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神聖ローマ帝国

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西方帝国→帝国→神聖帝国→神聖ローマ帝国→ドイツ国民の神聖ローマ帝国
: Heiliges Römisches Reich
: Sacrum Romanum Imperium
東フランク王国 800年/962年 - 1806年 オーストリア帝国
プロイセン王国
ライン同盟
ドイツ帝国の国旗 ドイツ帝国の国章
(国旗) 国章
ドイツ帝国の位置
領土の変遷
言語 多数[nb 1]
首都 公式な首都は無し。
皇帝所在地は多数。
皇帝
800年 - 814年 カール1世(フランク・ローマ皇帝初代)
962年 - 973年 オットー1世(初代))
1084年 - 1105年 ハインリヒ4世(第7代)
1155年 - 1190年 フリードリヒ1世(第10代)
1355年 - 1378年 カール4世(第16代)
1508年 - 1519年 マクシミリアン1世(第19代)
1519年 - 1530年 カール5世(第20代)
1792年 - 1806年 フランツ2世(最後)
人口
1550年 17,000,000人
変遷
成立 962年2月2日
金印勅書 1356年
ヴェストファーレン条約 1648年10月24日
解散 1806年8月6日

神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、ドイツ語Heiliges Römisches Reich, ラテン語Sacrum Romanum Imperium, イタリア語Sacro Romano Impero, 英語: Holy Roman Empire)は、中欧ヨーロッパに存在した多民族連合体、政体、国家である[1]800年に成立し、1806年の解散まで約1000年間存続した。962年以降はドイツ、イタリア、ブルグントの三王国を主な領域としており、ドイツに属する形でボヘミア王国(現在のチェコ)も含まれていた。国号は時期によって変わっており、神聖ローマ帝国は13世紀以降の国号である[nb 2]

概要[編集]

800年12月25日、教皇レオ3世は現在のドイツ、フランス、北イタリアに領土を広げたフランク王カール1世を西ローマ皇帝として戴冠し(カール大帝)、西ヨーロッパに3世紀以上も途絶えていた皇帝位を復活させた。復興した西ローマ帝国は843年ヴェルダン条約以降、分裂と統合を繰り返した。帝位は887年まで大帝のカロリング家が保持していたが、その後は内乱の中でイタリア諸侯によって争われた。924年に皇帝ベレンガルが暗殺されて一旦帝位は途絶えた。962年にドイツ人の王とイタリア王を兼ねたオットー1世はヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠され、924年以来途絶えていた帝位が復活した。オットー1世以降も、皇帝が古代ローマ皇帝から至上の権力を受け継いでいるという概念は存在した。それは皇帝の権威の基本となるものであった。

日本では通俗的にオットー1世の戴冠を神聖ローマ帝国の始まりとし、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している[nb 3]。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国をカール大帝から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期(800年-911年)・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年-1254年)・中世後期から1806年にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である[2]。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。

オットー大帝以降の帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取り、皇帝予定者であるドイツ人の王を「ローマ王」として選出した。しかし中世盛期のザクセン朝ザーリアー朝ホーエンシュタウフェン朝では事実上の世襲が行われていた。実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった[3]。ローマ王は皇帝となるためにイタリアへ遠征せねばならず、その間にドイツでは諸侯が力を伸ばした。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として、帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)[4]。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であった。だが教会改革運動が進展すると、皇帝と教皇との対立が引き起こされた。11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった[5]。教皇権が皇帝権と並び立ち、教皇派と皇帝派の争いが引き起こされた。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている。

帝国はフランスへ政治的統合を広げることはできなかった。それどころか1254年ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ[6]大空位時代後も、異なる家門のローマ王が続く跳躍選挙の時代が続いた。14世紀の皇帝カール4世による金印勅書以降、ローマ王は有力な7人の選帝侯による選挙で選ばれるようになった。皇帝(ローマ王)の権力は制限されており、諸侯、司教、都市は皇帝に忠誠を誓ってはいたが、特に選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられて各々の領内での独立性を増して行った。皇帝マクシミリアン1世治世の1495年から帝国改造が行われ、実態的な版図がドイツのみに縮小した神聖ローマ帝国はドイツ諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる[7]

16世紀カール5世の治世にハプスブルク家の帝位世襲がほぼ確定する[nb 4]。しかしルター宗教改革によって神聖ローマ帝国はカトリックプロテスタントに分裂してしまった。宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。これで宗教不和が解決されたわけではなく、1618年には三十年戦争が起き、ドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年ヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立した[8]

三十年戦争後はプロイセンが力をつけ始めた。元はブランデンブルク選帝侯領であるが、ポーランドのプロイセン公国と同君連合となり、1710年プロイセン王国として認められた。一方、皇帝カール6世に男子がなく長女マリア・テレジアがハプスブルク家領(オーストリア)を継ぐとオーストリア継承戦争が起こり、この際にプロイセンはオーストリアからシュレジエンを奪った。オーストリアはフランス、ロシア、ザクセンと同盟してプロイセン包囲網を展開する外交革命を果たし、七年戦争でプロイセンと相対した。しかしオーストリアはシュレジエンを奪還できず、プロイセンが大国としての地位を確立した。諸侯のバランスは崩壊し、神聖ローマ帝国はやがて機能不全に陥った。

18世紀末にヨーロッパはフランス革命戦争に突入した。神聖ローマ帝国はフランスのナポレオン・ボナパルトに侵攻され、版図を削られていった。1804年にフランス皇帝を称したナポレオンは、神聖ローマ帝国の中小諸侯をフランスに従属するライン同盟に再編した。オーストリア、プロイセンを除く神聖ローマ帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位した。同時に神聖ローマ帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。

名称[編集]

神聖ローマ帝国旗(1200年 - 1350年)

古代ローマ帝国の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。

  • 初期 - 西方帝国(カール大帝の帝国は「西ローマ帝国」の復興であった)
  • 11世紀まで - 帝国[nb 5](あるいはローマ帝国
Römisches Reich
Imperium Romanum
羅:Sacrum Imperium
独:Heiliges Römisches Reich
羅:Sacrum Romanum Imperium
  • 1512年 - ドイツ国民の神聖ローマ帝国
独:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation
羅:Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae

「神聖(Sacrum)」の形容詞は、1157年フリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる[9]。 元々、彼らは古代ローマ帝国カール大帝フランク王国継承国を自称していた。フランク王国は西ローマ帝国の継承国を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」の名は(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国であるということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者がローマ教皇によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかし、この帝国は「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としていてもローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。

また、古代ローマ帝国の正統な継承国としては、15世紀中期まで東ローマ帝国(中世ローマ帝国)が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主がローマ皇帝であることも承認しなかった(二帝問題)[10]。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことをローマ帝国であると認めず、「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた[11]

時代が下って1933年ナチス政権を握ると、彼らは自らを「第三帝国」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である[12]

領域[編集]

現在の国の輪郭と神聖ローマ帝国の領域の変遷
プロイセン
ブランデンブルク
ザクセン
プファルツ
ネーデルラント
ボヘミア
バイエルン
オーストリア
シュヴァーベン
シュタイアーマルク
ブルグント
スイス
ミラノ
ローマ

神聖ローマ帝国の領域は今日のドイツ南シュレスヴィヒ (enを除く)、オーストリアブルゲンラント州を除く)、チェコ共和国スイスリヒテンシュタインオランダベルギールクセンブルクそしてスロベニアプレクムリェ地方を除く)に加えて、フランス東部(主にアルトワアルザスフランシュ=コンテサヴォワロレーヌ)、北イタリア(主にロンバルディア州ピエモンテ州エミリア=ロマーニャ州トスカーナ南チロル)そしてポーランド西部(主にシレジアポメラニア、およびノイマルク (en)に及んでいた。

帝国は当初、ドイツ王イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していたボヘミア(現在のチェコ共和国)は1158年(または1159年)に大公から王国へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける[13][14]

1032年ブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王(のち皇帝)ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者コンラート2世がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった[15]。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。

13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した[7]。ブルグントにはシャルル・ダンジューを初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった[nb 6]

また、1648年ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の結果、エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、スイスオランダが独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。

歴史[編集]

中世前期[編集]

中世前期の西欧は名目のみであるが、未だに古代ローマ帝国の一部であった。395年に西ローマ帝国が事実上滅亡してからも、それに代わったゲルマン人の各王国は帝国西方の支配権を東ローマ帝国に委任される形式をとっていたからである。しかし800年カロリング朝のフランク王カール1世が教皇レオ3世(在位:795年-816年)によって西ローマ皇帝として戴冠された。西欧はコンスタンティノープルの皇帝に理念的にも従属しなくなり、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる西方帝国、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる概念が誕生した[nb 7]。しかし西方帝国は分割相続というゲルマン人の風習を残していたため、カール大帝の死後に分裂してしまった。皇帝の位はイタリア王に引き継がれ、西欧の皇帝はイタリア王が就くという原則が確立された。951年からはドイツ人の王がイタリア王を兼ねることになり、帝国の中心はドイツ語圏へと移った。

西ローマ帝国の滅亡とフランク王国[編集]

395年、地中海世界の全域を支配する世界帝国であった古代ローマ帝国は東西に分割された。西ローマ帝国では蛮族が侵入して自らの王国を立てていった。476年には本土イタリアがローマ帝国から失われ、西ローマ皇帝位も廃止された。ガリア(現在のフランス)北部ではソワソン管区が残っていたが、486年にメロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世に滅ぼされた。なお、東ローマ帝国はその後も約1000年存続した。ゲルマン人たちは西ローマ帝国を滅ぼしたものの、人口的には圧倒的多数であるローマ人の文化を受け入れざるを得ず、形式的に東ローマ帝国の宗主権下に入った。クロヴィス1世は西ローマ帝国を決定的に滅ぼす一方で、ローマ人の支持を得るためにローマ教会とは結びつきを強めていった。

メロヴィング朝フランク王国の末期は、宮宰が事実上の国王代理として王国の実権を握っていた。カロリング家のカール・マルテルは宮宰になると、フランク王国にまで迫っていたウマイヤ朝のイスラム軍を732年トゥール・ポワティエ間の戦いで破った。750年には息子のピピン3世が36才前後で王国全土の宮宰となり、ローマ教皇の後ろ盾を得て751年に国王となった。ピピンはその見返りに、イタリアの大部分を支配していたランゴバルド王国からイタリア中心部のラヴェンナを奪って教皇ステファヌス3世に献上した(ピピンの寄進)。768年にピピンは52才で死去し、息子のカール1世が後を継いだ。

カール大帝の戴冠と西ローマ帝国復興[編集]

カール時代のフランク王国(がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)

カール1世はフランク王国の領土を最大に広げた。カールは46年間の治世で53回もの軍事遠征を行い、北ではザクセン族(北ドイツ)やフリース族(オランダ)、南ではランゴバルド族(イタリア)、西ではウマイヤ朝(スペイン)やブルターニュ、東ではバイエルン族(南ドイツ)やアヴァール人と戦った。774年、カールはランゴバルドの首都パヴィアを占領して自らランゴバルド王=イタリア王となり、北イタリアに中世イタリア王国を成立させた。しかし南イタリアはランゴバルド族の支配に留まり、その後も北部とは別の歴史を歩むことになった。また、カールは772年から30年にわたるザクセン戦争を行い、最後まで抵抗を続けたザクセン人の国家も併合し、イギリスアイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成した。

ジャン・フーケ,「カールの戴冠」(1455-1460)

800年12月25日、バチカンサン・ピエトロ大聖堂のクリスマスミサにて、58才のカールは教皇レオ3世(在位:795年-816年)から「西ローマ皇帝」として帝冠を授かった(カールの戴冠[nb 8]。前年に教皇の命を助けたことへの報酬であり、西欧に帝国が復興された(西方帝国)。ただし大帝は「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、ミサには出席しなかっただろう」と言い残している。というのも、この帝位はコンスタンティノープルのローマ皇帝から見ると僭称に過ぎず、そもそもローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでには全くなかったからである。

それでも大帝は自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げ、812年にようやく妥協が成立[nb 9]した。東ローマ帝国はカールを「西ローマ皇帝」としては認めなかったものの、「フランクの皇帝」としての地位を認めた[nb 10]。その代わり大帝は南イタリアの一部と商業のさかんなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことが確定し、これまでの地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝からローマ教会と西欧は政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。

814年に大帝は71才で死去し、存命だった唯一の息子ルートヴィヒ1世敬虔帝が35才前後で後を継いだ。しかし本来、西方帝国にはゲルマン人の習慣である分割相続という慣習があった。これは統一国家の建設という理念と明らかに反し、敬虔帝の時代に問題点が一気に噴出することとなった。

カロリング朝断絶と帝国分裂[編集]

ルートヴィヒ1世敬虔帝は817年に「帝国整備令」を発布し、長男ロタール1世をはじめとする息子たちへの相続を定める分割統治案を発布した。しかし敬虔帝は823年に誕生した四男カール2世を溺愛し、この末弟にも領土を与えようとした。皇帝と息子たちは激しく争った。840年に敬虔帝が62才前後で死去すると、父という共通の敵がいなくなったことで兄弟の対立は頂点を迎えた。

ロタール1世は父の死によって帝国全土を支配する皇帝となった。しかし、841年に46才前後の皇帝は37才前後のルートヴィヒと18才のカール2世の同盟軍に敗れた。フォントノワの戦いである。843年8月10日、ヴェルダン条約が結ばれ、西方帝国はカール2世(シャルル2世)禿頭王の西フランク王国、ルートヴィヒ2世ドイツ人王の東フランク王国、そして皇帝の中部フランク王国に分裂した。855年9月29日に皇帝は60才前後で死去し、中部フランク王国も息子たちが分割した。30才前後の長男ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世、ドイツ人王とは異なる)には皇帝の称号とイタリア、20才前後の次男ロタール2世ロタリンギア(ロレーヌ)とブルグント北部など、10才前後の三男カール(シャルル)にプロヴァンスとブルグント南部などが与えられた[16]。こうして西方帝国は5つにまで分裂してしまった。

ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアの一部を支配したのみで[17]、西方帝国全体に皇帝としての権威を示すことはできなかった。863年に末弟シャルルが、869年にはロタール2世が死去したが、皇帝はイスラム軍との戦いのためにイタリアから離れられなかった。皇帝の弟たちの領土はメルセン条約によって叔父のドイツ人王と禿頭王の間で分割されてしまった[18]。皇帝にはイタリアのみが保たれ、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形づくられた[19]875年8月12日、皇帝本人も嫡子無く50才前後で死去。イタリア王国およびローマ皇帝位は教皇ヨハネス8世の支持を得たカール禿頭王が52才で獲得した[18]

カール2世禿頭帝は西方帝国の再統一を目指したが、東フランク王国の反撃を受けて877年に54才で死去した。[20]。イタリア王位は東フランク王カールマンが奪取したが、皇帝にはならないまま2年後に50才前後で死去した。イタリア王位は弟のカール3世が継ぎ、881年に42才前後で皇帝として戴冠された。

カール3世肥満帝は分裂していた西方帝国を相続によって一時的に統一した。882年には兄の東フランク王ルートヴィヒ3世が死去したため東フランクを相続し、西フランクも禿頭帝の孫カルロマン884年に嫡子無く18才前後で死去したため、肥満帝の手に転がり込んだ。全フランクを相続した肥満帝だが、この時期にヨーロッパへ侵攻していたノルマン人イスラム教徒そしてマジャール人に対処する力量がなく[21]887年に廃位されて翌年に49才前後で死去した。西方帝国は西フランク、東フランク、プロヴァンスブルグント、イタリアの5つに再び分裂し、再統一されることはなかった。

肥満帝の死後、帝位とその前提となるイタリア王位はイタリア内外の諸侯によって争われた。肥満帝の後を継いでイタリア王となったのは敬虔帝の外孫ベレンガルで38才前後だった。しかし、すぐにスポレート公グイド(カール大帝のひ孫にあたる)にとって代わられた。グイドは891年に11才前後の息子のランベルトと共に皇帝となった。そこでベレンガルは東フランク王アルヌルフに救援を要請して服属し、アルヌルフは896年にイタリアに侵攻してグイド親子からイタリア王位と帝位を奪った。だがアルヌルフも899年に50才前後で死に、グイド親子もそれまでには死去していた。ベレンガルがイタリア王として復権したものの、今度はプロヴァンス王ルートヴィヒ3世がイタリア貴族に推挙され、900年に20才で皇帝(及びイタリア王)となった。ベレンガルは反撃して905年に皇帝をイタリアから追放した。とは言えベレンガルの権威はイタリア王国の一部にしか及ばなかった。915年にようやく65才前後で皇帝となったものの、924年には支持を失って暗殺された。カール大帝以来の皇帝位は一旦ここで途絶える。

その後、プロヴァンス摂政フーゴとブルグント王ルドルフ2世がイタリア王位を争い、フーゴが優位となった。しかしフーゴは皇帝になることができず、945年にイヴレーア辺境伯ベレンガル2世(ベレンガルの外孫)に追放された。イタリア王として残ったフーゴの息子ロタール2世950年に24才前後で毒殺された。邪魔者を消したベレンガル2世は50才前後でイタリア王となり、ロタール2世の未亡人アーデルハイト (enに息子との結婚を強要した。950年、アーデルハイトはドイツ人の王(東フランク王)オットー1世に救援を要請した。翌年にオットー1世はイタリア遠征を敢行してアーデルハイトを救い、ベレンガル2世親子を屈服させた。翌年に39才のオットー1世は19才のアデライーデと結婚してロターリオ2世の権威を受け継ぐ正当なイタリア王となった[22]962年2月2日、オットーはベレンガル以来40年ぶりのローマ皇帝としても戴冠され、帝国は再興された。

中世盛期[編集]

962年、ドイツ語圏とイタリアの王を兼ねるオットー1世が西方帝国の継承者として皇帝に戴冠された。一般的にはこのオットーの戴冠が神聖ローマ帝国の始まりとされる[1]。しかし、初期の国号はまだ単なる「帝国」であった。そして皇帝はあくまでもカール大帝からの連続としての教会の保護者、そして西洋世界の普遍的支配者たる「ローマ皇帝」であった[23][24][25]。帝国はドイツ語圏の「王国」とイタリア王国、1032年からはブルグント王国を加えた三王国からなり、皇帝は3つの王位を兼ねていた。帝位がイタリア王位を前提とすることも変わらなかったため、歴代皇帝は戴冠のためイタリアへの遠征を余儀なくされた。

西方帝国の問題は分割相続と封建制度による非中央集権的な社会にあったが、オットー1世のザクセン朝はこの問題をある程度解決させた。まずオットー1世の父ハインリヒ1世は王国の分割相続を否定し、国家の分裂を防いだ。ゲルマンの風習として選挙王制は残ったが、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝ザーリアー朝ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われた。そしてオットー1世は地位を世襲しない聖職者に注目し、帝国内の教会を官僚組織として統治機構に組み込んだ(帝国教会政策)。これにより、パリ周辺しか実効支配できていないフランス(西フランク)王権と比べてはるかに強大な王権・帝権が実現した。しかし皇帝が教会の人事権を握る事態は教会からの反発を招いた。皇帝と教皇の争いが続き、諸侯たちも両派に分かれて争った(教皇派と皇帝派)。歴代皇帝は教皇とイタリア都市国家を牽制するため、戴冠式を兼ねてイタリアに進駐した(イタリア政策)。カノッサの屈辱事件以降、皇帝権は徐々に弱まっていき、ホーエンシュタウフェン朝断絶と共に帝国の統治機構は崩壊した。

ザクセン朝と帝国復興[編集]

オットー大帝像、マクデブルク

オットー1世951年にイタリア遠征を行い、ドイツ語圏の「王」とイタリア王を兼ねるようになった。王は各地に近親者を置いて王族による王国の支配を行っていた。しかし953年、イタリア遠征の際に先走って王と不仲になった21才の王太子シュヴァーベン公リウドルフ(ロイドルフ)が、義兄のロートリンゲン公コンラート赤毛公(王から見て娘婿)をはじめとする諸侯と共に大反乱を起こした[26]。とき同じくしてマジャール人が王国に侵入したが、王はこれを逆手にとってマジャール人の侵入は王太子の差し金であると宣言した。諸侯を味方に引き戻した王は王太子と赤毛公を屈服させた。955年、王は返す刀でマジャール人に対してレヒフェルトの戦いにおいて大勝した[27]。この戦いで赤毛公は命を捨てて王を助けるという功績を上げ、後にひ孫のコンラート2世が皇帝となる遠因を作った。

王は王太子の反乱によって親族も信用できないことを悟った。そこで今度は地位を世襲しない聖職者を官僚として利用する帝国教会政策ドイツ語版)を始めた。司教や修道院に所領を寄進する代わりに司教の任命権を握って教会を利用する仕組みである[28][29][4]960年、イタリアでは若く世間知らずな教皇ヨハネス12世が無謀な教皇領拡大に乗り出して反撃にあっていた。教皇に救援を要請された王は翌961年にイタリアへ遠征し、マジャール人撃退の功績と合わせて962年2月2日にローマ皇帝として戴冠された。973年、オットー大帝は60才で死去し、アーデルハイトとの子である18才前後のオットー2世が後を継いだ。

10-11世紀の帝国の領域。
                     オットー1世時代                     コンラート2世時代

オットー2世は父が存命時の961年に6才前後で王に、973年には18才前後で皇帝(及びイタリア王)に戴冠していたが、父が死ぬと内乱の鎮圧と外征に明け暮れた。ようやく情勢が安定した980年に皇帝は「至高なるローマ人の皇帝」(Imeprium Augustu Romanorum)としてイタリア遠征を行ったが、983年にマラリアにかかり28才前後で死去した。子のオットー3世がわずか3才で王位を継いだ。同時期に帝国北東部のノルトマルクでバルト・スラブ人が蜂起し、帝国から独立した[30][31]

オットー3世

オットー3世は東ローマ帝国皇族出身の母后テオファヌの影響を強く受け、古代ローマ帝国の復興を夢見た。テオファヌは優秀で、王が幼い間も王国の安定に尽くした[32]。テオファヌの死後、994年に親政を開始した王はイタリアに遠征してイタリア王位につき、ローマの反乱貴族を鎮圧すると996年に15才で皇帝に戴冠された。イタリアに留まった皇帝は古代ローマ文化の復興を試みたが、1002年1月23日に21才の若さで死去した[32][33][34]。結婚直前の死であったため嫡子は無かった。そのため、ザクセン朝唯一の男系子孫となっていた又従兄弟のハインリヒ2世が29才で即位した。

ハインリヒ2世[nb 11]の理想は西ローマ帝国復活を目指した三人のオットー帝とは異なり、カール大帝が打ち立てた普遍的キリスト教帝国の再興にあった[35]。王はまず帝国全土を巡回し、1004年には独自にイタリア王を名乗っていたアルドゥイーノを屈服させイタリア王位についた。そして教会の守護者として腐敗が進んでいた教会の改革に取り組んだ[36]。これは帝国教会政策の強化にも繋がり、諸公の力を抑制する効果を上げた[37][36]1014年に王は40才で皇帝となった。また、この皇帝の治世にボヘミア公国(チェコ)が帝国に併合され、ブルグント王国併合の布石も打たれた。1024年、皇帝は51歳で嫡子無く死去してザクセン朝が断絶した。新たな国王に選ばれたのはオットー大帝の外玄孫(娘のひ孫)、そして大帝を救って戦死した赤毛公のひ孫である33才前後のコンラート2世であり、ザーリアー朝 が開かれた。

ザーリアー朝と叙任権闘争[編集]

コンラート2世[nb 12]はザクセン朝の国王たちと同じく帝国全土を巡回して1026年に35才前後で皇帝(及びイタリア王)として戴冠し、イタリア諸侯の権利に関する法を定めた。1032年9月、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく死去したため、1006年に先帝が結んだ条約に従って皇帝がブルグント王国を相続した[nb 13]。カール大帝の帝国はフランスを除いて統合されたことになり、この頃から「ローマ帝国」(Imperium Romanum)の国名が公文書で用いられ始める[38]1039年、皇帝は48才前後で死去し、子のハインリヒ3世が21才で後を継いだ。

ハインリヒ3世黒王の時代が皇帝権の最盛期である。即位後すぐに帝国全土を巡回してイタリア王にもなった黒王は自ら「ローマ王」を名乗り、1046年には二度目のイタリア遠征を行った。当時は3人のローマ教皇[nb 14]が見苦しい権力闘争を行っていたが、黒王は彼らを全て罷免し、自らが任命したクレメンス2世によって29才で皇帝として戴冠された。当時のローマ教皇庁は聖職売買や私婚が横行していたため皇帝はその後も聖職叙任権を握り、教会改革派のドイツ人聖職者を次々と教皇位につけていった[nb 15][39]1056年に38才で死去。子のハインリヒ4世が後を継いだが、わずか5才であった。

『カノッサの屈辱』
エドゥ・シュワイザー画(19世紀)

ハインリヒ4世は先帝が死去してしばらくはまだ幼く、諸侯たちの政争の具となった[40]。一方で教会では内部の綱紀粛正を図って叙任権を皇帝から取り戻そうとするクリュニー修道会改革派が台頭しだした。改革派は帝国の関与を排して教皇を選出し、教皇選挙から世俗権力の干渉を排除する教皇勅書を発した[41]。やがて成人したローマ王はザクセン戦争などを通して徐々に王権を復活させたが、反国王派の諸侯はローマ教会と手を組んだ。教皇グレゴリウス7世は聖職者の叙任権をめぐってローマ王と激しく争った。ローマ王は不倫の醜聞を元に教皇の廃位を宣言するが、教皇も王を破門した。諸侯は破門が撤回されなければ王を王として認めないと決議した。これは単なる権力闘争であったため、歴代皇帝たちほどの正当性をローマ王は持っていなかったのである。1077年、王は北イタリアのカノッサで教皇に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。教皇は渋々破門を解いたが、王はやはり反撃に出て諸侯が立てた対立王ルドルフ (enを戦死させ、イタリア遠征を敢行した。ローマ王は4年に及ぶ戦いの末に教皇をローマから追い出し、自ら立てた対立教皇クレメンス3世によって33才で皇帝(及びイタリア王)として戴冠された。しかしグレゴリウス教皇と後継者たちは屈服せず、1093年には皇帝の長男コンラートを、コンラート死後の1105年には次男ハインリヒ5世を寝返らせた。両者はともに皇太子としてイタリア王に戴冠していたが、それでも父を裏切った。皇帝は1106年に55才で死去して19才のハインリヒ5世の後継が確定した。なお、同時期に教皇主導で第一回十字軍が起こっているが、教会と揉めていた帝国は不参加であった。

ハインリヒ5世1110年にローマ遠征を行い、教会と交渉した。最初は国王が叙任権を完全に放棄する代わりに教会領全没収という案が通ろうとしたが、暴動によって阻まれた。皇帝有利の新たな条約が結ばれて王は25才前後で皇帝に戴冠されたものの、すぐに教会側が反故にした。最終的には1122年ヴォルムス協約が成立し、皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄して、教会の守護者としての神権的帝権を失った[5][42]。これによって教皇権が最盛期を迎えた。帝国は皇帝と教皇という2つの頂点を持つことになり、反皇帝派が教皇派として皇帝派と対立する状態が続くことになった。1125年、皇帝は38才で嫡子無く死去し、ザーリアー朝は断絶した。国王選挙が行われ、ザーリアー朝の宿敵であるザクセン公ロタールが50才でローマ王に選出されてズップリンブルク朝を開き、ローマ王ロタール3世となった。

ロタール3世[nb 16]は前王朝と血縁関係にあるホーエンシュタウフェン家を抑え込んだ後、ローマ教皇に臣従して1133年に58才前後で皇帝(及びイタリア王)に戴冠された。教会の要望で南イタリアのシチリア王国に遠征したが、1139年に62才で死去。嫡子がいなかったためズップリンブルク朝は一代で断絶した。国王選挙ではシュタウフェン家のコンラート3世が返り咲いて45才前後で即位し、ホーエンシュタウフェン朝が開かれた。

ホーエンシュタウフェン朝と帝国崩壊[編集]

コンラート3世はホーエンシュタウフェン朝を開きローマ王となったが、先帝ロタール3世と血縁関係にある家門であるヴェルフ家と対立することになった。これは先帝と同じ状況だった。ローマ王はヴェルフ家のザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ10世傲岸公を捕えて獄死に追い込んだが、結局は子のハインリヒ獅子公が後を継いだ。その後、ローマ王は1147年に第二回十字軍へ参加したが大敗し、1152年に58才前後で死去した。皇帝として戴冠できなかった最初のローマ王だった。嫡子はいたが僅か6才であったため、甥である30才前後のシュヴァーベン公フリードリヒを後継者に指名して帝国とシュタウフェン家を託した。

フリードリヒ1世(赤髭王)像。カッペンベルク城 (en所蔵。1160年頃。

フリードリヒ1世赤髭王(バルバロッサ)1155年のイタリア遠征において33才前後で皇帝(及びイタリア王)に戴冠された。しかしここで教会との対立がはっきりし、帰国した赤髭帝は「神聖帝国」(Sacrum Imperium)の国名を用いた[43]。皇帝は教皇と対等であって直接神の祝福を受けていることを示そうとしたのである。赤髭帝はさらに貿易で豊かになっていたイタリアの富を目指し、遠征を繰り返した。イタリアの都市を直接支配下に置くもくろみは失敗して教皇へも屈服する羽目になったが、皇帝の軍事力を示して多額の貢納金をせしめることには成功した。また、赤髭帝へ対立姿勢を見せ始めた獅子公にイタリアでの敗戦の責任をおしつけて国外追放した。続けて子のハインリヒ6世をシチリア王女コスタンツァと結婚させてシチリアと同盟を結び、南北から教皇を圧迫した。またハインリヒ6世を存命中にローマ王、イタリア王に戴冠させて後継体制を固めた。帝国北東部でもオットー3世時代に失われたノルトマルクをブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊公に回復させた。1189年、赤髭帝は第3回十字軍の総大将となってイスラム軍に圧勝するが、不幸にも水難事故により68才前後で死去した。ハインリヒ6世が24才で後を継いだ。

ハインリヒ6世は先帝死去に乗じて帰国した獅子公を牽制しつつ、シチリア王位の相続を目指した。シチリアにおいて反神聖帝国派は庶子筋のタンクレーディを擁立していた。1191年、シチリア遠征を決行した王は途中のローマにて25才で皇帝に戴冠し、1194年にシチリアを制圧した[44]。その後、獅子公とも旧領の一部を安堵する形で和解した[nb 17]。しかし1197年に皇帝は31才で急死。嫡子フリードリヒ2世[45]は2才とあまりに幼すぎ、皇帝派は先帝の弟である20才のフィリップを、教皇派は獅子公の子で22才前後のオットー4世をローマ王として擁立した。

オットー4世フィリップの対立はフィリップが有利であった。しかしフィリップは1208年に31才で暗殺され、オットー4世が1209年にイタリア王、ついで皇帝として戴冠した。こうしてヴェルフェン朝(ヴェルフ朝)が開かれた。皇帝は教皇の権威に服して多くの帝権を手放す誓約をしたが、即位後まもなく反故にした。たちまち教皇との関係が悪化し、1210年には激怒した教皇から破門されてしまう[46]。教皇インノケンティウス3世の後見を受けてシチリア王位のみを継いでいた先帝の嫡男フリードリヒ2世も既に15才に成長しており、翌々年には教皇とフランス王フィリップ2世の支援を受けて対立ローマ王に選出された[47]1214年ブーヴィーヌの戦いで大敗した皇帝は翌年帝位を失い、1218年に43才前後で病死した。ヴェルフ朝は1代限りとなり、シュタウフェン朝が復活した。フリードリヒ2世は1220年に25才で皇帝(及びイタリア王)に戴冠された。

フリードリヒ2世は多文化入り交じる交易地シチリアで育ったため国際的な視野を持ち、イスラム教にも寛容で、そのため教会と衝突するのは必然だった。教会の圧力を受けて起こした1228年の第六回十字軍も、無血でエルサレムの奪回を果たしたことからかえって教会の怒りを買った[48]。一方で皇帝は古代ローマ帝国に倣ってイタリアを本土、その他を属領と見なす国家再編を行った。本拠地シチリアでは中央集権化を推し進め[nb 18]、神聖帝国のドイツ人に対しては地方分権化を促した。ドイツ人の諸侯には本来国王のみが持つ特権[nb 19]が法的に与えられ[nb 20]、諸侯は各々の領地の経営に専念して領邦国家建設へと動いた[49]チュートン騎士団によるプロイセン征服などの東方殖民も盛んとなった。さらに皇帝は祖父の赤髭帝と同じく北イタリアの富に手を伸ばした。しかし教会と教皇派は断固として立ち向かって決して屈服しなかった。十数年に渡る戦いの中で皇帝は1250年に68才で死去した。後を子のコンラート4世が21才で継いだが、教皇派を打倒できないまま僅か4年後の1254年に25才で死去した。その後、シチリア王国はフランス王族のシャルル・ダンジューによって奪われ、シュタウフェン朝は根絶やしにされた。神聖帝国再編は道半ばで終わり、帝国はいくつもの領邦国家へとバラバラに分裂して半ば解体されてしまった。

中世後期[編集]

選帝侯(Kurfürst

1250年のフリードリヒ2世の死で神聖帝国から皇帝が失われ、権力は諸侯に分散された。大空位時代と呼ばれたこの時期に「神聖ローマ帝国」の国号が初めて正式に用いられたが、18世紀の哲学者ヴォルテールは「神聖でなく、ローマでなく、帝国でない」と評している。1272年に大空位時代は終わったが、王位を世襲できる有力な家門は無かった。国王選挙のたびに異なる家門から王が選出され跳躍選挙Springende Wahlen)と呼ばれている。1356年には選挙で発生する混乱を防ぐために金印勅書bulla aurea)が発布されたが、同時に神聖ローマ帝国が領邦国家の集合体となり、教会の干渉を受けないことが法的に確定した。ローマ王と称するドイツ語圏の王がイタリアへ赴いてイタリア王とローマ皇帝に教皇の手で戴冠される伝統はまだ残っていたが、金印勅書発布以降は意味を失っていった。1378年にはブルグント王国が事実上神聖ローマ帝国から離脱し、隣国フランスにその支配権が委譲された。さらに1453年東ローマ帝国が滅亡したことでイスラム(オスマン帝国)の脅威が直に迫ってきた。しかし神聖ローマ帝国は弱体化する一方であり、イタリアへの影響力も無くなっていった。1512年には「ドイツ人の神聖ローマ帝国」の国号が用いられ、帝国の範囲がドイツ語圏及びボヘミアに限定されることが示された。神聖ローマ帝国はイタリアに法的な宗主権を主張し続けたものの、帝国秩序の中に置くことは殆ど諦めてしまった。

大空位時代と跳躍選挙[編集]

1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶した後、その権威と権力を受け継ぐ君主は現れなかった。シュタウフェン朝最後の皇帝フリードリヒ2世は諸侯に大幅な自治を認めて領邦国家建設を促したので、諸侯は現状維持を望んだ。皇帝存命中に教皇派が選出した対立王であるホラント伯ヴィルヘルムが単独のローマ王となってはいたが、実態としては弱小地方領主の域を出ない有名無実の王だった。実質的に帝国全土を束ねる君主がいない状態は1272年まで続き、大空位時代Interregnum)と呼ばれる[50][51][52]。名ばかりのローマ王ヴィルヘルムは「神聖ローマ帝国」(Imperium Romanum Sacrum)の国名を初めて用いる[53]などの実績も残したが、1256年に28才で戦死してしまう。次のローマ王は神聖ローマ帝国に影響を及ぼせないような遠隔の外国から選ばれた。旧教皇派が選出したのはコーンウォール伯リチャードイングランドヘンリー3世の弟)、旧皇帝派が選出したのはカスティーリャアルフォンソ10世で、共にシュタウフェン朝の縁者ではあった。両者とも実権は殆ど無く、諸侯は特権獲得と領域形成を強固にしてより一層自立した統治者と化した[54][55]1257年に一応はローマ王として48才で戴冠できたリチャードも1272年に63才で死去した。

次のローマ王に立候補したのは帝国内部で大勢力を誇るボヘミア王オタカル2世とフランス王フィリップ3世だった。特にフランス王のローマ王位獲得は、ローマ教皇の恐れるところであった。諸侯も強力な君主を望まなかったためどちらも避け、シュタウフェン朝の遠縁から南シュヴァーベン(現スイス)を治めるハプスブルク家ルドルフ1世を国王に選出した[56][57]。新たなローマ王はヴィルヘルムと同程度の勢力しか持っていなかったが、巧みな外交手腕によってボヘミア王オタカル2世マルヒフェルトの戦いで敗死させた。ローマ王はオーストリアシュタイアーマルクをボヘミアから奪い取り[58]、王権がある程度回復したことで大空位時代は終わった。

大空位時代が終わっても新たな皇帝はなかなか出現しなかった。ローマ王ルドルフ1世は皇帝戴冠も目指したがかなわず、勢力を伸ばしすぎたために諸侯からも警戒された。1291年に王が73才で死去すると世襲は認められず、ナッサウ家アドルフが42歳でローマ王に選出された[59][60][56]1298年、ルドルフの1世の子である43才のアルブレヒト1世はアドルフを戦死させてハプスブルク家にローマ王位を取り戻した。しかし思うに任せず、ルドルフ1世死去直後の1291年から本領シュヴァーベン南部ではスイス誓約者同盟(Eidgenossenschaft)が独立戦争を展開していた。1303年にはフランスでアナーニ事件が起きて教皇権がフランスの影響下に置かれるようになり、1308年には教皇がフランスに近いブルグントのアビニョンへ遷座させられる事態に陥った(アビニョン捕囚)。神聖ローマ帝国の威信が落ち続ける中でローマ王は53歳で暗殺され、ルクセンブルク伯ハインリヒ7世が33歳前後で国王に選出された。

ルクセンブルク家と金印勅書[編集]

神聖ローマ帝国の領域(1273-1378)と主要王家の領地

ハインリヒ7世は即位後すぐに婚姻政策でボヘミアを獲得した。すばやく領土を拡大させた王は、皇帝即位を目指して1310年からイタリア遠征を行った。1311年にミラノで教皇派を撃破してイタリア王として戴冠すると、1312年にローマへ向かった。しかし教皇はアヴィニョンに囚われたままであり、仕方なく枢機卿の手により37歳前後でローマ皇帝へと戴冠された[61]。約50年ぶりの皇帝出現は秩序を重んじる初期ルネサンス文化人から非常に期待されたが、翌年のナポリへの遠征中に38歳前後で死去した。1314年に国王選挙が行われ、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ルートヴィヒ4世が32歳でローマ王に選出された。しかし二重選挙となり、ハプスブルク家のフリードリヒ(美王)も対立王として選出された。

ルートヴィヒ4世
ミュンヘン聖母教会 (en

ルートヴィヒ4世は対立王フリードリヒを8年がかりで下した。しかしフランスの影響下にあるアヴィニョンの教皇ヨハネス22世が横やりを入れ、教皇の認可無き国王選出は無効だと主張した[62]。国王不在時のイタリア王権は教皇にあるとまで宣告されたローマ王は、急ぎ1327年にイタリア遠征を行ってイタリア王に戴冠した。翌年には神学者マルシリウスが奏上した理論[nb 21]に基づき、教皇よりも歴史の古いローマ皇帝への戴冠に教皇からの戴冠が必要であるはずがないとし、ローマ人民の名で皇帝に戴冠した[63]。その後1337年にフランスで百年戦争が始まったため、フランスの脅威はしばらく薄れた。約20年間地位を維持した皇帝だったが、最後は帝国内での強引な勢力拡大策で諸侯の支持を失った。先帝の孫でルクセンブルク家のカール4世(ボヘミア王カレル1世)が30歳で対立ローマ王に選出され、皇帝は翌1347年に65歳で死去した。

金印勅書

カール4世はローマ王となったものの、実質的な権力基盤を築くため自領ボヘミアの経営を優先した。ボヘミアの首都プラハを神聖ローマ帝国の都として大々的に整備を始め、ドイツ語圏初の大学となるプラハ大学を創設するなどした。1355年に39歳のローマ王はイタリア遠征を行って皇帝(及びイタリア王)に戴冠された。皇帝と教皇の相互不干渉を取り決めた皇帝は帰国中には北イタリアの諸都市に特権の切り売りを行い、莫大な上納金をボヘミアの発展につぎ込んだ。旧来の秩序を重んじるルネサンス文化人は失望したが、一方で皇帝は新たな秩序を定めた。1356年金印勅書bulla aurea)発布である。国王選挙においてローマ王は7人の選帝侯による過半数の得票で選出されると定め[64][65]、同時に選帝侯には改めて多くの国王大権[nb 22]を認めた[64][65]。この結果、ドイツ語圏は領邦国家の集合体となったことが法的に確定した。1365年、皇帝はフリードリヒ1世以来初めてブルグント王の戴冠も行い、皇帝の威信を示した。1376年には息子ヴェンツェルのローマ王選出に成功し、1377年には教皇をブルグントのアヴィニョンからローマへ帰還させた。1378年、既に大部分がフランスに蚕食されていたブルグント王国をフランスに割譲して神聖ローマ帝国から切り離した。同年皇帝は62歳で死去した。

ヴェンツェルは父の路線を受け継いで家権拡大政策を展開したが、神聖ローマ帝国全体の運営にあまりに無関心で諸侯の反感を買った。上納金を得るためにイタリアの僭主たちを軽々しく公に叙爵し、ローマとアヴィニョンにそれぞれ教皇が立つ教会大分裂(シスマ)への対処にも消極的だった。1400年にヴェンツェルは39歳でローマ王を廃位されて[66]ボヘミア王(選帝侯)のみとなり、代わってヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯ループレヒトが48歳でローマ王に選出された。しかし新たなローマ王は権力基盤が弱体でありすぎ、皇帝戴冠を目指したイタリア遠征を行ってもロンバルディア(北西イタリア)すら突破できない始末だった。1410年にループレヒトが58歳で死去すると、ヴェンツェルの異母弟で帝国外のハンガリー王位を獲得していたジギスムントが42歳で選出された[nb 23]

ジギスムントコンスタンツ公会議(1414年-1418年)を開催して教会大分裂(シスマ)を解消した。これでローマ王の権威が上昇するはずだったが、同時にボヘミアの教会改革派ヤン・フス異端者として火刑に処したため、1419年フス戦争が起こった。フス派支持の兄ヴェンツェルがショック死したことでボヘミア王を兼ねたローマ王だったが、連敗を喫して威信を失った[67]。ローマ王は権威回復のため1431年にミラノにて63歳でイタリア王に、1433年にローマにて65歳で皇帝に戴冠された。1436年、フス派の内部分裂で17年に渡るフス戦争がようやく終結し、翌年に皇帝は69歳で死去した。ルクセンブルク家に直系男子は無く、まもなく断絶した。ボヘミア王位とハンガリー王位は娘婿であるハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒトが獲得し[68]1438年にはローマ王アルブレヒト2世として41歳で選出された[69]

ハプスブルク家と帝国改造[編集]

ハプスブルク家はルドルフ1世、アルブレヒト1世、フリードリヒ美王と三代にわたってローマ王(対立王含む)を輩出した後、しばらく歴史の表舞台から姿を消していた。アルブレヒト1世の時代から始まったスイス誓約者同盟との戦いに敗れて発祥の地を事実上失ったハプスブルク家は、ルドルフ1世が手に入れたオーストリアに本拠地を移すことになった。近隣のケルンテン公領クライン公領 (enチロル伯領へと徐々に領土を広げたハプスブルク家であるが、皇帝カール4世が発布した金印勅書に定められた選帝侯にオーストリア公は含まれなかったため「大公」を僭称(自称)した。時代が下り、オーストリア公アルブレヒト5世は皇帝ジギスムントの娘婿だったことで、皇帝の死後にローマ王位をハプスブルク家に取り戻した(ローマ王アルブレヒト2世)。そればかりかボヘミアとハンガリーをも相続したが、1年半後の1339年にオスマン帝国との戦争中、ハンガリーで赤痢によって42歳で急死した。領土は生まれたばかりの息子ラディスラウス・ポストゥムスが継承したが、ローマ王には1440年にアルブレヒト2世の又従兄弟であるフリードリヒ3世が24歳で選出された。

フリードリヒ3世

フリードリヒ3世はローマ王となった時点ではハプスブルク家当主ラディスラウスの後見人でしかなく、権力基盤は極めて薄弱だった。1442年にローマ王として正式に戴冠したが、同年に百年戦争が決着してフランスの勢力が盛り返し始めた。1452年にはイタリアに赴いて皇帝(及びイタリア王)にもなったが、翌年にビザンツ(東ローマ)帝国が滅亡してオスマン帝国の脅威が迫ってきた。東西から神聖ローマ帝国に危機が迫っていたが、皇帝自身は1457年のラディスラウスの早世でようやくハプスブルク家の正式な当主となったに過ぎなかった。しかも、ハンガリーとボヘミアは手放すこととなり、新たなハンガリー王マーチャーシュ1世のオーストリア侵略は皇帝を悩ませた。しかし、1473年に嫡子マクシミリアン1世をブルゴーニュ公シャルルの一人娘マリーと婚約させたことが功を奏した。ブルゴーニュ公はフランスの大諸侯で王と並び立つ勢いを持ち、神聖ローマ帝国内にも広大で豊かな領土を持っていた。しかし1477年にシャルルが戦死したため、シャルルの帝国内領土がハプスブルク家に相続されたのである。1485年にマクシミリアン1世は24歳でローマ王に選出された。一時はウィーンをも占領したハンガリー王マーチャーシュ1世も1490年に死に、皇帝は1493年に77歳で死去した。53年の在位中に敵とは戦わず逃げ続けたため無能とされるが、帝位世襲と権力基盤の強化には成功した。神聖ローマ帝国全土では平和な時期であり、特にイタリアではルネサンスが最盛期を迎えていた。

マクシミリアン1世

マクシミリアン1世は先帝が死去した翌年の1494年から、帝国イタリアに侵攻してきたフランスとヴェネティア[nb 24]への対処に迫られた。イタリア戦争の始まりである。ヴォルムス帝国議会にて諸侯に協力[nb 25]を求めたところ、治安維持を目的とした帝国改造Reichsreform)を提案された。当時は多くの没落騎士によって、フェーデ(決闘)の権利を悪用した合法ギリギリの強盗・恐喝・誘拐が横行していた[nb 26]。騎士たちが没落したのは、火器の発達で戦争のやり方が変化したからである。そこでフェーデを全面的に禁止する永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)が出され、封臣間の政治的争いを解決するための帝国最高法院Reichskammergericht[nb 27]とその選挙区である帝国クライスReichskreiseが設置された。帝国クライスは徐々に自立的な地方行政区分へと変化し、治安維持の実務、徴税、帝国軍編成の管理運営に加え、17世紀には国防をも担っていく。この制度はドイツ語圏でのみ実施され、イタリア、ボヘミアは制度外だった。帝国改造中にも戦争は続き、ローマ王は皇帝戴冠を兼ね大軍を率いてヴェネティアへと遠征したが失敗してしまった。戴冠を果たせなかったローマ王は教皇と交渉し、今後はローマ王となった時点で教皇に戴冠されなくても皇帝(及びイタリア王)と称して良いという同意を得た[70]。これは帝位がイタリアの実効支配と切り離されたことを意味し、皇帝は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)の国名を公文書で用いた[71]。神聖ローマ帝国はイタリアに宗主権を主張しつつも、版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られることが明確となった。教皇から戴冠されて皇帝となる伝統が消滅したこと、世界帝国建設という目的が放棄されたこと、そして封建制度を支えた騎士の没落により、神聖ローマ帝国の中世は終わりを告げた。

一方で皇帝個人の婚姻政策は大成功を収め、ハプスブルク家は相続によって広大な領土を手に入れていた。元来のオーストリアに加え、スペインとその広大な新大陸領土、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャを手に入れ、ハンガリー=ボヘミアも取り戻した。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国とは別枠の広大な「普遍的君主制」[72]monarchia universalis)に君臨し、その意味でも中世的枠組みは崩壊していた。

近世[編集]

近世の神聖ローマ帝国はイタリア、ブルグントへの支配力を失っており、ボヘミアの領有を除けば帝国はドイツ人の王国とほぼ同一のものであった。この頃からドイツ語圏を指す地名として「ドイツ」が使われ始める。神聖ローマ帝国は事実上ドイツ王国へと縮小しただけでなく、領邦国家から成る「連邦」へと弱体化した。皇帝位はオーストリア大公のハプスブルク家が事実上世襲したが、皇帝を選出する七人の選帝侯Kurfürst)、すなわちマインツ大司教ケルン大司教トリーア大司教ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯ザクセン公ボヘミア王にも国王(皇帝)に近い特権が与えられた。ボヘミア王は1526年からオーストリア大公が兼ねる。他にはバイエルン公も有力であった。

16世紀前半の帝国改造で全体的な連邦機構が整えられたのもつかの間、ルターの宗教改革によってドイツは大きく割れた。ついには三十年戦争という大内乱に発展し、この隙をついたフランス、スウェーデン、デンマークといった外国にドイツは蹂躙された。1648年に講和条約として結ばれたヴェストファーレン条約では選帝侯だけでない全帝国諸侯に国家主権が与えられ、神聖ローマ帝国は国家としては滅亡同然となった。しかし神聖ローマ帝国の連邦としての制度を中小諸侯はまだ必要としており、フランス、オスマン帝国、スウェーデンといった外国の侵略を防ぐのに役だった。このヴェストファーレン体制は約150年継続したが、1789年に始まったフランス革命とそれに次ぐナポレオン戦争においてドイツの大半がナポレオンに征服された。1806年に最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世は帝国解散を宣言し、カール大帝以来1000年続いた神聖ローマ帝国は消滅した。

宗教改革とイタリア戦争[編集]

カール5世時代のハプスブルク帝国。
  カスティーリャ
  アラゴン
  ブルゴーニュ
  オーストリア
                     神聖ローマ帝国の境界

マクシミリアン1世1494年から始まったイタリア戦争でフランスとヴェネティアを相手に戦ったが、皇帝軍と教皇軍は連戦連敗であった。帝国イタリアを巡るこの戦いで活躍したのは、ナポリ=シチリア王国領有を維持するために参戦していた同盟国スペインであった。皇帝は1496年に息子フィリップをスペイン王女フアナと結婚させており、1516年に二人の子であるカルロス1世がスペイン及びナポリ=シチリアの王位を15歳で継承した。皇帝はさらにカルロス1世の弟フェルディナント1世をハンガリー=ボヘミアの王女と結婚させて二つの王位をハプスブルク家に取り戻す布石を打った。1519年に皇帝は59歳で死去した。ハプスブルク家の世襲はまだ確立しておらず、国王選挙にフランス王フランソワ1世が立候補したことでカルロス1世は激しい買収合戦を闘うことになった。カルロスは19歳で皇帝に選出されて神聖ローマ皇帝カール5世となったが、天文学的借金を背負うことになる。さらに同時期、かろうじて国家連合体として維持されていたドイツをさらに解体させる事態が生じる。ルターによる宗教改革の始まりである。

ヴォルムス帝国議会におけるルター

ルターによる宗教改革が始まったとき、ドイツには多数の聖界諸侯が存在して俗界諸侯と同様の自治権を持っていた。このため教会税や贖宥状(免罪符)の販売で富が腐敗したローマ・カトリック教会に流れていった。1517年、神学者ルターが贖宥状批判のためヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。この論題は活版印刷の普及もあって各地に広まって大きな反響を呼んだ[73]1520年、ルターは教皇庁に破門された。新たな皇帝カール5世は1521年ヴォルムス帝国議会を開き、ルターを召喚して審問した。ルターは断固たる態度で自説の撤回を拒否したため[74][75]、皇帝はヴォルムス勅令ドイツ語版を発してルターを帝国追放に処して著書を禁圧した。しかしルターは地元ザクセンのフリードリヒ賢公に匿われ、ヴァルトブルク城新約聖書のドイツ語翻訳を成し遂げた[76]。議会が終わると皇帝は弟フェディナントにドイツを任せてスペインへ帰国し[77]、以後約10年間もドイツでは皇帝不在となる[78]

カール5世
ティツィアーノ

カール5世はイタリアを巡ってフランスと戦い続けた。皇帝軍はスペイン軍が中心であったが、ドイツ人傭兵(ランツクネヒト)も大勢いた。1525年パヴィアの戦いマドリード条約によって皇帝勝利で決着がつきかけたが、皇帝の権力強化を嫌ったローマ教皇と一部のイタリア領邦がフランスに加担し[79]、戦争は継続した。1527年、暴走した皇帝軍は「ローマ劫掠」を行い、ヨーロッパ精神世界に大きな衝撃を与えた[80][81]。教皇も皇帝に屈服したため、フランソワ1世は最後の手段として異教のオスマン帝国と同盟した。1526年スレイマン大帝率いるオスマン帝国はボヘミア=ハンガリー王を戦死させ、ハンガリーの大半を征服した。皇弟フェルディナントはハンガリー王位を相続してボヘミア選帝侯位も手に入れたが、1529年には帝都ウィーンがオスマン軍に包囲された(第一次ウィーン包囲)。陥落がなんとか免れたことで戦況は膠着し、同年にフランスとの講和が成立した。1530年、皇帝はボローニャで改めて正式な皇帝及びイタリア王として教皇の手による伝統的な戴冠式を挙行した。

ルターの福音主義は皇帝がイタリアで戦っている間に大きく広がった[82]。ヘッセン、アンスバッハなど中部ドイツの諸侯がルター派に改宗し、ドイツ国外でもチュートン騎士団が改宗してプロイセン公国が成立した。デンマークスウェーデンもルター派を導入している[83]。一方、ルターの支持者の中でも階級の低い者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動を各地で引き起こし[84]1522年騎士戦争1524年ドイツ農民戦争が勃発した。ルターは決して過激な改革者ではなく、秩序を重んじる学者であったため、諸侯の側に立って反乱軍を激しく非難している[85][86][87][88]。農民戦争鎮圧を通して諸侯の権力は強まり[89]、以降の宗教改革は諸侯に主導された[87]。宗教改革は諸侯にとってカトリック教会の影響から逃れられる政治的経済的メリットがあった[90]1529年に帝国議会でヴォルムス勅令の実施が重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯と14の帝国都市が「抗議書」(Protestatio)を提出した。これにちなんでルター派をはじめとする教会改革派はプロテスタントと呼ばれるようになった[91]

アウクスブルク帝国議会(1530年

1531年、10年ぶりにドイツ入りした皇帝は帝国議会で改めてプロテスタント(新教)を禁止した。新教諸侯はシュマルカルデン同盟を結んで皇帝に対決姿勢を見せたため、皇帝は1532年に同盟と休戦協定を結んだ。同年、皇帝は弟フェルディナンドをローマ王に選出させて後継体制を固め、広大なハプスブルク帝国統治のために各地を転々とした。1536年にはイタリア戦争が再開し、独仏国境でも戦いが繰り広げられた[92]。さらに1538年に皇帝はプレヴェザの海戦でオスマン帝国艦隊と戦ったが敗北し、オスマン帝国に地中海の制海権を握られてしまった。1544年、フランソワ1世との戦いには勝利をおさめた皇帝はミラノ公国を嫡男のフェリペに与えてイタリアを任せると、一転ドイツに専心するようになった[93]

皇帝が各地を飛び回っている間にも宗教改革は進行した。1536年にはジュネーヴからカルヴァン派が発生して主に西南ドイツに浸透し、プファルツ選帝侯が改宗した。1539年にはザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯[nb 28]がプロテスタントに転じた。この頃になると対抗宗教改革と言われるカトリック教会の刷新も盛んとなり、皇帝は1545年トリエント公会議を開催させた。1546年、皇帝は新教諸侯の切り崩しを行った上で新教撲滅のシュマルカルデン戦争を起こし、ミュールベルクの戦い (enで勝利した。同年にルターが死に、1547年にはフランソワ1世も死に、オスマン帝国とも講和が成立した。しかし強硬策を続ける皇帝にやがてカトリック諸侯も反発し、1552年に皇帝は腹心のザクセン選帝侯モーリッツに急襲された[94]。皇帝は方針を変えざるを得ず、1555年に弟のローマ王に招集させた帝国議会でアウクスブルク宗教平和令が議決された。これにより、諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制できるという領邦教会制度が成立した[95]。ただしこの時点ではカルヴァン派などは認められなかった[96]

1556年、疲れ果てた皇帝は28才の嫡男ミラノ公フェリペにスペイン王位を、55才の弟ローマ王フェルディナント1世に帝位をそれぞれ譲位し、ハプスブルク家はスペイン・ハプスブルクとオーストリア・ハプスブルクに分かれた。カール5世はイタリアに覇権を確立するという歴代皇帝の誰もが成し得なかった偉業を果たしたが、それはスペインに受け継がれて神聖ローマ皇帝には残らなかった。イタリアの覇権はハプスブルク家のものでしかなく、皇帝の本来の本国たる神聖ローマ帝国は宗教改革でさらに衰えてしまった。カール5世自身は中世的秩序の回復を目指していたが、教皇による戴冠は結局この皇帝が最後となり[97]、その前段階であるイタリア王としての戴冠も途絶えた。イタリア自体も地中海貿易が奮わなくなったため衰退しており、大航海時代の到来とプレウェザの海戦が決定打となった。カール5世は1558年に58年の生涯を終え、翌年にイタリア戦争も完全に終結した。

三十年戦争[編集]

  三十年戦争関係地図
Map Thirty Years War-en.svg
  プロテスタント多数派国・領邦
  スペイン・ハプスブルク
  オーストリア・ハプスブルク

①1620-1623:ボヘミアとプファルツ選帝侯の敗北。
②1625-1629:デンマーク王クリスチャン4世の介入。
③1630-1632:スウェーデン王グスタフ2世アドルフの介入。
④1635-1643:フランスの介入。
⑤1645-1648:テュレンヌ将軍とスウェーデンのドイツ戦役。

フェルディナント1世に始まるオーストリア・ハプスブルク家の歴代皇帝は、アウクスブルクの和議の後、概ね新教徒に融和的な態度で接した。1556年イエズス会招聘など対抗宗教改革の導入にも尽力したが、あくまで平和的な手段であった。1564年フェルディナント1世は61才で死去し、子のマクシミリアン2世が36才で皇帝となった。

マクシミリアン2世はルター派に近い信仰を持っていた[98]。不満を持っていたスペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世はこの皇帝の即位前から嫡子ルドルフ2世を親元から引き離し、スペインでイエズス会により厳格なカトリックへと養育した。1576年にマクシミリアン2世が48才で死去してルドルフ2世が28才で皇帝となった。

ルドルフ2世は父の政策を廃棄して新教弾圧を行ったが、すぐに現実の厳しさを知った。早々に政治に見切りをつけた皇帝はボヘミアのプラハにこもって芸術、学問、科学技術の振興に専念し、魔術にふけっていると噂された。宗教対立を放置して趣味に没頭する皇帝に対し、不仲の弟マティアスが1610年前後に君主としての実権を奪う行動に出た。皇帝は1612年に60才で死去。生涯未婚で子は無く、マティアスが55才で皇帝になった。

マティアスは宗教対立の仲裁を試みるが、結局失敗に終わった。ハプスブルク家内でも新教への融和政策に反対するカトリックが多く反発があった。1617年には、皇帝の従弟でありイエズス会の教育を受けた厳格なカトリックであるフェルディナント2世にボヘミア王位を譲らざるをえなくなった。

この時期、歴代皇帝が新教に対して融和的であるにも関わらず、諸侯同士の宗教対立は深まっていった。1568年ネーデルラント17州で新教徒の反乱が起きた(八十年戦争)。ネーデルラントの公位及び伯位は厳格なカトリックであるスペイン王が持っていたため、弾圧も激しかったのである。1581年には、ネーデルラント北部(オランダ)が事実上独立した。宗教対立が激しくなる中、1608年プロテスタント同盟Protestantische Union)が、翌1609年カトリック連盟Katholische Liga)が結成された。帝国クライスや帝国最高法院などの諸機関は麻痺状態となり、戦争は不可避となった[99]。また、新教徒の中でもルター派とカルヴァン派の対立があった。1618年、ボヘミア王フェルディナント2世の弾圧に耐えかねた新教徒のボヘミア貴族がプラハ窓外投擲事件を起こした。これをきっかけとしてとしてボヘミアで大規模な反乱が発生した。三十年戦争の始まりである。1619年、皇帝マティアスが62才で死去すると、フェルディナント2世が皇帝となった。

フェルディナント2世は新教撲滅と帝権復活のために三十年戦争を戦い続けた。三十年戦争は皇帝の新教弾圧に対する反乱、ボヘミア・プファルツ戦争から始まった。ボヘミア貴族は皇帝のボヘミア王位を否定し、新教同盟の中心的存在であるカルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世(冬王)を新国王として迎えた[100]。しかし、プロテスタント同盟は足並み揃わず、皇帝軍とカトリック連盟に壊滅させられた。ボヘミアの新教はほぼ駆逐され、プファルツは選帝侯位をカトリックのバイエルン公に奪われた。カトリックの勝利が確定したかに思われたが、ここで新教徒保護を名目にデンマークが侵略してきた。

デンマーク戦争開戦時に既に戦費が枯渇していた皇帝は窮地に陥ったが、ボヘミアの傭兵隊長ヴァレンシュタインが三万の軍隊を提供した。皇帝軍司令官に登用されたヴァレンシュタインは[101]1626年ルッターの戦いでデンマーク軍を撃破した。1629年リューベックの和約を結んだ皇帝はこれを機会にドイツの中央集権化を試みた。復旧令発布などの絶対君主的な振る舞いは全諸侯からの反発を受けた[102][103]。そこへフランスの後押しを得たスウェーデンがやはり新教徒保護の名目で1630年に侵攻してきた。

スウェーデン戦争ではザクセン選帝侯、ブランデンブルク=プロイセン(三十年戦争直前にブランデンブルク選帝侯とプロイセン公国の同君連合で成立)などの新教諸侯がスウェーデンに味方した。スウェーデン王はカトリック連盟の本拠地であるバイエルンの首都ミュンヘンに迫ったが、ヴァレンシュタインが1632年リュッツェンの戦いでスウェーデン王を戦死させた。しかし、過大な報酬を要求していたヴァレンシュタインも用済みとなって暗殺された。皇帝の嫡子フェルディナント3世が総司令官を引き継ぎ、1634年ネルトリンゲンの戦いにおいて皇帝軍の勝利を確定させた。諸侯はプラハ条約を締結して皇帝に帰順した[104]。しかし、ここでさらにスウェーデンと同盟していたフランスが参戦した。この二年後の1637年に皇帝は58才で死去してフェルディナント3世が28才で帝位を継承した。三十年戦争はハプスブルク帝国とフランス王国という二大カトリック強国の戦いとなり、もはや宗教戦争としての性格は失われた。

フランス・スウェーデン戦争は泥沼の長期戦となり、10年以上続いた。1640年頃から皇帝は和平に向けた動きを見せ始めるが、その高圧的な態度に応じる勢力はいなかった。1643年ロクロワの戦いからフランス・スウェーデン有利に傾きだし、1645年のヤンカウの戦いで皇帝軍は大敗した。1648年に皇帝軍は最後の戦いを挑むが敗北しヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終わった。

ミュンスターにおけるヴェストファーレン条約締結
ヘラルト・テル・ボルフ

ヴェストファーレン条約で最も重要なのは、全ての領邦に選帝侯と同等の領邦高権Landeshoheit国家主権に近い権利)と外交権が与えられたことである[105][106][107]。全ての領邦は事実上独立国となり、ドイツは300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体となった[108]。その中には極めて小規模な領邦も存在していた。事実上ドイツ人の神聖ローマ帝国は滅亡してしまったに等しくなり、この条約は一般に「帝国の死亡証明書」と言われる[109][110]。しかし400年前の大空位時代とは異なり、ヴェストファーレン体制という秩序が生まれていた。諸侯の対立を平和的に解決する体制が確立されたとも言える[8]。宗教面ではカルヴァン派が公式に認められ、領民が領主と異なる信仰を持つことも認められた(ハプスブルク領を除く)[105]。その他、フランスには独仏国境地帯であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)の一部が割譲された。スウェーデンは西ポンメルンブレーメンフェルデンの公位を得てバルト海の覇権を確保した(バルト帝国[nb 29]。東ポンメルンはブランデンブルク=プロイセンが獲得した。また、プファルツ家が新設の選帝侯として復権した。さらにスイス連邦と北ネーデルラント(オランダ)の独立が正式に認められた[106]。イタリア諸侯も近世以降の帝国制度に属さないまま中世以来の帝権(王権)が全て否定されたことで事実上帝国から独立した。ただし、皇帝(ハプスブルク家)の実力的影響下にある状況は変わらなかった。三十年戦争によって引き起こされた破壊の規模は歴史家の間で長い間論議されてきた[111]。従来はドイツ人口が30-40%減少し、経済水準が回復するまでに200年を必要としたとされてきたが、この見積もりについては現在では疑問視されている[112][113]

フェルディナント3世は三十年戦争後、ヴェストファーレン体制の維持に尽力した。1657年に皇帝は48才で死去したが、ローマ王(皇太子)に選出されていた長男のフェルディナント4世が父に先立って死去したまま、次のローマ王が選出されていなかった。一年後に次男のレオポルト1世が18才で即位後すぐに皇帝と見なされるローマ王に選ばれたが、諸侯に対してより一層の譲歩を迫られた[114][115][116]。ハプスブルク家の弱体化は明らかだったがレオポルト1世によって立て直しが始まる。

ヴェストファーレン体制[編集]

ヴェストファーレン条約後の神聖ローマ帝国
  プファルツ選帝侯領
  バイエルン選帝侯領
  ブランデンブルク選帝侯領
  オーストリア・ハプスブルク領
  スペイン・ハプスブルク領
レオポルト1世

レオポルト1世は三十年戦争で衰退した領土を受け継いで苦戦を強いられ、皇帝の支配権が及ぶのは弱体化したハプスブルク家領のみとなっていた。1663年に皇帝はレーゲンスブルク帝国議会を開催したが、議決も散会もされずに帝国が消滅するまで継続して「永続的帝国議会」(Immerwahrender Reichstag)と呼ばれるようになり、諸侯の使節会議と化してしまった[117][118][nb 30]。ヴェストファーレン条約によってドイツ人の神聖ローマ帝国は300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体となり[119]、その中には極めて小規模な領邦も存在していた。各領邦では絶対主義化が進行していたが[120][121]、フランスやオスマン帝国の脅威を受けていた中小領邦はその存立を守護する存在として帝国国制を必要としていた[122]。特に西南ドイツでは帝国クライスが地域自治機関として機能しており、クライス議会が活発に活動し、クライス軍制はその防衛機能をある程度だが果たしている[122]。西部ドイツはフランス王ルイ14世によって1667年ネーデルラント継承戦争1672年オランダ侵略戦争1688年大同盟戦争と立て続けに侵略されたが撃退に成功している。特に大同盟戦争においては皇帝(オーストリア)、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンそしてイギリスが加わったアウクスブルク同盟(大同盟)が結ばれていた。

一方、東部ドイツでは16年に渡る大トルコ戦争が起こっていた。戦争の始まりは1683年にオスマン帝国がフランスの手引きで20万の兵力をもってウィーンを包囲したことである(第二次ウィーン包囲[123]。皇帝軍は包囲戦を耐え抜き、ポーランド王ヤン3世やドイツ諸邦の援軍がオスマン帝国軍を決定的に打ち破った。皇帝軍が単独ではオスマン帝国と戦えないほど弱体化していることが示されたが、チャンスでもあった皇帝はオスマン帝国に対して反撃に出た。1699年、オーストリア将軍プリンツ・オイゲンゼンタの戦いで大勝して最終的な勝敗が決し[124]1699年カルロヴィッツ条約が結ばれてオスマン帝国はヨーロッパ領土の割譲を余儀なくされた。皇帝(オーストリア)はオスマン帝国領ハンガリートランシルヴァニアスロヴェニアクロアチアを獲得し[125]、大国として復活した。また帝国軍司令官だったザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が苦戦続きで解任されてオイゲンに交代する際、見返りに皇帝の支援の元で帝国外のポーランド王位を獲得している(アウグスト2世)。さらにこの戦争でカレンベルク侯[nb 31]が軍功を認められてハノーファー選帝侯へと昇格し、1714年にはゲオルク1世ルートヴィヒがイギリス王位を獲得している。

南方ではスペイン・ハプスブルク家が断絶しようとしており[126]、スペイン王カルロス2世は生来病弱な上に性的不能で子が見込めなかった。ルイ14世は自身の孫でカルロスの甥の子にあたるアンジュー公フィリップを、皇帝は自身の次男でカルロスの甥にあたるカール大公をスペイン王の後継者に擁立し、カルロス死後の1701年スペイン継承戦争が勃発した。ドイツ諸侯たちは殆どが皇帝軍に加わったが、バイエルン公とケルン大司教は姉がフェリペ5世の母であったためフランスに味方した。戦争が膠着状態に陥ったまま1705年に皇帝は64才で死去し、長男のヨーゼフ1世が26才で帝位を継いだ。

ヨーゼフ1世はオイゲンの働きもあってスペイン継承戦争を有利に進めた。しかし1711年に32才の若さで死去。弟のカール大公が26才で帝位を継ぎ、カール6世となった。これによって戦争は終息へと向かった。カール6世がスペイン王になると、かつてのカール5世のような強大な君主となってしまい、勢力均衡が崩れてしまうからである。1713年1714年にそれぞれユトレヒト条約ラシュタット条約が締結され、各国がフェリペ5世(アンジュー公フィリップ)のスペイン王位を承認する見返りにスペインが多くの領土を他国に割譲することで戦争は終わった[127]。皇帝(オーストリア)はスペイン領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを獲得してイタリアの覇権はハプスブルク家に保たれた。シチリア王位はドイツ諸侯でもある北西イタリアのサヴォイア公国が手に入れた[nb 32]。しかし皇帝はサルデーニャとシチリアをサヴォイア公国の間で交換することとなり(サルデーニャ王国の成立)、やがてそのシチリアをナポリごとスペインに奪還された。

北方ではスペイン継承戦争と平行してカール12世率いるスウェーデンに対する大北方戦争(1700年 - 1721年)が行われていた。反スウェーデン同盟にはロシア、ザクセン=ポーランド=リトアニア、デンマーク=ノルウェー:後にプロイセン、ハノファー=イギリスが加わり、ザクセン選帝侯領やスウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になった。大北方戦争は1721年に終結した。ストックホルム条約の締結によりスウェーデンはバルト海世界の覇権を失い、プロイセンとハノーファーが勢力を拡大した。また、ロシアのツアーリ・ピョートル1世1721年に皇帝(インペラトル)を名乗り、ロシア帝国が成立した。ロシア皇帝は東ローマ皇帝の後継者を主張しており[128]1453年に東ローマ帝国が滅亡して以来、約300年ぶりに二人の皇帝が並び立つこととなった。

オーストリアとプロイセン[編集]

ブランデンブルク=プロイセンの拡大(1600-1795)
  ブランデンブルク選帝侯領(1600年)
  プロシア公領(1600年)
  1772年までに獲得した領土
  ポーランド分割(1772-1795)で獲得した領土

各地で戦争が起こっている間、帝国内ではブランデンブルク=プロイセンが台頭し始めていた。三十年戦争直前の1618年プロイセン公国とブランデンブルク選帝侯領との同君連合によって成立したホーエンツォレルン家のブランデンブルク=プロイセンはフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の治世にヴェストファーレン条約によって東ポメラニアを獲得した。戦後はポーランド王国の影響力を排除するとともに等族との対決に打ち勝って絶対主義に基づく統治体制を構築していた[129]。さらに大選帝侯は、スウェーデンの影響力をも排除して海上にも進出した(ドイツ領黄金海岸)。そして1701年、大選帝侯の跡を継いだフリードリヒ3世はスペイン継承戦争でオーストリアに味方する見返りに帝国領域外での戴冠の承認を受け「プロイセンの王」(König in Preußen)フリードリヒ1世を名乗る[130]。その次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)は軍制改革を実施してプロイセン王国を軍事国家となさしめた[131]。そして、この軍事力を発揮する機会が皇帝カール6世の死後に訪れる。

カール6世は唯一の男子が夭逝して女子しか子がなく、後継者問題で苦しんでいた。皇帝は国事詔書Pragmatische Sanktion)によって長女マリア・テレジアへの相続を対外的に認めさせようとし、多くの外交的・領土的な譲歩を迫られた[nb 33][132]1740年に皇帝は55才で死去してマリア・テレジアが予定通りハプスブルク家領を継いだ。しかしフランス王ルイ15世プロイセン王フリードリヒ2世大王を初めとする諸国が掌を返して異議を唱えオーストリア継承戦争が勃発した。軍事力を蓄えていたプロイセンはシュレジエンの征服に成功した(シュレージエン戦争)。その後に行われた国王(皇帝)選挙でハプスブルク家はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの選出を目論んでいたが、選出されたのは皇帝ヨーゼフ1世の娘婿にあたるバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(ヴィッテルスバッハ家)だった[133]。カール・アルブレヒトは1742年神聖ローマ皇帝カール7世として44才で即位した。

カール7世は1437年に即位したアルブレヒト2世以降、唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。新たな皇帝はフランスの支援を得ていた。しかし即位の直後に自領バイエルンの首都ミュンヘンをオーストリアに占領され、フランスの支援が十分に得られないまま各地を転戦するうちに僅か3年の在位で1745年に47才死去した[133]。オーストリアとバイエルンとの和議が成立して次の皇帝にはフランツ・シュテファンが36才で選出された(神聖ローマ皇帝フランツ1世)。1748年アーヘンの和約が成立してマリア・テレジアはハプスブルク家世襲領継承を承認させることに成功したが、シュレジエンのプロイセンへの割譲を認めなければならなかった。

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マリア・テレジア(左)とプロイセン王フリードリヒ2世(右)

フランツ1世は神聖ローマ皇帝として即位したが既に皇帝の地位自体はヴェストファーレン条約によって有名無実であり、皇后でありハプスブルク家の当主である28才のマリア・テレジアが実質上の「女帝」として君臨した。英明な君主であった女帝はオーストリアの内政改革を進める一方[134]、プロイセンの大王からシュレジエンを奪回するべく外交を展開してロシア、ザクセン、フランスとの同盟を成立させ対プロイセン包囲網を構築した。これは外交革命と呼ばれ、特にフランスとオーストリアの同盟は250年に渡る宿敵だった両者にとって画期的なことだった[135]。そして1756年、ついに女帝と大王の決戦となる七年戦争が始まった。プロセインは圧倒的な国力の差にも関わらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、1761年にはイギリスの援助が打ち切られ苦境に陥った[136]。だが、1762年に大王の信奉者だったピョートル3世がロシア皇帝に即位するとロシアは戦線を離脱し、大王は危機を脱した[137]。オーストリア、プロイセンそしてザクセンとの間で1763年に締結されたフベルトゥスブルク条約により、プロイセンはシュレジエンを確保してヨーロッパの列強にのし上がる。ヴェストファーレン体制は崩れだし、ドイツの覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立が始まった(ドイツ二元主義[137]。フランツ1世は1765年に死去し、後を継ぎ23才で皇帝に即位した嫡男ヨーゼフ2世は47才の母后マリア・テレジアとハプスブルク君主国の共同統治に入った。

ヨーゼフ2世は当時西洋で主流となっていた啓蒙思想を取り入れた「啓蒙専制主義」をオーストリアにおいて確立した[138]。啓蒙専制君主の代表例は皇帝本人と母后、そして何よりプロイセンの大王である。皇帝は大王を崇拝しており、1772年に皇帝は母后の反対を押し切ってオーストリア、プロイセン、ロシアによるポーランド分割を行って領土を拡張させてもいる。1780年に母后が63才で死去して単独統治に入った皇帝の啓蒙諸改革はますます急進的となり、宗教寛容令や修道院の廃止、死刑制度の廃止といった政策を実施した(ヨーゼフ主義)。しかし貴族装の権益を奪う諸政策は反発を受け、治世の晩年にはその大部分の撤回を余儀なくされている[139]。そして啓蒙思想の影響は1770年に皇帝の妹マリー・アントワネットが嫁いでいった隣国フランスにおいて絶対君主たちにとって最悪の形で現れた。1789年フランス革命勃発である。皇帝は翌年に48才で死去し、弟のレオポルト2世が42才で帝位を継承した。

フランス革命と帝国解散[編集]

1789年時点の神聖ローマ帝国。ハプスブルク君主国(茶色)とプロイセン王国(青)が過半を占め、その他の中小領邦国家を取りまいている。

レオポルト2世の治世は2年と短いが、フランス革命が進行して外交関係での緊張が続いた時期である。当初、諸外国は武力干渉を控えていたが、1791年フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット(皇帝の妹)の国外逃亡失敗事件(ヴァレンヌ事件)が起こると、皇帝とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はフランスにおける王権復旧を要求する宣言(ピルニッツ宣言)を発し、これに過剰反応したフランス革命政府は宣戦布告で応じた(フランス革命戦争[nb 34]。レオポルト2世は開戦直前に44才で死去しており、1792年フランツ2世が24才で皇帝に選出された。翌年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されてフランスの王政は終わった。

フランツ2世が即位した頃から、フランスでナポレオン・ボナパルトが台頭する。革命に対抗するため西欧諸国によって結成された第一次対仏大同盟イタリア戦役で敗れて崩壊し、1797年カンポ・フォルミオ条約の締結を余儀なくされた。オーストリアはヴェネチアを獲得したものの、ミラノの放棄とオーストリア領ネーデルラントの喪失を承認させられた。また帝国イタリアの全域がフランスの支配下に入ったことから、神聖ローマ帝国はカール大帝以来約1000年主張し続けてきたイタリアへの宗主権を放棄することになり、中世以来のイタリア王国が名目的にも滅亡した。1799年には第二次対仏大同盟が結ばれたが、ナポレオンがアルプス越えを敢行したことで名高いマレンゴの戦いで敗れて崩壊した。皇帝はフランスによるライン川西岸地域の併合を承認させられた。これを受けて帝国は1803年にレーゲンスブルク帝国議会の代表者会議を開催して帝国諸邦の再編成を決議した(帝国代表者会議主要決議Reichsdeputationshauptschluss))。小規模領邦国家、帝国都市、マインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領の俗界諸侯領への編入が進められ、諸侯の数はヴェストファーレン条約時の約300から39にまで整理された(陪臣化と世俗化 (en)。プロイセンは北西ドイツの領土を獲得し、西南ドイツに新たな幾つかの中規模国家が成立した[140]。また、神聖ローマ帝国の国号が「ローマ=ドイツ帝国」に改められた。

1804年5月18日、ナポレオンはフランス皇帝Empereur des Français)を称した[141](戴冠式は12月2日)。1805年第三次対仏大同盟が結成されたがウルムの戦いで敗れてウィーンが占領され、神聖ローマ皇帝、ロシア皇帝、フランス皇帝が一つの戦場に会したアウステルリッツの戦い(三帝会戦)でも敗れて崩壊した。プレスブルクの和約で皇帝はヴェネチア、チロルの割譲とバイエルンヴュルテンベルクの王国、バーデンの大公国への昇格を認めさせられた。中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とすることを決め、1806年7月にバイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦がマインツ大司教ダールベルクを首座大司教侯とするライン同盟を結成してローマ=ドイツ帝国からの脱退を宣言した。

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最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右)

ここに至り、40才の神聖ローマ皇帝フランツ2世は8月6日にローマ=ドイツ帝国の解散を宣言する。

朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。

これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。

フランツ2世のドイツ皇帝退位宣言―1806年8月6日(全文は左記リンク)

フランツ2世は神聖ローマ皇帝退位に先んじて1804年オーストリア皇帝を名乗っており、引き続きハプスブルク君主国を皇帝の称号を持って統治した。フランス皇帝ナポレオンは第四次対仏大同盟、第五次対仏大同盟も打ち破って絶頂を迎えたが、第六次対仏大同盟についに敗北して没落する。しかし神聖ローマ帝国の復活は無かった。ナポレオン戦争の戦後処理を行ったウィーン会議(1814-1815年)ではオーストリア、プロイセン、ライン同盟が合流してドイツ諸邦39カ国によって構成される国家連合であるドイツ連邦が成立した。ドイツ統一を巡るオーストリアとプロイセンの対立は19世紀後半まで続いたが、勝利したのはプロイセンであった。1866年普墺戦争1870年普仏戦争でオーストリア帝国とフランス帝国に勝利したプロイセンはドイツ帝国Deutsches Kaiserreich)を成立させ、プロイセン王ヴィルヘルム1世1871年1月18日ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位した。ドイツ帝国にオーストリアは含まれず、ドイツの枠組みから弾き出されたオーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国として改組されつつも、第一次世界大戦の敗北で瓦解するまで存続し続けた。

国制[編集]

神聖ローマ帝国は今日の国々のような高度に中央集権化された国家ではなく、等族と呼ばれる[nb 35]公爵伯爵司教修道院長及びその他の統治者に支配される数十の(最終的には千以上の[142])領邦に分かれていた。また、皇帝に直接支配される地域もあった。皇帝が単純に法令を発布して、帝国全域を自律的に統治しえた時代は存在しなかった。皇帝の権限は様々な地方領主たちによって厳しく制限されていた。

中世盛期以降、神聖ローマ帝国は帝権を排除しようと抵抗する地方諸侯との不安定な共存政策に特徴づけられる。フランスやイングランドなどの中世の諸王国と比較して、皇帝は自らの統治する領土を十分に支配する力を獲得し得なかった。反対に、皇帝たちは廃位を避けるために聖俗領主たちにより一層の権限を授与することを強いられた。このプロセスは11世紀の叙任権闘争に始まり、1648年のヴェストファーレン条約でおおよそ完了している。幾人かの皇帝たちはこの自らの権力の弱体化を食い止めようと試みたが、教皇や諸侯によって妨げられた。

皇帝[編集]

ウィーン王宮宝物館にある神聖ローマ帝国の王冠(10世紀頃)

皇帝となる前提は、イタリア王位であった。オットー1世以降は、ドイツ人の王がイタリア王を兼ねて皇帝となった[nb 36]。つまり皇帝となるためには、その人物はドイツ人の王国[nb 37]で国王としての戴冠式を行い、さらにイタリアでもイタリア王としての戴冠式を行い、その上で教皇により「ローマ皇帝」に戴冠された。多くの場合、国王たちは他の責務に時間を取られて皇帝戴冠には数年を要しており、しばしば、彼らはまずは北イタリアの反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。

皇帝は1032年以降、ブルグント王も兼ねた。よって皇帝はドイツ人の王国、イタリア王国ブルグント王国の3つの王国の統治者であった。これによってカロリング朝フランク王の正式な称号が「フランク人ランゴバルト人ローマ人の保護者」であった伝統を引き継ぐことになった。なお、ブルグントで王権が奮われることは殆ど無く、王としての戴冠式も省略される傾向にあり、フリードリヒ1世とカール4世の2名しか戴冠式を挙行していない。

帝国の初期に帝権と王権は区別されており、皇帝は法の守護者でしかない王と異なって立法権を持っていた。後にこの概念は形骸化して皇帝は単なる名誉称号となるが、西欧社会の頂点という権威はあった。王権(国王大権、レガリア)には裁判権、関税権、貨幣鋳造権、鉱山採掘権、ユダヤ人保護権などがあったが、実際にこれらを独占して行使するには皇帝(王)自身の意思と実力を要した。中世後期には王権のかなりが失われ、イタリアでの王権は有名無実となり、ブルグントの王権は1378年にフランスに譲渡されて王位のみが残った。近世にはドイツでもヴェストファーレン条約によって王権が完全に消滅した。

帝国の本体であるドイツ人の王国の重要な特徴は選挙王制である[143]。9世紀以降、ドイツ人の王は国王選挙によって選ばれており、この時期、彼らは最も有力な部族(サリ=フランク (enロートリンゲンリプアリ (enフランケンザクセンバイエルンそしてシュヴァーベン)の5人の指導者たちによって選出されていた。ただし、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝ザリエル朝ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった[144]。ハインリヒ3世は皇帝戴冠式を挙行するまでの7年間、ローマ王(羅: Rex romanorum; 独: römischer König)を称しており、以降、皇帝予定者であるドイツ人の王はまずローマ王を称するようになった[145]。また、皇帝の存命中に後継者をローマ王に選出させることもあった[146]

大空位時代以降においては選挙原理が働くようになり、ドイツ王国内の主要な公爵や司教たちがローマ王を選出している。1356年にカール4世は金印勅書を発布して7人の選帝侯を定めた。皇帝候補者たちは票固めのために選帝侯たちと選挙協約Wahlkapitulation)を結んで特権面での譲歩を約束させられた[147][148]

1508年マクシミリアン1世が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、後期の皇帝たちは「ローマ皇帝に選ばれし者」(Erwählter Römischer Kaiser)の体裁を取り、教皇による戴冠を省略してローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した[70][149]。教皇によって戴冠された最後の皇帝は1530年のカール5世である。以降の皇帝は、皇帝であるからにはイタリア王でもあったが、もはやイタリア王の称号が用いられることはなかった。

首都[編集]

ゴスラーの歴史都市(世界遺産

神聖ローマ帝国における理念的中心は、カール大帝の時代よりローマアーヘンであった。ローマはもちろん古代ローマ帝国以来の帝国の首都である。アーヘンは西ローマ帝国を復興したカール大帝が王宮を置いて事実上の首都とした都市であり、9世紀後半に一度荒廃するが10世紀には再建された。またイタリア王国の首都はランゴバルト王国時代よりパヴィア、ブルグント王国の首都はアルルであった。よって皇帝、ローマ王(ドイツ人の王)、イタリア王、ブルグント王の戴冠式はそれぞれローマアーヘンパヴィア(後にミラノ)、アルルで行われ、神聖ローマ皇帝はローマ帝国とカール大帝の権威を受け継いだ。ローマでの教皇の手による皇帝の戴冠式が行われなくなると、ローマ王は選出された時点で皇帝(及びイタリア王、ブルグント王)と称してよいことになり、アーヘンでの戴冠式は皇帝の戴冠式となった。1562年からは国王選挙が行われるフランクフルトに戴冠式場が移された。フランクフルトでは神聖ローマ帝国解散後の1848年革命において国民議会が開かれてもいる。

しかし理念的中心はともかく、皇帝が権力を奮う行政・司法府として特定の首都は存在しなかった。中世初期から中世盛期の皇帝=ローマ王は王国を巡り、その時々の皇帝の所在地で宮廷会議や教会会議そして法廷の開催や授封といった行政を執り行う、「旅する王権」(Reisekönigtum)の統治方式を取っていた[150][151]。しかしながら、帝国統治の中心は全土に隈なく所在する訳でもなく、ザクセン朝、ザリエル朝の諸王はハルツ山地周辺の宮中伯領に王宮を造営して国王支配領域を形成しており、ゴスラーの歴史都市はそのひとつである[152]。また、オットー3世以降は帝国内の司教管区も一時的な政庁として活用するようになっている[153]。ホーエンシュタウフェン朝は権力基盤のシュヴァーベンに加えて、ザーレ・ウンストルート川流域やライン・マイン川流域、ライン川上流域に国王支配領域を形成した[154]

大空位時代以降は諸侯の自立性の高まりにより、国王支配領域を形成することはできなくなり、皇帝たちは各々の家門の領地から帝国の統治を行っている[155]。後期の帝国において皇帝の都となったのは1328年1347年1742年1745年ミュンヘン1346年1437年1583年1611年プラハ1437年1576年1611年1806年ウィーンである。末期の1663年1806年レーゲンスブルク帝国議会(国会)が常置され、帝国全体の首都機能の一部を担った。

封建制[編集]

国王に対する誠実宣誓。
1512年製作の木版画。

初期のドイツ王は部族大公Stammesherzog)によって選出されていた。部族大公はフランク王国によって征服統合されたゲルマン諸族で、フランク王から大公(duces)の官職を任命された者たちである。フランク王国の部族大公は8世紀頃に解体されたが、カロリング朝末期に復活し、ザクセン大公フランケン大公バイエルン大公シュヴァーベン大公そしてロートリンゲン大公が確立した[156]。部族大公は12世紀末まで帝国における主要な役割を果たしている[157]

オットー1世に始まる帝国教会政策により、三王朝時代の皇帝たちは大司教、司教、修道院長を任命して所領を寄進し、特権を与えるなど彼らとのレーエン(知行制・封建制)的な絆を結び、教会を帝国の制度基盤となした[4][158]。ザクセン朝とザリエル朝の皇帝たちは大公領、辺境伯領、伯領はレーエン的なものではなく官職として扱おうとしていたが、ロタール3世(在位:1106年 - 1137年)の時代に帝国の封建化は発展し、12世紀から13世紀のホーエンシュタウフェン朝の時代にレーエン化が進められて部族大公領が解体され、国王を最高封主とする帝国国制の封建化が完了した[159]

12世紀末の時点で聖界諸侯の他に以下の20の世俗諸侯がいた[160]


帝国等族[編集]

"Ordines Sacri Romani Imperii"(神聖ローマ帝国の序列)。1606年作

帝国領邦の数は相当数に及び、18世紀末の時点で領邦高権を有する領邦314、自立権力を有するその他の帝国騎士領は1475家に上った[142]。これら小邦(Kleinstaaten)の幾つかは飛び地を含む数平方マイルの規模しかなく、そのため帝国はしばしば「パッチワーク」(Flickenteppich)と呼ばれた[161]。皇帝と直接的な封建関係を結んで帝国封Reichslehen)を授封された者は帝国等族Reichsstände)と見なされた[162][163]。帝国等族は以下のものである。

1495年ヴォルムス帝国議会の時点では選帝侯7、聖界諸侯(大司教4、司教46、修道院長86)、俗界諸侯(公爵24、伯爵その他の領主145)、帝国自由都市83となっている[166]

帝国議会[編集]

1675年帝国議会

帝国議会Reichstag/Reichsversammlung)は神聖ローマ帝国の立法機関であり、その起源は皇帝が諸侯に重要事項を諮問する宮廷顧問会議(Hofrat)や大空位時代の選挙人集会であり、1356年の金印勅書によって成文化された[167][168]。帝国議会は三つの部会に分かれている。

第一部会である選帝侯部会Kurfürstenrat)は1273年に現れ、ローマ王選挙権を有する選帝侯によって構成される[169]

第二部会の諸侯部会Fürstenrat)は1480年に成立したもので、その他の諸侯や帝国伯によって構成される[164]。諸侯部会は二つの「議席」に分かたれており、一つが世俗諸侯、もう一つが聖界諸侯である。高位諸侯は個人票を持ち、その他の伯や高位聖職者は地域別に分けられた集合票になっている。各々の集合票は1票扱いである。18世紀半ばの時点で個人票は100票(俗界諸侯65、聖界諸侯35)、集合票は高位聖職者2票、伯4票となっている[170]

第三部会が帝国自由都市の代表によって構成される都市部会Städtetag)であり、シュヴァーベンとラインの二つの集合票に別けられる。各々の集合票は1票扱いである。帝国議会への自由都市代表の出席は中世後期から一般的になっていたが、彼らの出席が公式に確認されたのは1648年のヴェストファーレン条約以降のことである[171]。都市部会は他の部会と対等ではなく、この部会がキャステングボードを握ることを防ぐべく、他の二部会の決定が下された後に意見を求められる形式になっていた[170]。1521年には87都市が出席権を有していたが、都市の衰退などの事情により1803年の時点では3都市に激減している[170]

帝国裁判所[編集]

18世紀の帝国最高法院

帝国の司法機関としては皇帝が主催する宮廷裁判所(Hofgericht)が存在していたが、15世紀の帝国改造運動の一環として司法改革が求められた。フリードリヒ3世は司法は皇帝のレガリア(大権)であるとして改革に抵抗していたが[172]、マクシミリアン1世は諸侯、等族の要求に妥協をし、1495年に永久ラント平和令を施行させる機関として専門の法律家による帝国最高法院Reichskammergericht)が開設された[173][174]。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である帝国宮内法院Reichshofrat)をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。

帝国最高法院はフランクフルトに開設され、その後、ヴォルムス、アウクスブルク、ニュルンベルクレーゲンスブルクシュパイヤーエスリンゲン (en、再びシュパイヤーへと移転した。アウクスブルク同盟戦争の際にシュパイヤーが破壊されたため、裁判所はヴェッツラーへ移転し、1689年から帝国が消滅する1806年までここに所在している。

両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である[175]。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使(フェーデ)ではなく法的手続きによって解決することを目的としており[176]、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている[177]

帝国クライス[編集]

1560年時点の帝国クライス地図

帝国改造の一環として、1500年に6管区の帝国クライスが設置され、更に4管区が1512年に設置されている。クライスは帝国最高法院陪席判事の選出、平和維持と防衛の分担調整、貨幣制度の監督、そして公共平和の維持を目的とした帝国内諸邦のほとんどを含む地域行政単位である[178]。各々のクライスはクライス会議Kreistag)の名で知られる独自の議会とクライス内の問題を調停する1-3人のクライス公示事項担当諸侯(Kreis Ausschreibender Fürst)を有していた[179]

  バイエルン・クライス
  シュヴァーベン・クライス
  オーバーライン・クライス
  ヴェストファーレン・クライス
  フランケン・クライス
  ニーダーザクセン・クライス
  ブルグント・クライス
  オーストリア・クライス
  オーバーザクセン・クライス
  クールライン・クライス

全ての領域が帝国クライスに含まれている訳ではなく、ボヘミア王の領土 (en、帝国騎士領や帝国内のドイツ騎士団領地などの小邦[180]、そして、スイス、北イタリアの帝国諸侯は除外されている。


ハプスブルク家皇帝の帝国国制[編集]

神聖ローマ皇帝位は15世紀からほぼハプスブルク家が独占していたが、15世紀にはすでに帝権(王権)の多くが失われていた。16世紀初頭の帝国改造では行政権や裁判権すら諸侯が共同で運営する帝国統治院、帝国最高法院が担うことになった。しかし、1500年に設置された帝国統治院は2年で廃止され、1521年に皇帝不在時の臨時機関として復活したものの、1530年には再び廃止された。帝国最高法院は存続し続けたが、皇帝はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である帝国宮内法院(Reichshofrat)をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。

帝権、王権が弱まっていたと言っても、あくまで神聖ローマ皇帝、ローマ王、イタリア王としてのものである。諸侯としてのハプスブルク家は強大で領土は広大であり、領内は「オーストリア」として事実上の国家・帝国とみなされていた。特に16世紀前半は神聖ローマ帝国外にもスペイン、ナポリ、ハンガリーを領土としていた。宗教改革の混乱もあって、皇帝は広大な領土をカバーする情報網を必要としていた。皇帝は飛脚問屋のタクシス家と契約して郵便事業独占と世襲を認めた。帝国郵便の成立である。時代が下って1597年ルドルフ2世は郵便事業が国王大権に属するとして領邦郵便を禁じ、帝国郵便による独占を試みた[181]。しかし三十年戦争の後、スウェーデンなどを引き連れたプロイセンからの圧力を受けたレオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)1666年に領邦郵便を認めることになった。

郵便制度は検閲制度とも結びついた。18世紀になるとゲラルド・ファン・スウィーテンイエズス会が行っていた検閲制度を段階を踏んで帝国のものへと転化させ、同時に帝国郵便が新聞の流通を掌握することで検閲網となった[182]。このような体制はドイツ統一まで続き、万国郵便連合の基礎となった[183]

近世のドイツでは領邦ごとに絶対主義化が進んだが、ハプスブルク家の所有した官僚制はフェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)(在位:1556年 - 1564年)が再編成し多様化させた。その頂点に枢密顧問会議(Geheimrat)が置かれ、皇帝の意見よりもハプスブルク家領の国益を重視して、皇帝の政治判断を左右した。これは三十年戦争のような非常時であっても変わらなかった。三十年戦争後にはヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツにより枢密院(Geheime Konferenz)へ刷新された[184]。各領邦に同様の仕組みは存在したが、皇帝の枢密顧問会議は帝権が及ばないはずの帝国最高法院にすら干渉する力を持っていた。また、多民族国家であったハプスブルク君主国らしく、議員には常にボヘミア人がいた。

枢密院以外では皇帝軍の権力が強かった。諸侯の連合軍である帝国軍とは異なり、皇帝が所有する軍隊である。官房間では文官と武官の政治闘争が繰り返されつつ協同した。会計局は、自由都市の経済と、戦中でも豊かなボヘミアからの収入を完全管理した。大トルコ戦争の後は、解放域の開発・通商による収益を誰にも掠め取られることなく帝国宝庫に納めた。こうした財源は軍事費につぎこまれた。宮廷軍事局の指令は法律同然であり、辺鄙な村落すら軍規に従わされた。[184]しかしそれでも皇帝軍も単独で強力な武力ではなく、大トルコ戦争では帝国軍の助けを必要とした。その後スペイン継承戦争に備えてはプロイセンに兵力を頼ることになった。諸侯のバランスは崩壊し、帝国がやがて機能不全に陥いる要因となった[185]

評価[編集]

18世紀フランスの思想家ヴォルテールによる「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」との神聖ローマ帝国評は特に有名であるが[186]、17世紀の法学者プーフェンドルフも帝国を国家論の規則に外れた「妖怪に似たもの」と評した[187][188]。また、帝国解散の新聞記事を読んだ日のゲーテの素っ気ない日記も当時の人々の帝国に対する無関心ぶりを示す例として知られる[189]。一方で、18世紀後半のドイツ法学者ピュッター (enは帝国の法維持機能を積極的に評価し、その国家性を強調している[190]

ドイツ帝国が成立した19世紀中盤以降のドイツ歴史学界は権力国家志向であり、中央集権化に失敗してナポレオンに敗れて消滅した神聖ローマ帝国を民族を分裂させドイツの利益を守りえなかった政治的無能と断じ、これに対して権力国家を構築してドイツ統一を成し遂げたプロイセンを擁護するプロイセン中心主義的解釈を取って来た[191]ナチス・ドイツの経験と第二次世界大戦の敗戦によって、権力国家概念は信用を失ったが、神聖ローマ帝国が近代国家への転換に失敗した体制であるとの解釈は続いた[192]

1960年代から西ドイツの歴史学界で従来の集権的な国民国家を唯一の歴史的選択肢とはしない神聖ローマ帝国に対する修正主義的なアプローチが出始めた。1980年代以降、この修正主義的解釈は活発化し、その主な論旨は帝国の構造を皇帝と諸侯とに二元主義的に理解せず、帝国議会、帝国裁判所、帝国クライスなどの多様な構成員からなる帝国諸制度の相互作用や法共同体としての側面を考察することである[193][194]

この修正主義的再評価から、帝国がヴェストファーレン条約以降まったくドイツで宗教戦争が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのか、といった疑問に答えるためにマクシミリアン1世に始まる帝国改造を指摘する者もいる[nb 38]。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、帝国クライスを単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったという主張である[nb 38][nb 39]

また、ヴェストファーレン条約についても否定的側面のみでは捉えず、以後150年に渡り領邦の独自性を維持しつつドイツの完全な分解を防ぐ法共同体を構築した役割、更には今日に続くドイツ連邦制の基礎になったと評価する見方もある[195][196]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ ドイツ語ラテン語イタリア語チェコ語オランダ語フリジア語フランス語スロベニア語ソルブ語ポーランド語
  2. ^ 1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(ドイツ語: Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)である。1804年の皇帝称号変更命令では「ローマ=ドイツ帝国」(ドイツ語: Römisch-Deutschen Reiche)、1806年8月6日の神聖ローマ帝国の解散詔勅では「ドイツ帝国」(ドイツ語: Deutschen Reich)とも表現される。ただし皇帝の称号としては終始「神聖ローマ皇帝」(ドイツ語: Erwählter römischer Kaiser)を名乗った。
  3. ^ たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。
  4. ^ 例外はオーストリア継承戦争中に短期間在位したカール7世(ヴィッテルスバッハ家)のみ
  5. ^ ドイツ語の Reich は「帝国」を意味し、ラテン語の imperium に対応する概念である。
  6. ^ 北イタリア諸邦は帝国クライスに属さず、帝国議会にも出席していない。ただし、近年の研究では帝国と帝国イタリアとの結びつきについて再評価も行われている。ウィルスン(2005),p.105-108
  7. ^ それはまた、世俗権力と教権とが並立する独自の世界の成立でもあった。
  8. ^ 強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、フランク王を西ローマ皇帝とすることで、はじめて東ローマ皇帝や、その支配下にあるコンスタンティノープル教会に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である。
  9. ^ 東ローマ帝国との関係が悪化したとき、カールは、ハールーン・アッ=ラシード(アッバース朝全盛期のカリフ)とも提携して対抗しようとしている。なお、「シャルルマーニュの護符」はハールーン・アッ=ラシードより贈られたものと言われる。
  10. ^ これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。
  11. ^ 皇帝としてはハインリヒ「1世」であるが、ハインリヒ帝はザクセン朝初代の捕鳥王から代数を数えるのが一般的である。
  12. ^ 皇帝としては唯一の「コンラート」であるが、他のコンラート王との区別のため「2世」をつけることが一般的である。
  13. ^ ルドルフ3世から見てハインリヒ2世は姪の婿、コンラート2世はいとこの婿にあたる。
  14. ^ ベネディクトゥス9世シルウェステル3世グレゴリウス6世
  15. ^ クレメンス2世ダマスス2世レオ9世ウィクトル2世
  16. ^ 皇帝としてもローマ王としてもロタール「2世」であるが、ロタリンギア王ロタール2世、あるいはイタリア王ロタール2世との区別のため「3世」とされることが多い。
  17. ^ ザクセン公位とバイエルン公位は獅子公に返還されず、それぞれアスカーニエン家とヴィッテルスバッハ家に渡ったままとなった。ザクセン公領は大幅に縮小し、のちにマイセン辺境伯が得た。このためザクセンという地名はドイツ北部(現ニーダーザクセン州)からドイツ北東部のマイセン周辺(現ザクセン州)を指すものに変わった。
  18. ^ 官僚の要請、皇居事業の実施、財政改革など
  19. ^ 関税徴収請求権、貨幣鋳造権、城塞構築権の授与など
  20. ^ 1220年の「聖界諸侯との協約」(Confoederatio cum principibus ecclesiasticis)、1232年の「諸侯の利益のための協定」(Statutum in favorem principum)など。実際には既成事実の追認にすぎない。
  21. ^ パドヴァのマルシリウスの人民主権論『平和の擁護者』
  22. ^ 世襲制と領地不可分の確認、裁判権、関税権、貨幣鋳造権、鉱山採掘権、ユダヤ人保護権など
  23. ^ 共同王として従弟のヨープストも選出されたが、一年で死去している。
  24. ^ イタリアの都市国家であるが、800年のカールの戴冠以来帝国に含まれたことは無く、1500年前後には北東イタリアの大半を領土としていた
  25. ^ 軍資金と兵士の提供、及び全ドイツ人から税を徴収する一般帝国税(Gemeiner Pfennig)の導入
  26. ^ 古代よりゲルマン貴族には決闘による報復と権利回復が広く認められていた。しかし15世紀末になると数百人規模の強盗団が犯行後に決闘状を形式的に送りつけるということが常態化する事態にまでなっていた
  27. ^ フランクフルト・アム・マインに置かれ、1523年シュパイアーへ移転し、最終的に1693年ヴェッツラーに落ち着いた。君主の威光を示す性質を持たず、設備は極めて簡素であった
  28. ^ 1613年にブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントはルター派からカルヴァン派に改宗している。成瀬他(1997b),p.48
  29. ^ これはスウェーデンが帝国の公位を帯びることを意味し、同時に帝国議会帝国クライスに席を有することを意味した
  30. ^ 帝国議会は散会時に議決内容を発布する。議決も散会もできないということは帝国議会が立法権を失い、諸侯の利害を調整するのみとなったことを意味する。
  31. ^ フリードリヒ1世と争ったハインリヒ獅子公の子孫
  32. ^ サヴォイア公国はブルグント王国の諸侯として出発し、やがてイタリアに進出してピエモンテを領有した有力諸侯である。ブルグント王国消滅の際にドイツの王国に組み込まれ帝国クライスにも議席を有した。1861年に旧領サヴォイアをフランスに割譲してイタリア王国へと発展した。
  33. ^ 国事詔書の内容はハプスブルク家領の長子相続と補助的な女系相続の決定である。本来は分割相続の習慣が残されていたハプスブルク家内の改革であった。しかしカール6世の唯一の男児が夭逝して、女系相続を認めさせるための施策に変質した。
  34. ^ ピルニッツ宣言の時点では諸国はフランスへの武力干渉に否定的で、文面的には直接行動断念を表明したものだったが、フランス革命政府はこれに過剰に反応した。成瀬他(1997b),p.133
  35. ^ 帝国内で「国王」の称号を許された諸侯はボヘミア王のみである。その他の国王の称号を有する諸侯は帝国領域外の王国の統治者である。
  36. ^ 1002年にイタリアのイヴレーア辺境伯アルドゥイーノがイタリア王となったが、ドイツ人の王ハインリヒ2世に敗れて皇帝となることはなかった。
  37. ^ 当初は東フランク王国の政体を踏襲しており、ラテン語でテウトネス王国、ゲルマニア王国とも呼ばれていた。「ドイツ人国家」という概念は後年に生まれた。中世において「ドイツ」とはドイツ人を意味し、国家・地域としての意味は持たなかった。
  38. ^ a b 概説書としては、成瀬治、山田欣吾、木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史1』や、ピーター H. ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』などが詳しい。
  39. ^ ただし、この帝国改造運動は結局、成果はなかったと解説されることも少なくはない。【帝国改造運動】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)や【神聖ローマ帝国】(世界大百科事典巻14,平凡社,1988年)

出典[編集]

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  1. ^ a b しんせいローマていこく 【神聖ローマ帝国】(大辞林,三省堂)
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参考文献[編集]

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  • ハンス・クルト・シュルツェ 『西欧中世史事典―国制と社会組織』 千葉徳夫、五十嵐修、佐久間弘展、浅野啓子、小倉欣一訳、ミネルヴァ書房〈MINERVA西洋史ライブラリー〉、1997年ISBN 978-4623027798
  • ハンス・クルト・シュルツェ 『西欧中世史事典〈2〉皇帝と帝国』 五十嵐修、小倉欣一、浅野啓子、佐久間弘展訳、ミネルヴァ書房〈MINERVA西洋史ライブラリー〉、2005年ISBN 978-4623039302
  • メアリー・フルブロック 『ドイツの歴史』 高田有現、高野淳訳、創土社〈ケンブリッジ版世界各国史〉、2005年ISBN 978-4789300322
  • 赤井彰、山上正太郎 『世界の歴史 7 文芸復興の時代』 社会思想社1974年ISBN 978-4390108270
  • 阿部謹也 『物語 ドイツの歴史―ドイツ的とはなにか』 中央公論社、1998年ISBN 978-4121014207
  • 池谷文夫 『フス戦争』 (『世界の戦争・革命・反乱総解説』収録)、自由國民社1994年
  • 江村洋 『ハプスブルク家』 講談社1990年ISBN 978-4061490178
  • 江村洋 『カール5世―中世ヨーロッパ最後の栄光』 東京書籍1992年ISBN 978-4487753796
  • 伊藤宏二『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国 - ドイツ帝国諸侯としてのスウェーデン -』 九州大学出版会、2005年ISBN 4-87378-891-9
  • 菊池良生 『戦うハプスブルク家』 講談社、1995年ISBN 978-4061492820
  • 菊池良生 『神聖ローマ帝国』 講談社、2003年ISBN 978-4061496736
  • 菊池良生 『ハプスブルクをつくった男』 講談社、2004年ISBN 978-4061497320
  • 菊池良夫 『図説 神聖ローマ帝国』 河出書房新社2009年ISBN 978-4309761275
  • 坂井栄八郎 『ドイツ史10講』 岩波書店、2003年ISBN 978-4004308263
  • 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年ISBN 978-4773361957
  • 成瀬治 『世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道』 講談社、1978年
  • 長谷川輝夫、土肥恒之大久保桂子 『世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花』 中央公論新社、2009年ISBN 978-4122051157
  • 堀越孝一 『中世ヨーロッパの歴史』 講談社、2006年ISBN 978-4061597631
  • 森田安一 『ドイツ宗教改革の戦い』 (『世界の戦争・革命・反乱総解説』収録)、自由國民社、1994年
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関連図書[編集]

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  • Peter Claus Hartmann, Kulturgeschichte des Heiligen Römischen Reiches 1648 bis 1806. Wien, 2001
  • Georg Schmidt, Geschichte des Alten Reiches. München, 1999
  • James Bryce, The Holy Roman Empire. ISBN 0-333-03609-3
  • Jonathan W. Zophy (ed.), The Holy Roman Empire: A Dictionary Handbook. Greenwood Press, 1980
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  • Deutsche Reichstagsakten

関連項目[編集]

外部リンク[編集]