イタリア王国 (中世)

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イタリア王国
ランゴバルド王国 773年[1] - 1779年[2] チザルピーナ共和国
イタリアの位置
947年の西ヨーロッパ。ピンクがイタリア王国の版図。
首都 パヴィア(11世紀まで)
イタリア王皇帝
774年 - 814年 カルロ1世(フランク・ローマ皇帝、初代)
781年 - 810年 ピピン[3]
855年 - 875年 ロドヴィコ2世(フランク・ローマ皇帝)[4]
888年 - 924年 ベレンガーリオ1世(フランク・ローマ皇帝)[5]
924年 - 947年 ウーゴ
961年 - 973年 オットーネ1世(神聖ローマ皇帝)[6]
1002年 - 1014年 アルドゥイーノ(最後の独自の王)
1215年 - 1250年 フェデリーコ2世(神聖ローマ皇帝)[7]
1530年 - 1556年 カルロ5世(神聖ローマ皇帝)[8]
1637年 - 1657年 フェルディナンド3世(神聖ローマ皇帝、最後)[9]
変遷
中フランク王国分裂 855年
メルセン条約 870年
西フランク王国に支配される 875年
独自の王を持つようになる 888年
神聖ローマ帝国の支配下となる 963年

イタリア王国ラテン語:Regnum Italiae または Regnum Italicum)は、ドイツ、ブルグントと共に神聖ローマ帝国を構成した王国である。855年ロタール1世の死後、息子たちが遺領の中フランク王国を3分して治めた国のうち、ロドヴィコ2世が治めたイタリアでもあり、ヴェネチア共和国を除く北部および中部イタリアから成る。11世紀まで首都はパヴィアとされた。

概要[編集]

 773年、 カルロ・マーニョ(カール大帝、カルロ1世)はランゴバルド王国を滅ぼし、改めてロンバルディアの鉄王冠によって「ランゴバルド王」として即位することでランゴバルド王国をフランク王国に組み込んだ。一方で遠征を途中で切り上げた事から南部はベネヴェント公国として残り、更に中部は後にローマ教会へ寄進されて教皇領となったため、カルロ・マーニョが征服したイタリアは北部のみに留まった。この北部イタリアが中世イタリア王国となる。855年、カール大帝の孫であるロタール1世の死後に息子たちが遺領の中フランク王国を3分し、嫡男ロドヴィコ2世はかつてカール大帝が征服した北イタリアを手に入れ、イタリア王となる。ロドヴィコ2世は西ローマ皇帝の位も継いだため、ローマ皇帝位とイタリア王位が不可分のものと示された。

 875年ロドヴィコ2世が死去してすぐ、西フランク王シャルル2世 によってイタリア王国は併合された(イタリア王カルロ2世、皇帝カール2世)のものとなった。その後、877年のカルロ2世の死去を受け、イタリア王位は東フランク王国のバイエルン王カールマンが獲得した(イタリア王カルロマンノ)。879年にカルロマンノは東フランク王国のアレマニア王カール3世にイタリアを譲った(イタリア王カルロ3世)。カルロ3世は相続によって884年にフランク王国を統一してローマ皇帝に即位したが888年に死亡し、カール3世の死後のフランク王国は西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、ブルグント、プロヴァンス、イタリアの5国に分裂する。イタリア王国は多くの諸侯が王位とそれに付随する帝位を巡って争う内乱状態となり、隣国東フランクやプロヴァンスの王が侵攻した末にイタリア王と帝位を兼ねることもあった。

 961年、前イタリア王ロターリオ2世の未亡人であったアデレードと結婚していた東フランク王オットー1世が12月25日にパヴィアでイタリア王オットーネ1世として戴冠した。オットーネ1世は962年に皇帝に即位し、東フランク王国(ドイツ王国)とイタリア王国の連合国家である神聖ローマ帝国が成立する。ドイツ王がイタリア王を兼ね、そしてイタリア王はローマ皇帝を兼ねるのである。1002年1014年にアルドゥイーノが独自のイタリア王として即位した期間を除いて、この状態は19世紀まで続いた。しかし皇帝は根本的にはドイツ王であったためイタリアには王が不在がちであり、戴冠式のときにのみイタリアに赴いて指示を出したり法を制定したりする存在であった。このため、イタリア王国では地方分権の傾向が強まった。しかし皇帝は決してイタリアを軽視したわけではなく、都市国家群に王の意志を示すため、あるいは官僚機構として用いている教会組織の頂点に立つローマ教皇に圧力をかけるため、そして神聖ローマ帝国がローマとイタリアを支配する「ローマ帝国」であることを示すためにイタリア王国に干渉した。これがイタリア政策であり、都市国家群が皇帝に対抗した著名な例が、ロンバルディア同盟である。皇帝と教皇の対立は叙任権闘争へと発展し、教皇派と皇帝派の争いは帝国イタリアの政治の特徴となった。

 三王朝時代の終焉とともに政体としてのイタリア王国は消滅し、イタリア王国はコムーネと呼ばれる小国家が並び立つ状態となる。コムーネは君主制である公国へと発展して近隣諸国との紛争を繰り返していた。そんな中、フィレンツェ共和国のメディチ家や、ローマ教皇、各国の君主は芸術を保護し、ルネサンスの巨匠たちによって偉大な文化的・芸術的業績が成し遂げられた。この時代においてもイタリア王国が神聖ローマ帝国の一部であるという認識は残っており、ダンテパドヴァのマルシリウスは普遍的帝国という概念に賛同する意思を示している。

 15世紀になるとコムーネの均衡も崩壊し、イタリア戦争が勃発する。イタリア戦争を通じてハプスブルク家の皇帝カール5世はイタリアに様々な干渉を行い、イタリアのほとんどはカール5世とその息子であるスペイン王フェリペ2世の影響下におかれた。スペインが持つイタリアへの影響力はスペイン継承戦争 (1701年~1714年)後にオーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝へと受け継がれた。この頃にになると帝位、王位の形骸化は著しく、カール5世(イタリア王カルロ5世)を最後にロンバルディアの鉄王冠でイタリア王が戴冠されることもなく、ヴェストファーレン条約以降はイタリア王位自体が廃止されてしまっている。よってハプスブルク家は帝位、王位の権威を借りずに実力でイタリア王国を支配した。ハプルブルク家が神聖ローマ皇帝として持つイタリアへの関心は「(イタリアを支配するということになっている)ローマ皇帝」としての権威のみであり、イタリア王国の「政府」は皇帝の派遣した大使とイタリア諸侯の連絡網に過ぎなくなっていた。かろうじてケルン大司教が持つ宮中官位である「イタリア大書記官長」が、名目上のイタリア王すら存在しなくなるほど形骸化したイタリア王国と帝国の繋がりを示していた。

 18世紀末期にはフランス革命の余波によってドイツやイタリアにナポレオンの傀儡国家が次々と設置され、あまつさえケルン大司教領すらも解体された。1799年には皇帝フランツ2世は帝国がイタリアへ主張する全ての権利を放棄し、イタリア王国は帝国から名目上も完全に脱退した。1797年に既に建国されていたチザルピーナ共和国を経て、1805年にはナポレオンロンバルディアの鉄王冠を使って戴冠され、新たなイタリア王国が成立した。しかし、ナポレオンのイタリア王国も1814年には崩壊し、サルデーニャ王国がイタリアを統一してイタリア王国を再編成するのは1861年となる。

歴代君主[編集]

962年からイタリア王国は神聖ローマ帝国の一部となり、神聖ローマ皇帝はイタリア王を兼ねた。

オットーネ3世の死後、諸侯の支持を得て再び独自のイタリア王が立てられる。

  • アルドゥイーノ(1002年 - 1014年、1004年以降はエンリーコ2世の対立王)

アルドゥイーノがエンリーコ2世に破れた後、独自のイタリア王が立てられることはなかった。

以後、神聖ローマ皇帝一覧を参照


脚注[編集]

  1. ^ 表記年はカール大帝がイタリア王として戴冠した年。855年にロドヴィコ2世がイタリア独自の王として即位。
  2. ^ 表記年は神聖ローマ帝国が崩壊直前にイタリアへの主張を放棄した年。962年に神聖ローマ帝国の構成国となり、神聖ローマ皇帝がイタリア王を兼ねることとなる。
  3. ^ カルロ1世の息子で共治王。父の名代としてイタリアを支配した。
  4. ^ 独自のイタリア王としては初代。
  5. ^ この君主から再び独自の王を持つようになる。
  6. ^ 神聖ローマ帝国の支配下に入る。
  7. ^ フェデリーコの死後、政体としてのイタリア王国は崩壊。
  8. ^ 最後の戴冠したイタリア王。
  9. ^ ヴェストファーレン条約によりイタリア王位は廃止されたが、形骸化してなおイタリア王国は存続した。

関連項目[編集]