僭称

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僭称(せんしょう)とは、身分制度のある社会において、本人の身分を越えた地位称号を名乗ることをいう。

概観[編集]

本人自ら「私は○○を僭称している」ということはまずなく、他者を評価するときに「○○を名乗るべき身分にない者が勝手に名乗っている」という批判的な意味で用いるのが普通である。身分の存在を前提とするため、「皇帝を僭称する」や「を僭称する」という用法は正しいが、その地位が身分に基づかない「大統領を僭称する」や「社長を僭称する」という用法は不適切である(この場合は単に「偽称」「詐称」という)。

国家の支配権をめぐって複数の勢力が対立している場合、本来は一人であるはずの国家の最高指導者の地位が、複数の人によって名乗られることがある。この場合には互いの当事者は自らの方を正統とし、対立する側の地位を僭称として認めない。どちらを正統としどちらを僭称とするかは、立場の違いによる。

ただし、当初は僭称であったものが、実力にもとづいてその地位を長期間にわたって保持し続けた場合には、もはや僭称とはみなされなくなることもある。

歴史上の実例[編集]

ローマ帝国においては、しばしば内乱が勃発し、その中で複数の皇帝自称者が乱立することがあった。特に3世紀の軍人皇帝時代にはそれが著しかった。この中ではローマ元老院の承認を得ている者が正統な皇帝とされており、その他の皇帝自称者は「僭称皇帝」または「簒奪者」として扱われる。ただし、その区分はしばしば曖昧であり、当初は僭称皇帝にすぎなかった者が実力で帝国の広範囲の支配権を手中におさめ、その結果として正統な皇帝として認められるにいたるという事例も見られた。

中国史上でも、しばしば皇帝の僭称者が現れた。ただし、中国の場合にはもともと皇帝の称号は実力で広範囲を支配した者が名乗るものであり、僭称皇帝と正統な皇帝との区別は曖昧である。

  • 単にその政権が短期間で終わってしまった場合、後世からは正統な皇帝とみなされず、僭称皇帝とされる場合もある。この事例として、袁術桓玄侯景などがあげられる。
    • 袁術は197年から199年にかけて仲王朝の皇帝を称したが、他の勢力からはほとんど認められなかった上、最後には帝位を投げ出さざるを得ないところに追いつめられた。
    • 桓玄は403年に東晋の安帝より禅譲を受けて皇帝となってを開くが、わずか3ヵ月後には滅亡した。
    • 侯景(漢の順武帝)は南北朝時代のの実力者であったが、皇帝蕭棟(予章王)から禅譲を受ける形で皇帝に即位、国号を漢とした。しかし、梁の残存勢力からの攻撃によって皇帝即位後わずか半年で殺害された。
  • 孫権が自立して皇帝を名乗ったのは、それ以前の後漢)王朝とはまったく関連をもたなかった[1]。その点では他の僭称者と同様だが、呉は四代五十数年にわたって国が存続し三国時代の三国の一つとして認められたため、普通には僭称とされていない。

ローマ教皇の場合、教会勢力が分裂して複数の教皇が併立することがある。この場合、その一方は教皇位を僭称していたという意味で、対立教皇と呼ぶ。ただし、複数の教皇のどちらを正統とし、どちらを僭称とみなすかという区分はしばしば曖昧である。

日本天皇の場合、治承・寿永の乱の際には平家に擁されていた安徳天皇と京都の後鳥羽天皇が併存した。平家の側では後鳥羽天皇を認めず、また後鳥羽天皇側では安徳天皇はあくまで「旧主(前天皇)」とみなされていた。南北朝時代には京都の北朝と吉野などの南朝がそれぞれの天皇を擁して対立していた。北朝側からは南朝の天皇は「南主」と呼ばれて皇位の僭称者とみなされていたし、南朝側から見ると北朝の天皇こそが僭称者にすぎなかった。

類似した事例[編集]

また日本では特に戦国時代などに、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称するケースもある。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つであるが、正式に叙任を受ける方が少数だったこともあり、批判的な意味の強い「僭称」とせず単に「自称」と記すことも多い。詳しくは武家官位を参照。

君主を僭称したとされている者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ それに対して、同時代の劉備の帝室に連なる血統を打ち出すことによって、自ら名乗った皇帝位の正統性を主張した。曹丕は後漢の皇帝から禅譲されるという形式で皇帝に即位するという採ったことにより、自らの正統性を打ち出していた。

関連項目[編集]