バルバロッサ作戦

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バルバロッサ作戦
Operation Barbarossa corrected border.png
戦争第二次世界大戦独ソ戦
年月日1941年6月22日 - 12月
場所ロシア西部 ウクライナ ベラルーシ リトアニア ラトビア エストニア
結果:枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国
 フィンランド
ハンガリーの旗 ハンガリー王国
スロバキア共和国の旗 スロバキア共和国
Flag of Independent State of Croatia.svg クロアチア独立国
イタリア王国の旗 イタリア王国

支援国
スペインの旗 スペイン青師団
フランスの旗 フランス国反共フランス義勇軍団

ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー
ナチス・ドイツの旗 ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
ナチス・ドイツの旗 フランツ・ハルダー
ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・フォン・レープ
ナチス・ドイツの旗 フェードア・フォン・ボック
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
ルーマニア王国の旗 イオン・アントネスク
ルーマニア王国の旗 ペトレ・ドゥミトレスク
フィンランドの旗 カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
イタリア王国の旗 ジョヴァンニ・メッセ
イタリア王国の旗 イータロ・ガリボルディ
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・ジューコフ
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー
ソビエト連邦の旗 セミョーン・ブジョーンヌイ
ソビエト連邦の旗 クリメント・ヴォロシーロフ
ソビエト連邦の旗 セミョーン・チモシェンコ
ソビエト連邦の旗 マルキアン・ポポフ
ソビエト連邦の旗 フョードル・イシドロヴィッチ・クズネツォフ
ソビエト連邦の旗 イワン・チュレネフ
ソビエト連邦の旗 ドミトリー・パヴロフ
ソビエト連邦の旗 ミハイル・キルポノス
戦力
3,200,000 2,600,000
損害
戦死 174,000
行方不明 36,000
戦傷 604,000
戦死 802,191[1]
負傷 3.000.000
捕虜 3,300,000
航空機 21,200[2]
戦車 20,500
独ソ戦

バルバロッサ作戦(バルバロッサさくせん、ドイツ語: Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バーバロサ)は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたドイツ国によるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされる場合もある。枢軸国以外にも、親枢軸のスペインフランス国(ヴィシー政権)が派兵している。

作戦名は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名「Barbarossa」(「赤ひげ」、イタリア語のbarba「あごひげ」+rossa「赤い」 )に由来する。フリードリヒ1世は伝説的な人物で、民間伝承によると現在も眠り続けており、ドイツに危機が訪れた時に再び目覚めて帝国に繁栄と平和をもたらすとされた。それにあやかっての命名、また第3回十字軍総司令官として戦果を残し、ボヘミア王国ハンガリー王国神聖ローマ帝国の影響を拡大した実績から、対ソ戦にふさわしいと判断されたと考えられている。

ドイツ陸軍はポーランド侵攻の「白作戦」、フランス侵攻の「黄作戦」「赤作戦」など、攻勢作戦名に色名を付ける伝統があり、それの発展形とも考えられる。バルバロッサ作戦が頓挫した影響か、翌年の攻勢作戦はまた「青作戦」と純粋な色名に戻された。

背景[編集]

ドイツ[編集]

アドルフ・ヒトラーは自著『我が闘争』の中で、膨張するドイツ民族はより広い生存圏(レーベンスラウム)を必要としており、それを東方に求めることを明らかにしていた。ヒトラーはスラブ人を劣等人種と見なしており、スラブ人が住む東ヨーロッパの広大な土地から彼らを放逐して、そこにドイツ人の植民地を設けることを企図していた。1939年、ドイツはポーランド侵攻の直前にソ連と独ソ不可侵条約を締結。互いを敵視していたはずの独ソの条約締結は世界を驚かせた。しかし、ヒトラーにとってこの条約は一時的な保険に過ぎなかった。ヒトラーはフランス侵攻を成功させると、軍に対してソ連への攻撃を命令した。1940年7月3日フランツ・ハルダ―参謀総長は参謀本部作戦部長フォン・グライフェンベル大佐にソ連攻撃計画の予備研究を命じた。その後も国防軍と陸軍の各チームが作戦計画を研究し8月5日にドイツ第18軍参謀長エ―リヒ・マルケル少将が「東方作戦の草案」を参謀本部に提出した(マルクス案)。

マルクス案ではスモレンスク - モスクワ間とキエフを攻勢軸とし首都モスクワの奪取が「ソ連邦の経済的・政治的・精神的中核であるがゆえに、国家としての統合機能・調整機能を喪失させる」と結論付けられた。グライフェンベル大佐と参謀本部次長パウルス中将協力のもと参謀本部のハルダ―も陸軍総司令部案(オットー)を立案した。陸軍総司令部案(オットー)では特定地域や特定都市の占領は重視されず、赤軍野戦部隊の殲滅に重点が置かれた。ミンスク、スモレンスク、モスクワなどソ連の主要都市は敵兵力を誘引するための囮として位置付けられた。1940年12月5日ハルダ―は「オットー」を陸軍総司令部案としてヒトラーに提出し、ヒトラーは計画に合意を与え訓令起案をヨードルに命じた。国防軍総司令部のロズベルク中佐が立案した「フリッツ」とウクライナとレニングラードの奪取を優先したいヒトラーの意向を考慮し最終計画案をヒトラーに提出、ヒトラーは12月18日に総統訓令第21号「バルバロッサの場合」を発令した。北欧の鉱物資源に依存しているドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラードを電撃的に占領しソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物と鉱物資源の宝庫であるウクライナは「東方生存圏」構想実現のためには欠かせない地域だった。経済的理由からヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわり、ヒトラーの意向を重視した陸軍総司令部はレニングラードとウクライナを第1目標に位置付けた。

1940年、ドイツ軍は西方でフランスを瓦解させたが、バトル・オブ・ブリテンには敗北し、イギリスを屈服させることはできなかった。ドイツ軍首脳部はイギリスを背面にしてソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明したが、ヒトラーは側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」と豪語した。ヒトラーはポーランドとフランスでの成功経験や、赤軍冬戦争において自軍よりはるかに弱小なはずのフィンランド軍相手に3か月以上の時間と多大な犠牲を払ってようやく勝利したという事実から、ソ連との戦いにも容易に勝利できると確信していた。また、赤軍に対する迅速な勝利がイギリスとの和平を促進すると期待していた。

ドイツ軍はソ連国境に3個軍集団300万の兵力を集結させた。ヒトラーとドイツ軍指導部は、攻撃・占拠目標としてソ連の特定の地方および大都市を割り当てた。北方軍集団は、バルト海沿岸に沿い旧バルト三国を経由して北ロシアへ侵入し、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の占領もしくは破壊を目標とした。中央軍集団は、現在のベラルーシを通りロシアの中西部を進軍し、モスクワへの直接攻撃が目標となった。南方軍集団はソ連最大の穀倉地帯であり、一大工業地帯でもある人口密度の高いウクライナ地域を攻撃、キエフを攻略し、南ロシアの草原を抜け東方のヴォルガ川まで進軍するように計画を整えた。

ドイツ軍の計画は最終的にはアルハンゲリスクからアストラハンを繋ぐ線まで進出するものであり、そのため不十分な量ながらも冬期装備も用意されていた。しかし本作戦中では兵站の混乱から前線部隊に冬期装備がほとんど届かなかった。

ソビエト連邦[編集]

ソ連は、主要軍備の保有量と工業生産力においてドイツを上回っていた。ソ連の工業生産は資本主義国が世界大恐慌で苦しんでいた1930年代に急速に発展し、米国に次いでいた。重点は重工業、特に軍需産業に置かれていた。戦車も航空機も最新鋭のものはドイツの兵器に匹敵、もしくはそれを凌駕する性能を誇った。特に中戦車・重戦車はそれに類するものを持たないドイツ戦車を圧倒した。しかしながら、最新鋭の装備は全体からすると比率は低く、特に航空機は枢軸軍の兵器と比較するとはるかに時代遅れになっていた。

ヨシフ・スターリンは、1930年代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部を含む何百万もの人々を処刑していたため、軍は弱体化し、指揮官不足さえ引き起こしていた。また、ドイツ軍がフランスを電撃戦で破った後も、赤軍はドイツ軍の進軍速度を侮っていた。赤軍は、前衛がドイツ軍を国境沿いの要塞線で阻止している間に主力が後方に集結し、やがて前進して反撃するという展開を想定していた。しかし、1939年までの国境線に構築された要塞であるスターリン・ラインは、同年にソ連がポーランドの東半分を併合すると廃棄された。新しい国境沿いの要塞は構築中で、途切れ途切れの点として存在しているに過ぎなかった。新要塞線の構築完了までソ連側の防備は脆弱であったが、国境付近に兵力を張り付ける配備に変更はなかった。また、精鋭部隊の多くはウクライナに置かれ、工業生産の中心はドイツ国境に近いヨーロッパ・ロシアウクライナに集中していた。

スターリンは独ソ不可侵条約の有効性を信じ、ドイツの攻撃意図を看過ごした。条約締結までソ連ではファシズムの脅威が宣伝され、国内の粛清の口実になっていたが、条約締結後は一転して反ドイツ的論調が抑圧された。ソ連情報部がドイツ軍の国境集結を報じ、ドイツ軍がソ連領に対して数多くの航空偵察を行ったにもかかわらず、ソ連政府も軍も目立った行動を起さず、前線部隊への警告も行われなかった。

参加兵力[編集]

ドイツ軍[編集]

赤軍[編集]

経過[編集]

  作戦開始から1941年7月
  次の侵攻から1941年9月
  キエフの包囲から1941年9月
  最後の侵攻から1941年12月

1941年6月22日(奇しくもナポレオンロシア侵入は6月24日に始まり、ほぼ同じ時期である)にドイツ軍は攻撃を開始した。作戦には合計300万人の兵員が動員され、それまでの歴史で最大の陸上作戦だった。赤軍は何の対策もしておらず、一方的な奇襲を受けることになった。

2個装甲集団が配備され最強の戦力を持つ中央軍集団は、ミンスクスモレンスクなどでソ連の大軍を包囲撃破してモスクワ目指して進撃を続けていた。しかしヒトラーは、南方軍集団のウクライナ攻撃を支援するために中央軍集団から第二装甲集団を引き抜き、南方へ進撃してキエフを守る赤軍を背後から包囲するよう命じた。それは開戦後ウーマニ包囲戦などの限定的な成功はあったものの、赤軍が主力を配置していたため苦戦を強いられていた南方軍集団にキエフで赤軍主力を包囲撃破する機会を与えたが、この動きはモスクワに対する攻撃を遅らせた(ドイツ軍がモスクワをその攻撃の視野に入れ始めたとき、秋の雨季による泥濘と、続く冬の寒さがその進軍を停止させた)。ただし、陸軍総司令部などが考えていたモスクワ直進作戦を行った場合、補給が追いついていなかったこと、さらにソビエト連邦の大都市や資源が存在する南方での進撃が史実よりも困難になることから、南方への転進は正当な判断ではないかともいわれている。10月中旬に南方軍集団はキエフを占領し、650,000人を超える捕虜を連行した。その多くはナチの強制収容所で死んだ。キエフはその防衛戦闘により、のちソ連政府から英雄都市の称号を与えられた。

祖国を防衛するための大祖国戦争を宣言したソ連による抵抗は、ドイツ側が予想したよりはるかに激しかった。ベラルーシ、ブレストの国境要塞での戦いはその一例である。ドイツ侵入の初日、要塞は数時間以内に占領できると計画された。しかし実際には、ソ連の守備隊は包囲された要塞で一か月間戦い続けた。同時に主要な正面戦線においては、多くのソビエト徴集兵の自殺行為にも似た突攻が行われた。補給線が伸びてパルチザンの攻撃に脆弱になったので、ドイツの兵站補給はさらに問題になった。赤軍は、ドイツ軍に占領地の食物、燃料および建造物の使用を行わせないために、放棄せざるを得なかったすべての土地で焦土戦術を実行した。ソビエトからの独立志向があったウクライナ地方においては、ウクライナ人をドイツ軍に協力させる案があったが、苛烈な占領政策によって結局のところ敵に回してしまっている。

赤軍の装備していたKV-1重戦車とT-34中戦車は、ドイツのいかなる戦車よりも強力であり、戦車戦術のエキスパートと自他共に認めていたドイツ軍に大きな衝撃を与えた。この対策として、ドイツ軍は急いで新型戦車(ティーガーI及びパンター)の配備と、既存戦車の改良を進めることになる。

バルト海地域とレニングラードの占領が目的だった北方軍集団は1941年8月までにレニングラードの南部周辺へ進軍したが、猛烈な赤軍の抵抗に阻まれた。ドイツ軍は装甲部隊がレニングラードで市街戦に巻き込まれることを恐れ、第四装甲集団をモスクワ攻撃のため中央軍集団に転属させ、レニングラードでは包囲と封鎖によって補給を絶つことを決定した。しかし1944年前半のドイツ軍の撤退までレニングラードは持ちこたえた。レニングラードは英雄都市の称号を受け取った最初のソ連の都市となった。

キエフ攻略後、第二装甲軍(装甲集団から改称)は中央軍集団に復帰し、最後にして最大の目標であるモスクワ攻略のタイフーン作戦が開始された。ヴャジマブリャンスクの二重包囲戦で赤軍は再び50万の兵を失った。しかし、その後秋の長雨が到来し、路面は泥濘と化してドイツ軍の前進は停止し、その間に赤軍はモスクワ前面の防衛体制を再構築した。寒気の到来と共に地面が凍って再びドイツ軍は前進を開始したが、寒さが厳しくなるにつれてドイツ軍の前進速度は鈍り、温存していた砲兵予備を投入した赤軍の抵抗もあって、12月初旬についに停止した。また制空権を失ったことにより装甲部隊は航空支援を欠いた状態での前進を余儀なくされ、ソ連砲兵によって次々と撃破された。満足な冬季戦用の装備もなく、補給も不十分なままに各戦線で停止したドイツ軍に対して赤軍の冬季反抗が開始され、反撃の大部分は、モスクワに接近していた中央軍集団に向けられた。モスクワはその後英雄都市の称号を受け取った。

影響[編集]

ミンスクの付近で降伏し捕虜になった赤軍

ドイツへの影響[編集]

首都モスクワ攻略を目指したタイフーン作戦の失敗と、その後の赤軍による反撃によって、ドイツ軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、ヒトラーの死守命令と各部隊の奮戦によって何とか持ちこたえた。これは、開戦以来、陸上では常勝を続けてきたドイツ陸軍にとっての始めての大敗北であった。これを機に、陸軍首脳部の大幅な人事刷新を行ない、陸軍司令官のブラウヒッチュ元帥は更迭され、後任には、自身がついた。また、グデーリアン上級大将など多くの将官が、更迭され予備役編入となった。これ以降、ヒトラー自身によるより直接的な戦争指導が強まっていった。

ソ連への影響[編集]

赤軍の開戦初期の大敗の原因は単純だった。彼らはドイツのこの時期における攻撃を予期せず、縦深防御のための戦力配備を行わなかった。この時期にはドイツが考案した電撃戦に対しての有効な防御法はまだ編み出されていなかった。電撃戦に対しては逆効果と思われる用兵のため、結果として赤軍は膨大な人員と資源を損耗した。

この敗北はソ連の宣伝姿勢の変化を惹き起こした。戦前赤軍は非常に強力であるとされていたが、1941年の秋には、赤軍は弱く開戦準備をする十分な時間がなかった、ドイツの攻撃は驚くべきものだったという印象を与えた。このことはソ連崩壊後のロシアにおける歴史教育では、スターリンによる1930年代の粛清で多くの熟練した士官を失ったことを付け加えて教えられている。同時に戦争が終わって何十年も経った現在でも、1939年から41年の赤軍による記録の多くに秘密が存在することと関係がある。

だが、緒戦において旧式の武装が壊滅状態になったことと大量生産能力により、最新鋭の兵器に切り替えることが出来るようになったともいえる。生産力が低く損失の補充すらままならない枢軸軍は、見かけの部隊数を増やすために連隊あたりの戦車を減らしたり、後方の部隊には旧式の戦車を配備し続けねばならず、鹵獲したソ連製兵器を後方部隊どころか前線部隊に配備して損耗の埋め合わせを行うことも多かった。

とはいえ、人口や生産設備、農地などの大半を失った後でもソ連がドイツを撃破した事実は、国家としてのソ連が決して弱くなかったことを証明した。これまでナチス・ドイツが戦った軍と比べて、赤軍は粘り強さにおいてはまったく違う軍隊であった。戦争が進むにつれほぼ全滅するまで抵抗をやめない赤軍のために電撃戦の効力は徐々に失われていった。

論点[編集]

奇襲成功の要因[編集]

スターリンが奇襲を看過した要因としては諸説あるが、独ソ不可侵条約締結のわずか2年後にドイツが攻撃してこないだろうとスターリンが確信していたという説がある。スターリンはヒトラーが対英戦を終了させた後にしか自国を攻撃することはないと信じ、情報機関からの再三の警告にもかかわらず、その情報はドイツとソ連の間に諍いの種をまくイギリスの謀略であると考えていたとされる。この情報には、東京の駐日ドイツ大使館に潜入していたスパイのゾルゲからの報告も含まれていたと言われている。最近ロシアで発表された資料によると、該当する報告はゾルゲとは別のスパイが送った情報だと言われている。[要出典]

1990年代以降「スターリンがドイツを出し抜き先制攻撃を行おうとしていた」とする説が、ロシアの作家スヴォーロフの歴史小説『砕氷船』『Mデー』において提起され、論争となっている。だが実際には、旧ポーランド国境を重視する防衛戦略を唱えるジューコフらが重用されていたこと、独ソ国境付近には精鋭部隊や最新のT-34、重砲類も配備されておらずトラクターやトラックも少なく、逆にこうした装備は旧ポーランド国境付近に重点的に配備されていたこと、ドイツへの「挑発」を恐れたスターリンの命令などを考えれば、この説には無理がある。また、確かにジューコフとチモシェンコが先制攻撃案を作成して、1941年5月15日にスターリンに提案して却下されたのは事実のようであるが、これもドイツ軍の国境地帯への移動を確認し、ソビエト侵攻が必至と判断したからであって[3]、ドイツの右派が唱えるような、「ソ連が先制攻撃しようとしたからドイツは自己防衛のため先手を打った」という性質のものとはならない(そもそも、ドイツ側は開戦に際してそのようなコメントもしていない)。

しかしながら、当時は赤軍とスターリンの関係が悪化していて、政府の思惑外で軍が動く可能性も少なくとも政府内の考えでは存在した。こうした情勢は侵攻初期の「これはヒットラーの命令ではなく将軍の独断である。ベルリンに回線を繋げ」とのジューコフを震撼させたスターリンの発言にも見て取れる。

作戦失敗の原因[編集]

バルバロッサ作戦の失敗の理由として以下の要因が挙げられる。

  1. ソ連の戦争遂行能力がドイツ側の予想外に高かったことがあげられる。それまでドイツ軍に敵対した軍隊とは異なり、戦線が内陸部に進むにつれて赤軍は激しい抵抗を示したのである。最初の一撃で赤軍全体が崩壊するだろうというヒトラーの見通しは余りに楽観的に過ぎた[4]
  2. 補給計画の不備と戦略目標の不統一があげられる。兵站計画を担当した国防軍兵站総監部は戦場をドニエプル河以東の奥行き600㎞程度の領域だと想定していたがドイツ軍はソ連軍の東方脱出を許してしまい戦場は総監部の想定以上に拡大した。ヨーロッパ・ロシアはレニングラード、モスクワ、南方の資源地帯と戦略的目標が分散していたが、ドイツ軍はどれかに重点を置くことなくそれぞれに対して兵を三分し、兵力の分散をもたらした。全ての主要目標の攻略が失敗に終わると共に、補給の困難さを招いた。また、ロシアの鉄道軌道幅は、ドイツのそれとは異なった為、ドイツの車両をそのまま使うことはできず、積荷の載せ替えが必要であった。
  3. ヒトラーが親独政権が倒れたユーゴスラビアのクーデターに介入し、更に膠着していたギリシャ・イタリア戦争にも介入した事で、作戦開始日が当初の5月15日の予定から一ヶ月以上延期されたことも、同年は冬の到来が例年になく早かったことと合わせて大きな影響があったと思われる。
  4. ドクトリンの違いがあげられる。ドイツ軍の電撃戦ドクトリンは機動戦により指揮系統を麻痺させ敵軍を無力化することを前提としている。そのため機動戦がなによりも重視され、足の遅い砲兵部隊の軽量化・分散化を推進し、砲兵にかわる支援火力として空軍による航空支援を採用した。広大な戦場での大規模な機動戦が予想される対ソ戦に備え、ドイツ軍は1941年に軍団砲兵を解体し火力の分散と引き換えに機動力を上昇させた。しかし電撃戦理論の前提は通じず指揮系統が麻痺しても包囲下のソ連軍は戦闘力を失わず無力化されることもなかった。機動力とひきかえに火力集中を切り捨てたドイツ軍は包囲下のソ連軍制圧に苦労しソ連軍の東方脱出を許す結果となった。ドイツ軍とは対照的にソ連軍は砲兵火力を重視しWW1時代の火力主義・破壊主義を堅持していた。ソ連軍砲兵はドイツ軍や米英軍とは違い独立した指揮権と作戦への高い権限を持ち、支援対象の部隊に拘束されない大規模かつ統制された火力集中を可能としていた。火力集中ドクトリンによる破壊主義を前提とするソ連軍では砲兵の地位が非常に高く陸軍の作戦は砲兵主導で実施された。独ソ開戦時ソ連軍大本営は全砲兵戦力の8%を火力集中用の予備として後方に温存しモスクワ防衛戦に投入し大きな成果をあげた。機動戦を重視し砲兵火力の分散を進めていた西欧諸国には通じた電撃戦も火力主義を堅持し続けたソ連軍には通じなかったのだ。一方でソ連軍はWW1後の潮流となっていた機動戦も重視し、軍の機械化を進めソ連版機動戦ドクトリンである縦深攻撃論を理論化し1936年に赤軍野外教令として正式採用した。ソ連軍は独ソ戦を通じて火力集中専門の指揮統制システムを構築し、ドイツから学習した機動戦理論と組み合わせ1944年にPU44ドクトリンとして縦深攻撃理論を完成させた。PU44ドクトリンは火力と機動力を両立させた機動戦の完成系として評価され1944以降のソ連軍は理論面でもドイツ軍を上回っていた。開戦前にドクトリンを完成させ戦場での齟齬を修正できなかったドイツ軍と戦争を通じて新しいドクトリンを完成させたソ連軍の差が勝敗の大きな要因となった。

モスクワの価値[編集]

ドイツ軍が首都モスクワ及びレニングラードを陥落させたとして、ソ連が講和に応じるかどうかは別の話である。仮にモスクワを落としたとしても、工場などの多くはウラル山脈以東に疎開されており、またソ連野戦軍が壊滅するわけではない。スターリンが健在な限りは、恐らくモスクワ及びレニングラードの陥落がソビエトの敗北を意味するわけではないであろう。しかしながら、モスクワはソ連の戦略上の理由から全ての鉄道線の集中点となっており、道路網が不完全で鉄道に頼るソ連においてドイツ軍が保持し続けていたならば、その政略・戦略上の価値は計り知れないものである(ただし、占領後に赤軍の反撃から維持できたかは疑問が残る)。この拠点を制圧できなかった時点でドイツ軍の独ソ戦での敗北は避けられなかった可能性が高い。[要出典]

出典[編集]

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  1. ^ Krivosheev, G.F, 1997, p.96.
  2. ^ Krivosheyev, G. 1993
  3. ^ David M Glanz, Stumbling Colossus. The Red Army on the Eve of World war, 1998
  4. ^ ヒトラーが、戦争開始時のソ連軍戦車保有数を正しく認識していなかったことを、マンネルハイム元帥に告白した肉声は、マンネルハイムの随員が秘密録音していて、今日、残っている。

参考文献[編集]

  • Krivosheev, G.F. ed. Soviet casualties and combat losses in the twentieth century. London: Greenhill Books, 1997 (ISBN 1-85367-280-7)
  • Krivosheyev, G. Grif sekretnosti snyat. Poteri vooruzhonnyh sil SSSR v voynah, boevyh deystviyah i voyennyh konfliktah, Voenizdat, Moscow, 1993.

関連項目[編集]