連空軍に比べて日本軍操縦者(空中勤務者)の練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、九七戦は運動性と最高速度に優れる)、ほぼ互角であった。また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は、日本軍の圧倒的な勝利となった。

日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍は目覚しく、20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、なかでもトップ・エースの篠原弘道は3ヶ月で58機撃墜を記録した。ノモンハンにおけるエースはほかに樫出勇岩橋譲三坂井菴西原五郎などがいる。

優位な航空勢力を活用し戦況を有利に進めるべく関東軍は日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場(モンゴル語ではタムサグ・ボラク)の爆撃計画を立てた。しかし計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動であり事態の拡大を招来することに危惧し自発的な計画の中止を打電、6月25日には大本営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。空爆計画の実行を強く願った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行を決定、6月27日、関東軍はタムスク飛行場を重爆24機、軽爆6、戦闘機77の合計107機で実施、未帰還機4機という少ない被害により戦術的には大戦果を上げた。しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、陸軍中央の怒りを買うと同時に、空爆計画を関東軍の冒険主義であることを知らないソビエト・モンゴル側からすると大掛かりなアジア侵略を歌った「田中上奏文」の実現として認識された。

第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていたベテラン・パイロットを派遣し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲板を装備したI-16によるロッテ戦法や一撃離脱戦法で対抗し、これにより日本軍は開戦時の損耗率10:1から3:1となった[319]が、その空での優勢は停戦まで続いた。

第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の発表では1,252機(戦闘機隊によるものは97式戦闘機が1048機、95式戦闘機が48機[320])。またソ連側がかつて主張していた損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字では被撃墜207機+事故損失42機。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内九七戦は51機で戦死は53名)だった。日本側の最終的な損耗率は60%で、最後には補給が追い付かず九七戦の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至った。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。

九七式司令部偵察機一型(キ15-I)

陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日に関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七戦での要撃も容易ではなく大いに悩まされた[要出典]が、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。

戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機を始め多数の偵察機が運用された。しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤ってたびたびソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどして[要出典]、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。

停戦以後[編集]

停戦協定[編集]

一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、9月14日より日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。だが、ソ連側は有利に戦争を進めており、強硬な姿勢で交渉に臨んでいた。東郷の「5月1日以前への原状復帰での停戦」の主張に対してモロトフは「モンゴルの主張する国境線から日本軍は退去すべき」と譲らず、一時、東郷は交渉が破局すると覚悟した[321]。その頃に、モスクワに前線方面軍司令シュテルンより、日本軍が4個師団以上の大兵力を集結させ、どんなに犠牲を払っても8月の敗戦の報復に出るべく準備を進めているとの報告があっており[322]、ソ連側は日本軍が攻勢に転じれば、今までの戦闘経過から見て、かなり長期の消耗戦になると懸念していた。

ソ連はこの後にナチス・ドイツとの密約によるポーランド侵攻を計画しており、ノモンハンとポーランドの二方面作戦は回避したく停戦を急ぐ必要があった[323]。そのため、東郷が出した「双方とも現在占拠している線で停戦」との譲歩案にモロトフは態度を軟化させて同意し、9月15日に停戦合意に至った。合意の中で、現時点での占拠点で両軍とも停戦し、後日、ソ連側代表2名と満州国側代表2名で国境画定委員会を組織し、国境の線引きを行うと決められた[324]。東郷は不利な戦況の下でどうにか合意に至らせたことを喜び、モロトフとの交渉を終え大使館に帰ってくると、土居明夫駐在武官とシャンペンで祝杯をあげ、「やっと妥結した、五分五分と言いたいが、向う6、こっちが4だ」と喜んだ。しかし妥結した2日後の9月17日にソ連軍によるポーランド侵攻が開始されたことを聞きつけると、土居は「しまった、あと、2~3日粘っていたら、焦りからソ連側はもっと譲歩したかもしれない」と悔やんでいる[325]

国境画定交渉[編集]

満州国とモンゴルの境界線の目印となっていたオボー

停戦の合意に基づき9月24日~9月30日までソ連軍占領区域での日本軍の遺体収容作業が行われた。日本軍は100名一組の遺体回収部隊10個を投入し、合計で6,281名の遺体を収容した。日本軍側からは埋葬していたソ連兵の遺体38名が引き渡された[326]。互いの捕虜交換も9月下旬と1940年の4月の2回に渡って実施され、日本軍164名、ソ連・モンゴル兵89名の捕虜が交換された[327]

満蒙国境画定会議は1939年11月~1940年1月30日までチタで8回、ハルビン市で8回行われた。ソ連・モンゴルの主張しているノモンハン地域での境界は、朝の行政区界を継承した従来からの満州国の境界ほぼ同じであり、相手側の主張を受け入れても決して負けた事にはならず不名誉ではないとする満州国側(といっても満州国外交部の日本人)の主張に対し、関東軍は「将兵が多数倒れた戦場をソ連軍が占領しているのを認めることはできない」と交渉決裂も辞さないとの強硬な姿勢であったが、満州国代表として会議に参加していた満州国外交部政務司長亀山一二(日本外務省より出向)が関東軍の代表三品隆以少佐を説き伏せ、ソ連側の主張を容れることとし、調印をおこなうところまでこぎつけた[328]

しかし調印当日になって、ソ連・モンゴル代表団がモスクワより交渉中止の指示があったとのことで帰国してしまった。しかし、会議の全権代表であった亀山が太平洋戦争後に語ったところによると、関東軍参謀を更迭されていた辻が、交渉を妨害しようと白系ロシア人を使ってソ連・モンゴル代表団に対し殺害予告を行い、代表団が怯えて帰国したとのことであるが[329]、真相は不明である。

2回目の会議は1940年3月5日よりモスクワで開催された。東郷とモロトフの間でソ連軍参謀本部が発行した20万分の1の地図により協議が進められ、6月9日に大筋合意できたため、9月から現地での測量による詳細な確定作業に入った。しかし目印に乏しい草原と砂丘ばかりの土地で、モスクワでの協議で国境線の目印とされたのがノムンハーネイ・ブルド・オボーをはじめとするオボーであったが、土地に定着するものではないため、既に存在しないものも多く、国境線画定には大変な労力を要した[330]。この時もノモンハン以北の地区では、引き続きソ連・モンゴル側の姿勢は頑なで、特にモンゴル代表のスミルノフが「モンゴル兵の鮮血に依り彩られたこれ等砂丘は一歩なりとも譲らぬ。以後は日満委員らの立ち入りを禁ずる」と一方的に通告し、激怒した日本代表団が会議場から退出してしまったため、第1回の会議と同様に物別れに終わり、交渉は中断してしまった[331]。この現地調査の時に、満州国代表団の1人北川四郎は、ソ連側がバルガとハルハの旧境界線を極めて忠実に遵守していることに気が付いたが、ノモンハン戦末期であれば、ソ連軍は壊滅した第23師団を追って、満州国領内まで進撃することは十分であったのに、それを行っていなかったことに驚かされている[332]

日本代表団は、ソ連側がノモンハン以北に強く拘っているのに対し、停戦前に日本軍が確保した南部のハンダガヤ~アルシャン地区については、日本軍の占領が既成事実化しており、さほど固執していないと判断し、中北部で譲歩する代わりに南部で埋め合わせることとした[333]。休止していた国境画定会議は、1941年4月の日ソ中立条約の締結により再開されることとなったが、条約締結によりソ連の姿勢もかなり軟化していた。これまでは未測量部分のあるソ連軍の20万分の1の地図にて国境画定作業を行ってきたが、より精密な関東軍の10万分の1の地図を使用することをソ連側は同意し、またモンゴル側による、国境線や屈折点の目印としてオボ―を利用するという主張に対しても、オボーは永久に定着するものではないため、日本側の主張により、オボーの代わりに石柱と標識目柱を設置し、国境線や屈折点の目印とすることとした。さらに、ナチス・ドイツがソ連に攻め込むと(独ソ戦)、ソ連は極東の国境画定に関わる余裕を失い、ほぼ日本側の主張に従い作業が進んでいった[334]。そして、ノモンハン以北は満州国外交部の調査通りに従来の国境線(停戦時のソ連軍の占領地とほぼ同じ)で、南方のハンダガヤ地区は停戦前に日本軍が確保した土地は満州国領土とする、満州国に有利な総合議定書が1941年10月15日にハルビンにおいて調印された[335]。モンゴルはこの交渉により1,140㎡を領土を失ったと悔やんでおり、ノモンハン戦を領土の争奪の視点から評価すると、日本側の勝利とする意見もある[336]

日本の事後処理[編集]

関東軍の中には、辻発案の夜襲による総反撃が参謀本部の横槍で中止されたため、負けてはいないという強気な空気もあったが、陸軍中枢では陸相の畑が「大失態」[337]、更迭された中島の後任の沢田茂参謀本部次長が「陸軍始まって以来の大敗戦、国軍未曽有の不祥事」[338]、更迭された作戦課長の稲田は「莫大な死傷、敗戦の汚点」[339]などと敗戦意識が強く、その責任を追及する方針となった。特に関東軍司令官の植田については、タムスク空爆の際に独断で越境した罪で、昭和天皇は何らかの処分を求めていた。それは、昭和天皇の指名により阿部内閣の陸相となった畑も「明らかに越権行為にて一の大権干犯と見ざるを得ず。当然関東軍司令官の責任なり」と昭和天皇の意向を汲んで植田を激しく非難するなど、同じ思いであった[340]。植田自身も「全責任は軍司令官たる植田に存す」と考えていたため[341]まずは9月7日付で植田を司令官から解任し、ほぼ同時に関東軍の作戦参謀らも解任した。

ノモンハン事件の後処理を任された沢田茂は陸軍省、参謀本部、関東軍から事情聴取を行うと、事件を主導した関東軍だけではなく、陸軍中枢の責任を負うべきとした。その主要な論点は下記の通りである[342]

  1. 事件発生には直接の責任者なし
  2. 事件拡大は主に関東軍に責任あり、参謀本部の責任は従である
  3. タムスク爆撃、ハルハ河渡河攻撃などの独断越境攻撃は関東軍に責任あるが、当時現地で観戦しながら黙認した参謀本部第一部長橋本群中将にも責任あり
  4. 所要に満たない兵力を逐次投入して敗れた責任は関東軍に重く、第6軍と第23師団の責任は軽い
  5. 関東軍の下級参謀に押され勇断を欠いた参謀本部の参謀次長中島中将の責任は重い
  6. 関東軍の責任は司令官にのみあるものではなく、下級幕僚らも責任は逃れられない。植田司令官と磯谷参謀長に重大な責任を負わせるが、下級幕僚にも左遷的な異動処分を実施する
  7. 陸軍省の責任は統帥権独立の立場よりないものと判断

この原案に基づき沢田が考案した人事処分案は陸軍省人事局長、陸相、陸軍三長官の裁可を受け、昭和天皇にも上奏され決定となった。 下記の通り、事件拡大を図った関東軍とそれを不十分ながら抑えようとした参謀本部双方が処分を受けており、言わば“喧嘩両成敗”を念頭に置いた人事となっている[343]

(関東軍将官・参謀の処分)

役職 氏名 階級 処分
関東軍司令官 植田謙吉 大将 解任、1939年12月1日予備役
関東軍参謀長 磯谷廉介 中将 解任、1939年12月1日予備役
第6軍司令官 荻洲立兵 中将 進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役
第23師団長 小松原道太郎 中将 進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役、同年10月6日病死
野戦重砲第3旅団長 畑勇三郎 少将 進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役
歩兵第14旅団長 森田範正 少将 解任、1939年12月20日予備役
関東軍参謀副長 矢野音三郎 少将 1939年12月1日鎮海湾要塞司令官に左遷
関東軍作戦参謀 寺田雅夫 大佐 1939年10月26日千葉陸軍戦車学校教官に左遷
関東軍作戦参謀 服部卓四郎 中佐 1939年9月6日陸軍歩兵学校教官に左遷
関東軍作戦参謀 辻政信 少佐 1939年9月7日第11軍司令部付に左遷
関東軍作戦参謀 島貫武治 少佐 1939年9月8日陸軍大学校教官に左遷

(参謀本部の処分)

役職 氏名 階級 処分
参謀次長 中島鉄蔵 中将 解任、1939年12月1日予備役
参謀本部第1部長 橋本群 中将 解任、1939年12月1日予備役
参謀本部作戦課長 稲田正純 大佐 1939年11月10日陸軍習志野学校教官に左遷

しかし、この処分案ではいくつかの議論が生じていた。その中で大きな論点となったのは下記の3点であった[344]

  • 閑院宮参謀総長の責任問題
    • 現場の責任者植田が更迭された以上、参謀総長にも敗戦の責任を問うべきとの意見もあったが、皇族で、尚且つ74歳の高齢でお飾り的な存在であるのに責任を問うのは酷だという意見も出て、自発的な辞任を打診したが、結局引責辞任することなく1940年10月まで留まった[345]
  • 辻関東軍参謀の処置
    • 関東軍参謀の末席に過ぎなかった辻がノモンハン戦を主導し『事実上の関東軍司令官』とまで言われた事情は、参謀本部も十分把握しており、作戦課長稲田と第6軍司令官荻洲は免官にしろとの要望を出し、陸軍省の野田人事局長は予備役が相当と判定したが、以前も辻を擁護していた参謀本部総務課長笠原幸雄少将からの「将来有望な人物」という陳情が聞き入れられ、左遷的異動で済まされた[346]。元陸相の板垣を初め、辻の個性と能力を高く買っている陸軍有力者が多かったことが辻を救った形となった。辻は、一旦は第11軍司令部付の閑職に左遷されたが、1941年7月には参謀本部作戦課に栄転し進級している[347]。辻と同様に懲罰的な左遷をされた服部も、一足先に参謀本部作戦課長に就任しており、この事件の実質的な責任者として懲罰的な左遷となった関東軍の作戦参謀の多くは、その後中央部の要職に就き、対英米戦を主導したと、遠山茂樹らは主張している[348]
  • 部隊指揮官らの責任追及
    • 畑陸相ら陸軍中枢では「第一線には責任なし。第一線はよく戦った。罪は中央と関東軍司令部とにある」とし、当初は第6軍の荻洲司令官や第23師団の小松原師団長らも不問とされる方向性であったが、小松原が「一時自決まで考えたが、その機を逸した。全ての責任を受ける覚悟である」と沢田に言ったように[349]荻洲と小松原と砲兵団長の畑は責任を感じて自ら進退伺を提出したため、受理されて予備役編入となった。
    • ノモンハン戦の特徴として、ソ連軍の重囲下で、死傷者が累積し弾薬や食糧も尽きた部隊の『無断撤退』が相次いだことが挙げられる[350]。敗戦体験に乏しい日本陸軍には想定外の現象であり、参考になる前例が殆どなかった。自らの責任を取ると言って進退伺を出した荻洲と小松原であったが、陸軍刑法第43条に即してこの『無断撤退』を徹底的に追及しようと考えていた。師団長級以上の将官級の賞罰については、陸相が決定し天皇の意向も打診しなければならなかったが、連隊長級の部隊指揮官の賞罰については、陸軍懲罰令により軍司令官・師団長の権限と定められており、荻洲や小松原の意向により厳しい処分となった[351]。小松原が『無断撤退』に対して強く拘った背景には、第一次ノモンハン件の際に、部隊が敵中で孤立したため、隊付の師団参謀が撤退の進言を行ったのに対し、未だ連隊からの撤退命令が届いていなかったため、陣地から後退せず玉砕した東捜索隊の東中佐に対し「命令なき以上は撤退せずと動じなかったのは敬服に価す」と日記に書いたほど強い印象を持っていたことや[352]、壊滅した連隊の連隊長の多くが戦場で戦死したり、下記の通り自決していることが影響しているものと思われる。
    • 小松原は特にフイ高地を無断撤退した井置中佐とノロ高地を無断撤退した長谷部大佐を特に槍玉にあげて「両者とも火砲、重火器破壊せられ弾薬欠乏、守地を守るに戦力なきを理由とするならんも、これは理由となすに足らず」[353]と、撤退を余儀なくされた状況への配慮はまったくなく、両名を軍法会議にかけようと決意していた。しかし、軍司令官の荻洲の意向により軍法会議は開廷されなかったため、小松原は両名に対し、軍法会議であれば死刑相当の罪であるから自決勧告を行うこととし、荻洲も了承した[354]。小松原は、井置の処置に関しての第23師団幕僚による会議を開いたが、扇広参謀や木村松治郎 参謀が「何とか憐憫の情を」と訴えるも最初から結論ありきで、小松原の強い意向により自決勧告が行われた[355]。井置は師団を代表した同期の高橋浩亮騎兵中佐から師団の決定を伝えられると「謹んでお受けする」と答えて、9月16日夜に拳銃で自決した。その知らせを聞いた小松原は「井置中佐の処分は陸軍刑法にて行った。もし自決しなければ軍法会議にかかり銃殺は当然。これを戦死と認め、靖国神社に祀ることは許されない。」と言い放ち『戦病死』と関東軍に報告し進級を認めなかった[356]。井置については関東軍参謀の辻も戦場よりの報告を関東軍司令部に行った際に「フイ高地は八百の兵力中三百の死傷を生ぜしのみにして、守地を棄てたるに対して謝罪の字句の無きを知り」と激しく非難し[357]、軍法会議にかけるべきという主張をしていた[358]。また、長谷部については詳細な経緯は不明であるが、荻洲と小松原に自決勧告され、抗弁することもなく9月20日に拳銃にて自決している。井置と長谷部の自決勧告については、小松原は陸軍刑法に則ったと主張しているが、軍法会議にもよらない私刑であり、本来ならば井置らが受ける必要はなかったと戦後に元参謀の扇は指摘しているが、両名とも覚悟の上で勧告を受け入れている[359]。但し、ノモンハン事件に際し、部隊指揮官級で自決勧告を受けて自決したのはこの2名のみであり、自分の意思で自決し、小松原が「痛惜此の上なし」とその死を悔やみ、ノモンハン事件に関して唯一となる師団としての感状を授与し、少将への進級を許可した歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐を自決勧告されたとしたり[360][361]、殆どの連隊長が自決に追い込まれた[362]などと言われることも多いが事実誤認である。
    • 自決勧告の他に下記の表の通り多くの部隊指揮官級を更迭ないし左遷している。ノモンハン事件で唯一免官されたのが野戦重砲第1連隊中隊長の土屋正一大尉であった。この免官は査問も軍法会議もなく唐突に命じられたものであったが、私刑に等しい自決勧告と異なり、内閣の発令で首相が決済し官報にも記載された正当なもので、陸相から首相に対する説明では、「砲と運命を共にするという砲兵精神を欠き、密かに掩蔽部に隠れ、敵の監視が緩んだのに乗じて師団主力の位置まで無断撤退した」というものであった[363]。この他にも、兵士の服に着替えて地下足袋姿で戦場を離脱したと風聞が流れた野戦重砲第7連隊長の鷹司信熙らが[364]、将官や参謀らと同様に予備役に編入させられたり懲罰的な左遷を受けたが、中には歩兵第26連隊長の須見のように、独断撤退をしたわけでもないのに、師団長に意見具申を行ったことを不服従と認定され予備役編入となった者もあった[365]。更迭や左遷の人事異動については、軍司令官や師団長が陸軍中央に異動を上申するという手続きを踏むため、これらの処分については陸軍中央も了承していたことになる。陸軍人事当局の目論見は、進退伺を受理し退任が決定している『敗軍の将』荻洲と小松原に『汚れ役』をやらせて、必要に応じて修正するのが好都合と考えていたので、両名の好きなようにやらせていた[366]

(関東軍の部隊指揮官の処分)

役職 氏名 階級 問われた罪状 処分
野戦重砲第7連隊長 鷹司信熙 大佐 無断撤退 解任、1939年12月1日予備役、華族礼遇廃止
歩兵第26連隊長 須見新一郎 大佐 命令不服従 解任、1939年12月30日予備役
第一独立守備隊歩兵第6大隊 四ツ谷巌 中佐 無断撤退 解任、1939年12月20日予備役
歩兵第64連隊大隊長 赤井豊三郎 中佐 無断撤退 1939年11月15日青森連隊区司令部に左遷
長谷部支隊大隊長 杉谷良夫 中佐 無断撤退 1939年11月15日神戸連隊区司令部に左遷
砲兵第13連隊大隊長 松友秀雄 少佐 無断撤退 謹慎後解任、1939年12月20日予備役
野戦重砲第1連隊中隊長 土屋正一 大尉 無断撤退 1939年12月15日免官、ノモンハン事件に関する処分で唯一軍人の身分を失った。内閣の発令で官報にも記載された。

(自決した部隊指揮官)

役職 氏名 階級 自決の状況
歩兵第72連隊長 酒井美喜雄 大佐 1939年9月15日負傷しチチハル病院入院中に責任を感じ自決、小松原師団長より唯一の部隊感状を授与され戦死扱いで少将に進級
歩兵第64連隊長 山県武光 大佐 1939年8月29日、バルシャガル高地から撤退中にソ連軍に包囲され自決、戦死扱いで少将に進級
野砲第13連隊長 伊勢高秀 大佐 同上
長谷部支隊長 長谷部理叡 大佐 ノロ高地よりの無断撤退を第6軍司令荻洲と第23師団長小松原に責められ1939年9月20日自決
第23師団井置捜索隊長 井置栄一 中佐 フイ高地よりの無断撤退について、師団長の小松原の強い意志で第23師団から自決勧告を受け、1939年9月17日自決
ムーリン重砲連隊長 染谷義雄 中佐 バルシャガル高地でソ連軍に包囲され、1939年8月26日割腹自決

捕虜に対する処置[編集]

日本軍に投降するソ連軍戦車BT-5、白い布を持っている戦車兵A・I・ゲラジモフは捕虜交換で帰国後、懲役10年の刑を受けた

日ソ両軍でもっとも悲惨な運命を辿ったのが、停戦後に捕虜交換で帰国した捕虜であった。 日本ではまだ「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」の一文で有名な「戦陣訓」の示達前であり、捕虜になることに対して陸軍刑法などでの法的裏付けも明文化された規則もなかったが、ノモンハン事件の捕虜に関しては1939年9月30日付の陸満密845号において陸相命で「捕虜すべて犯罪者と見なして捜査して、有罪と認めたる者を之を起訴すべし」という厳しい方針が示された[367]。しかし、一部将校については軍法会議にもかけられず自決勧告がなされた。乗機を撃墜されて捕虜となった飛行第1戦隊長の原田文男少佐はモスクワに連行されて「日ソは協力して南方に進出すべきだ、ソ連はインド・イランへ向かい、日本は英国を駆逐する。」などとソ連側に意見書を提出したりしたが、捕虜交換で日本に帰ると、同じく捕虜となって帰国した飛行第11戦隊の大徳直行中尉と自決勧告を受けた。若い大徳は「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起してもう一度戦いたい。」と抵抗したが、原田が説き伏せて2名とも自決している[368]。捕虜の中には飛行第11戦隊の天野逸平中尉のように、日本に帰国せずソ連空軍に入隊し独ソ戦を戦った可能性のある捕虜もいた[369]

自決勧告がなされなかった将校や下士官兵は第6軍の秘密軍法会議で裁かれた。中山仁志上等兵は、第6軍から「陛下の特別のお言葉でお前らは罰しない。しかし本当のことを言え」と取り調べを受け、陛下のお言葉にも関わらず『重謹慎20日、ただし降等はせず』の判決を受けた。それで20日に渡って新京陸軍病院の分院で毎日軍人勅諭を詠みながら座禅を組まされたという。あまりのつらさに自殺者も出ている[370]。これら軍法会議での罪状はこじつけで『敵前逃亡』とされ、判決も重謹慎2日から懲役2年6カ月まで幅があったが、死刑はなかった[371]

ソ連側の捕虜に対する対応も日本側と変わらず、スターリンは独ソ戦の際に「投降者は家族も反逆者として逮捕する」と指令を出し[372]、ドイツ軍の捕虜となった自分の息子ヤーコフ・ジュガシヴィリを見捨てたぐらい捕虜に厳しく、ソ連軍各部隊も個別に捕虜になることを禁じた訓示を制定しており、ジューコフも同様の指示を出していた[373]。そのため帰国した捕虜らも軍法会議で処罰されており、1939年7月に日本の新聞に掲載されたソ連軍の戦車の投降する写真で、写っていた戦車兵らは帰国すると10年~8年の間ラーゲリに送られている[374]。そのため、ソ連軍側でも日本軍と同様に捕虜になることを恐れて多くの将校や兵士が自決しており、日本軍もその光景を目撃している[375]

情報管理[編集]

ノモンハン事件当時の日本陸軍の情報統制は厳しく、ノモンハン事件の情報についても管理されていた。憲兵隊が新聞などのマスコミ報道や、手紙・電報などの私書について検閲を実施し、それを毎月データー化して関東憲兵隊に報告し、関東憲兵隊はそれを取りまとめて『検閲月報』という極秘資料を作成していた。1938年は年間の総頁は550頁であったが、これがノモンハン事件が始まると1939年には1200頁に倍増した。その後1942年には4900頁まで激増したが、戦局が悪化すると検閲の余力も無くなったのか1944年には1300頁、1945年にはたった130頁にまで減少している[376]

事件当時の新聞などの報道では、日本軍の苦戦や損害に対する記事は検閲される一方で戦果と武勇伝が強調され、新聞紙面上からは日本軍が苦戦している状況は微塵も感じられなかった[377]。私書についても同様で、日本軍が苦戦していることが判る様な表現や、日本軍や兵器の問題点を指摘した記述は削除されていった[378]

しかし、膨大な私書全てを検閲し削除や差し押さえできることは困難で、例えば1939年8月には667,502通の電報と682,309通の郵便に検閲を実施したが、何らかの処置を行った数は電報で1,345通、手紙で793通に過ぎず、それぞれ処置率は電報0.2%、手紙0.11%とごくわずかな数に過ぎなかった[379]。この中でもっとも多かったのが『防諜上要注意通信』で、検閲処置がなされた郵便793通の内の295通がそれに該当し37%の構成率であったが、その中でも、軍の作戦行動や移駐に関するものや、部隊の固有名を記述したものなど、通常の軍事機密に関する検閲が多数を占めた[380]

情報を全て遮断することは困難であったため、ノモンハンは負け戦だったという噂が兵士のみならず一般国民にも広がりつつあった[381]。さらに、多くの参戦者やジャーナリストからの見聞記が多数出版され、中には中隊長であった草葉栄の著作『ノロ高地』のように100万部以上のベストセラーも生まれるに至って、陸軍は部外からの問い合わせに備えるための質疑応答集である「ノモンハン事件質疑応答資料」を作成した。その中に「民間に相当広くデマの流布せられたる現在、何故、詳細なる発表を行わざるや」という想定質問があったのを見ても判る通り、国民の間にかなりノモンハンの敗戦や苦戦の情報が広まっていた[382]

その後、1939年10月3日になって日本陸軍は当時としては異例の自軍の損害の公表に踏み切った。まずは地方官会議で発表され、翌日に各新聞で報道された。その報道では日本軍の死傷者は18,000名とされていた[383]。当時、陸軍は自軍の死傷者を正確に発表することはなかったが、この18,000名という死傷者数は戦後に日ソの多くの資料によりほぼ正確な数字と判明しており、陸軍が敢えて日露戦争旅順攻囲戦なみの衝撃を与える覚悟で正確な損害の公表に踏み切った理由は、このまま負け戦という噂が広まるより、我が方も損害は大きかったが、敵にも大損害を与えた“痛み分け”だったという情報を開示して、国民の士気を引き締めようという計算があったのではと推測されている[384]。更に朝日新聞は「軍当局がノモンハン事件から今後の軍事訓練を改善すべき必要があるとの教訓を学び、十分考察した。軍は最大限機械化部隊で満たす必要がある。」とする自戒と教訓についても述べるという異例ぶりであった[385]

この記事の反響は大きかったようで、師団長の小松原には多くの批判の投書が寄せられている。小松原がその内の『愛児を失った父親』からの投書を自分の日記に引用しているが「ノモンハンの大事件は、国民一般、実に悲痛の思いにて、真相を知り其の責任者(平野で、ソ軍の大部隊の集結を気付かず、陛下の赤子を、多数失いたる実相)の男らしき弁明を、ほめ居候」との記述で、小松原らがソ連軍の総攻撃を事前に察知できなかったことについて認識している。また、小松原が満州から帰京する前日に熱海に一泊したことも知れ渡っており「戦塵を、熱海に悠々洗う、実に馬鹿馬鹿しき悪習慣に・・・戦塵洗いを、止めて下さい(有りもせぬ塵、兵隊さんは一体どうするのですか)」などと強い批判も書かれている[386]

その他にも、苦戦や敗戦を十分に連想できる吉丸、大内、森田の3大佐に東中佐の4名の指揮官級の佐官の戦死も新聞紙面で報道された。その記事では後年硫黄島の戦いで戦死する栗林忠道大佐が、陸士第26期の同期であった4名への追悼の言葉を送っており、陸軍が主導してこの記事が掲載されたことが窺がえる[387]

既にこの時点では、翌1940年2月28日の帝国議会の決算委員会において福田関次郎議員が畑俊六陸軍大臣に「ノモンハンにおいては、色々と総合して見てますと、どうも日本の、軍装備に、欠陥があったのではないか、斯う云う風に見られるのであります」と質問したことでも判る通り[388]、ノモンハンの敗戦や日本軍の問題点についてはかなり広く認識されていた。

ノモンハンの戦いについては、その敗戦を陸軍は国民にひた隠しにしたという主張が目立つが[389]、逆に、情報が広まったことによる後追い的な情報開示とはいえ、当時の日本としてはむしろ意図を持って積極的に情報を開示した戦闘であった。

事件の影響[編集]

欧米、特にナチスドイツは、大軍で攻め込みながら小国フィンランドを相手にてこずった冬戦争で晒けだされたソビエト軍の弱体を見て、ソ連軍の実力を過小評価し、これがのちの対ソ開戦につながった。しかし日本軍首脳部は、ノモンハン事件の痛撃で、ソ連軍の実力を侮りがたいものとして評価した。これが日本の進出すべき方向は、ソ連を仮想敵とする北方にあるとする北進論に否定的な見方を与え、アメリカイギリスとの対決を覚悟して南方に進出すべきとする南進論に力を与え、結果として太平洋戦争へと繋がる。

日ソ中立条約からソ連対日参戦まで[編集]

ノモンハン事件の停戦後、小規模な紛争は引き続き起きたものの、大規模な戦闘は生じなくなった。ノモンハン事件末期の1939年9月に第二次世界大戦が始まっている状況の中で、日ソの外交交渉が行われた。1941年(昭和16年)4月に日ソ中立条約が成立し、相互不可侵と、モンゴル人民共和国及び満州国の領土保全が定められ、一連の日ソ国境紛争は終結。日本とソ連はモンゴル人民共和国満州国を相互に実質的に承認した。

ソ連は独ソ戦に主力を注いだ結果、紛争の発生件数は1940年の151件から、1941年には98件に減り、1942年には58件まで減った[18]第二次世界大戦後期に独ソ戦がソ連有利となり、対日全面戦争を視野に入れたソ連軍が活動を活発化させるまで、こうした安定状態は続いた。満州国境の安定は、独ソ戦が峠を越し、日本の戦況が悪化した1943年秋ごろまで続いた。その後、再び紛争は増加し始め、ソ連の対日参戦が近付いた1944年(昭和19年)後半には五家子事件、虎頭事件、光風島事件、モンゴシリ事件などの小規模な国境紛争が起きた[18]。関東軍の戦力の多くを南方や日本本土に転用してしまっていた日本側は、ソ連を刺激しないよう紛争を回避する方針を採っていたままだった。最終的には日本軍が弱体化した太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月にソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連対日参戦を開始、満州全土がソ連に占領された。

ノモンハン事件の戦略と戦術[編集]

兵力の集中と兵站[編集]

本会戦の帰趨には、兵站問題の格差も大きく影響している。ソ連はノモンハンの戦いに中央が積極的な支持をしており、事件期間中は、優先して兵力と物資の補給を受けることができた[390]。一方で日本軍は、大本営と関東軍の不和の影響として、関東軍が手持ちの兵力と、資材の範囲内で戦うことに拘ったため、元々の国力差以上の兵站問題の格差が生じてしまった[391]

当時、大規模な陸軍兵力の兵站鉄道と船舶輸送を前提とし、鉄道駅と港湾を離れての大兵力の運用は困難とされていたが、戦場が鉄道・港湾と遠く隔たった本会戦の補給はトラック輸送によるしかなかった。関東軍はノモンハンに自動車第1連隊の600台のトラックを投入したが、その後、南満州鉄道からの支援を受け2,000台まで増車し、日量1,500トンの輸送能力を確保した。日本軍のトラックはハイラル区から第23師団の司令部のあった将軍廟まで往復2日間で走破した[392]

ソ連側は戦線の遙か後方にあるザバイカルのソロビヨフスコエ駅までしか鉄道輸送はできず、そこから、更に前線まで700kmに渡る悪路を往復6日かけてトラック輸送する必要があった。従って、条件面ではむしろ日本より不利であり、関東軍は日本が補給戦で有利と考えていた。ソ連の状況も決して楽ではなく、計画通りの輸送量を確保するためには、最低6,000台のトラックが必要であったが、中央の全面的な支援を受けてかき集めたのが3,325輌と計画の60%に止まった[393]。車両不足を補うため、大規模なトラック輸送体制を整備した。過酷な道中で経験の浅い運転手でも迷わないように、ボルジャからノモンハンの間に6箇所の中継基地が設けられた。中継基地では燃料と食事が支給され、運転手は休息することができた[394]。それでも補給路の過酷さゆえに補給日量は日本を少し上回る1,950トン であった[395]

しかし、中央からの物資の輸送はシベリア鉄道が頼りであり、輸送の責任者であったA.V.ノヴォブラネッツは「日本軍がシベリア鉄道のひとつかふたつでも爆撃していれば、モンゴルのソ連軍は燃料・武器・弾薬もなくなっていただろう」と回想している。しかし日本軍は1939年6月27日にタムスクを爆撃した後は、大本営の命令により越境航空攻撃を禁じたので、ソ連は何の妨害を受けることなく大量の物資を前線に送り続けた[396]

ソ連軍は、1939年8月の大攻勢準備として5.5万トンの物資が必要であったが、責任者のソ連前線集団司令官グリゴリー・シュテルンは「はかりしれぬほど困難な仕事だった」としつつも、道中、無灯火で不眠不休で走らせる強行軍で、必要な物資を前線になんとか送り切った。あまりにも過酷な任務であったため、トラック隊の苦情や現地の催促などの不平不満が日本側にも傍受されたほどであった[397]

十分な物資を補給されたソ連軍は、8月攻勢で日本軍第23師団に壊滅的打撃を与えた。ソ連軍司令官のジューコフは回想録で、軍事作戦には兵站と後方整備が決定的な要素であること、充分な資材の裏付けがなければ、軍事作戦は成功しないという用兵思想を当時すでに確立していたことを述べている。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ジューコフはまず作戦資材の準備を最優先課題に設定した。輸送部隊はのちに戦功章を与えられ、その実績を顕彰された。

本来であれば、幹線道路を利用でき、補給基地から前線までの距離が近かった日本軍が圧倒的優位に立てるはずであったが、ソ連の輸送能力を過少に評価し、日本軍自身も相応の輸送能力を持ちながら、日中戦争を戦う中で、対ソ戦線に兵力や物資を集中することを躊躇し、逐次投入の愚を犯したことも、敗因の一つとなった。停戦後に纏められた『ノモンハン事件研究報告』では、ソ連軍の機動力を「ソ連軍の機械化は、鉄道端末より700粁を隔つる広漠不毛の地に於いて、大兵団の連続2箇月に亙る攻防会戦を遂行せしめ・・・以て我が企画遂行を妨害せり」と分析している[398]

日本とソ連砲兵隊の比較[編集]

ソ連軍火砲に勝る射的距離で活躍した八九式十五糎加農砲

日本軍の主要火砲投入数と損失数[399]

兵器名 保有数 損失数(内自己破壊)
八九式十五糎加農砲 6 5(4)
九六式十五糎榴弾砲 16 11(5)
九二式十糎加農砲 16 11(1)
改造三八式野砲 24 34(10)[400]
三八式十二糎榴弾砲 12
九〇式野砲 8 2
合計 82 63(20)
ノモンハン事件で猛威を振るったソ連軍ML-20 152mm榴弾砲

ソ連軍の主要火砲投入数と損失数[401]

兵器名 保有数 損失数
ML-20 152mm榴弾砲 36 6
M-30 122mm榴弾砲 84 26
M1910/30 107mmカノン砲 36 4
F-22 76mm野砲 52 11
M1927 76mm歩兵砲 162[402] 14[403]
合計 370 61

火砲の数はソ連軍が圧倒しており、口径10cm以上の重砲では日本軍50門に対しソ連軍156門で約1対3、10cm以下の軽砲(速射砲・歩兵砲等も含む)では日本軍277門に対しソ連軍546門で約1対2であった[404]

砲の数もさることながら、消費砲弾量の差は日本軍(推計)66,000発に対しソ連軍は430,000発消費しており、比率は1対6.5にもなった。しかしこれはノモンハン事件全期間を通じての消費数であり、日本軍はハルハ河附近での大砲撃戦(7月23日から25日)で20,488発の砲弾を撃ち込んでいるが、8月のソ連・モンゴル軍の総攻撃の際は、砲弾不足による極端な砲弾の節約を迫られ、ソ連軍砲兵部隊に撃たれるがままであったため、その時の日ソの砲弾消費量の比率は1対10以上になっていたものと推定される[405]

砲の性能については、様々な評価はあるものの、川上清康砲兵大尉によれば、「威力性能はソ連火砲に些かも劣らず。とくに十五榴と90野砲は威力を十分発揮した。」とソ連軍火砲との性能差は感じないとしたうえで、九六式十五糎榴弾砲九〇式野砲を高く評価していた[406]。敵のジューコフも「我が方をしのぐ長距離の重砲」と射程の面ではむしろ日本軍重砲の方が上回っていたと評価している[407]

しかし砲の運用についてはソ連軍の方が勝っており、川上は「陣地変換を煩雑に実施する、射撃すると直ちに後退するが如し」とソ連の火砲の巧みな運用について指摘している。一方、ソ連軍のジューコフは逆に日本軍の砲兵について「射撃陣地の変更を好まず、機動性に全く欠いていた[408]。」や「敵砲兵は優秀な測量隊を持ち、航空写真も活用して精度の高い地図を用意した。・・・有利な観測地点と射撃陣地に恵まれていたのに、訓練は不十分で、とりわけ歩兵との連携は稚拙だった[409]。」と辛辣な評価をしていた。訓練が不十分であったことは日本軍自身も自覚しており、特に『虎の子』との評価を受けて内地から増派された野戦重砲第3旅団について「実戦の経験者が皆無に近く、訓練も精致と称するには程遠い実情」と旅団長の畑は考えていた[410]

日本軍の観測隊は九八式直接協同偵察機を飛ばして弾着修正を試みていたが、日本軍砲兵隊は砲撃がそろわずバラバラで、砲弾の多くはソ連軍陣地外の空き地に着弾していたため、それを空から見ていた観測将校が「そんな下手な射撃はやめてしまえ。」と呆れて無線で怒鳴りつけて帰ってしまったこともあった[411]

ノモンハン戦後に大本営研究班の主任として戦訓調査に当たった小沼治夫少佐は日本軍とソ連軍の砲兵を以下のように比較評価している[412]

  • (日本軍の)砲兵将校能力劣る。射向1キロ広がり(砲弾が)集まらぬ中隊あり
  • 敵(ソ連軍)砲兵、予備陣地や掩砲所に隠れる。牽引車にて後へ下がる

上表の各砲の損失数には敵軍に鹵獲されたものも含まれている。日本軍の重砲に自己破壊が多いのは、8月20日からのソ連軍の総攻撃で設置されていたバルシャガル高地(733高地、ソ連名レミーゾフ高地)がソ連軍に包囲されたため、ソ連軍に奪われないよう破壊したものであるが、敵の攻撃下で徹底した破壊が出来なかっため、多くの火砲が大きくは破損していない状態でソ連軍に鹵獲された。(日本軍の主力重砲の八九式十五糎加農砲は戦場に投入した6門の内5門までがソ連軍に鹵獲されている。)[413]、ソ連軍の総攻撃で砲兵陣地間近までソ連軍戦車に迫られた重砲隊は、重砲の零分角射撃(直接照準・水平射撃)でソ連軍戦車隊と戦い、大きな損害を与えたが全滅している[414]

対戦車戦闘[編集]

BT-5
八九式中戦車と喫煙中の戦車兵

速射砲[編集]

日本軍の速射砲陣地攻撃で活躍したBT-7A砲兵戦車

1939年当時のソ連軍は、T-34KV-1のような装甲の厚い戦車を未だ保有せず、高速だが装甲の薄いBT-5(正面装甲厚13mm)やBT-7(同15~20mm)、T-26軽戦車(同15mm)、FAIBA-3BA-6BA-10BA-20(以上、同6~13mm)といった装輪装甲車を多数投入した。それに対する日本軍は対戦車戦闘の主力兵器として九四式37mm速射砲、少数ながら(最大で50門)九七式自動砲九八式20mm高射機関砲も対戦車戦闘に参加、威力を発揮したという。(九八式20mm高射機関砲を装備した部隊がノモンハンに投入されたという日本側の記録は無く、類似した構造の九七式自動砲との誤認の可能性もある。)また装甲の薄い装甲車には九三式十三粍重機関銃も非常に効果的であり、前線で即席で砲架を作ったり、球形小架に装着したりして射撃効率を高めていた[415]

日本軍はこうした対戦車兵器を配置した対戦車防御陣地を構築した。これらの陣地は全周防御を施し、他の拠点と連絡通路で繋がり、互いの火力で連携できるようになっていた。最前線には、火炎瓶を装備した歩兵と対戦車地雷や結束手榴弾を装備した工兵が待ち受ける個人壕が掘られており、つぎに歩兵の数線の塹壕があり、大口径機関銃が配置されている事もあった。そして、陣地の最深部(最前線から150m~200m)に速射砲が設置されてあったが、巧妙に隠匿されており、ソ連軍戦車が300m~400mまで近づいてようやく発見できるかどうかであった。そして各速射砲は3~4個の予備陣地を構築しており、4~5発発射するごとに陣地転換し、ソ連軍からの攻撃を回避していた。各砲はあらかじめ照準調整試射を済ませており、目安となる線や標的を巧みに草や木などで偽装していたため、その標的を基準にした砲撃の精度は極めて高かった[416]

ソ連軍戦車が接近すると、まずは陣地内の速射砲が正確な砲撃を浴びせ、戦車が前線に近づいてくると、歩兵陣地より大口径機関砲による射撃や、火炎瓶や地雷により歩兵が肉弾攻撃を行った。また時には隣接する砲兵陣地より両翼から野砲による支援射撃も加わり、両翼十字放火を浴びるソ連軍戦車が日本軍の射撃陣地を特定することが困難となり損害を重ねた。ソ連軍戦車に歩兵の随伴が無い場合は、日本兵はソ連軍戦車の視察孔や視察装置内に見える戦車兵を小銃で狙撃してきた[417]。日本軍の対戦車主力兵器となった九四式37mm速射砲はソ連側によれば『いかなる我が軍の戦車の装甲を無理なく撃破貫通[418]し『非常に軽量で、発見困難な機動兵器』であり『対戦車戦の優秀な兵器』であることを証明したという評価であった[419]

日本軍は九四式37mm速射砲を陣地に据えつけているだけではなく、7月3日にハルハ川西岸でソ連軍第11戦車旅団を迎え撃った日本軍の速射砲部隊は、トラックの荷台に速射砲1門を載せて、動かないように土嚢で固定し、車上から砲撃してる[420]。林中尉の指揮する速射砲第一中隊及び第二中隊の一小隊は、自動車で移動しながら、ソ連軍戦車と遭遇すると車上砲撃を行い、50両~60両のソ連軍戦車の内41両を撃破したと報告している[421]

日本軍はハルハ河西岸での速射砲部隊の活躍により速射砲の威力を認識したため、全満州から速射砲をかき集めノモンハンに増派することとした[422]。7月22日には関東軍参謀長名で第1師団第7師団の速射砲30門が第23師団に増派され、実戦に投入された速射砲は62門で、さらに事件末期には230門もの速射砲が新設された第6軍所属となりノモンハンに投入されることとなっていた[423]

一方、ソ連軍も速射砲から大損害を被った教訓を活かし、8月に入ってからの大攻勢の際は、戦車は一旦日本軍陣地に距離を置いて停止し、戦車砲で遠距離砲撃を浴びせたり[424]、重砲による支援砲撃を十分に加えた後、歩兵を随伴した戦車で日本軍陣地に突入し、歩兵が白兵戦で速射砲を含む日本軍陣地を殲滅するという、歩甲協同攻撃などの対策を講じている[425]。また、BT-7に76.2 mm KT-28榴弾砲を搭載したBT-7A砲兵戦車が、日本軍の速射砲陣地攻撃に威力を発揮した[426]

火炎瓶・対戦車地雷[編集]

マフラーが機関室内設置されたBT-5戦車、マフラー車外部設置型と比較し火災に強かった

ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦闘が繰り広げられた。ノモンハン戦で大々的に戦場に投入された歩兵用の対戦車兵器として火炎瓶がある。しかし、火炎瓶は日本軍の制式な兵器ではなかった。1937年にスペイン内戦で火炎瓶が猛威を振るったのを見た観戦武官の西村進少佐の報告により日本でも試験が行われたが、試験結果は芳しいものではなく、制式な兵器として採用されることはなかった。しかし、第1師団の河村恭輔師団長など一部の将校がその効果を認め、配下部隊に研究を指示している[427]。ノモンハンで日本軍が火炎瓶を使用するきっかけは諸説あるが、1939年5月28日に岡野一等兵がトラックで移動中にソ連軍戦車に攻撃され、ガソリン缶を敵の方に投げ捨てたところ、戦車がガソリン缶が踏みつけると同時に発火し戦車が炎に包まれた。これでソ連戦車がガソリンで炎上すると知った日本軍は、手軽に手に入るサイダー瓶をかき集め大量の火炎瓶を作成した[428]

火炎瓶で戦車を攻撃する肉薄攻撃班は、火炎瓶2~3本と手榴弾数発を持った2名を1組とし、それぞれ個人壕に籠り、戦車が接近すると火炎瓶の導火線に点火し戦車に向かって投げつけた。戦車はたちまち炎に包まれると30mぐらい走って止まった[429]。炎上した戦車から飛び出した戦車兵は日本軍に射殺されていった。一番効果のあった7月2日~3日までのハルハ川東岸での戦いでの第26連隊の報告では、わずか1時間で10両の戦車を火炎瓶で撃破したとしている[430]。日本国内では国民の士気高揚のために、参戦者やジャーナリストによる、草葉栄中隊長著の『ノロ高地』、樋口紅陽『ノモンハン実戦記』、山中峯太郎『鉄か肉か』などの著作や見聞記で、戦車を肉弾攻撃で撃破する勇戦ぶりがことさら強調された。また戦争画で名高い藤田嗣治のノモンハン事件の戦争画『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』もソ連戦車に日本軍歩兵が白兵攻撃を行っている構図であり[431]日本国内で日本兵が火炎瓶などでソ連軍機甲部隊に立ち向かうという構図が定着することとなった[432]

しかし、日本側の火炎瓶への高い評価と違って、ソ連側はさほど脅威には感じていなかった。ソ連の報告書では「ガソリンを入れて導火線の付いた栓をしたありきたりのワインボトル(実際はラムネ瓶)を集めた『放火隊』が配置についていた。戦車に投擲された瓶は火災を引き起こし、逃げ出す乗員らは射殺されていった。この戦法はあまり効果的ではなかった。7月の作戦で撃破された第11戦車旅団の戦車の中で調査した20両の内、砲撃を受ける前に放火されたのはわずか2両に過ぎなかった。」とされている[433]

火炎瓶と比較して、対戦車地雷は効果的であり、7月の作戦で撃破された第11戦車旅団のBT-5快速戦車25両の内、対戦車地雷で仕留められたのは4両であった。日本軍は対戦車地雷を長い竹竿に装着し肉弾攻撃の武器としても使用している。戦闘工兵が死角から戦車に接近し、長い竹竿を使ってキャタピラの下に地雷を付きだして戦車を停止させると、戦車に飛び乗って車内に手榴弾を投擲して撃破している[434]。しかし、日本軍の主力地雷となった九三式戦車地雷は炸薬量が少なかったので威力不足で、しばしばキャタピラでさえ破壊できないこともあった。特にノモンハンの戦場に多く存在した砂地では威力がさらに減殺され、効果的な使用ができなかった[435]

ソ連軍は、日本軍の対戦車陣地対策として、戦車小隊を、前列3両、後列2両のチェス体形で行動させるようになった。前列の戦車によって暴露された速射砲や肉弾攻撃の日本兵を、後列2両の戦車が殲滅するという戦術であった。特にこの戦術は火炎瓶や対戦車地雷をもって潜んでいた肉弾攻撃兵に大きな効果があり、第二次ノモンハン事件後半の頃には、ほぼ日本軍の肉弾攻撃を無力化していた[436]。また、ハルハ河西岸の戦いでは、炎天下で長距離の連続走行をしたため、戦車の装甲やエンジンが灼熱化しており、火炎瓶の炎が車体全体に延焼し、重篤な損傷を受けることが多かったため、連続走行を控えてエンジンの過熱を防止した[437]。さらに、ノモンハン戦で最も多く投入されたBT-5戦車は、車体後部にむき出しで大型の円筒形マフラーが設置してあったが、これも車体が灼熱化と火災延焼の原因となっていた[438]。ノモンハン開戦直前に第58特別軍団にはBT-5とT-26T-37しか配備されていなかったが[439]、第二次ノモンハン事件のソ連総攻撃時には、そのマフラーを機関室内配置し、車体が灼熱状態になり難い新型のBT-5やBT-7が投入されている[440]

日本側は、7月3日のハルハ河の渡河戦などで、火炎瓶による肉弾攻撃が極めて有効との認識であったのに対し、これらのソ連の対策により戦果が挙がらなくなったため、師団長の小松原は8月22日付の日誌に『敵の優良戦車現出』『サイダー壜を以て肉薄攻撃するも効果なく我軍をして失意せしめたり』と書いている[441]

なお、日本側の書籍では、火炎瓶対策として、ソ連側が戦車の機関室に金網を取り付けたとの記述も見られるが、BT-5戦車は1934年の初期生産型の段階で、既に機関室グリル上に異物混入防止用の金網製カバーが取り付けてあり[442]、ソ連側の資料にも火炎瓶対策で取り付けたとの記述はない[443]。また、より火災に強いディーゼルエンジンの戦車をソ連軍が投入したとも記述されることがあるが、ディーゼルエンジンを搭載したBT-7戦車の発展型BT-7Mが部隊配備されるのは、ノモンハン事件が停戦となった以降の1939年12月以降のことであった[444]

化学戦車の実戦投入[編集]

ソ連軍は化学戦車と称した火炎放射器をT-26に搭載した戦車をノモンハン戦初期の5月から投入していた。火炎放射器は陣地攻撃に絶大な威力を発揮、特に日本軍歩兵は火炎放射されると、恐怖と呼吸困難により陣地を維持することができず次々と放棄していった[445]。ソ連軍は、東捜索隊の殲滅戦で、火炎放射器は日本の頑強な陣地に非常に有効な兵器と認識、8月の大攻勢では37両の化学戦車を戦場に投入し、多い部隊は1日に11回も出撃していた[446]。8月21日のフイ高地攻撃にも多数の化学戦車が投入され、フイ高地の日本軍陣地にはいくつもの火柱が林立していたという[447]。火炎放射戦車は日本軍陣地を炎をまき散らしながら走り回り、対戦車兵器がない歩兵にはなす術がなく、炎を防ぐため壕に伏せるのがやっとであった[448]。しかし、化学戦車は日本軍に目の敵にされ、攻撃の優先目標となったため、ノモンハン事件で合計12両の化学戦車が撃破されている。

ジューコフはこの火炎放射戦車を兵士の督戦にも使用しており、前線から逃げ帰ってきたソ連軍兵士を火炎放射器で大量に焼殺したと報じられている[449]

戦車戦[編集]

7月2日の夜襲で行動不能となりソ連軍に鹵獲された戦車第4連隊の95式軽戦車

ソ連軍が7月以降約500両の戦車・装甲車を投入し続けたのに対して、日本軍は戦車第3連隊(八九式中戦車26両、九七式中戦車4両、九四式軽装甲車11両、九七式軽装甲車4両)と戦車第4連隊(八九式中戦車8両、九五式軽戦車35両、九四式軽装甲車4両)と戦車合計で73両、装甲車を加えても合計92両を投入したに過ぎず[450]、また戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかった。

ソ連軍の戦車砲は、既にスペイン内戦において独伊の軽戦車を相手に大威力を証明していた長砲身45mm砲(20-K 45mm戦車砲)は砲初速が速く(約760m/s)、中~遠距離でも貫通力が高かった。また砲初速が速く弾道が低進するため、中~遠距離の動目標に対して有利であった。それに対して日本軍の戦車砲は1920年代末~1930年代前半に開発されたものか、その小改良型で、中~遠距離での対戦車戦闘をそれほど考慮していない八九式中戦車と九七式中戦車の短砲身57mm戦車砲(九〇式五糎七戦車砲・九七式五糎七戦車砲)は砲初速が遅く(約350m/s)山なり弾道となり、中~遠距離の動目標に対して不利であった[451]。九五式軽戦車の37mm戦車砲(九四式三十七粍戦車砲)は短砲身57mm戦車砲より砲初速は速い(約575m/s)ものの、ソ連の長砲身45mm砲よりは遅かった。これらの砲初速の差は貫通力の差の要因にもなった。

総合的に日本軍の戦車砲・対戦車砲は、ソ連軍の戦車砲・対戦車砲の長砲身45mm砲と比べて、砲初速、徹甲弾の強度や貫通力(日本側は希少金属の制約により弾頭の金質が劣っていたことや、徹甲弾 (AP) でなく弾頭内に炸薬を充填した徹甲榴弾 (AP-HE) を主用したことも一因であった)[452][453]の点では劣っていた。そのため中~遠距離では命中角が悪いと命中しても貫通せず跳弾する事例もあった[454][455]。また歩兵直協を旨とする日本戦車に搭載された徹甲弾の数は少なかった。

しかし、ソ連軍のBT戦車やT-26戦車の装甲は比較的薄く、貫通力が劣る日本の戦車砲でも、500m前後の中距離なら十分に貫通できた。さらに中国大陸での運用を踏まえた経験の蓄積により、射撃の腕では躍進射撃などの訓練をつんだ日本側の方が圧倒的に優れていた[456]。また、榴弾による射撃でBTやT-26の機関部付近を狙撃、ガソリンタンクに引火させ撃破する戦法も多く用いられた[457]。また、相互に連携しあって戦闘を行う日本軍戦車に対し、ノモンハン戦初期のソ連軍戦車は数は多いが行動はバラバラで連携が取れておらず、日本軍戦車の集中射撃に各個撃破されていた。一部には戦車や装甲車を乗り捨てて逃げるソ連兵もいたほどであった[458]

かつては『戦車の戦闘性能はソ連軍のそれに比べ劣っていた。日本軍の八九式中戦車の装甲板17mmはソ連軍の戦車砲で簡単に破壊されたが、八九式中戦車の短砲身57mm砲はソ連戦車の装甲を破壊できなかった[459]。』や『ノモンハンでの日本戦車の射撃は実に正確だったそうだが、実際は相手に命中しても炭団を投げつけたように貫通せず、タマは敵戦車に当たってはコロコロと転がった。ところがBT戦車を操縦するモンゴル人の大砲は、命中することにブリキのような八九式戦車を串刺しにして、殆ど全滅させた[460]。』などどの著名歴史作家などの著作の記述により、一方的に日本軍戦車隊が殲滅されたとの認識が一般的に広まったが、それは事実誤認であった[461]。主砲については前述の通り、ソ連軍戦車装甲を貫通していたし、装甲厚にしても、ノモンハンの戦場で最も厚い装甲をもっていたのは、日本軍の4両の九七式中戦車(最大装甲厚25mm)であった。また軽装甲しか持たないソ連の装輪装甲車は脆弱で、しかもタイプによっては操縦手の膝上や後上部にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中射撃や九二式車載十三粍機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。

日ソの戦車戦が戦われたのは7月2日から6日までのハルハ河付近の戦いであった。ここで日本軍が投入した戦車・装甲車は戦車第3連隊と戦車第4連隊の2個連隊92両に対してソ連・モンゴル軍は452両と5倍の数であった[462]。戦車第3連隊と第4連隊の戦車は、数を増すソ連軍戦車と7日まで激戦を繰り返し、多数の戦車・装甲車を撃破した[463]。しかし、損害も大きく、7月3日~4日の戦闘に日本側は73両の戦車(九七式中戦車4両、八九式中戦車34両、九五式軽戦車35両)を投入したが、41輌が撃破もしくは損傷した。特に7月3日の第3連隊が行ったソ連軍防衛線への正面攻撃では、部隊戦車の71%が撃破されるか損傷を負うという大損害を被っている[464]。しかしながら日本軍の中戦車は炎上しにくいディーゼルエンジンを搭載しており、撃破されても容易に炎上しなかったため、多くが回収され修理された。結局、7月3日~4日で撃破された日本軍戦車41輌のうち完全損失となったのは13輌のみであり、残りは前線ないし後方基地で修理され実戦復帰している。壊滅した戦車第3連隊も一週間後には撃破された戦車のうち75%が修理を受け部隊復帰している。この点は、速射砲弾の貫通や火炎瓶により容易く炎上し全損となるソ連軍戦車に対する日本軍戦車の優位点となった[465]。 それでも、連日の激戦で修理も補充も間に合わず、1939年7月7日時点で九七式中戦車1、八九式中戦車乙14、八九式中戦車甲4、九五式軽戦車11の合計30輌の戦車と7輌の装甲車を失った[466]。損害の大きさに驚いた関東軍司令部は7日をもって、両連隊のこれ以上の消耗を恐れ引き揚げ命令を下し、日本軍はこの後、戦車なしで戦うこととなった[467]。しかし、両戦車連隊の多くの将兵にとっては「戦い半ばにして命令によりやむなく後退」という気持ちが強かったという[468]

日本軍戦車隊が戦場で決定的な成果を挙げることができなかったのは、ソ連軍戦車との性能と数の差もあったが、戦車と他兵科との連携が十分でなく、十分な支援が得られなかった上に戦果が拡大できなかったことが原因の一つであった。ハルハ河渡河戦を戦った安岡正臣中将率いる独立混成第1旅団(安岡支隊)の編成に問題があり、歩兵には十分な自動車がなく、戦車隊の進撃についていくことができなかった[469]。その編成を戦車第4連隊の玉田美郎連隊長は「戦車と神代生まれながらの二本脚で敵弾に裸の歩兵と中世的な輓馬砲兵を組み合わせた三人四脚の戦場速成の行き当りばったりの兵団」と揶揄している[470]

兵科別ソ連軍戦車撃破割合[編集]

日本軍兵科(攻撃手段) 撃破割合
速射砲 75%~80%
野砲 15%~20%
歩兵(火炎瓶) 5%~10%
航空機 2~3%
工兵(地雷・手榴弾) 2~3%

日本軍の対戦車戦闘の主力となったのは速射砲と野砲の火砲であり、割合で見ると90%~95%のソ連軍装甲車両は日本軍の火砲により撃破されている。日本軍の主力対戦車兵器となった九四式37mm速射砲は、最長1,000mでもソ連軍戦車の装甲を貫通することができた[471]。速射砲が命中すると、戦車はほぼ全て炎上し、あたかも木造家屋のようによく燃えた。それで15分後には弾薬の誘爆が始まり、爆発後の戦車は回収しても屑鉄以外の使いみちがなかった[472]

ノモンハン戦で強い印象を残した火炎瓶攻撃は、印象に対してその成果は大きいものではなく、5%~10%の装甲車両を撃破したに過ぎない。しかし、うまく戦車を火に包むことができれば、修復不可能な程の損傷を与えることは十分可能であった[473]

ソ連軍は各戦車中隊ごとに戦車の修理を監督する技術担当士官を配置し、技術士官には修理対象の損傷戦車を牽引するトラクターと、技術士官自身が搭乗するための戦車があてがわれたが、その戦車やトラクターが日本軍速射砲の餌食となることも多かった。日本軍は撃破や擱座させた戦車をソ連軍が回収・修理できないように火炎瓶などで全焼させた。一方のソ連軍も全焼し修復の目途の立たない戦車は穴を掘って埋めていた。埋めた理由というのは、日本軍は撃破された戦車に狙撃兵を忍ばせ、回収するために近づいてきた技術士官やソ連将校を狙撃したり、時には速射砲や機関砲を備え付けた即席陣地とし、防御の拠点にすることも多く、日本軍に再利用させないためであった[474]

ソ連軍で最も損害の大きかった部隊は第11戦車旅団であった。緒戦よりBT-5で戦闘に参加し大きな損害を出し、7月23日~8月28日の間にBT-7を155輌供給されていた。8月20日にはBT-5やBT-7など154輌で戦闘に参加、しかし続発する損害や故障に修理や補給が追いつかず、30日には稼働38輌・死傷者349名と、再び壊滅状態に陥っている。

戦後、ノモンハン従軍の元日本兵に日本のTV局が番組取材で収録した記録によると、ソ連戦車には乗員ハッチ外側から南京錠による施錠がなされていたとの証言がある。逃亡を防ぐ目的及び督戦のための処置ではないかとの証言であった。ハッチが外側から施錠されているため戦車が撃破された場合乗員は脱出できず、脱出していれば助かったであろう命が失われたことになる。

両軍が得た軍事的教訓[編集]

日本軍[編集]

ノモンハン停戦後に日本軍は、得られた教訓を今後に活かすべく、現地調査も含めて研究・討議し以下の報告書を作成している[475]

  • 『ノモンハン事件に関する観察』村上啓作中将 1939年9月27日 
    • 砲兵の自衛力強化、戦車の強化(戦車砲の初速と装甲増大)航空隊の強化、歩兵の対戦車能力の強化の提言
  • 『作戦用兵上より見たる「ノモンハン事件の教訓」』 関東軍参謀島貫武治少佐 1939年9月30日 
    • ソ連軍が自動車を21,000輌もつぎ込んできたため、機動力で日本軍が圧倒的に劣っていたことの指摘、航空部隊が事件後半は劣勢だった理由の考察
  • 『参謀長会同席上に於ける第5課長口演要旨』(唯物主義ソ軍の観察に就いて)参謀本部 第2部第5課(露西亜課)1939年10月10日 
    • ソ連の厖大な戦力補充能力、大量の自動車で克服した兵站問題、対敵能力、優秀なる火力、欠陥を補正するのが極めて機敏と分析、同時に物資偏重の必然的結果としてソ連軍は日本軍と比較し精神面で弱いとの指摘。ただしノモンハン事件は『特殊な情況と地形で行われた作戦』であり『ソ連軍の長所を過大に短所を過少に判断する』ことがないよう注意すべしとしている。
  • 『ノモンハン事件に関する若干の考察』参謀本部作戦課長稲田正純大佐 1939年10月17日 
  • 『ノモンハン事件に関する所見』関東軍参謀 寺田雅雄大佐 1939年10月13日 
    • 参謀本部と関東軍の非難の応酬、互いに統帥を乱したと非難しあった。特に関東軍は第6軍は負けたのでなく、参謀本部が第6軍の攻勢を中止したのが敗戦思想と非難
  • 『戦場心理調査報告、戦場心理調査に基づく所見』浦邊少佐、高木嘱託、梅津嘱託
    • ノモンハンでの兵士の心理についての考察、どういうときに集団行動が崩壊するかや、恐怖心の発生分布等が説かれる
  • 『ノモンハン事件研究報告』大本営陸軍部ノモンハン事件研究委員会第一研究委員会 1940年1月10日

この中の『ノモンハン事件研究報告』は参謀本部主導で作成されたもので、小池龍二大佐が委員長、主査小沼治夫少佐の、第1委員会(戦略戦術・編成・資材・通信・経理衛生・ソ連事情等)22名、第2委員会(軍事情報)10名で編成された『ノモンハン事件研究委員会』により作成され、完成したものは陸軍三長官に提出された[476]。作成にあたっては、現地で関係者から徹底した事情聴取を行うなど、大掛かりな調査が行われたが[477]、委員長の小池は1939年9月に北支の前線から参謀本部に転属したばかりで、ノモンハンの事情は殆ど知らなかった上に、大きな権限は与えられておらず、軍司令官や師団長などより直接事情聴取を行う明確な権限はなく、現地の関東軍の幕僚らは「何も知らないのがやってきた。」とその能力に懐疑的であった[478]

しかし、委員らの熱心な調査・研究により、指摘はかなり踏み込んだ的確なものとなった。要約すると『最大の教訓は国軍伝統の精神威力を益々拡充すると共に、低水準にある我が火力戦能力を速やかに向上する必要あり』『火力戦能力向上については、その要を強調して既に久しくなるが、遂に所望の水準に達さず、今回の事件に逢着することとなった』『そうなった原因は、我軍は欧州大戦(第一次世界大戦)を経験しなかったため、文献等により習得した認識に過ぎなかった』『今事件を契機に、火力戦に対する正当な認識を持ち、編成・装備・補給・教育・運用・技術各部門の飛躍的進展を促進させなければならない。』と的を射たものであったが[479]、工業力水準の問題もあり、日本軍をソ連並みの火力に持っていくのは最初から困難であるという認識が、ノモンハン事件研究委員会調査開始前の1939年10月4日の陸軍省内の秘密会議の席で既に話し合われていた。「ノモンハン事件の後始末については、12月中旬頃迄には、将来の策の決着をつけたいと思っている。装備については形をソ連に似せるが、その能力はその8割と思わねばならぬ、戦力比は10対8なり。残りの2割は精神力で補う外なきも、これはなかなか困難である。」と結論付けているように[480]、落としどころは最初から決まっていたも同然で、火力が短期間に向上するあてはないので、当面は日本兵の敢闘精神に頼った、夜間の急襲戦法と白兵戦能力により対抗するしかないとされた[481]

この報告書は4つの省部内の金庫に死蔵され、報告書の目的であった『国軍兵備改善進歩に資す』にはあまり活用されることはなかったが、それでも研究に兵站や技術などの実務将校が関係したため、一部でノモンハン事件の教訓を活かした装備改善が図られた[482]。特に教訓を活かしたのが陸軍航空本部とされる[483]

  • ノモンハン戦の戦訓は、日本陸軍の航空機・装備開発や運用面では大きな影響を与えた。防弾装備(防弾鋼板、防漏燃料タンク、風防防弾ガラス)の研究・装備、無線装備(無線電話)の質向上と効果的利用、単機空戦から編隊空戦への移行・強化、飛行戦隊(独立飛行中隊)と飛行場大隊(飛行場中隊)の空地分離など、陸軍航空の更なる近代化を重視する考えが内部に生まれた。また、将来は陸軍航空隊の中核幹部となる若手将校・下士官らベテラン・パイロットを多数失ったことは、陸軍戦闘機隊の崩壊さえ招きかねない事態と危惧され、下士官からの叩き上げパイロットへの陸軍航空士官学校における部隊指揮官教育を経ての将校登用(少尉候補者制度)を積極的に進め、さらに少年飛行兵の募集を強化するなど、海軍に先駆けて航空戦力の拡充を図る端緒となった。
  • 九七戦がソ連軍機に対してその旋回性能が最後まで強力な切り札だったことから、陸軍航空隊では格闘戦重視の軽戦闘機が主流となったが、一方で高速重武装(重戦闘機)へと発展を遂げている世界情勢もノモンハンでの戦訓と相まり強く認識され、太平洋戦争開戦に至るまで卓上では最後まで結論は出なかった。そのため運動性重視の軽戦一式戦「隼」と、速度と武装重視の重戦二式単戦「鍾馗」の二つの単座戦闘機がほぼ同時期に採用・実用化され、のちにバランスの取れた四式戦「疾風」へと進化した。

一方で、火力については資源や予算配分の問題から大きな進展のないまま太平洋戦争に突入することとなった[484]

  • ノモンハン事件以前より日本側の戦車や対戦車砲の対戦車性能の不足はある程度認識されており、試製九七式四十七粍砲やBT戦車と同級の47mm戦車砲を搭載した試製九八式中戦車などの開発が行われていた。ノモンハン事件の発生を受け、事件直後の1939年9月には試製九七式四十七粍砲を発展させた一式機動四十七粍砲の開発が開始され、また1940年9月に試製九八式中戦車の試製47mm戦車砲を九七式中戦車に搭載する試験(後の一式四十七粍戦車砲を搭載した新砲塔チハの基となった)が行われるなど、戦車や対戦車砲の対戦車性能を向上させる試みが行われた。だがこれら新装備の開発や配備は進まず、一式機動四十七粍速射砲や新砲塔チハの配備が行われたのは数年後の1942年になってからであり、戦車や対戦車砲の対戦車性能を改善する教訓は十分に生かされたとは言えなかった。太平洋戦争後半においては、新型戦車や新型対戦車砲の生産も投入も間に合わず、結果として第二次世界大戦末期に至るまで旧式な装備の使用を続ける事となり、連合軍の戦車・対戦車装備との陸上戦で苦戦する一因となった。

ソ連軍[編集]

勝利したソ連軍にも大きな課題がいくつも判明している。 ジューコフ率いる第一軍集団の上部機関として極東のソ連・モンゴル軍を統括した、ソ連前線集団司令官グリゴリー・シュテルンはノモンハンの勝利を『ソ連の8個師団に対し、日本は不完全な2個師団に過ぎなかった。言うなれば4対1であった。戦車・大砲においても我々は優越していた。ただ損失数においても我々は優越していた。死傷者数は膨大であり、ベッドは不足していた。我々が世界に吹聴した勝利は、あまりに犠牲の大きい勝利で世界に勝利を喧伝する必要はなかった。ノモンハン事件は間近に迫っていた軍事的災難の序章であった。我々に戦争の準備ができていなかったことは確実であった。』と後年考えた通り、停戦後に、参謀本部に戦闘経験を調査し、作戦の誤りや、軍の戦争準備の遅れ等の問題点を洗いなおすよう指示をしている[485]

調査委員会は、前線で指揮官から一般兵士に至るまでの聞き取りを開始したが、ジューコフはこの調査に非協力的であり、ヒアリングに一回応じただけで、その後は調査委員に会おうともしなかった[486]

それでも調査報告書はできあがりシュルテンに提出された。シュルテンはこの報告書を最高司令部に報告したのち、貴重な教訓として各部隊に配布するつもりでいたが、この報告書が提出された際の参謀本部の本部長は栄転していたジューコフであった。この頃既に、自画自賛に溢れたノモンハン事件の回想録を出版していたジューコフは、報告書の出版許可を申し出た参謀本部の東部作戦部長のシェフチェンコ大佐を罵り、報告書はそのまま死蔵された。その後、シュルテンは新任の国防人民委員部防空局長での任務上の責任を問われ大粛清の対象とされ、1941年10月28日に銃殺刑に処されたため[487]、死蔵された報告書が日の目を見ることはなかった。従ってその詳細な内容は今日でも不明である[488]

GRUの元情報部長でノモンハン事件では後方支援部隊の隊長をしていたV・A・ノヴォプラネッツが指摘したソ連軍の問題点は以下の通りである[489]

  • 我々が日本軍に勝利したのは、兵力や兵器の数について圧倒的に優勢だっただけで、決して戦闘能力が優れていたわけではないが、「(日本軍なんて)ひとひねりだ」と思い上がったため、大きな損失が生じることとなった。
  • 各部隊の間にはなんら協同行動もなく、それぞれの兵科が個々バラバラに行動していた。
  • 通信については、無線が全車両や全部隊に配備されていなかったので、ソ連軍の司令部はナポレオン時代さながらに各部隊の連絡は連絡将校に任されており、司令部は各部隊からの連絡将校でごった返していた。兵士らはこの状況を揶揄してジューコフを『ジューコフ・ボナパルト』とあだ名を付けていた。

結局ソ連軍においても、ノモンハンでの苦い経験は活かされることなく、ソ連軍は1939年のソ連・フィンランド戦争でフィンランドで痛撃を浴びることとなった。さらに、ノモンハンで有効であった機甲部隊運用方式を廃し、既存の7個機甲軍団を分解し各歩兵師団に戦車大隊で配属し、一部を戦車旅団として独立的に運用する組織改編を行ったが、これはノモンハンの戦訓に逆行することとなった[490]。そのため、第二次世界大戦が始まると、独ソ戦初期でソ連軍は大敗北を喫することとなった[491]。 奇しくも、日ソ両国ともノモンハンの戦訓については十分に検証することもなく、その後に活かすことできなかったこととなる。

スターリンは冬戦争の後に『ノモンハン事件のエピソードはちっぽけな限定されたものに過ぎない』と述べたが、これは日本軍の武藤章軍務局長の『ノモンハンのようなつまらぬ事件の戦訓にいったい何の価値があるのか?』[492]の意見と同様に、互いに教訓が多かったノモンハン事件を大したことはなかったように矮小化しようとする意思に他ならなかった。

両軍の損失[編集]

日本軍の損失[編集]

ソビエトの捕虜となった日本兵

ノモンハン事件の戦闘経過についての日本語文献は、主として日本側の資料に頼って書かれている。他の西側諸国の研究も同じである。当時の日ソ両国が公表した情報は信用されていなかったが、研究者間では、日本軍惨敗という見方が有力であった[493]。この見方は戦後日本軍が受けた甚大な損害が明らかになって広く定着した。

事件後に第6軍軍医部が作成した損害調査表によれば、日本軍は出動した58,925人[494]のうち損失は次のようになっている。

  • 戦死:7,720人[494](うち軍属24人)
  • 戦傷:8,664人[494](うち軍属17人)
  • 戦(平)病:2,363人(うち軍属13人)
    • 合計:18,979人。(これは戦傷病から戦死に振り替える調整が終わっていない数値である。また同データにつき、17,405名[495]とする見解や、戦死及び不明8,717名、戦傷8,647名、戦病2,350名、合計19,714名[496]、19,768人とする見解もある[494]。)
  • 重砲:全門喪失
  • 戦車損失:約30両(29台とする見解もある[495]
  • 航空機損失:180機(ほか、未帰還77機、大破102の計179機とする見解もある[495]

日本軍の動員兵力は満軍騎兵とあわせて7万6千人だったが、その約半数は停戦間際の到着であった[497]。人員面では判明参加兵力の32.2%が失われ、特に第23師団は79.0%の損失であった。コロミーエツによれば、日本軍1万8千人の損害に満州国軍の損害は含まれていない[497]

  • 1939年11月15日のソ連第1軍集団参謀部が労農赤軍参謀総長シャポーシニコフに提出した「1939年ハルハ河地区作戦に関する報告書」によれば、7月と8月の戦闘だけで、日本軍の死傷者数は、4万4,768名(戦死者1万8,868名、負傷者2万5,900名)に達した[496]
  • 1946年のシーシキン大佐の本[498]では、日満軍の損失の総計は5万2,000から5万5,000、そのうち、死者だけで2万5,000人と記述した[496]
  • 1993年のクリヴォーシェフ監修本でも日本の戦死者数は約2万5,000人とした[496]。他方、ソ連軍中央国家文書館 (ЦГАСА) の文書によれば、戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281体であった[496]
  • また、ロシア国防省公史料館蔵資料によれば、日本満州軍の戦死者:1,8155名、負傷者・行方不明:30,534名で、合計48,649人であった[499]

ソ連軍の損失[編集]

人的損失[編集]

ソ連は従来、イデオロギー的な宣伝のためもあって、日本側の死傷者推定を大きく膨らませる一方で、自軍の人的損害を故意に小さく見せようとしてきた[500]。冷戦下で、ジューコフの報告や、ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編集した『大祖国戦争史(1941~1945)』といった、ソ連側のプロパガンダによる過小な損害数のデーターが広く知れ渡り、ソ連側の一方的勝利が定説化する大きな要因ともなった[501]。 その定説が大きく覆されるきっかけとなったのが、ソ連の共産主義独裁体制が崩壊した1990年前後であり、グラスノスチにより次々とソ連軍のかつての極秘資料が公開されるたびに、ソ連軍の人的損害が激増していき、ついには日本軍の損害をも大きく超えていたことが判明し[502]、ソ連が情報を意図的に操作していたことが明らかになっていった[503]

ソ連・モンゴル公表人的損失数の推移表[504]

出典 日付 死亡・行方不明 捕虜 戦傷・戦病 総計
ソ連軍
タス通信[505] 1939年10月 300~400名 900名 1,200名~1,300名
ジューコフ報告書 1939年11月 1,701名 7,583名 9,284名
極東国際軍事裁判判決文 1948年11月 9,000名
大祖国戦争史(1941~1945)[506] 1960年 9,284名
ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告[496] 1991年8月 4,104名 94名 14,619名 18,815名
戦争、軍事行動及び軍事紛争におけるソ連軍の損害[507] 1993年 7,974名 15,251名 23,926名
20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析[499][508] 2001年 9,703名 15,952名 25,655名
モンゴル軍
ロシア国防省戦史研究所のワルターノフ大佐の報告[496] 1991年8月 165名 401名 566名
モンゴル戦史研究所 2001年 280名 710名 990名

2016年時点で最新のソ連軍・モンゴル軍の人的被害は下記の通りになる。

  • ソ連軍戦死:9,703人[499]
  • 戦傷・戦病:約15,952名[499](約16,000名とする見解もある)
    • ソ連軍合計:約25,655名[499][509](コロミーエツは約26,000名としている[497]。)
  • モンゴル軍死傷者990名[499]
    • ソ連軍・モンゴル軍合計:26,645人[499]

ソ連軍の損失率はノモンハン事件の全期間を通じて高い水準で推移し、投入兵力に対するソ連軍の損失率は34.6%の高い水準に達した。ノモンハン事件でのソ連軍の損失率は、後の第二次世界大戦で東部戦線最大の激戦となったクルスクの戦いでドイツ軍優勢でソ連軍の損失が大きかった南部戦区の損失率13.8%を大きく上回る損失率となっている[510]

日本軍は事件直後には、ソ連軍の損害を比較的正確に把握していた。停戦後1939年10月17日に参謀本部作戦課長稲田正純大佐らが纏めた報告書『ノモンハン事件に関する若干の考察』にて、「(ソ連軍)人員ノ死傷ハ恐ラク弐萬に及ビ」とソ連軍の死傷者は20,000名前後だと捉えていた[511]

事件当時、あまりにも莫大に発生したソ連軍の戦傷者を寝かせるベッドが全く足らず、ノモンハンに近いソ連の都市チタは負傷者で病院は満杯となり、溢れた負傷者はイルクーツクや西シベリアの各都市に送られ、さらにはソ連の欧州部であるクリミア半島コーカサスにも送られている[512]。その様子をソ連の駐在武官補佐の美山要蔵中佐が目撃しており「ソ連軍も相當な損害を得まして、シベリア極東方面の病院には概ね九千余名を収容しております。尚モスコウ(モスクワ)方面には医者を要求しているし、駅の待避線に入っている病院列車を見ます。」と報告している[513]

装甲車両損失[編集]

撃破されたソ連軍装甲車BA-10M
兵器名 損失数 備考
BT-7 59 通常型30・無線機搭載型27・火力支援型2
BT-5 157 通常型127・無線機搭載型30
T-26 20 通常型8・kHT-26化学戦型10・kHT130化学戦型2
T-37 17
BA-3 8
BA-6 44
BA-10 41
FAI装甲車 21
BA-20 19
T-20 9
SU-12 2
合計 397

これ以外にも多数の戦車・装甲車両が撃破され修理されたが、数が膨大で特定は困難である[497]。また、ソ連軍の装甲車両の損害は800両以上とする見解もある[495]

航空機損失[編集]

約350機(1673機とする説もあり、それによれば航空戦のほか日本軍による高射砲攻撃で180機、戦車で26機、歩兵攻撃で3機が撃墜された[495]

これらのソ連崩壊以降の統計によれば、ソ連軍も大損害を受けており、ノモンハン戦が一方的な結果だったという見方は改められた。戦闘の経過を見ると、7月までは一進一退の攻防となり、8月のソ連による大攻勢では日本軍は一方的な劣勢に陥った。ただし、9月のハンダガヤ方面における戦闘では、陸戦、航空戦ともに日本軍が優勢であった。

日本では辻政信らがノモンハン戦で日本は負けていなかったと主張していた。本当は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったとするものである。

他方、ソ連でもピョートル・グリゴレンコの回想によれば、ソ連軍作戦参謀が「もし日本がドイツ側について参戦したならば、われわれは終わりだった」と語っている[514] [515]

第二次世界大戦後の動向[編集]

研究[編集]

1980年代末期より、消滅した満洲国を除く日本、モンゴル、ソ連の3当事者の学者たちによる共同の働きかけにより、この軍事衝突を研究する国際学会が1989年にモンゴルの首都ウランバートルモスクワで、1992年に日本の東京で開催された。東京の学会は「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム」と名づけられ、席上、ロシア軍のワルターノフ大佐は、従来非公開だったソ連・モンゴル軍全体の損害(死傷者及び行方不明者)について、日本軍よりも多くの損害を出していたことを明らかにした[516][517]2009年9月、軍事史学会偕行社近現代史研究会が主催し、シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」が開催された[518]

勝敗の評価・歴史認識[編集]

ソ連が崩壊する前は、ソ連側の情報はソ連に情報操作された出典に頼らざるを得ず、1963年に邦訳が刊行されたソ連軍の公式戦史でのソ連軍の人的損害が9,824名と過少に記述されていたり、日本軍の損失が55,000名と過大に記述されていたため[519]、ノモンハン戦は日本軍が約2倍~5倍の損害を被った惨敗であったという評価が定着することとなった[520]

ソ連寄り恣意的な情報が頼りになったため、ノモンハンでの日本軍に対する評価は辛辣になることが多く、例えば、戦時中に学徒動員により予備士官として戦車第1連隊に配属された経験を持つ作家司馬遼太郎は、ノモンハン事件について小説を書こうと調査していく中で[521]、『もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた八九式戦車団が、雲霞のようなソ連のBT戦車団に戦いを挑んだのである[522]。』や『八九式中戦車が役に立たないと認識した日本軍は慌てて九七式中戦車の生産を開始したが、日本軍は貧乏性なのでうんと砲身が短い57mm砲を搭載させた[523]。』などと考え、その結果、日本はノモンハンで大敗北したのに、2年後に太平洋戦争を始めるほど愚かな国であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小説は書けなくなったなどと、知人の作家半藤一利に後日語っているが[524]、そもそも司馬の知識は、日本軍戦車のノモンハン参戦時期や、九七式中戦車の開発経緯・生産開始時期など根本的に間違っている上に、日本軍歩兵が一方的な殺戮されたいうのも、ソ連による不正確な情報に基づく事実誤認であった。しかし、当時の高校の歴史教科書も『間東軍は満州国とモンゴル人民共和国との国境のノモンハンで、ソ連、モンゴル軍と衝突し、機械化部隊に圧倒されて慘敗し[525]』との記述であったなど、ソ連の情報公開前のノモンハン事件に対する多くの日本国民の印象は、司馬と大きくは変わらないものであった。

1990年代以降、ソ連の崩壊に伴いソ連軍の損害が明らかになると、ソ連軍の損害を少なく隠蔽していたことが明るみになった[526]。またロシア側により発見された史料による「日本側の被害」は日本側が公表している数値よりもはるかに多い人数をあげており、互いに相手に与えた損害を過大に見積もっている[527]。日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解が学術的には一般となっている[528]秦郁彦も「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かった」として、ほか「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう。それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっています」と指摘している[529]

前線の日本軍将兵の戦いぶりが非常に勇敢であったことは、ソ連側の損害が明らかになる以前から知られており、ジューコフも前線の日本軍将兵の優秀さを認めており、ミシガン大学のロジャー・ハケット教授との会談の中で、「貴方の軍人としての長い生涯の中で、どの戦いが最も苦しかったか」という質問に対し、即座に「ハルビン・ゴールの戦い(ソ連側におけるノモンハン事件の呼称)だ。」と答えている。しかし、戦争の勝敗は損害の量の多寡によって決まるわけではない。特にノモンハン事件に限らず、のちの冬戦争・継続戦争大祖国戦争独ソ戦)でも圧倒的な人員・兵器・物資を投入し、結果として勝利のためには大損害を厭わないソ連を相手とする戦いでは損害の大きさは意味を成さないとされる。

また、ソ連側は二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計画性を持って対応したのに対して、日本側は政府が全く関与していなかったばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜けず自重するように指導したため、関東軍という出先軍の、辻政信服部卓四郎など一部の参謀の独断専行による対応に終始した。 福井雄三は著書で「10倍近い敵に大被害を与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利とも言えるが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉の失敗のため戦略的には敗北した」と結論付けている[530]。モンゴルでは日本軍の戦死者は5万と伝えられている。 元ソ連参謀本部故ヴァシリイ・ノヴォブラネツ (Василий Новобранец) 大佐の手記では、『ノモンハンで勝ったのは、兵力と武器類の面で優位に立っていたからであり、戦闘能力で勝利したのではない』と書いている。

半藤一利は2000年に「勝ち負けをいいますと、これは国境紛争で、停戦のとき、向こうの言い分通りに国境を直してますから、負けですね。しかし、戦闘そのものは互角だった」と述べ[531]、また2004年の著作では最新鋭の装備であったソ連軍に対して日本軍は白兵攻撃であったわけで、「日本軍が勝ったとまではいえない」と述べている[532]

須見新一郎は戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ。」 「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた荻洲立兵中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね。」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね。」[533]

ロシアの歴史認識[編集]

このような勝敗認識については、単なる史実研究を超え現代における国家の名誉に関わりかねない神経質な論点を含んでいる。こういった「歴史の見直し」の動きに対してソビエト崩壊後は比較的容認の態度にあったが、再び「強いロシア」を標榜するようになったロシアは神経を尖らせており「正義の戦いに勝利した解放者=ソ連」という従来の歴史認識を堅持しようとしている[534]との批評がある。2009年8月6日、ウランバートルで開かれた「ノモンハン事件70周年」の記念行事に出席したメドベージェフ大統領は「この勝利の本質を変えるような捏造は容認しない」と演説した[535]

日本側戦死者の遺骨収集[編集]

日本側戦死者約8,000人のうち、約4,500人の遺体は日本軍が収容したが、約3,500人の遺骨が第二次世界大戦後も中国・モンゴル国境付近に残存しているとされる[536]。日本政府は遺骨の収集を要望していたが、2003年11月21日、モンゴルのナンバリーン・エンフバヤル首相は、日本の小泉純一郎首相との会談にて、これを容認する考えを示した[537]

ノモンハン事件を描いた作品[編集]

映画
小説
紀行
漫画

参考文献[編集]

  • 「満ソ両国間の国境問題経緯」満州日報1935年5月27日(昭和10年)
  • 「満洲事変五年小史」満州日日新聞1936年9月18日(昭和11年)
  • 陸軍省技術本部第二部「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」昭和17年4月、アジア歴史資料センター Ref.A03032065000
  • 防衛研修所戦史室 『関東軍(1)対ソ戦備・ノモンハン事件』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1969年。
  • ゲ・カ・ジューコフ 『ジューコフ元帥回想録 革命・大戦・平和』 朝日新聞社 1970年(「日本軍は下士官兵は優秀だが、高級司令官は無能」という著名な見解も本書のなかで述べられている)ASIN: B000J9HRV2
  • 加登川幸太郎 「帝国陸軍機甲部隊」白金書房、1974年。
  • 御田重宝『人間の記録 ノモンハン戦 攻防戦・壊滅編』1977年、(徳間文庫、1989年)
  • 東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』(中公文庫1989)
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  • 半藤一利『ノモンハンの夏』(文藝春秋、1998年。文春文庫、2001年)
  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う』(上)(文藝春秋)
  • 秦郁彦「明と暗のノモンハン戦史」 PHP研究所 2014年 ISBN978-4-569-81678
  • 秦郁彦『草原の国境紛争-第一次ノモンハン事件』『政経研究』第48巻第4号 2012年
  • 鎌倉英也『ノモンハン 隠された「戦争」』 NHKスペシャルセレクション (日本放送出版協会、2001年) ISBN 4140805889
  • 小田洋太郎・田端元『ノモンハン事件の真相と戦果』原史集成会(2002年)
  • 月刊グランドパワー 2002年10・11月号 BT快速戦車シリーズ(デルタ出版)
  • 古是三春『歴史群像太平洋戦史シリーズ(25) 日本陸軍機甲部隊』学研(2000年)
  • マクシム・コロミーエツ『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦 ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い』小松徳仁(訳)、鈴木邦宏(監)、大日本絵画、2005年、ISBN 4499228883
  • シーシキン他、田中克彦(編)『ノモンハンの戦い』、田中克彦(訳)、岩波書店、2006年、ISBN 4-00-603127-0
  • 渡辺勝正『杉原千畝の悲劇』 (大正出版、2006年) ISBN 4-8117-0311-1
  • マンダフ・アリウンサイハン「ノモンハン事件発生原因と国境線不明論」一橋論叢135巻2号(2006年2月)
  • マンダフ・アリウンサイハン「モンゴル・ソ連相互援助規定書の締結と日本・ソ連・中国」『一橋社会科学』2007年。
  • 三浦信行、ジンベルグ・ヤコブ、岩城成幸「日露の史料で読み解く「ノモンハン事件」の一側面」」(アジア・日本研究センター紀要 (5), 73-95, 2009)[8][9]
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  • スチュアート・D・ゴールドマン (著)、 麻田 雅文(解説)、 山岡 由美 (訳)「ノモンハン1939」 みすず書房 2013年 ISBN978-4-622-07813-5
  • 森山康平『はじめてのノモンハン事件』 PHP研究所 2012年 ISBN: 4569801811
  • 司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 』新潮社 2004年 ISBN: 4101152446
  • 俵義文『検証15年戦争と中高歴史教科書』学習の友社, 1994年
  • マルクス・レーニン主義研究所『大祖国戦争史(1941~1945)』第5巻 川内唯彦訳 弘文堂 1963年
  • 古是三春『ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相』 産経新聞出版  2009年 ISBN: 4819110675
  • 玉田美郎『ノモンハンの真相―戦車連隊長の手記』 原書房 1981年 ISBN: 4562011823
  • 越智春海『ノモンハン事件―日ソ両軍大激突の真相 』光人社NF文庫 2012年 ISBN: 4769827342
  • 岩城成幸『ノモンハン事件の虚像と実像』 彩流社 2013年 ISBN: 4779119359
  •  ノモンハンハルハ河戦争国際学術シンポジウム実行委員会 (編集) 『ノモンハン・ハルハ河戦争―国際学術シンポジウム全記録』原書房 1992年 ISBN: 4562023635
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  • クリヴォーシェフ『秘区分解除:戦争、軍事行動及び軍事紛争におけるソ連軍の損害』 
  • 小林英夫『ノモンハン事件-機密文書「検閲月報」が明かす虚実』 平凡社  2009年 ISBN: 4582854834
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  • 角田順(編)『現代史資料 10 日中戦争 3 』みすず書房 1963年 ISBN: 4622026104
  • 畑俊六『続 現代史資料(4)陸軍 畑俊六日誌』みすず書房 1983年 ISBN-10: 4622026546
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  • ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道 ノモンハンから千島占領まで』 株式会社共同通信社 1999年 ISBN: 4764104288
  • 畑勇三郎『ノモンハン事件の砲兵戦』1965年
  • 草葉 栄 『ノロ高地』 国書刊行会 1978年 ASIN: B000J8NA8M
  • O・プレブ『ハルハ河会戦 参戦兵士たちの回想』恒文社 1984年 ISBN: 4770405901
  • 扇廣『私評ノモンハン』芙蓉書房 1986年 ISBN: 4829500220
  • 樋貝 義治 (編集)『戦記甲府連隊』サンケイ新聞社 1978年 ASIN: B000J77L7Y
  • アルヴィン・D. クックス『ノモンハン―草原の日ソ戦 1939〈上・下〉』朝日新聞社 1989年 ISBN: 4022560460
  • エドワード・ドレー『Nomonhan: Japanese-Soviet Tactical Combat, 1939』lulu.com 2008年 ISBN: 1105650146
  • 西浦進『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』日本経済新聞出版社 2013年 ISBN: 4532196906
  • 東郷茂徳『時代の一面―東郷茂徳手記』 原書房 1989年 ISBN: 4562020199
  • 北川四郎『ノモンハン 元満州国外交官の証言』中公文庫 Kindle版 2015年 ASIN: B0154G929Y
  • 田中克彦『ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国』岩波書店 2009年 ISBN: 4004311918
  • 三宅 正樹 『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』 朝日新聞社 2007年 ISBN: 4022599162
  • 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部『太平洋戦争への道〈第5〉三国同盟・日ソ中立条約―開戦外交史』朝日新聞社 1963年 ASIN: B000JBH5XK
  • 大木主計編 世界軍用機解剖シリーズ第二五号 『丸メカニック』マニュアル特集 九七式戦闘機  潮書房 1978年 

脚注[編集]

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  1. ^ 歴代陸軍大将全覧 昭和篇/満州事変・支那事変期187~191ページ
  2. ^ 産経新聞2016年2月10日朝刊「ふりさけみれば」262回
  3. ^ 中山隆志第9回市来会講演録「ノモンハン事件」再考2016年7月5日閲覧
  4. ^ 中山隆志「第9回市来会講演録「ノモンハン事件」再考2016年7月5日」閲覧
  5. ^ コロミーエツ P.17
  6. ^ コロミーエツ P.107
  7. ^ 推定数。中山隆志「ノモンハン事件の教訓」[1]
  8. ^ コロミーエツ P.107
  9. ^ コロミーエツ P.107
  10. ^ 『明と暗のノモンハン戦史』Kindle版 P.4102
  11. ^ コロミーエツ P.101
  12. ^ モンゴル戦史
  13. ^ 大木主計編 世界軍用機解剖シリーズ第二五号 『丸メカニック』マニュアル特集 九七式戦闘機  潮書房 1978年 P.62村岡英雄 忘れ得ぬ名機九七戦と共に
  14. ^ 大木主計編 世界軍用機解剖シリーズ第二五号 『丸メカニック』マニュアル特集 九七式戦闘機  潮書房 1978年 p.60 荒蒔芳次 私見/九七式戦闘機論より「」内引用
  15. ^ 綴りはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」。中国語表記は中国語: 哈拉哈河
  16. ^ 田中克彦『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国』岩波新書、2009年
  17. ^ マクシム・コロミーエツ 『ノモンハン戦車戦』 大日本絵画〈独ソ戦車戦シリーズ〉、2005年、31~32頁。
  18. ^ a b c d 一連の経過は小規模紛争期(1934年以前)、中規模紛争期(1935~1936年)、大規模紛争期(1937~1940年)に区分することができる。「満州国建国(昭和七年)以降満ソ国境紛争に関する概見表」戦史叢書 関東軍(1)、310~311頁。
  19. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、329~331頁。
  20. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、311~312頁。
  21. ^ A・D・クックス 『ノモンハンへ 草原の日ソ戦Il九一二九』朝日新聞社 1989年
  22. ^ 森山康平『はじめてのノモンハン事件』PHP研究所 2012年
  23. ^ 北川四郎『ノモンハン、元満州国外交官の証言』徳間書店 1979年
  24. ^ 北川四郎『ノモンハン、元満州国外交官の証言』徳間書店 1979年
  25. ^ 辻政信 『ノモンハン』、亜東書房 1950年
  26. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、314頁。
  27. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、320、328~329頁。
  28. ^ アリウンサイハン(2007年)p21
  29. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、323~324頁。
  30. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、314~315頁。
  31. ^ アリウンサイハン(2007年)p26
  32. ^ アリウンサイハン(2007年)p33
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  35. ^ アリウンサイハン(2007年)p35
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  37. ^ アリウンサイハン(2007年)p38
  38. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、329、332頁。
  39. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、334頁。
  40. ^ アリウンサイハン(2007年)p38
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  42. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、421頁。
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  45. ^ 半藤一利『ノモンハンの夏』文芸春秋 1998年 48ページ
  46. ^ 「国境紛争に関する日満抗議提出件数等概見表」戦史叢書 関東軍(1)、313頁。
  47. ^ 戦史叢書 関東軍(1)、313頁。
  48. ^ 鎌倉、267~268頁。
  49. ^ 鎌倉、269頁。
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    ソ連側装甲車輌の損失数は下記がより具体的である。マクシム・コロミーエツ著 『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦』(大日本絵画)
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  509. ^ 小田、田端「ノモンハン事件の真相と戦果」でも同値
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  538. ^ この紀行集の中の「ノモンハンの鉄の墓場」に、戦車の残骸等の写真も多数掲載。
  539. ^ 現代日本とフィリピンを経て、たどり着いた現代のノモンハンに隠された「ノモンハン事件当時の真実」をめぐるストーリー。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]