フランク王の一覧
フランク人は元来、ドゥクス(軍事的指導者)及びレグリ(小規模の君主)によって位置づけられていた。サリ族のメロヴィング家がフランク人の間で台頭しガロ=ローマ地域を征服、507年には西ゴート王国の領土を征服した。クローヴィス1世の諸子はブルグント及びアレマン人を征服した。彼らはプロヴァンスを獲得し、バイエルンとテューリンゲンを従属せしめた。8世紀にメロヴィング家は後世カロリング家と呼ばれる家系に取って代わられ、そのカロリング家も9世紀までには王国内のその他の家系に取って代わられた。"フランクの王"ないしRex Francorumという観念は12世紀から13世紀にかけて次第に消えていった。
古代ゲルマン人の慣習に従って次第に族長の息子たちの間で領域が分割され、その死後に再び統合されたことから、フランク族の支配者の年表で表すのは困難である。
ドゥクス及びレグリ
[編集]初期の支配者
[編集]史料には多くの空白が残されていることから初期支配者の一覧は不完全である。
支配者 | 説明 |
---|---|
Ascaric | |
Merogais | |
メロバウドゥス(Mallobaudes) | |
Genobaud | |
スンノ(Sunno) | |
Marcomer | |
ファラモン(Pharamond) | Marcomerの息子。半伝説的な王。(420年 - 448年にクロディオと共同統治した)[1] |
クロディオ(Chlodio) | (420年 - 448年にファラモンと共同統治した)[1] |
テウドメール(Theudemeres) | リコメール(Richomeres)の息子、王位は422年頃。 |
アエギディウス(Aegidius) | シアグリウスの父。 |
シギベルト跛王(Sigobert the Lame) | 王位483年 - 507年、息子のクロデリック(父殺し)によって殺される。 |
クロデリック(父殺し)(Chlodoric the Parricide) | シギベルト跛王の息子。王位507年、クローヴィス1世によって廃される。 |
支配者 | 説明 |
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クロディオ | テウドメールの子。ディスパルグム、及び後にトゥルネーの王(426年 - 447年)。 |
メロヴィクス | 恐らくはクロディオの息子。トゥルネーの王(447年 - 458年)。(メロヴェまたはメロヴァエウスが448年 - 458年に統治した)[1] |
キルデリク1世 | メロヴィクスの息子。トゥルネーの王(458年 - 481年)[1]。 |
クローヴィス1世 | キルデリク1世の息子。トゥルネーの王(481年 - 511年)、後年、フランク族の大部分とガロ=ローマを統一する[1]。 |
以下に挙げる全員はクロヴィス1世と幾らかの関わりを持ち、最終的には509年以前には王位を追われた。
支配者 | 説明 |
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カラリック(Chararic) | |
ラグナカール(Ragnachar) | 恐らくは486年以前からカンブレーの王、クロヴィス1世によって殺された。 |
リカリウス(Ricchar) | ラグナカールの兄弟。カンブレーでクロヴィス1世によって殺された。 |
リグノメール(Rignomer) | ラグナカールの兄弟。ル・マンでクロヴィス1世によって殺された。 |
メロヴィング朝時代
[編集]全フランク人の王
肖像画 | 名前 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 先代との関係 |
---|---|---|---|---|---|
クローヴィス1世 | 466年 | 511年11月27日 | 509年 - 511年 | N/A |
クロヴィス1世は自身の統治期間中にフランク族の小王国を統一し、ローマの将軍シアグリウスの治めるソワソン管区及び西ゴート族が支配するトゥールーズを征服することで|ガロ=ローマに支配権を打ち立てた。クロヴィス1世はパリを首都としたが、それとともにソワソン、ランス、メス、オルレアンをも主要な居城とした。クロヴィス1世が死ぬと王国は4人の息子間で分割された。
ソワソン | パリ | オルレアン | ランス | ||||
肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
クロタール1世 511年 - 561年 |
キルデベルト1世 511年 - 558年 |
クロドメール 511年 - 524年 |
テウデリク1世 511年 - 534年 [注釈 1] | ||||
テウデベルト1世 534年 - 548年 | |||||||
パリそれからソワソンに渡る。 | テウデバルド 548年 - 555年 | ||||||
558年にソワソンに渡る。 | 555年にソワソンに渡る。 |
クロタール1世はその兄弟及び後継者が死んだ後に全フランクの地を相続した。クロタール1世が死ぬと王国は再び4人の息子間で分割された。
ソワソン (最終的にはネウストリア) |
パリ | オルレアン (最終的にはブルグント) |
ランスとメス (最終的にはアウストラシア) | ||||
肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
キルペリク1世 561年 - 584年 |
カリベルト1世 561年 - 567年 |
グントラム 561年 - 592年 [注釈 2] |
シギベルト1世 561年 - 575年 | ||||
567年に分割し、 最終的にはソワソンの主権を失う。 |
592年にランスに渡る。 | キルデベルト2世 575年 - 595年 | |||||
クロタール2世 584年 - 629年 |
テウデリク2世 595年 - 613年 |
- | テウデベルト2世 595年 - 612年 | ||||
- | シギベルト2世 613年 |
612年にオルレアンに渡る。 | |||||
613年にソワソンに渡る。 |
クロタール2世はブルンヒルド及びその孫を破ることで王国を統合した。しかしながら、623年に特定の勢力を懐柔し且つ国境の安全を確保するために、彼等の王として息子にアウストラシアを与えた。息子で後継者のダゴベルト1世は629年にアキテーヌの副王に任じられてトゥールーズに、634年にアウストラシアに落ち着くことで競い合った。
ネウストリア及びブルグント | アウストラシア | アキテーヌ | |||
肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 |
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ダゴベルト1世 623年 - 629年 634年 - 639年 |
カリベルト2世 629年 - 632年 | ||||
キルペリク[要曖昧さ回避] 632年 | |||||
ダゴベルト1世が相続したが、634年に再分割。 | |||||
ネウストリア及びブルグント | アウストラシア | ||||
肖像画 | 名前 | 肖像画 | 名前 | ||
クローヴィス2世 639年 - 655年 |
シギベルト3世 634年 - 656/660年 | ||||
- | キルデベルト養子王 656年 - 661年 | ||||
クロタール3世 655年 - 673年 (ネウストリア) 661年 - 662年 (アウストラシア) | |||||
テウデリク3世 675年 - 691年 (ネウストリア) 679年 - 691年 (アウストラシア) |
キルデリク2世 662年 - 675年 (アウストラシア) 673年 - 675年 (ネウストリア) | ||||
クローヴィス3世 675年 - 676年 (アウストラシア) | |||||
ダゴベルト2世 676年 - 679年 | |||||
ネウストリアとブルグントに渡る。 |
テウデリク3世は679年に全フランク人の王として認められた。この時からフランク王国は再び単一国家として扱うことができる。しかしそれは内戦のためごく僅かな期間であった。
肖像画 | 名前 | 生年 | 没年 | 統治期間 | 先代との関係 |
---|---|---|---|---|---|
テウデリク3世 | 654年 | 691年4月12日 | 679年 - 691年 | N/A | |
クローヴィス4世 | 678年 | 695年 | 691年 - 695年 | 息子 | |
キルデベルト3世 | 670/683年 | 711年4月23日 | 695年 - 711年 | 兄弟 | |
ダゴベルト3世 | 699年 | 715年12月31日 | 711年 - 715年 | 兄弟 | |
キルペリク2世 | 672年 | 721年2月13日 | 715年 - 720年 | 従兄弟 | |
クロタール4世 | ? | 719年 | 717年 - 718年 アウストラシアの弱小の対立王 |
一族 | |
テウデリク4世 | 712年 | 737年3月16日/4月30日 | 720年 - 737年 | ダゴベルト3世の息子 | |
空位 737年 – 743年 | |||||
キルデリク3世 | 717年 | 754年 | 743年 - 752年 | 一族 |
カロリング朝
[編集]宮宰
[編集]ピピン家は当初はメロヴィング家の王のもとで、最初にアウストラシア、後にネウストリア及びブルグントの宮宰を勤めた。687年にピピン1世はテルトリーの戦いでネウストリアを征服した後にフランク公(dux et princeps Francorum)の称号を用いた。これは同時代の年代記にピピン1世の"統治"の始まりとして記載されている。715年から716年の間、ピピン1世の子孫は後継を巡って対立した。
- 大ピピン(アウストラシア:623年 - 629年及び639年 - 640年)
- グリモアルド1世(アウストラシア:643年 - 656年、662年死去)
- 中ピピン(アウストラシア:680年 - 714年、ネウストリア及びブルグント:687年 - 695年)
- ドロゴ(ブルグント:695年 - 708年)
- グリモアルド2世(ネウストリア:695年 - 714年, ブルグント:708年 - 714年)
- テウドアルド(アウストラシア、ネウストリア、及びブルグント:714年 - 716年)
716年からの内乱においてピピン2世の庶子カール・マルテルがピピン家嫡流のテウドアルドに勝利し、カロリング家を創設した。
- カール・マルテル(アウストラシア:715年 - 741年、ネウストリア及びブルグント:718年 - 741年)
- カールマン(アウストラシア:741年 - 747年、754/5年死去)
- 小ピピン(ネウストリア及びブルグント:741 - 751年、アウストラシア:747年 - 751年)
752年3月[2][3] にピピン3世はフランク王となり宮宰は消滅した。カロリング朝はメロヴィング朝に取って代わった。
フランク国王
[編集]- ピピン(752年 - 768年)
- カールマン(768年 - 771年(ブルグント、アレマニア、南アウストラシア))
- カール大帝(シャルルマーニュ)(768年 - 814年(最初はネウストリア、アキテーヌ、北アウストラシアのみ)、774年にランゴバルト王、800年に皇帝。)
- ルートヴィヒ1世敬虔王(813年 - 814年カール大帝と共同統治、814年 - 840年単独統治)
ルートヴィヒ1世は生涯の間に自身の帝国の分割を何回も行った。最終的な分割は838年のヴォルムスで行われ、シャルル1世がアキテーヌを含む西部を、ロタール1世はイタリアを含む東部を、ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。しかしながら、840年にルートヴィヒ1世が死ぬと帝国は3年間内戦状態に陥った。843年のヴェルダン条約でフランク王国は分割された。ロタール1世は皇帝の称号とイタリアを保持することが許されて新たに中フランク王国を建設することが叶い、その領域は低ロレーヌ、アーヘンを含むラインラント、ブルグンディア、プロヴァンスを含むイタリアから北海に及ぶものであった。シャルル1世はピピン1世の息子であるピピン2世が対立しているアキテーヌの地を確保して、ロタール1世の王国の西側に西フランク王国(現代のフランス)を建国した。ルートヴィヒ2世はバイエルンを確保しロタール1世の王国の東側に東フランク王国(現代のドイツ)を建国した。
以下の表には帝国内の「王」、特にイタリア、プロヴァンス、ネウストリア及びアキテーヌといった王国の西、中、東部の「副王」の全てが載せられているわけではない。
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脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e William Deans; Frederick Martin (1882). A History Of France: From The Earliest Times To The Present Day. 1. Edinburgh & London: A. Fullarton & Co.. pp. 420-1792, Table Of Sovereigns Of France, vi-ix
- ^ Charles Knight, The English Cyclopaedia: Volume IV, (London : 1867); pg 733 「各王国が統一される前、ピピンが752年3月にマインツ司教ボニファティウスによりソワソンで選出されたということ以外、我々はこの重要な出来事に関しての記録が見つけられていない。」
- ^ Claudio Rendina & Paul McCusker, The Popes: Histories and Secrets, (New York : 2002), pg 145
参考文献
[編集]- Colin Jones, The Cambridge Illustrated History of France, Cambridge University Press, 1999.
- Edward James, The Origins of France: Clovis to the Capetians 500-1000, Palgrave, 1989, ISBN 0-333-27052-5
- Paul Fouracre & Richard A. Gerberding, Late Merovingian France: History and Hagiography, 640-720 (Manchester Medieval Sources), 1996, ISBN 0-7190-4791-9
- W. Kibler & G. Zinn, Medieval France: An Encyclopedia, Garland Publishing, 1995.
- 一次資料
- 『フランス大年代記(Grandes Chroniques de France)』の中で述べられているフランスの歴史。そして特に1370年から1380年にかけてフランス王シャルル5世のために作られた写本で、これはメロヴィング朝、カロリング朝およびカペー朝の3つの王朝の物語であり、王国の成立と国境について書かれている。この写本はフランスとイングランドがフランス王位継承を争った百年戦争中に作られたものであり、成立時の時代背景のバイアスがかかっていることに注意して読む必要がある。