ポーランド人民共和国

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ポーランド人民共和国
Polska Rzeczpospolita Ludowa (PRL)
ポーランド第二共和国 1952年 - 1989年 ポーランド
ポーランドの国旗 ポーランドの国章
国旗 国章
国の標語: 無し
国歌: ドンブロフスキのマズルカ
ポーランドの位置
公用語 ポーランド語
首都 ワルシャワ
(1952年 - 1989年)国家評議会議長
(1989年)大統領
1952年11月20日 - 1964年8月7日 アレクサンデル・ザヴァツキ
1985年11月6日 - 1989年7月19日 ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(国家評議会議長)
1989年7月19日 - 1989年12月30日 ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(大統領)
首相
1952年7月22日 - 1952年11月20日 ユゼフ・ツィランキェヴィチ(初代)
1989年8月24日 - 1989年12月31日 タデウシュ・マゾヴィエツキ(最後)
面積
1990年 312,685km²
人口
1946年 23,930,000人
1990年 37,970,155人
変遷
ポーランド統一労働者党が結成 1948年
社会主義憲法制定、国名をポーランド人民共和国に変更。 1952年
救国軍事会議が成立。ポーランド全土に戒厳令を発令。 1981年12月13日 - 1983年7月22日
円卓会議の決定に基づく自由選挙にて、「連帯」主導の非共産党政権が成立。 1989年9月12日
憲法改正により、統一労働者党の一党独裁体制が破棄。 1989年12月29日
通貨 ズウォティ
時間帯 UTC +1(DST: +1)
ポーランドの歴史
Warsaw-Castle-Square-2.jpg
先史時代
ピャスト朝  
プシェミスル朝
 
ヤギェウォ朝
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制)
ポーランド分割
ワルシャワ公国
ポーランド立憲王国 クラクフ共和国 ポズナン大公国
ポーランド摂政王国
ポーランド共和国(第2共和制)
ソ連による占領 亡命政府
ナチス・ドイツによる占領
ポーランド共和国
ポーランド人民共和国
ポーランド民主化運動
ポーランド共和国(第3共和制)
年表
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ポーランド人民共和国(ポーランドじんみんきょうわこく、ポーランド語: Polska Rzeczpospolita Ludowa)は、第二次世界大戦後の1952年に成立し、1989年に崩壊した。

第2次世界大戦の終盤、傀儡政権としてソビエトに支配されたポーランドは[1]ソビエト連邦の最大で最も重要な衛星国の一国であった[2]。ソビエト連邦は、ポーランドの国内及び外交政策に対し多大なる影響を持ち、自国の軍隊「赤軍」をポーランドに駐在させた[3]

ポーランド統一労働者党(略称:PZPR)は、一党独裁制の政党となり、公式にマルクス・レーニン主義共産主義国家を創った。

歴史[編集]

第二次大戦の勃発[編集]

1939年、第二次大戦が勃発し、ポーランドがドイツ・ソ連に分割占領された。ヴワディスワフ・シコルスキ首相ら政権幹部とポーランド軍の一部は、フランスで亡命政政府を設置した。1940年、亡命政府がイギリスロンドンに移る。(ポーランド亡命政府

1940年、ソ連がポーランド将校1万数千人をカティンの森近くで虐殺する。(カティンの森事件

1941年、ドイツがソ連に侵攻し、対ドイツで利害が一致したソ連が亡命政府を承認して国交を樹立する。

1943年、ドイツ軍がスモレンスク郊外の森でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見し、カティンの森事件が発覚する。これを契機に亡命政府とソ連は国交を断絶する。

ソ連によるポーランドの「解放」[編集]

1944年-1945年

1944年6月22日から開始された、ソビエト赤軍によるバグラチオン作戦の成功により、ドイツ中央軍集団は壊滅し、ナチス・ドイツは敗走を重ねた。ソビエト赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。

1944年7月22日、モスクワにてソ連の傀儡政権である共産主義政権の(ポーランド国民解放委員会(Polski Komitet Wyzwolenia Narodowego 又 PKWN)を樹立した。同年8月、本部をルブリンへ移転したのでルブリン政権とも呼ばれる。

7月30日、ソ連軍はワルシャワから10kmの地点まで進出。ワルシャワ占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することをソ連軍と打ち合わせた[4]

1944年8月1日17:00OPM - 10月2日ワルシャワ蜂起。ナチス・ドイツの支配からの解放を求め、ポーランド国内軍(AK)とワルシャワ市民は、ドイツ占領軍を相手に二ヶ月にわたり激しい市街戦を展開したが、10月ドイツ軍に降伏した。市民の死亡者数は推定、18万人~25万人の間とされる。国内軍は1万6000人、ドイツ軍は2000名の戦死者を出した。国内軍に、処刑されたドイツ民間人は約200名と言われている。

1945年2月4日11日、亡命政権のポーランド復帰を望むアメリカ合衆国イギリスと、新たな共産主義政権の成立をもくろむソ連とのヤルタ会談での話し合いは、平行線を辿った。スターリンは帰国した亡命政権の指導者を逮捕し、ルブリン政権によるポーランドの共産主義国化が決定的となった。 第二次世界大戦終結後、ヨシフ・スターリンはポーランドに「赤軍」軍隊を出して占領し、その主導権の下に新国家ポーランド人民共和国は建設された。

ソ連は、ポーランド東部を正式に自国へ併合し、代わりにドイツ東部をポーランドに与えた。ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。このため旧ドイツ領の地域は、回復領と呼ばれた。 この地域には100万人のポーランド人と300万人ドイツ人が居住していたが、赤軍の侵攻を恐れ多くのドイツ人が西へ逃避した。残留ドイツ人の多くは、ドイツ人追放によりポーランド国外へ強制退去させられた。共産主義政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民全てを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。 ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去しポーランドに移住した(ポーランド人人口の移転(1944-1946)英語版)。

ソ連・ポーランド関係[編集]

スターリン批判以前

第二次世界大戦終結後の1945年6月、ロンドン亡命政府と共産主義系のルプリン政権が合同し、国民統一臨時政府(Rząd Tymczasowy Rzeczypospolitej Polskiej 又 RTRP))が成立した。ルブリン政権発足当初は、ボレスワフ・ビェルトが国家法議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが勤めた。

ソ連はポーランドの国内及び外交政策に対し多大なる影響を持ち、自国の軍隊「赤軍」をポーランドに駐在させた[5]傀儡政権として支配された[6]。次第に共産主義系の勢力が政府の実権を握るようになり、亡命政府系の政治家は亡命や逮捕、多くは処刑された。 ソ連の衛星国とし、恐怖を伴ったポーランドのソ連型化は、産業を国営化し、50ヘクタールを超える私有農地は国に収用された。

1948年、ソ連の後援で共産主義のポーランド労働者党(Polska Partia Robotnicza 又 PPR)と非共産主義のポーランド社会党左派(PPS)が合同し、マルクス・レーニン主義の共産主義であるポーランド統一労働者党(Polska Zjednoczona Partia Robotnicza 又 PZPR)を創り、事実上の一党独裁政体へ移行した。 次の数年間、ビェルトはポーランドにスターリン主義をモデルにした政治を政策に取り入れた。それは、重工業と国有主義の農業を主にした経済、軍事(1955年、ソ連を筆頭とする共産主義国家8カ国による軍事同盟、「ワルシャワ条約機構」に加盟)、外交政策(共産党・労働者党情報局(コミンフォルム、英:Communist Information Bureau)、国際共産主義エージェントに加盟、文化、秘密警察の規則であった。市民や文化のソビエト化も執行した。

ルブリン政権発足当初は、ボレスワフ・ビェルトが国家法議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが勤めた。

1952年には、共産主義憲法を制定して国名をポーランド人民共和国に改めた。このようにして、共産主義国家が成立した。

労働者党は後に社会党と合併し、マルクス・レーニン主義のポーランド統一労働者党(略称:PZPR)となる。


1953年、スターリン死去。 スターリン時代、ビェルトはスターリンを信奉していたが、民族主義的でスターリン主義と意見を異にするゴムウカは失脚した。

スターリン批判以後

1956年 、ソ連共産党でスターリン批判が発表された。同年、ビェルトはソ連を訪問中に客死した。ビェルトの死は、スターリン批判によるショックによると推定される。一説では自殺であったとも言われる。

ヴワディスワフ・ゴムウカの名誉が回復される。

スターリン死去後、反スターリン派が出没して、1956年ポズナン暴動が発生したが、暴力的に鎮圧された。

同年10月31日、統一労働者党書記長に就任したゴムウカは非スターリン化の独自路線を打ち出す。スターリンの死後、東欧を支配していたスターリン主義(スターリニズム)からの脱皮とし、強制労働の廃止、農業集団化の廃止、ローマ・カトリック教会の迫害の停止、検閲の緩和などの改革を行う事によって解消することに貢献した。当初それを民衆は歓迎した。 しかし、1968年プラハの春に対し、ソ連や東欧諸国と共に軍隊を派遣した事や、グダニスクの暴動鎮圧の手法などの点では、他のソ連の衛星国の指導者達と変わりはなかった。

暴動とゴムウカの失脚[編集]

1970年、政府による食料品値上げの発表を発端に、グダニスクレーニン造船所でストライキが勃発した。抗議行動はバルト海沿岸に広がった。鎮圧に当たったポーランド軍は民衆に発砲し、多数の死亡者が出た。 ある程度民衆に支持されていたゴムウカは党書記長を解任され、後任にエドヴァルト・ギェレクが選出されていた。ギェレクは労働者出身という触れ込みで民衆の支持を得ようとした。

ギェレクは、工場整備と食料輸入を行なう事で経済回復計画とし、西側諸国の主にアメリカと西ドイツから莫大な借金をした。一時期、経済成長したが、無計画な経済政策は急激で膨大な食品価格のインフレをまねき、これにより暴力的なプロテストが各地に広まり多数の死者が続出、軍が出動し暴動鎮圧し終了した。莫大な債務を作り出し、その余波は今日にまでに及ぶ。この経済成長は、1973年のエネルギー危機(オイルショック)により終了した。1976年、消費者運動政策の失敗から新価格値上げを行うが、暴動となりまたも暴力的に鎮圧した。[7]

自主管理労組「連帯」と戒厳令[編集]

1980年7月1日、政府が肉食類の値上げを発表。翌日からストライキが発生し、同月24日までに45万人が参加した。ストライキはポーランド全土に拡大し、8月14日にはグダニスクのレーニン造船所でストライキが発生した。このストライキの指導者が後にポーランド大統領となったレフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)である。8月31日までに自主管理労組の承認を含む21項目の要求が認められた。9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、活動が全国に広まった。この頃ギェレクが失脚し、党書記長の後任にスタニスワフ・カニャが選出された。

ポーランドで起きたこの自由化の流れはカトリック教会の支持と西側諸国の共感を集めた一方で、東側諸国、とくにソ連と東ドイツに危機感を持たせた。ソ連は軍事介入を計画したが、アメリカ合衆国などの牽制を受け最悪の事態は回避された。

1981年ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが首相となり、党書記長も兼務した。全国で高まる民主化要求や社会不安を受け、連帯議長ヴァウェンサとヤルゼルスキ首相ら政府幹部との間で社会情勢の正常化に向けて協議が行われ、連帯と政府との間で協定が結ばれた。ヤルゼルスキは同年12月12日夜に救国軍事会議を発足させたうえで、翌13日には全土に戒厳令英語版ポーランド語版を発令し、ヴァウェンサら連帯活動家約7名と、ギェレクら旧政権指導者数十名を拘禁した。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は連帯の支持を表明した。1983年に戒厳令解除。連帯の活動によりヴァウェンサはノーベル平和賞を受賞した。


経済[編集]

ポーランド人民共和国の経済英語版

1950年代~1980年代の典型的なポーランドの様子、国家経営の店に並ぶ市民

1949年、ソ連の主導の共産主義諸国(東側諸国)の経済協力機構とし形成されたコメコン(COMECON- Council for Mutual Economic Assistance に加盟。

共産主義時代に政府は主に西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰をまねき、食料・物資不足が長く続いた。1973-74年のオイルショックもかさなり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補う為、更なる借金をする。政府は1980年までに230億ドルの膨大な債務をかかえている。この様な状況により、闇市が盛んになり欠乏経済英語版を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった。[8]

ギェレクの十年 (1970年–1980年)

ギェレクは主に米国や西ドイツから膨大な借金をし、総額100億ドルと推測され、外国からの借金は、1971年には1億ドル、1975年には60億ドルと急速に増えた。


メディアと情報の規制[編集]

東欧諸国の情報配信英語版

共産主義の東欧諸国では、共産党によりマスコミュニケーションはコントロールされ[9]、1980年代前にはラジオやTVは国営となり、出版物は通常地元の共産党が運営した[10]。支配階級は、メディアをプロパガンダのツールとし利用した。メディアは、情報と社会の統制維持を行なう上で重要な形を成していた[11]

共産主義時代、最大の読者数を持つ「Trybuna Ludu」新聞はポーランド統一労働者党(PZPR)の公式新聞としメインのプロパガンダ新聞であった。 1952年、ポーランド初のTV局「TVP1」と1970年代に設立された「TVP2」及びラジオ局「Program 1 Polskiego Radia」もPZPRが運営した。


共産主義プロパガンダ英語版[編集]

ポーランド人民共和国の共産主義プロパガンダ英語版

共産主義プロパガンダは、ソ連の共産主義衛星国の中で最大そして最重要な一国、ポーランド人民共和国において重要な役割となる。実力行使と脅威と共に共産主義政府に勢力を保持させ、そしてポーランドの社会を共産主義社会へと形成した[12]

共産主義プロパガンダの言葉は、極めて暴力的であった。1944年以降、プロパガンダ・キャンペーンは通常、人権の乱用と拷問を適用した共産主義の法制度の不調和の前に行なわれた[13]

教育(1952年–1989年)[編集]

ポーランド人民共和国の教育英語版

第2次大戦前は中等教育学校有料で制限され、特に地方の児童は教育が受けられない事が多かった。 1952年–1989年、人民共和国時代の教育は共産主義国家に管理され、小学校から大学まで提供し、授業料は無料となった。全ての学校で同じカリキュラムで教育され、田舎の学校も都心部と同レベルの教育となり、国家が全ての教育施設をコントロールした。子供が学校に行かない場合は、親や保護者は法律上強制的に刑務所に入れられるとされた。カリキュラムの計画は、子供は広い基礎知識を得、自らの為に考え、科学的世界観を持って卒業する。地方の村から都心部まで、数百の中等教育学校の建設の大掛かりなキャンペーンが行われた。1956年、全ての心身共に健康なポーランド人の子供は教育を受けれるようになり、特別支援学校も設立した。1945年、教育計画は明確に述べれら、その後執行された。学校は再建や建築され、新しい教師は養成しなければならなかった。戦前のナチとソ連による知的階級の大虐殺とインテリや高度な人材の他国への移住により教育において酷く人材欠乏であった。

共産主義者は自らがコントロールするポーランドの新しい教育システムで教養された階級を構成する機会を得た、歴史及び科学はマルクス主義の視点と政治的検閲の題材としなければならなかった。1948年、カリキュラムは共産主義のイデオロギーそして中核的なセオリーにとって代わった。様々な科学は共産主義イデオロギーにより影響された。多くの西洋の本や出版物は不法と制定され、所持や所有は罰金又は投獄とされた。支配階級から許可されたのは社会主義リアリズムのみとなる。

戦時中、殆どの大学の建物は破壊されたが再建され、ソ連をモデルとし構造改革をした。神学の教授は国立大学から排除され、新しく2つの神学短大ができた。 1963年、大学や短大の数は1938年と比較し2倍になった。 (大学73校、 短大32校)。


民主化への動き[編集]

ゴルバチョフのペレストロイカ

1985年、ソ連ではペレストロイカ政策を押し進めるミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に就任し、東欧に自由化の波が押し寄せた。 ヤルゼルスキは社会主義の枠内での民主化を提唱したが、国民の合意は得られなかった。

ポーランド第三共和国の成立

1989年円卓会議による合意に基づいて実施された6月18日議会選挙によって統一労働者党は敗北し、1989年9月7日には非共産党政権が成立してポーランド人民共和国は消滅し、現在の第三共和国が新たに成立した。同年12月29日に施行された新憲法により、統一労働者党の一党独裁政体は法的にも消滅した。

出典[編集]

  1. ^ https://books.google.ca/books?id=QaF7mnj9igkC&q=%22Puppet+State%22#v=snippet&q=%22Puppet%20State%22&f=false Librairie Droz. p. 475.
  2. ^ ^ Wojciech Roszkowski, Najnowsza historia Polski 1914-1945. Warszawa: Świat Książki, 2003, p. 236-240, 678-680, 700-701. ISBN 83-7311-991-4.
  3. ^ Rao, B. V. (2006), History of Modern Europe Ad 1789-2002: A.D. 1789-2002, Sterling Publishers Pvt. Ltd
  4. ^ http://books.google.co.jp/books?id=YHO0F65ifDIC&pg=PA69&dq=jan+nowak+uprising+july+29&lr=&redir_esc=y#v=onepage&q=jan%20nowak%20uprising%20july%2029&f=false
  5. ^ Rao, B. V. (2006), History of Modern Europe Ad 1789-2002: A.D. 1789-2002, Sterling Publishers Pvt. Ltd
  6. ^ https://books.google.co.jp/books?id=YHO0F65ifDIC&pg=PA69&dq=jan+nowak+uprising+july+29&lr=&hl=ja#v=onepage&q=jan%20nowak%20uprising%20july%2029&f=false
  7. ^ http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland/28216/Communist-Poland 
  8. ^ http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland/28216/Communist-Poland
  9. ^ O'Neil, Patrick (1997), Post-communism and the Media in Eastern Europe, Routledge, ISBN 0-7146-4765-9 p.15
  10. ^ Post-communism and the Media in Eastern Europe, Routledge, ISBN 0-7146-4765-9 p.125
  11. ^ Post-communism and the Media in Eastern Europe, Routledge, ISBN 0-7146-4765-9 p.1
  12. ^ Wojciech Roszkowski, Najnowsza historia Polski 1914-1945. Warszawa: Świat Książki, 2003, p. 236-240, 678-680, 700-701. ISBN 83-7311-991-4.
  13. ^ Marek Jan Chodakiewicz, "The Legal Basis of Torture and the Communist Propaganda", in The Dialectics of Pain: The Interrogation Methods of the Communist Secret Police in Poland, 1944-1955. Glaukopis, vol. 2/3 (2004-2005)

参考文献[編集]

  • Jerzy Lukowski, Hubert Zawadzki 「第7章 共産主義衛星国から第三共和制へ」『ポーランドの歴史』 河野肇訳、創土社〈ケンブリッジ版世界各国史〉、2007年12月(原著2001年9月)、初版。ISBN 978-4789300537
  • 加藤一夫、水島孝生、ステファン・キェニェーヴィチ 「年表」『ポーランド史』2、恒文社、1986年11月(原著1968年)、第1版。ISBN 4-7704-067-1。

[1]

関連項目[編集]

  1. ^ http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland/28216/Communist-Poland