エルサレム王国

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エルサレム王国
Regnum Hierosolimitanum (ラテン語)
Roiaume de Jherusalem  (古フランス語)
Regno di Gerusalemme (イタリア語)
Βασίλειον τῶν Ἱεροσολύμων (ギリシャ語)
ファーティマ朝
セルジューク朝
1099年 - 1187年
1192年 - 1291年
アイユーブ朝
マムルーク朝
キプロス王国
エルサレム王国の国旗 エルサレム王国の国章
(国旗) (国章)
エルサレム王国の位置
近東の地図(1135年)
白色の地域がエルサレム王国
公用語 ラテン語
言語 古フランス語
イタリア語
アラビア語
中世ギリシャ語
西方アラム語英語版
ヘブライ語
国教 カトリック
宗教 ギリシャ正教
シリア正教
イスラム教
ユダヤ教
ドゥルーズ派
首都 エルサレム
(1099年 - 1187年、1229年 - 1244年)

ティルス
(1187年 - 1191年)

アッコ
(1191年 - 1229年、1244年 - 1291年)
国王
1099年 - 1100年 ゴドフロワ・ド・ブイヨン
(聖墓守護者)
1100年 - 1118年ボードゥアン1世
1285年 - 1291年アンリ2世
人口
1131年250,000人
1180年480,000 - 650,000人
変遷
第一回十字軍 1095年 - 1099年
エルサレム占領1099年
第1次エルサレム陥落英語版1187年10月2日
第三回十字軍1189年 - 1192年
第六回十字軍1228年 - 1229年
男爵十字軍英語版1239年 - 1241年
第2次エルサレム陥落1244年7月15日
アッコの陥落1291年5月18日
通貨ベザント
現在イスラエルの旗 イスラエル
ヨルダンの旗 ヨルダン
 エジプト

エルサレム王国(エルサレムおうこく、1099年 - 1291年)は、11世紀末に西欧の十字軍によって中東パレスチナに樹立されたキリスト教王国で、十字軍国家の一つである。

概要[編集]

ローマ教皇の呼びかけに呼応して聖地エルサレムへ向かった第1回十字軍は、1099年エルサレムを占領し、十字軍の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墓の守護者)に任ぜられた。これはゴドフロワが、キリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからである。ゴドフロワはエルサレムを拠点に残存するムスリム勢力の駆逐や農村の襲撃を行ったが、1100年にエルサレムで没した。弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。こうして十字軍国家「エルサレム王国」が誕生する。

エルサレム王国ほか十字軍国家の版図(薄黄は1160年頃のエルサレム王国の版図、濃黄は1229年のエルサレム王国の版図)

エルサレム王は当初は十字軍によって征服されたエデッサ伯国、アンティオキア公国トリポリ伯国といった十字軍国家に対する宗主権も有していた。イタリアの都市国家であるヴェネツィアジェノヴァピサヨーロッパとの海上交通や兵站路を確保するとともにレバント貿易に従事した。

元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍であり、現地に建てられた諸侯国もエデッサ伯国(ブローニュ伯など北フランス諸侯)、アンティオキア公国(南イタリアノルマン人諸侯)、トリポリ伯国(トゥールーズ伯など南フランス諸侯)とそれを反映し、お互いに対立していた。さらに、現地生まれの諸侯は異教徒と融和し共存を目指し始めたのに対し、新来の十字軍や教会関係者はムスリムとの戦闘を要求したため、王国の方針は常に定まらなかった。エルサレム王国は近隣のムスリム都市ダマスカスと協力し、聖地騎士団の活躍により何とか領土を維持していたが、1144年セルジューク朝の武将ザンギーにエデッサ伯国を奪回され(エデッサ包囲戦英語版)、これに対して派遣された第2回十字軍が成果を収めず撤退し、ダマスカスがザンギーの息子ヌールッディーンに支配されたため、状況はいっそう悪化した。

その後、弱体化したエジプトファーティマ朝に対して攻勢をかけたが、ヌールッディーンの部将シール・クーフに阻まれ、結局エジプトはシール・クーフの甥でムスリム勢力の英雄サラーフッディーン(サラディン)の支配下に入り、エルサレム王アモーリー1世が没したため、王国はサラディンの強力な圧力を受けることになった。アモーリー1世の死後、跡を継いだボードゥアン4世は病気により跡継ぎが望めず、後継をめぐって新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いが顕著になった。

1187年、ヌールッディーンの遺志を継いだサラディンがヒッティーンの戦いでエルサレム王ギー・ド・リュジニャンを破り、聖地エルサレムを奪回した。エルサレム王国はパレスチナの海岸部に追い詰められ、第3回十字軍が駆けつけてきたが、聖地再占領はできなかった。その後、第6回十字軍ではシチリア王国に育ちアラビア語に堪能な異色の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉によってエルサレムを回復したが、1244年にはそれも失われた。

その後もパレスチナの十字軍国家は、エジプトのアイユーブ朝アッコ港周辺に追い詰められながら、エルサレム王国の名で存在し続けたが、1291年にエジプトのマムルーク朝によってアッコを落され(アッコの陥落)、完全に滅亡した。

人々[編集]

王国内は民族的・宗教的・言語的に多種多様の人々で溢れかえっていたが、十字軍戦士や彼らの子孫たちはカトリック教徒のごく少数の権力者で占められていた。彼らはヨーロッパの母国よりさまざまな文化や組織体制などをエルサレムに持ち込み、王国を通した家系的・政治的繋がりによってヨーロッパ人と交流した。また王国の住民は王国誕生前からその地に存在していた文化や住民から影響を受けた東方的な文化なども受け継いだ。王国内の住民の大多数は中東出身のギリシャ人シリア人キリスト教徒やスンニ派シーア派のイスラム教徒であった。その多くが下級住民とされていたギリシャ人やシリア人は、それぞれギリシャ語・アラビア語を好んで用い、十字軍戦士としてフランスから来た者は古フランス語を用いたとされている。また少数ではあるが、ユダヤ人サマリア人も居住していたとされる。

歴史[編集]

第1回十字軍と王国の始まり[編集]

1095年、教皇ウルバヌス2世クレルモン公会議を開催し、セルジューク朝の侵攻に悩まされていた東ローマ帝国を支援する目的で第1回十字軍遠征を取り決めた。しかし遠征の目的は東ローマ帝国の支援から、聖地奪還へとすぐに変わった。東ローマ帝国とアナトリア半島シリアの領有権をめぐって、争っていたイスラム側の強国大セルジューク朝が1092年に分裂し、多くの継承国家がアナトリアシリア地域に誕生した。アナトリア地方はクルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝が支配し、シリア地方はトゥトゥシュが支配した。1095年にはトゥトゥシュがなくなり、彼の息子たちがダマスカスアレッポを別々に支配し、シリアはお互い対立するセルジュークの諸侯たちによって細分化されてしまった。そんなイスラム諸国は当時お互い不和な関係にあり、連携などはとれるような状況になかった。それゆえ、十字軍はイスラム諸国のバラバラな抵抗を撃破し、十字軍遠征を成功させエルサレム王国の建国ができた[1]

この頃、エジプトとパレスチナ地方はアラブ系シーア派国家であるファーティマ朝が支配していた。しかし11世紀後半、地中海沿岸部に侵攻してきたセルジューク朝がファーティマ朝と衝突するようになると、現地に住むキリスト教徒や聖地巡礼者は混乱の渦に巻き込まれた。1073年、ファーティマ朝はセルジューク朝にエルサレムを奪われた[2]が、1098年にはセルジューク系の小国アルトゥク朝からエルサレムを奪還した。そしてこの直後、十字軍がエルサレムに来襲するのだった[3]

1099年にエルサレムを制圧した十字軍は、第1回十字軍の指導者ゴドフロワ・ド・ブイヨンをエルサレム王国初代統治者とした。

1099年6月、十字軍はエルサレムに到着した。彼らはエルサレム周辺の諸都市(ラムラロードベツレヘムなど)を制圧し、7月15日には遂にエルサレムを制圧した[4]。7月22日には聖墳墓教会を設立し、エルサレムを中心に新たな王国、エルサレム王国を建国した。そして国王を任命する時、国王候補に2人の貴族が選ばれた。第1回十字軍の指揮官の1人で南仏諸侯の代表であったゴドフロワ・ド・ブイヨントゥールーズ伯レーモン4世の2人である。レーモン4世はゴドフロワより裕福であり有力な貴族であったが、彼は国王への推戴を拒否した。国王への任命をひとまず拒否することで、自身の信心深さを示そうと試み、また彼の推戴に反対する貴族が出てくるのを待ち望んでいたのかもしれない[5]。一方、十字軍遠征軍の中でより人気だったゴドフロワは国王への推戴を拒むことなく受け入れ、十字軍・王国の指導者の座を手に入れた。しかし敬虔深かったゴドフロワは、キリストが殉教した地で自身を国王と名乗ることを控え、Advocatus Sancti Sepulchri(日本語では「聖墳墓守護者」と称されることが多い)と名乗っていたと広く知られている。しかし、この称号は彼でない別の人物が書いた手紙の中でしか用いられていない。それどころか、ゴドフロワは自身のことをprincepsのようにより曖昧に表現していた。またウィリアム・オブ・ティルスの文献には、イエス・キリストがイバラの王冠英語版を被せられた地での戴冠式をゴドフロワは拒んだと記されている[6]Robert the Monkが十字軍と同時期に記した著作のみが、ゴドフロワをと称している[7][8]。ゴドフロワはエルサレム奪還の一ヶ月後の8月12日、アスカロンの戦いファーティマ朝を撃破したことで更なる名声を得た。しかしゴドフロワとレーモン4世との不和によりアスカロンを攻め落とすことはできなかった[9]

聖地にキリスト教国を建国することができた十字軍だったが、建国の矢先に雲行きの怪しい出来事が起きた。教皇特使としてエルサレムに赴いたピサ大主教ダングベルト・オブ・ピサがゴドフロワ王に対してエルサレム王国領を教皇に差し出すよう要求してきたのだ。教皇がエルサレムの直接支配を望んでいたからだ。当時の歴史家ギヨーム・ド・ティールによると、ゴドフロワはダングベルトが目指した「カトリック教会による聖地支配権の確立」の試みを支援したという。カトリック教会のエルサレム支配権と引き換えに、ゴドフロワは他の1つか2つの都市の支配権を要求し、またその都市を征服するための更なる遠征の実施を取り決めた[10]。そしてゴドフロワは取り決め通り遠征を行い、エルサレム王国の領域はさらに広がった。ヤッファハイファティベリアなどの諸都市を征服し、他の多くの都市をエルサレム王国の属国に組み込んだ。そして属国支配体制英語版を整え、ガラリヤ公国英語版ヤッファ=アスカロン伯国などを設立した。しかしゴドフロワの治世は長くは続かず、1100年に病で亡くなった。ゴドフロワの死後、彼の弟であるブローニュ伯英語版ボードゥアンは、ゴドフロワの死後エルサレム王国の支配権を獲得せんと試みていたピサ大主教ダングベルトを圧倒することに成功し、自身を「King of the Latins of Jerusalem(エルサレムのラテン人における王)」と称した。ダングベルトはボードゥアンに対して妥協し、エルサレムではなくベツレヘムで彼に戴冠した。しかし、エルサレムは結局教皇の支配下に置かれることはなかった。エルサレムにおけるカトリック教会の支配構造は君主による世俗的権力の元で確立し、カトリック教会は東方正教会シリア正教会の上位に立った。また正教会は自身の権力構造を保った。カトリック教会の元には、4つの付属司教区と多数の司教区が設立された[11]

王国の拡大[編集]

ボードゥアン1世の時代、エルサレム王国はさらに版図を広げた。ヨーロッパ人入植者も増加し、1101年の十字軍により王国の軍事力も増強された。ボードゥアンは1115年にヨルダン側の向こう側英語版を征服した後にフランク人や現地のキリスト教徒らをエルサレムに住まわせたことで人口はさらに増加した[12]。またイタリアの諸都市国家や信仰心に熱いノルウェー国王シグルズ・マグヌスソン英語版などの支援を得て、ボードゥアン1世は次々に都市を征服した。1104年には港湾都市アッコ、1110年にはベイルート、1111年にはシドンを獲得した。そしてボードゥアンはファーティマ朝の侵攻を3度に渡るラメラでの戦いや王国南西部での戦闘で迎え撃ち、また1113年には、ダマスカスやモースルから王国に侵攻してきたセルジューク朝の軍勢をen: Battle of al-Sannabraで撃破した[13] 。ボードゥアン1世の活躍について、アメリカの歴史家トーマス・F・マッデン英語版氏は『ボードゥアン1世は真の王国建国者であり、薄弱な諸侯間の連携で成り立っていたエルサレム王国を強固な封建国家へと作り替えた者である。彼の素晴らしい才能と勤勉さをもってして、強力な王権を築き上げ、パレスチナ沿岸部を制圧し、十字軍貴族らを調和させ、近隣のイスラム諸国に対抗できる強固な国境を作り上げた』と述べている[14]

エルサレム王ボードゥアン1世の葬儀の様子を描いた挿絵。(15世紀にフランスで記された歴史書en: Passages d'outremer の一部。)

ボードゥアンはアルメニア人貴族の娘:アルダ英語版と結婚した。エデッサのアルメニア人コミュニティーからの支援を受けるためであった。しかし彼らの支援の必要がなくなると、ボードゥアンはアルダを脇に追いやった。そして1113年にはシチリア王国の摂政でシチリア伯ルッジェーロ1世の未亡人アデライデ・デル・ヴァスト英語版と結婚(重婚)した。しかし貴族の反対などにより1117年ごろ離婚した。アデライデとルッジェーロの息子でのちにシチリア王となるルッジェーロ2世は、アデライデに対するボードゥアンの冷たい仕打ちを忘れることはなく、その後数十年にわたってエルサレム王国が必要としていた海上における軍事支援を一切行わなかったという[15]

1118年、エジプト遠征の最中にボードゥアンは亡くなった。ボードゥアンには息子がおらず、エルサレム王国は彼の兄であるウスタシュ3世に譲り渡された。ボードゥアン1世やゴドフロワ・ド・ブイヨンと共に十字軍に参加していたウスタシュ3世であったが、彼はエルサレム王位に関心がなく、ボードゥアン1世の縁戚(従兄弟とも)のボードゥアン・ドュ・ブュールがボードゥアン2世としてエルサレム王に就任した。ボードゥアン2世は有能な君主であり、ファーティマ朝やセルジューク朝の侵攻を良く食い止めた。しかし1119年、エルサレム王国の属国の1つであるアンティオキア公国アジェ・サンギニスの戦い英語版アルトゥク朝に敗れて弱体化し、1122年にはボードゥアン自身がアレッポのアミールによって身柄を拘束され、1124年まで捕虜生活を送った。身柄を解放されたボードゥアン2世は1125年にアザズの戦い英語版セルジューク朝ブーリー朝アルトゥク朝連合軍を撃破し、エルサレム王国はアジェ・サンギニスでの敗戦で失ったシリア地域における影響力を取り戻すことができた。ボードゥアン2世の治世下において、ホスピタル騎士団テンプル騎士団といった騎士修道会が設立され、ナーブルス公会議英語版(1120年開催)にてエルサレム王国で最も古い成分法が制定され、ヴェネツィア共和国とエルサレム王国との間で商業的な協定であるen: Pactum Warmundi(1124年)が締結された。この協定によりヴェネツィア共和国からの更なる軍事的支援をもってして、王国は同年ティルスを制圧した。ボードゥアン2世は自身が摂政として影響力を発揮することで、エルサレム王国の影響力はエデッサ伯国やアンティオキア公国にまで広がったのだが、ボードゥアン自身が捕虜としてイスラム諸国に囚われていた際、エルサレム王国は他国と同様に摂政により統治されていた[16] 。ボードゥアン2世には4人の娘がおり、1131年にボードゥアン2世が亡くなると、長女のメリザンド英語版が王位を継承した。メリザンドはフルク5世と結婚し、夫婦両王としてエルサレムを統治した。1143年、フルク5世が亡くなると、メリザンドは息子ボードゥアン3世とエルサレム王国を共同統治した[17]

エデッサ・ダマスカスと第2回十字軍[編集]

1922年版のフランス語辞書プチ・ラルースに描かれた十字軍兵士の挿絵。

ボードゥアン2世の跡を継いでエルサレム王となったアンジュー伯フルク5世は、即位後エルサレム王国をアンジュー帝国の一地域として編入した。在地貴族からすると外国人の王であるフルクの支配をエルサレムの貴族皆が認めていたわけではなかった。1132年、アンティオキア・トリポリ・エデッサの全ての属国は自身の独立を主張し、フルク5世による属国に対する宗主権行使を認めない構えを示した。属国の反抗にあったフルク5世は、戦闘でトリポリ伯国を撃破し、アンティオキア公国に対しては彼の親戚のレーモン・ド・ポワティエとメリザンドの姪でアンティオキア女公のコンスタンスとを結婚させることで自身を公国の摂政の立場に置き、両国の反抗を阻止した[18]。一方その頃、エルサレム本国でも反乱が起きていた。1134年、フルク5世の親アンジュー政策に反発したエルサレム王国土着の貴族、ヤッファ伯ユーグ2世英語版アスカロンのムスリム守備隊と連携してフルクに対して反乱を起こたのだ。ユーグは当人欠席のまま有罪判決を受けるなどし、そんな2人の様子を見たラテン教会はフルクとユーグの仲介をして両人の和解に向けた活動を行った。そんな中、ユーグ2世の暗殺未遂事件が起こった。この暗殺未遂事件はフルク5世が命じたものとされており、フルクは非難を受けた。フルク5世はこのスキャンダルで力を失い、代わってフルクの妻で先王ボードゥアン2世の長女であるメリザンド英語版 と彼女の支持者がエルサレム王国で力を持つようになった[19]。それ以降、フルク5世はメリザンドに対して上手に出ることが出来なくなり、重要でない物事を行うときですら、彼女の助言・知識無しでは済ませられなくなったという[20]

フルク5世はその後、更なる危機に晒されることになる。ムスリムの統治者ザンギーの台頭である。アレッポモースルの統治者ザンギーダマスカス制圧のために動き始めたのだ。この3地域が統一されれば、エルサレム王国の勢力拡大に対して大きな障壁となり得るため、エルサレムにとってザンギーの台頭は大きな脅威となった。1137年から1138年の短期間にかけてエルサレム王国に干渉していた東ローマ帝国の皇帝ヨハネス2世コムネノスは、全ての十字軍国家に対する帝国宗主権を主張していたために、ザンギー朝の十字軍に対する脅威に何の対応もとらなかった。1139年、エルサレム王国とダマスカスのイスラム王朝は迫り来るザンギーに対抗するため同盟を結んだ。フルク5世はこの間にイベリン城英語版カラク城をはじめとする数多くの城砦を築いた[21]。1143年にフルク5世とヨハネス2世が亡くなった後、ザンギーはエデッサ伯国に侵攻し、1144年には遂にエデッサが陥落英語版した。フルク5世の没後エルサレム王国を統べていたメリザンドは、王国の重臣マナセス・ド・イエルジュ英語版をエルサレム軍総大将に任命した。しかし、1146年ザンギーが暗殺されるという好機に恵まれたにも関わらず、にも関わらずエデッサをザンギー朝から奪還することはできなかった[22]。エデッサ伯国の陥落という知らせはヨーロッパ中に衝撃を与え、結果的に第2回十字軍という新たな遠征が企図される原因となった。

1148年7月、アッコにて聖地に新たに馳せ参じた十字軍諸侯たちにより軍議英語版が開催された。この会議でフランス王ルイ7世神聖ローマ皇帝コンラート3世エルサレム王ボードゥアン3世・エルサレム王国摂政メリザンド・その他の十字軍諸侯らと会談し、ブーリー朝の本拠地ダマスカスを攻撃することが取り決められた。ザンギーの死後、ザンギー朝は彼の息子らにより分割されていたためにもはやブーリー朝の脅威ではなかった。それゆえにブーリー朝はエルサレム王国ではなく、ザンギーの息子でアレッポのアミールであるヌールッディーンと同盟を結んでいた。そんなブーリー朝は数十年前にエルサレムを攻撃したことがあったため、エデッサを陥落せしめた北方のイスラム諸王朝よりも、ブーリー朝の方が最良の攻撃対象と見做されたのかもしれない。アッコ会議での取り決め通り、1148年7月24日、十字軍はダマスカス攻城英語版を開始した。十字軍のダマスカス包囲戦は失敗に終わり、7月28日には撤退した。十字軍内に裏切り・収賄の噂が立ち、コンラート3世がエルサレム諸侯の裏切りに遭っていると思い込んだのが原因とされる。如何なる理由であれ、フランス軍とドイツ軍は自国に帰還してしまい、数年後にはダマスカスはヌールッディーンの完全なる支配下に入った[23]

エルサレム内戦期[編集]

第2回十字軍の失敗はエルサレム王国に大きな悪影響を及ぼした。ヨーロッパ諸侯がエルサレムへの大規模な遠征軍の派遣を躊躇し始めたのだ。それゆえに、第2回十字軍から数十年に渡ってエルサレムには小規模な軍勢しかやって来なくなった。一方、ムスリム世界はヌッルーディンの下で徐々に統一され始め、1149年にはイナブの戦いアンティオキア公国の軍勢が撃破され、1154年にはダマスカスが制圧された。ヌッルーディンは非常に敬虔なイスラム教徒であり、彼の治世下において、ムスリム世界の精神的・政治的統一の障害となっていたエルサレム王国に対して反撃することはジハードと見做されていた[24]

現在のダビデの塔(2005年3月撮影)

そんな中、エルサレムでは国王のボードゥアン3世と摂政のメリザンド英語版との間で確執が起き、王国は動揺していた。メリザンドは重臣のマナセス・ド・イエルジュや彼女の息子のヤッファ伯アモーリー、フランク人騎士でナーブルス領主のフィリップ・ド・ミリー英語版イブラン家の支援を受けていた。対するボードゥアン3世は、アンティオキアやトリポリにおける紛争を調停することで彼のメリザンドからの独立を主張し、またマナセスが権力を握るのを恐れたイブラン家の兄弟たちの支援も受けた。1153年、ボードゥアンは自身をエルサレムでただ1人の王として自ら戴冠し、自らが王国の北部を、メリザンドが王国の南部を支配することで決着をつけた。しかしボードゥアンもメリザンドもこの状況が長くは続かないだろうことを察し、その後すぐにボードゥアンはメリザンドの領地に侵攻した。彼女の重臣マナセスを撃破し、ダビデの塔に立て篭もったメリザンドを包囲した。メリザンドは降伏し、ナーブルスに退去した。しかしボードゥアンはメリザンドを王国の摂政に任命し筆頭顧問としたため、メリザンドは一定の影響力を保持し続けたとされる。特に彼女は王国における聖職関係者の任命などを執り行ったとされる[25] 。1153年、王国の建国当初よりファーティマ朝によるエルサレム王国に対する襲撃の拠点となっていたアスカロンを攻め落とし英語版た。確保したアスカロンの砦はヤッファ伯国に編入され、ボードゥアンの兄弟のアモーリーが領有した[26]

ビザンツとの同盟とエジプト侵攻[編集]

アスカロン制圧によって、エルサレム王国の南部国境地帯は安定した。かつてはエルサレム王国の主要な脅威のひとつであったファーティマ朝も、この頃になると内部分裂で国力を大幅に下げて王国の属国のひとつにまで成り下がっていた。しかし王国東部ではヌッルーディンが活発に活動しており、依然脅威となっていた。ボードゥアン3世は勢力を増すムスリム勢力に対抗するためにビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスと同盟を結んだ。この際、ボードゥアンはマヌエルの姪テオドラ・コムネノ英語版と結婚し、マヌエルはボードゥアンの従姉妹マリア・ド・アンティオキアと結婚した[27]

1162年、子供を持つことなくボードゥアンがこの世を去った。(メリザンドはこの1年前に亡くなっていた。)エルサレム王国はボードゥアンの弟アモーリーに引き継がれ、アモーリー1世として即位した。1163年、混迷を極めたファーティマ朝はエルサレム王国に対する貢納金の支払いを独断で停止し、ヌッルーディンに支援を求めるべく使者を派遣した。ファーティマ朝の勝手な対応に対し、エルサレム王国はファーティマ朝遠征を決意。1163年、アーモリー1世は軍を率いてファーティマ朝統治下のエジプトに遠征英語版した。しかし、エジプト人がビルベース英語版付近でナイル川を反乱させたことにより十字軍は撤退を迫られ、初戦は失敗に終わった。当時のファーティマ朝の大臣英語版シャーワルは再びヌッルーディンに援軍要請を送り、ヌッルーディンもそれに応えて将軍シール・クーフ(サラディンの父である)をエジプトに派遣した。しかし、シャーワルは突然鞍替えし、アモーリー1世と同盟を締結し、1164年には両者はシール・クーフが立て篭もるビルベースを包囲した。その頃王国北部のアンティオキア公国がヌッルーディンの侵攻を受け、アンティオキア公ボエモン3世英語版トリポリ伯レーモン3世ハリムの戦い英語版でヌッルーディンの軍勢に撃破されるという事件が起きたため、アモーリー・シャーワルはビルベースの包囲を解いた。ヌッルーディンはこの時アンティオキア公国を陥落させたものの、ビザンツ皇帝マヌエル1世が派遣した大規模なビザンツ軍の来襲によりアンティオキアから撤退したとみられる。1166年、ヌッルーディンは再びシール・クーフをエジプトに派遣した。この際もシャーワルは十字軍と同盟し、十字軍はアル・バベインの戦い英語版でシール・クーフ軍と戦った。そしてシール・クーフは十字軍を打ち負かした。しかし戦闘後シール・クーフ、十字軍ともども撤退し、シャーワルは依然十字軍と同盟を結んだまま、十字軍の駐屯兵とともにカイロに留まった[28]。その後もアモーリーは先述のテオドラ・コムネノ英語版と結婚することでビザンツ帝国との同盟関係を強固なものとし、ギヨーム・ド・ティルス率いる使節団をコンスタンティノープルに派遣して軍事遠征の協力を求めて協議した。しかし協力を求めた当の本人であるアモーリーはビザンツ帝国の海軍支援を待つことなくエジプトに攻め込み、ビルベースを略奪した。彼はこの行為で何も得ることはできず、そればかりかシャーワルを刺激し再びヌッルーディン側に鞍替えさせる原因となってしまった。その後すぐにシャーワルは暗殺され、また1169年にはシール・クーフも亡くなった。シール・クーフのファーティマ朝救援事業は彼の甥サラディンが引き継ぐこととなった。同年、マヌエル1世は300隻のビザンツ艦隊をアモーリー支援のためにエジプトに派遣し、ダミエッタがその攻撃の的となった。しかしこのビザンツ艦隊はたった3ヶ月分の食糧しか搭載していなかった。兵糧が尽きた十字軍・ビザンツ海軍は遠征の失策をお互い非難しあった。だが両国ともに、エジプト奪還のためにはお互いの支援が必要であることを認識していたため、エルサレム - ビザンツ間の同盟は維持され、更なるエジプト遠征も企図された。しかしこの遠征は最終的には実行されなかった[29]


十字軍のエジプト遠征は上述の通り失敗に終わり、サラディンはエジプトでスルタン英語版の座に就いた。その後すぐ、サラディンは旧主ヌッルーディンからの独立を試みた。ヌッルーディンは独立を画策するサラディンに対して遠征を行うべく各地から軍勢を招集していたのだが、1174年に亡くなった。ヌッルーディンの死により、サラディンはヌッルーディン側の勢力に対して優位な立場に立ちヌッルーディンの旧領シリアに対して影響力を行使し始めることができた[30] 。1180年、ビザンツ皇帝マヌエル1世がなくなり、エルサレムは最大の同盟者を失った。

エルサレムの陥落と第3回十字軍[編集]

1174年にヌールッディーンとアモーリー1世が没した。ヌールッデーンの死去によりサラディンの勢力はシリアにも及び、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。

一方、アモーリー1世の死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだボードゥアン4世はらい病が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリー1世には他に息子はおらず、王位継承権を持つ者としてシビーユイザベルの2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯レーモン3世がいた。

従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。

宮廷派の中心は王母アニェスであり、後継候補として実子シビーユを立て、これに新来十字軍士のエメリー、ギー・ド・リュジニャンリュジニャン家兄弟、トランスヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨン、旧エデッサ伯ジョスラン3世(アニェスの弟)が加わっている。一方、貴族派はトリポリ伯レーモン3世を中心として、後継候補としてイザベルを立て、これに前王妃マリア・コムネナ(イザベルの実母)、ボードゥアン、バリアンのイブラン家が加わっていた。

1176年からボードゥアン4世は親政を始め、ジョスラン3世とレーモン3世のバランスを取りながら国政を運営し、シビーユにモンフェラート侯ギヨームを結婚させ後継者としたが、間もなくギヨームが妊娠したシビーユを残して没し(生まれた子供が後のボードゥアン5世)、後継争いは再び混沌としてきた。

1177年のモントジザールの戦いでサラディンを破り、しばらく平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。貴族派は、シビーユとボードゥアン・ディブランの結婚を狙ったが、アニェスら宮廷派はシビーユをギー・ド・リュジニャンと結婚させてギーを摂政に任命し、さらにイザベルをルノー・ド・シャティヨンの継子であるトロン領主オンフロワ4世と結婚させて、貴族派からの切り離しを狙った。ギヨーム・ド・ティールの年代記ではアニェスの影響力によるものとしているが、現在の研究では王位継承権を持つレーモン3世や勢力拡大を狙うイブラン一族を警戒したボードゥアン4世の意向であると考えられている。

1183年にルノーの挑発に怒ったサラディンが、ルノーの居城ケラク城で行われていたイザベルの結婚式を襲うと、ボードゥアン4世は病床にも拘わらず輿に乗って出陣したが、この時ギーの能力に不満を持ち、シビーユ夫妻の継承権を奪って5歳の甥ボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し、代わりにレーモン3世を摂政とした。

1185年にボードゥアン4世が没するとボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位後1年で早世し、再び後継争いが再燃した。貴族派を中心に諸侯は、シビーユの即位の条件としてギーとの離婚を要求するが、シビーユはいったんこれに同意するものの、即位すると同時にギーを国王に戴冠した。これに対しレーモン3世、ボードゥアン・ディブランなどの貴族派はイザベルを擁立してクーデターを企てたが、イザベルの夫オンフロワ4世が寝返って失敗に終わった。

反対派を排除して権力を握ったギーは、対イスラム強硬派のルノーと組み、サラディンとの対決姿勢を強めた。1186年、休戦条約を犯してルノーはメッカへの巡礼者やキャラバンを虐殺し、残りを捕虜に取った。サラディンの捕虜解放交渉はギーとルノーに無視され、ここに休戦は破れた。レーモン3世はサラディンの圧力もありイスラム勢力との融和を計っていたが、ギーたちはレーモン3世に対してサラディンとの同盟を結んだことを責め、大司教による破門もちらつかせた。レーモン3世は屈してギーと妥協し、1187年7月4日のヒッティーンの戦いでサラディンと激突したが、十字軍は大敗し、ギー、ルノー、テンプル騎士団総長ら多くが捕虜となった。

サラディンはモンフェラート侯コンラート1世が守るティールを除くアッコ、ナビュラス、ヤッファ、トロン、シドンベイルート、アスカロン等を次々と落し、エルサレムに迫った。エルサレムにはバリアン・ディブラン英語版フランス語版の他、わずかな騎士しかいなかったが、「聖地を異教徒に渡すより全滅した方がましだ」「必ず、神の助けがある」といった強硬論が主流を占め、サラディンの降伏勧告に従わず、住民に武装させ抵抗を行った英語版。しかし衆寡敵せず、間もなく降伏、1187年10月2日に開城したが、サラディンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許し、払えず奴隷になった者も多くを買い戻して解放した。

アッコ王国[編集]

その後100年にわたってエルサレム王国はシリア沿岸部を治める小規模な王国として存続した。王国の首都はアッコに移り、ヤッファ・アルスフ・カエサリア・ティール・シドン・ベイルートを含む現在のイスラエル・レバノン中部の沿岸諸都市を統治した。最盛期にはアスカロンやその他の重要な諸都市や内陸部の要塞を領有した。またエルサレム王国はこれまで通りトリポリ伯国やアンティオキア公国を属国として従えていた。1197年、ギーの跡を継いでエルサレム王を継承していたアンリ2世が不運にも亡くなり、イザベラはギーの弟であるエメリー・ド・リュジニャンと四度目の結婚をした。この時既に、エメリーはギーよりキプロス島を相続しており、フリードリヒ皇帝の息子ハインリヒ6世からキプロス王として戴冠されていた。ハインリヒ6世はその後十字軍遠征英語版を敢行したが、その途中で亡くなった。皇帝が遠征途上で崩御したものの、残された十字軍は1198年に本国へ帰還するまでに、ベイルートとシドンを王国のためにムスリム勢力から奪還した[31][32]。そして1198年に十字軍とアイユーブ朝は5年間の休戦条約を締結した[33]

1193年、サラディンが亡くなった。サラディン亡き後のアイユーブ朝は内戦状態に陥り、サラディンの息子たちはアイユーブ朝の広い諸地域の領有権をそれぞれ主張した。ザーヒル・ガーズィーはアレッポを占領し、アル=アジーズはカイロの領し、長男アル=アフダルはダマスカスを占領した。またサラディンの弟サファディン上メソポタミア地方を占領し、サファディンの息子アル=ムアッザム・イーサー英語版カラクOultrejordain地域を有した。1196年、アル=アフダルは、サファディンと同盟を結んだアル=アジーズによりダマスカスから放逐された。しかし1198年アジーズが急死したことを受け、アル=アフダルはエジプトに舞い戻り、残されたアジーズの幼い遺児の摂政として権力を再び握った。ザーヒルと同盟を締結したアフダルは、ダマスカスを占領する叔父サファディンに攻撃を仕掛けたが、失敗した。そしてザーヒルとアフダルの同盟は破棄され、サファディンはエジプトのアフダルに攻勢をかけた。結果、アフダルは敗れ去り、エジプトはサファディンの手に渡った。ダマスカスとエジプトを領有したサファディンは息子のアル=ムアッザムにダマスカスを統治させ、別の息子アル=カーミルに上メソポタミア地方を統治させ、自身はエジプト・シリアのスルタンとして両地域を統治した。ここでアフダルは再びザーヒルと同盟し、ダマスカスに攻め寄せた。しかし、またもやこの兄弟らの同盟が瓦解し、サファディンはアフダルと休戦した。そしてアフダルはサファディンからサムスッタ英語版といくつかの街を領地として与えられ、1202年にはザーヒルがアレッポの領主として叔父のサファディンに臣従した。これにより、アイユーブ朝はサファディンのもとに再び統一されたのだった[34]

ムスリム世界が混乱していたさなか、十字軍はエジプト遠征を画策していた。第3回十字軍が失敗したのち、彼らはアイユーブ朝の本拠地であるエジプトを叩くべく、新たな遠征を計画していたが、この計画は結局崩れ去り、1204年に十字軍は同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル攻め寄せた。そしてこの遠征に参加した十字軍の多くはエルサレム王国にやってくることはなかった。しかし、このことを知る由もないエメリー王は、来たる十字軍遠征に備えて前哨戦としてエジプトに対する襲撃を行った[35]。1205年、エメリー王とイザベル女王が共に崩御し、イザベルとコンラートの娘マリー・ド・モンフェラートがエルサレム女王に即位した。そして1210年にマリーが経験豊富なフランク人貴族ジャン・ド・ブリエンヌと結婚するまでの間ベイルート卿ジャン英語版が摂政として王国を統治した[36]。1212年、マリーが出産と同時に亡くなった後は、ジャン・ド・ブリエンヌがまだ幼い娘イザベル2世の摂政として王国を統治した[37]

第5・6回十字軍とフリードリヒ2世[編集]

1215年、ローマラテラノ宮殿4度目の公会議が開催され、よりエジプトに対する十字軍遠征が取り決められた。そして1217年後半、ハンガリー アンドラーシュ2世オーストリア レオポルト6世がアッコに着陣し、ジャン・ド・ブリエンヌと共にタボス山を含む中東内陸地域を襲撃した。しかしこの襲撃は大した成果を上げなかった[38]。その後ハンガリー軍は中東から撤退したが、残された十字軍兵士たちは港町カエサリアテンプル騎士団の要塞「巡礼者の砦英語版」の再要塞化に取り掛かり、1217年冬から1218年春にかけてこれらの防衛施設を強化した[39]

1218年、第5回十字軍が開始されドイツ人の軍勢がアッコに集結した。十字軍の艦隊はジャン王と共にエジプトへ航行し、5月にはナイル川河口付近の街ディムヤートを包囲した。そして同年8月、十字軍がディムヤートの砦の1つを陥落させた頃にエジプトのスルタンアル=アーディルが亡くなった。同年秋、教皇勅使(en: Pelagio Galvani)を含む十字軍の援軍がヨーロッパより来着した。ディムヤートを包囲する十字軍は食糧不足と疫病蔓延に苦しみ、包囲戦は長期戦にもつれ込んだ。そして1219年、カトリック修道士フランチェスコが当地に現れ、両者間の仲介を買って出て包囲戦の取り止めを強く勧めた。十字軍はアイユーブ朝から提案された「大部分の旧エルサレム王国領の返還という条件付きの30年間にわたる休戦条約」を拒否し、両者間の講話は成立しなかった。結局十字軍はディムヤートを兵糧攻めにし、11月にやっと陥落させることに成功した。アル=カーミルはマンスーラの砦に撤退したが、十字軍は1220年までディムヤートに滞在し続け、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の到着を待ち続けた。一方ジョン王は、彼の不在の隙を狙ってダマスカスから王国に攻勢を仕掛けていたアル=ムアッザムから王国を守るため、短期間の間アッコへ帰還した。1221年、いまだにフリードリヒ2世の到着を待ち侘びていた十字軍は、ディムヤートから出撃しカイロへ進軍した。しかしアル=カーミルがナイル川の堰を崩し洪水英語版を起こしたことで、十字軍は進路を阻まれ足止めを喰らわされた。アル=カーミルはその後進軍を阻まれていた十字軍に攻撃を仕掛け容易く打ち破ると共に、ディムヤートの奪還にも成功した。十字軍が待ち侘びていたフリードリヒ2世はその頃、ヨーロッパから出発すらしていなかったのだった[40]

十字軍が壊滅したのち、エルサレム王ジャンはヨーロッパ各地を訪問し、諸侯らに軍事支援を要請して回った。しかし彼に支援を約束した諸侯はフリードリヒ2世のみだった。フリードリヒは1225年にジャン王の娘イザベル2世と結婚していたからだ。翌年、イザベルはコンラートを出産し、同時に亡くなった。ちなみにコンラートは母イザベルの跡を継いでエルサレム王を継承したが、聖地に足を運ぶことは生涯を通じて1度もなかった。フリードリヒはかつてジャン王に対して、第5次十字軍を率いて聖地へ軍事遠征を敢行すると約束していたものの、結局率いることはなかった。しかし息子コンラートが生誕したことを受けて、彼の有する継承権を通じてエルサレム王位獲得に再び乗り出した。フリードリヒはイタリアに滞在していたアル=カーミルの使者と会談し、カーミルと同盟を結んだ上でダマスカスのアル=ムアッザムに対して攻撃を仕掛けるという計画を立てていた。しかしフリードリヒの艦隊で疫病が流行していたこともあり彼はなかなかヨーロッパを出発できず何度も遠征を順延していた。これが教皇グレゴリウス9世の逆鱗に触れ、フリードリヒは破門されてしまった。結局フリードリヒは、イタリア貴族リッカルド・フィランギェリ英語版リンブルフ公ハインリヒ4世英語版ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァらを名代として艦隊を聖地へと派遣した。艦隊は1227年に聖地に到着し、皇帝の来着を待つ間サイダ海上防壁英語版モンフォール城英語版を修復した。後者はのちにドイツ騎士団の拠点のなった。1228年9月、遂にフリードリヒ帝が十字軍遠征を開始した。そして彼は正式に、自身が幼い息子でエルサレム王位を有するコンラートの摂政であると宣言した[41]

エルサレムの摂政を宣言したフリードリヒであったが、彼はその後ウトラメールの在地貴族と対立に巻き込まれることとなった。在地貴族の中にはフリードリヒ帝がエルサレム王国・キプロス王国を神聖ローマ帝国の影響下に組み込もうとしていることに反発する者が少なからずいたからだ。またキプロス王国の貴族たちに至っては、まだ幼い国王アンリ2世英語版の摂政の座を巡って既に内部分裂していた。キプロス高等法院はベイルート卿ジャン・ド・イブランを摂政に任じていたが、アンリ2世の母アリスリュジニャン家の諸侯たちを摂政に推薦しており、ジャンらと対立していた。そしてこのリュジニャン家はフリードリヒ帝に与していた。かつてフリードリヒの父帝によりリュジニャン家出身の国王エメリーが戴冠されていたからだ。フリードリヒ帝はリマソールでジャンに対して、摂政座の辞任と聖地本土におけるベイルート領の放棄を要求した。ジャンはフリードリヒにそのような要求をする法的権限がないことを主張し、彼の要求を拒否した。フリードリヒ帝はジャンの息子を捕虜として監禁した上で、ジャンに対して十字軍遠征の支援を確約させた[42]

ジャンは結局フリードリヒ帝の聖地遠征に随行したが、フリードリヒ帝の遠征は聖地の者からあまり歓迎されなかったという。彼の数少ない支援者であるシドン伯英語版バリアン・グルニエ英語版はフリードリヒ帝の到着を歓迎して迎え入れた。( 彼は先の十字軍遠征でも彼らに支援を施し、アイユーブ朝に対する大使としての役割を担っていた重要な貴族である。)この頃、十字軍遠征の攻略目標となっていたダマスカスのムスリム統治者アル=ムアッザムがなくなっており、その後をアル=カーミルらが引き継いでいたため、カーミルとフリードリヒ帝の同盟は解消されていた。しかしカミールは、フリードリヒ帝の軍勢が小規模であることや、破門によって十字軍自体が分裂していることを認知していなかったと思われ、再び十字軍から自領を防衛することを回避したかったのだろう。フリードリヒ帝の存在だけで、十字軍は大して戦うこともなくエルサレム、ベツレヘム、ナザレとその周辺の城の奪還に成功した。そして1229年2月、フリードリヒ帝はアイユーブ朝との10年間の休戦とエルサレムのイスラム教徒の信仰の自由と引き換えに、これらの城を正式に取り戻した。しかし、エルサレム総主教ジェラルド・ローザンヌ英語版はこの条約を受け入れず、エルサレムに対して聖務禁止令英語版を発布した。3月、フリードリヒは聖墳墓教会でエルサレム王として戴冠されたが、破門と聖務禁止令の影響によりエルサレムは王国に再統合されることはなく、王国は引き続きアッコから統治された[43]

一方その頃イタリアでは、ローマ教皇がフリードリヒ帝が破門宣告を受けていることを口実に彼のイタリア領に侵攻を開始していた。そしてフリードリヒ帝のかつての義父ジャン・ド・ブリエンヌ率いる教皇軍がイタリア領に侵攻していたのだった。フリードリヒは自領防衛のために帰国を余儀なくされ、1229年聖地を離れた。フリードリヒ帝は 「凱旋という栄誉ではなく、アッコの市民らから投げ込まれた血肉を浴びて」 聖地を後にしたのだった[44]

ロンバルド人と男爵十字軍[編集]

ルイ9世の十字軍[編集]

聖サバス戦争[編集]

モンゴルの来襲[編集]

アッコ陥落[編集]

王国初期における人々の生活[編集]

十字軍社会[編集]

人口[編集]

奴隷制[編集]

エルサレム王国には数えられないほど多くのムスリム人奴隷英語版が居住していたとされる。そしてアッコには非常に大規模な奴隷市場が催されていたといい、この市場は12世紀から13世紀にかけて奴隷を各地に送り届けていたという。イタリア商人の中には、キリスト教徒の奴隷をムスリム奴隷と共に売り捌いていた者もいたとされ、彼らはしばしば非難されていたという[45]。ただし、奴隷制度は捕虜による身代金制度に比べてあまり一般的ではなかったとされ、十字軍の襲撃により多くの人々が戦争捕虜として身柄を拘束され、連年の戦役で捕えられた捕虜達の解放のための身代金が十字軍とムスリム国家との間を頻繁に飛び交ったとされる[46]。またこの地域の住民の多くはムスリム人であったため、ムスリム奴隷の脱走もそう困難なことではなかったとされ、奴隷の脱走は常に奴隷所有者の悩みの種となっていた。そんな奴隷たちにも奴隷から解放される方法がただ一つだけ存在した。それはキリスト教への改宗である。ヨーロッパ・中東のどちらにおいても、キリスト教徒を奴隷として売り払うことは禁止されていたからだ[47]

王国における巡回裁判英語版によって、王国内の奴隷制の枠組みが構築されていた。それらの文書によると、『農奴、動物、またはその他の個人所有の奴隷だけが交易対象として認められている』と記されている。この個人所有物としての奴隷に身堕ちする方法は幾つか存在した。襲撃に遭遇し捕らえられるか、奴隷として生まれるか、または借金返済の形として奴隷とされるか、若くは逃走奴隷を助けるかすると、奴隷身分に落とされた[48]

また、遊牧民族であるベドウィン族は王の所有物としてみなされており、王の保護下に置かれていた。彼らは他の所有物と同じように売り払われたり譲渡されたりしたとされ、12世紀後半ごろにはしばしば、より下級の貴族や騎士修道会の保護下に置かれていた[49]

経済[編集]

エルサレム王国で流通した十字軍貨幣の数々。
• 左 : ドゥニエ硬貨
• 中央 : クーフィー文字が刻まれたベザント硬貨
• 右 : 十字架のマークが刻まれたベザント金貨
初期の金貨はクーフィー体のアラビア文字が刻まれたドゥニエ硬貨を模倣した硬貨であったが、1250年以降、教皇の主張に従いキリストを示す紋章英語版が刻印されるようになった。( 大英博物館所蔵 )

エルサレム王国における都市階層やイタリア商人の存在の影響を強く受けたエルサレム王国は商業的に大いに発展した。パレスチナ地域は複数の交易路の交差点となっていた。そしてこの交易はヨーロッパに対しても行われた。羊毛織物などといった北ヨーロッパの交易品がこの交易路を通じて中東やアジアに向けて輸送され、逆にアジアの公益品が交易路を通じてヨーロッパに輸出された。エルサレムでは特に木綿香辛料貿易がよく行われ、この頃にオレンジ英語版砂糖といった交易品がエルサレムを通じて初めてヨーロッパに伝わった。特に砂糖に関しては、『儀式での使用や健康維持のために人類にとってはなくてはならないものである』と当時の歴史家ギョーム・ド・ティルスによって言及されているほど重宝されていた。王国郊外では、大麦や小麦、豆、デーツ、オリーブ、そしてぶどうなどが栽培された。イタリア商人は、1123年にエルサレム王国と締結したグゥアルムンドゥスの協約英語版をはじめとする王国との商業協約に基づく貿易により莫大な利益を生み出すことができ、この商業的な成功は数世紀後に始まるルネサンスに大いに影響を与えたという。

この頃パレスチナには多くのヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国の植民地英語版が点在したとされ、彼らはその植民地で農業開発を敢行した。彼らはこの地で主に砂糖を生産しヨーロッパに向けて輸出していたという。彼らはアラブ地域やシリア地域からかき集めた奴隷農奴や現地の農奴を働かせ、アラブ人から伝えられたサトウキビを栽培した。そして13世紀にはティルスで大規模砂糖生産産業が勃興した。13世紀を通して、パレスチナ地域では砂糖産業がより発展し、1291年にアッコがムスリム勢力に陥落するまでの間、アッコの港を通じてヨーロッパ中にそれらの製品が免税された上で輸出された。このような砂糖産業はエルサレム王国で初めて行われたとされており、アメリカ大陸でのプランテーション農業による砂糖の大量生産制度英語版の先駆的な出来事であるとみなされている[50]

エルサレム王国は中東各地から貢納金を徴収していたとされる。初期の頃は未征服の沿岸諸都市から、そして後期になるとダマスカスやエジプトといった直接征服はできなかった近隣諸地域の諸国から徴収していた。ボードゥアン1世がOultrejordain地域を併合した後、王国はシリアから王国を経由してエジプト・アラビア半島へ向かうキャラバンからも通行税を徴収した。以上のように、エルサレム王国では貨幣経済が主流となっていたが、これは人的資源の不足にあえいでいた王国が傭兵に金銀を支払うことでその不足を間に合わせていたことを意味する。傭兵を雇うことは当時のヨーロッパ世界ではあまり一般的なことではなかった。王国に雇われた傭兵の多くは十字軍と共に聖地に馳せ参じたキリスト教徒であったとされるが、ターコポール英語版で知られるようなムスリム人傭兵もそれなりに雇用されていたとも考えられている。

教育[編集]

聖墳墓教会の正門.

エルサレムは王国における教育機関の中心地となっていた。聖墳墓教会には学校が併設されており、ラテン語の基本的な読み書き教育が施された[51]。この学校には、貴族の子弟はもちろん、比較的裕福な商人階級の子弟も参加することが許されていたとされ、歴史家のギョーム・ド・ティールはのちにエルサレム王となる王族ボードゥアンと同級生であった可能性も高いとされている。ただし、高等教育を受けるにはヨーロッパの大学英語版に留学する必要があったという[52]。十字軍国家のエルサレムにとって、哲学や神学は軍事に劣る分野であったため、教育機関はあまり発展しなかったからである。しかし、そんな状況にも関わらず、エルサレムの貴族や多くのフランク人たちは高い教養を身につけていることで広く知られていた。エルサレムでは、聖職者や法律家は有り余る程存在したとされ、歴史学・法学・その他の学問分野は、娯楽の一環として王族や貴族らに愛されていたという[53]。エルサレムには多くの蔵書が収められていたされ、古代・中世のラテン語書物のみならずアラビア語書物も多く蔵書されていた。このアラビア語書物の多くは、当時のアラビア人の知識人ウサーマ・イブン・ムンキズ英語版とその従者たちの船が1154年に王国沿岸部に漂着した際に回収された書籍だとされている[54]。また聖墳墓教会はエルサレム王国の写字室としての役割も担っていたとされ、市街には王室憲章やその他の文書の保管庫である大法官英語版も存在した。当時のヨーロッパではラテン語が主流であったのに対して、エルサレム王国ではフランス語やイタリア語の多くの方言が飛び交い、ギリシャ語やアルメニア語、さらにはアラビア語までがフランク人入植者により用いられていたとされる。

芸術と建築[編集]

当時のエルサレムの建築分野で最も著名なものは、ゴシック風に再建築された聖墳墓教会であろう。この再建築により、1149年までに教会内に存在したすべての聖堂は1つの建物に統合された。エルサレム市外での著名な建築物としては城塞や砦がしばしば挙げられ、それらの中でもカラク城モントリオール城英語版イブラン城英語版などがよく知られている。

十字軍時代の芸術は西洋美術ビザンツ美術イスラム美術などの融合により誕生した。そして王国内の大都市には公衆浴場や地下水道などといった公衆衛生的にも発展した施設が多く併設されており、これは同時期の他の地域では見られない特徴であった。また十字軍美術の中でも最も重要な作品の1つとされているのはメリザンド詩篇英語版と呼ばれる装飾写本である。この詩篇はエルサレム王フルク5世の注文によって1135-1143年に制作された写本とされており、現在は 大英図書館で展示されている。絵画やモザイク画は当時の最も一般的な芸術形態であったが、それらの作品の多くは13世紀にマムルークの兵士たちによって破壊された。これらの芸術・建築物の中で最も耐久性のある「砦・城」のみがイスラムの再征服を経て、現在も健在している。

統治体制と法体制[編集]

1187年のエルサレム王国とその属国を記した地図。この頃の王国にはエルサレム王を宗主とする21もの封建領主が存在した。

第1回十字軍遠征を経てエルサレム王国が建国されるや否や、初代国王ゴドフロワ・ド・ブイヨンは家臣たちに封土を分配した。これにより王国内にはエルサレムを宗主国とする多くの封建国家英語版が誕生した。ゴドフロワの後継者たちも同様に、家臣に領土を授与し続けた。そして12-13世紀にかけて、これらの封建領主は増え続け、彼らが持つ重要性も変化していき、また王国内の多くの諸都市は王家の直轄地とされた。エルサレム王はエルサレムの王宮から多くの将校や官吏英語版の支援のもとで王国を統治した。また国王はエルサレムのみならず、アッコ・ナーブルスティルスをはじめとする王国各地の諸都市でも御前会議を開催し統治に勤しんだという。王族ははじめは神殿の丘に居を構えていたが、この丘がテンプル騎士団の拠点として彼らに譲り渡されたのち、ダビデの塔に移ったという。またダビデの塔の他に、アッコにも宮殿を持っていたという。

エルサレム王国では、他のヨーロッパ諸国と異なり、配下の諸将達は自領ではなく王国の首都エルサレムに居を構えることが多かったとされ、エルサレム王は諸侯たちの影響を大いに受けたとされる。そして諸侯たちは司教らと共に高等法院英語版という統治機構を構成し、新しい国王や摂政の選出や徴税、貨幣鋳造、国王への支給金の算定、王国軍の招集などといった多くの政務を司った。またこの法院は王国貴族に対する唯一の司法機関でもあり、殺人・強姦・反逆などといった諸罪や、脱走奴隷の回収・レーエン(知行権)の売買・兵役不履行などといったより単純な封建領主に関わる紛争などにも対処した。エルサレム王国における法律は、初代国王ゴドフロワ・ド・ブイヨンによって策定されたと言われているが、法の大部分はボードゥアン2世が1120年に開催したナーブルス会議(en: Council of Nablus)の際に策定された。ヘブライ大学の教授ベンジャミン・Z・ケダル英語版氏はこの会議について、『ナーブルス会議で策定された法律は12世紀の終わりと共に徐々に効力を失い、13世紀には使われなくなった。』と主張している。一方Marwan Nadar氏はこの説に異議を唱え、『この法律はどの時代においても王国内では有効とされていた。』と主張している[55]。またエルサレム王国の巡回裁判英語版と呼ばれる当時のエルサレム王国で最大の判例集として知られる法律集においても、13世紀中頃に編纂されたとされているもののその多くの判例は12世紀の出来事に依拠していると考えられている[56]

王国にはより下級の法院も存在したとされ、特に 「Cour des Bourgeois」 と呼ばれる法廷では一般民衆や非ラテン人が関与した小規模な犯罪行為( 暴行・窃盗など)や、法的権利をほとんど有しない非ラテン人同士の紛争などを裁いたという。また王国沿岸部の都市には、「Cour de la Fond」 ( 商業活動における紛争を解決するための商人向けの法廷 )や 「Cour de la Mer」 ( 海軍将校を裁く法廷 )といった特殊法廷が設置されていた。現地のイスラム人や東方正教信者たちを裁く法院がいつまで機能していたのかはよく分かっていないが、地方の諸村では ra'is と呼ばれる法的権威を有する現地民がその役目を果たしたものと考えられている。また、「Cour des Syriens」 と呼ばれる法院も存在したとされ、この法院では現地キリスト教徒が関わる非犯罪事項について裁かれたとされる。犯罪行為を犯した非ラテン人は程度が軽ければ「Cour des Bourgeois」 で、程度が重ければ高等法院に送られて処罰が決められた[57]

また建国初期ごろのエルサレム王国では、イタリア人居住者はほぼ完全な自治権を付与されていた。第1回十字軍の際に十字軍がヴェネツィアやジェノヴァの海軍力や軍事力に大いに助けられたからだ。彼らが与えられた自治権にはイタリア人独自の司法行使権も含まれていたとされるが、彼らの司法権の管轄となった案件の種類については時代によって異なった[58]

エルサレム王はこれらの高等法院の院長とみなされていた。

王国の遺産[編集]

脚注[編集]

引用[編集]

  1. ^ Holt 1989, pp. 11, 14–15.
  2. ^ Gil 1997, pp. 410, 411 note 61.
  3. ^ Holt 1989, pp. 11–14.
  4. ^ The First Crusade is extensively documented in primary and secondary sources. See for example Thomas Asbridge, The First Crusade: A New History (Oxford: 2004); Christopher Tyerman, God's War: A New History of the Crusades (Penguin: 2006); Jonathan Riley-Smith, The First Crusade and the Idea of Crusading (Pennsylvania: 1991); and the lively but outdated Steven Runciman, A History of the Crusades: Volume 1, The First Crusade and the Foundation of the Kingdom of Jerusalem (Cambridge: 1953).
  5. ^ Tyerman 2006, pp. 159–160.
  6. ^ William of Tyre, A History of Deeds Done Beyond the Sea, trans. E.A. Babcock and A.C. Krey, Columbia University Press, 1943, vol. 1, bk. 9, ch. 9.
  7. ^ Riley-Smith (1979), "The Title of Godfrey of Bouillon", Bulletin of the Institute of Historical Research 52, pp. 83–86.
  8. ^ Murray, Alan V. (1990), "The Title of Godfrey of Bouillon as Ruler of Jerusalem", Collegium Medievale 3, pp. 163–178.
  9. ^ Asbridge, pg. 326.
  10. ^ William of Tyre, vol. 1, bk. 9, ch. 16, pg. 404.
  11. ^ Hans Eberhard Mayer, The Crusades, 2nd ed., trans. John Gillingham (Oxford: 1988), pp. 171–76.
  12. ^ William of Tyre, vol. 1, bk. 11, ch. 27, pp. 507–508.
  13. ^ Thomas Madden, The New Concise History of the Crusades (Rowman and Littlefield, 2005), pp. 40–43.
  14. ^ Madden, pg. 43.
  15. ^ Mayer, pp. 71–72.
  16. ^ Mayer, pp. 72–77.
  17. ^ Tyerman, pp. 207–208.
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  52. ^ Note the famous example of William of Tyre, Willemi Tyrensis Archiepiscopi Chronicon, ed. R. B. C. Huygens, Corpus Christianorum, Continuatio Medievalis, vol. 38 (Turnhout: Brepols, 1986), bk. 19, ch. 12, pp. 879–881. This chapter was discovered after the publication of Babcock and Krey's translation and is not included in the English edition.
  53. ^ For example, King Baldwin III "was fairly well educated", and "particularly enjoyed listening to the reading of history..." (William of Tyre, vol. 2, bk. 16, ch. 2, pg. 138.) King Amalric I "was fairly well educated, although much less so than his brother" Baldwin III; he "was well skilled in the customary law by which the kingdom was governed", and "listened eagerly to history and preferred it to all other kinds of reading." (William of Tyre, vol. 2, bk. 19, ch. 2, pg. 296.)
  54. ^ William of Tyre, introduction by Babcock and Krey, pg. 16.
  55. ^ Benjamin Z. Kedar, On the origins of the earliest laws of Frankish Jerusalem: The canons of the Council of Nablus, 1120 (Speculum 74, 1999), pp. 330–331; Marwan Nader, Burgesses and Burgess Law in the Latin Kingdoms of Jerusalem and Cyprus (1099–1325) (Ashgate: 2006), pg. 45.
  56. ^ Nader, pp. 28–30.
  57. ^ Nader, pp. 158–170
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文献[編集]

一次資料
二次資料
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  • Jonathan Riley-Smith, ed., The Oxford History of the Crusades. Oxford, 2002.
  • Template:Runciman-A History of the Crusades
  • Template:Setton-A History of the Crusades
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  • Verlinden, Charles (1970). The beginning of Modern Colonization. Ithica: Cornell University Press 
  • Jerusalem, Latin Kingdom of (1099–1291) – Article in the Catholic Encyclopedia

関連項目[編集]

外部リンク[編集]