ゲオルギー・ジューコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ
Георгий Константинович Жуков
RIAN archive 2410 Marshal Zhukov speaking.jpg
生誕 1896年12月1日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
Coat of Arms of Kaluga gubernia (Russian empire).png カルーガ県 ストレルコフカ
死没 (1974-06-18) 1974年6月18日(77歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic.svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
所属組織 ロシア帝国の旗 ロシア帝国陸軍
Red Army flag.svg 赤軍
ソビエト連邦の旗 ソ連地上軍
軍歴 1915年 - 1957年
最終階級 ソ連邦元帥
署名 Georgi Zhukov Signature.svg
テンプレートを表示

ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフロシア語: Георгий Константинович Жуков, ラテン文字転写: Georgy Konstantinovich Zhukov1896年12月1日 - 1974年6月18日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家。ソ連邦元帥まで昇進した。

生い立ち[編集]

ゲオルギー・ジューコフ(1916年)

モスクワ近郊のカルーガ県(当時のモスクワ州内)マロヤロスラヴェツ郡ウゴツコ・ザヴォーツカヤ郷、ストレルコフカ村の、農閑期には行商に出る半農半商の家庭に生まれた。父コンスタンチンは靴職人で、母ウスチーニャは農業をしていた。ジューコフという姓は甲虫を意味するジュークに由来する。ジューコフは自身の回顧録で母が35歳、父が50歳の時に再婚したと記している。一方でジューコフの末娘マリーヤの記録だとジューコフの父は41歳、母は26歳だった[1]。ジューコフは次男であり、2歳上の姉がいた。彼が5歳の時に弟のアレクセイが生まれたが、1年もしないうちに死んだ。ジューコフ一家は深く悲しみ、ロシア正教会の洗礼を受けた。マリーヤによるとジューコフは正教信者であり、戦場にでる時は配下の兵士に「神とともにゆかん」と唱えたという[2]。ジューコフが生まれたカルーガ県は中央産業地帯と呼ばれ、農業よりも商業が盛んだった[3]。父コンスタンチンは仕事に恵まれず、凶作の日は近所の人にシチューをめぐんでもらい飢えをしのいだ。ジューコフは3年間の初等教育を優秀な成績で卒業し、母はお祝いにシャツを、父は新しい靴をプレゼントした。卒業後ジューコフはモスクワで毛皮職人を営む叔父ミハイルの下で修行をした。1日12時間の過酷な労働であり、先輩の職人からしょっちゅう殴られたが、ジューコフはよく働き時間を作って夜学に通い勉学に励んだ。自習仲間だった従兄弟のアレクサンドルからドイツ語を学び、ドイツ語の知識は後に軍人としての責務を果たす上で大いに役立った。1914年には見習いを卒業し、3人の少年を使いそれなりに金を稼ぐようになった。ジューコフは自身の回顧録で若い頃は政治に関心がなく、毛皮職人の間ではそれが当たり前だったと記している。1914年第一次世界大戦が勃発するとジューコフはアレクサンドルと共に軍に志願した。二人は毛皮職人の仲間と話し合い徴兵の年齢まで待つことに決めた。1915年夏ジューコフは軍に招集され、第5予備騎兵連隊に配属された。9月に連隊はウクライナのハリコフに移動して、第10騎兵師団に合流した。ジューコフはそこで騎兵としての訓練を受けた。1916年春に騎兵の養成課程を終え、8月にドニエストル河流域に派遣された。 ジューコフは前線に到着する前に爆撃を受けたが、ドイツ人士官を捕えた功績で聖ゲオルギー十字勲章を授与された。ドイツ語が堪能だったジューコフはドイツ兵を捉える特殊な任務に従事した。10月には偵察中に地雷で乗馬を吹き飛ばされ、ハリコフの病院に入院、2個目の聖ゲオルギー十字勲章を手にした。

ロシア内戦時代[編集]

ロシア10月革命が勃発すると、陸軍内部ではソビエトが結成された。ジューコフは自身が所属する大隊の代表に選ばれ、連隊のソビエトに代表として参加した。ジューコフは連隊内でボリシェヴィキを支持したが、連隊ソビエトは反ボリシェヴィキで合意し、ジューコフの大隊は解散した。1917年末には故郷に戻り、赤軍への入隊を試みたが、チフスにかかり半年間身体を休めた。1918年10月1日赤軍第1モスクワ騎兵師団の第4騎兵連隊に勤務した[4]。1919年3月1日にはロシア共産党に加入した[4]。加入の際党書記局書記トロフィーモフや党委員のウォルコフに詳しい説明を受けた[4]。第四騎兵連隊がウラジミロフカ駅方面に移動するとジューコフは自身と同姓の団党委員ジューコフ・ゲオルギー・ワシーリェピッチと出会い戦線や国内の情勢を語りあった[4]。ワシーリェピッチはジューコフを評価し赤軍幹部養成課程に推薦したが戦況の変化により実現しなかった[4]。反革命の旗印をかかげるデニーキン軍がツァリーツィン、ボリソクレブスク、パラショフ、クラスノグラードその他重要地点を占領すると、ジューコフが勤務する第4騎兵連隊はツァリーツィン郊外の防衛戦に参加[4]。ザプラウノエとアフトゥーバの中間でカルムイスク白衛軍部隊と白兵戦の最中、ジューコフは手投げ弾で負傷し一か月間野戦病院に入院した[4]。そこで出会ったのが若い女子大生マリーヤ・ヴォルホワだった[5]。後に彼女はジューコフの娘を産んでいる。ジューコフは前線への復帰を願い出たが身体の衰弱を理由に赤軍幹部候補過程に回され第一リャーザン騎兵学校に派遣された[4]。第一騎兵中隊曹長としての学生資格を与えられ、同時に講師として刀剣術訓練(槍術、剣術)、銃剣術教育、教練、体操訓練の訓練を委任された[4]。ジューコフは全ての科目で優か良を取り優秀な成績を収めた。半年間学んだ後ジューコフら学生は軍用列車に乗せられクリミアのウランゲリ戦線に送られた[4]。反革命軍の首魁ウランゲリ将軍は連合国の支援を得てクリミアから攻勢を開始していた[4]。1920年8月ジューコフら学生達は混成連隊に編入されウランゲリ軍の掃討に参加した[4]。ジューコフを含む優秀な学生は期限前に卒業を認められウランゲリ軍との戦いで士官を失った騎兵部隊に配属され、ジューコフ自身は第1騎兵連隊に勤務した[4]。ジューコフは第2小隊の指揮官となりプジモールスキー地区の残存匪賊掃滅作戦で功績を上げ、第2中隊長に任命された[4]。反革命軍のアントノフ軍が蜂起するとソビエト政府はタンボフ県に司令部を設置した[4]。ゲリラ戦で大部隊との戦闘を避けたアントノフ軍は手薄な場所を狙い後方を攪乱した[4]。アントノフに手を焼いた赤軍はミハイル・トハチェスキーに討伐の指揮を任せた[4]。ジューコフを含む赤軍の兵士達はトハチェスキーの作戦能力の高さを耳にし、才能ある司令官の赴任を喜んだ[4]。第14独立騎兵旅団本部を訪問したさいジューコフはトハチェスキーが旅団長と対談する席に居合わせた[4]。後にジューコフは自身の回顧録でトハチェフスキーの判断には彼の広い知識と大規模な作戦指導の経験とを感じとられたと語っている。ジューコフはトハチェスキーの下でアントノフ軍と戦い、自ら白兵戦に参加し二度落馬するほどの激戦を繰り広げた[4]。ジューコフは1920年10月にヴォロネジで最初の妻となるアレクサンドラ・ディエブナと出会い、同年結婚している[6]

騎兵将校時代[編集]

1921年ロシア内戦が終わると、赤軍は動員を解除し、総兵力は500万人から50万人に減少した[7]。ジューコフは軍に残り、1922年には大隊指揮官に昇進している。騎兵部隊は赤軍の中でも人材、資材、技量において高い水準を保ち、後にジューコフが台頭する基盤となった[8]。党の方針が最優先されたソビエトの官僚組織の中で、赤軍のみが例外的に創造的で活気に満ちていた[9]。ミハイル・フルンゼの改革により赤軍は近代的職業軍へと変貌をとげ、ジューコフにとっても働きやすい環境となっていた[10]。1922年7月ジューコフはブズルーク騎兵連隊の連隊長に就任した。ジューコフは連隊長として連隊の規律を取り戻し、即応が可能な精鋭部隊へと育てあげた。ジューコフの上官は「理論も実行力も優れている。騎兵を好み、かつ何たるかを知っている。状況に即応できる。極めて高度な規律を保っている。短期間で連隊を最高の水準に引き上げた。彼を連隊長にしたのは極めて適切であった。」と高く評価している[11]。ジューコフの部下だったA・L・クロニクによれば、ジューコフは率直だが厳格な指揮官であり、部下と決してなれ合うことはなかったと証言している[12]。1924年、ジューコフはレニングラードの高等騎兵学校に入学、後にソ連邦元帥となるコンスタンチン・ロコソフスキーやイワン・バグラミャンと出会った。ロコソフスキーは自身の回顧録で「我々は猛烈に勉強した。特にジューコフは熱心で、軍事の微妙な所まで理解出来る境地に達していた。部屋にいると彼はいつも、床に広げた地図の上を這いまわっていた。いかなる時も任務が至上課題だった。」と語っている[13]。バグラミャンもジューコフの資質を絶賛し、「我々の中で、ジューコフの才能は図抜けていた。当時から意志の力、特に独創的な思考力で際立っていた。騎兵戦術の分野では、我々が思いもつかないことを彼が言うので、何度も驚かされた。ジューコフの意見は、いつも激しい議論を巻き起こしたが、強靭な理論で彼が周囲を説き伏せるのが常だった。」と語っている[14]。高等学校の卒業後、ジューコフは二人の同僚と共に馬で963Kmを一週間で走破し、白ロシアのミンスクに到着した。複数の人馬がこれだけの遠距離を走破したのは世界初であり、ジューコフはミンスクの大群衆から大歓迎を受け、師団司令部も彼を称賛した[15]。ジューコフの連隊は二つの連隊を吸収して、メレケス・プガチョフスク連隊として再編成された。ジューコフは新連隊の連隊長と政治委員を兼任した。師団司令部はジューコフの能力と資質を高く評価していた。この頃ジューコフは再びマリーヤ・ヴォルホワと関係を持っている[16]。1929年末にはフルンゼ陸軍大学の高級指揮官養成課程に入る。ジューコフのこの過程で後にソ連邦元帥となるL・A・コヴォロフやF・I・トルブーヒンと出会っている。ジューコフは図上演習やグループ演習で極めて高い評価を受け、教官は師団以上の戦術運用も出来るようになると評価した[17]。諸兵科統合戦術も冴えわたり、ジューコフの作戦と戦術には明晰な理論と強い確信の裏付けがあった[18]。唯一マイナス評価を受けたのは事務処理能力だった[19]。教官はジューコフは明らかに前線指揮官にむいていると報告している[20]。1930年春にフルンゼ陸軍大学を卒業したジューコフは、騎兵総司令官のセミョーン・チモシェンコから高く評価された。チモシェンコはジューコフが7年で騎兵連隊の士気と技量を最高の水準にひきあげたと記している[21]。1930年5月には第2騎兵旅団の旅団長に抜擢された。当時師団長だった学友のロコソフスキーは旅団長時代のジューコフを高く評価する報告文を、赤軍指導部に送っている[22]。1931年2月に騎兵総監代理に就任、モスクワに呼ばれ戦闘訓練の観察を担当した。ジューコフはモスクワで後にジューコフと共に参謀本部で働くことになる、アレクサンドル・ワシレフスキーと出会っている。ワシレフスキーは自身の回顧録でジューコフを高く評価し「軍事の才能で年々、頭角を現してきた。騎兵の師団長、軍団長として、また白ロシア軍管区副司令官として、彼の能力は同僚の誰もが高く評価していた。」と述べている[23]。ジューコフの上司であり内戦時代の英雄であるセミョーン・ブジョンヌイはジューコフの資質を評価しつつも、必要以上に辛辣で荒々しいとも語っている[24]。ジューコフ自身も厳格な自分を自覚し回顧録で、たるんだ仕事や態度を見るのが我慢出来なかったと語っている。1933年3月に第4騎兵師団の師団長に就任、4年間の師団長時代に師団の規律と技量を高い水準に引き上げた。第4騎兵師団の参謀長だったL・F・ミニュークは「彼は尊大、傲慢、うぬぼれとは無縁だった。部下との関係で公私のけじめをはっきりつけていただけだ。」と語り、気さくで階級に関わらず部下の面倒をよくみる人だったと証言している[25]。1937年7月には白ロシア軍管区の第3騎兵軍司令官に就任、1938年3月には第6コサック軍司令官に任命された。ジューコフは騎兵だけでなく、機械化部隊も傘下に持ち、騎兵と機械化部隊の共同作戦に心を砕いた。ジューコフはこの頃から機械化戦を積極的に研究し、共産党員としてマルクスの著作を読み漁った。1938年6月には白ロシア軍管区副司令官となり、戦車と騎兵の訓練を担当した。ジューコフの急速な昇進には軍の拡張とスターリンによる大粛清が影響していた。スターリンは高級将校を粛清する一方で、軍の規模を拡大、1930年代には400万人を超える大兵力を保持していた[26]。軍の給与は3倍となり、士官の待遇は劇的に改善され、国防費は1933年~37年にかけて370%、37年~40年に200%増えている[27]。ジューコフのような優れた職業軍人にとって軍の強化は出世の千載一遇のチャンスとなった[28]。また粛清により高級将校が一掃されたことにより、ジューコフの上官も失脚し、上官のポストがまわってきたという一面も無視できない[29]。ジューコフ自身も粛清におびえ、逮捕に備えて常にカバンを持っていたと彼の娘と妻が証言している[30]

ハルハ河戦争[編集]

1937年から1939年におよぶスターリンによる赤軍の大粛清を生き残り白ロシア軍管区司令官代理としてミンスク地区に赴任した。その頃極東では日本の樹立した満州国モンゴルの国境地帯において、日本の関東軍との間に何度も小競り合いが起きていた。1939年5月ジューコフはモスクワに呼び出されモンゴルに移動し現地軍の視察を命じられた[31]。ジューコフの任務は現地部隊の失策の調査も兼ねており、国防人民委員部による粛清の手先としての役目をおびていた[32]。当時日本軍と戦っていたのは第57特別兵団を指揮するフェクレンコだった。国防人民委員のクリメント・ヴォロシ―ロフは第57特別兵団司令部の任務遂行ぶりの調査をジューコフに命じ、指導に欠陥があれば改善措置を取れる権限を与えた。モンゴルの第57特別兵団司令部に到着したジューコフは現地の指揮官から情報を収集し、日本軍の大規模攻勢に備えハルハ河右岸を守備するとモスクワに伝えた[33]。同時にジューコフは現地軍司令部の戦闘は極めて不適切だと評価した報告書を国防人民委員部に送っている。国防人民委員部はジューコフの防衛計画を承認、フェクレンコを解任しジューコフを第57特別兵団長に任命し空軍と砲兵の増強を承認した[34]。ジューコフは規律の回復を鮮明に打ち出し、軍規違反で二人の兵士を銃殺刑にした[35]。6月になると日ソ両軍の航空戦が開始され日本軍はハルハ地区に戦力を集中、ジューコフも戦力を集め決戦準備を整えた。関東軍にとって最初は、ソ連の国境防衛能力を試す意図があったが、急速に大規模な戦闘に発展したことを受け、最終的に戦車500両以上、航空機500機以上、兵員数万人が投入されることとなった(ノモンハン事件、ソ連側の呼称・ハルハ河事件)。関東軍がハルハ河を渡りバイン・ツァガン山とその地続き一帯を占領すると砲兵、爆撃部隊、機械化部隊を集中して奪還した[36]。日本兵は渡河地点へと退却したが機械化部隊の追撃で壊滅的な打撃を受けた[37]。バイン・ツァガン山とハルハ川西岸から関東軍は放逐され、バイン・ツァガン山での戦闘は諸兵科連合戦闘の古典となった。7月の戦闘中、国防人民委員代理のク―リクが視察に訪れた。ク―リクは東岸の部隊を西岸に退かせよとジューコフに命じたが、モスクワの参謀本部は部隊の撤退を中止するよう命じた。ヴォロシ―ロフはク―リクに第57特別兵団の指揮系統に干渉するなと叱責した。国防人民委員部はシュテルンを司令官とする正面軍集団を創設し、第57特別兵団を指揮下に加えた。しかしジューコフはこの処置に猛反発し、第57兵団は第1軍集団に改組され、シュテルンの指揮系統から独立した。ジューコフは正式に師団長から軍団長へと昇進し、はじめて一軍の指揮を任せられた。事前の入念な作戦準備、特に後方の整備と兵站を非常に重視していたジューコフはまず輸送体制を組織し、充分な戦争資材が集積されるのを待ったのち、1939年8月20日より関東軍に対する反撃を開始する計画をたてた[38]。一方で計画書をモスクワに提出したのはシュテルンであり、ジューコフが計画策定に加わっていたかは定かではない。軍事会議の要請で作戦遂行のために第1軍集団にはソ連国内から新兵力、技術資材の予備が投入され、歩兵2個師団、戦車旅団、砲兵2個連隊その他の部隊が補充輪送された[39]。また爆撃および戦闘機空軍も強化された。膨大な燃料と武器弾薬を輸送するため8月14日以後になってソ連国内からさらにトラック2150台、油槽トラック375台が補充され、ザバイカル軍管区の全面的な支援もありジューコフは期日通りに輸送と補充を完了させた[40]。ジューコフは関東軍が精鋭戦車兵団や自動機械化部隊を持たないことを利用し機械化兵力による包囲殲滅戦を試みた[41]。攻勢を秘匿するためあらゆる欺瞞工作を実施し、各部隊の移動は夜間にのみ実施された[42]。夜間の移動はすべて飛行機の爆音や砲、迫撃砲、機関銃、小銃射撃などによる偽音を使って誤魔化し、全ての移動は関係部隊が打合わせた厳格な予定表に従って行われた[43]。砲兵の支援のもと、自動車化された歩兵と、2個戦車旅団が戦線の両翼を進撃する大胆な機動を行って第6軍 (日本軍)を包囲し、第23師団を壊滅させるなど大打撃を与えた。2週間の内に関東軍は撤退し、その後、国境線はソ連・モンゴルの主張に近い形で確定された。この功績により、ジューコフは「ソ連邦英雄」の称号を与えられた。しかしソ連以外では、この戦いはあまり知られず、ジューコフの機械化部隊の機動的運用という革新的戦術も、当時の西欧諸国に注目されることはなかった。この戦術が周知になるのは、のちのナチス・ドイツによるポーランドやフランスへの電撃戦を待たねばならなかった。ノモンハンでのジューコフの功績は世界に知られ、歴史家から高く評価された。 歴史家ウィリアム・スパールはジューコフの成功をカンネに例えている。

ジューコフはカンネの戦いを再現した。ハンニバルがテレンティウス・ファロ率いるローマ軍を破ってから二千年の歳月を得て乾いたモンゴル草原の幅74キロ、長さ20キロの戦場で両翼包囲を成功させた[44]

歴史家オットー・プレストン もジューコフの将才と資質を称賛した。

この戦闘(ノモンハン)において作戦指揮に自分の流儀を確立した。強い指導力・大胆な攻撃・革新性・陸空の巧妙な連携・必要なら膨大な犠牲もいとわない覚悟が彼の持ち味だった。強い重圧下でも平静を保ち状況を完璧に把握できた。こうした資質がソ連を勝利へと導いたのだ[45]

参謀総長就任[編集]

1940年5月初めスターリンはジューコフと初めて面会し、キエフ特別軍管区司令官に任命し上級大将の階級を授与した。ジェフリー・ロバーツは国防人民委員となったチモシェンコとの親密な関係も作用したと分析している[46]。キエフ特別軍管区はソビエト最大の軍管区であり同軍管区で勤務した将校は、モスクワ中央に呼ばれることが多くジューコフ自身もキエフで働く栄誉を喜んだ[47]。しかし粛清の影響で士官の数は足りず、冬戦争で精鋭師団はひき抜かれるなど、軍管区の戦力は低下し規律は大いに乱れていた。規律の回復に定評のあるジューコフがキエフに赴任したのは偶然ではなかった[48]。ソビエト政府がベッサラビアと北部ブコビナの併合に動き出すとルーマニアと国境を接するジューコフ指揮下のキエフ特別軍管区の戦力が動員された[49]。ジューコフは国防人民委員チモシェンコと共同で3個軍からなる南部正面軍を設立、ルーマニア政府に軍事的圧力をかけた[50]。交渉の末ルーマニア政府は北部ブコヴィナとベッサラビアから撤退することに同意した[51]。一方でジューコフは新領土進駐の際の部隊の乱れと規律の無さを怒り、数人の師団長を更迭している。後にAK47の開発者となるミハイル・カラシニコフはキエフでジューコフと出会った。当時カラシニコフは戦車操縦士であり、戦車エンジンの改良に取り組んでいた。ジューコフはカラシニコフが改良したエンジンに深く感心し、彼をキエフの戦車技術学校に推薦した。カラシニコフは自身の回顧録で「ジューコフの意志と活力が我々に伝わってきた。」と記している[52]。ウクライナ共産党の書記だったフルシチョフもジューコフをチモシェンコの後任にふさわしい人物だと評価した。冬戦争の後、国防人民委員チモシェンコ主導で赤軍内部の改革が実施され、ジューコフもキエフ軍管区内で観察・演習を盛んに実施しドイツとの戦争に備えた[53]。ドイツとの戦争が迫ると、戦争計画は次々と更新され、ジューコフが指揮するキエフ軍管区は重要度を増した。赤軍参謀本部は1938年3月に参謀総長シャポシニコフ元帥主導の下、戦争計画を立案した。シャポシニコフは仮想敵をドイツと日本にしぼり、最大の脅威はドイツと見定め、西部を主戦場とし、プリピャチ沼沢地北を経由するミンスク~モスクワ、レニングラードを目指すパターンと南からウクライナを目指すパターンを想定していた[54]。1940年夏シャポシニコフは新しい戦争計画を立てた。38年度と違ってドイツ軍の侵攻ルートは北だと断定された[55]。しかし彼は健康の悪化で参謀総長を辞職、メレツコフ元帥が後任となった。1940年9月に参謀本部は再び戦争計画を立て、シャポシニコフ案を想定しつつドイツ軍が南に主力をむける可能性も排除しなかった。10月には大幅な改定がなされ、赤軍は防御の主力を南に置くこととなった。この改訂で最も恩恵を受けたのはジューコフが指揮するキエフ特別軍管区だった[56]。国防人民委員チモシェンコや参謀総長メレツコフもかつてキエフ軍管区の司令官を勤め、参謀本部にもキエフ勤務の経験がある将校が多数いた。戦前の参謀本部を研究するザハ―ロフ元帥は計画の改訂には官僚的要素が作用したと分析している[57]。またヒトラーは同時期にルーマニアをドイツの軍事的影響下に置き、バルカン情勢は大幅に悪化していた。バルカン諸国と国境を接するキエフ軍管区が重視されるのは自然な成り行きともいえた[58]。以降赤軍はウクライナの防衛に重点を置く戦争計画を推進していくが、ドイツ軍参謀本部は北の攻勢に主軸を置いていた。赤軍参謀本部の読み違いは致命的な誤りだった。同年9月ジューコフはモスクワで開かれる戦略会議に呼ばれ、会議に提出する報告書の提出を命じられた。テーマは「現代における攻撃作戦の特徴」だった。ジューコフはキエフ軍管区の作戦部長であり、騎兵学校時代の同級生でもあるバグラミャンの助けを得て報告書を作成した。ジューコフが求められたのはドイツ軍が西方で見せた戦闘能力の分析と評価だった。ジューコフは語学に堪能なプルカエフ中将の助けをえて、外国の論文や翻訳を活用し、作成書を完成させた。同年12月参謀本部において大規模な戦略会議が行われた。270人の高級将校が参加し、ジューコフを含む74人の将校が報告書を発表した。ジューコフは近代的軍隊は、諸兵科を有効に活用した迅速かつ強力な攻勢で、敵に損害を与えられると報告した。ノモンハンでの実例を基に、入念な準備と砲兵、歩兵、航空機、戦車の綿密な連携が特徴であると述べた。またドイツの西方電撃戦を実例とし、航空戦力の支援を受けた装甲部隊は大胆な機動で大きな成果を上げられると主張した。ジューコフはドイツの勝因は、戦線が広大で作戦正面が離れていても、戦略が統一されていたためと分析した。強力な機動部隊で敵軍の両翼を攻撃し、敵主力を中央で拘引する。その上で突破口を開き、包囲し、精強な予備軍を投入して、さらに戦果を拡大する。初期段階の攻勢で敵軍の30%~50%の撃破を目指し、最新の戦闘手段は積極的攻撃に断固たる基盤を提供し、遠距離に及ぶ迅速な機動を可能にしたと総括した。ジューコフの発表にたいし、6人が発言し、レニングラード軍管区の第1機械化軍団長ロマネンコ中将が最も激しい反対者だった[59]。ロマネンコはジューコフの構想は1934年~1935年の産物だと述べ、時代遅れだと指摘[60]。強力な機械化部隊と砲兵部隊、空挺部隊、航空部隊による大規模な打撃軍を編成し、敵軍の突破にはこの手の部隊が必須だと主張した[61]。ノモンハンでジューコフと対立したシュテルン大将も反対意見を述べた[62]。シュテルンは機械化部隊の即時投入を求めるジューコフを批判、歩兵と砲兵が突破経路を開くまで投入を控えるべきだと発言した[63]。大祖国戦争が始まるとジューコフはシュテルンの考えに沿って戦車を温存したが、この時は直接回答せず自論に対する根本的な疑義ではないと述べ、質疑を打ち切った。西部特別軍管区司令官ドミトリー・パブロフ上級大将もジューコフ同様、機械化戦の有効性を訴え、機械化部隊の独立的な運用を主張した[64]。チモシェンコは会議を総括してジューコフとパブロフの報告を評価した。同年1月2日ジューコフはパブロフやチモシェンコらと共に会議の結果をスターリンに報告した。ジューコフは具体的な戦略防衛計画の立案を要望し、攻勢重視の西部特別軍管区司令官ドミトリー・パブロフと図上演習を実施した[65]。ポーランド分割に参加したソビエトはその国境を西方に240km移動させドイツ領に食い込むヴャリストク突出部を形成していた[66]。機械化戦の権威であるパブロフはヴャリストク突出部を攻勢開始地点として重視したが、ジューコフは防衛上の不利を訴え突出部の解消と旧国境での防衛と反撃を重視した[67]。最初の演習はジューコフがドイツ軍(西軍)を担当し、パブロフが赤軍(東軍)を担当した[68]。パブロフはヴャリストク突出部から迂回させた機械化戦力で東プロイセンの包囲戦滅を試みたが、ジューコフは遅滞戦闘で迂回を阻み予備兵力を投入してヴャリストク突出部を切り離し防衛線を崩壊させた[69]。二度目の演習では攻守が逆転しジューコフが赤軍を担当した[70]。戦力を後方に温存したジューコフは深入りしたパブロフ軍を殲滅、2度の演習はどちらもジューコフの勝利に終わった。この演習が赤軍の対独防衛戦略に与えた影響は大きく1941年1月ジューコフは赤軍の参謀総長 / 副国防人民委員に任命された[71]。同時に共産党中央委員候補に選ばれ、グラノフスキー通りに特別な住宅が与えられ、ソ連の特権階級となった[72]。以後ジューコフ一家は20年この家で暮らすことになる[73]。ジューコフの着任前から参謀本部はドイツとの戦争に備えた動員計画MP41を立案していた。ジューコフは計画の作成にほとんど関わっていなかったが、計画は参謀総長ジューコフの名で発令された。300個師団を基幹とし、その枠内で60個戦車師団と30個自動車化師団を編成する。2個戦車師団と1個自動車化師団で1個機械化軍団を編成し、30個機械化軍団を設置する。500万の予備役を動員し、最終的に総兵力を800万まで増大、うち650万を西部特別軍管区に配置する。この計画は1941年末までに完了する予定だったが開戦までに配置された戦力は西部特別軍管区に300万、キエフ特別軍管区に97個師団にとどまった。ジューコフは1941年3月の改訂版戦争計画で防御重視の縦深的な戦力配置に切り替え、兵力と資材は後方の第二梯団、第三梯団に集中的に配備された[74]。決戦用の兵力を後方に温存するジューコフの防衛戦略は対独戦で有効に機能することになる[75]。ドイツ軍参謀本部は国境~西ドヴィナ河とドニエプル河のラインでソ連の野戦兵力を殲滅すると想定していたので、ジューコフが温存した第二梯団に思わぬ足止めを受けることになる[76]。一方で西ドヴィナ河~ドニエプル河を決戦場と想定し第二梯団を決戦兵力としたジューコフにとって、国境を守る第一梯団は捨て石に過ぎなかった[77]。ジューコフはスターリンに旧国境での防衛を求めたがスターリンは国境線の放棄を認めず、ヴャリストク突出部は開戦まで解消されなかった。結局ジューコフの防衛戦略は国境での守備をあきらめ、開戦前から味方の膨大な犠牲を前提とした。対戦車、対空両方面で敵に対抗するだけの実力はなく国境での戦いに勝ち目はないと判断したジューコフは主力部隊を後方に下げ戦力の温存を優先し、国境守備軍の苦境を予想しながら主力部隊を国境に移すことはしなかった[78]

大祖国戦争[編集]

参謀総長[編集]

1941年6月22日午前3時、ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始した。(バルバロッサ作戦)。ジェフリー・ロバーツ は開戦直後のジューコフを「1941年夏のドイツ軍は装備も貧弱で時代遅れの関東軍とは比べものにならない精強な軍隊だった。ソ連軍は連戦連敗を続けた。そんな状況でもジューコフは冷静さを失わなかった。」[79]と評価している。ジューコフは午前3時17分に、黒海艦隊司令官のオクチャブリスキー大将から緊急電話で呼び出され、所属不明の航空機の接近を知った[80]。その後西部特別軍管区、キエフ特別軍管区、沿バルト軍管区からもドイツ軍侵入の報告が届いた。ジューコフはスターリンに電話して状況を報告し、戦闘行為の承認を求めたが返事はなくクレムリンに来るよう命じられた[81]。午前4時半には政治局員が閣議室に集まり、ジューコフと国防人民委員チモシェンコも入室を許された[82]。スターリンは青ざめていて、タバコのつまったパイプをもって椅子にかけて「すぐにドイツ大使館に電話する必要がある」と言った[83]。ドイツ大使と接見しにいったモロトフが閣議室に戻りドイツ政府の宣戦布告を伝えた[84]。スターリンはジッと考えこみ長い、苦しい沈黙がつづいた[85]。ジューコフは沈黙を破り国境の各軍管区が、全力をあげて敵の崩れそうな部分に集中攻撃をかけ、その態勢を崩さないように維持し続けるようすぐ命令することを提案した[86]。チモシェンコの同意もありスターリンはジューコフの提案を承認した[87]。6月22日午前7時15分、国防人民委員部の指令第二号が各軍管区に伝えられたが実現不可能な命令であり前線からは無視された[88]。この時点で参謀本部には軍管区からも通信部隊からも何一つ連絡がなく状況を把握出来ていなかった[89]。現地部隊もドイツ軍の破壊工作で通信手段を絶たれ報告出来る状況になかった[90]。午前8時になるとようやく各軍管区から報告が届いた[91]。戦況を把握したジューコフはチモシェンコとともに再びスターリンの下を訪れ、動員令の公布を求めた[92]。スターリンは欧州ロシアで戒厳令を発令し、極東・中央アジア・ザバイカルの3軍管区を除く14の地域で動員が開始された[93]。また国家の全機能が軍の統制下に置かれジューコフはスターリンやチモシェンコと共同で戦争を指導する最高司令部の構成案を作った[94]。6月23日には最高司令部スタフカが設立された[95]。スターリンは北西・西部・南西の3正面軍を編成し、ジューコフにスタフカ代表の身分を与えて南西正面軍の戦闘指導を命じた[96]。ジューコフは直ちにキエフに赴きウクライナ共産党の政治委員フルシチョフと面会した[97]。フルシチョフは、これから先は飛行機は危ないとジューコフに忠告した[98]。すでに制空権は奪われつつあり、ドイツ軍の戦闘機が輸送機を狙っていた[99]。ジューコフは南西正面軍司令部の設置されたテルノーポリに赴き、参謀総長第一代理のワトゥーチンと連絡をとった[100]。ワトゥーチンは前線の状況を述べ、国防人民委員部の指令第三号の発令と署名を求めた[101]。ジューコフは現時点での反撃に反対したが、すでに指令は発令されており、やむをえず署名した[102]。 しかしスターリンの面会名簿によると、この時期ジューコフは他の軍高官と共に会議に出席していた[103]。バグラミャン元帥の回顧録によると、ジューコフが南西正面軍司令部にやってきたのは、指令第3号が発令された後だった[104]。ジェフリー・ロバーツはジューコフは惨憺たる結果に終わった指令第3号と距離を置こうとしたのではないか?と分析している[105]。指令第3号には南西正面軍のプルカーエフ参謀長も指令に激しく反対した[106]。ジューコフは機械化戦力での反撃を提案し、スタフカと正面軍参謀部で反撃計画が作成された[107]。ジューコフは攻勢を担うリャブイシェフ中将の指揮する第8機械化軍団の司令部に赴き、反撃計画を説明した[108]。説明中に空襲警報が鳴ったので天幕で参謀達を集めて状況を再確認した[109]。この時ジューコフは司令部メンバーの平静な態度を見て、「立派なもんだ。これなら、戦争に負けないだろう」と思ったと回顧録で語っている[110]。機械化軍団の反撃は成功しドイツ軍の第48装甲軍団を後退させた[111]。その後もジューコフと南西正面軍司令部は善戦し南西正面軍は3正面軍の中で例外的に優位を保った[112]。第3装甲集団司令官ヘルマン・ホトは「一番苦しい戦いに当面したのは『南』の部隊だった。北翼の軍の前に立ちはだかった敵軍は、初めのうちこそ国境から退却したが、すぐにその打撃から回復し、予備軍や後方から繰出してきた戦車隊と合体してドイツ軍の進撃を食い止めた。第六軍に所属した第一戦車隊の進撃は、六月二八日までは開始されなかった。ドイツ軍の進撃の道には、敵の強力な攻撃が待っていた」と自身の回顧録でのベている[113]。一方で西部正面軍と北西正面軍の戦況は深刻であり、正面軍司令部はいまだに各軍種司令部と連絡を回復出来ず、師団や兵団の司令部は、隣接部隊との協力も、空軍の支援も、上級からの適切な命令もなく、孤立した戦いを続行していた[114]。ドイツ軍の機甲部隊と機械化部隊の大編隊が、西部正面軍の各所を破壊して白ロシアから沿バルト国境辺にかけて急進撃を続けていることが判明しジューコフは対応に追われた[115]。スターリンは予備正面軍を編成しジューコフが決戦場と想定していた西ドヴィナ~ドニエプルのラインに展開した[116]。西部正面軍に派遣されたシャポシニコフ元帥が病に倒れ、クーリク元帥が行方不明になるとスターリンはジューコフをモスクワに呼び戻し西部戦線の改善策を求めた[117]。すでにミンスクは西側から包囲され西部正面軍は各軍が分断・包囲されてチリヂリバラバラになっていた[118]。ジューコフは防衛線を下げて予備兵力を投入すべきだと進言し、スターリンは提案を全て承認し命令を出した[119]。ジューコフは自身の名でスタフカの命令を西部正面軍司令部に発令し、参謀長クリモフスキフ、司令官パブロフと電話で面会した[120]。その後も西部戦線の戦況は変わらず、6月30日ミンスクは陥落、西部正面軍は構成兵力の大半を喪失した[121]。パブロフは解任されチモシェンコが西部正面軍司令官に就任した。7月初旬からスモレンスクをめぐる争奪戦が開始された。一か月の激戦の末スモレンスクは落ち西部正面軍は34万の兵士を失ったが、ドイツ中央軍集団も甚大な被害を受け足止めと防衛線の再構築に成功した[122]。ジューコフはチモシェンコの戦いぶりを高く評価している[123]。スターリンは二人を呼び出しチモシェンコの解任とジューコフの司令官就任を伝えたが、ジューコフはチモシェンコを擁護し解任に反対した。チモシェンコは戦線への復帰を認められた[124]。7月10日スタフカが再編されジューコフは構成メンバーの一人に選ばれた[125]。スターリンの死後、フルシチョフ政権ではスターリン批判がおこり、開戦前のスターリンの対応が非難された。軍縮をめぐってジューコフとフルシチョフが対立すると、批判の矛先はジューコフにも向き、参謀総長として適切に指示を出さなかったと中傷された。ジューコフは回顧録でフルシチョフ派に反論したが、フルシチョフが死ぬまで反論の機会は与えられなかった。ジューコフは回顧録で赤軍は攻撃型の軍隊であり適切な防御戦への準備が足りなかったと分析し、自身の非を認めているが、ソ連時代この一節は当局により削除されている[126]

予備正面軍司令官[編集]

ジューコフは参謀総長として1941年7月25日、5項目からなる「戦争教訓の活用」[127] を発令し敗走を重ねるソ連軍の立て直しをはかった。

・運用が困難な機械化軍団を解体。戦車師団に再編し野戦軍司令部の指揮下におく 

・野戦軍の規模を縮小し1個軍5〜6個師団の編成とする。 

・狙撃師団に支援用の戦車を配置 

・騎兵隊の積極的な活用 

・航空部隊を連隊ごとに再編

グデーリアンの第2装甲集団はエリニャ一帯を占領してモスクワを伺い、南方軍集団はウクライナの首都キエフを包囲をめざした。唯一善戦していた南西正面軍は他の戦線の後退によりキエフ近郊に突出部を形成し、包囲殲滅の危機を迎えていた[128]。7月29日ジューコフはスターリンに面会しモスクワ予備を投入した中央正面軍の強化と南西正面軍のドニエプル以西への退却、キエフの放棄を進言した[129]。またモスクワ攻撃の基地となっているエリニャの奪還を訴えた[130]。スターリンはキエフ放棄に猛反発し激怒した[131]。ジューコフが参謀総長の辞職を願い出るとスターリンは了承し、正式に参謀総長の職を解任され、新たに予備正面軍の司令官に赴任しエリニャ突出部の奪還を命じられた[132]。ジューコフは自身の回顧録でスターリンに解任されたと記しているがジェフリー・ロバーツによると、スターリンの面会記録にジューコフの名はなく、ジューコフ自ら予備正面軍の指揮を望んだと指摘している。ジューコフは深夜に第24軍本部に到着し、予備正面軍の参謀や指揮官に迎えられた[133]。ドイツ軍はすでにエリニャを要塞化し奪還には困難が予想された[134]。ジューコフはエリニャの奪還には火力が足りないと判断し、砲兵の集中には12日間かかると結論を出した[135]。8月中旬ジューコフは攻勢を開始し、ドイツ軍に大きな損害を与えた[136]。この戦闘でドイツ軍の拠点防御のやり方と攻略法が判明し、多くの教訓を得た[137]。隣接する支点の火力を抑えなければ攻撃側は大きな損害を受けるので、攻撃前に入念に偵察し最も強力な火力ポイントを把握することが求められた[138]。ジューコフは各指揮官を集めて拠点攻略の教訓を共有した[139]。8月30日ジューコフは予備正面軍を指揮してエリニャへの攻勢を再開した[140]。ヒトラーは中央軍集団にエリニャ地区の死守を命じSS装甲師団「帝国」を投入、ジューコフも砲兵、戦車、航空機、ロケット砲を全て投入した[141]。ドイツ軍の組織的機動と支点火力の防御をねじ伏せ、予備正面軍はエリニャを守備するドイツ軍守備隊に回復不能な損失を与えた[142]。9月5日ついにドイツ軍はエリニャから後退し、赤軍の四つの部隊に「親衛」の称号がはじめて付与された[143]。エリニャでの勝利は大祖国戦争初の攻勢作戦の成功であり、ジューコフは野戦指揮官として改めて評価された。ソ連当局は初の勝利を盛んに宣伝し、西側の記者を戦場に招くという異例の措置を取った[144]。一方参謀総長シャポシニコフはジューコフの攻撃は貧弱な航空支援と砲撃支援の下決行され、十分な効果を上げられなかったと批判した[145]。 キエフ方面ではジューコフの危惧が的中し南西正面軍はドイツ軍に包囲されつつあった。ジューコフはスターリンに電報を送りキエフの放棄と南西正面軍の後退を進言したが拒否された。一方でジューコフはスターリンの発令した死守命令に共に署名している[146]。ジューコフはキエフの政治委員だったフルシチョフとグデーリアンの阻止に失敗したエレメンコを回顧録で厳しく批判している[147]。ジューコフをフルシチョフが失脚させた時、右腕として働いたのがエレメンコだった[148]。ジューコフには彼らを批判し、自身の名誉を守る意図があったとジェフリー・ロバーツは分析している[149]

中央軍集団から派遣されたグデーリアンの第2装甲集団とクライストの第1装甲集団が合流し後方の退路は遮断された。チモシェンコ、ブジョンヌイらは脱出したが司令官のキルポノスを含む多くの将校が戦死、60万の兵士が捕虜となり赤軍は開戦以来最大の打撃を受けた。バルト方面ではヴォロシ―ロフ元帥が連戦連敗し、北方軍集団がルーガ河を突破、フィンランド軍と共同でレニングラードの封鎖を開始していた。エリニャの戦勝後ジューコフはモスクワの最高司令部に呼び戻されレニングラード戦線の立て直しを命じられた[150]

レニングラード正面軍司令官[編集]

9月11日ジューコフはレニングラード軍管区に司令官として派遣され、同都市防衛の任務に就いた[151]。ジューコフは自身の回顧録でスターリンの住居に直接呼ばれたと記したが、ソ連の公式記録によると執務室で面会している[152]。レニングラードはソビエト最大の工業センターであり大規模な港湾施設を備えていた。ヒトラーはこの都市の攻略にこだわり、バルバロッサ作戦では第一目標とされた。レニングラードが落ちればバルト艦隊は失われ、モスクワ北方に重大な脅威が生じる。7月~8月の戦闘でレニングラード州のほとんどがドイツ軍に占領され、9月8日にはシュリッセルブルクが陥落、陸路の全ての連絡路が断たれた。レニングラードとの連絡は凍結したラドガ湖と空路を経由するしかなかった。ジューコフは輸送機でレニングラードの空港に降り立ち、ヴォロシ―ロフにスターリンの命令書を渡した[153]。この瞬間ジューコフはレニングラード正面軍の司令官となり、レニングラードの政治委員、各参謀、各指揮官を集めて軍事会議を開いた[154]。ジューコフが最初にやったことはヴォロシ―ロフがだしたバルト艦隊の自沈命令を取り消すことだった。相次ぐ敗戦に狼狽したヴォロシ―ロフはバルト艦隊に自沈を命じ、沿岸水域を封鎖してドイツ海軍の強襲を防ごうとした。しかしドイツ軍の目的はバルト艦隊を港に封じ込めることであり、ヴォロシ―ロフの対応は見当違いだった。自沈を阻止されたバルト艦艇の338門の火砲群と海兵戦力はレニングラード防衛の重要な戦力として機能することになる。ジューコフは市内を6つの防衛セクターに分け、予備大隊に対戦車砲を配備し、航空兵力と砲兵の連携を回復させた。火力の集中は決定的な違いをもたらし、ジューコフによる配置が行われた翌週には、365ミリ砲一門で戦車35両、砲撃装置12、一個歩兵大隊、弾薬列車一本を撃破する目覚ましい成果をあげた。 モスクワから連れてきたホジン少将を参謀長に任命、フェデュニンスキー少将を第42軍司令部に派遣すると、9月15日には4項目からなる防衛作戦[155]を指示した。

・砲兵と航空機の集中運用で敵をくいとめる 

・狙撃旅団5個と狙撃師団2個を防衛線に配置する

・第8軍が側面と背後から反撃する 

・第54軍は第8軍と共同でムガとシュリッセルブルクを奪還する

反撃計画立案と同時に規律を立て直すため、9月17日には重要区域防衛に関する命令を発令した。「司令部もしくは軍事会議が下す書面による命令なくして持ち場を離れる指揮官、政治担当者、兵士はすべて即刻射殺する。」 ジューコフは第42軍がドイツ軍の主攻勢をひきつけ、その間に第8軍がオラニエンバウム橋頭保から側面と背後を突く計画を建てた。しかし第8軍司令官シチェルバコフ少将は部隊の消耗と弾薬不足を理由に、予定期日の反撃実施は不可能と報告したので、激怒したジューコフは彼を罷免しシェヴァルディン中将を後任とした。 ヴォロシ―ロフが自沈を指示したバルト艦隊は全砲兵火力をドイツ軍にむけて侵攻を食い止めた。また6個の海兵大隊が組織されレニングラード正面の防衛に参加した[156]。ジューコフは海軍のイワン・ステパノヴィチ・イサコフ提督を深く信頼し彼と共同で防衛線を構築した[157]

ジューコフは目覚しい軍事的手腕と非情なまでの決意を見せることで、浮き足立つ防衛軍の規律を回復し、市民の協力をも得ることができた。これにより1941年の秋にはレニングラード南の郊外でドイツ軍の進撃を停止させた(レニングラード包囲戦)。

デビッド・グランツ は「ジューコフの鉄の意志がネヴァ河の奇跡をおこした。」[158]と評価し、

ジョン・エリクソン は「一月も経たずに最悪の危機を克服し、防御を立て直し、士気をとりもどした。」[159]と評価している。

一方でエヴァン・モーズリーは「ドイツ軍はモスクワ攻勢にむけ北方軍集団から装甲軍をひきぬき破壊から封鎖へと方針を展開している。ネヴァ河の作戦は無用な犠牲を招いた。」[160]と批判している。

西部正面軍司令官[編集]

9月16日モスクワ攻略を目指すタイフーン作戦が発令され中央軍集団は西部正面軍(司令官コーネフ)とブリャンスク正面軍(司令官エレメンコ)の包囲殲滅を試みた。ヴャジマ付近とブリャンスク付近で、二つの包囲戦を敢行してモスクワへの道を開き、南北から迂回してモスクワを占領するのが狙いだった。第2装甲軍がオリョールを奇襲して背後にまわりブリャンスクでエレメンコが指揮するブリャンスク正面軍に属する第3、第13、第50軍の三個軍を包囲した。ヴャジマ西方では西部正面軍に属する第16、第19、第20軍とボルディン作戦集団が包囲され合計81個師団がドイツ軍の包囲圏で孤立した。コーネフとエレメンコは諸軍を東方へと脱出させる為、必死に反撃し沼沢地や森林地帯を利用してなんとか包囲から抜けたが50万の兵を失っていた。ソビエトのモスクワ防衛線は崩壊し縦深陣地は蹂躙された。ジューコフは後に兵力の大半を失ったコーネフとエレメンコの作戦指導を厳しく批判している[161]。一方でヴォロシ―ロフの不興を買い、軍法会議にかけられそうになったコーネフを救い副官に迎えている。コーネフは自身の回顧録でジューコフは命の恩人だと述べる一方で、ジューコフを西部正面軍に推薦したのは自分だと証言している[162]。後に功績を競い合うライバルとなるコーネフと共闘したのはモスクワの戦場が初めてだった。10月はじめレニングラードにいたジューコフはモスクワに呼び戻された[163]。西部戦線の視察を命じられたジューコフは西部正面軍司令部に赴き、情勢をスターリンに報告した[164]

ジューコフ :最大の危機はモスクワへ通じる道路が事実上の無防備状態にあることです。
スターリン :それでブジョンヌイの予備軍は何をしているのだ?
ジューコフ :包囲されています。
スターリン :これからどうするつもりだ?
ジューコフ :ブジョンヌイ将軍のところに行ってみます。
スターリン :それで、ブジョンヌイの司令部の位置はわかっているのか?
ジューコフ :いいえ、だが、さがしてみます

スターリンは念を押すため、マレンコフとモロトフを西部正面軍司令部に派遣した[165]。ジューコフはブジョンヌイを探したがなかなか見つけられなかった[166]。マロヤロスラヴェツまで来た所で、ようやくブジョンヌイのジープを見つけ、地区ソビエトで指揮していた元帥と出会うことが出来た。二人は抱擁しあって再会を喜んだ。翌朝スターリンは、ジューコフに西部正面軍司令部に戻り、指揮するよう命じた。西部正面軍とブリャンスク正面軍の壊滅によりモスクワ正面を守る兵力はモジャイスク正面軍のみとなっていた[167]。10月6日ジューコフはブジョンヌイ元帥に代わって予備正面軍司令官に就任した。この危機をのりきるためスターリンは予備正面軍と西部正面軍を統合、ジューコフを新設した西部正面軍司令官に任命、モスクワ防衛の全権を委ねた[168]。一方で、スターリンはジューコフにもしモスクワが落ちるようなことがあれば、お前もコーネフの首も飛ぶだろうと恫喝した[169]。モロトフもジューコフに電話をかけ、退却をやめないと銃殺すると脅かした[170]。ジューコフがもっといい考えがあるなら、ぜひ代わって指揮をとってもらいたいと答えると、モロトフは電話を切った[171]。ジューコフはスターリンや側近達の恫喝にはまるで動じなかった。二人の会話を見た党員は「(ジューコフは)まるで上官のように高飛車な口調で話しかけていたが、スターリンはそれを容認していた。」と証言している[172]。 モジャイスク正面軍、ブリャンスク正面軍の残存部隊、スタフカ予備が西部正面軍に編入されたが、ジューコフの手元には90万の戦力しかなかった[173]。ジューコフはレニングラードの時と同じく、非情なまでの規律を求め、浮き足だつ守備軍を立て直した。許可なく撤退、降伏する臆病者や錯乱者は即刻射殺すると宣言、高級士官にも厳しく対応し、一人の師団長と一人の政治委員を許可なく撤退した罪で射殺した[174]。モジャイスク防衛線を視察した後、ジューコフはボロコラムスク~モジャイスク~マロヤロスラベツ~カルガの線に縦深的な防御陣地を建設することを決定した[175]。当時モジャイスク防衛線には軍学校のわずかな守備部隊しか配置されていなかった[176]。スタフカは新編成の機関銃5個大隊と対戦車砲10個連隊、それに戦車5個旅団を配属した[177]。さらに西部正面軍や予備正面軍の諸部隊、南西正面軍から派遣された部隊、奥地の軍管区で動員された予備隊がモジャイスク防衛線に集まった[178]。ジューコフは西部正面軍司令部で増員された諸部隊や資材を整理して適材適所に配置し、機動予備が可能な予備隊を抽出する作業に追われた[179]。司令部に勤務するメンバーは疲れと睡眠不足から文字通り倒れる寸前だったという[180]。ジューコフは消耗した部隊を後方に下げ、ボロコラムスク、イストラ、モジャイスク、マロヤロスラベツ、それにポドリスク~カルガ地区に砲兵と対戦車砲部隊の主力を集中した[181]。第一線陣地の後方地区では、多くの築城工事が行われ、戦車攻撃に対して弱い地区は、すべて戦車障害地帯がつくられた[182]。主要な正面に対しては予備隊が配置された[183]。ボロコラムスク~モジャイスク~マロヤロスラベツ~セルプホフの防衛線はすでにドイツ軍が浸透していたので、主防衛陣地帯は後方に下げられた[184]。ドイツ軍の攻勢力は日ごとにおとろえ、10月下旬までにツルギノボからボロコラムスク~ドロホボ~ナロフォミンスク~セルプホフの西をへてアレクシンにわたる戦線で食い止められた[185]。その間にジューコフは防衛線を整理し、新設部隊、装備品、武器、弾薬、通信器材、補給品などを補充し再攻勢に備えた[186]。11月15日中央軍集団は攻勢を再開、クリン地区、ポロコラムスク地区からイストラ地区に侵入しモスクワを目指した[187]。 スターリンはジューコフを呼び、モスクワは持ちこたえられるか?と質問した[188]。ジューコフは、2個軍団と戦車200両が必要だと答え、スターリンは2個軍団の手配のみ約束した。 ジューコフはボロコラムスク~クリン地区とイストラ地区に、ツーラ~セルプホフ地区に戦車師団と狙撃師団の予備隊を配置し攻撃に備えていた[189]。クリン地区は突破されドイツ軍はソリネチノゴルスク地区に侵入したが、ロソコフスキーが各地から集めた予備隊の総力を挙げて反撃し前進を食い止めた[190]。 ツーラ地区でもグデーリアンの攻勢が阻止され、ドイツ軍の攻勢は限界を迎えていた[191]。ジューコフは赤軍がドイツ軍を阻止出来た理由として機甲部隊の過大評価を指摘している[192]。中央軍集団は歩兵を欠いた機甲部隊でのみの攻勢を行い、各地の対戦車陣地帯に阻止され甚大な被害を受けた。また中央軍集団は十分な戦力を保持しながら戦線正面に攻勢をかけなかったので、赤軍側は戦力を拘引されず自由に予備兵力を動かせたことも指摘し、ドイツの敗因は作戦指導にあると述べた[193]。味方に対しては西方正面の部隊の防勢作戦を組織するという大仕事を指揮した参謀総長代理ワシレフスキー中将の功績を評価している[194]。ドイツ軍は戦略予備も戦術予備も出し尽くし全ての地区で食い止められた。武装親衛隊のダス・ライヒ自動車化師団の報告によると、11月19~20日の戦闘は、東方における全作戦中で、最もはげしく最も損害の多かった戦闘であったという。ジューコフはスターリンにスタフカ予備の2個軍を求め、中央軍集団に他の集団が応援に駆け付ける前にこちらから攻勢に転じるべきだと進言した[195]。スターリンは直ちに了承しジューコフの求めた2個軍に第20軍を加え3個軍を西部正面軍に編入させた[196]。北の方ではクリン、ソリネチノゴルスク、イストラに向って攻撃して敵の主力を撃破する[197]。南の方ではウズロバヤ、ボゴロジツクを攻撃して、グーデリアンの部隊の側面、背後にせまり、これを撃破する[198]。反攻作戦決行日は12月4日~6日とされた[199]。しかし増援を加えてなお戦力比では中央軍集団が優勢だった[200]。そこでジューコフはコーネフ大将指揮下のカリーニン正面軍と南西正面軍右翼部隊を攻勢に参加させた。12月6日モスクワの南北で3個正面軍が攻勢を開始した。北の攻勢ではクリン、クリュコボ、ソリネチノゴルスを奪還し、南ではグデーリアンの第2装甲軍に痛撃を与え10日で130km進撃した。ジューコフは攻勢に参加する諸部隊に陣地への正面攻撃を避け、迂回して無力化を目指せと命令した[201]。エレツでは逃げ遅れたドイツ軍歩兵2個師団を全滅させ、1月初旬までにオレシキからスタリツァ~ラマ川~ルザ川~マロヤロスラベツ~チホノバプスチン~カルガ~モサリスク~スヒニチベレフ~ムツェンスクをへてノボシリの線に到達した[202]。中央軍集団の脅威はモスクワから150km~285km以上押し返され、ドイツ軍は50万の兵士と1300両の戦車、2500門の砲、1万5000以上の輸送車両を失った。ジューコフはモスクワの会戦でソ連軍は、ドイツ軍の主力部隊に、非常に大きな戦略的敗北を味わわせたと高く評価している[203]。また私は、この戦争のなかで何が一番記億に残っているか、とよく人に聞かれることがあるのだが、いつでも「モスクワの戦いだ」とこたえていると自身の回顧録で述べている[204]。一方でジューコフのモスクワ防衛での指揮ぶりは手厳しく、押付けがましかったと第16軍司令官ロコソフスキーは回顧録で批判している。イストラ地区を防衛していたロコソフスキーがドイツ軍との戦力差に弱音を吐くと、ジューコフは「貴官は理由もなく時間を浪費している。多勢に無勢の報告を再三送ってくるが、指揮官にあるまじき態度である。我々も政府も貴官と敵の戦力を承知している。根拠のない恐怖にとらわれず、与えられた戦力をもって使命を果たすべきである。政府の指示と命令は、いろいろ言い訳をする前に遂行しなければならない。」と叱責した[205]。ロコソフスキーは再び撤退許可を求めたがジューコフに拒絶され、参謀総長シャポシニコフに直接撤退許可を求めた。これを知ったジューコフは「前線指揮官は私である。イストラ貯水池まで撤退する命令を取り消すよう命じる。一歩も退かず現在の防衛線を死守せよ。」と打電した[206]。ロソコフスキーは回顧録で「才能、精力、自信、すべてに恵まれていた。強い意志と決断力もあった。偉大な指揮官に必要な資質を豊かに備えていた。しかし指揮官たるものが、どこまで他人に自己流を押し付け、どのように振る舞うべきかという点で、私には別の考えがあった。常に最高水準を要求するのは確かに大切であり、軍を統率する者として不可欠な資質でもあろう。一方で指揮官には異なる資質も求められる。鉄の意志をむきだしにせず、部下を大切にし、その知性と自発性を尊重する態度である。あの過酷な日々に我らが方面軍司令官の振る舞いは、必ずしも必要な条件を満たしていなかった。彼は怒りだすと冷静さを失った。」とモスクワ戦におけるジューコフの指揮ぶりを総括している[207]。ジューコフの故郷であるストレルコフカ村もこの攻勢で解放されたが、彼の実家はドイツ軍によって焼かれていた。母や姉一家は避難して無事だった。12月13日ソ連各紙は戦争の流れを変えたモスクワでの目覚ましい反撃を、ジューコフの大きな写真とともに報じた[208]。西側のメディアもジューコフに着目し、ロンドン・イラスト・レイテッドの表紙をロシアの輝ける中部方面軍司令官グレゴリー・ジューコフ将軍の写真が飾った[209]。敵であるドイツ軍もジューコフに着目した。ドイツの駐在武官が最も優秀なロシアの将軍はジューコフだと迷いなく答えたと、サンデー・タイムスのモスクワ特派員アレクサンダー・ワースが証言している[210]。ジューコフは下級兵士の間でクトゥーゾフやスヴォ―ロフといったロシアを代表する名将と並ぶ伝説の人物と化し、常勝ジューコフの戦争神話は赤軍の上から下まで浸透した[211]

最高司令官代理[編集]

ルジェフ・ヴャジマ攻勢[編集]

モスクワの勝利に気をよくしたスターリンは全戦線での総反攻を強行した。ジューコフは将兵の消耗と資材の不足を理由に反対したが聞き入れられなかった。参謀総長シャポシニコフ元帥はジューコフが退室する際、「議論したのは時間の無駄だったよ。最高司令官は、前もってこの問題は決心していたのだ。方面軍にたいする命令は、ほとんど発令ずみだ。攻勢はここ数日中に、はじまることになっている。」と述べた。レニングラード正面軍と北西正面軍はレニングラード正面の解放を目指し、西部正面軍はルジェフ・ヴャジマの陣地帯に後退した中央軍集団を殲滅、南西正面軍と南部正面軍は南方軍集団を撃破してドンパス地区を解放する。スタフカはルジェフ・ヴャジマの攻撃に西部正面軍とカリーニン正面軍を動員、両正面軍統率のため西部戦域軍を設置、ジューコフを司令官とし作戦の全てを委ねた[212]。作戦は1月8日に始まったが、三か月たっても成果を上げられず、4月には中止された。第33軍を指揮するエフレイモフ中将がヴャジマ攻略を担当したが、彼はドイツ軍に包囲された。ジューコフは第33軍の救出に全力を注いだが、一部の騎兵部隊を除き第33軍は全滅した[213]。ロシアではジューコフが支援を怠り包囲されたとの説もあるが、当時の資料によるとジューコフが支援に全力を尽くしていたことが分かっている[214]。7月末にはルジェフ・ヴャジマへ再攻勢が実施され、ジューコフが再び指揮したが失敗に終わっている。その際ドイツ軍に包囲された3個師団を救えず、スターリンに叱責されている。ジューコフは1942年春にルジェフ・ヴャジマへの際攻勢を求めたが、ハリコフへの攻勢が優先され、攻勢は夏に延期となった。ジューコフは回顧録で夏の攻勢は攻勢の好機を失っていたと述べている。ルジェフ・ヴャジマでの敗北は、彼自身が作戦に反対だったこともあり、回顧録ではあまり触れられていない[215]。 この総攻勢はジューコフの予期通り全ての戦線で失敗に終わり戦線は春まで膠着することになる。春になると南西正面軍司令官チモシェンコがハリコフへの攻勢を、スタフカに要求した。ジューコフが求めたルジェフ・ヴャジマへの攻勢は延期となり、ウクライナでの攻勢が開始された。この攻勢は惨憺たる結果に終わり、3個軍が包囲殲滅され、28万の将兵が失われた。ウクライナの政治委員だったフルシチョフはこの敗戦の責任をスターリンに押し付け、フルシチョフの見解は党の編纂した大祖国戦争史でも採用された。ジューコフは後にフルシチョフの主張を厳しく批判し、回顧録では敗戦の責任は南西正面軍司令部にあったと断言している[216]。この時期のスタフカの方針は守勢にあったとジューコフとワシレフスキーは回顧録で主張している[217]。しかし当時のスタフカは戦略的攻勢に転じる明確な方針を打ち出しており、各方面軍司令部もスタフカの意向に応じて攻勢計画を提出していた[218]。1942年内の解放を目指すという点で軍とスターリンに考えは一致していた[219]。ドイツ軍は1942年6月28日南方軍集団にルーマニア軍、ハンガリー軍、イタリア軍を加えた200万の枢軸軍がブラウ作戦を開始した。ハリコフで消耗したチモシェンコには耐えられず、南西正面軍はドン河へと後退した。スターリンは予備軍を送ってスターリングラード正面軍を設立したが、枢軸軍の快進撃を止められず、8月にはスターリングラードは包囲され、カフカスが脅かされた。このような状況下でスターリンは再びジューコフを頼った[220]。1942年8月26日ジューコフは最高司令官代理に任命された。新たな危機に必要なのは断固かつ非情で不動の信念をもつ男だった。以後のジューコフは野戦司令官ではなく最高司令官代理として各戦線・各作戦を調整する任務に没頭することになる。複数の戦線を束ねて大作戦を成功させることがジューコフの役目であり、戦争後半の赤軍の諸攻勢におけるジューコフの役割は非常に大きかった。歴史家ジョン・エリクソンは「炎上した戦線の火消し役から、ソ連の戦争マシンを操る総監督へと、一気に転身をとげたのである。」と記している[221]。27日には国防人民委員代理に就任、以後ソ連の戦争遂行に関わる重要決定はスターリンとジューコフの名で下されることになる[222]。1942年9月ジューコフはスターリングラード正面軍司令部を訪れた。スターリングラード正面軍と南東正面軍の戦線を統括し調整するのが彼の仕事だった[223]。ジューコフはスターリングラード正面で戦う南東正面軍の戦いぶりに不満を持ち、司令官のエレメンコを叱責している。

天王星作戦と火星作戦[編集]

ジューコフは参謀総長のアレクサンドル・ヴァシレフスキー大将とともに、100万人の将兵と戦車980両で両側面のルーマニア軍を粉砕し、スターリングラードの第6軍を逆包囲するという「天王星」(ウラヌス)作戦を立案した。1942年9月12日、モスクワに戻ったジューコフはワシレフスキーと共に参謀本部で反攻計画の立案を開始したと回顧録に記している。回顧録によると朝から晩まで作戦を検討した結果、攻撃的防御でドイツ軍を疲弊させた後、スターリングラード周辺で大規模攻勢を実施する反攻計画をスターリンに提出した。スターリンはすぐには裁可せず、検討を約束し、9月末に承認した。しかしスターリン執務室の面会記録によるとこの時期にスターリンとジューコフが面会した記録はない[224]。1957年ジューコフが失脚した時、フルシチョフはエレメンコと共に天王星作戦は自分達が立案したと主張し、ジューコフは不当に手柄を盗んだと批難された。ジェフリー・ロバーツは回顧録を執筆したジューコフが自身の名誉を守るために、この逸話を作ったと分析している[225]。ジューコフは10月序盤には各指揮官を集めて作戦の説明をしており、作戦に参加したドン・スターリングラード・南西の三正面軍がジューコフに意見書を提出している[226]。ジューコフが天王星作戦の立案・実行において大きな役割を果たした事実を裏付ける資料は多い[227]。反対にフルシチョフとエレメンコが作戦立案に関わったことを裏付ける資料は存在しない[228]。 天王星作戦は1942年11月19日、ドン・スターリングラード・南西の三正面軍が協同して始まった。3500門の火砲が作戦の火蓋を切り、北からヴァトゥーチン指揮下の南西正面軍が、南からエレメンコが指揮するスターリングラード正面軍が攻勢を開始し、ロコソフスキーが指揮するドン正面軍が両正面軍を支援する[229]。ヴァトゥーチンとエレメンコはカラチを到達目標とし、スターリングラードの第4装甲軍と第6軍、さらにドン丘陵に展開する敵部隊を包囲する壮大な二重包囲作戦だった[230]。作戦は極秘とされ、入念なマスキロフカが実施された。赤軍の欺瞞工作は見事にドイツ軍を欺き、天王星作戦は想定以上の大成功を収めた。包囲したドイツ第6軍、第4装甲軍、ルーマニア軍約20万の生存者9万を1943年2月2日に降伏させ、ドイツ東部戦線の転換点を実現した。一方で中央軍集団の殲滅を試みた火星作戦は失敗に終わっている。デビッド・M. グランツはジューコフの立案した作戦は楽天的であまりに野心的だったと述べている[231]。ジューコフはヴャジマ・ルジェフの突出部を切り取り2個軍を殲滅する計画を建てた。第一段階でコーネフの西部正面軍とプルカ―エフのカリーニン正面軍がルジェフの第9軍を殲滅、第3打撃軍がヴェリキエ・ルーキを奪還しヴィテプスクに到達する、第二段階でスモレンスクまで到達して包囲網を形成、中央軍集団を一気に殲滅する。第一段階の攻勢は火星作戦と命名され天王星作戦と並行して準備が進められた。西部正面軍とカリーニン正面軍は南北からルジェフを攻撃し包囲を試みたが、ドイツ第9軍は抵抗拠点を複数形成し十分な数の機動予備を備えていた。スターリングラードのような両翼包囲には失敗し、機動予備を投入した第9軍の反撃で逆に赤軍の攻勢部隊が包囲された。ヴェリキエ・ルーキを攻撃した第3打撃軍も攻めぐあみ火星作戦は作戦中止を余儀なくされた。一方で第9軍の損失も大きく、包囲殲滅を恐れたヒトラーはルジェフ突出部の放棄を命令。第9軍は後方の水牛線に撤退し、新たな機動予備22個師団を抽出したが、同時にモスクワへの新たな攻勢は完全に潰えた。デニス・ショウォルターは火星作戦が作戦的戦術的には転機となり、主要戦区において赤軍が若気の過ちを犯した最後の機会になったと述べている[232]。ジューコフは自身の回顧録で火星作戦は天王星作戦支援のため、中央軍集団の戦力を誘引する事が目的だったと記している。デビッド・M. グランツはジューコフの主張に異を唱え、火星作戦は天王星作戦と同規模の独立した大作戦であり、ジューコフは天王星作戦よりも火星作戦に時間をかけたと主張している。ソ連のメディアでも火星作戦は天王星作戦と同格に扱われたが、失敗が明らかになると紙面から消えた。一方でジェフリー・ロバーツは火星作戦は中央軍集団に打撃を与え戦線を縮小させたと評価し、火星作戦の成果を過小評価してはならないと述べている[233]。天王星作戦と火星作戦の成果はスターリングラードやヴャジマ・ルジェフにおける包囲だけではなかった。より大きな包囲網の中に中央軍集団と南方軍集団を捕えることこそ重要な課題だった[234]。スターリンとジューコフはこれらの作戦で戦争そのものに勝利しようと考えていた[235]。1942年12月、ジューコフは「スターリンのお気に入り」として雑誌タイムの表紙を飾った[236]。1月18日には天王星作戦の功績でソ連邦元帥の称号を授与され、28日にはスヴォ―ロフ一等勲章を授与された。政府機関紙イズズベチヤはジューコフを将軍達の筆頭にすえ、モスクワ、レニングラード、スターリングラードで勝利した才能あふれる勇敢な指揮官と称賛した。

レニングラード解放[編集]

1943年1月にはレニングラードに戻り、最高司令官代理としてレニングラード・ヴォルホフの両正面軍がレニングラードの解放を目指す閃光(イスクラ)作戦を統括した。1月12日に作戦は始まり、18日にはレニングラードと郊外を結ぶ道路と鉄道の確保に成功した。確保したルートはわずか数マイルに過ぎず、デヴィッド・M・グランツは包囲にひびを入れた程度だと表現している。1月下旬にモスクワに戻ったジューコフはドイツ北方軍集団を包囲する北極星作戦の準備に取り掛かった。チモシェンコが指揮する北西正面軍はナルヴァとプスコフへと進撃し、レニングラード・ヴォルホフの両正面軍が支援する。一個野戦軍と一個戦車軍からなる特別軍集団がスタラヤ・ルッサ周辺に展開し、内側の包囲網を挟む重大な役割を担った。作戦が始まるとジューコフは北西正面軍に移り、全てを統括した。デミャンスク突出部のドイツ第16軍の殲滅を目指し、第1打撃軍が攻勢を開始したが失敗した。ジューコフはスターリンに、作戦目標を縮小しスタラヤ・ルッサ周辺の制圧にとどめると電報を送った。数週間かけてスタラヤ・ルッサ周辺の制圧を試みたが失敗し、北極星作戦は失敗に終わった。

クルスクの戦い[編集]

ジューコフは大祖国戦争の分水嶺となったクルスクの戦いで3つの役割を果たしている[237]。第一に戦闘計画の母体である戦略構想を策定した[238]。第二に主力となる中央正面軍、ヴォロネジ正面軍の戦闘準備を統括した[239]。第三に戦闘時に最高司令官代理としてブリャンスク、中央、ステップの各正面軍の関係を調整し、作戦を成功に導いた[240]。戦略、作戦、戦術と全ての次元でジューコフは大きな役割を果たした。マンシュタインの南方軍集団がハリコフで反撃に転じると、ジューコフはスターリンに呼び戻された。ジューコフは戦略予備の投入でマンシュタインの反撃を食い止め、クルスクに大規模な突出部が形成された。最高司令官代理として各方面の作戦を指導する一方で、ジューコフは赤軍の改革にも尽力した。各野戦軍には最高司令部直轄の支援特科部隊が配属され、全ての軍が可能な限り砲兵と工兵による支援が保障された。また1941年に廃止された機械化軍団が復活、1943年1月には最大単位の戦車軍が複数編成され新たな攻勢の主役を担った。指揮系統上問題となっていた二重指揮権も解消され、政治将校の権限は抑制され軍の一元的指揮が復活した。3月中旬スターリンはジューコフをヴォロネジ正面軍に派遣、ドイツ軍の調査を命じた[241]。1943年夏の戦いに備えジューコフは参謀総長ワシレフスキーと共同で防御戦に転じて、ドイツ軍の兵力を吸収・消耗させる新たな戦略案を提出した。4月8日ジューコフはクルスク突出部に対するドイツ軍の攻勢計画を予想し、スターリンに防御戦の有効性を説明した。「我が軍が先手を取って、敵に先んじて攻勢を行うのは得策とは思えません。敵は依然として強力な戦力を保持しているからです。よって、我が軍は防備を固めて敵に先手を取らせ、無理な攻勢で敵の戦車を消耗させ、敵が疲弊して限界に達した段階で、温存していた予備兵力を投入して逆襲に転じ、敵主力を一気に撃滅するのが得策であろうと考えます」 4月12日の戦略会議でスターリンはジューコフの作戦計画に反対し、即時攻勢を求めた。ジューコフはワシレフスキーと共に防御は新たな攻勢への布石だと説明し、スターリンを納得させた。戦略会議にはジューコフとワシレフスキーに加え参謀本部作戦部長のアントーノフ大将も参加した。ジューコフはアントーノフを高く評価し、「アントーノフは類まれな才能に恵まれた将軍である。教養も深く人をひきつける。参謀本部の戦略や戦術に関する話を彼から聞くのは、いつも楽しかった。」と述べている[242]。参謀総長のワシレフスキーが前線の調整に赴くと、アントーノフが事実上の参謀総長として役割を果たした。スターリン、ジューコフ、ワシレフスキー、そしてアントーノフが西へ攻勢を続ける赤軍を戦略的に操る頭脳だった[243]。クルスクへの防衛戦に備える一方で、防衛後の攻勢計画であるクトゥーゾフ作戦と、ルミャンツェフ作戦が立案された。最高総司令部は複数の作戦を連動させて、一つの戦役をデザインし、最終的な戦略的勝利を目指していた。一連の戦略会議の後、ジューコフは北カフカスに派遣され、タマニ半島に立て籠もるドイツ第17軍を排除する作戦を統括した。その際ジューコフはシチェメンコと出会い、彼の前でアコーディオンを披露した。シチェメンコは決して上手くはないがジューコフなりの情感がこもっていたと証言している[244]。5月にモスクワへ戻ると、スターリンは正面軍に出す命令を出す権限を、自身を除いて最高司令官代理のジューコフとワシレフスキーに限定した[245]。この決定は機械化部隊、砲兵、空軍、騎兵、工兵など各種兵科に通達され、各兵科司令部による正面軍への干渉は禁止となり、最高軍司令部による一元的な戦略指導が確立された[246]。次にジューコフは中央正面軍、ヴォロネジ正面軍の防御、攻撃の態勢を整える準備の取り掛かった[247]。オリョールとクルスクに大量の資材が搬入され、三層からなる強力な防御陣地が構築された。総延長5000キロ以上、深さ160キロという巨大な縦深を備え、2万門の火砲、3300両の戦車、カチューシャ・ロケット300基、64万個の地雷が配置され、2個正面軍130万の将兵が待機していた。後方には戦略予備であるステップ正面軍50万人が配置され、クルスクでの諸兵科連合戦闘の準備は十分に整えられた。戦史上最も手強い大規模防御体系が完成した。天王星作戦と同じく入念なマスキロフカが実施され、戦闘能力と反撃部隊の存在を徹底的に秘匿した。部隊の移動は夜間に限定され、各施設は偽装が施され、偽の施設が多数建設された。ドイツ軍は縦深防御の奥行きと、戦闘能力の実態は戦闘が始まるまで把握出来なかった。この時期のジューコフの働きぶりを中央正面軍司令官ロコソフスキーは「ジューコフは中央正面軍に来て、相当長い時間を使って準備を進めた。部隊編成、防御指揮、反撃について、我々は一緒に決定を下していった。彼のおかげで要望の多くがモスクワに受け入れられた。」と高く評価している[248]。ジューコフの運転手だったブーチンは「毎日、そして毎週、ジューコフはクルスク突出部を歩き回った。遮蔽物の建設、組み合わせや配置のごく細部にまで目を光らせた。」と証言している[249]。一方でドイツ軍の攻勢計画は延期に延期を重ね、クルスクでの防衛戦を不安視する赤軍将校も多かった。ヴォロネジ正面軍司令官ニコライ・ヴァトゥーチンは赤軍側の防衛計画が見抜かれたのではないかと考え先制攻撃を主張した。スターリンもヴァトゥーチンに賛同したがジューコフは再びワシレフスキーと説得し、防衛戦略の保持を認めさせた。1943年7月15日ドイツ軍は城塞作戦を発動、戦闘が開始された時ジューコフは中央正面軍司令部にいた。戦場の有様をジューコフはさながら地獄の交響曲のようだったと語っている。彼の役目は中央、ブリャンスク、西部の各正面軍を指導し、防御と攻勢を成功させることだった。ドイツ軍はほとんどの戦線で赤軍の防御を抜けなかった。モーデルの第9軍は1日2~3kmしか前進出来ず、善戦していたマンシュタインの第4装甲軍もプロホロフカの大戦車戦で力尽きた。プロホロフカの激戦が終わった直後、ジューコフはロトミストロフの指揮所を訪れた[250]。その時のジューコフの様子を、ロトミストロフは「ジューコフは長い間、戦車の残骸やえぐられた大地を見ていた。元帥は目の前の世界に気圧されたように頭を振り、帽子を取った。英雄として散った我が戦車兵に、哀悼の意を伝えているかのようだった。」と証言している[251]

ウクライナ解放戦[編集]

7月12日、赤軍は攻勢に転じオリョール地区の解放を目指す、クトゥーゾフ作戦が発動した。西部・ブリャンスク・中央の3個正面軍が投入され、ドイツ第9軍の包囲殲滅を目指した。モーデルは懸命に防戦したがクルスクで消耗した戦力では攻勢に耐えられず、オリョールから撤退した。ジューコフは増援を送れば、モーデルを完全に包囲出来ると主張したが、スターリンは敵を撤退させる方が大事だと判断して提案を退けた[252]。ジューコフはクトゥーゾフ作戦には直接関わらず、ルミャンツェフ作戦の統括を担当し、ヴォロネジ正面軍とステップ正面軍を指導した[253]。7月16日ルミャンツェフ作戦が発動、南部、南西の2個正面軍が南方軍集団南翼のミウス河へ攻勢を開始、ヴォロネジ、ステップの2個正面軍がベロゴルド北方から攻勢を開始した。8月23日にはハリコフを奪還、各方面軍はドニエプルを目指した。 8月初旬にはスヴォーロフ作戦とチェルニゴフ=プリピャチ作戦が発動、西部正面軍とカリーニン正面軍がスモレンスクの奪還を目指し、中央正面軍とブリャンスク正面軍がブリャンスクの奪還を目指した。9月中旬にはスモレンスクとブリャンスクを奪還し、白ロシアでの攻勢は成功に終わった。ウクライナ方面ではルミャンツェフ作戦の後、ドニエプルを目指し、ウクライナ全土の解放が赤軍の最終目標となった。エヴァン・モーズリーはウクライナ解放をめぐる戦いについて「規模において前例のない戦いだった。1943年8月~44年4月に及ぶ八か月の作戦は、この戦争で最も長い戦闘だった。戦場も広大だった。ドイツ国防軍はまずドニエプル東岸まで退き、その後はるかカルパチア山脈まで後退、さらに1938年当時のポーランド国境まで撤退した。」と述べている[254]。ジューコフはウクライナ解放戦の最初から最後まで、一貫して重要な役割を担った[255]。ウクライナでの作戦でジューコフは機動戦でドイツ軍を包囲殲滅する作戦を重視したが、スターリンは包囲戦は危険が多いと嫌い、広大な戦線でのローラー作戦を好んだ[256]。1943年8月26日、中央、ステップ、ヴォロネジの三正面軍がチェルニゴフ=ポルタワ作戦を開始、ドニエプルを渡りキエフの奪還を試みた。秋になると赤軍はドニエプル西岸に橋頭保を確保し、キエフを包囲して奪還する準備を整えた。ジューコフはヴォロネジ正面軍とステップ正面軍の調整を担当していたが、9月28日にヴォロネジ正面軍と中央正面軍の調整役となった[257]。ジューコフは役割分担を見直し、ヴァトゥーチンが指揮するヴォロネジ正面軍にキエフを奪還する栄誉を任せた[258]。中央正面軍を指揮するロコソフスキーは激怒して、スターリンに直訴したが、スターリンはぞんざいに、ジューコフの決定であると答えた[259]。この時期のジューコフはヴォロネジ正面軍の政治委員であるフルシチョフと良好な関係を保っていた[260]。しかしジューコフの回顧録には後に政敵となるフルシチョフの働きは軽くしか触れられていない。スターリンはジューコフに10月7日までにキエフを奪還せよと命じたが、ジューコフはドイツ軍の防御は縦深が豊かで地形は防御側が有利だと説明し、1個野戦軍と1個戦車軍の増強を求めた[261]。赤軍はウクライナでの作戦に中央、ヴォロネジ、ステップ、南西、南部の5個正面軍を投入し、10月にヴォロネジ、ステップ、南西、南部の四正面軍を第1~第4ウクライナ正面軍に改組した。ヴォロネジ正面軍は第1ウクライナ正面軍として再編成され、スターリンは戦力の増強と認め、キエフ攻略の期限をボリシェヴィキ革命の記念日である11月7日に延期した。11月3日、第1ウクライナ正面軍は開戦以来最大の砲火力を投入し、6日にはキエフを奪還した。ジューコフはヴァトゥーチンと共にキエフ攻略の朗報をスターリンに打電した。1943年末まで赤軍はドニエプル西岸を押さえ、ドイツ軍をさらに50~80マイル後退させた。12月、ジューコフはモスクワに呼ばれ、最高総司令部の戦略会議に参加した[262]。この会議は戦争の現状を確認し、次の大攻勢に向けて取るべき措置を決める会議だった[263]。参謀本部のデータによると、赤軍はこの時点でドイツ軍占領地の半分を奪還し、スターリングラード以降の攻勢でドイツ軍の162個師団に決定的な損失を与えた[264]。またドイツを中心とする枢軸軍に大規模攻勢を実施する余力は既にないが、500万の兵員、5400両の戦車と突撃砲、3000機以上の航空機を有し、攻撃的防御は可能である[265]。赤軍は兵員で30%、砲で70%、航空機で230%、枢軸軍を上回っている[266]。この会議の後、ジューコフは包囲戦の有効性を主張したが、スターリンは全戦線での同時攻勢を採用した[267]。最も重要な作戦はドニエプル以西のウクライナ全域を解放する作戦だった。12月中旬、ジューコフは第1ウクライナ正面軍に戻ると、ヴァトゥーチンと共にジトーミル=ベルディ―チェフ作戦を指揮した。1月になるとコーネフの第2ウクライナ正面軍と共同でコルスニ=シェフチェンコフ突出部を包囲する作戦に参加、ジューコフは二つの作戦を統括した。コルスン=シェフチェンコフでの包囲作戦は自分の発案だったと回顧録で述べているが、コーネフは回顧録で自分の発案だと反論している。包囲中、スターリンは作戦の難航に苛立ち、ジューコフを叱責した[268]。包囲下のドイツ軍を殲滅する任務はコーネフに任せられ、ジューコフは包囲の支援を担当した。コーネフは包囲下のドイツ軍を一週間で殲滅し、スターリンはコーネフを称賛した。ジューコフは後にスターリンの指示に不満を持ち、「第1ウクライナ正面軍には、全く言及がなかった。私は最高総司令官が誤りを犯したろ感じた。敵を包囲殲滅する作戦は、内側の部隊と外側の部隊の双方が機能して初めて成功する。疑いようのない事実だ。ヴァトゥーチンの正面軍とコーネフの正面軍が、ともに同等の働きをしたから双方成功を収めたのである。」と語っている[269]。1944年2月に前線視察中のヴァトゥーチン大将が反共ゲリラの襲撃で死亡すると、代って第1ウクライナ正面軍の指揮をとった。ジューコフは回顧録でヴァトゥーチンの死を深く悼んでいる。ジューコフが前線で指揮を執るのは、モスクワで指揮した西部正面軍以来だった。ジューコフの任務はドニエストル河に到達し、南方軍集団の退路を断つことだったが、彼の関心は次の戦略的攻勢であるバグラチオン作戦に移っていた[270]

バグラチオン作戦[編集]

バグラチオン作戦はドイツ中央軍集団を殲滅し、白ロシアから駆逐するために策定された。中央軍集団は東部戦線で唯一、ほぼ無傷で残る強力な戦闘集団だった。第1~第3白ロシア正面軍と第1ウクライナ正面軍が主攻勢を担い、四正面軍による総攻撃を想定していた。四正面軍の戦力は、兵員240万、戦車5200両、砲3万6000門、航空機5300機を有し、ドイツ軍に比べ兵員で200%、戦車で600%、航空機と砲で400%優越していた[271]。第1白ロシア正面軍はブレスト、ワルシャワを、第2白ロシア正面軍はミンスクを、第3白ロシア正面軍はリトアニアの首都ヴィリニュスを目指し、レニングラード、バルト、第1ウクライナ正面軍が支援の役割を担った。1944年5月15日、スターリンは複数の正面軍を統括させるためジューコフをモスクワに呼び戻し、第1ウクライナ正面軍の指揮はコーネフを後任とした。5月25日~27日にかけて、スターリン、ジューコフ、ワシレフスキー、アントーノフらがモスクワで戦略会議を開き、白ロシアでの新たな戦略攻勢を決定した[272]。5月31日には、作戦に参加する各正面軍に詳細な計画書を作成する指示が出され、指示書にはスターリンとジューコフの署名がある[273]。ジューコフはバグラチオン作戦の構想をまとめ、作戦前の各正面軍の準備、そして作戦開始後の各正面軍の攻勢の統括を担当し、作戦の立案、準備、実施において大きな役割を果たした[274]。作戦ではジューコフが第1白ロシア、第2白ロシアの調整を担当し、ワシレフスキーが第3白ロシア、第1バルトの調整を担った。ジューコフが最も長い在任期間を過ごしたのは第1白ロシア正面軍だった。クルスクの時と同様に、作戦準備と視察に長い期間を費やした。諸兵科の連携に力を入れ、毎日訓練に明け暮れ、前線司令部、指揮所、監視所を複数設置し攻勢に備えた。いつものように兵站には相当の力を注ぎ、十分な量の食料、燃料、弾薬を蓄積した[275]。6月中旬、ジューコフは各野戦軍司令官や参謀を集めて、図上演習を繰り返し、各司令官の特徴を把握した[276]。ジューコフは作戦準備の合間に、配下の士官や政治将校を連れて、趣味の狩猟を楽しんだ[277]。独ソ開戦からちょうど3年目の、1944年6月22日、バグラチオン作戦が開始された。四正面軍が500マイルの戦線で、一斉攻勢を開始、中央軍集団を分断・包囲して破滅的な打撃を与えた。7月3日にはミンスクを奪還、ミンスク東部で10万のドイツ兵を捕虜にした。7月13日にはヴィリニュスを奪還、コーネフ指揮の第1ウクライナ正面軍がリヴォフ=サンドミエシュ攻勢を開始し、ジューコフも最高司令官代理として作戦を統括した。7月27日にはリヴォフも奪還された。中央軍集団は6月22日~7月3日の間に、25個師団30万人を喪失、その後の数週間でさらに10万人を喪失し、47人いた将軍は31人が戦死・捕虜・行方不明となり7月末には事実上壊滅状態となった。赤軍は白ロシアとウクライナを奪還し、開戦前領域の大半を回復し、ポーランドに軍を進めた。ジューコフは白ロシア、ウクライナ解放の功績でソ連邦英雄の称号を再度授与され、7月29日に、第1白ロシア、第2白ロシア、第1ウクライナを調整する権限に加え、作戦上の決定権を与えられた[278]。この決定権を与えられたのはジューコフとワシレフスキーのみであり、二人の地位は赤軍内部でも特権的な地位となっていた[279]

東欧侵攻[編集]

バグラチオン作戦は当初白ロシア解放が主目標だったが、中央軍集団の崩壊により、行く手を阻む者がいなくなった赤軍はポーランドになだれこんだ。複数方面からワルシャワに迫り、バルト方面では東プロイセンに到達していた。ジューコフは7月19日に、東プロイセンを占領するか、ドイツ本土から切り離す作戦を提案した。最高総司令部の戦略会議で、東プロイセンの早期占領は困難であるとの結論に達し、主目標はワルシャワに変更された。ジューコフはこの時、東プロイセン攻略を後回しにしたことが余計な犠牲を出したと回顧録で語っている[280]。将来の大攻勢に備え、足場を築くことが目的であり、第1白ロシア正面軍がワルシャワのプラガ地区に橋頭保を確保する命令を受けた。ドイツ軍はワルシャワで頑強に抵抗し、国内や西欧から師団をかき集めて中央軍集団を素早く再編した。また赤軍の補給線は数百㎞伸び切り、攻勢は限界をむかえていた。ヴィスワ河西岸に築いた橋頭保は排除され、プラガ地区からも撤退を余儀なくされた。8月8日、ジューコフと第1白ロシア正面軍司令官ロコソフスキーはワルシャワへの再攻勢計画を最高総司令部に提出した[281]。ワルシャワの北、ブウトゥスク=セロツク地区で新たな橋頭保を作り、南部ですでに確保した橋頭保を強化し、ワルシャワを占領する計画だった。作戦は8月25日に開始予定だったが、29日に延期となり、ロコソフスキーはプラガ攻撃を再開した。ヴィスワ河西岸に橋頭保を確保したが、ドイツ軍の頑強な抵抗で安定した拠点は築けず、10月初旬にはワルシャワ攻略作戦は中止となった。赤軍は兵站線の再編成を余儀なくされ、ポーランドへの攻勢は1945年1月まで実施されなかった。8月末、ジューコフはブルガリア侵攻作戦を統括し、侵攻を担当する第3ウクライナ正面軍司令官トルブーヒン元帥と共に、9月4日に作戦計画を最高総司令部に提出した[282]。ブルガリア政府に戦意はなく、住民と軍は解放軍として赤軍を歓迎した。9月9日、ソ連が支援する共産主義政権が成立し、ブルガリアはドイツに宣戦布告した。9月中旬にはポーランドに戻り、第1白ロシア、第2白ロシア正面軍の調整役に復帰した[283]

第1白ロシア正面軍司令官[編集]

1944年11月18日ジューコフは第1白ロシア正面軍司令官に任命された[284]。スターリンは自身の代理として、レニングラード、モスクワを救い、スターリングラード、クルスクで勝利し、ウクライナ、白ロシアを解放したジューコフがベルリン攻略の栄誉を担うべきだと考えていた[285]。ベルリン攻略の大任を任せられた栄誉ではあるがジューコフ自身は最高司令官代理として戦線を統括できなくなったことを残念がった。ロコソフスキーはベルリン攻略を目前に、第2白ロシア正面軍に転任となり、ジューコフを深く恨んだ[286]。ジューコフは回顧録で「ロコソフスキーと私は、長年の温かい友情を失ったかように思われる。第1白ロシア正面軍司令官の地位を私が望んだのだと彼は考えたらしい。もしそうなら、彼の疑念は的外れだった。」と記している[287]。最高総司令部がドイツ本土への侵攻計画に着手したのは、1944年秋だった。1945年2月までにベルリンを落とし、ナチス体制に終止符を打つ。最高総司令部はドイツ本土への攻勢計画に二つの攻勢を準備していた。一つは東プロイセンを占領してドイツ中央軍集団の殲滅を目指す攻勢。もう一つはワルシャワ~カルパチア山脈の中間で実施する主攻勢でありジューコフとコーネフの第1ウクライナ正面軍が参加した。両正面軍は赤軍の兵員45%、戦車の70%、火砲43%が割り当てられ、ジューコフとコーネフには二つの親衛戦車軍が与えられた。第一段階でヴィスワ河~オーデル河まで到達し、第2段階でエルベ河を突破してベルリンを占領する。ジューコフはワルシャワを攻略、ポズナニを経由して、ベルリンに直進する[288]。コーネフはブレスラウから工業地帯のシレジアに進出する。ロコソフスキーの第2白ロシア正面軍はポーランド北部を進撃、ダンチヒを目指し、チャルニャホスフキーの第3白ロシア正面軍は東プロイセンのドイツ軍を撃破して、ロコソフスキーと合流、バルト海沿いに進撃する。最高司令官代理ワシレフスキーは各正面軍の調整を担当したが、実際の調整はスターリンが担った[289]。この作戦はヴィスワ=オーデル作戦と命名された。1945年1月12日、ヴィスワ=オーデル作戦が開始され、パラーヌフ橋頭堡から出撃したコーネフ軍は準備砲撃でドイツ軍の守備隊を粉砕、第48装甲軍団を撃破した。一方ジューコフもマグヌッツェフ橋頭堡とプラービ橋頭堡から出撃し、ドイツ第9軍の防衛線を破り、モドリンまで兵を進めた。わずか1日で赤軍の攻勢部隊はドイツ軍の砲兵陣地にまで到達した。一方ジューコフはワルシャワを占領し、ルージを経由してポズナュを占領、2月上旬にはオーデル河を渡りキュストリンに到達した。コーネフもチェンストコバ~ラドムスコ~クラクーフの一線に進撃後、ブレスラウとオーバーシュレジエンに到達した。赤軍は街道を驀進し、ドイツ軍陣地を無視して電撃的にオーデル河まで進撃した。極めて短期間にドイツ軍の戦線は数百Km押し返され、ポーランド各地の軍事工場や航空基地は避難させる間もなく赤軍の手に落ちた。東プロイセンへはロソコフスキー指揮下の第2白ロシア正面軍が侵攻し、ドイツ中央軍集団を分断・包囲していた。ジューコフは部隊に2月15日か16日にベルリン総攻撃を開始すると宣言、2月10日には最高総司令部にベルリン攻略計画を提出した[290]。しかし最高総司令部は反対した[291]。ジューコフの快進撃により、ロコソフスキーの第2白ロシア正面軍との間に140kmの間隙が生じ、ポンメルンに集結したドイツ軍が右翼への脅威となっていた[292]。ロコソフスキーは東プロイセンで苦戦する第3白ロシア正面軍を助けるため、右翼に支援命令を出し、その影響で左翼の進撃が遅れていた[293]。最高総司令部は右翼を北にむけ、ポンメルンのドイツ軍を撃破せよとジューコフに命じた[294]。ジューコフは第1・第2親衛戦車軍をポンメルンに派遣し、ベルリンへの進撃を一旦停止した[295]。第8親衛軍司令官としてジューコフの指揮下にいたワシーリー・チャイコフは、1960年代に、ベルリンへ直進していれば、戦争は2月中に終わったはずだと論文を発表した[296]。ジューコフはポンメルンの脅威を過大評価したスターリンの言いなりだったと痛烈に批判された[297]。それに対してジューコフはポンメルンの脅威は現実のものだったと主張、戦車軍をベルリンに突入すれば、退路を断たれる危険性があったと反論した[298]。実際ポンメルンのドイツ軍と戦ったジューコフの右翼部隊とロコソフスキーの左翼部隊は、20個師団の撃破に成功しながら、戦死5万、死傷者17万の大損害を出している[299]。最高総司令部も戦車軍の温存を強く求め、ジューコフの第1親衛戦車軍を一時的に預かったロコソフスキーに釘をさしている[300]。1966年1月、軍の幹部が歴史の教訓を論じる会議が開かれ、この場でもジューコフとチャイコフは同じ話題で衝突した[301]。コーネフとロコソフスキーが真っ先に同意し、軍幹部のほとんどがジューコフの主張を支持した[302]。進軍を止めた後も、ジューコフの視線はベルリンに注がれていた[303]。3月下旬に、ベルリン攻略の二つの案を参謀本部に提出した。第一案は、オーデル河西岸のキュリストン橋頭保を拡大する。第二案では、キュリストン北部とシュウエート南部に新たな橋頭保を確保しつつ、フランクフルトアンデアオーデルの橋頭保を拡大する。しかし3月31日、連合軍最高司令官アイゼンハワー元帥がスターリンに、英米の戦略を詳述する書簡を送った。英米軍はルール地方のドイツ軍撃破をめざし、ライプチヒ、ドレスデンのラインで赤軍との合流を望んだ。スターリンは翌日、連合軍と赤軍の戦略は一致していると回答、連合軍との合流にも同意を示し、主攻勢の再開は5月になるとアイゼンハワーに伝えた。スターリンは4月2日にジューコフ、コーネフ、アントーノフら軍幹部を集めて会議を開き、翌日にはジューコフとコーネフに、すみやかにベルリンを占領せよと命じた。作戦開始日は4月16日に決まり、ジューコフはベルリンを攻略してエルベ河に進撃し、コーネフは南方からベルリン包囲に参加して、ドレスデン、ライプチヒまで進撃する予定だった。参謀本部作戦部長のシチェメンコは回顧録で、スターリンにはジューコフとコーネフにベルリン一番乗りを競わせる意図があったと語っている[304]。当初はコーネフの担当範囲はもっと南にあったが、コーネフの猛抗議によって変更されたという[305]。しかしジューコフはシチェメンコの証言を明確に否定し、ベルリン攻略は第1白ロシア正面軍の任務であり、コーネフの役割は支援であったと主張している[306]。首都ベルリンは30マイルの縦深的な防衛線で覆われ、3つの防衛セクターに分かれていた[307]。防衛線は塹壕、地下基地、対戦車陣地、トーチカ、機関銃網でひしめき、100万の将兵と1500両の戦車、自走砲、1万門の火砲が固めていた[308]。ジューコフはこの戦史上最も堅牢な都市を攻略するため、77個狙撃師団、3155両の戦車、自走砲、1万4628門の火砲、1531基のロケット砲を用意した[309]。オーデル河には40か所の渡船場を設け、25の橋を架けた。技術者にベルリン市街地の模型を作らせ、スターリングラード以上の市街地戦を想定して準備を整えた[310]。ジューコフにとって最大の難関は、高さ100~300フィートの急勾配を持つゼーロウの断崖地帯だった[311]。ゼーロウ高地はドイツ軍が厳重に固めており、高地の周囲は湿地帯に覆われ機械化部隊の行動は阻害された。ジューコフは砲撃の後、歩兵部隊が稜線を確保し、機械化部隊が突破して、ベルリンを包囲する作戦を立てた[312]。突撃前に入念な支援砲撃が実施され、1日に123万6000発もの砲弾がドイツ軍陣地にふり注ぎ、その振動は60km先のベルリンにも届いた[313]。 しかしヴィスワ軍集団司令官ゴッドハルト・ハインリツィは守備兵力を後方の陣地線に下げて、赤軍の砲撃をかわしていた[314]。いつもは入念な実地検分を行うジューコフはベルリン競争を焦るあまり偵察を怠った。またドイツ軍の目を眩ますため143個のサーチライトを使用したが、霧により光は拡散しあまり効果はなかった。第8親衛軍を指揮していたチャイコフはジューコフのサーチライト戦術を批判している[315]。守備兵力を後方に温存した第9軍は抵抗力を維持し、激戦が続いた。第8親衛軍と第5打撃軍が稜線を確保した後に、カツコフの第1親衛戦車軍が投入される予定だったが、コーネフとの競争に焦ったジューコフは第1親衛戦車軍に前進を命じた[316]。戦車軍の前進により狭い戦場は大混雑となった。結局4月16日の攻勢は失敗に終わる。その日ジューコフは戦況をスターリンに報告した。スターリンはコーネフ軍の進撃は順調だと述べ、ジューコフは明日までには突破してみせると約束した。ジューコフとの電話を切った後、スターリンはコーネフにベルリンへの進撃を命令した。4月17日の戦闘でもジューコフはゼーロウを突破出来ず、ライバルであるコーネフの進撃を聞き頭を抱えていた。18日にスターリンはこれ以上手こずるならコーネフにベルリン攻略を委ねると電話をかけ、18日の午前中ジューコフはゼーロウを破り、第1親衛戦車軍が国号一号線に到達した。結局ゼーロウ高地の突破に、ジューコフは三日を費やした。ジューコフもコーネフも麾下の親衛戦車軍にベルリンへの突入を命じ、ジューコフは突入が成功したらスターリンだけでなく、報道機関に知らせろと異例の命令を出した[317]。第1親衛戦車軍はベルリンへの突入を開始、ジューコフ自身も数個軍を指揮してベルリン北部に急行した。ジューコフの下で砲兵を統括するカザコフ大将は砲兵中隊群にベルリンへの砲撃を命じた。一方順調に進撃していたコーネフは撤退中だったドイツ第9軍に遭遇し、思わぬ抵抗を受けていた。コーネフも第3親衛戦車軍をベルリンに突入させ、両軍はほぼ同時にテルトウ運河を越えた。両者はほぼ同時にベルリンに突入したが、ジューコフの部隊が帝国議事堂に突入した時、二人のベルリン占領競争は事実上決着した[318]。ジューコフは勝利の将軍として不朽の名声を得ることになる[319]。4月30日、帝国議事堂を制圧した第3打撃軍所属の二人の兵士が、議会堂の上にソ連国旗を掲げた。5月1日、スターリンはベルリン占領を世界に発表し、翌日全てのベルリン守備軍が降伏した。赤軍はベルリン攻略に8万の戦死者を出し、死傷者を含めると損失は30万人に達した[320]。ドイツ軍の戦死・戦傷者は50万人、捕虜は50万人と総損失は100万人に達した[321]。ジューコフはベルリン最後の防衛線であるラントヴェーアを越えた所でドイツ軍の特使であるクレープスを迎えた。ジューコフはすぐにドイツ軍降伏とヒトラー死亡の情報をスターリンに送り、5月9日、ドイツのカイテル元帥より降伏文書を受け取った。ジューコフは回顧録で、「広場は異様な興奮に包まれた。誰もが互いに喜びを分かち合い、手を握りあった。多くの人々の目にうれし涙があった。私は腕を組んだ同志に取り囲まれた。」と、当時の様子を記している。祝宴は夜を徹して続き、ジューコフは若い時を思い出しながらロシアのダンスを踊った[322]

ドイツ駐留軍最高司令官[編集]

5月19日、モスクワに呼び戻されたジューコフは、ソ連のドイツ占領軍の最高司令官に任命された。同時に連合国管理理事会のソ連代表を担い、ドイツの分割占領をめぐって協議した。6月9日、ジューコフはベルリンで記者会見に臨み、ソ連や外国記者の質問に答えた[323]。ある記者がノモンハンの戦いをどう思うか?、日本兵とドイツ兵の違いはなにか?と質問した[324]。ジューコフはドイツ兵について、もはや敵ではないと巧みに質問をかわしつつ、1939年に戦った日本兵より技量は優れていたと答えた[325]。記者団の中にいたサンデー・タイムスのモスクワ特派員アレクサンダー・ワースは、「ジューコフは傑物という感じがした。態度が素朴で快活だった。」とその時の様子を語っている[326]。6月中旬、再びモスクワに戻り、三度目のソ連邦英雄の称号を授与された。赤の広場で実施された戦勝記念式典では、スターリンに代わって全軍の閲兵司令官を務めた[327]。馬の専門家であるブジョンヌイ元帥が推薦した、アラブ種の堂々たる白馬に乗り、式典に参加した[328]。全ての正面軍と各種兵科の連隊が隊列を組み、ロコソフスキー、ワシレフスキー、コーネフ、エレメンコ、トルブーヒンら将星達が隊列に参加する中、ジューコフは全軍を閲兵した[329]。モスクワの式典が大成功に終わると、9月にはベルリンでソ連主催の戦勝記念式典が開催され、ジューコフはベルリンでも閲兵司令官を務めた[330]。式典に参加したアメリカのジョージ・パットン大将は妻への手紙に、「彼の盛装はまるで喜劇のオペラのようで、メダルだらけだ。チビでデブだ。あごは類人猿のようにつかみ易い。だが目は青く澄んでいる。」とジューコフの印象を記している[331]。ジューコフはポツダム首脳会談の準備も任された[332]。乾杯が始まると、ジューコフはイギリス首相チャーチルと語りあった。チャーチルがジューコフの功績をたたえてグラスを上げると、ジューコフはうっかり同志と呼んでしまった[333]。すぐに戦場の同志たる連合国のために、と言い直しその場を乗り切った[334]。翌日スターリンは新しい同志が出来たな、とジューコフをからかった[335]。ジューコフがベルリンで最も親しくなったのは、アメリカ代表のアイゼンハワー元帥だった[336]。連合国は占領区画を事前に決めていたが、戦闘の影響で流動化していた。英米はドイツの最高権力を占領軍に移譲する文書に署名を求めたが、ジューコフはソ連占領地区からの英米軍の即時撤退を求め、アイゼンハワーと交渉した。両国の主張は食い違ったままだったが、両者の関係は良好だった[337]。アイゼンハワーはジューコフと初めて会った時、彼に司令官勲功章を授与した[338]。数日後、ジューコフはアメリカ軍司令部を訪問、返礼に勝利勲章を送っている[339]。8月、アイゼンハワーは息子ジョンと共にモスクワに招待された。ジューコフはアイゼンハワーに付き添い、二人はモスクワの道中で大いに語り合い、アイゼンハワーはソ連に先駆けてベルリンを攻略する意図はなかったと釈明し、チャーチルがそのような疑惑を招いたと批判した[340]。モスクワ訪問時、アイゼンハワーはジューコフとスターリンの関係を語っている[341]。「ジューコフとスターリンはとても馬があった。二人は親しげに言葉をかわし、心もかよいあわせていた。」同時期、アメリカのトルーマン大統領もジューコフを招待した。トルーマンはジューコフを心から尊敬し、アメリカ国民は彼と赤軍に親愛の情を抱いていると伝達した[342]。ソ連は訪問は9月か10月になると返答したが、一度目の訪問は実現せず、1946年4月に再びジューコフを招待した、しかしすでに米ソ両国は冷戦に突入しており、ジューコフは職務を理由に断っている。アイゼンハワーは回顧録でジューコフを高く評価した[343]。「ジューコフ元帥は間違いなく誠実な人物である。我々の時代で彼ほど、責任ある指揮官として数多くの大戦闘を経験した人物はいない。間違いなく百戦錬磨の軍人と言えよう。」と語っている[344]。ジューコフもアイゼンハワーの人格を高く評価し、「彼の素朴で気取らない人柄とユーモアの感覚に、私は好感を抱いた。」「ソ連国民が、多大な犠牲を払ったことを、彼はよく分かっているようだった。」と回顧録で語っている[345]

オデッサ軍管区司令官[編集]

ジューコフは1946年3月にソ連地上軍最高司令官に就任、名実ともに軍のトップに君臨した。しかしジューコフの名声および人気は、スターリンの独裁政治にとって少なからぬ脅威となった。モスクワに戻った彼を待ち受けていたのは、中央軍事会議での批判と左遷だった[346]。ジューコフは自己顕示欲におぼれ同志を侮辱したと会議で批判され、罪状が朗読された。軍事会議はジューコフを地上軍総司令官から解任し、傘下の部隊が少ないオデッサ軍管区司令官に左遷した[347]。ジューコフ失脚の直接的な要因となったのは、1946年4月に逮捕されたノヴィコフ空軍司令官の供述だった[348]。治安機関の尋問を受けた彼は、ジューコフは異常な権力志向と自尊心の人物であり、栄誉にこだわり称賛と従属を要求し、意見の相違を認めないと供述した[349]。スターリンの死後、ノヴィコフはジューコフへの批判は拷問で治安機関に強要されたものだと語っている。スターリンはノヴィコフの供述を利用し、最高総司令官への不適切で有害な行為を理由に、ジューコフを左遷した。ジューコフ自身は左遷の理由を、妬みが原因だと語っている[350]。ジューコフはNKVD長官ラヴレンチー・ベリヤと軍事力相のブルガーニンをやり玉にあげている[351]。回顧録によるとジューコフは、命令伝達や予備役の指揮をめぐり、ブルガーニンと衝突したという記述がある[352]。6月中旬、オデッサに赴任したジューコフはコンスタンチン・シーモノフに心中を語っている[353]。「冷静さを保とうと強く自分を戒めていた。私が我を失い地方の司令官として一日も務まらない事態になれば、彼らを喜ばせるだけとわかっていた。そうはさせるものかと思った。もちろん何と言っても名声は名声であり、かけがえのないものだ。しかし同時に諸刃の刃となって、わが身に振り下ろされる時もある。痛手を受けても、私は以前と変わらぬ振る舞いを懸命に心がけた。」 ジューコフは8月に、戦後で初めての休暇をとり、保養地のソチで家族と過ごした。その中にはロコソフスキー元帥の姿もあった。8月23日、ブルガーニンはドイツ製家具を梱包した85個の荷物を積んだ馬車が税関で取り押さえられ、受取人はジューコフだとスターリンに報告した。1947年2月、ジューコフは党中央委員候補の地位を追われた。ジューコフは2月23日と27日に、スターリンに書簡を出し、自信の潔白を主張した。スターリンはジューコフの書簡を無視し、二度と彼に会うことはなかった。6月には歌手のリーディア・ルスワーノラが1945年にベルリンを訪れた際、軍のメダルを授与したことが問題にされた。ジューコフは彼女と共演し、アコーディオンで演奏し、ルスワーノラは元帥にしては演奏が上手かったと語っている。政治担当として長年ジューコフに仕えたチェレーギン中将が責任をとらされ、退役に追い込まれた。1948年にはチェレーギンとルスワーノラの夫であるクリューコフ少将が、ジューコフとの関係を理由に逮捕された。ジューコフは回顧録で「1947年の私は毎日、逮捕を恐れていた。いつでも持ち出せるように下着を入れたバッグを用意していた」と語っている。さらにドイツ駐留司令官時代に、戦利品を不当に着服したとの嫌疑がかけられ、1948年1月、スターリンは国家保安相アバクーモフにジューコフの住居と別荘の捜索を命じた。アバクーモフは住居から多数の宝石、金、銀食器、絹、毛皮、外国製家具が見つかったと、スターリンに報告した。戦争中ジューコフの副官だったショーモチキン大佐が、責任を問われて逮捕され、ジューコフ自身も取り調べを受けた。ジューコフはショーモチキンの供述を突き付けられたが、証拠品は国家保安省が後から持ち込んだものだと述べ、潔白を主張した。取り調べを担当したジダーノフは不誠実な責任逃れと断定し、ジューコフはさらに格下のウラル軍管区司令官に左遷された。

ウラル軍管区司令官[編集]

ジューコフはベリヤとアバクーモフを批判したが、スターリンだけは責めなかった。ジューコフは自身が逮捕されないのは、スターリンが守ってくれたからだと信じていた。実際、スターリンはアバクーモフがクーデター計画の容疑でジューコフの逮捕を要請しても、「ジューコフがクーデターを計画したなどとは、誰が言っても信じられない。ジューコフのことはよく知っている。誰に対しても率直に物の言える、真っすぐで、頭の切れる人物だが、中央委員会に逆らうような人物ではない。」と語り、応じなかった[354]。アバクーモフはスターリンの死後、職権濫用の罪で処刑されている。ジューコフは党が編纂する大祖国戦争の歴史からも抹消された。戦勝記念パレードの絵からジューコフの姿が消え、モスクワ攻防戦を描いた映画でもジューコフの姿はなかった。プラウダ紙の列挙したソ連邦元帥の中からジューコフの名前だけが除かれた。スターリンのジューコフに対する仕打ちを批判したゴルドフ大将とルイバリチェンコ少将は逮捕後に銃殺された。1949年ワシレフスキーが国防相に就任すると、ジューコフへの嫌がらせは止まり、状況は改善した。プラウダ紙ではジューコフの名が復活し、1950年にはソ連最高会議の代議員に選ばれた。1951年には政府代表団のメンバーに選ばれて、ポーランドを訪問、ポーランド国防相となっていたロコソフスキーと再会した。1952年10月、中央委員候補の地位を回復し、スターリンも「ジューコフの欠陥を我々は非難してきた。しかしベルリンでは優れた仕事をした。どこでも、それなりの仕事をした。」と語り、態度を軟化させた。一方私生活では新たな愛人を作った。 妻のアレクサンドラと共にウラルへ移った時、愛人のリーダ・ザハロウもウラルまでジューコフを追ってきた。しかしジューコフには新しい愛人が出来ていたので、リーダはモスクワに去った。1950年夏、心臓疾患で入院したジューコフは若い担当医ガリーナ・セミョーノワに惹かれ、彼女と不倫した。ジューコフはガリーナに夢中となり、彼女なしの生活は考えられないと手紙に記している。彼女がモスクワへ行くと、ジューコフは何度も手紙を出した。ジューコフの気持ちはガリーナに移っていたが、1950年後半になるまで同居はしなかった。別の愛人と産んだマルガリータがモスクワ国立大学の法学部に進学し、偶然長女のエラも同じ大学の同じ学部にいた。腹違いの姉妹は親交を深めたが、アレクサンドラはマルガリータとの付き合いを禁止した。

国防次官[編集]

1953年3月4日、ウラルにいたジューコフは突然、ブルガーニンにモスクワへ呼び戻された。ジューコフは党会議に参加し、そこでスターリンが危篤状態にあると知った。スターリンはその日のうちに息をひきとり、ジューコフは党会議で国防次官に任命された。国防相には因縁のあるブルガーニンが就任した。ジューコフはブルガーニンに、「君のせいで私は嫌というほど不愉快な目にあった。スターリンの攻撃に私をさらしたのも君だ。しかしもし心から強力しようと思っているのなら、過去の遺恨は忘れよう。」と声をかけている。スターリンの国葬は3月9日に実施され、ジューコフは「大祖国戦争の後、スターリンは私に酷い仕打ちをした。それでも私は彼の死が心の底から悲しかった。」と述懐している。1953年6月26日の朝、ジューコフはブルガーニンからクレムリンに呼び出された。マレンコフ、フルシチョフ、モロトフらの幹部が集まっており、マレンコフが保安機関を束ねるベリヤに国家転覆の陰謀があると告げた。ジューコフは自らベリヤの逮捕役を請け負い、信頼する部下数人を集めて、党指導部がベリヤと会談している部屋の外で待機した。マレンコフが合図をしたら、踏み込む手筈だった。合図がでると、ジューコフはつかつかとベリヤに歩み寄り、身柄を拘束すると告げ、彼の両腕をつかんだ。ジューコフの働きでベリヤは逮捕され、銃殺された。ジューコフは後に、生涯で最も大変な仕事はベリヤの逮捕だったと語っている。ベリヤの逮捕は軍部と共産党の関係を象徴する出来事となり大きな意味を持った。スターリン体制下では軍部は冷遇され、治安機関が体制維持の要となったが、新体制では軍部が国家の切り札として期待され、政治の領域でも発言権を拡大した。ジューコフは軍と党の好ましい関係を体現した存在となり、軍部はトハチェスキーの粛清以来、はじめて政治の領域で復権をとげた。ジューコフは国防次官として核戦力も統括していた。1953年秋、ソ連軍はウクライナのカルパチア軍管区で、核攻撃を受けた事態を想定し、野外演習を実施した。ジューコフは準備段階から本番まで演習に関与し、実際に核爆弾を爆発させ、部隊行動への影響を見極めた。核におびえて兵士も指揮官も委縮し、戦車の動きも緩慢だった。ジューコフは戦車の指揮官達を集めて、対独戦で戦ったように動けと命じた。演習は全体として大成功に終わり、演習での教訓は核戦力の運用を前提とする新しい戦闘規範にも盛り込まれた。核兵器の管理と製造もジューコフの提言通り、産業省の管轄から国防省に移された。

国防相[編集]

1955年、ソ連邦首相のゲオルギー・マレンコフが失脚すると、ニキータ・フルシチョフが党の実権を握った。フルシチョフはジューコフを国防相に推薦した[355]。ジューコフ自身はワシレフスキーを推薦したが、ワシレフスキーはジューコフが適任だと述べた[356]。国防相に就任したジューコフは当初フルシチョフと良好な関係を保っていた。大祖国戦争でも二人は、天王星作戦やウクライナ解放をめぐる作戦で協力していた仲だった。1955年2月7日、ジューコフは正式に国防相に就任し、アメリカ記者団を相手に会見を開いた[357]。記者が核兵器について質問すると、ジューコフは、核抑止力が世界を安全にしたとは言えないと言明した[358]。同時に核兵器だけでは戦争には勝てないとも語った[359]。大祖国戦争に対する話題になると、ヒトラーの過ちはなにか?という質問にたいし、ソ連の力を見くびる戦略的な誤りを犯し、戦術的には各種兵科を統合運用する重要性を十分に認識していなかったと答えている[360]。またスターリングラードの戦いよりモスクワの勝利がより重要であったか?との質問に対し、モスクワ、スターリングラード、クルスクと続いた一連の戦いが戦争の潮流を変えたと答えた[361]。ジューコフは会見で米ソ関係の融和を訴え、かつて親しかったアイゼンハワー大統領との関係に触れ、友好的な米ソ関係を取り戻したいと語った[362]。国防相になったジューコフの最重要課題は、軍の削減問題だった[363]。大祖国戦争の後、ソ連軍は1100万の人員を300万まで削減していた。しかし冷戦が激化すると540万人まで増加し、スターリンの死後に再び軍縮が始まった。核抑止力を重視するフルシチョフ政権は通常戦力の人員整理を推進、ジューコフは国防相として200万人の人員を削減し、フルシチョフの期待に応えた[364]。フルシチョフは、「軍服を着た多くの偏執狂と異なり、ジューコフは軍事費削減の必要性を理解していた。」と語り、その働きを高く評価した[365]。ジューコフは軍縮に誰よりも積極的であり、最終的に150万人規模への縮小を目指していた[366]。ソ連は国連に、軍備と兵員の大幅削減を訴え、軍縮の履行を監視する国際機構の設立を求めた。アメリカ政府が軍縮履行を確認するため、ソ連領内での偵察機の飛行許可を求めると、ジューコフはソ連機のアメリカ領での飛行を認めるなら応じると答えた[367]。ソ連政府は長年、欧州全土を包括する集団安全保障条約の締結を熱心に訴えていた。西ドイツがNATOに加盟すると、ソ連政府は東欧諸国を集めてワルシャワ条約機構を設立、ジューコフはモロトフと共同で条項を起案した[368]。1955年7月、東西両陣営はポツダム会談以来となる首脳会談を、ジュネーブで開催した。首相のブルガーニンがソ連代表として出席、フルシチョフ、モロトフ、ジューコフが同行した。フルシチョフはジューコフの出席について、アイゼンハワーとの親しい関係を考慮したという[369]。西側のメディアの関心は、ジューコフとアイゼンハワーの再会に集中した[370]。首脳会談の開催が決まると、タイム誌はジューコフを取り上げ、ジューコフの写真が表紙を飾った[371]。「ジューコフはソ連国民の英雄的存在である。戦争に勝利した赤軍は唯一、国民の尊敬を集める組織であり、スターリン死後の混乱した権力状況において、体制が安定を装えるのは、ジューコフと赤軍のおかげである。」と記事でもジューコフは礼賛された[372]。戦後の各国指導者たちは、ジューコフがいなければソ連はドイツに勝てなかったと思っていた[373]。アメリカの駐ソ大使チャールズ・ボーレンはジュネーブ会議の数週間前に、イギリス大使館の招宴でジューコフと出会い、ジューコフに関する報告書を本国に送っている[374]。ジューコフは米ソ関係の改善と軍備削減に大きな熱意を持っていると評価された[375]。ボーレンは回顧録でジューコフについて、「見るからに軍人らしく、ロシアのオーク材のように、がっしりと頑丈な体つきをしていた。顔色はやや赤く、澄んだ青い目をしていた。感じのいい笑みをつかべつつも、非常に用心深かった。特に外国人には心を許さなかった。合衆国には寛大な態度で尊敬の念さえ示した。アイゼンハワーには心から親愛の情を抱いているのだとはっきり分かった。」

戦後[編集]

戦争終結後はそのままソ連のドイツ占領軍の最高司令官となった。 大祖国戦争で最も昇進し、活躍した軍人として英雄視された。1945年、モスクワの赤の広場での対独戦勝パレードにおいて、ジューコフは本来スターリンが行なうべきであった行進する将兵を馬上より閲兵する栄誉を与えられた。スターリンは本来は自ら閲兵を行なうつもりだったが、リハーサルで馬から振り落とされ、ジューコフを呼んでこの役を譲ったのだという。 1945年6月26日、27日の会議で、ソ連軍の北海道上陸作戦の実施の是非が諮られたが、モロトフと共にジューコフは反対した[376]。なお、1945年8月22日の時点まで、北海道上陸作戦の準備はなされていた[377]。 このようなジューコフの存在および人気は、スターリンの独裁政治にとって少なからぬ脅威となった。ジューコフ自身もスターリンの警戒を察知し、「1947年の私は毎日、逮捕を恐れていた。いつでも持ち出せるように下着を入れたバッグを用意していた」と語っている。ジューコフはアイゼンハワーと親交を深めアメリカ旅行に招待された。 スターリンは1946年に帰国を命令、NKVD長官ラヴレンチー・ベリヤはジューコフに陰謀の証拠があると主張し逮捕の許可を求めた。戦利品強奪の罪でNKVDに一旦逮捕された、後すぐに解放されたが1947年にはモスクワから遠く、傘下の部隊も少ないオデッサ軍管区、後にウラル軍管区の司令官に左遷された。ジューコフ自身に逮捕の手が及ぶことは無かったが、直近の部下や親しい友人が身代わりとして犠牲になった。 しかし、スターリンの死後、再び政界に復帰し、1953年国防大臣代理に、1955年国防大臣に就任した。1953年には国家政治保安部(秘密警察)長官であったラヴレンチー・ベリヤを逮捕、処刑するなどして、スターリン死後のソ連共産党の指導体制を支えた。

1957年のヴャチェスラフ・モロトフらのいわゆる「反党グループ」との権力闘争では、ニキータ・フルシチョフを支持してこの危機を乗り切った。同年6月、ソ連共産党中央委員会幹部会員(政治局員)となったが、軍事面での政策においてフルシチョフと重大な意見の不一致が生じた。フルシチョフは、陸海の常備軍を削減し、抑止力の第一要因として戦略核兵器部隊を増強することで、浮いた人的および物的な資源を民間経済の発展に回そうとした。一方、ジューコフは軍の利益を第一に考えていたため、この政策には反対であった。フルシチョフは、軍に対する党の優位性を盾にしながら、ジューコフを大臣の職から解任し、中央委員会からも追放した。フルシチョフ自身の回顧録の中で、ジューコフがクーデターを企てていたと信じており、中央委員会の会議でこれを理由としてジューコフを告発し、追放したことが述べられている。敵よりも、味方を殺した数の方が多いとも言われる。[要出典]

イワン・バグラミャン(右)とジューコフ(中央)

1964年10月、フルシチョフが失脚すると、レオニード・ブレジネフアレクセイ・コスイギンが後を継ぎ、彼らによってジューコフの名誉は回復された。政界に復帰することはなかったが、ソ連において最も大衆に人気のある人物の一人であった。後に第二次世界大戦の回想録「追憶と熟考」(Воспоминания и размышления)を執筆し、世界30カ国、19ヶ国語、約800万部が出版された。日本では朝日新聞社より「ジューコフ元帥回想録」として1970年に出版された(現在は絶版)。

1974年6月18日に死去し、軍人として最高の栄誉をもって葬られた。モスクワ赤の広場にはジューコフの騎馬像が設置され、陸軍大学には「ジューコフ」の名が贈られた。

顕彰[編集]

ソ連邦英雄(4度)、モンゴル人民共和国英雄。勝利勲章2個、レーニン勲章6個、十月革命勲章、赤旗勲章3個、一等スヴォーロフ勲章2個を受賞。第二次世界大戦中、最高司令官より41回の感状を授与された。

彼の名前は、防空軍事指揮アカデミーに冠された。モスクワ、サンクトペテルブルク等には彼の名前の通りが存在する。モスクワ、エカテリンブルクオムスクトヴェリイルビテハリコフクルスク等には記念碑が、故郷に近いジューコフ市には胸像が、故郷のストレルコフカ村には花崗岩の記念碑が建てられた。

1995年、ジューコフの生誕100周年を記念して、ロシア連邦政府はジューコフ勲章を新設した。


評価[編集]

サンデータイムス記者アレクサンダー・ワース

ドイツの駐在武官がロシアで最も優秀な将軍はだれかとの質問をうけた。彼はまよわずジューコフであると答えた[378]

歴史学者オットー・プレストン

強い指導力・大胆な攻撃・革新性・陸空の巧妙な連携・必要なら膨大な犠牲もいとわない覚悟が彼の持ち味だった。強い重圧下でも平静を保ち状況を完璧に把握できた[379]

ソ連軍元帥ロコソフスキー

才能・精力・自信全てに恵まれていた。偉大な指揮官に必要な資質を豊かに備えていた。しかし指揮官たるものが自己流を押し付けどのように振る舞うかについて私にはべつの考えがあった。鉄の意志を強制せず知性と自発性を尊重する態度である。我らが偉大な指揮官は必ずしも必要な条件を満たしていなかった[380]

歴史家ハリソン・E・ソールズベリー

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p24
  2. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p24
  3. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p24
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава третья. Участие в Гражданской войне
  5. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p33
  6. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p35
  7. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p37
  8. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p40
  9. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p40
  10. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p41
  11. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p42
  12. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p42
  13. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p44
  14. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p44
  15. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p45
  16. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p45
  17. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p46
  18. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p46
  19. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p46
  20. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p46
  21. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p49
  22. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p49
  23. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p50
  24. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p50
  25. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p52
  26. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p54
  27. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p54
  28. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p55
  29. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p57
  30. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p57
  31. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  32. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p58
  33. ^ Жуков Георгий КонстантиновичВоспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  34. ^ Жуков Георгий КонстантиновичВоспоминания и размышления Глава седьмая.Необъявленная война на Халхин-Голе
  35. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p65
  36. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  37. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  38. ^ Жуков Георгий КонстантиновичВоспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  39. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  40. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  41. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  42. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  43. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава седьмая. Необъявленная война на Халхин-Голе
  44. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p73
  45. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p74
  46. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p83
  47. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава восьмая. Командование Киевским особым военным округом
  48. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p85
  49. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава восьмая. Командование Киевским особым военным округом
  50. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава восьмая. Командование Киевским особым военным округом
  51. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава восьмая. Командование Киевским особым военным округом
  52. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p86
  53. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава восьмая. Командование Киевским особым военным округом
  54. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p87
  55. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p88
  56. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p89
  57. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p89
  58. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p89
  59. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p92
  60. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p92
  61. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p93
  62. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p93
  63. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p93
  64. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p93
  65. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習 p103
  66. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習 p103
  67. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習 p103
  68. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習 p104
  69. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習 p104
  70. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習 p105
  71. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習 p105
  72. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p107
  73. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p107
  74. ^ 宿命の「バルバロッサ作戦」 (WWセレクション)作者: 山崎雅弘 pp.603-604
  75. ^ 宿命の「バルバロッサ作戦」 (WWセレクション)作者: 山崎雅弘 pp.603-604
  76. ^ 宿命の「バルバロッサ作戦」 (WWセレクション)作者: 山崎雅弘 pp.603-604
  77. ^ 歴史群像2006年12月号 №80 転換した赤軍の防衛戦略 独ソ開戦 極秘の図上演習p109
  78. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышленияГлава десятая. Начало войны
  79. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p74
  80. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  81. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  82. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  83. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  84. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  85. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  86. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  87. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  88. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  89. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  90. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  91. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  92. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  93. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  94. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  95. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  96. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  97. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  98. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  99. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  100. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  101. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  102. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  103. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p118
  104. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p118
  105. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p118
  106. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  107. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  108. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  109. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  110. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  111. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  112. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  113. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  114. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  115. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  116. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  117. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  118. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  119. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  120. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  121. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  122. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  123. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  124. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  125. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава десятая. Начало войны
  126. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p135
  127. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p130
  128. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  129. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  130. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  131. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  132. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  133. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  134. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  135. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  136. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  137. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  138. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  139. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  140. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  141. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  142. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  143. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава двенадцатая. Ликвидация Ельнинского выступа противника
  144. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p132
  145. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p132
  146. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p128
  147. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p128
  148. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p128
  149. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p128
  150. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава тринадцатая. Борьба за Ленинград
  151. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава тринадцатая. Борьба за Ленинград
  152. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p145
  153. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава тринадцатая. Борьба за Ленинград
  154. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава тринадцатая. Борьба за Ленинград
  155. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p146
  156. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава тринадцатая. Борьба за Ленинград
  157. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава тринадцатая. Борьба за Ленинград
  158. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p148
  159. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p148
  160. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p148
  161. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  162. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p132
  163. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  164. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  165. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p68
  166. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p68
  167. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  168. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  169. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p69
  170. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p69
  171. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p69
  172. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p72
  173. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p154
  174. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p155
  175. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  176. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  177. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  178. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  179. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  180. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  181. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  182. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  183. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  184. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  185. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  186. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  187. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  188. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p91
  189. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  190. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  191. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  192. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  193. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  194. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  195. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  196. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  197. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  198. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  199. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  200. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  201. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  202. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  203. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  204. ^ Жуков Георгий Константинович Воспоминания и размышления Глава четырнадцатая. Битва за Москву
  205. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p156
  206. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p158
  207. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p160
  208. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p162
  209. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p162
  210. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p162
  211. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p162
  212. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p165
  213. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p166
  214. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p166
  215. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p166
  216. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p169
  217. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p171
  218. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p171
  219. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p171
  220. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p172
  221. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p184
  222. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p184
  223. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p185
  224. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p188
  225. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p188
  226. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p189
  227. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p189
  228. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p189
  229. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p191
  230. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p191
  231. ^ クルスクの戦い1943: 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相 デニス ショウォルター (著),‎ 松本 幸重 (翻訳) p24
  232. ^ クルスクの戦い1943: 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相 デニス ショウォルター (著),‎ 松本 幸重 (翻訳) p25
  233. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p190
  234. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p195
  235. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p195
  236. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p199
  237. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p206
  238. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p206
  239. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p206
  240. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p206
  241. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p199
  242. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p207
  243. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p208
  244. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p208
  245. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p208
  246. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p209
  247. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p209
  248. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p210
  249. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p210
  250. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p213
  251. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p213
  252. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p215
  253. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p215
  254. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p216
  255. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p216
  256. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p218
  257. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p218
  258. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p218
  259. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p218
  260. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p218
  261. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p219
  262. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p220
  263. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p220
  264. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p221
  265. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p221
  266. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p221
  267. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p221
  268. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p222
  269. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p222
  270. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p223
  271. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p223
  272. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p224
  273. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p224
  274. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p224
  275. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p226
  276. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p226
  277. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p226
  278. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p228
  279. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p228
  280. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p235
  281. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p231
  282. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p235
  283. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p236
  284. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p236
  285. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p236
  286. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p236
  287. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p236
  288. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p238
  289. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p239
  290. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p241
  291. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p241
  292. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p242
  293. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p242
  294. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p242
  295. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p242
  296. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p242
  297. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p244
  298. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p246
  299. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p246
  300. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p246
  301. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p246
  302. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p246
  303. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p247
  304. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p249
  305. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p249
  306. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p249
  307. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p250
  308. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p250
  309. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p252
  310. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p252
  311. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p252
  312. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p252
  313. ^ 第二次世界大戦1939-45(下)アントニー・ビーヴァー (著),‎ 平賀秀明 (翻訳) p411
  314. ^ 第二次世界大戦1939-45(下)アントニー・ビーヴァー (著),‎ 平賀秀明 (翻訳) p411
  315. ^ 第二次世界大戦1939-45(下)アントニー・ビーヴァー (著),‎ 平賀秀明 (翻訳) p412
  316. ^ 第二次世界大戦1939-45(下)アントニー・ビーヴァー (著),‎ 平賀秀明 (翻訳) p411
  317. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p254
  318. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p254
  319. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p254
  320. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p255
  321. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p255
  322. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p256
  323. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p259
  324. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p259
  325. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p259
  326. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p259
  327. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p260
  328. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p260
  329. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p260
  330. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p261
  331. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p261
  332. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p261
  333. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p262
  334. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p262
  335. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p262
  336. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p263
  337. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p263
  338. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p263
  339. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p263
  340. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p263
  341. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p263
  342. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p264
  343. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p265
  344. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p265
  345. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p265
  346. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p270
  347. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p270
  348. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p271
  349. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p271
  350. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p273
  351. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p273
  352. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p273
  353. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p273
  354. ^ 赤い皇帝と延臣達 スターリン 下 サイモン・セバーグ・モンテフィリーオ著 染谷徹訳 p338
  355. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p287
  356. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p287
  357. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p290
  358. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p290
  359. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p290
  360. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p290
  361. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p290
  362. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p291
  363. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p291
  364. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p291
  365. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p291
  366. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p292
  367. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p292
  368. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p293
  369. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p293
  370. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p293
  371. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p293
  372. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p293
  373. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p293
  374. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p294
  375. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p294
  376. ^ ボリス・スラヴインスキー『千島占領 一九四五年夏』p160〜161
  377. ^ ボリス・スラヴインスキー『千島占領 一九四五年夏』p78〜79
  378. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p158
  379. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p74
  380. ^ スターリンの将軍 ジューコフ 著者ジェフリー ロバーツ p158

外部リンク[編集]

公職
先代:
ニコライ・ブルガーニン
ソビエト連邦の旗 ソ連国防大臣
1955年 - 1957年
次代:
ロディオン・マリノフスキー
軍職
先代:
創設
ソビエト連邦の旗 ソ連地上軍総司令官
1946年
次代:
イワン・コーネフ
先代:
創設
ソビエト連邦の旗 ドイツ占領ソ連軍総司令官
1945年 - 1946年
次代:
ワシーリー・ソコロフスキー
先代:
キリル・メレツコフ
Red Army flag.svg 赤軍参謀総長
1941年
次代:
ボリス・シャポシニコフ