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グイード・ダ・スポレート (イタリア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グイード・ディ・スポレート
グイード
Guido da Spoleto
イタリア王
ローマ皇帝
グイードのシール
在位 イタリア王:889年 - 894年
ローマ皇帝:891年 - 894年
別号 スポレート公

出生 855年
イタリア王国スポレート
死去 894年12月12日
イタリア王国、ターロ川
埋葬 イタリア王国パルマ大聖堂
配偶者 アジェルトゥルデ・ディ・ベネヴェント
子女 ランベルト
ロチルデ
家名 ヴィドー家
父親 グイード1世・ディ・スポレート
母親 イッタ・ディ・ベネヴェント
宗教 カトリック教会
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グイード・ダ・スポレート(Guido da Spoleto, ? - 894年12月12日) は、中世のイタリア889年 - 894年)でローマ皇帝(在位:891年 - 894年)。ヴィドー家出身で、スポレート公(在位:883年 - 894年)としてグイード3世とも呼ばれる。

生涯

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フランクの家柄で、846年にローマがサラセン人の攻撃を受けたときに戦ったグイード1世・ディ・スポレートの息子である。ヴィドー家では2人目のグイードのため、グイード2世と呼ばれる。女系を通してカロリング家と血縁関係があった(祖母がカール大帝の息子イタリア王ピピンの娘)。スポレート公を継いでいた兄ランベルト1世が880年に死去、兄の息子グイード3世(スポレート公としては2世)も883年に死去し、その子が年少のため同年公位を継承した。ベネヴェント公アデルキの娘アジェルトゥルデと結婚し、息子ランベルト2世を授かった。また、娘ロチルデはトスカーナ辺境伯アダルベルト1世と結婚した。

882年、ローマ皇帝カール3世に反逆のかどで所領を奪われたが、翌年再占領し、カメリーノ侯となった。885年にはガリリャーノ川でサラセン人を撃退した。

888年に皇帝が崩御した後、西フランク王の選出の際は企てに失敗するが(ウードが選ばれた)、イタリア王位をかけた紛争では、889年のトレッビア川での戦いでベレンガーリオを破りパヴィーアで戴冠した。

891年2月21日には教皇ステファヌス5世から、ローマ皇帝としての戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で保った。続く教皇フォルモススとは対立関係となり、教皇はアルヌルフをイタリアに呼び寄せた。

894年にアルヌルフがイタリアに侵攻、ベルガモミラノ、パヴィーアを征服し、そこでグイードに対するイタリア王と公認されてベレンガーリオの領土の寄贈を受け、ゲルマニアに戻った。しかし、グイードから助けを求められたイヴレーア侯アンスカーリオ1世は、ブルグント王ルドルフ1世が派遣した援軍によりイヴレーアにてアルヌルフの進軍を阻止しようとした。アルヌルフは封鎖を越え、戦闘を回避するために山中にいるルドルフを攻撃した。

同年(894年)、グイードは死去し、息子のランベルトに対立王位を残した。

脚注

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参考文献

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  • René Poupardin, I regni carolingi (840-918), in Storia del mondo medievale, vol. II, 1999, pp. 583-635
  • Tommaso di Carpegna Falconieri, Guido di Spoleto, in Dizionario biografico degli italiani, 61, Roma, Istituto della Enciclopedia Italiana, 2003, pp. 354-361

関連項目

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先代
カール3世
ローマ皇帝
891年 - 894年
次代
ランベルト
先代
ベレンガーリオ1世
イタリア王
889年 - 894年
次代
ランベルト
ベレンガーリオ1世
(王位係争)
先代
グイード2世
スポレート公
883年 - 894年
次代
ランベルト2世