コンテンツにスキップ

ドンバス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウクライナ内のドンバスの位置
マスメディアによるドンバスの現代的定義。一部スロボダ・ウクライナの領域と重複している

ドンバスウクライナ語: Донба́сロシア語: Донба́сс)は、ウクライナの南東部に位置する地方である。

「ドネツ盆地」という地名は盆地を貫流するドネツ川に由来し、それを表す現地語 (ウクライナ語: Донецький басейн〔ドネツィキー・バセイン〕またはロシア語: Донецкий бассейн) から生まれた混成語が「ドンバス」である[注 1][1]。ドンバス地域の範囲の定義とされる諸説がありながら、公式に法で定められた事は一度もない。今日用いられる最も一般的な定義は、ウクライナのドネツィク州ルハーンシク州を指すものである。ドンバス地域はウクライナの国土面積の10 %を占めている。

他方、19世紀後半より続く採炭[2]においてドンバス炭田をさす場合、上記2州の複数の地域を含めない代わりに近隣のドニプロペトロウシク州南ロシアの一部を範囲に含める[3]

歴史

[編集]

ロシア帝国時代

[編集]
石炭を拾い集める貧民 ニコライ・カサトキンロシア語版英語版による: ドンバス、1894年。

現在ドンバスとして知られる地域は、17世紀後半、ドン・コサックが定住するまで無人の土地が広がっていた[4]。最初の町は Solanoye と呼ばれ (現在のソレダル)、新たに発見された岩塩鉱脈の開発を目指して1676年に建設された。一帯はドンバスと呼ばれるずっと以前からウクライナ語で「荒野英語版」と通称され、広くウクライナ人ヘーチマン国家トルコ人クリミア・ハン国の支配下に置かれた期間を経て[5]18世紀の半ばにロシア帝国征服併合すると新ロシアと名付けた。産業革命がヨーロッパ中に定着するに伴い、19世紀中盤から後半にかけて地域で資源開発が相次ぐ。すでに1721年に発見されていた石炭の埋蔵量の膨大さが知られるようになった[6]

「ドンバス」という地名は石炭埋蔵量最大のドネツ川沿いの地域を表す用語と見なされ、ドネツ炭田(ウクライナ語: Донецький вугільний басейнロシア語: Донецкий каменноугольный бассейн)の派生語扱いし始めるのはこの頃からである[7]。石炭産業はその隆盛を大きくロシア人住民に担わせたこともあり、ロシア人人口はエカテリノスラフ県バフムート、Slovianserbskおよびマリウポリ諸郡でほかの地域よりも顕著に増加した。

今日、地域の要となったドネツィク1869年にイギリスの実業家ジョン・ヒューズが投資する以前、ウクライナ・コサックに連なるザポリージャ・コサック英語版が暮らす町で、「オレクサンドリフカ」と呼ばれた。ヒューズは製鉄所を建設、複数の炭鉱を開発し、その名前をとって町はユゾフカ(ロシア語: Юзовка)と改称された。炭鉱景気に沸くほかの町も発展し、ロシア帝国グベールニヤ(県)から出稼ぎ先を求めて大勢の小作農が集まった[1]1897年ロシア帝国の国勢調査英語版によれば、地域人口の52.4 %がウクライナ人であり、28.7 %がロシア人だった[8]。ドンバス地域にはギリシア人英語版ドイツ人ユダヤ人英語版あるいはタタール人も住み、とりわけマリウポリ地区(人口の36.7 %)では重要な存在だった[9]

それにもかかわらず、産業労働力の多くを担い続けたのはロシア人である。ウクライナ人は周辺(農村)地域に住み、都市部では、地域の重工業に職を求めてやってきたロシア人しか居住しない状況がしばしば見られるようになる[10]。出稼ぎに来たウクライナ人は都市に流入すると、たちまちロシア語話者の労働者階級に吸収されてしまった[11]

ソビエト時代

[編集]
「ドンバスはロシアの心臓部」と謳うポスター(1921年に登場したソビエトのプロパガンダポスター)

1917年から1922年ロシア内戦の結果、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国が誕生するとウクライナ人が居住した他の地域と共にドンバスは統合された。一帯に暮らしたコサックのうちウクライナ語話者は、1919年から1921年にかけて脱コサック化英語版を強制された[12]

ドンバスに暮らしたウクライナ人はホロドモール飢饉(1932年–1933年)のほか、ヨシフ・スターリンロシア化英語版政策に大きく影響される。ウクライナ人のほとんどが農村の小地主農民 (ソビエト体制の呼称はクラーク) に過ぎず、食糧難の深刻な被害を受けてしまう[13][14]。在英ウクライナ人協会によれば、飢饉により現在のルハーンシク州の人口は25 %まで減少し、現在のドネツィク州では15 - 20 %にまで減少した[15] 。ある推定によれば、ウクライナ社会主義共和国内の飢饉によって発生した死者のうち、ウクライナ人が81.3 %であったのに対し、ロシア人の死者はわず4.5 %にとどまるという[16]

ドンバスにおける第二次世界大戦戦災は甚大である。戦前のドンバスは貧困と食料不足に苦しめられた。戦争への備えにより、結果として工場労働者の出勤日が増え、ノルマが吊り上がり、達成できない者は逮捕された[17]ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーはドンバスの資源がバルバロッサ作戦にとって決定的に重要と見ていた。このようにして1941年から1942年に至るナチス占領下ウクライナ語版英語版)でドンバスは苦しむことになる[18]。ドイツの工場で働かせるために強制的に「輸出」された工場労働者は数千人にも及ぶ。旧称スターリノ州、現在のドネツィク州では占領期に27万9千人の市民が殺された。旧称ヴォロシーロフ州、現ルハーンシク州で殺された住民は4万5649人である[19]1943年赤軍によるドンバス戦略攻勢により、結果としてソビエトのドンバス支配が回復した。戦争の代償は高く、破壊され、人の住めない地域が残された。

第二次世界大戦後のドンバスの再建期間中、多数のロシア人労働者がやって来て人口比率はさらに変動する。ロシア人居住者は1926年の63万9千人[20]から、1959年にはほぼ4倍の255万人に伸びた。ロシア化はソビエトの教育改革(1958 - 1959年)によっても推し進められ、ドンバスにおける学校教育からウクライナ語をほぼ消し去るものであった[21][22]1989年ソ連国勢調査では、ドンバスの人口に占めるロシア人の比率を45%と報告した[23]

独立ウクライナ時代

[編集]
ルハーンシクにあるドン・コサックのモニュメント。銘に「栄光と自由の息子たちへ」とある。

ウクライナ独立に関する1991年国民投票英語版では、有権者の内、ドネツィク州で83.9 %(投票率76.7 %)、ルハーンシク州で83.6 %(投票率80.7 %)がソビエト連邦からの独立を支持した[24]。しかしながら、独立は結果的にドンバスに深刻な経済的悪化をもたらした。1993年には産業生産は崩壊し、平均賃金は1990年比80 %にまで低下した。キーウ(キエフ)の新中央政府が冒した数多くの管理間違いと怠惰のせいで、ドンバスは危機に陥った。

ドンバスの採炭業者は1993年に国内紛争(歴史家ルイス・ジーゲルバウムが言うところの「ドンバス地域と他の地域との争い」)を巻き起こしながらストライキを行った。あるストライキ指導者が言ったように、ドンバスの人たちは地域や企業や諸都市に権限移譲して欲しいから独立に賛成したのであって、ただモスクワからキーイウに移っただけの高度に中央集権化された政府を望んだわけではない[24]。このストライキはドネツィク・ルハーンシク両州の様々な憲法上の諸問題に関する意見聴取の住民投票(独立ウクライナの最初の議会選挙英語版と同時実施)が行われた1994年まで続いた[25]。これらの諸問題にはロシア語を ウクライナの公用語として採用する是非、あるいはドネツィク・ルハーンシク両州の行政言語をでロシア語とする是非、ウクライナの連邦化かウクライナと独立国家共同体の密接な連携か、といった諸点が含まれる[26]。投票者の90%近くがこれらの提案に賛成した[27] 。しかし、いずれも採択されなかった。ウクライナは単一国家に留まり、ウクライナ語は唯一の公用語として維持され、ドンバスにはいかなる自治権も与えられなかった[23]。しかし、ドンバスのスト参加者達は地域の経済危機に対する緩和策を考慮されるなど、キーイウから多くの経済的譲歩を得た。小規模なストライキは90年代を通じて続いたが、自治に対する要求は終息していった[24]。ドンバスの重工業に対するいくつかの補助金は廃止され、世界銀行による自由化改革を後押しするために多くの炭鉱がウクライナ政府によって閉鎖された[24]

1994年ドンバスと東ウクライナの他の地域からの支持で当選したレオニード・クチマ ウクライナ大統領は1999年に再選された[24]。クチマは地域内の政治的支援を得るために、開発資金を用いてドンバスに経済的援助を与えた[24]。2000年代初めにドンバス内の権力はオリガークスウクライナ語: олігархи、オリハルフィー)と呼ばれる一部の政治的エリートに集中した。国有産業の私有化は腐敗の蔓延を招いた。郷土史家の黒宮広昭[28]は地域の経済力、政治力を支配する人々のグループであるこのエリートを「ドンバス・クラン (Donbass clan)」として描写した[24]。「クラン」の著名なメンバーにはヴィクトル・ヤヌコーヴィチリナト・アフメトフが含まれる。オリガークスの形成は腐敗と結びつき、 ウクライナ内でドンバスが最も非民主的かつ最も邪悪な地域との認識を導いた。2000年代、ウクライナの他の地域から見て、ドンバスは「チンピラ文化」を持ち、「ソビエトの糞貯め」であり、後進的である、と認識されていた[24]2005年のNarodne slovo紙が伝えるように、コメンテーターのViktor Tkachenkoはドンバスを「第五列」の巣窟と呼び、その地域でウクライナ語を話す事は「健康と生命にとって安全ではない」と発言した[29]。また、親ロシア派分離主義の策源地であるように描かれた。ドンバスはウクライナの他の地域と比べて共産主義者の名前を採って名付けられた都市や村の数が顕著に多い[30]。ところが、これらの描写にも拘らず、1990年代から2000年代に行われた調査ではドンバスによるウクライナの他地域への支援は強力であり、むしろ分離主義者を冷淡に取扱った事が示された[31]

ドンバスにおける内戦 (2014年から2015年時点)

[編集]
ドンバスに展開したウクライナ軍、2015年3月

2014年2月のウクライナ革命とユーロマイダン運動の余波の一部として、3月初頭からドンバスで親ロシア・反政府グループのデモが起きた。これらのデモ[注 2]は2014年4月、分離主義武装勢力(ノヴォロシア人民共和国連邦)とウクライナ政府の戦争に悪化した[32][33]

内戦の最中、分離独立派の「共和国」は2014年5月11日にドネツィクとルハーンシク両州の地位に関する住民投票を実施した。この住民投票はウクライナ中央政府を排除した自治を望ましいとする結果に回帰した。

幾度も停戦が試みられたが、2014年を通して、そして2015年になっても戦闘は続いた。また、この戦争においてウクライナと西側諸国はロシアが分離独立派に物資支援と軍事支援の双方を供与したと主張しているが、ロシアは否定している。

2022年ロシアのウクライナ侵攻以降

[編集]

2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻した時点では、親ロシア派であるドネツク人民共和国軍が支配する地域となっていた。その後、同年10月にロシアはドンバス地方の編入を宣言[34]2023年になるとウクライナの反攻がドンバス地域にも及び始め、同年6月27日、戦況分析を行ったイギリス国防省は、ウクライナ軍の空挺部隊がロシアが2014年から占領してきた地域を奪還した可能性があると評価した[35]

人口統計と政治

[編集]
ウクライナ地図:ネイティブなロシア語話者が多数を占める地域を赤で示す(2001年国勢調査)

現在、ドンバスの大部分をロシア語使用地域が占める。ドンバスにロシア人少数派の要人が暮らすものの、人口の多数はウクライナ人である。2013年-2014年のウクライナ危機以前、地域の政治は「地域党」によって支配されていた[注 3]。前大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチをはじめ、党の主要人物はドンバス出身だった。

ドネツィク州のロシア化:上のグラフは長期に見た話者の比率、下のグラフは住民の国籍の変遷を示す[注 4]  ロシア語/ロシア人、   ウクライナ語/ウクライナ人、   その他。

ロシア起源の住民たちは、主に大都市の中心部に集中していた。大都市とりわけドネツィク、ルハーンシク両州においては母語としてロシア語が優勢である。ロシア語を共通語として話すウクライナ人は多い。

産業化の過程でこの地域に新たな都市がつぎつぎと開かれると、多くのロシア人(特にクルスク州出身)が流入し、東ウクライナの諸都市でロシア語が重要になる。

農村地帯へのロシア語の拡大は研究のテーマとして今も論争が続くが、これら2州では一般的に、それを裏付ける調査結果は出ていない。

ロシア語が母語だと申告する人々にはウクライナ人と他国人がいるため、ロシア語話者は国籍上のロシア人の人口を上回り、ドネツィク州で74.9%、ルハーンシク州で68.8%を占めた[36]。2001年時点で、少数派ロシア人の割合はドネツィク38.2%、ルハーンシク39%だった[37]

ドンバスには比較的大きなムスリムのコミュニティーがあり、いくつかの地域では人口の20%に達する[37]

言語学者George Shevelovによると、ソビエト連邦政府はウクライナ社会主義共和国内のすべての学校に、ウクライナ語で授業を行うように命じたというが(ウクライナ化政策の一部として)[いつ?][38]、1920年代初頭、ウクライナ語を教える中学校の割合はドンバスのウクライナ人の割合を下回った[39]。ウクライナで行われた地域的帰属意識の調査によればドンバス住民のほぼ40%が「ソビエト帰属」を意識すると回答している[40]

セーデルトーン大学英語版のRoman Horbykは「不完全かつ廃れた制度」により、20世紀に栄えた鉱山や工場がウクライナ人とロシア人の居住区の境界にあったため、ドンバス住民すなわち周辺から流入したはずの出稼ぎ農民は地域社会にとけ込むことができず、現代的郊外としての性格(全国的に見られる新しいアイデンティティ)が顕著に強まる妨げになったと主張する[39]

経済

[編集]

ドンバスの経済重工業金属工業、とりわけ採炭冶金が優勢だった。1970年代以降、石炭の年間採掘量は減少したものの重要な産出地として生き延びる。採炭は地下深くに達し、褐炭は地表下およそ600メートル、より商品価値の高い無煙炭瀝青炭の採炭地は地下およそ1800メートルで行われる[6]。2014年4月のドンバス内戦前、ドネツィクとルハーンシク両州合わせてウクライナの石炭輸出高の30%を産出していた[41]。石炭だけでなく、この地域は鉄や鋼の生産拠点ともなっている。

またこの地域は金や銀の採掘、原子炉を建造するのに用いられる水銀を産出することでも知られる。結果、ドンバスはウクライナ全体の輸出の30%を占めており、GDPの20%を占めている。

石炭産業における労働安全

ドンバスの採炭地点の深度化、メタン炭塵の爆発事故の頻発あるいは岩盤崩落 (rock burst) の危険、さらに時代遅れのインフラにより、世界で最も危険な部類に入る[42]。2000年代後半には非合法でさらに危険な炭鉱すら、全域に蔓延していた[2][43]

環境問題
ドネツィクのカルミーウス川沿いのボタ山

ドンバスへの採炭と製錬の集中は地域の環境に深刻なダメージをもたらし、次の問題は広く知られている。

  • 水供給の破綻と鉱水 (mine water) に起因する洪水
  • コークス工場と製鉄所周辺の目に見える大気汚染
  • 大気汚染・水の汚濁とボタ山から発生する泥流の脅威

加えて、ドンバスの化学廃棄物英語版処理施設の管理不全から、環境汚染の脅威が続く。

イェネキイェヴェではソビエト時代に1979プロジェクトロシア語版と銘打った実験をしており、極めて特異な核採掘英語版の悪影響が懸念される。

世論

[編集]

2015年11月にドネツィク、ルハーンシク州(親ロシア派占拠地域を除く)のRating Group Ukraineによって行われた調査では住民の75%がドンバス全体がウクライナに留まることを望んでいる事が判明した。7%はロシアへの併合を、1%はドンバスが独立国になる事を、3%は親ロシア派テロリストが出て行き、ドンバスはウクライナに留まる事を選択した。

ロシア語を話す住民に圧力または脅威下にあるかを尋ねた調査では、82%は「いいえ」、11%は「はい」だった。ウクライナのロシア語話者を「保護」するためにロシアが派兵する事を支持するかを尋ねた調査では、71%が「いいえ」2%は「ある程度は」、7%は「その他」だった。

50%はウクライナは単一国家を維持する事を望み、14%は連邦制国家を、13%はクリミアを除いた単一国家を、7%は複数の国家に分割する事を望んでいた。

いずれかを選択するよう尋ねたところ、33%はユーラシア関税同盟を21%はEUを選好した。

関連文献

[編集]
  • Hiroaki Kuromiya. "Freedom and Terror in the Donbas: A Ukrainian-Russian Borderland, 1870s-1990s"、イギリス、ニューヨーク:Cambridge University Press〈Cambridge Russian, Soviet and post-Soviet studies〉第104巻、1998、ISBN 0521622387.(2003年再版, 改訂ISBN 0521526086, 9780521526081。)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ドン Дон + バス бас(с) でドンバス Донбас(с)
  2. ^ ロシア連邦によるクリミア併合に先立つものであり、南部および東部ウクライナ中で同時発生した親ロシア派の抗議運動のより広範なグループの一部だった[要出典]
  3. ^ ドンバスは、ウクライナ議会の2008年の選挙で得票のおよそ50%を投じた。
  4. ^ 1897年(英語)1926年(英語)2001年の国勢調査による。

脚注

[編集]
  1. ^ a b Klinova, O. If instead of head, there is a gunshell. How the Donbass identity was formed. en:Ukrayinska Pravda (Istorychna Pravda). 11 December 2014
  2. ^ a b “The coal-mining racket threatening Ukraine's economy”. BBC News. (April 23, 2013). http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-22170976 September 18, 2013閲覧。 
  3. ^ Hiroaki Kuromiya (2003). Freedom and Terror in the Donbas: A Ukrainian-Russian Borderland, 1870s–1990s. Cambridge University Press. pp. 12–13. ISBN 0521526086. https://books.google.co.jp/books?id=d5b689wW7qwC&dq=history+of+donbass&redir_esc=y&hl=ja 
  4. ^ "Historical Dictionary of Ukraine". Ivan Katchanovski, Zenon E. Kohut, Bohdan Y. Nebesio, Myroslav Yurkevich (2013). pp.135-136. ISBN 081087847X
  5. ^ Hiroaki Kuromiya (2003). Freedom and Terror in the Donbas: A Ukrainian-Russian Borderland, 1870s–1990s. Cambridge University Press. pp. 11–13. ISBN 0521526086. https://books.google.co.jp/books?id=d5b689wW7qwC&dq=history+of+donbass&redir_esc=y&hl=ja 
  6. ^ a b "Donbas". Encyclopædia Britannica. 2014. 2015年3月6日閲覧
  7. ^ Andrew Wilson (April 1995). “The Donbas between Ukraine and Russia: The Use of History in Political Disputes”. Journal of Contemporary History 30 (2): 274. http://www.jstor.org/stable/261051?seq=10. 
  8. ^ Hiroaki Kuromiya (2003). Freedom and Terror in the Donbas: A Ukrainian-Russian Borderland, 1870s–1990s. Cambridge University Press. pp. 41–42. ISBN 0521526086. https://books.google.co.jp/books?id=d5b689wW7qwC&dq=history+of+donbass&redir_esc=y&hl=ja 
  9. '^ The First General Census of the Russian Empire of 1897 − Breakdown of population by mother tongue and districts in 50 Governorates of the European Russia”. Institute of Demography at the National Research University 'Higher School of Economics. 22 September 2014閲覧。
  10. ^ Lewis H. Siegelbaum; Daniel J. Walkowitz (1995). Workers of the Donbass Speak: Survival and Identity in the New Ukraine, 1982–1992. Albany: State University of New York Press. pp. 162. ISBN 0-7914-2485-5. https://books.google.co.jp/books?id=zsDExU_Oji0C&redir_esc=y&hl=ja 
  11. ^ Stephen Rapawy (1997). Ethnic Reidentification in Ukraine. Washington, D.C.: United States Census Bureau. https://www.census.gov/population/international/files/sp/SP90.pdf 
  12. ^ Soviet order to exterminate Cossacks is unearthed”. University of York. University of York (19 November 2010). 11 September 2014閲覧。 “'Ten thousand Cossacks were slaughtered systematically in a few weeks in January 1919 [...] 'And while that wasn't a huge number in terms of what happened throughout the Russia, it was one of the main factors which led to the disappearance of the Cossacks as a nation. [...]'”
  13. ^ Potocki, Robert (2003) (Polish, English summary). Polityka państwa polskiego wobec zagadnienia ukraińskiego w latach 1930–1939. Lublin: Instytut Europy Środkowo-Wschodniej. ISBN 978-8-391-76154-0 
  14. ^ Piotr Eberhardt (2003). Ethnic Groups and Population Changes in Twentieth-Century Central-Eastern Europe. Armonk, New York: M. E. Sharpe. pp. 208–209. ISBN 0-7656-0665-8. https://books.google.co.jp/books?id=jLfX1q3kJzgC&lpg=PP1&pg=PA208&redir_esc=y&hl=ja 
  15. ^ The Number of Dead”. Association of Ukrainians in Great Britain. 21 September 2014閲覧。
  16. ^ Sergei Maksudov, "Losses Suffered by the Population of the USSR 1918–1958", in The Samizdat Register II, ed. R. Medvedev (London–New York 1981)
  17. ^ Hiroaki Kuromiya (2003). Freedom and Terror in the Donbas: A Ukrainian-Russian Borderland, 1870s-1990s. Cambridge University Press. pp. 253–255. ISBN 0521526086. https://books.google.co.jp/books/about/Freedom_and_Terror_in_the_Donbas.html?id=d5b689wW7qwC&redir_esc=y&hl=ja 
  18. ^ Hiroaki Kuromiya (2003). Freedom and Terror in the Donbas: A Ukrainian-Russian Borderland, 1870s-1990s. Cambridge University Press. pp. 251. ISBN 0521526086. https://books.google.co.jp/books/about/Freedom_and_Terror_in_the_Donbas.html?id=d5b689wW7qwC&redir_esc=y&hl=ja 
  19. ^ Hiroaki Kuromiya (2003). Freedom and Terror in the Donbas: A Ukrainian-Russian Borderland, 1870s-1990s. Cambridge University Press. pp. 273. ISBN 0521526086. https://books.google.co.jp/books/about/Freedom_and_Terror_in_the_Donbas.html?id=d5b689wW7qwC&redir_esc=y&hl=ja 
  20. ^ Andrew Wilson (April 1995). “The Donbas between Ukraine and Russia: The Use of History in Political Disputes”. Journal of Contemporary History 30 (2): 275. http://www.jstor.org/stable/261051?seq=11. 
  21. ^ L.A. Grenoble (2003). Language Policy in the Soviet Union. Springer Science & Business Media. ISBN 1402012985. https://books.google.co.jp/books?id=qaSdffgD9t4C&pg=PA57&lpg=PA57&dq=&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false 
  22. ^ Bohdan Krawchenko (1985). Social change and national consciousness in twentieth-century Ukraine. Macmillan. ISBN 0333361997. https://books.google.co.jp/books/about/Social_change_and_national_consciousness.html?id=8MkDAQAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  23. ^ a b Don Harrison Doyle, ed (2010). Secession as an International Phenomenon: From America's Civil War to Contemporary Separatist Movements. University of Georgia Press. pp. 286–287. ISBN 0820330086. https://books.google.co.jp/books?id=WIXV1dms-8MC&pg=PA286&redir_esc=y&hl=ja 
  24. ^ a b c d e f g h Oliver Schmidtke, ed (2008). Europe's Last Frontier?. New York: Palgrave Macmillan. pp. 103–105. ISBN 0-230-60372-6. https://books.google.co.jp/books/about/Europe_s_last_frontier.html?id=IPNoAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  25. ^ Kataryna Wolczuk (2001). The Moulding of Ukraine. Central European University Press. pp. 129–188. ISBN 9789639241251. http://books.openedition.org/ceup/1742#ftn11 
  26. ^ Hryhorii Nemyria (1999). Regional Identity and Interests: The Case of East Ukraine. Studies in Contemporary History and Security Policy 
  27. ^ Bohdan Lupiy. “Ukraine And European Security - International Mechanisms As Non-Military Options For National Security of Ukraine”. Individual Democratic Institutions Research Fellowships 1994–1996. North Atlantic Treaty Organization. 21 September 2014閲覧。
  28. ^ Ian Bateson ; Angelina Kariakina ; Hiroaki Kuromiya(黒宮広昭) (29 April, 2015). “Donbas History Is One Of Resistance To Outsiders – Hiroaki Kuromiya”. Hromadske International. February 26, 2020閲覧。
  29. ^ Oliver Schmidtke, ed (2008). Europe's Last Frontier?. New York: Palgrave Macmillan. pp. 102–103. ISBN 0-230-60372-6. https://books.google.co.jp/books/about/Europe_s_last_frontier.html?id=IPNoAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  30. ^ (ウクライナ語) In Ukraine rename 22 cities and 44 villages, en:Ukrayinska Pravda (4 June 2015)
  31. ^ Oliver Schmidtke, ed (2008). Europe's Last Frontier?. New York: Palgrave Macmillan. pp. 108–111. ISBN 0-230-60372-6. https://books.google.co.jp/books/about/Europe_s_last_frontier.html?id=IPNoAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  32. ^ Grytsenko, Oksana (12 April 2014). “Armed pro-Russian insurgents in Luhansk say they are ready for police raid”. Kyiv Post. http://www.kyivpost.com/content/ukraine/armed-pro-russian-insurgents-in-luhansk-say-they-are-ready-for-police-raid-343167.html 
  33. ^ Leonard, Peter (14 April 2014). “Ukraine to deploy troops to quash pro-Russian insurgency in the east”. Yahoo News Canada. Associated Press. https://ca.news.yahoo.com/ukraine-special-forces-sent-eastern-city-retake-buildings-082049113.html 26 October 2014閲覧。 
  34. ^ ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、ザポロジエ州、ヘルソン州のロシア連邦への編入”. スプートニク (2022年10月6日). 2023年7月2日閲覧。
  35. ^ ウクライナ、東部で一部領土を奪還か 2014年からロシアが支配=英国防省”. BBC (2023年6月28日). 2023年7月2日閲覧。
  36. ^ census 2001: Languages”. 2015年3月19日閲覧。
  37. ^ a b About number and composition population of UKRAINEby data All-Ukrainian population census 2001 data”. State Statistics Committee of Ukraine (2004年). 2015年3月19日閲覧。
  38. ^ en:Lenore Grenoble (2003). Language Policy in the Soviet Union. en:Springer Science+Business Media. p. 84. ISBN 978-1-4020-1298-3. https://books.google.co.jp/books?id=Nn3xDTiL0PQC&pg=PA1&dq=official+languages+Soviet+Union&client=firefox-a&cd=6&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=%22official%20language%22&f=false 
  39. ^ a b Games from the Past: The continuity and change of the identity dynamic in Donbass from a historical perspective”. en:Södertörn University. 19 May 2014閲覧。 Södertörn University はwikidata参照。
  40. ^ en:Taras Kuzio. “Soviet conspiracy theories and political culture in Ukraine:Understanding Viktor Yanukovych and the Party of Region]” (pdf). 23 August 2011閲覧。
  41. ^ Oliver Schmidtke, ed (2008). Europe's Last Frontier?. New York: Palgrave Macmillan. pp. 97. ISBN 0-230-60372-6. https://books.google.co.jp/books/about/Europe_s_last_frontier.html?id=IPNoAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  42. ^ Grumau, S. (2002). Coal mining in Ukraine. Economic Review.44. Retrieved Brigham Young University
  43. ^ Panova, Kateryna (8 July 2011). “Illegal mines profitable, but at massive cost to nation”. en:Kyiv Post. http://www.kyivpost.com/news/business/bus_general/detail/108242/ 18 September 2013閲覧。 

関連項目

[編集]