ブルグント王国

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ブルグント王国
西ローマ帝国 411年 - 1378年[1] フランス王国
ブルグントの位置
ブルグント王国の481年頃の版図(黄緑)
首都 不明
411年 - 436年 グンダハール(初代)
523年 - 534年 ゴドマール(ブルグント族最後の国王)
879年 - 887年 ボソ(キスユラ・ブルグント王国初代)
888年 - 912年 ルドルフ1世(ユーラ・ブルグント王国初代)
993年 - 1032年 ルドルフ3世(独自の王として最後)
変遷
成立 411年
ブルグント族のブルグント王国滅亡 534年
キスユラ・ブルグント王国成立 879年
ユーラ・ブルグント王国成立 912年
ブルグント王家断絶、神聖ローマ帝国の支配下となる 1032年
ブルグント族が443年にサヴォイに定住した後の、ブルグント族の"第一の王国"
534年から843年の、フランク帝国の一部としてのブルグント王国
879年から933年までの、上ブルグント(ユーラブルグント)および下ブルグント(キスユラブルグント)王国

ブルグント王国(ブルグントおうこく)は、ローヌ川流域を領土として存在した王国。現在のフランススイスにまたがっており、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、及びスイスのフランス語圏とおおよそ一致する。9世紀末からは プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュールも領域に含んだ。


名称[編集]

「ブルグント」はフランス語で「ブルゴーニュ」とも言う。ブルグント王国が滅亡した後も、ブルグント王国があった地はブルゴーニュと呼ばれ続けた。ブルゴーニュ公ブルゴーニュ伯ポルトガル王国ブルゴーニュ朝カスティーリャ王国ブルゴーニュ朝は、ブルグント王国とは別のものであるが、かつてブルグント族が支配した地名としてのブルゴーニュに由来している。

歴史[編集]

ブルグント王国[編集]

411年、ブルグント族の王グンダハールは西ローマ帝国に侵入した。皇帝ホノリウスに休戦協定の一部として公式にローヌ川流域の土地を与られ、さらにフォエデラティ(foederati、ローマ帝国の同盟者)の地位を得た。しかし、ブルグント王国は同盟者の地位にも構わず西ローマ領のガリア・ベルギカ北部地域を襲撃した。その結果、437年にローマの将軍アエティウス(Aëtius)が呼び入れたフン族の傭兵によって一旦滅ぼされた。443年、ブルグント族は西ローマ帝国により再びフォエデラティの地位を与えられた。451年、ブルグント族はカタラウヌムの戦い(別名:タルーニャ平原の戦い)で西ローマ帝国と共にフン族と闘った。またグリケリウス帝を擁立するなどして、西ローマの政治に介入した。しかし五世紀末に西ローマ帝国は滅亡。534年、ブルグント王国も北から攻めてきたメロヴィング朝フランク王国によって滅ぼされた。その後のブルグントはフランク王国の分王国となり、メロヴィング朝の王族がブルグント王位を継いでいった。

ブルグント分王国[編集]

ブルグント王国の滅亡後、ブルグントはテウデベルト1世キルデベルト1世クロタール1世に分割された。しかし558年、ブルグントを含む全フランクはクロタール1世が統一した。クロタール1世の死後は次男のグントラムがブルグント王となった。相続者のいなかったグントラムは甥のアウストラシア王キルデベルト2世を後継者とした。キルデベルト2世の母であるブルンヒルドの摂政下でキルデベルト2世、テウデリク2世、シギベルト2世の3代にわたってブルグント王とアウストラシア王は受け継がれた。しかし613年ブルンヒルドの宿敵だったフレデグンドの息子であるネウストリア王クロタール2世にブルンヒルドとシギベルト2世は破れた。ブルグントを含む全フランクはクロタール2世によって再統一された。以後、ブルグント分王国はネウストリア分王国(北フランス)と共にフランク王の嫡流に継承された。しかしブルグント分王国とネウストリア分王国が合併することは無く、別々の行政区分とされた。

751年ピピン3世カロリング朝を開いた。768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二人の息子に分割された。ブルグント、プロヴァンス、ラングドックを手に入れたのは弟のカールマンだった。771年にカールマンが死去すると兄のカールがフランク全域の王となった。カールはフランク王国の領土を広げ、800年にはローマ教皇によって西ローマ皇帝として戴冠された。843年フォントノワの戦いを経たヴェルダン条約によって、フランク王国はカール大帝の三人の孫に分割された。ブルグントの大部分は長男ロタール1世の中フランク王国に属した。だが、ソーヌ川北側のブルグント北西部は末弟シャルル2世の西フランク王国領となった。855年にロタール1世が死去すると、中フランク王国は長男ロドヴィコ2世のイタリア王国、次男ロタール2世のロタリンギア王国、末弟シャルルのプロヴァンス王国に3分された。ブルグントはジュラ山脈を境として北部はロタリンギア王国、南部はプロヴァンス王国に属した。こうしてブルグントは三分され、独自の道を歩むことになった。

ブルゴーニュ公国[編集]

フォントノワの戦いシャルル2世の西フランク王国(フランス)が得たブルグント北西部はブルゴーニュ公領となった。ポルトガル王国ブルゴーニュ朝はブルゴーニュ公領の家系から出ている。フランス王国内に含まれながらも独立性が高く、特に14世紀から15世紀においてブルゴーニュ公国と呼ばれるほどの大勢力となったが、1477年シャルル突進公が戦死すると崩壊し、フランス王領に編入された。2015年までのブルゴーニュ地域圏である。

キスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)[編集]

シャルルのプロヴァンス王家は863年に一代で断絶した。兄のロドヴィコ2世がプロヴァンス王を兼ねたが、869年メルセン条約によってプロヴァンス王位は西フランク王国のシャルル2世が得た。879年ボソが反乱を起こして西フランク王国からの独立を宣言し、プロヴァンス王国が復活した。ボソはキスユラブルグント(下ブルグント)も勢力範囲としていたため、ブルグント王も名乗った。このため、ボソのプロヴァンス王国は別名をキスユラブルグント王国(下ブルグント王国)と言い、首都はブルグント領内のヴィエンヌであった。882年にボソは弟のリシャール正義公が率いる西フランク軍に破れた。888年、相続によって全フランクの王となっていた皇帝カール3世が死去すると、ボソの息子でカール3世の養子ともなっていたルイ3世がキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)を復活させた。900年、プロヴァンス王ルイ3世はイタリアに進出してイタリア王を兼ねた。しかし905年、対立王のベレンガーリオ1世に目を潰されてプロヴァンスに追い返された。失意のルイ3世は911年アルルへ遷都した。アルルへ遷都した後のキスユラブルグント王国はアルル王国とも呼ばれる。ルイ3世の失脚後にキスユラブルグント王国の実権を握ったプロヴァンス公ユーグは、ユーラブルグント(上ブルグント)王国のルドルフ2世とイタリアを巡って争った。933年ユーグルドルフ2世にイタリアを諦めさせる代わりにキスユラブルグント王国を譲り渡した。両ブルグント王国は合併し、プロヴァンス王位は廃止された。

ユーラブルグント王国[編集]

ブルグント王位はユーラブルグント(上ブルグント)を領有したロタール2世ロタリンギア王位に含まれていた。ロタール2世が継嗣無く没すると、ロタリンギアはメルセン条約によって東西に2分された。そのうちユーラブルグントは東フランク領となった。ブルグント王位を含むロタリンギア王位は空位となっていたため、プロヴァンス王ボソはブルグント王も自称した。888年、相続によって全フランクを統一した皇帝カール3世が死ぬと、ユーラブルグントの貴族及び聖職者達はボソの娘婿であるルドルフ1世をボソの後継者として(ユーラ)ブルグント王に推戴した。ルドルフのブルグント王位とは別にロタリンギア王位は東フランク王アルヌルフが継いだ。ルドルフ1世ロタリンギアを再統一しようとしたが、アルヌルフの抵抗で失敗に終わった。922年、ブルグント王ルドルフ2世はイタリアに進出してイタリア王を兼ねた。しかし926年にはプロヴァンス公ユーグにイタリアを追われた。933年ルドルフ2世はイタリアにおけるすべての権利を放棄する代わりにキスユラブルグント王国を併合した。なお、ユーラブルグントは後のブルグント伯領(2015年までのフランシュ=コンテ地域圏)を含み、カスティーリャ王国ブルゴーニュ朝はブルゴーニュ伯の家系から出ている。

アルル王国[編集]

933年に、ユーラブルグント王国キスユラブルグント王国(アルル王国)を併合した。このときにアルルに遷都したため、南北合併後のブルグント王国もアルル王国と呼ぶ。1032年、アルル王家の断絶によってアルル王位(ブルグント王位)はドイツ王イタリア王神聖ローマ皇帝が帯びることとなった。アルル王国は次第に形骸化し、各諸侯領は相続や売却によって徐々にフランス王領に組み込まれていった。1378年、皇帝カール4世はフランスのアルル王国への支配権を正式に認め、実質的に割譲した。この時点をもって古代末期からから形を変えて存続してきたブルグント王国は消滅した。ただし神聖ローマ帝国はフランスに支配権を譲っただけで王位まで譲ってはおらず、歴代皇帝は1805年に神聖ローマ帝国が崩壊するまで「アルル王」を名乗り続けた。

脚注[編集]

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  1. ^ 表記は神聖ローマ帝国がフランス王国にブルグントを割譲した年。ブルグント族のブルグント王国滅亡は534年879年にキスユラ・ブルグント王国成立、912年にユーラ・ブルグント王国成立。ユーラ・ブルグント王は933年にキスユラ・ブルグント王国を併合し単にブルグント王国、アルル王国と呼ばれる国となる。1032年にはブルグント王家が断絶し、神聖ローマ帝国に組み込まれる。

関連項目[編集]