ブルグント王の一覧

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ブルグント王の一覧では、2つのブルグント王国の王及びカロリング家全体による策謀の発展から来る政治的称号を与えられた人物の数を列挙する。

民族大移動期[編集]

300年頃にブルグント族ボーンホルム島を去りヴィスワ川流域に落ち着いた。ヨルダネスはヴィスワ川流域でブルグント族は4世紀ゲピード族に敗北したことでラインラントに移動したことを記述している。

アエティウスはブルグント族をサパウディア(上ローヌ川)に移動させた。

フランク王統治下のブルグント[編集]

532年から534年にかけてブルグントは徐々にフランク王キルデベルト1世及びクロタール1世によって征服された。

メロヴィング朝[編集]

一つの王のもとでネウストリアと統一されたが、行政は分割された(613年 - 751年)。

カロリング朝[編集]

ルートヴィヒ1世の息子達は843年ヴェルダン条約で王国を分割し、ブルグントは兄弟間で分割された。

  • ロタール1世はソーヌ川東部の大部分を相続し、この部分はブルグント王国の名を保持した。855年にロタール1世が死ぬと王国は息子達の間で分割され、ブルグンディアの領域は以下のように分割された。

ブルグントの残りの部分と統一する以前のプロヴァンス王に関してはen:list of dukes, kings, counts, and margraves of Provenceを参考。

ユーラブルグント王国[編集]

ロタール2世は自分が領有したユーラブルグント(上ブルグント)をロタリンギアに包含した。ロタール2世は弟のシャルルが死去すると、消滅したシャルルの王国の北部であるキスユラブルグント(下ブルグント)を獲得した。869年にロタール2世が死ぬと西フランク王のシャルル2世がロタリンギア王への即位を宣言するが、東フランク王ルートヴィヒ2世に反対された。ロタリンギアはメルセン条約シャルル2世ルートヴィヒ2世によって分割され、ロタリンギア王位は宙に浮いた。877年、プロヴァンス公のボソシャルル2世に反逆してプロヴァンス王を名乗った。ボソの勢力範囲には南部ブルグント(キスユラブルグント)も含まれていたため、ボソは空位であったロタリンギア王位に含まれていたブルグント王も名乗った。879年、ボソは西フランク王国から完全に独立した。880年リブモント条約で東フランク王ルートヴィヒ3世が全ロタリンギアを得た。882年ルートヴィヒ3世が死去し、弟のカール3世がロタリンギアを含む東フランク王国を相続した。

884年カール3世ボソプロヴァンス王国を除く全フランクを相続によって統一した。しかし888年カール3世が死ぬと、ユーラブルグントの貴族及び聖職者達は聖マルタンのもとに集まり、古ヴェルフ家出身のオセール伯ルドルフ1世を王に推戴した。ルドルフ1世はボソの娘婿でもあり、カール3世の後継者というよりはボソの後継者という意味合いが強かった。ルドルフ1世のブルグント王位とは別に、ロタリンギア王位は東フランク王アルヌルフが得た。ルドルフ1世は最初はロタリンギアを再統一しようとしたが、アルヌルフの抵抗に阻まれたため、上ブルグントの経営に専念した。

933年にルドルフ2世はイタリア王位に対する自分の請求権をイタリア王国ユーグ・ダルルに譲渡する一方で、プロヴァンス(キスユラブルグント王国)を併合し、2つのブルグント王国は再統一された。

1032年にブルグント王国は神聖ローマ帝国ドイツ王ないしは神聖ローマ帝国と並ぶブルグント王としての3番目の王国であるアルル王国として組み込まれた。

神聖ローマ帝国としてのブルグント王国(アルル王国)[編集]

ザーリアー朝[編集]

  • コンラート2世(ブルグント王:1032年 - 1039年、神聖ローマ皇帝:1027年 - 1039年)
  • ハインリヒ3世(ブルグント王:1039年 - 1056年、神聖ローマ皇帝:1046年 - 1056年)
  • ハインリヒ4世(ブルグント王:1056年 - 1105年、神聖ローマ皇帝:1084年 - 1105年)
  • ハインリヒ5世(ブルグント王:1105年 - 1125年、神聖ローマ皇帝:1111年 - 1125年)

ズップリング朝[編集]

  • ロタール3世(ブルグント王:1125年 - 1137年、神聖ローマ皇帝:1133年 - 1137年)

ホーエンシュタウフェン朝[編集]

  • フリードリヒ2世(ブルグント王:1212年、神聖ローマ皇帝:1220年 - 1250年)
  • コンラート4世(ブルグント王:1237年 - 1254年、1250年まで父の支配下に置かれた)

ブルグントの支配者[編集]

コンラート及びルドルフ3世のもとで王権は弱体化し、一方でブルグント伯のような地方の貴族が台頭していった。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が早期に死んだ後に未亡人アグネスは自分の幼少の息子であるハインリヒ4世摂政として活動した。アグネスはルドルフ1世シュヴァーベン大公に任命し、合わせてブルグント全体の支配権を委ねた。しかし、ルドルフ1世が対立王に選出された時、成長したハインリヒ4世は1079年にその力を奪い、ローザンヌシオン(現在のスイス)の司教領に派遣した。

1127年3月1日にブルゴーニュ伯ギヨーム3世が暗殺されると、ロタール3世はギヨーム3世の母方の叔父でルドルフ1世の外孫であるツェーリンゲン家出身のツェーリンゲン大公コンラート1世の伯領への請求権を支持し、ブルグントの全権を委ねた。

適当な称号を欠いていたことから、ツェーリンゲン家はブルグント公の地位を得るため自分でブルグントの公及び支配者と名乗った。しかしながら大公家の書記官達は一貫してこの部分を避け、en:rectorローマ法では地方総督の一般的な概念である)はツェーリンゲン家が統治するユーラ東部に限られるようになった。

ツェーリンゲン家の請求権の強行及び王国の西部及び東部への王権の拡大といった幾つかの試み(その中で最も著名なのは1153年の遠征である)は失敗した。これらの失敗の後、皇帝フリードリヒ1世はブルゴーニュ伯領の相続人であったベアトリス1世と結婚したことにより1156年までに確固たる支配を築いた。この相続は永続的にツェーリンゲン家をユーラとアルル間に限定させることになり、そこで同家は権威を拡大させた。1218年にコンラート1世の孫のベルトルト5世は後継を残すことなく没し、ツェーリンゲン家は断絶した。

この後、ローマ王フリードリヒ2世はツェーリンゲン家の遺領を所有するために、それに見合う称号として息子のハインリヒ7世ブルグントの支配者の称号を与えた。この任命は単に一時的な重要なもので、ハインリヒ7世が1220年4月にドイツ王に選ばれるとこの称号は消滅した。またブルゴーニュ王国内部での王権の失墜は不可逆であった。

脚注[編集]

関連項目[編集]