グリケリウス
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グリケリウス Glycerius | |
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西ローマ皇帝 | |
![]() グリケリウスの刻まれた硬貨 | |
在位 | 473年3月5日 - 474年6月24日 |
戴冠式 | 437年3月3日または5日3月 |
別号 | サロナ(現在はクロアチアのソリン)の主教 |
全名 |
フラウィウス・グリケリウス・アウグストゥス Flavius Glycerius Augustus |
出生 |
420年頃 |
死去 |
480年 サロナ(現在はクロアチアのソリン) |
埋葬 | サロナ(現在はクロアチアのソリン) |
継承者 | ユリウス・ネポス |
父親 | 不詳 |
母親 | 不詳 |
宗教 | キリスト教カルケドン派 |
フラウィウス・グリケリウス(ラテン語:Flavius Glycerius, 420年頃 - 480年)は、西ローマ帝国の皇帝(在位:473年 - 474年)。初代西ローマ皇帝とされるホノリウスから数えて11人目の皇帝である。
最後の政治に意欲的な西ローマ皇帝であると評される皇帝であったが、その即位はブルグント族の支持を得てしたものであった。オリブリオス帝のもとで皇帝大本営の将校団長官を務め、同帝没後ブルグント族に推戴されて皇帝を称した。在位中、彼は蛮族の帝国領への侵略を防いだり、外交によって東ゴート族と平和な関係性を築いたりと功績を残した。しかし、後に東ローマの支持を得た彼の政敵のユリウス・ネポスによって追放されダルマティアの都市サロナ(現在はクロアチアのソリン)の主教に叙任し、グリケリウスは神へ奉仕する身となって生涯を終えた[1]。
名前[編集]
英語圏では英語読みでグリセリウスと称される。また、グリュケリウスとも称されている。
また、彼の本名は「フラウィウス・グリケリウス・アウグストゥス」であるとされているが、「フラウィウス」とはコンスタンティヌス1世の氏族名である。フラウィウスは偉大なコンスタンティヌス1世とその祖先を想起させる氏族名であるため、以降の一連の皇帝たちもこの姓を名乗ったが、グリケリウスもこれに倣ったのである[2]。なお、「フラウィウス」の氏族名は帝国の貴族層、古代初期及び中世初期にはローマに帰化したゲルマン人や蛮族の大王へも広がり、例えばカール大帝も「フラウィウス」の氏族名が授与されている[3]。
生涯[編集]
軍人時代[編集]
グリケリウスについて語る情報源は非常に断片化されており、貧弱であるため、現在でも不明瞭な点も多い。
420年頃、グリケリウスは西ローマ帝国支配下のダルマチアで生まれた[4]。出生日は不詳である。グリケリウスは、西ローマ皇帝オリブリオスの治世中に皇帝大本営の将校団長官(ドメスティコス/コメス・ドメスティコル)となった。
472年に東ローマ帝国皇帝レオ1世と軍事長官のリキメルによって、オリブリオスは西ローマ皇帝に不本意ながらも据えられ、リキメルが皇帝アンテミウスを殺害したことによって彼への反対者のない状況なか帝位に就いた。しかし、彼の治世は短く、472年に崩御した。オリブリオスはウァレンティニアヌス3世の皇女プラキディアと結婚したため、テオドシウス朝最後の皇帝と見做されている。
その後、西ローマ帝国における自身のあっけなく自身のレオ1世は西ローマの帝位に相応しい候補者をすぐに見つけることができなかった。この事実は、レオ1世には西ローマ帝国での繋がりが貧弱であった示している。そのため、その後は西ローマ皇帝が並立する事態に陥る。
即位[編集]
473年、西方帝国(西ローマ帝国)の帝位が空位状態となって無法な蛮族の跳梁に任されていた時、当時無名の軍人であったグリケリウスはブルグント族のグンドバト(Gundobad、ブルグントの王子で後にブルグント族の王となる人物である)の尽力で西ローマ皇帝の位に即位した。グンドバドの手によって紫衣がさずけられたという[1]。当時の西ローマ帝国は、蛮族の恣にする侵略に荒れ、更には宮廷の乱れからローマ皇帝の権威は失墜、反逆行為が当たり前となり、西ローマ皇帝への忠誠心は殆ど無くなってしまっていたため、自身を支えていたのは、やはりブルグント族のみであった。
ブルグント族の実力によるものの、結果的には帝位に就いたにも拘わらず、東ローマ帝国のレオ1世からは彼がグンドバドの操り人形に過ぎないとして承認を得ることができずに終わった。グリケリウスと対立していたレオ1世は、親族の人間を共同皇帝に指名したかったのである。
即位の日にちについては、ファスティ・ヴィンドボネンセスは5日だったと述べているが、パスチャレ・カンパナムは3日だったと主張している[5][6][7][8]。
その一方で、東ローマ帝国のレオ1世の宮廷ではコンスタンティノポリスの宮廷が認める新しい西ローマ皇帝の選出が真剣に討議されていた。皇妃ウェリナは自己の家系の勢力を増大させることに熱心で、彼女の姪の一人を総督ユリウス・ネポスと結婚させており、このネポスは彼の伯父マルケリヌスの跡を継いでダルマチアの主権を握る貴族となっていた。レオ1世は自身の親類で扱いやすいネポスに目を付け、彼を西ローマ皇帝に即位するように説得し、その結果、ダルマチアの方がよほど堅固な土地であるにもかかわらず474年6月頃にコンスタンティノポリスの宮廷の庇護のもと、西ローマ皇帝となった[1]。
退位[編集]
その後、レオ1世は西ローマ帝国に侵攻するために艦隊で彼を送った。攻撃を知ったグリケリウスは、おそらく侵略者に抵抗する意志を持って、ラヴェンナからローマに到達するために離れて移動した。それにもかかわらず、彼の庇護者たるグンドバドはイタリア半島を去った。当時、アルプス山脈の向こうのブルグント王国では先王の死によって王位継承争いが勃発しており、グンドバドはその争いに参加せねばならなかったのである。その結果、彼の勢力基盤は失われることとなった[1]。
ブルグント族は戦闘を拒否し撤退したため、グリケリウスはブルグントの支援なしで、降伏する以外に選択肢はなかった。その後、ユリウス・ネポスが474年6月にオスティアに上陸した後、グリケリウスは交戦せずに降服し、6月24日にラヴェンナで退位した。彼はすぐにサロナ(現在はクロアチアのソリン)の司教として指定された。東ローマ帝国の歴史家マルコスによると、グリケリウスは、イタリアからダルマチアへの亡命を余儀なくされた後、480年にネポスの暗殺を組織する上で何らかの役割を果たしたとしているが、暗殺の歴史的記録は不明瞭である[8][9][10]。
一方、グリケリウスを失脚させたネポスは、自身が義伯父レオ1世の共同皇帝であると宣言し、ローマ皇帝フラウィウス・ユリウス・ネポス(Flavius Julius Nepos)として即位し、統治した。
その後[編集]
ユリウス・ネポスはグリケリウスとは異なり周辺の勢力から広く支持を集めた。例えば、ソワソン管区の王シアグリウスはユリウス・ネポスを正当なる西帝として認知し、475年の反乱によるダルマチアへの亡命後も彼は一貫してネポスを支持する立場を変えなかった。一方で彼は東方に後ろ盾を持つ皇帝であり、元老院からは支持が薄かった。
グリケリウスは、蛮族出身の将軍オドアケル(のちに西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ帝国滅ぼした人物である)に自身の帝位を復活させた場合、ユリウス・ネポスによって拒否された「愛国者」の称号の授与を約束していた可能性がある。
政治[編集]
治世中の功績には、皇帝がキリスト教を深く信仰し、立法を通してキリスト教に多大なる権限を与え、教会はより多くの義務を負うようになったことや、蛮族を味方につけていたグリケリウスは、蛮族による帝国の侵略の脅威からの脱却にもわずかながら成功するなどしたことである[11]。例えば、外交によって東ゴート族と平和な関係性を築いたりと功績を残した。その他、軍事的にも蛮族へ行動を起こし、それなりの結果を残したようである。
グリケリウスの治世が短いため、政治手腕としての結論を出すのは非常に難しい。しかし、彼が最後の政治に意欲的な西ローマ皇帝であったことは、その立法上の功績及び国教キリスト教の保護政策により、明白である。
グリケリウスの貨幣[編集]
グリケリウスは主にイタリア北部のみを支配したと考えられており、彼の治世から見つかったコインは1枚を除いてすべてラヴェンナまたはミラノで発見された物である。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- Glycerius, Roman Empire net
- グリュケリウスとは - コトバンク
- Adkins, Lesley; Adkins, Roy A. (2014). Handbook to Life in Ancient Rome. New York: Oxford University Press. ISBN 978-0-816-07482-2.
- Cooley, Alison E. (2012). The Cambridge Manual of Latin Epigraphy. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-84026-2.
- Lee, A. D. (2013). From Rome to Byzantium AD 363 to 565. Edinburgh: Edinburgh University Press. ISBN 978-0-748-66835-9.
- MacGeorge, Penny (2002). Late Roman Warlords. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-191-53091-3.
- Meijer, Fik (2004). Emperors Don't Die in Bed. London: Routledge. ISBN 978-1-134-38405-1.
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Glycerius, Roman Empire net
- グリュケリウスとは - コトバンク
- 「グリケリウス帝」の用例・例文集 - 用例.jp
- グリケリウス - まいり
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