パウルス・ディアコヌス

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10世紀の写本に描かれたパウルス・ディアコヌス(ロレンツォ・メディチ図書館英語版 Plut. 65.35 fol. 34r)

パウルス・ディアコヌス (Paulus Diacunus,(c. 720年 - – 799年4月13日)は、 Warnefridus, Barnefridus, Winfridusとも呼ばれ、時としてカッシネシス(Cassinensis) (" モンテ・カッシーノの"という意味)とも呼ばれたベネディクト修道会の修道士で著述家歴史家詩人である。ランゴバルド王国の歴史を著述した『ランゴバルド史』(Historia Langobardorum) を書いた。パウルス・ディアコヌスはラテン語イタリア語名ではパオロ・ディアーコノ (Paolo Diacono) となる。 

生涯[編集]

Leupichisという名の祖先はアルボイーノ王とともにイタリアにやってきて、フォルム・ユーリー(Forum Julii) (チヴィダーレ・デル・フリウーリ) か、またはその近郊の土地を与えられた。侵略の時期、アヴァールは、彼の5人の息子をパンノニアへと拉致したが、一人はイタリア半島に戻り、滅んでいた家産を復興した。子孫のLeupichisの孫がWarnefridwas(又はWarnefrid)で、その妻Theodelindaとの間に生まれたのがパウルスだった[1]。パウルスとは修道士名で、元の名はWinfridといった。

720年と735年の間に、恐らくランゴバルド貴族であるフリウリ公国英語版の家系に生まれ、パウルスは恐らくパヴィアのランゴバルド王ラトキス英語版の宮廷で特別に良い教育を受け、フラヴィアンという名の教師にギリシア語の基礎を学んだ。恐らく彼は、ラトキス王の後継者デシデリウス英語版I王の秘書官を務め、王女アーデルペルガ英語版は彼の弟子となった。アーデルペルガがアリキス2世英語版と結婚した後、パウルスは、彼女の要望で、エウトロピウスの『首都創建以来の歴史』の続きを書いた[1]

彼がベネヴェント公国の宮廷にいたことは確かであり、774年にパヴィアがカール大帝に占領されて避難したものと思われる。というのも、彼の住居はこの事件の数年前からそこにあったと思われるからである。直ぐに彼はコモ湖の修道院に入り、782年以前にモンテ・カッシーノベネディクト会の家に住むことになった。そこで彼は、カール大帝の知遇を得た。776年頃、彼の兄のアリキスがフランク王国に虜囚として連れて行かれ、その5年後、フランク人の王がローマを訪問した。パウルスは捕虜のためにカールに書簡を書くことに成功した[1]

彼の文学的業績はカール大帝の注目を引き、パウルスはカロリング・ルネサンスの重要な要因となった。787年にイタリアのモンテ・カッシーノに戻り、796年と799年の間のある年の4月13日に亡くなった。 彼の苗字はディアコヌスといい、それは助祭に叙せられたことを示している。ある人々は、彼はランゴバルド王国の没落以前から 修道僧であったと考えている[1]

業績[編集]

パウルスの広範囲な業績は「ラテン教父全集英語版」の95巻(1861年)に編集されている[1]

パウルスの主な業績は「ランゴバルド史英語版」である。この未完成の歴史書は、6巻からなり、恐らくモンテ・カッシーノで787年以降に書き始められ、795/6年まで書かれた。 それはスカンディナヴィアにおけるランゴバルド族の伝説的な起源とその後の移住の物語りで、とりわけ568/9年のイタリア侵入から744年のリウトプランド王の死を扱い、その時代のビザンツ帝国フランク族Iおよびその他を諸民族や国家を扱っている。ランゴバルドの視点から語られ、特にフランク人とランゴバルドの関係の史料として価値がある。それは以下のように始まる:[1]

北の地域では、太陽の中心から逸れるにつれて、雪や霜とともに寒気が到来する。そこでは男たちの体にとってより健康的で、諸民族が子供を産むのにも適している。一方、南の国は太陽の中心により近いため、病気が多く、人間にとって子供を育てるのには適していない。[1]

彼の史料の中には、パウルスが「ランゴバルド王国の民族の起源英語版」や「教皇の書」や、失われた歴史書「トレントのセクンドゥス英語版」、及びベネヴェントの失われた年代記、ベーダトゥールのグレゴリウスセビリャのイシドールスなども自由に利用した。と呼ばれる資料を利用した[1]

「ランゴバルド史」と同系のものには、パウルスのローマの歴史(Historia Romana)があり、これはエウトロピウス略史英語版の続編である。これは766年と771年の間にベネヴェントで完成した。この話は、パウルスが、アーデルペルガにエウトロピオスを読むよう推奨したことを裏付けている。彼女はエウトロピウスを読むことを試みたものの、異教徒の著述家が本質的なことについて何も書かず、364年の皇帝ヴァレリアヌスの登位で終わってしまっていることに不満をもらしたため、パウルスは、エウトロピウスと一緒に他の史料と最も重要歴史家や聖書の内容を織り交ぜて続きを書き、6巻を追加し、553年まで書かれることとなった。この業績は、中世において非常に人気があったが、現在でも西方におけるローマ帝国の終焉の早期の歴史的著作として価値がある。ドロイゼンにより編集されMonumenta Germaniae Historica. Auctores antiquissimi, Band ii. (1879)として出版された[1]。A. CrivellucciによるFonti per la storia d' Italia, n. 51 (1914)にも収録されている[要出典]

パウルスは、メッツの僧侶英語版Angilram英語版の要望で766年までを書き、最初の著作はアルプスの北での最初の著作となり、2013年に英訳がLiber de episcopis Mettensibusという題名で出版された。彼は多数の手紙や詩、碑文を書き、これらのうちには、ベネヴェント公アリキス2世のものや、多くのカロリング一族のものも含まれている。幾つかの手紙は「ランゴバルド王国史(Historia Langobardorum)」とともに、モヌメンタ(Monumenta)に収録されている。詩作と碑文はErnst Dümmler英語版Poetae latini aevi carolini, Band i. (Berlin, 1881)の中に見出した。新しい材料が光をもたらしている。1908年にKarl Neffが編集し出版された、詩集の新版Die Gedichte des Paulus Diaconus (Munich, 1908)[2]は、編集者に否定されているが、パウルスに帰せられるもっとも有名な詩が聖ヨハネ賛歌集に収められている。グイード・ダレッツォが楽曲をつけた洗礼者ヨハネの賛歌のメロディーは、以前はホラティウス『カルミナ』抒情詩集(Odes英語版にも使われていた 4.11.[3]。パウルスは碑文も書いていて、「Sextus Pompeius Festus英語版De significatu verborum英語版などが現存している。それらはカール大帝にささげられている[要出典]

一方フランク王国では、パウルスはカール大帝から説教集の編纂を依頼された。彼はモンテ・カッシーノに帰還した後、編纂作業を行ない、説教集はフランク王国の教会で広く使われた。教皇グレゴリウス1世 の生涯の記録は彼に帰せられている[2]。彼はギリシア語著作「エジプトのマリアの生涯」のラテン語訳も行なっている[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i Chisholm 1911, p. 964.
  2. ^ a b Chisholm 1911, p. 965.
  3. ^ Lyons 2007, p. [要ページ番号].

参考文献[編集]

  • Lyons, Stuart (2007). Horace's Odes and the Mystery of Do-Re-Mi. Oxford: Oxbow Books. ISBN 978-0-85668-790-7. 

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関連文献[編集]

外部リンク[編集]