東フランク王国

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東フランク王国
フランク王国 843年 - 911年[1]/919年[2]/936年[3]/962年[4] 神聖ローマ帝国
ドイツ王国
東フランク王国の位置
ヴェルダン条約以後における東フランク王国とその宗主権が及ぶ地域。
首都 不明
皇帝
843年 - 876年 ルートヴィヒ2世(初代)
876年 - 887年 カール3世(フランク王国最後の統一、フランク・ローマ皇帝)
899年 - 911年 ルートヴィヒ4世(カロリング朝最後)
919年 - 936年 ハインリヒ1世(ザクセン朝初代)
936年 - 973年 オットー1世(初代神聖ローマ皇帝)
変遷
ヴェルダン条約 843年
カール3世のフランク王国の一時的統一 884年
フランク王国最後の分裂 887年
カロリング朝断絶 911年
オットー1世の皇帝戴冠 962年
ドイツの歴史
Coat of arms featuring a large black eagle with wings spread and beak open. The eagle is black, with red talons and beak, and is over a gold background.
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東フランク王国(ラテン語:regnum Francorum orientalium、:Ostfrankenreich)は843年にカール大帝の帝国(フランク王国、カロリング帝国)が分裂して成立した王国。およそ現在のドイツおよびオーストリアの領域にあたり、神聖ローマ帝国の前身でもある。840年から843年にかけてカール大帝の孫たちが引き起こした内乱の後、ヴェルダン条約によって帝国が3つの王国に分かれたうちの東部分である。カロリング朝の統治は911年までだった。東フランク王国は10世紀半ばまでに、ドイツ王国あるいは神聖ローマ帝国と見なされる政体へと変わり、それゆえドイツ国家の最も初めの段階とも言える。カロリング帝国がゲルマン系とラテン系の東西に分かれたことは分裂の固定化を招き、東フランク王国はドイツ王国に、西フランク王国はフランス王国になっていった。

歴史[編集]

ヴェルダン条約およびメルセン条約によるフランク王国の分割。橙色の部分が東フランク王国。

ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)[編集]

カール大帝の子である西ローマ皇帝(フランク王)ルートヴィヒ1世敬虔帝が840年6月20日に死ぬと、三人の息子が領土を巡って争った。その三年後にあたる843年8月にヴェルダン条約が結ばれ、敬虔帝の息子の一人ルートヴィヒ2世が843年、フランク王国東部を継承して東フランク王国が成立した[5]。国土の分割は大まかにマース川スヘルデ川ソーヌ川ローヌ川に沿って行われた。長兄ロタール1世は皇帝の称号とイタリアを含む中部フランクを、四男のシャルル2世(カール2世)禿頭王西フランクを、そして三男のルートヴィヒ2世ドイツ人王は東部のおおよそドイツ語圏にあたるフランケンアウストラシア)、ザクセン、アレマニア(シュバーベン)、バイエルンケルンテンテューリンゲンといった地域を手に入れた(次男のピピンは840年以前に死去)。東フランクの年代記Annales Fuldensesによるとフランク王国は「3つに分けられ」ルートヴィヒは「東部を受け取った」とある。西フランクの年代記Annales Bertinianiがルートヴィヒ領の範囲について述べるところでは、「分割での割当において、ルートヴィヒはライン川より東側の全域を手に入れ、ライン西河岸についてもシュパイヤー、ヴォルムス、マインツといった都市とその近郊を手に入れた」とある。

西フランク王国と中部フランクの皇帝領は伝統的なフランク中心部を含んでいたが、東フランクの大半は8世紀になってフランク王国に併合された地域であった。古来よりのフランク王国領は中央部のフランケンのみであり、それもアウストラシアと呼ばれた地域の東半分に過ぎない。他はザクセン、アレマニア、バイエルン、テューリンゲンの部族公領やデーン人、スラブ人に対する北部、東部の辺境伯領から成り立っていた。年代記Regino of Prumによるとゲルマン系、スラブ系の言葉を話す東フランクの「異民族」たちは「血筋、習慣、言語、法によって区別」できると記している。

皇帝ロタール1世の死後、その領土は三人の息子によってさらに分割された。ロタール1世の次男ロタール2世は東西フランク間に挟まっていた地域を継承してロタリンギア王国を建国したが、嫡子を残さず死去するに至って東西フランク間でメルセン条約が結ばれた。これはロタリンギアを東西フランクで分割して国境を定めるというもので、東フランクはメッツアーヘンを含むロタリンギア東部を獲得した[6]。ロタリンギアは現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスのロレーヌ地方、スイス西部にあたり、その後も20世紀に至るまでフランス・ドイツ間の戦争の舞台となった。

カール3世(肥満王)[編集]

ルートヴィヒ2世が876年に死ぬと、三人の息子が東フランク王国を分割相続した。長男のカールマンがバイエルン、次男のルートヴィヒ3世がザクセン、フランケン、テューリンゲン、ロタリンギア東部、三男のカール3世がアレマニアを継承した。

バイエルン王カールマンは叔父ロタール1世の嫡男である皇帝及びイタリア王ロドヴィコ2世から後継者に指名されていた。しかし875年にロドヴィコ2世が死去した際、実際にイタリアを奪取して教皇ヨハネス8世により皇帝とされたのは叔父の西フランク王シャルル禿頭王であった(皇帝カール2世)。ルートヴィヒ2世が死んだ876年にシャルル2世は帝国の統一をもくろみアーヘンを急襲、ケルンを拠点にルートヴィヒ3世の領地へと兵を進めたが[7]、三兄弟は連合軍を組織して10月8日にアンデルナハの戦いでシャルル軍を破った[8]。877年にシャルル2世が死去すると、カールマンはイタリアとその王位を奪還した。しかし879年に病を得たカールマンは嫡子を得ないまま皇帝になることなく880年に死去した。バイエルンはザクセン王ルートヴィヒ2世が、イタリアはアレマニア王カール3世が継承した。

ザクセン王ルートヴィヒ3世は879年に西フランクで起きた継承争いに介入し、リブモント条約により西フランク王国からロタリンギア西部を獲得した[9]。ルートヴィヒ3世はロタリンギアを統一したことでロタリンギア王位も獲得した。その後、兄のカールマンからバイエルンを相続し、アレマニアを除く東フランクを統治下とした。しかし882年に兄と同じく嫡子無きまま死去して弟のカール3世が遺領を継ぐことで東フランクは統一された。

アレマニア王カール3世(肥満王)は880年に兄のカールマンからイタリアを相続し、881年には西ローマ皇帝として戴冠した[10]。882年には兄ルートヴィヒ3世の死により東フランク王国を統一[11]884年には西フランク王を兼ねて「西ローマ帝国(フランク王国)」を再統一した[12]。全フランクは相続によって一時的に統一されたが肥満王には才覚も意欲もなかった。887年モラヴィア公スヴァトプルク1世やノルマン人の侵入への弱腰な対応がもとで貴族らの反乱を招き、翌年肥満王は廃位された[13]。その後再び東フランク王国、西フランク王国、イタリアは独自の王を頂くことになり、以後帝国の統一は永遠に失われることになった。

アルヌルフ[編集]

東フランクではカールマンの庶子であるケルンテンのアルヌルフが王に選出された。アルヌルフはひたすら闘い続けた戦士であり、積極的な対外遠征を行った。王位を巡って混乱が続く西フランク王国へと介入することで所属未確定のロタリンギアを手に入れ、庶長子のツヴェンティボルトをその王とした。ロタリンギア南端のブルグント王国はロタリンギア統一を試みたがよせつけなかった。アルヌルフは肥満王の養子ルイ3世プロヴァンス王に即位するための支援もした。891年9月のルーヴァンの戦いではノルマン人を撃退した[14]。さらに治世を通して大モラヴィア王国と戦い続け、ボヘミアを割譲させた。894年には教皇の要請でイタリアにも侵攻して西ローマ皇帝グイードランベルトの親子を破りイタリア王に戴冠した。896年にはグイード亡き後の西ローマ皇帝としても戴冠した[15]。しかし同年にアルヌルフは病気となり、対立皇帝ランベルトへの攻撃は中止された。

イタリアは失われランベルトは復権した。東からはモラヴィアとマジャール人が継続的に襲撃を続け、ロタリンギアでも内乱が起きていた。しかし病床のアルヌルフは対処できなかった。王権の弱体化が進みフランケン、ザクセン、バイエルン、シュバーベン、ロタリンギア(ロートリンゲン)の公たちは、在地貴族が王に任命される官職から世襲的地方統治者へと変わっていった。898年にランベルトが病死したことでアルヌルフは単独の皇帝となったが、もはや意味は無く899年に死去した。東フランクは嫡子のルートヴィヒ4世(幼童王)が継いだが幼少のため摂政団が組織された。マジャール人の攻撃は激しさを増すばかりで、摂政を2名失い現在のスイス地域にまで侵入を許して西フランクの援軍によってやっと追い返せるという事態にまでなった。

コンラート1世(若王)[編集]

911年、ルートヴィヒ4世の死により東フランク王国におけるカロリング朝は断絶した[16]。フランケン、ザクセン、バイエルン、シュバーベンの貴族は自らを統治する王を西フランクに残っていたカロリング朝から選ぶことはせず、自分たちの中から新しい王を選出した。こうして選ばれたコンラート1世はフランク人を代表するフランケン公であったが、公たちの一人に過ぎないということでもあり、王国に権威を確立するのは困難であった。ロートリンゲンはコンラートを認めず、西フランク王シャルル3世を自らの王に選んでいた。ザクセン公ハインリヒ1世はコンラート1世に対して915年まで反乱を起こした。バイエルン公アルヌルフもまた反乱を起こし、鎮圧に向かったコンラート1世はその命を失うことになった。負傷して死の床にあったコンラート1世は王として最もふさわしい後継者にザクセン公ハインリヒ1世を指名して918年に死去した。

ハインリヒ1世(捕鳥王)[編集]

ハインリヒ1世はフリッツラーの会合においてまずザクセン人とフランク人からのみ王として選出された。王権はフランク人からザクセン人に移ったが、そもそもザクセン人とはカール大帝の征服事業における最大の難敵でもあり、この時点で東フランク王国は「フランク王国」ではなくなったとも言える。ハインリヒ1世は他の公を服属させる必要があったが、あくまで公たちの代表だという立場を崩さないことで支持を確立し、公たちを一つにまとめあげる国家組織を作り上げた。王国の分割相続の慣例を否定し、ロートリンゲンを奪還し、マジャール人に対する防衛戦にも成功した。西フランクで起きたような王権の崩壊を防いだハインリヒ1世は、より強固な王権を息子オットー1世に残して936年6月に死去した。オットー1世は962年にローマで皇帝として戴冠され、神聖ローマ帝国の時代が始まった。ただしこの時点ではまだ単に「帝国」と呼ばれており、神聖ローマ帝国という国号になるのはさらに約300年先のことである。

国名[編集]

東フランクという語は本来フランケン地方を指し、東フランク人とはライン川流域東側に住むフランク族を指すものである。より広い意味で「東王国」を指す場合には、ルートヴィヒドイツ人王が新たに立てた王国、すなわち当記事の王国を指す。「東フランク」という言葉はフランク王国中心部の東半分であるアウストラシアと同一視されるものでもあるが、ルートヴィヒ2世が得たのはアウストラシアのさらに東半分に過ぎない。にも関わらずルートヴィヒ2世が自らの王国に「東フランク」と名付けたことはアウストラシア西部であるロタリンギアを奪取する野心を現すものともとれる。実際にルートヴィヒ2世はロタリンギアの東半分をメルセン条約で手に入れ、子のルートヴィヒ3世はリブモント条約で西半分も手に入れた。ルートヴィヒ2世の孫であるアルヌルフの時代にこの用語の価値は大幅に下がり、国を名前で呼ぶ必要があるときは単に「フランク王国」とした。ザクセン人であるハインリヒ1世が王になると王権がフランク族の手を離れたため、この国は単に「王国」と呼ばれるようになり[17]、その王も単に「王」とのみ呼ばるようになった。962年にオットー1世がローマ皇帝になると東フランク王国は神聖ローマ帝国の一部となるが、この時点では「王国」と「帝国」との関係は不明瞭であった[18]

ただし必要に応じて、「東フランク」の修飾語が再び現れることもあった。例えば921年における西フランクとのボン条約でハインリヒ1世は自らを「東フランク王」と称している。「王国」はやがて11世紀以降の叙任権闘争の中でドイツ王国と呼ばれるようになり、神聖ローマ帝国を構成する3王国(ドイツ王国、ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられることとなる[19]。12世紀までには「東フランク王国」の国号は年代記において「東フランク王国は今、ドイツ王国(regnum Teutonicorum)と呼ばれている」と説明しなければならないような過去のものとなっていた。

国王の権威[編集]

カロリング帝国のレガリア(王権の象徴となる物品)はルートヴィヒ1世敬虔帝の死に際して皇帝ロタール1世とシャルル2世禿頭王が分け合った。ルートヴィヒ2世ドイツ人王は父に対して反乱を起こしていたため、戴冠用宝玉や典礼書といったカロリング王権に結びついたものは何も受け取れなかった。そのため、東フランク王権の象徴や儀式は一から作られた。

早い段階から東フランク王国は西フランク王国と比べて国王選挙についてより形式ばった概念を持っていた。900年頃、国王戴冠式のためのordoと呼ばれる典礼書が成立し、これは民間の観衆のために書かれたものであった。王冠を授ける者はまず教会と民衆を守る意思があるか新国王に問い、その後で観衆に振り向いて新国王に服従してその法に従う意思があるかを尋ねた。観衆は「許可! 許可!」と叫び、この行為は後に国王の正当性を示す「認識」の儀礼として知られるようになった。

888年6月に国王アルヌルフはマインツで教会会議を招集した。東フランクの三大司教、すなわちケルン大司教ヴィリヴェルト、マインツ大司教リウトベルト、トリーア大司教ラトボドが参加し、さらに西フランク王国からランス大司教フルクととルーアン大司教ジャン1世がボーヴェとノワイヨンの司教を連れて参加していた。この会議の目的は西フランクで行われている聖成と塗油の儀式を東フランクにも導入することであり、キリスト教的思想が欠けている東フランクには西フランク大司教たちの助言が必要だった。これは東西フランク王国を再び一つにまとめる第一歩として位置づけられていた。895年にもトレーブールで会議が開かれ、司祭はアルヌルフが人ではなく神によって王に選ばれていることを宣言し、アルヌルフは教会とその特権をあらゆる外敵から守ることを誓った。アルヌルフが899年に死去すると末子のルートヴィヒ4世が戴冠した。このとき塗油は行われず、幼少の王はマインツ大司教の保護下に置かれた。ルートヴィヒ4世の戴冠式は詳細な記録が残るものとしてはドイツ初のものである。ルートヴィヒ4世が911年に早世すると、フランケン公コンラートが11月10日に新国王として選ばれ国王として塗油を受けた。ハインリヒ1世は戴冠の塗油を拒否したが、オットー1世以降は塗油の儀式を行っている。

歴代国王[編集]

カロリング朝系図
  1. ルートヴィヒ2世843年 - 876年
  2. カールマン876年 - 880年) バイエルン王
  3. ルートヴィヒ3世876年 - 882年) ザクセン王
  4. カール3世(肥満王)876年 - 887年) アレマニア王 フランク・ローマ皇帝
  5. アルヌルフ887年 - 899年)ケルンテン公
  6. ルートヴィヒ4世(幼童王)899年 - 911年
  1. コンラート1世911年 - 918年
  1. ハインリヒ1世919年 - 936年
  2. オットー1世936年 - 973年)※962年以降は神聖ローマ皇帝を併任。

脚注[編集]

  1. ^ カロリング朝断絶
  2. ^ 王権がフランク人に限定されなくなる
  3. ^ オットー1世の国王即位及び分割相続の廃止
  4. ^ 神聖ローマ帝国成立
  5. ^ 成瀬他、p. 89
  6. ^ 成瀬他、p. 92
  7. ^ 成瀬他、p.91
  8. ^ 瀬原、p.52-53
  9. ^ 成瀬他、p. 92
  10. ^ 瀬原、p. 55
  11. ^ 成瀬他、p. 92
  12. ^ 瀬原、p. 55。西フランク王カルロマン2世の死去(884年12月12日)による。ただし、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院長ゴズランの要請で西フランク王位を受けたのは885年2月のことである。西フランクのカロリング朝にはシャルル3世が残っていたがまだ幼児で、肥満王に後見された
  13. ^ 瀬原、p. 55-56
  14. ^ 瀬原、p. 56
  15. ^ 瀬原、p. 57
  16. ^ 成瀬他、p. 100
  17. ^ シュルツェ、p. 25
  18. ^ 「王国(regnum)」と「帝国(imperium)」との区別がはっきりするのは、ブルグント王国の編入(1032年)以降のこととされる(シュルツェ、p. 7)
  19. ^ シュルツェ、p. 7

参考文献[編集]

  • 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典Ⅱ-皇帝と帝国-』 ミネルヴァ書房、2005年

関連用語[編集]