キルペリク1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
キルペリク1世
Chilperic I
ネウストリア王
Portrait Roi de france Chilpéric roy de France.jpg
キルペリク1世 (1720年のメダル)
在位 561年 - 584年

出生 539年
死去 584年
配偶者 アウドヴェラ
  ガルスウィンタ
  フレデグンド
子女 一覧参照
王朝 メロヴィング朝
父親 クロタール1世
母親 アレグンド
テンプレートを表示

キルペリク1世(Chilperic I, 539年584年)は、メロヴィング朝フランク王、クロタール1世の末子。ソワソンの王(ネウストリア王)(在位:561年 - 584年)。

生涯[編集]

クロタールと王妃アレグンドの間に生まれる。561年コンピエーニュ近郊キュイーズでクロタールが没し、ソワソンで葬儀が終わるとすぐにキルペリクは宮廷のあったブレーヌに向けて出発し、父の蓄えた財宝を没収しブレーヌの近隣に住む従士の首領たちに分け与えた[1]。王国の戦士たちはキルペリクを王(Koning)の称号で呼び、キルペリクはパリを占領したが、他の兄弟3人と妥協して「くじ引き」で王国を分割・統治することにした。キルペリクは父の領地であったソワソンを領有する[2]

567年、年長の兄カリベルトが死ぬと、パリの3分の1とリモージュカオールボルドー、ベアルン、ビゴールの都市とピレネー地方を相続した。同じ年に西ゴート王アタナギルドの娘ガルスウィンタと結婚。ところがその翌年にガルスウィンタはキルペリクの指図を受けた腹心によって寝室で絞殺される[3]。ガルスウィンタの妹ブルンヒルドと結婚していたキルペリクの兄シギベルト1世(アウストラシア王)はフランク人の習慣どおり「血の復讐」を求めたが、もう一人の兄グントラム(ブルグント王)が仲裁に入った。そこで大民会が開かれ、サリカ法によりリモージュ、カオール、ボルドー、ベアルン、ビゴールをアウストラシア王妃、つまりブルンヒルドの所有とすることとされる。この決定に不服であったキルペリクは、573年になってアウストラシア領であるトゥールポワティエに息子クローヴィスの軍隊を侵攻させた[4]。2年にわたるフランク王国の内戦はキルペリクの刺客によってシギベルトが暗殺されるまで続いた。なおもアウストラシアをねらいつづけていたキルペリクであったが、584年9月のある夕方に狩猟から帰ったところを刺客に殺された。下手人は侍従のエベルルフと宣言され、その所領は没収された[5]

家族[編集]

最初の妻はアウドヴェラ(Audovera、533年? - 580年)で、6人の子女をもうけた。

  • テウデベルト(Theudebert) - 長男。556年頃生、573年に戦死。
  • メロヴェク(Merovech) - 次男。558年頃生、伯父にあたるシギベルト1世の未亡人ブルンヒルドと結婚。577年に殺害された。
  • クローヴィス(Clovis) - 三男。580年、王妃フレデグンドによって暗殺された。
  • バシーナ(Basina、565年頃生誕、590年頃没) - 長女。修道女。
  • キルデシンダ(Childesinda) - 次女。
  • リチルデ - 三女。

2番目の妻であったガルスウィンタ(Galswintha、540年頃 - 568年)との間に子供はいない。

3番目の妻フレデグンド540年頃/?549年頃? - 597年)との間に6人の子女をもうけた。

  • リグント(Rigunth)(569年– 589年) - 四女。レカレド1世と婚約するが結婚には至らず。
  • クロデベルト(Chlodebert)(570/72年 – 580年) - 四男。
  • サムソン(Samson)(573年 – 577年) - 五男。
  • ダゴベルト(Dagobert)(579/80年 – 580年) - 六男。
  • テウデリク(Theuderic)(582年頃 – 584年) - 七男。
  • クロタール2世(584年 – 629年) - 八男。ネウストリア王家を継ぐ。

上記のように3回の正式な結婚で8男4女を儲けたが、骨肉の争いや夭折などで子女を残せない子供が多く、子孫を残したのは八男で末子でもあるクロタール2世のみである。後にクロタール2世が613年にフランク王国を再度統一。以後、751年キルデリク3世(キルペリク1世の昆孫(玄孫の孫)、クロタール2世の来孫(玄孫の子、曾孫の孫)もしくは一説にキルペリク1世の雲孫(玄孫の玄孫)、クロタール2世の仍孫(玄孫の曾孫))が廃位されるまでクロタール2世の血筋が王位を世襲したが、クロタール2世の子ダゴベルト1世の死後にカロリング家の力が徐々に上回るようになり、メロヴィング朝の王は次第にカロリング家の傀儡と化していった。カロリング家(この時はピピン家と便宜上呼ばれる。ピピン1世メッツ大司教アルヌルフが始まりでピピン2世(中ピピン)とその嫡出の後継者が続くという家)による王位継承の野望は661年(もしくは662年)のグリモアルド1世暗殺とその息子キルデベルト養子王(最初の名は父と同じく、グリモアルド)が662年に死去したことにより、この時は潰えたものの、それから約90年後の751年、キルデリク3世がついにカロリング家[6]のピピン(小ピピン)によって廃されて、キルデリク3世と息子のテウデリクは別々の修道院に幽閉されてしまった為メロヴィング朝は滅亡、ピピンが即位(ピピン3世)し、カロリング朝が創始された。

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.35。
  2. ^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.37。
  3. ^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.67。
  4. ^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.77。
  5. ^ F.de.クーランジュ『フランス封建制度起源論』岩波文庫、1956年、P.176。
  6. ^ グリモアルド1世の姉妹ベッガの息子(グリモアルド1世の甥、キルデベルト養子王の従兄弟)ピピン2世の庶子カール・マルテルに始まる家(母は側室のアルバイダ)。カール・マルテルはピピン2世の嫡子グリモアルド2世とその母で父の正室プレクトルードを撃破、カロリング家を創始した。グリモアルド2世にはテウドアルドとアルノルドという2人の息子がいたがピピン家に後継者の地位を巡る争いに巻き込まれて敗北。741年にカール・マルテルが死去した後に、おそらくテウドアルドが暗殺され、ピピン家の流れは完全に途絶えた。小ピピンはカール・マルテルの息子)。