ローマ王

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ローマ王は、

  1. 古代ローマにおける王政ローマの王。
  2. 西ローマ帝国末期におけるソワソン管区総監(ドゥクス)のゲルマン人による通称。
  3. 神聖ローマ帝国における君主称号。通称ドイツ王。この項目では、これを扱う。

概要[編集]

ローマ王 (ラテン語:Romanorum Rex、ドイツ語:Römisch-deutscher König) は諸侯による国王選挙によって選ばれたドイツの君主が名乗った称号である。この称号はローマ教皇による戴冠を受けて神聖ローマ皇帝となる権利を持つことを意味していた。ローマ教皇から神聖ローマ皇帝に推戴されない場合や対立王として立てられた場合、後世にはドイツ王と呼ばれることが多い。本来は皇帝に選出されたもののローマ皇帝として戴冠していない君主の称号で事実上の皇帝を示していたが、後に皇帝在位中に選出された帝位継承予定者が名乗ることになった。

君主号としてのローマ王[編集]

アーヘン大聖堂にあるカール大帝の玉座

歴史と用法[編集]

中世初期にあった東フランク王国はザクセン人のハインリヒ1世が国王になった際、フランク人が統治する国で無くなったために単に「王国」、その王も単に「王」と呼ばれるようになった。対外的には「フランク王」、まれに「東フランク王」も使われた。これはオットー1世イタリア王を兼ねてローマ皇帝となっても変わらなかった。いつから旧東フランク領の君主号として「ローマ王」の称号が使われだしたかは明確で無いが、早くてザクセン朝ハインリヒ2世、遅くともザーリアー朝ハインリヒ3世からである。ローマ王の称号は教皇によって皇帝に戴冠される予定であることを示す聖なる称号であった。しかし11世紀の叙任権闘争で教皇グレゴリウス7世はドイツ王(Teutonicorum Rex)の蔑称を用い、当時のローマ王ハインリヒ4世の権威が局地的なものであって全ヨーロッパにまたがるものではないことを示そうとした。このときの記録でドイツ王国(ラテン語:Regnum Teutonicum)という名称も初めて現れた。しかしハインリヒ4世は1084年に対立教皇クレメンス3世によって皇帝に戴冠されるまで通常はローマ王(Romanorum Rex)を名乗り、その後もこの例に倣って歴代の君主は皇帝戴冠前にローマ王、戴冠後にローマ皇帝(Romanorum Imperator)の称号を用いた。

中世における実態[編集]

当初、国王候補者は部族大公の有力者から選ばれていた。部族大公領の崩壊後は中小諸侯や国外の君主も候補者となった。候補者の条件は成人男性であること、カトリックであること、聖職者で無いことのみだった。王は何人かの帝国等族によって選ばれ、その中には司教のような聖界諸侯も含まれていた。1147年以降、選挙は帝国都市フランクフルトで行われることが多かった。

元来は全貴族による満場一致によって選出されていたが、後に実際の選挙権は高位の貴族と司教に限られ、皇帝カール4世が定めた1356年の金印勅書によって7人の選帝侯による過半数の投票によって選出されるものと定められた。選帝侯の顔ぶれは1338年のレンス宣言によって決まっており、マインツ大司教ケルン大司教トリーア大司教ボヘミア王ライン宮中伯ザクセン公ブランデンブルク選帝侯であった。カール4世はローマ王位の法的地位を強化して教皇の承認を必要としないようにしたが、結果的にカール4世の後でローマでの皇帝戴冠を受けたのはジギスムントフリードリヒ3世のみだった。教皇の手による帝冠を受けた皇帝は1530年にボローニャで戴冠式を行ったカール5世が最後となる。金印勅書は1806年の帝国解散まで効力を持ち続けた。

選出された新しい王はカール大帝の玉座があるアーヘン大聖堂にてケルン大司教の手によりローマ王(Romanorum Rex)としての戴冠式を行った。戴冠式は選挙結果を確認するための行事でしかないものの厳粛な儀式だった。936年におけるオットー1世の戴冠式の詳細は中世の年代記者であるコルヴァイのヴィドゥキントが記したRes gestae saxonicaeに記されている。国王が帝冠が受け取る儀式は少なくとも1024年に戴冠したコンラート2世の頃には確立した。1198年ホーエンシュタウフェン朝の国王候補者フィリップはマインツ大聖堂でローマ王として戴冠しているが(数世紀後のローマ王ループレヒトも同地で挙行)、ヴェルフ家の対立王オットー4世に対して優勢になるとアーヘンで戴冠式をやり直している。

即位したローマ王は可能であればアルプスを越え、パヴィア(のちにミラノ)にてロンバルディアの鉄王冠によってイタリア王としても即位し、最終的にはローマに赴いて教皇の手によって皇帝に戴冠した。選出されたローマ王がすぐに戴冠のためローマに向かえることはまれだった。選出から皇帝戴冠までは大抵は数年を要し、戴冠への遠征に出る前にしばしば北イタリアの反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。全てのローマ王が皇帝戴冠までの手順を踏むことはできず、ローマへの遠征を完了できないローマ王も何人かいた。このような場合、君主としての称号は治世を通してローマ王のままとなった。皇帝としての選出と戴冠の間にある王にふさわしい称号としてローマ王の地位は帝国への権威を十分に示すものであり、教皇の権威を傷つけることなく将来の皇帝としての正当性を示すものだった。

最後のローマ王ヨーゼフ2世の紋章

近世以後[編集]

1508年以降、ローマ王の称号は君主号としては機能しなくなった。皇帝戴冠へのイタリア遠征に失敗したローマ王マクシミリアン1世に対して教皇が「選ばれしローマ皇帝」( Electus Romanorum Imperator)の称号を使うことを許可したためである。マクシミリアン1世はこのときから新しい称号として「ドイツ人の王」(Germaniae rex)、「ドイツにおける王」(König in Germanien)を採用したが、後者は表だっては用いられなかった。

以後、帝国の統治者はローマに赴いたり教皇の承認を得ること無く「皇帝」と称した。皇帝は後継者をローマ王として選帝侯に選出させ、ローマ王は在位中の皇帝が死去すると即座に新しい皇帝となった。皇帝が在位中に後継者をローマ王として選出させられなかった場合、ローマ王に選出されて戴冠した君主はすぐに皇帝と見なされた。

一覧[編集]

以下は君主としてのローマ王一覧である。対立王を排除できず、皇帝としても戴冠していない者を示す。

即位年 皇帝戴冠/死去 備考
オットー3世 983 996 皇帝戴冠 ローマ王の称号以前における皇帝戴冠前の「王」
ハインリヒ2世 1002 1014 皇帝戴冠 皇帝戴冠前の「王」。ローマ王を名乗ったかは不確実
コンラート2世 1024 1027 皇帝戴冠 皇帝戴冠前の「王」。ローマ王を名乗ったかは不確実
ハインリヒ3世 1039 1046 皇帝戴冠
ハインリヒ4世 1056 1084 皇帝戴冠
ルドルフ 1077 1080 死去 ハインリヒ4世の対立王
ヘルマン 1081 1088 死去 ハインリヒ4世の対立王
ハインリヒ5世 1105 1106 対立相手の死去 ハインリヒ4世の対立王
1106 1111 皇帝戴冠
ロタール 1125 1133 皇帝戴冠 皇帝ロタール2世、イタリア王ロタール3世
コンラート3世 1127 1135 放棄 ロタールの対立王
1138 1152 死去
フリードリヒ1世 1152 1155 皇帝戴冠
ハインリヒ6世 1190 1191 皇帝戴冠
フィリップ 1198 1208 死去
オットー4世 1198 1208 対立相手の死去 フィリップの対立王
1208 1209 皇帝戴冠
フリードリヒ2世 1212 1220 皇帝戴冠
ハインリヒ・ラスペ 1246 1247 死去 対立王
ヴィルヘルム 1247 1256 死去 フリードリヒ2世、コンラート4世の対立王
コンラート4世 1250 1254 死去
リヒャルト 1257 1272 死去 実質的な帝国の統治者となれず
アルフォンス 1257 1275 放棄 リヒャルトの対立王。実質的な帝国の統治者となれず
ルドルフ1世 1273 1291 死去
アドルフ 1292 1298 廃位及び殺害
アルブレヒト1世 1298 1308 死去
ハインリヒ7世 1308 1312 皇帝戴冠
ルートヴィヒ4世 1314 1326 妥協成立 フリードリヒ3世と対立
1326 1328 皇帝戴冠 フリードリヒ3世と共治
フリードリヒ3世 1314 1326 妥協成立 ルートヴィヒ4世と対立
1326 1330 死去 ルートヴィヒ4世と共治
カール4世 1346 1347 対立相手の死去 ルートヴィヒ4世の対立王
1347 1355 皇帝戴冠
ヴェンツェル 1378 1400 廃位
ループレヒト 1400 1410 死去
ヨープスト 1410 1411 死去 ジギスムントの対立王
ジギスムント 1410 1411 二度目の選挙 ヨープストの対立王
1411 1433 皇帝戴冠
アルブレヒト2世 1438 1439 死去
フリードリヒ4世 1440 1452 皇帝戴冠 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世
マクシミリアン1世 1493 1508 「選ばれし皇帝」となる
(カール5世) 1519 1530 皇帝戴冠 戴冠前は「選ばれしローマ皇帝」

帝位継承者号としてのローマ王[編集]

神聖ローマ帝国は選挙王制だった。単純に皇帝との血縁という理由だけで継承権を得た者は一人もいなかった。しかし皇帝は血縁者(大抵は子)を自分が死んだ後の後継者として選出させることができた。これは皇帝と共同で統治するもう一人の王を選出するという形式で行われ、選出された後継者はローマ王を称した。後継者たるローマ王には多くの責務が委任されたものの、実際の政権は皇帝が握っていた。

一覧[編集]

以下は、他の神聖ローマ皇帝(父親など)に従属した、帝位継承者号としてのローマ王の一覧である。

名前 就任年 退任年 退任の理由 皇帝との関係 皇帝
オットー2世 961 973 王権継承 (皇帝戴冠 967年) オットー1世
ハインリヒ3世 1028 1039 王権継承 (皇帝戴冠 1046年) コンラート2世
ハインリヒ4世 1053 1056 王権継承 (皇帝戴冠 1084年) ハインリヒ3世
コンラート(3世) 1087 1098 廃位 ハインリヒ4世
ハインリヒ5世 1099 1105 王権継承 (皇帝戴冠 1111年) ハインリヒ4世
ハインリヒ(6世) 1147 1150 死去 コンラート3世(ローマ王)
ハインリヒ6世 1169 1190 王権継承 (皇帝戴冠 1191年) フリードリヒ1世
フリードリヒ2世 1196 1197 1197年に王権継承後退位
1212年にオットー4世の対立王として再即位
1220年に皇帝戴冠
ハインリヒ6世
ハインリヒ(7世) 1220 1235 廃位 フリードリヒ2世
コンラート4世 1237 1250 王権継承 フリードリヒ2世
ヴェンツェル 1376 1378 王権継承 カール4世
マクシミリアン1世 1486 1493 王権継承 (皇帝戴冠 1508年) フリードリヒ3世
フェルディナント1世 1531 1558 帝権継承 カール5世
マクシミリアン2世 1562 1564 帝権継承 フェルディナント1世
ルドルフ2世 1575 1576 帝権継承 マクシミリアン2世
フェルディナント3世 1636 1637 帝権継承 フェルディナント2世
フェルディナント4世 1653 1654 死去 フェルディナント3世
ヨーゼフ1世 1690 1705 帝権継承 レオポルト1世
ヨーゼフ2世 1764 1765 帝権継承 フランツ1世

フランス第一帝政[編集]

フランス皇帝ナポレオン1世は息子ナポレオン2世(1811-1832)誕生の際に「ローマ王」とした。これは「ローマの王」(Roi de Rome)であって「ローマ人の王」ではないが、帝位の第一継承順位者という意味は同じである。ナポレオン2世はその短い生涯通じて「ローマ王」と通称されたが、1818年にオーストリア皇帝フランツ1世は正式にライヒシュタット公の称号を与えている。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • H. Beumann: Rex Romanorum, in: Lexikon des Mittelalters (Dictionary of the Middle Ages, 9 vols., Munich-Zürich 1980-98), vol. 7, col. 777 f.