イタリア王国 (中世)

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イタリア王国
ランゴバルド王国 774年[1] - 1797年[2] チザルピーナ共和国
イタリアの位置
947年の西ヨーロッパ。ピンクがイタリア王国の版図。
首都 パヴィア(11世紀まで)
イタリア王皇帝
774年 - 814年 カルロ1世(フランク・ローマ皇帝、初代)
855年 - 875年 ロドヴィコ2世(フランク・ローマ皇帝、独自の王として初代)
888年 - 924年 ベレンガーリオ1世(フランク・ローマ皇帝)[3]
951年 - 973年 オットーネ1世(神聖ローマ皇帝)[4]
1002年 - 1004年 アルドゥイーノ(最後の独自の王)[5]
変遷
カルロ・マーニョのイタリア王戴冠 774年
イタリア王国として独立 855年
無秩序時代の開始 888年
神聖ローマ帝国の支配下となる 963年
一時的に独立(2年間) 1002年

イタリア王国ラテン語:Regnum Italiae または Regnum Italicum)は、ドイツ、ブルグントと共に神聖ローマ帝国を構成した王国である。ヴェネチア共和国を除く北部および中部イタリアから成る。11世紀まで首都はパヴィアとされた。8世紀後半に成立して以来1000年以上の歴史を持つものの、その殆どの期間はカロリング帝国や神聖ローマ帝国の構成国としてのものであり、独立していたのは9世紀から10世紀にかけての100年足らずであった。13世紀には政体としての実態を失い、16世紀後半以降はイタリア王の称号自体が使われなくなった。一方で王国の封建的ネットワークは18世紀末まで名目的ながら維持された。

概要[編集]

 773年、フランク王カルロ・マーニョは、アルプス山脈を越え、ランゴバルド王国に侵攻した。ランゴバルド王国はローマと南イタリアの東ローマ帝国領を除いたイタリアを領土としていた。774年6月、ランゴバルド王国は滅亡し、フランク王国が北イタリアの支配者となった。南イタリアはランゴバルド族の支配に留まった。カルロ・マーニョは自らランゴバルド王=イタリア王を兼ね、800年にローマでローマ皇帝として戴冠された。781年、カルロ・マーニョは息子のピピンを共同のイタリア王として支配を任せた(810年に死去)。イタリア王位を引き継いだピピンの息子ベルナルドが818年に死ぬと、イタリアはそのいとこであるロターリオ1世に渡った。カロリング朝は皇帝カルロ3世887年に退位するまでイタリアを支配したが、その後にイタリアを取り戻したのは894年から896年の一度きりだった。961年までイタリア内外の諸侯が、皇帝位の前提でもあるイタリアの支配権を求めて争い続けた。

961年、先代イタリア王の未亡人であるアデライーデと結婚していた東フランク(ドイツ)王オットー1世はイタリア王国に攻め込み、12月25日にパヴィアで自らイタリア王オットーネ1世として戴冠した。オットーネ1世以後に独自のイタリア王が立てられたのはその孫である皇帝オットーネ3世が死去した際のアルドゥイーノ一人のみで、ドイツとイタリアは皇帝という共通の君主を持つことになった。帝国は1032年にブルグント王国も統合した。皇帝はイタリア王であるもののイタリアにいることは少なかったため、イタリアの中央政府は中世盛期に早くも消失した。しかしイタリアが帝国の中の王国であるという認識は残った。歴代皇帝はしばしばイタリアに進駐し、発展していく都市国家群に対して影響力を行使した。結果として、ゲルフ(教皇派、反皇帝派)とギベリン(皇帝派)の間で戦争が起こった。これは12世紀から14世紀におけるイタリアの政治的状況の特徴であり、ロンバルディア同盟が最も有名な例である。ロンバルディア同盟は独立宣言こそ行わなかったものの、皇帝が主張するイタリア王としての権力へは明確に反抗した。

15世紀までに、都市国家群の権限は大幅に衰退した。1423年から1454年にロンバルディアで起こった一連の戦争によってイタリアに割拠していた領邦の数はさらに減っていった。続く40年は比較的平和だったものの、1494年にイタリア半島はフランス王国に侵略された。この結果1559年まで続く大イタリア戦争が勃発し、殆どのイタリア領邦はその支配権をスペイン王国フェリペ2世に譲ることとなった。スペイン・ハプスブルク家は帝位を世襲するオーストリア・ハプスブルク家と連携し、1700年に断絶するまでイタリアを支配し続けた。1701年から1714年スペイン継承戦争の結果、スペインのイタリアでの覇権はオーストリアの皇帝に引き継がれた。

1495年から1512年、神聖ローマ帝国ではイタリア戦争と平行して帝国改造が実施されていた。帝国改造では帝国を10のクライスに分けて治安維持にあたることが決められたが、イタリア王国はアルプス以南の帝国クライス外の領域と位置づけられた。以後、皇帝は司法面でのみイタリア王としての面目を保ち、イタリア王国の「政府」とは皇帝代理とハプスブルク家領代官の人的ネットワークとなっていた。イタリアにおける皇帝の支配は1792年から1797年のフランス革命軍によって終わり、フランス革命政府の衛生国家が次々と建国された。1806年、アウステルリッツの戦いナポレオンに敗北した最後の皇帝フランツ2世によって、神聖ローマ帝国は解体された。

前史:ランゴバルド王国[編集]

8世紀初頭のイタリア。オレンジ色はランゴバルド王国、黄色及びピンク色は東ローマ帝国領。ただしピンク色は係争地

西ローマ帝国滅亡後にイタリアを支配していた東ゴート王国の王はイタリア王を名乗っていたが、530年代にローマ奪還を狙う東ローマ帝国に攻撃された。数年の戦いの後、タギナエの戦いで東ゴート王トーティラは殺された。東ローマ帝国の将軍ナルセスはローマを占領し、クムエを包囲した。新しい東ゴート王テーイアは残る東ゴート軍を集め、包囲を解くために進軍した。552年10月、ナルセスはカンパニアのモン・ラクタリウスでテーイアを不意打ちした。戦いは二日間に及び、テーイアは戦死した。イタリアにおける東ゴート王国の勢力は駆逐されたが、ナルセスはわずかな生き残りが帝国領内の故地へ戻ることを許した。この戦いの後、権力者不在となったイタリアにフランク王国が攻め込んだが、東ゴート族と同様にビザンチン帝国軍に打ち負かされ、イタリア半島はわずかな間ではあるがローマ帝国に復帰した。

しかし、567年から568年にかけてイタリアはランゴバルド王国に侵略された。アルボイーノ王はイタリア王の称号を用い、ランゴバルド族はイタリアに定住して支配を続けた。イタリア征服前後のランゴバルド王国についての一次資料は、7世紀に書かれた作者不明のOrigo Gentis Langobardorumと8世紀に助祭パオロが書いたHistoria Langobardorumがある。Origoに列挙された最初期の王は殆ど伝説的なものである。彼らは民族移動期にランゴバルド族を率いたとされ、存在が確実な最初の王はタートである。

イタリアを征服したランゴバルド王国は2つの地域から成り立っていた。大ランゴバルドはイタリア北部から中部にかけて存在し、その西側をネウストリア、東側をアウストリアと言った。小ランゴバルドは東ローマ帝国のラヴェンナ総督領を挟んでイタリア中部から南部にかけて存在していた。ランゴバルド王は自らをイタリア王(ラテン語: rex totius Italie)と称することもあった。しかし諸公が持つ自治性は建国当初から強く、二世紀にわたるランゴバルド王国の歴史の中では王がいない時期もあった。王権が強大で十分な自治が得られない時期でさえ、諸公は勢力を蓄えた。それでもランゴバルド王国はかつての東ゴート王国と比べると安定した国家であったことがわかっている。

カロリング朝イタリア[編集]

774年、教皇の保護を名目としたカルロ・マーニョ率いるフランク王国はランゴバルド王国に攻め込んだ。ランゴバルド族は774年にパヴィアを包囲されて敗北し、ランゴバルド王国はカルロ・マーニョのフランク王国の下に置かれた。そしてカルロ・マーニョはランゴバルド族の王冠であるロンバルディアの鉄王冠(コーローナ・フェッレア)を使い、自らランゴバルド王=イタリア王として戴冠した。その後も鉄王冠は数世紀にわたってイタリア王の戴冠式に使用された。ただしカルロ・マーニョの征服は領土面では大陸部の大ランゴバルドの占領に留まり、半島部南方の小ランゴバルドは征服されなかった。小ランゴバルドではランゴバルド族の支配が9世紀から10世紀にかけて続き、その後もイタリア王国に合流せず、シチリア王国となっていった。

大ランゴバルドに成立したイタリア王国は形式上ではフランク王国と別の国家であったものの、フランク王国カロリング朝の王が支配し続けた。イタリア王国はカロリング帝国の分治、分裂、内戦、相続争いの全てでフランク王国の一部として扱われた。843年ヴェルダン条約でカロリング帝国は3つに分裂し、イタリアは皇帝ロターリオ1世の中フランク王国に含まれた。855年に皇帝が死ぬと、中フランク王国はさらに三人の息子たちに分割された。長男のロドヴィコ2世はイタリアと帝位を相続し、カロリング朝として初めてイタリア独自の王となった(カルロマーニョの息子ピピンが800年前後に共立王としてイタリアの支配を任されてはいた)。イタリア王国の南限はローマスポレートまでであり、そのさらに南にはランゴバルド王国の残党であるベネヴェント公国やビザンチン帝国領があった。皇帝ロドヴィコ2世が継嗣なく死去すると、その後は混乱の数十年となった。イタリア王位はまず西フランク王国(フランス)のシャルル禿頭王(カルロ2世)、次いで東フランク王国(ドイツ)のカールマン(カルロマンノ)カール肥満王(カルロ3世)といったカロリング朝の王たちに渡った。肥満王の退位により、カロリング帝国は再度分裂し、イタリア王国も再び独立した。しかしそれは統治されているとはとてもいえない無秩序な状態であった。イタリア王国では地方領主が王位を巡って争い、外からの干渉も止むことが無かった。さらには東からはマジャール人に襲撃され、シチリアや北アフリカから急襲してくるアラブにも苦しめられ、中央の権威は失墜していった。

888年に肥満王が退位すると、まず最初はカロリング家の遠縁であるフリウーリ辺境伯イタリア語版ベレンガーリオ1世(母はルートヴィヒ1世の娘)がイタリア王として戴冠した。しかし、イタリア王に即位したスポレート公グイードによってじきに取って代わられた。両人の争っている間はイタリアは事実上二分化されていた。889年トレッビア川での戦いで勝利したグイードはパヴィアでイタリア王として戴冠した。891年にグイードは皇帝として戴冠して892年には息子ランベルトにイタリア王位を授けることに成功した。しかしその後、グイード親子と教皇の関係は悪化した。894年にグイードが死ぬと、ベレンガーリオ1世は王位を巡る争いを再開させた。また895年、教皇フォルモススは肥満王の甥にあたる東フランク王アルヌルフ(アルヌルフォ)を呼び寄せた。ベレンガーリオ1世はランベルトと休戦を結んだ。

東フランク王アルヌルフォは894年における最初のイタリア遠征においてイタリア王として戴冠した。二回目の895年からの遠征ではローマを征服することにも成功し、896年12月に皇帝として戴冠した。しかしアルヌルフォはリューマチを患ったため東フランクに帰還することを余儀なくされ、帰国後もマジャール人の襲撃への対応にかかりきりとなってしまった。896年末にランベルトとベレンガーリオ1世は東フランクの勢力をイタリアから一掃することに成功し、正式に二度目のイタリア分割を行った。898年にランベルトが死んだことで、ベレンガーリオ1世はイタリア王への復位を宣言した。899年にアルヌルフォも死去した。ベレンガーリオは権力や領土の安定を図り、イヴレーア辺境伯アダルベルト1世と娘ギーゼラを結婚させ、900年には後のイタリア王ベレンガーリオ2世が産まれた。しかしマジャール人の襲撃はイタリアにも及ぼうとしていた。ベレンガーリオはブレンタ川でマジャール人に敗北を喫し、高額の身代金を支払わされることになった。頼りにならないベレンガーリオに代わる王として、教皇とトスカーナ辺境伯はロドヴィコ2世の娘を母とするプロヴァンス王ルイ3世を皇帝位に就けようと画策した。

プロヴァンス王ルイ3世はイタリアに攻め込んでベレンガーリオを破った。900年秋にルイ3世はイタリア王ロドヴィコ3世として戴冠し、翌901年2月22日にはローマ教皇ベネディクトゥス4世の手でローマにて帝冠を授けられた。皇帝となったロドヴィコ3世は東ローマ皇帝の皇族から妃を迎えた。しかしベレンガーリオ1世は戦いを止めることはなく、905年6月21日ヴェローナにてロドヴィコ3世を捕虜とすることに成功した。捕虜となったロドヴィコ3世は盲目にされてプロヴァンスに追放されてそこで余生を送ることとなった。しかしベレンガーリオの勢力は依然として弱く、中部イタリアは半ば独立していた。

915年、ベレンガーリオはローマからイスラム教徒を追い出した功績によってようやくローマ教皇ヨハネス10世の手で皇帝として戴冠した。数年後に再び皇帝に不満を抱く勢力が皇帝の娘婿であるイヴレーア辺境伯を中心に結成され、上ブルグント国王ルドルフ2世に支援を求めた。ルドルフ2世はイタリア王ロドルフォとして即位し、フィオレンツオーラ・ダルダ近くにおいてベレンガーリオの軍と衝突した。923年6月23日に決定的な敗北を喫したベレンガーリオ1世はマジャール人に支援を求めたものの、このことは最終的に自らの支援者の離反を招き、924年4月7日に裏切りに遭って殺害される羽目に陥った。ベレンガーリオの死を以て皇帝号は消滅し、イタリアは数十年間に渡って幾つもの北イタリアやブルグントの貴族達が支配権を巡って争う競合状態がさらに続いた。さらにローマの教皇の地位はパトリキ(貴族)の完全な統制下におかれたことが明白となった。

925年、ロドルフォを王として受け入れなかった一部の諸侯は、ロドヴィコ3世盲目王に代わってプロヴァンスを治めていた摂政ユーグ・ダルル(ウーゴ)をイタリア王に選んだ。926年、ロドルフォはブルグントへ撤退し、ウーゴはアルプスを越えイタリア王位に就いた。ウーゴはマジャール人による襲撃に対してかなりの成果を治め、外敵から領土を守ることに成功した。931年には、息子のロターリオ2世を後継者として共同王位につけた。ウーゴは帝位を目指したが、親族に権力を与え、ビザンツ帝国との関係を築こうとした結果、イタリアでも多くの敵を作った。ウーゴはローマの実権を握る女性マロツィアと結婚してパトリキと結びつこうとしたが、これは完全な失敗に終わった。また、イタリア王位をめぐるロドルフォとの対立関係も未だ続いていた。933年、プロヴァンスでの勢力安定にも失敗していたウーゴは、ロドルフォにイタリアを諦めさせる代わりにプロヴァンスを譲り渡した。941年にウーゴは敵対するイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ(ベレンガーリオ1世の孫)から伯位を取り上げてイタリアから追放したが、945年に反撃されて逆にプロヴァンスに隠棲させられた。

947年、イタリアに残されたロターリオ2世は、ロドルフォの娘アデライーデを妻に迎えた。かつてのウーゴとロドルフォの講和の一環であった。しかし950年、ロターリオはおそらくベレンガーリオに毒殺された。ベレンガーリオはイタリア王ベレンガーリオ2世として息子のアダルベルトとともにイタリア王として戴冠した。前王を毒殺した容疑により親子の政治的地位は弱体化しており、そのためベレンガーリオはロターリオの未亡人アデライーデにアダルベルトとの結婚を強制しようとした。

帝国イタリア[編集]

1000年のイタリア王国。黒枠内が神聖ローマ帝国の領域

951年、イタリア王ロターリオ2世の未亡人アデライーデは、ロターリオを毒殺したと噂される現イタリア王ベレンガーリオ2世によって監禁され、ドイツ人の王オットー1世に救援を求めた。オットー1世はイタリアに侵攻し、アデライーデを救い出した。オットーはアデライーデと結婚し、パヴィアにてロンバルディアの鉄王冠を使いイタリア王オットーネ1世として戴冠した。ベレンガーリオ2世親子は一旦許されてイタリアの統治を任されたが、960年にベレンガーリオは教皇領を攻撃した。オットーネは教皇ヨハネス12世に招聘されてイタリア王国に進軍してベレンガーリオ親子を打ち破った。962年2月2日、オットーネはローマにて神聖ローマ皇帝として戴冠された。このときから、イタリア王は常にドイツ人の王が兼ね、イタリア王国は神聖ローマ帝国の構成国家となった。ドイツ人の王、11世紀からはローマ王と名乗った皇帝候補者はパヴィアにてミラノ大司教によってロンバルディアの鉄王冠でイタリア王としても戴冠し、それからローマに赴いて教皇に皇帝として戴冠されるのである。しかし1002年に皇帝オットーネ3世が死んだ時は例外であった。ベレンガーリオ2世の後継者であるイヴレーア辺境伯アルドゥイーノがイタリア王位に選ばれ、ケルンテン公オットー1世が率いるドイツ人の王国軍を打倒する事件が起きた。1004年にはドイツ人の王ハインリヒ2世がイタリアへ進攻し、自らイタリア王エンリーコ1世として戴冠した。アルドゥイーノは、1861年ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位する以前としては、最後に君臨した独自の「イタリア王」となった。

1032年にエンリーコの後を継いだサーリカ朝(ザーリアー朝)コッラード1世は、ブルグント王国を神聖ローマ帝国に併合した。また、自分に逆らうミラノ大司教とその他イタリアの貴族たちに王の支配権をわからせようとした。1037年、ミラノは包囲された。コッラードは封土の法典を定めて小貴族たちの領土の世襲を保証し、彼らの支持を確保した。こうしてコッラードは自らの支配を安定させることができた。しかしイタリアにおける帝国の支配権には異論が唱えられ続けた。

皇帝=国王はイタリアには殆ど不在であり、大部分の時間をドイツ語圏で過ごした。国王のいないイタリア王国には中央政府の権威がほとんど存在しなかった。それは広い領土を持った権力者がいないということだった。トスカーナ辺境伯のみはトスカーナ、ロンバルディア、エミリアにまたがる広大な領土を持っていて唯一注目に値したが、1115年叙任権闘争で活躍したマティルデ・ディ・カノッサが後継者無く死んで断絶した。この権力の空白を埋めだしたのは教皇と司教、そして徐々に豊かになってきたイタリアの都市だった。イタリアの諸都市は徐々に周囲の農村を支配領域に組み込んでいった。

スタウフェン朝[編集]

ホーエンスタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)の皇帝フェデリーコ1世バルバロッサの治世、勢力を増していった都市群は初めてその力を示そうとした。イタリア半島における帝国の権威を復活させようとしたフェデリーコ1世は、ロンバルディア同盟と一連の戦争を行った。ロンバルディア同盟は北イタリアの都市から構成されていた。1176年5月29日、ロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでフェデリーコ1世を破り、1183年にコンスタンツ条約で皇帝の権威を認めて上納金を納める代わりに都市の自治を承認された。

フェデリーコ1世の息子エンリーコ5世はイタリアにおけるホーエンスタウフェン朝の権威を拡大しようとした。エンリーコ5世はシチリアのノルマン王国を攻め、シチリア島と南イタリアの全てを征服することに成功した。エンリーコの息子フェデリーコ2世は本拠地をイタリアに置いた初めての神聖ローマ皇帝であった。フェデリーコ2世は父が成し遂げようとした北イタリア王国における帝権の復活に関する政策を再開させた。これにはロンバルディア同盟だけでなく教皇も激しく抵抗した。教皇はイタリア中央の世俗的な領土(理念的には帝国の一部)に執着しており、ホーエンシュタウフェン朝の皇帝による主導権を恐れていた。

フェデリーコ2世は全イタリアを支配下に置くために努力したが、祖父と同様に失敗した。そして1250年にフェデリーコ2世が死去し、実効的な政体としてのイタリア王国は事実上終わりを告げた。都市間でギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)の争いは続けられたが、争いは徐々に本来の意義からかけ離れていった。

衰退[編集]

神聖ローマ帝国のイタリア政策が弱まってからも、イタリア王国は全く意味を失ったわけではなかった。1310年ルクセンブルク家のローマ王ハインリヒ7世が5000人の騎士を連れてアルプスを越えた。目的は無論、イタリア王と神聖ローマ皇帝としての戴冠である。イタリア王としての戴冠式が行われるミラノはゲルフ(反皇帝派)のグイード・デッラ・トッレが治めていたがこれを撃破し、ヴィスコンティ家のマッテーオ1世を復権させた。ローマ王はミラノにてロンバルディアの鉄王冠で戴冠してイタリア王エンリーコ6世となった。その後エンリーコ6世はローマへ向かい、教皇クレメンス5世の代理である三人の枢機卿によって神聖ローマ皇帝に戴冠された。エンリーコはさらに帝権復活のためにナポリ王国への侵攻も計画する。しかしエンリーコは翌年に急死し、計画は中止となった。

14世紀から15世紀にかけて、皇帝位はルクセンブルク家、ハプスブルク家ヴィッテルスバッハ家によって争われた。ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世(1347年まで在位)は、ハプスブルク家のフリードリヒ美王と対立していた。二重選挙によって両方が王として選ばれていたのである。1322年9月に「ドイツにおける最後の大騎士戦争」とも呼ばれたミュールドルフの戦いで勝利したルートヴィヒ4世は、1328年にローマで皇帝ロドヴィコ4世として戴冠された。皇帝に戴冠されることで、フリードリヒより上位であることを示したのである。ロドヴィコ4世の次代であるカルロ4世もローマに赴き、1355年に戴冠された。帝国の支配者はイタリア王を兼ねるという理念を忘れた皇帝は一人もいなかった。イタリア人自身もまた、皇帝がカトリック世界に対する普遍的支配権を持つという概念を忘れていなかった。ダンテパドヴァのマルシリウスも、普遍的帝国という概念によって秩序をもたらんさんとするエンリーコ6世やロドヴィコ4世に期待していた。一方でカルロ4世の興味はもっぱら自領ボヘミアの経営にあり、戴冠式の際はイタリアを素通りして帝権を切り売りしていったためローマ市民を失望させ、1378年ブルグント王国をフランスに割譲してもいる。

この時代、かつて共和国であった都市国家を専制的に支配する僭主(シニョリーア)が現れ始め、公や侯といった称号を与えられていった。皇帝は実力者に位と正当性を与える立場にいることで、帝国がイタリアを支配しているという主張を明確にしたのである。最も注目すべきはルクセンブルク家の皇帝たちがミラノのヴィスコンティ家を支援したことで、1395年にはときのローマ王ヴェンツェルジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティミラノ公の称号を与えている。皇帝は他の家系にも新しい称号を与えており、マントヴァゴンザーガ家モデナフェラーラエステ家などがそうである。ルクセンブルク家は僭主を公に叙爵して得た上納金をボヘミアの発展につぎ込んだ。

近世イタリア[編集]

1494年のイタリア

近世初期、イタリア王国は未だ存在していた。しかしもはや影のようなものにすぎなかった。イタリア王国の領土は著しく削られていった。北東イタリアの諸邦が帝国外のヴェネチア共和国に併合されていったためである。ヴェネチア共和国はビザンチン帝国の飛び地として始まり、最初から神聖ローマ帝国の一部ではないという自負があった。この頃になるとヴェネチアの支配地域は北東イタリアの殆どを占めていた。また、ローマ教皇も中央イタリアの教皇領における完全な主権と独立を宣言していた。それでも帝国イタリアの諸邦は未だに封建的ネットワークで結ばれており、皇帝は大小250から300のイタリア封土の正式な封主であった。

スペイン王ナポリ王を相続していたハプスブルク家カルロ5世が皇帝となったことでイタリアにおける皇帝の地位は大いに強くなった。カルロ5世はフェデリーコ2世以来のイタリアに支配権を確立しうる皇帝であった。1494年から始まっていたイタリア戦争の一環として、カルロ5世はまずフランスの援助を受けていた諸侯たちの企みを阻止してミラノ公国からフランスを追い出した。すると皇帝の影響力が必要以上に強まることを恐れた教皇と諸侯たちは、フランスとコニャック同盟を結んだ。コニャック同盟を破壊するため、カルロ5世はローマ略奪を行ってメディチ家の教皇クレメンス7世を屈服させた。さらにフィレンツェを征服し、メディチ家をフィレンツェ公として復帰させた。このフィレンツェのメディチ家はのちにトスカーナ大公となる。さらにミラノのスフォルツァ家が断絶すると、カルロ5世はミラノは帝国の封土であると宣言し、息子のフィリッポを新たな公に据えた。イタリア戦争は1559年に終結した。

しかし、この新たな帝権は帝国には残らなかった。カルロ5世の後に皇帝となったのはオーストリア大公である弟のフェルディナンドであるが、ハプスブルク家のイタリアにおける権力はスペイン王となった息子のフェリペ2世(ミラノ公フィリッポ)に移されたからである。ロンバルディアの鉄王冠を用いたイタリア王としての戴冠もカルロ5世以来途絶え、皇帝がイタリア王を表だって名乗ることもなくなった。それでもやはり、帝国はイタリアに対して宗主権を主張し続けた。帝国イタリアには競合し部分的に重なり合う教皇、皇帝、スペインの封建的ネットワークが存在することになった。17世紀初頭の1627年マントヴァ公が空位となった際、皇帝フェルディナンド2世はイタリアへの宗主権を実際に行使し、フランスのヌヴェール公によるマントヴァ公位継承を阻止しようとした。これによりマントヴァ継承戦争が引き起こされた。マントヴァ継承戦争は三十年戦争の一部ともされる。スペイン継承戦争中の18世紀初頭に帝国は再び宗主権を行使し、1708年にマントヴァを差し押さえ、ハプスブルク家のミラノ公国へ編入した。皇帝のオーストリア(ハプスブルク君主国)はミラノとマントヴァを治め続けたほか、断続的にではあるが他の地域も支配した(1737年以降のトスカーナなど)。

マントヴァに対する一連の処置はイタリアにおいて帝権が行使された最後の注目すべき事例であった。皇帝の封建君主としての権利はほとんど意味が無くなっていたとは言え、ハプスブルク家は帝国イタリアと帝国の結びつきを、家門の力を増大させる便利な手段として用いていた。北イタリアに対して裁判権をもつ帝国の制度、特に皇帝直属の帝国宮内法院は封建的な繋がりを根拠に援助を求められ、機能していた。17世紀前半にスペインの封建的ネットワークが取り除かれると、オーストリアのウィーン宮廷と強く結びついたミラノ公国の法曹貴族が皇帝代理として帝国イタリアでの紛争解決にあたり、軍税の徴収なども行っていた。ドイツのケルン大司教が持つ選帝侯としての宮中官位である「イタリア大書記官長」もまた、イタリア王国と帝国の繋がりを示していた。皇帝と帝国議会は、未だに帝国の封土とされている様々な北イタリアの領域について、帝国が引き継ぐべきと決定した多くの条約を公的には維持しようとした。皇帝は北イタリアにおける伝統的な皇帝の責任を真剣に考えていたし、多くのイタリア人も帝国との結びつきを高く評価していた。イタリアの貴族たちも、ドイツ人貴族と同じ国際的な文化的関係の中に属し、有力な君侯家間の婚姻がこのような結びつきをさらに支えていた。

フランス革命戦争が起きると、皇帝のオーストリアはナポレオンによってイタリアから追い出された。1797年カンポ・フォルミオ条約によってナポレオンは北イタリアに衛星国家を建国し、皇帝フランチェスコ2世はイタリア王国を構成する領域について権利の請求を放棄した。イタリア王国は名実ともに消滅してチザルピーナ共和国が建国され、1802年にはイタリア共和国と改名した。1799年から1803年にかけて帝国再構成が実施されたが、既に帝国に含まれないイタリアは対象外であった。他のライン川流域の聖界領と同様にケルン大司教領もナポレオンによって解体されていたため、名目上の「イタリア大書記官長」すら消滅していた。1804年、帝国はまだ存在していたにも関わらず、ナポレオンは皇帝ナポレオン1世として即位した。そして1805年3月26日、ナポレオンは鉄王冠を自らの頭に乗せてイタリア王ナポレオーネとして戴冠し、イタリア共和国はイタリア王国となった。翌年、神聖ローマ帝国は解散した。1814年にナポレオーネの失脚でイタリア王国は消滅し、翌年のウィーン会議によってオーストリアはイタリアの領地を回復したが、帝国イタリアを通した結びつきはもはや修復されなかった。

歴代君主[編集]

962年からイタリア王国は神聖ローマ帝国の一部となり、神聖ローマ皇帝はイタリア王を兼ねた。

オットーネ3世の死後、諸侯の支持を得て再び独自のイタリア王が立てられる。

アルドゥイーノがエンリーコ2世に破れた後、独自のイタリア王が立てられることはなかった。

以後、神聖ローマ皇帝一覧を参照

脚注[編集]

  1. ^ 表記年はカール大帝がイタリア王として戴冠した年。855年にロドヴィコ2世をイタリア独自の王として独立。
  2. ^ 表記年はカンポ・フォルミオ条約締結により神聖ローマ帝国がイタリアへの請求権を放棄した時点。962年には神聖ローマ帝国の構成国となり独立を失っている。
  3. ^ 再独立するが王位は不安定で、ベレンガーリオは5人の対立王の出現と2度の廃位を経験した
  4. ^ 神聖ローマ帝国の支配下に入る。
  5. ^ 一時的に独立するが、再び神聖ローマ帝国の支配下に入った。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Liutprand of Cremona|Liutprand, Antapodoseos sive rerum per Europam gestarum libri VI.
  • Liutprand, Liber de rebus gestis Ottonis imperatoris.
  • Anonymous, Panegyricus Berengarii imperatoris (10th century) [Mon.Germ.Hist., Script., V, p. 196].
  • Anonymous, Widonis regis electio [Mon.Germ.Hist., Script., III, p. 554].
  • Anonymous, Gesta Berengarii imperatoris [ed. Dumueler, Halle 1871].
  • ピーター・H. ウィルスン 『神聖ローマ帝国 1495‐1806』 山本文彦訳、岩波書店〈ヨーロッパ史入門〉、2005年。ISBN 978-4000270977