ベルリンの壁崩壊

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ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民(1989年11月10日

ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年に東欧での混乱が続く最中の11月9日にそれまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、この日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、それまで28年間、東西ベルリンが遮断されてきた東西分断の歴史に終止符が打たれたことである。東西ベルリン市民が歓呼して壁によじ登り、やがて東ドイツは西ドイツに吸収される形でドイツが統一されて東欧革命を象徴する事件となった。略称として壁崩壊ドイツ語: Mauerfall)ともいう。

壁の建設[編集]

東ベルリン市内のカール=マルクス=アレー1967年

第二次世界大戦後に敗戦国であったドイツはソビエト連邦アメリカ合衆国イギリスフランスの戦勝4ヵ国による分割占領が行われ、その中で首都ベルリンも終戦直後に戦勝4ヵ国の共同管理地域とされ、やがて東西の対立とともに1949年に東西2つの国が成立して、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は、ソ連からの大きな経済援助と軍事力で社会主義国として東側陣営に属し、西側陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)とで、ドイツは分断された。そして首都ベルリンもソ連側管理地区の東ベルリンと米英仏3ヵ国管理地区の西ベルリンに分断された。ただし1961年夏まではベルリン市内での東西の往来は自由であった。

しかし1961年8月13日に突然東ドイツ側がベルリン市内の東西の往来を遮断し境界線近くに壁を建設して、ベルリン市民の東西間の自由通行はこの日に断絶された。(ベルリンの壁)これは東西に分かれて以後東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらず、1945年から1961年までに東ドイツから西ドイツに移った人々は約300万人に達し、その半数以上が当時自由に行けた西ベルリン経由で西ドイツに逃れていた。危機感を持った東ドイツは西ベルリンが逃亡への出口になっていることから、西ベルリンを壁で塞ぎ東ドイツ国民を閉じ込めるために建設したもので、これを「反ファシズム防壁」と呼んだ[1]。国境が遮断されて有刺鉄線が張り巡らされたが、ある所では道路の真ん中に、或いは運河が、また橋の真ん中が国境線であった。以後東西のベルリン間での市民の行き来は不可能となった。

ベルリンは戦後の東西冷戦の最前線であり、1961年8月に突然出現したこのベルリンの壁は東西冷戦の象徴であった。

壁の犠牲者[編集]

しかし西へ逃れるために壁を乗り越えて越境しようとした市民が死亡する悲劇は後を絶たなかった。1961年8月から1989年11月までの28年間で5000人以上が越境して逃れ、約200人以上が越境できずに命を失い(その多くは国境警備兵による射殺と河を泳ぎきれずの溺死であった)、約3000人以上が越境を試みて失敗し逮捕された[2]

東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である[3]。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった[4]。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。

壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は、運よく西へ逃れた人以外は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺されるか、或いは途中で力尽きて溺死か落下死であった。

ベルリンは戦後の東西冷戦の最前線であり、1961年夏に突然出現したベルリンの壁は東西冷戦の象徴であった。

東ドイツの苦境[編集]

ベルリンの壁が出来るまでは、東ドイツは政治も外交も経済もソ連に依存する体制であった。しかし1961年の壁の建設で西への人口流出が減少して、国内の体制が安定化するとともに、1960年代後半からの経済成長とともに「社会主義の優等生」と呼ばれて、東ベルリンは、西側諸国の支援の下で繁栄する西ベルリンに対抗すべく「社会主義のショーウィンドウ」としての立ち位置から、東ドイツの首都として発展していった。

ベルリンの壁の前で演説するロナルド・レーガン(1987年)

しかし、1970年代後半の第二次石油危機以降、西ドイツをはじめとしてイギリスやアメリカ、日本をはじめとする西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、計画経済党官僚の支配の下で硬直化した東側陣営では経済の構造改革が出来なかった。1980年代には東ドイツ経済も世界屈指の経済大国となった西ドイツには大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていった[5]

一方、ドイツ社会主義統一党(SED)のエーリッヒ・ホーネッカー書記長国家評議会議長兼務)は、ソ連の歴代政権から支援を受けつつ、ハンガリー人民共和国ポーランド人民共和国で社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。

他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の崩壊を意味することを東ドイツ首脳部は知っており、1980年後半に東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていたのである[6]

1985年ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。しかし、ホーネッカーら東ドイツ首脳部は強硬姿勢を崩さず、SEDの文化科学担当書記・政治局員でSEDのイデオロギー担当だったクルト・ハーガードイツ語版は「わが国では、既に改革は進んでいる。隣人が壁紙を張り替えたからと言って、同じことをする必要はない」と主張し、1988年には東ドイツ指導部はペレストロイカを伝えるソ連の雑誌『スプートニクドイツ語版ロシア語版』を発禁処分とした。これは、東ドイツ国内の知識人の不満を一気に高めることになった。

さらに隣国ポーランドやハンガリーでの国内改革の動きが注目されるようになったが、東ドイツの改革の遅れに失望して出国を希望する者が増大し、1989年1月1日に新しい旅行法が発効されて、東ドイツから恒久的出国(国外移住)を申請するきっかけとなり、申請者数は9月末までの9カ月間に16万1000人に達した。この数字は1972年から1988年までの16年間の出国申請者総数が3万2000人であったことと比べると、この年の東ドイツ国民の不満が沸騰点に達しつつあることを物語っていた[7]

こうして市民の政府に対する不満が高まる最中の1989年5月7日に行われた地方議会選挙では不満を持った少なからぬ数の有権者が統一候補リストに対する信任投票に反対票を投じたが、指導部は選挙結果を賛成票が98.85%であると改ざんして発表し、市民の不満を更に高めた。また、6月4日に起きた中国の天安門事件に対して東ドイツ政府・SED・人民議会が中国当局の対応への支持を表明したことも、東ドイツ市民の怒りを買っていた[8]

これより2年前の1987年にアメリカ大統領ロナルド・レーガンが西ベルリンを訪問した際、ベルリンの壁の前で演説し、「Mr. Gorbachev, tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と演説で訴えていた。

東ドイツ国民の大量脱出[編集]

1989年5月2日、既に改革派が民主化を進めていたハンガリーでネーメト・ミクローシュ内閣がオーストリアとの国境線の鉄条網を撤去し、鉄のカーテンが綻び始めた。6月18日にはポーランド人民共和国で複数政党制による自由選挙が実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を果たした。夏になると多くの東ドイツ国民はハンガリー、そしてオーストリアを経て西ドイツへの亡命が出来ると考え、夏の休暇を利用してハンガリーに出国した。その数は最初は何千人単位であったが、夏の終わり頃には国境付近のキャンプ場に何十万人の東ドイツ人が集まっていた。短期間のうちに事態は極めて切迫していたのである[9]。この時、東ドイツ首脳部は最高指導者のホーネッカーが急性胆のう炎で療養生活に入っていたために指導者不在の状態になっており、何も手を打つことが出来ない状態であった[10]。治安問題担当の書記で政権ナンバー2と目されていたエゴン・クレンツ(党政治局員・国家評議会副議長兼務)は8月11日に一時復帰したホーネッカーに対し、出国者数を報告し、国民の大量出国問題を党の政治局で討議するよう進言したがホーネッカーは、

それで、どうするつもりかね。なんのために出国者の統計など出すのか。それがどうした。壁を築く前に逃げた連中ははるかに多かったよ[11]

と言ってクレンツの進言を意に介さなかった。さらにクレンツはホーネッカーから長期休暇を命じられて10月1日まで政権中枢から遠ざけられた。ホーネッカーは療養生活に戻ると、保守派のギュンター・ミッターク書記以外は政治局員でさえも近付けなかった。

8月19日、この日に東ドイツ人のハンガリーとオーストリアとの国境超えを密かに企図したイベント「汎ヨーロッパ・ピクニック」がハンガリー社会主義労働者党の急進改革派とオットー・フォン・ハプスブルクの後援によって開催され、661人がオーストリアへの越境に成功した。走って国境を越えた人々が抱き合い涙する場面がテレビで映し出されてから東ドイツでは誰もが出国について口にするようになったと言われる。この時に東ドイツの国民が西側への大規模な出国を阻止することはもはや不可能となった[12]。8月にハンガリーからオーストリアを経て自力で越境した人々は3000人に達した[13]。そしてベルリンの壁が持つ意義は低くなり、東ドイツ国民はハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、プラハブダペストの西ドイツ大使館の周辺にも溢れかえるようになった。その後これらの東ドイツ国民は西ドイツ大使館の敷地内に収容されたものの、その収容人数は日々増すばかりであった。ハンガリーのホルン・ジュラ外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東ドイツ国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫ったが、東ドイツ政府は何の反応も示さなかった[14]

エゴン・クレンツ(右、1989年9月20日)

そして9月になっても東ドイツ国民の出国は止まらず、ついに9月10日にハンガリーのネーメト政権がオーストリアとの国境の全面開放を決定し、9月11日午前0時をもって東ドイツとの協定(当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた[15]。この国境開放で9月末までに約3万人がオーストリアに逃れた[16]

翌日の社会主義統一党(SED)の政治局会議では出席者はハンガリーの対応を非難したが、ホーネッカーがまだ療養中で不在だったために結局何の対策も取られず、ハンガリーに対して何も報復することも出来なかった。既に政治局員の間でも市民の流出が続いて東ドイツの存立が危うくなってきていると認識はされるようになっていたが、結局それが討議されることも無かった[17]

そうしている間にも、東ドイツ国内では医師、電車やバスの運転手、高等教育を受けた若い労働者などが次々に出国し、東ドイツのあちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などの社会的混乱が起きていた[18]。プラハの西ドイツ大使館では、9月以降毎日100人以上の東ドイツ人が柵を乗り越えて押しかけ、9月末にはその数は4000人に達していた[19]

こうした中、イギリス首相マーガレット・サッチャーミハイル・ゴルバチョフ書記長に、東側のリーダーとしてベルリンの壁崩壊を阻止するために出来得る限りのことをするよう要請し、次のように語った[20][21]

我々は統一ドイツを望まない。これは戦後の国境を変えることになってしまうことでしょう。我々は世界情勢の安定を傷つけ、我々の安全の脅威となるような発展を認めることはできない[20]

9月26日、療養生活から復帰したホーネッカーは政治局会議を開催したが、10月7日に予定される建国40周年記念式典の準備を指示しただけで、出国者問題には触れなかった。この間にニューヨークでゲンシャー西ドイツ外相とフィッシャー東ドイツ外相が会談し、東ドイツはプラハの西ドイツ大使館の東ドイツの人々を「追放」することに合意した。東ドイツから見れば「追放」であり、西ドイツから見れば「自由への脱出」であった。

9月30日、プラハの西ドイツ大使館のバルコニーに突然ゲンシャー西ドイツ外相が現れて、大使館内の敷地に野宿していた人々を前に「我々は今日皆さん方が出国できるということをお伝えするために、ここへやって来ました。」とアナウンスすると絶叫とともに人々の喜びと安堵の叫びで、大使館内は騒然として、ゲンシャー外相のその後の発言はかき消されて、誰も聞き取ることが出来なかった[22]。ただ東ドイツにとっては、10月7日に予定している建国40周年式典を前に目障りな問題を処理するだけのことであった[23]。そしてこれが「追放」であることを示すために、わざわざチェコスロバキアから東ドイツ領内を国有鉄道の列車で通過させることを要求し、10月4日に列車は出国が認められた人々を乗せて領内を通過した[24]。この時、プラハからの列車がドレスデン中央駅に到着した際には、それに乗ろうとするドレスデン市民と人民警察の間で衝突が発生した[25]

東ドイツでは、大量出国の問題が深刻化するにつれて、問題の解決策を「誘導措置」と呼んだ。出国の波を阻止するのではなく制御する方向に変えて、記念式典を前に乗り切ろうとした。プラハと同じくポーランドのワルシャワでも「誘導措置」を行い、ワルシャワの西ドイツ大使館に逃れた人々をポーランド航空の特別便で「追放」した。しかしこれは国家の存立を脅かす局面でしかなかった[26]

10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で西側へ逃れることは不可能になった。しかし出国することが出来なくなったため、逆に東ドイツ国民の不満は体制批判に転化し[27]ライプツィヒを拠点にデモ月曜デモ)が激化していくことになった。

国内の混乱[編集]

東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣(1989年10月7日
建国40周年記念の、自由ドイツ青年団によるパレード

ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソビエト連邦政府からの支持を得ることであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典を訪問したソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、 軍事パレードの後にシェーンハウゼン城ドイツ語版(東ドイツ政府の迎賓館として使用されていた)で行われたソ連・東ドイツ両国の党幹部の会合で演説し、自国のペレストロイカの現状を報告した後、「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた[28]

これに対して演説を行ったホーネッカーは、自国の社会主義の発展をまくしたてるのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした[29]。ゴルバチョフがホーネッカーを支持していないのは東ドイツの他の党幹部達の目にも明らかだった。

ゴルバチョフは人民議会での演説でも先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで東ドイツ政府の支持には言及しなかった。

また前日の6日夜に行われたパレードでは、動員されたドイツ社会主義統一党の下部組織・自由ドイツ青年団(FDJ)の団員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって「ゴルビー! 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった[30]。これを見たポーランド統一労働者党ミェチスワフ・ラコフスキ英語版第一書記はゴルバチョフに若者たちの話している内容が理解できるか尋ねたところ、ゴルバチョフはドイツ語は良くは知らないが、分かるような気がすると答えた。ラコフスキは「『ゴルバチョフ、我々を助けて』と懇願しているのですよ」と答えた後、次のようにゴルバチョフに教えた。

「これらの若者は、党活動家の最良の部分とされているのです。これで、おしまいですよ」[31]

7日夜に共和国宮殿で行われた晩餐会の席でもゴルバチョフは、東ドイツを賛美し自画自賛するホーネッカーの乾杯の挨拶を聴きながらそのすぐ脇で手厳しく批判の言葉を述べていたという。ホーネッカーが自画自賛しているその時、共和国宮殿の周りではデモ隊が抗議集会を行っていた[32]。ゴルバチョフは晩餐会が終わるとそのままシェーネフェルト空港へ直行し、そそくさと帰国してしまった。クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動したまえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという[33]

ホーネッカーの失脚[編集]

こうしてゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。

10月9日ライプツィヒの月曜デモは7万人に膨れ上がり、市民が「我々が人民だドイツ語版」(Wir sind das Volk)」と政治改革を求める大規模なものとなった。ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者のクルト・マズアらの反対に遭い、また弾圧に協力してくれると期待していた在独ソ連軍が動かないことが判明して失敗に終わった[34][35]

こうした東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、危機感を募らせたクレンツや党政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーらは、まず10月10日から11日にかけて行われた政治局会議でホーネッカーに迫って、今までの政治体制の誤りを事実上認める政治局声明を出させた[注 1][36]。今までの自分の政治を否定される格好になったホーネッカーは、12日に中央委員会書記、全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集し、自身への支持を取り付けて巻き返そうとした。しかし、ドレスデンでの混乱に直面したハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からホーネッカー批判の声が上がり、全くの逆効果に終わった[37]

東ベルリンでの反政府デモ(1989年11月4日

勢いづいたクレンツ、シャボフスキーらはヴィリー・シュトフ閣僚評議会議長(首相)やソ連の指導部とも連絡を取り、密かにホーネッカーの追い落としを画策した。10月16日、ホーネッカーは再び月曜デモに対して武力鎮圧を主張したが、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長フリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した[38] [注 2]。もはや軍も、ホーネッカーには従わなくなっていた。

10月17日[注 3]午前10時、社会主義統一党中央委員会の政治局会議[注 4]が始まった。いつものように議事を進行し始めたホーネッカーに対し、突如シュトフ首相はホーネッカーの書記長解任を中央委員会に提案するよう要求した。これにはホーネッカー以外の政治局員および政治局員候補の全員が賛成を表明し、ホーネッカーは自らの解任動議を可決せざるを得なかった[39]10月18日、中央委員会総会でホーネッカーは正式に退陣し、エゴン・クレンツが後任の書記長に選出された。

しかし、クレンツはホーネッカーの子飼いの部下であり、この時にホーネッカーに反旗を翻したものの、国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ信頼されていなかった[40]。さらにクレンツは一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうとしたが、国民の反発は強く、11月4日には首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモが起こり[41]、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、クレンツも十分に状況を把握出来なくなっていた。

「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令作成[編集]

政治局員の行動を求めるデモ(1989年11月8日
SEDの党員達にスピーチを行うクレンツ書記長(1989年11月8日)。クレンツの右にいるのがシャボフスキー。

1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。この法案では西側への旅行は許可されるとしたが、しかしそれは年間30日以内と限定された上に出国の際には相変らず国の許可を要することや「特別な社会的要請があった場合」には許可が取り消されるなど様々な留保条件が付けられていたため[42]、既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決された。議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにした[43]

その間にもプラハの西ドイツ大使館には東ドイツ市民が溢れていた。

11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員はいったん全員が辞任し、ヴィリー・シュトフ首相らの引退と改革派のハンス・モドロウらの政治局入りが決定し、ハンス・モドロウを後継の首相に任命することが決まった。

この後ようやくクレンツは、東ドイツ国内の世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した[44]

しかしこの日から行われた中央委員会は混乱していた。出席者からは工場で怒った労働者が党に反抗し始めていることが報告され、さらに経済学者ゲアハルト・シューラードイツ語版国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告された。これまで東ドイツが社会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた。これらの問題や、各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった[45]

1989年11月9日[編集]

この日、前日からのドイツ社会主義統一党中央委員会の混乱は続いていた。朝、内務省では旅行に関する新しい政令案の作成作業が進んでいた。4人からなる作業チームは、チェコのプラハに滞留している東ドイツ難民の処理に苦慮していた。結論はビザ取得の手続きを進め渡航を許可することとし、そして「恒久的出国」についての検討を加える中で、留保条件を付けずにいつでも申請可能な個人旅行の規定をあっさりと草案に盛り込んだ。そして昼頃にこの政令案が中央委員会の会議に届いた[46]

中央委員会[編集]

午後3時過ぎ、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し[47]、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた[注 5]。それは以下のようなものであった。

  • 1. Die Verordnung vom 30. November 1988 über Reisen von Bürgern der DDR in das Ausland (GBl. I Nr. 25 S. 271) findet bis zur Inkraftsetzung des neuen Reisegesetzes keine Anwendung mehr.
  • 2. Ab sofort treten folgende zeitweilige Übergangsregelungen für Reisen und ständige Ausreisen aus der DDR in das Ausland in Kraft:
    • a) Privatreisen nach dem Ausland können ohne Vorliegen von Voraussetzungen (Reiseanlässe und Verwandtschaftsverhältnisse) beantragt werden. Die Genehmigungen werden kurzfristig erteilt. Versagungsgründe werden nur in besonderen Ausnahmefällen angewandt.
    • b) Die zuständigen Abteilungen Paß- und Meldewesen der VPKÄ in der DDR sind angewiesen, Visa zur ständigen Ausreise unverzüglich zu erteilen, ohne daß dafür noch geltende Voraussetzungen für eine ständige Ausreise vorliegen müssen. Die Antragstellung auf ständige Ausreise ist wie bisher auch bei den Abteilungen Innere Angelegenheiten möglich.
    • c) Ständige Ausreisen können über alle Grenzübergangsstellen der DDR zur BRD bzw. zu Berlin (West) erfolgen.
    • d) Damit entfällt die vorübergehend ermöglichte Erteilung von entsprechenden Genehmigungen in Auslandsvertretungen der DDR bzw. die ständige Ausreise mit dem Personalausweis der DDR über Drittstaaten.
  • 3. Über die zeitweiligen Übergangsregelungen ist die beigefügte Pressemitteilung am 10. November 1989 zu veröffentlichen.

[48]

(日本語訳)

  • 一、1988年11月30日の国外旅行に関する法令は、新旅行法が発効するまでの間適用されない。
  • 一、旅行および国外移住に関する次の暫定的経過措置が直ちに発効する
    • 1.外国旅行は(旅行目的、親戚関係など)諸条件を提示することなく、申請できる。
    • 2.警察の旅券・登録部門は、国外移住のための出国査証遅滞なく発給するよう指示される。
    • 3.国外移住に関して、両独国境ないし東西ベルリンのすべての検問所を使用できる。
    • 4.(省略)
  • 一、この暫定的経過措置については、添付の報道機関用資料が11月10日に発表される

[49]

クレンツは新しい旅行法を施行するまでの過渡的な規定として、この文書を読み上げ提案した[50]。そしてこの提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。

記者会見[編集]

「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表するシャボフスキー(1989年11月9日

この時に社会主義統一党中央委員会政治報道局長に就任したばかりのシャボフスキー[注 6]は、午後6時からの記者会見のために会議の途中で退席した。その際クレンツは彼に紙切れを手渡し「これを発表するように。爆弾発表だ」と言った、シャボフスキーはこの時にその内容を読まなかった[51][注 7]シャボフスキーはこの政令案の討議の時には中央委員会にはいなかった。

シャボフスキーは、午後5時50分に中央委員会の席を離れて、すぐ近くの記者会見の会場に公用車に乗って向かった[注 8]。彼はクレンツから渡された書類に目を通そうにも公用車の車内が暗いためよく読めないまま、すぐに記者会見の場に到着し、午後6時から記者会見が始まった。この西側各国との記者会見は、ウルブリヒト時代から行われていたが、それまであくまで東ドイツのプロパガンダの場であった。しかし後にシャボフスキーが述べていたが、この日から新政権の新しい試みとして中央委員会の内幕とそれに対する質問を許可することとなり、記者も政権側も不慣れなやり方であった。この西側各国との記者会見には400人の記者が集まっていた[52][注 9]。この記者会見は東ドイツ国営放送で生放送された。

そして始まってから1時間ほどは中央委員会での諸決定について型通りの報告で退屈なものであった[注 10]

午後6時53分、記者会見が終わりに近づいた時に、イタリア国営通信ANSAの主席通信員リッカルド・エールマンが質問に立ちマイクをとった[53][注 11]

  • エールマン
    • 貴方が示された数日前の旅行法案が大きな過ちであったとお考えではありませんか。
  • シャボフスキー
    • いや。私はそうは思いません。旅行をしたり、ドイツ民主共和国を出たいという住民の中のこうした傾向、住民のこうした欲求を我々は承知しています。従って我々は一連の事情を通じて、旅行法もその一つですが、行きたいところに旅をする、市民の自主的な決定のチャンスを与えたいと望んでいます。・・我々は当然・・気掛かりなのですが、この旅行法の可能性が・・法律はまだ発効していませんし、確かに草案です。もちろん本日、私の知る限りでは一つの決定下されました。恒久・・その言い方がきわめて適切か適切でないかはともかく恒久的出国、つまり共和国を立ち去ることを規定する条文を旅行法草案から抜き出して発効させる、という政治局の勧告をが取り上げられたのです。我々はこの出国運動が・・ある友好国を経由して・・行われることは非常識な事態と考えますし、友好国にとってもそれは理解に苦しむところであります。そこで・・我々は本日・・共和国市民の誰もが共和国の国境通過所を通って出国できるように規則化することに決定しました[54]

実はシャボフスキーは中央委員会の席に居ながら、事務方との打ち合わせで何回も中座して委員会を出たり入ったりして、この「旅行許可に関する出国規制緩和」の内容を細かく把握していなかった。この不正確な情報しか持たず、思い違いをしていたことは、この日の社会主義統一党中央委員会が混乱していたことを反映していた。このとてつもない思い違いが事態をさらに悪くしてしまった[55]。さらにここでもう一つ思い違いがあった。この政令案の通知文が既に記者に配られていると思っていた。

  • エールマン
    • それはいつからなのですか。
  • シャボフスキー
    • えっ、何ですか。
  • エールマン
    • 直ちにですか。
  • シャボフスキー
    • つまり皆さん、私のところにはその通知が来ていますが、そうした通知はもうすでに・・広く連絡済みで・・あなた方はすでにお持ちでしょう[56]。我々はもう少々手を打った。ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう[57][注 12]

ここでシャボフスキーはクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、勝手が違ったように戸惑いながら早口で書類を読みだした。

  • シャボフスキー
    • よろしい。外国への個人旅行はそのための諸前提(旅行目的と親戚関係)を欠いても申請が可能である。許可は短期間でに与えられる。民主共和国の人民警察所轄署VPKAの旅券・住民登録担当課は恒久的出国のためのビザを即刻交付するように命令を受けている。その際には恒久的出国のための現行法の諸前提が整っている必要はない。恒久的出国は民主共和国から連邦共和国への全ての国境通過検問所を経由して行う。したがって民主共和国の国外代表部が暫定的に付与できる出国許可や共和国の身分証明書による第三国を通じての恒久的出国は不要となる。・・旅券問題は今は答えられません。それは管轄外の問題でもあります。私には全く解りかねますが、旅券は・・まぁ誰もが旅券を持てるためにまずもって交付されるべきでしょう。・・・ところで我々が欲したのは・・・[58]

この時にその後11月9日が歴史的な日となったコメントがシャボフスキーから出た。

  • エールマン
    • それはいつ発効するのですか。
  • シャボフスキー
    • 私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです(Das tritt nach meiner Kenntnis… ist das sofort, unverzüglich.)[59][注 13]

この直後に別の記者から「ベルリンの壁はどうなるのか?」「西ベルリンに東ドイツ市民は行けるのか?」との質問があった。シャボフスキーはこの時に文書の隅々まで調べて、ある文章を発見した。それには「西ドイツ及び西ベルリンへの越境は許可される」と書かれてあった。そしてそのまま伝えて、質問に肯定する素振りを見せた[60]

これでシャボフスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表してしまったのである。この政令案はこの日中央委員会で承認されたが、まだ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず、正式な政令にはなっていなかったのだが、シャボフスキーは閣議決定されているものと勘違いしていた。そしてシャボフスキーの発言の後、政令は正式に閣議決定され、東ドイツ国営通信が政府報道官の発表として伝えている[61][注 14]。この政令案は次の日11月10日の朝10時に発表し、直ちに発効すると定められていたが、シャボフスキーにはそれを伝えられていなかった。シャボフスキーに渡された政令案の文書が10日に報道発表するための文書で、上記の政令案の素案と違って、発効期日は書かれていなかった[62]

マスメディアの報道[編集]

この記者会見の模様は、東ドイツ国営テレビのニュース番組において生放送されていた。ベルリンでは電波が相互にスピルオーバーするため、東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった。そしてこれを見ていた東西両ベルリン市民は戸惑い半信半疑となった。この発言が出た時、時刻は午後7時を少し回っていたが、それから4分後にはロイター通信・ドイツ通信(DPA)・AP通信の各通信社は速報を出した。混乱してロイター通信とドイツ通信は『旅行に関する新しい取り決め』があった事実に重きを置いた打電であったが、AP通信は「境界が開かれる」と打電している[63]。7時17分に西ドイツのテレビ局ZDFが「ホイテ(今日)」というニュース番組で放送し、7時30分からの東ドイツのニュース番組「アクチュエレ・カメラ(今日の映像)」では2番目にこのニュースを伝えた。ただどちらも「旅行に関して新しい規則ができた」と報じただけであった。

しかし7時41分にドイツ通信(DPA)は「西ドイツと西ベルリンへの境界が開いた」と打電し、そして午後8時に西ドイツのテレビ局ARDがニュース番組「ターゲスシャウ」で冒頭にアンカーマンのハンス・フリードリッヒが「今日11月9日が歴史的な日となりました。東ドイツが国境を開放すると宣言しました。」と報道した。

国境検問所[編集]

午後7時[編集]

チェックポイント・チャーリーから西ベルリンに入る東ベルリン市民(1989年11月10日

東西ベルリン間の国境検問所は、ボルンホルム通り[注 15]・ショセー通り・インヴァリーデン通り・フリードリッヒ通り[注 16]・ハインリッヒハイネ通り・オーバーバウム橋・ゾンネンアレーの7カ所あり、やがて検問所の前に市民が集まり、通過しようとする市民と政府から何も指示されていない国境警備隊との間でこの記者会見でのシャボフスキーの発表を巡りトラブルが起きた。しかもそれは東側だけでなく、西側でも同じで誰もがテレビで伝えられた「旅行が自由化される」というニュースに驚き、殺到したことで混乱に拍車が掛かった。

東西ベルリンの検問所に詰めかけた東ベルリン市民(1989年11月10日)
東ドイツ市民の許可証を確認する東ドイツ国境警備隊(1989年11月10日)

国境警備隊は指令を受け取っておらず、隊員は報道も知らなかったためにすぐに対応は出来なかった。そして東西ベルリン間の7カ所の検問所付近に間もなく多くの東ベルリン市民が集まり始めた。この時、ベルリン北部のボルンホルム通りの検問所のパスポート審査官[注 17][注 18]のハラルト・イエーガー司令官[注 19]はシュタージにも所属していたことがあるが、たまたまこの日は朝6時から勤務に入り、24時間の勤務体制で、夕方6時から検問所の近くの食堂で夕食を食べていた時にシャボフスキーによる旅行及び国外移住(恒久的出国)の自由化の発表を耳にして仰天した。イエーガーはシャボフスキーの発言を聞いて急ぎ検問所に戻った[64]。イエーガーが戻った午後7時15分には、この時点で既に市民10人が集まっていた。すぐに上官に電話で問合せると、その上官は「 これまでの人生でこんな馬鹿な話は聞いたことがない。」と言い、「少し待て。何もしないで待て。」との返事であった。電話を終えて外へ検問所の前に行くと、50~100人に増えていた。まだ午後7時30分を回った時点であり、まだ7カ所の国境検問所付近を合わせても数百人単位であった[65]

フリードリッヒ通りの通称チェックポイント・チャーリーの東側に勤務するギュンター・モル司令官[注 20]は、夕方に勤務を終えて自宅に戻り、夕食を食べながらテレビでシャボフスキーの発表を聞いたが、冷静に考えて然るべき手順を踏んで法的に解決した後に翌日か翌々日に指示があると思った。そして特に急ぐ必要はないと考えた[66]。7時30分に検問所からすぐ西側の喫茶店のウエートレスと男性1人が境界線を越えて警備兵に「一緒に飲もう」と誘い、断ったので西へ戻ったと報告があった。彼はまだ深刻な状況とは思われなかったのである[67]。一方、チェックポイント・チャーリーの西側の警備責任者のアメリカ軍バーニー・ゴデック少佐は、この年7月に赴任したばかりであったが、今日の勤務を終えて、ダーレム地区にある自宅に戻って妻と子供たちと夕食中に部下から電話を受けて、地元のメディアが検問所に集まってきている、東側が国境を開くらしいとの連絡を受け、上司の政治・軍事担当顧問官のジョン・グレートハウス大佐と共に検問所に向かった[68]。イギリス軍のクリス・トフト軍曹は、この時チェックポイント・チャーリーにいたが、7時42分に上司のワトソン大佐から電話があり、BBCワールドサービスが東側が国境を開くと報道しているとの連絡であった。急ぎ通訳を使って東ベルリンの警察に問い合わせると知らないという返事だったが、なぜか市当局に問い合わせると「夜半に開かれる」との返事であった。トフトは西ベルリン駐在のイギリス憲兵隊全部隊に東ドイツ人の西ドイツへの渡航が解除された旨通達した[69]

午後8時[編集]

ボルンホルム通りの検問所の外には午後8時には数百人に膨れ上がっていった。この時に東側の多くの市民が視る西ドイツのテレビ局ARDのニュースで、国境が開かれると報じたと伝えられた[70]。イエーガーは再び上官に電話した。上官は新しい指示が無いので群衆を帰らせた方がいいとの返事であった。西側のテレビ局でこの時サッカーの試合を中継をしていた局があったが、この中継にニュース速報が入った。「壁が開き、数千人が検問所を目指して行進している。」との報道であった。東でも西でも、それぞれの所でそれぞれの人々が様々な思いを持って動き始めていった。

ボルンホルム通りの検問所は、ベルリンの中心に位置するチェックポイント・チャーリーとは周囲の事情が違い、7つの検問所の中で最も北に位置して、広大な住宅地帯からすぐに歩いて来られる場所であり、高いアパートの建物からは眼下に見下ろせる検問所であった。午後8時30分を過ぎる頃には数百人が数千人に増大していた[71]。警察官が来て市民に立ち去るように求め、まず警察署に行って海外旅行に必要な書類を申請するように説明した。ところが何人かが言われた通り警察署に行くと窓口で要領を得ない返事に立腹して戻ってきた。警察もどうすべきかまるで分かっておらず、上からの指示もない。イエーガーはほぼ20分おきに上官に電話して指示を仰いだが返事は同じで「新しい指示はない。じっと待機していろ。」であった[72]

一方、ベルリン市の中央部にあるチェックポイント・チャーリーでは地下鉄の駅に近いため群衆が続々と集まっていた[73][注 21]。但し、これは西ベルリンの市民であり、ここでは東側よりも西側の市民が多数押しかけて、ボルンホルム通りの検問所とは違い、西側市民が境界線を越えようとしたりした。午後8時に検問所の東側出入り口の前には数人が立っていた。

この検問所は西側の軍関係者がノーチェックで通過できるただ一つの検問所であり、また西ベルリン駐在の米英仏の3ヵ国の軍は4ヵ国協定で東ベルリンへのパトロールが認められており(フラッグパトロール)[注 22]、この夜もアメリカ軍将校は事態把握のため東ベルリンにチェックポイント・チャーリーを通って巡回していた。したがって東側市民のこの一帯への立ち入り規制は厳しく、無断で少し入っただけで「国境地帯への不法侵入」として刑事犯罪に問われかねない「外国人専用」の検問所であった。そのため東側出入り口付近は数人程度であったが、監視塔からは見えないが、脇道や路地に次第に集まり、既に数百人が検問所の遠くで待機していた。そこからは恐怖のためそれ以上近づこうとはしなかった[74]。この間にモルは国境警備兵60人の追加を本部に自宅から要請していた。そして間もなく追加の警備兵が到着したが彼らが武装していることに、西側から監視していたグレートハウス大佐は何があるのか見当もつかず状況が悪化する可能性があると感じていた[75]

午後9時[編集]

ボルンホルム通りの検問所では、午後9時を過ぎた頃には数千人が数万人になった[76]。車列の最後尾は検問所から数百メートル離れた幹線道路シェーンハウザー・アレーに達し、その通りに至る脇道も車がぎっしり詰まっていた。イエーガーは16~17人の警備体制では無理と判断して急遽50人の補充を求め、彼らはやがて送り込まれてきた[77]。多数の群衆が押し寄せてきたことで国境警備隊員は全く不意打ちをくらい、数時間の間に突然戒厳令下にいる感じになった[78]。「シャボフスキーが言ったのだから」と詰め寄る群衆に規則ではビザとパスポートが要るのだから出直すように言ったが、検問所に集まってきた市民は「ゲートを開けろ、ゲートを開けろ、壁を撤去しろ」と叫びだした[79]

ようやく上官から「より攻撃的な連中を捜し、その姓名を控えた上でパスポートの写真の上に特別なスタンプを押して通過させろ」という命令が下された。このスタンプを押すことは東ドイツの市民権を剥奪し、いったん出国したら戻ってくることが出来ないことを意味していた[79]。そしてもう一つ、通行を許した者のリストを保管しておくことも命じられた。それは官僚主義的な狂気の沙汰であった。午後9時20分頃にイエーガーは、この方法で通過させることとしてパスポート審査所3カ所に再開を命じた。待っていた市民はわれ先に窓口に殺到して一列に並んでそこを通り抜け、監視小屋を出た。踊りだす者、小走りになる者、泣きそうな表情の者、信じられないというように頭を振る者、皆最後の監視塔を通り過ぎて西側に入って行った[80]。ベルリンの壁が崩れ始めた。この間に250~300人を通過させたが、さらにその背後には数千人の殺気立った市民が検問所を圧迫していた[81]

チェックポイント・チャーリーの東側の警備責任者であるギュンター・モル司令官はまだ自宅にいた。しかし9時30分頃に再び検問所から電話があり、西側に100人ほど集まって警備兵に東側の市民を通してやれと懇願しているとの報告であった。モルは検問所に戻ることとした。そして戻る途中に検問所に着く手前で、東ドイツの国民車であるトラバントヴァルトブルクの車がぎっしり検問所まで並んでいるのを見て驚いた[82]。脇道や路地でじっとしていた人々がやがて検問所の前に現れてきた。

午後10時[編集]

ギュンター・モル司令官は10時過ぎにチェックポイント・チャーリーに戻ってきた。モルはまず警備兵3~4人を伴って西側に行き、集まっていた西側市民250人ほどの人々に「新しい規則はまだ存在しない」と説明した。「反対側では地下鉄の駅から人がどんどん集まっていた。私は予備兵を使い群衆を押し戻させた。」皮肉にもチェックポイント・チャーリーでは東側の警備担当者が西側の市民の越境に神経を尖らせていたのだった。それから監視塔に戻り国境警備隊本部にいる上官に電話して「新しい規則」について尋ねた。しかし返事は無いであった。そして東側の人数も次第に膨れ上がった。さして多くはない国境警備隊では太刀打ちできなかった。モルは何度も司令部に電話したが、現場に居ない上官は待機命令を出すだけ[73]で、責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は板挟みに陥り、対応に困り果てた。[注 23]事態収拾の策は無かった。モルはこの時点で東側の群衆を70~100人と見積もった。

アメリカ軍は西側に集まった西ベルリン市民を2000人と見積もった。グレートハウス大佐は東側で何が起こっているのか情報収集するために、車を出して東側に入った。そして30分間の東側巡回を終えて西側に戻ってきた。アメリカ軍の監視小屋にアメリカ本国のテレビやラジオ局及びカナダやオーストラリアからの取材の電話がひっきりなしに掛かってきた[83]。ゴデック大佐は、この事態を憂慮し始めた。検問所付近で雰囲気が最悪となり国境警備兵と揉み合いになるのではないか、群衆が東から西へ越境を試みた場合に検問所を閉鎖するのではないか、であった。閉鎖という事態になればそれは明らかな4ヵ国協定違反であり、ゴデックはソ連軍の士官を探した[84][注 24]

10時頃にチェックポイント・チャーリーの西側では西ベルリン市民60~70人が検問所の前の白線を超えて前に進んだ。これは明確に「東側への侵入」であり、1961年10月22日の「チェックポイント・チャーリーの対決」ではこの白線を超えたことで揉めた歴史があった。住宅地の近くであったボルンホルム通りと違い、チェックポイント・チャーリーではむしろ西側の住民の方が動きが活発であった。そして10時35分にも約100人が白線を超えたが、警備兵に押し戻された[85]

ボルンホルム通りの検問所でイエーガーは本部に電話で全員の通過許可の要請を出した。しかし一向に埒が明かない態度に業を煮やし、「信じていただけないなら、この受話器を窓から外に出しますから、騒ぎをご自分でお聞きください。」と言って、窓から外に受話器を出した。再び受話器を耳に当てるとすでに切れていた[86]

チェックポイント・チャーリーの東側ではモルが検問所の前に来て、群衆をなだめようとした。午後10時30分でこの時に東側の出入り口には東側市民が2000~3000人に膨れ上がっていた。モルは後に「こんな状態はいつまでも続かない。必ず何かが起こる。もう群衆を抑えきれない。そんなことは不可能だ。」と思ったと語っている。実際、警備隊の隊員は壁の手前まで後退し、群衆の前から引き下がっていた。これを見てアメリカ軍のゴデック少佐は驚いた。それまで国境警備隊は群衆に向かっていったもので引き下がったりはしなかったのだ。

この時に西側からアメリカ軍の軍曹が東側へパトロールに向かい、東側市民が黙々と待っていて検問所に足を踏み入れていない光景を目にした。またこの時に逆に西側にパトロールに行ったソ連軍の軍用車が東側に戻ってきた際に、東ベルリン市民がソ連車を揺さぶっているところを目撃した。西側の軍関係者はこれはかなり異常な状態であることを感じていた[87]。そして西側では午後11時頃に西側の市民が一塊になって越境し壁に上り始めた。それを東側の国境警備兵が「降りて下さい」と呼びかけても多勢に無勢であり非常に多くの人々が壁に上ってしまった。それはまさに前代未聞のことであった[88]。しかし既にこの時にボルンホルム通りの検問所で歴史が変わっていた。

政府関係者の動き[編集]

社会主義統一党のクレンツ書記長は党本部の執務室にいた。ここで市内7カ所ある国境検問所すべてが群衆に囲まれているという報告を受けた。クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると感じていた[89]

社会主義統一党ベルリン支部第一書記のシャボフスキーは記者会見後にベルリン郊外のヴァンドリッツにいた。午後9時にベルリン地区指導部の幹部から電話を受けて、まだ国境検問所が開かれていないことを聞かされて、急ぎボルンホルム通りへ車で向かった。しかし通りが車で溢れかえって検問所に着くのが出来ず、そこでハインリッヒ・ハイネ通りに向かった。シャボフスキーが検問所にやっと到着した時には国境ゲートが開いた後であった[90]

西ドイツのコール首相はこの時、ポーランドを訪問しており、ワルシャワで国境が開放されるとの一報に接して同行していた外相ハンス・ディートリヒ・ゲンシャーをワルシャワに残したまま直ちに西ベルリンに向かった。

西ドイツの首都ボンでは、ドイツ連邦議会が結社振興法に関する定例審議の最中であった。議員にこのニュースが伝わると審議を中断し、やがて議員たちの間から自然発生的にドイツ国歌の斉唱が始まった。突然の信じられない一報に泡を食った議員たちは思いおもいの音程で唄った[91]

国境ゲートの開放[編集]

午後10時30分頃、ボルンホルム通りの検問所には2万を超える群衆が詰めかけていた。イエーガーは、何をしたらいいのか確信が持てなかった。ここまでに検問所の中で「我々はどうすべきか討論を続けていた。」「状況は緊迫していた。我々は二進も三進も行かなかった。流血沙汰を避けることばかりを考えていた。」そしてもう他に選択肢はないと考えた。しかし何度も上官に指令を仰いだが「待て」と言われるばかりであった。再び電話して「もう全員を通行させなければなりません」と言うと上官は「指示は分かっているだろう。言われたことだけをすればいい。」と言った[92]。興奮状態下での市民の暴走や圧死による群集事故の発生を恐れたイエーガーは上官に「これ以上検問所を維持することは出来ない」と伝え[93]、彼は「もう持ちこたえらえない。検問所を解放しなければならない。牽制をやめ、こちらへの通行を許可する。」として「全てを開けろ」と命令した。午後10時45分だった。ほぼ同時にゾンネンアレーとインヴァリーデン通りの検問所も開かれ始めた[94]

こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放され、ベルリンの壁はその意味においてここで崩壊した。

11時35分にハインリッヒ・ハイネ通りの検問所が開放され[95]、11時40分にオーバーバウムとショセー通りの検問所が開放され[96]、そしてほぼ12時の日付が変わる頃にチェックポイント・チャーリーでも、ギュンター・モル司令官が同じ決断を下し、監視塔から窓口のパスポート審査官のところへ行き、シュタージの最も地位の高い将校に「私は境界を開放するつもりです。」と伝えた。パスポート審査官は「分かりました」とそれだけ言った。モルは歩行者用ゲートまで行き、「開けろ。」と命じた[97][注 25]。アメリカ軍のゴデック大佐は西側から注視しながら東側の道路から群衆が近づき、検問所の東側ゲートを通過し税関エリアに入ったことをこの時に確認した[98]

11月10日になって2分過ぎた頃に東側の警察が全検問所の開放を発表した。この夜はドイツ史上最大のお祭り騒ぎとなった[99]。そして全ての国境警備隊には撤収命令が下された[100]

壁の崩壊[編集]

本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。東ドイツ国営テレビは繰り返し「旅行には申請が必要です」と放送していたが、それを顧みる者はいなかった[93]

チェックポイント・チャーリーを検問なく越えるトラバント(1989年11月14日

混乱の中で東側、西側の検問所ともに許可証の所持は全く確認されることがなかったため、許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に徒歩や東ドイツの国民車であるトラバントヴァルトブルクなどで西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、祝いのを片手に抱き合ったり、一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散らしたり、壁の周辺で歓迎の歌を歌うなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。

また世界各国から集まったテレビカメラがこの状況を「ニュース速報」で世界中に伝えた。この大騒ぎはそれから三日三晩続いた。

壁の撤去[編集]

クレーンによって撤去されるベルリンの壁1989年12月21日
検問所を越えるトラバントと歓迎する西ベルリン市民(1989年11月14日

ベルリンの壁は、「冷戦」「越えられない物」「変えられない物」の象徴だった。それが数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーつるはし建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで自主的に壁の破壊を始めた。それらは部分的ではあったが、方々で勝手に破壊されていった。こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに一部ではあるが破壊された。

壁は東側によって建設された東側の「所有物」であり、東側からは壁を壊す許可は一切出されていない。むしろ11日には倒された壁を元の通り立て戻す作業を国境警備隊が行っていた。それは空しい作業でもあった[101]。しかし、数日後からは東側によって、重機などを用いて正式に壁の撤去作業が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。それらは必ずしも全ての撤去ではなかった。正式に解体作業が始まったのは翌年1990年6月13日からである[102]

国境の撤去[編集]

この後東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの間の壁や有刺鉄線で閉ざされた国境も開放されることとなった。ポルシェBMWメルセデス・ベンツを自国に擁する西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製のトラバントやヴァルトブルクに乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツに入ってきた。

西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する壁や有刺鉄線などが張られていたが、これらも間もなく壁と同じく東西ドイツの軍警の手によって速やかに撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから長くの間東西ドイツ融合の象徴として扱われることとなった。

壁崩壊の影響[編集]

東ドイツの崩壊[編集]

1990年1月8日のライプツィヒ月曜デモ。「我々は一つの新しいドイツを求める」「我々は一つの民族だ」といったプラカードや、西ドイツの国章が入った旗が掲げられている。

11月13日、ハンス・モドロウ内閣が発足した。モドロウは政治・経済の改革を表明し、23日には社会主義統一党がホーネッカーの不正調査の開始、在野勢力への円卓会議開催の呼びかけ、憲法第1条に定められている「党による国家の指導」条項の削除を表明し、一党独裁制を放棄した(12月1日に憲法改正) [103]

12月3日、社会主義統一党は緊急中央委員会総会を開催し、クレンツ以下政治局員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員辞任し、ホーネッカー、シュトフ、エーリッヒ・ミールケ(前国家保安相)らは党を除名された。クレンツは6日に国家評議会議長も辞任し、わずか2か月足らずでクレンツ政権は終わった。12月8-9日に開かれた社会主義統一党の党大会は、党名を社会主義統一・民主社会党(SED-PDS)に改名し、1990年1月にはクレンツやシャボフスキーも党から追放された[104]

こうして社会主義統一党の一党独裁制は崩壊し、モドロウは政治・経済の改革を表明すると同時に早急な東西ドイツ統一を否定し、条約共同体による国家連合を提唱した[105]。しかし、壁の崩壊後1日約2,000人の東ドイツ国民が西へ流出し、東ドイツマルクの価値は10分の1に暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった[105]。12月、モドロウはコールに対し150億ドイツマルクの支援を要請したが、コールはこれを拒否した[106]。また、知識人たちは「民主的な社会主義国家」としての存続を模索していたが、民主化の過程で明るみになったホーネッカーら社会主義統一党の旧幹部達の不正や贅沢行為に一般労働者たちは怒り、社会主義そのものに対して否定的になっていった[107]

警察の機能は停止し[108]、国民を抑圧していた国家保安省の出先機関が群衆に襲撃されるようになっても、東ドイツ政府は何の手を打つことも出来なかった[105]。1990年初頭には市民の70%が東ドイツ国家の存続を望んでいた[108]が、ライプツィヒの月曜デモでは「我々は一つの民族だドイツ語版(Wir sind ein Volk)」と言う声が挙がるようになり、2月になると東ドイツが自力ではもう長く存続出来ないと認識されるようになった[109]。結局、東ドイツの旧政権幹部たちが恐れていたように、「社会主義のイデオロギー」が崩壊した東ドイツは国家として存続できなくなり、崩壊していったのである。

東西ドイツ統一[編集]

ドレスデンを訪問したコール(1990年3月26日

ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦アメリカ合衆国東ヨーロッパなどから祝辞を送られ、次の政治目標には、1945年5月8日のソビエト連邦とイギリス、アメリカ、フランスによるドイツ分断以降、ドイツ人にとっては悲願である東西ドイツ統一が設定されその気運が高まった。

フランス大統領フランソワ・ミッテランは、ベルリンの壁崩壊に反対していたイギリス首相マーガレット・サッチャーに、統一ドイツはアドルフ・ヒトラーよりも広大な領土を手に入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになると語った[110]

ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。

東ドイツのモドロウ政権は円卓会議を開き、自由選挙の実施、新国家のための新憲法草案の作成まで決定していた。しかしながら1990年3月、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求めるキリスト教民主同盟を中心とした勢力が国民の支持を受けて勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定した。

こうして東西ドイツの統一は、ソ連、ヨーロッパ諸国、アメリカ、そして西ドイツ首脳が考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」、そして東ドイツの国家としての崩壊であった。

結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。

しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。

ドイツの再統一は、東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残されたままである。また旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業倒産によって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いた。このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。

東西ドイツの統一に関する法的な見方については「ドイツ再統一」を参照すること。

冷戦終結[編集]

マルタ島で会談するゴルバチョフとブッシュ

ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。

ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立った。壁崩壊から1か月後の1989年12月3日、アメリカの父ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。

東欧全域への民主化革命の波及[編集]

ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドハンガリーブルガリアのみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。1989年11月17日には、チェコスロバキアビロード革命が発生し、ポーランドのワルシャワではチェーカーKGBの前身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が三つ裂きにされて撤去された[111]。そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命 (1989年)が発生した。

また、東欧同様、ソ連の衛星国であったモンゴルでも、壁崩壊後の一ヵ月後の12月10日サンジャースレンギーン・ゾリクを中心とする民主化デモが発生した。1990年にかけて民主化運動は進展し、モンゴル人民革命党の一党独裁体制が崩壊し新憲法制定、複数政党制の導入が実現した。

そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した

エピソード[編集]

  • チェックポイント・チャーリーの西側に入ってすぐの角にある喫茶店『カフェ・アドラー』で、11月9日午後7時30分に入ってきたカメラマンの客がいきなり「これから1時間のうちにここで何かが起こるぞ。」と言い、すでに入店していた他の客7人が訝しげると「知らないのか。国境が開かれるぞ。」と言われて、女性店員が慌ててラジオのスイッチを付けると、どのラジオ局も記者会見のニュースでシャボフスキーの声が聞こえてきた。店員は女性1人だけであったので急ぎ店主に電話して「大変です。今にも何千人というお客が来るかもしれないんです。今すぐお店に来て下さい。」と電話で叫んでいた。[112]。それからすぐにこのウエートレスと店主の男性1人が境界線を越えて東側の警備兵に「一緒に飲もう」とシャンパンを持って誘ったが、断られたので店に戻った。この2人はこの時に西側から越境していたのである。やがてこの喫茶店にゲートが開く前は西ベルリン市民が多く入って来て、ゲートが開いた後は多数の東ベルリン市民が舞い込んだ。
  • 国境が開放された夜、シャボフスキーの自宅では、夫は不在だったが妻イリーナは、シャボフスキーの発言が引き起こしたことで体制の崩壊につながると予感し、テレビでの騒ぎは何かと尋ねる年老いた母親と以下のような会話を交わしていた。イリーナ「国境を開いてしまったのよ」、母親「それ、私たちは今度は資本主義になるってことなの?」イリーナ「ええ、たぶんね」母親「それじゃ、どっちにしてもあと二、三年は長生きして、資本主義がどんなものなのか見なくちゃ」[113]
  • 東ドイツの政権与党であったドイツ社会主義統一党は民主社会党と改名し生き残りを図ったものの、その後衰退の道を辿り消滅寸前かと言われた時期もあった。しかし社会民主党の内紛によって同党を離脱した最左派とともに左翼党を結成した2005年の総選挙では社会民主党政権の新中道左派路線に不満を抱く左派支持者の票を集めて躍進を果たした。
  • ドイツ統一に貢献した当時のソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼが、2003年グルジア大統領を追われると、かつての恩人を見捨てることなくドイツへの亡命受け入れを申し出て一時はドイツ入りしたというニュースも飛び交った。実際はシェワルナゼは感謝しつつもこれを固辞してグルジアに留まっている。
  • ベルリンの壁の材料には大量のアスベストが使用されているが、この事実が知られていなかったためか無数の観光業者により無断掘削・販売が行われ日本でも一部はデパート等で流通した。
  • 西ベルリンに到着した東ベルリン市民が大挙して真っ先に購入したのがバナナ。当時3倍の経済格差があり、ぜいたく品は無論買えるはずがないので東ベルリン市民全員が喜ぶ物で比較的値段が安く東ドイツではメーデークリスマスにしか市場に出回らない(輸入元は同じく共産圏のキューバ)ほど貴重であったバナナが購入の対象だった。バナナといえば東ドイツというのは、ドイツ国内で、いわゆる小咄の定番のネタとなっている。
  • 当日、ちょうどベルリンを訪れていたダライ・ラマ14世は、崩壊の現場に向かい、東ベルリンに足を踏み入れ、歴史的瞬間を写真におさめた。老婦人から渡された蝋燭に灯を灯し、人々と共に祈った[114]ノーベル平和賞受賞の1か月前のことである。
  • かまやつひろしはベルリンの壁が崩壊する間際に、壁の上に立ってアコースティックギターを手にゲリラライブを行なった。
  • デビッド・ハッセルホフはこの年、ブランデンブルク門の前で数百万人のファンを集めて「Looking For Freedom」という歌を歌い、東西統一への気運を煽っていたという。

壁崩壊20周年[編集]

ベルリンの壁崩壊20周年記念式典でのドミノ倒し後の様子(2009年11月9日

ベルリンの壁崩壊から20周年に当たる2009年には、ドイツ国内でもイベントが開かれた。

式典ではドイツのアンゲラ・メルケル首相、フランスのニコラ・サルコジ大統領、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領、イギリスのゴードン・ブラウン首相、 アメリカのヒラリー・クリントン国務長官らがブランデンブルク門を東から西にくぐって友好を演出した。ただしバラク・オバマ大統領は出席しなかった。冷戦終結の立役者となったポーランドのレフ・ヴァウェンサ元大統領、旧ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ両元大統領も姿を見せた。「ベルリンの壁崩壊記念日」の2009年11月9日には、ドイツ政府主催のイベントがベルリンで開かれ、このイベントでは、ベルリンの壁に見立てた発泡スチロール製のドミノ約1000個を倒すイベントも行われた。このイベントでは、ヴァウェンサがドミノ倒しの火蓋を切った。

2009年10月31日には、ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)、ゴルバチョフ、コールの3人がベルリンで再会した。このイベントにおける3人の発言は、以下の通りである。

  • コール:「誰も信じていなかった統一を成し遂げたのは誇りだ。」
  • 父ブッシュ:「壁崩壊とドイツ統一は、冷戦を終わらせただけでなく、2回の世界大戦の傷跡を消し去った。」
  • ゴルバチョフ:「政治家ではなく、国民が英雄だった。」
関連リンク

壁崩壊25周年[編集]

「光の境界」

壁崩壊から四半世紀となる2014年11月9日にも記念行事が行われ、かつてのベルリンの壁沿いの一部に灯りを点けた白い風船を配置し、夜に一斉に空へと風船を飛ばす「リヒトグレンツェ(光の境界ドイツ語版,Lichtgrenze)」というイベントが行われた。また、ゴルバチョフは5年前と同様にベルリンを訪問した。上述のように、東ドイツのホーネッカー政権退陣とベルリンの壁崩壊に功績のあったゴルバチョフは、

私たちが現在このように生きていることに多少の貢献ができたことを私は誇りに思っています。

と挨拶した[115]

関連作品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この声明は社会主義統一党機関紙『ノイエス・ドイチュラント』に12日に掲載された。
  2. ^ シュトレーレッツは「上級大将」と訳されているが国家人民軍の階級では旧ドイツ国防軍で上級大将を意味した"Generaloberst"は「大将」で、国家人民軍上級大将は""Armeegeneral"
  3. ^ ホーネッカーが中央委員会で解任され失脚した日時を、10月18日とする出典も散見される。これは17日の政治局会議で中央委員会に対して解任を求める動議を提出することが可決され、翌日の中央委員会総会で解任動議が可決されたことにより正式に退任したからである。
  4. ^ 失脚後のホーネッカーに対して行ったインタビューをまとめた『転落者の告白―東独議長ホーネッカー』(著:ラインホルト・アンデルト、ヴォルフガンク・ヘルツベルク 翻訳:佐々木 秀 時事通信社 1991年) P20では、ホーネッカーは「10月17日の政治局会議」と明言している。
  5. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻では、昼12時に中央委員会に提出されて、12時30分に中央委員会で承認されて、すぐに閣僚会議に付託され、午後3時30分にクレンツの下にゴム印の押された提案書が戻ってきたとしている。1961年8月12日の壁建設時に夕方に中央委員会で決定し、夜の園遊会で酒を飲んでいた閣僚連中にウルブリヒトが突然署名を求めた歴史の経過から、閣僚会議が全く形ばかりの組織であることは明らかだが、この政令案が閣僚会議で議決されたかは不明である。
  6. ^ シャボフスキーは元ジャーナリスト(党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」編集長)で弁舌が巧みであったため、マスコミや在野団体に応対する役割をしていた(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24)。なお、当時の彼の役職は党中央委員、政治局員、ベルリン地区委員会第一書記(党のベルリン支部長)、人民議会議員であった。
  7. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』24P ではシャボフスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡され、「こいつを発表しろよ。こいつは大当たりするぞ」と言われたという。これはシャボフスキーの回想によるものだが、クレンツの回想によればシャボフスキーが発表しても良いかどうかを尋ねたことになっている。
  8. ^ 中央委員会が行われた党本部から、この各国の記者が集まった会見場(国際記者会館)までは、直線距離でわずか200~300mの近さであったが、道路を走るため公用車を使っていた。
  9. ^ 但し資料によっては100人の記者が出席していたとするものもある。
  10. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」では閣僚評議会の諸決定の報告をしていたと記している。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207P参照
  11. ^ イタリア人記者リッカルド・エールマン(Riccardo Ehrmann)が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによれば、この会見の前にエルマンと面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したという「ベルリンの壁」崩壊の陰に謎の電話、ドイツ”. 2009年6月10日閲覧。。但しエールマン自身はこの報道を否定しているという情報もある。
  12. ^ それぞれ出典が違うが、前後関係からシャボフスキーの言い方はこのような流れであったと思われる。
  13. ^ この言葉は、他に「私の知る限りでは、今からすぐにです」(クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 186P)、「私が知っている限りでは、即座に遅延なくです」(グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P)、「私が承知している限りでは、直ちに遅滞なく発効します」(エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P)と訳されている。
  14. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」では、政令案はこの日午後に中央委員会から閣僚会議に付託されて、午後3時30分にクレンツの元に書類が戻ってきている、と述べている。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」ではシャボフスキーは「閣僚評議会」の諸決定を報告したとしている。首相の任免は中央委員会で行っており、中央委員会が閣僚会議より上位に位置していることは明らかである。実際アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」でシャボフスキー自身が寄稿した文では、彼が記者会見に持っていった文書は政府通達の草案で、新しい旅行法が不十分で抗議の動きが強まっていたために政令の発表を急ぐ必要があったと記し、「我々の決定について政府は何も知りませんでした」と書いている。(アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」136-140P 参照)どちらにしても社会主義国では党が絶対優先で閣僚会議は形式なものであることが多いことを考えると、この場合は閣僚会議の議決の可否は大きな問題ではなく、シャボフスキーは勘違いではなく、形だけの閣僚会議のことは全く考えていなかったと解される。
  15. ^ 「ボルンホルマー通り」と表記する資料もある。
  16. ^ 通称チェックポイント・チャーリーとして有名であり、1961年10月に米ソで戦車を動員にして対峙した所であり、また西側3ヵ国の軍関係者はここだけ通過が認められている検問所である。
  17. ^ 国境検問所には直接窓口で対応するパスポート審査官と、外で保安活動を行う国境警備隊とは現実に任務が分かれていた。国境警備隊はあくまで検問所の外側でのいわゆる治安維持を含めた規制などの警備を行い、パスポート審査官は検問を通過する者のチェックや認証などの窓口業務を取り仕切った。そしてこのパスポート審査は国家保安省(シュタージ)の管轄であり、市民が出入りする場所である検問所の全ての責任はこのパスポート審査官が負っていた。従って現場での最高責任者は国境警備隊ではなく、パスポート審査官であった。クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 190P参照
  18. ^ 但し、異説として、この11月9日夜に限って各検問所のパスポート審査の責任者全員が内務省の会議に呼び出されていたために、この夜は各検問所も副官が留守を守っていたとして、決断を下すべき本来の責任者はどこの検問所にも居なかったとしている。残っていたメンバーで一番経験の長い者がこの困難な状況下で歴史的な決断を下す夜になったことになる。(クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 227P参照)そして1989年11月9日夜のボルンホルマー通りの検問所の最高責任者はパスポート審査官であるハラルト・イエーガー司令官であった。(クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 190P参照)
  19. ^ 後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになったハラルト・イエーガードイツ語版中佐Yannick Pasquet (2014年11月9日). “「ベルリンの壁を開放した」元国境警察官、25年前を回想”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/articles/-/3031195 2014年11月11日閲覧。 
  20. ^ チェックポイント・チャーリーで最終的に彼が国境の開放を決断することになるが、彼はパスポート審査官ではなく、警備隊の指揮を取っていたと思われる。またモルはイエーガーと違ってシュタージには在籍しておらず、チェックポイント・チャーリー内ではシュタージでもあったイエーガーとはまた別の立場であった。
  21. ^ チェックポイント・チャーリーのあるフリードリッヒ通りの地下に地下鉄の駅はあるが、それは西側の駅であり、東側には壁付近に近い駅はない。越境や逃亡を防ぐためである。
  22. ^ 西側3ヵ国の軍関係者は1961年の壁建設以後も東ベルリンに行くことは可能であった。戦後の4ヵ国協定で米英仏ソの4ヵ国はベルリンの東西を往来することは認められていて、相互に軍用車に自国の旗を立てて、他国の占領管理地区をパトロールを行っていた。当初アメリカ軍は1日おきに昼間と夜間に4~5台が東ベルリンをパトロールし、その後毎日実施していた。これはソ連占領地域に出入りする権利を持つことを誇示し、その権利を行使することを示していたが、ソ連側も同じように西ベルリンをパトロールしていた。クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 8-9P参照
  23. ^ 同じ1989年6月4日に起こった天安門事件の影響もあり、すでに東ドイツの全ての軍隊はあらゆるデモに対して武力制圧をすることを拒否していたため、武力をちらつかせての威嚇や武力制圧という手段はまず不可能であった。
  24. ^ ベルリンの国境検問所は東側は東ドイツが管理しているが、元はソ連であり、米英仏の西側3ヵ国とソ連とでベルリンを管理している形は戦後変わらずにきている。東ドイツが何としようとベルリンの管理は米英仏ソの4ヵ国が取り決めていることで、アメリカ軍の相手は東ドイツでなく、ソ連軍であった。そしてこの時にソ連軍は50万人の兵士が東ドイツにいた。
  25. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ではモル司令官が独断でゲートを開かせたと述べているが、この時点はボルンホルム通りのイエーガーの決断から1時間も過ぎており、他の検問所もすでに開いており、しかもチェックポイント・チャーリー内のパスポート審査官(シュタージ)の同意を得ており、独断とは言えない。
  26. ^ 正式な楽曲リリースは1992年のアルバム『JOURNEY (THE ALFEEのアルバム)|JOURNEY』

出典[編集]

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  1. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」145P
  2. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」194P
  3. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」104P
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  5. ^ 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P103-104
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  8. ^ 南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P106-108 および 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P94-96
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  12. ^ グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」汎ヨーロッパピクニック 251P
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  14. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P81
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  34. ^ 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P100-101
  35. ^ ゴルバチョフは駐東独大使コチュマソフを通じて、東ドイツ市民のデモ隊の制圧に駐独ソ連軍を使わないよう、駐独ソ連軍の司令官スネトコフに指示していた。(ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P485)
  36. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11-14
  37. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P14-15
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  39. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P17-18およびラインホルト・アンデルト、ヴォルフガンク・ヘルツベルク著、佐々木 秀訳『転落者の告白―東独議長ホーネッカー』(原題:Der Sturz Honecker im Kreuzverhör 時事通信社 1991年)P20-27
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  57. ^ 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』102P参照 
  58. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」209-210P参照
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  60. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 186P
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  68. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 192-193P参照
  69. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 199-200P参照
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  82. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 215P参照
  83. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 215-217P参照
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  85. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 219-220P参照
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  87. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 222-223P参照
  88. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 223-225P参照
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  93. ^ a b ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P513
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  98. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 237P参照
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  100. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P514
  101. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」215P
  102. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」193P
  103. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P29-33
  104. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P33-34
  105. ^ a b c 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36
  106. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P37
  107. ^ 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P115-166
  108. ^ a b 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P122
  109. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P120
  110. ^ “United Germany might allow another Hitler, Mitterrand told Thatcher”. Times (UK). (2009年9月10日). http://web.archive.org/web/20110512174119/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article6828556.ece 2011年5月12日閲覧。 
  111. ^ 朝日新聞 1989年11月19日付 7頁
  112. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」下巻 194P参照
  113. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P515
  114. ^ 『ダライ・ラマ自伝』(ISBN 4167651092)
  115. ^ ベルリンの壁崩壊25周年、3日間の祝賀行事 ドイツ(AFP 2014年11月8日)
  116. ^ タイトルは『Freedom On The Other Side Of The Wall』

参考文献[編集]

  • 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年
  • 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』NHK出版 1990年
  • 三浦元博・山崎博康 著『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』岩波新書 1992年
  • アンドレーア・シュタインガルト著 谷口健治 他訳 『ベルリン~記憶の場所を辿る旅~』昭和堂 2006年
  • クリストファー・ヒルトン著 鈴木主税 訳『ベルリンの壁の物語』上下巻 原書房 2007年
  • ヴィクター・セベスチェン著 三浦元博・山崎博康訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』 白水社 2009年
  • マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』 作品社  2010年
  • グイド・クノップ著 エドガー・フランツ 深見麻奈 共訳『100のトピックで知るドイツ歴史図鑑』原書房 2012年
  • エドガー・ヴォルウルム著 飯田収治・木村明夫・村上亮 訳『ベルリンの壁~ドイツ分断の歴史~』 洛北出版 2012年

関連項目[編集]

11月9日のドイツで起きた大事件
分断国家

外部リンク[編集]