フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)

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フェルディナント1世
Ferdinand I.
ローマ皇帝
Hans Bocksberger der Aeltere 001.jpg
在位 1556年 - 1564年
別号 オーストリア大公、ローマ王(ドイツ王)、
ボヘミア王、ハンガリー王
出生 1503年3月10日
Estandarte del Reino de Castilla.svg カスティーリャ王国アルカラ・デ・エナーレス
死去 1564年7月25日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア帝国の旗オーストリア大公国ウィーン
埋葬  
ボヘミアの旗 ボヘミアプラハ聖ヴィート大聖堂
配偶者 アンナ・ヤギエロ
子女 エリーザベト
マクシミリアン2世
アンナ
フェルディナント2世
マリア
マグダレーナ
カタリーナ
エレオノーレ
マルガレーテ
バルバラ
カール2世
ヘレーナ
ヨハンナ
王家 ハプスブルク家
王朝 ハプスブルク朝
父親 フィリップ美公
母親 カスティーリャ女王フアナ
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フェルディナント1世(ドイツ語:Ferdinand I, 1503年3月10日 - 1564年7月25日)は、神聖ローマ帝国ローマ皇帝(在位:1556年 - 1564年)、オーストリア大公(在位:1521年 - 1564年)、ボヘミア王(在位:1526年 - 1564年)、ハンガリー王(在位:同)。

オーストリア系ハプスブルク家の祖であり、オーストリアドイツボヘミアハンガリーを統治した。ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ美公カスティーリャ女王フアナの間の次男で、皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の弟。スペインで生まれ、スペインで育った[1]。スペイン名はフェルナンド(Fernando)。

生涯[編集]

1503年3月10日、カスティーリャアルカラ・デ・エナーレスで生まれる[1]。スペインで育ち、スペイン語が母語であったため、スペインの人々はフェルナンドのスペイン王位継承を望んでいたが、1516年に兄カルロスとトレードされるような形でオーストリアへ趨き、生涯スペインに戻ることはなかった。また1515年に祖父マクシミリアン1世により、ボヘミアハンガリーの王ウラースロー2世の娘アンナとの結婚とフェルディナントの妹マリアとアンナの弟ラヨシュ2世との結婚(ウィーン二重結婚)が定められるが、この時点ではアンナ王女の夫はカールかフェルディナントか決定されていなかった[2]。最終的に結婚相手を将来の皇帝であるカールではなくフェルディナントに決めると、ハンガリー側からは猛反発を受けた。しかし結果として、フェルディナントとアンナの2人にとっては幸福な結婚となった[3]

1521年、マクシミリアン1世の遺領分割で、兄カール5世の意向によりオーストリアを相続し[4]リンツでアンナと結婚した[5]1526年モハーチの戦いで義弟ラヨシュ2世が戦死したため、ボヘミア王位とハンガリー王位が空位となると、フェルディナントはこの2か国の王位を継承し、ハプスブルク帝国成立の礎を築いた[6]。しかし、オスマン帝国の後ろ盾でトランシルヴァニア領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー王(対立王)に即位し、死後はその子ヤーノシュ・ジグモンドが即位したため、ハンガリー全土を実効支配することは出来なかった。また、1529年にはいわゆる第一次ウィーン包囲も受けている。この時はルター派諸侯の力を借りている。

カール5世の皇帝在位中の1531年に、アーヘンローマ王(ドイツ王)の戴冠を受けた。1549年にフェルディナントとその子孫の帝位世襲が取り決められ、ドイツで問題になっていたカトリックプロテスタントの宥和に尽力、1552年パッサウ条約1555年アウクスブルクの和議を結んだ。1556年にカール5世の退位を受けてフェルディナントが帝位を継承した。

ボヘミア・ハンガリーでは王権の強化を図り、ハンガリーでは失敗したが、ボヘミアではある程度成功し、1547年シュマルカルデン戦争に乗じて起こった反乱を鎮圧、ハプスブルク家のボヘミア王位の世襲を認めさせ、1556年のイエズス会招聘や1561年プラハ大司教の復活など対抗宗教改革の導入にも尽力した。

1564年、61歳で死去した。遺領は3分割され、長男のマクシミリアン2世がローマ皇帝位、ボヘミア、ハンガリーを、次男のフェルディナント2世チロルを、三男のカール2世シュタイアーマルクケルンテン、クラインをそれぞれ継承した[7]

兄との生前の取り決めでは、フェルディナント1世の次は甥(兄の息子)フェリペ(スペイン王フェリペ2世)が帝位を継承し、以後カール5世とフェルディナント1世の家系が交互に継承することになっていたが[8]、これは無視されて次の皇帝にはフェルディナント1世の息子マクシミリアン2世が即位した。スペイン・ハプスブルク家もこれを容認したため、以後もフェルディナント1世の家系、オーストリア・ハプスブルク家が帝位を世襲していくことになる。

人物[編集]

宗教面ではカトリックとプロテスタントの両立を図り、ドイツではアウクスブルクの和議締結(1555年)に尽くした[9]。ボヘミアでもプロテスタント(フス派)の弾圧をせず穏健な手段を選び、カトリックの教育機関の設立、プラハ大司教の再設置などで徐々にカトリック化する方針にした。ただし、フス派の一派であるモラヴィア兄弟団は領国から追放、息子マクシミリアン2世のプロテスタント寄りの姿勢を改めさせるなど厳格な姿勢で臨む例もあった。

文化面では、若い時代をスペイン宮廷で過ごしたフェルディナント1世は、食文化を中心とするスペインの宮廷文化をウィーンに伝えようとした。1523年には貴族の子女を対象としたウィーン初の料理学校を設立、宮廷晩餐会の規則も整備した。ボヘミアでは王妃アンナのためにプラハ城の北に離宮を建設、イタリア貴族と姻戚関係を結んでいた影響でルネサンスが普及、有力貴族たちの宮殿建設やイタリアの文化・学問が広まっていった。

母方の祖父の下、謹厳なスペイン宮廷で兄弟姉妹と離れて育ったが、明朗快活であり、肉親に対して温かな愛情をしばしば示した。ハンガリー王室との婚姻の際に実妹であるマリアと初めて対面したが、周囲をはばからず、初対面の妹に駆け寄り抱きしめたエピソードがある。兄であるカール5世とともに育ち、強い信頼関係を築いていたマリアと良好な関係を持てたことは、後に兄と弟の家系で皇位継承が議論された際に大きく寄与することになる[10]

子女[編集]

アンナとの間には15人の子がおり[11]、ハプスブルク家の多産の伝統の先駆けである。

系譜[編集]

フェルディナント1世 父:
フィリップ美公
(カスティーリャ王フェリペ1世)
祖父:
マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)
曽祖父:
フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)
曽祖母:
エレオノーレ (ポルトガル王女)[1]
祖母:
マリー (ブルゴーニュ女公)
曽祖父:
シャルル (ブルゴーニュ公)
(突進公/豪胆公)[2]
曽祖母:
イザベル・ド・ブルボン
母:
フアナ (カスティーリャ女王)
祖父:
フェルナンド2世 (アラゴン王)
(カスティーリャ王フェルナンド5世)
曽祖父:
フアン2世 (アラゴン王)
曽祖母:
フアナ・エンリケス
祖母:
イサベル1世 (カスティーリャ女王)
曽祖父:
フアン2世 (カスティーリャ王)
曽祖母:
イサベル (ポルトガル王女)[3]

[1]の父はポルトガル王ドゥアルテ1世ジョアン1世の子で、弟にエンリケ航海王子や[3]の父ジョアン、妹に[2]の母イザベルがいる。よって、[1]と[2]と[3]は、共にジョアン1世を祖父とするいとこ同士となる。

カール5世(スペイン王カルロス1世)の他、姉妹に

がいる。

脚注[編集]

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  1. ^ a b グレーシング、p. 81
  2. ^ 瀬原、p. 438
  3. ^ グレーシング、p. 95、p. 99
  4. ^ ツェルナー、p. 210
  5. ^ グレーシング、p. 96
  6. ^ ツェルナー、p. 240-241
  7. ^ ツェルナー、p. 252
  8. ^ 江村、p. 115
  9. ^ 江村、p. 113
  10. ^ ライトナー、p. 147-148
  11. ^ グレーシング、p. 99

参考文献[編集]

  • 薩摩秀登 『プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革-』 現代書館、1998年
  • 南塚信吾編 『新版 世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 山川出版社、1999年
  • 新人物往来社編 『ビジュアル選書 ハプスブルク帝国』 新人物往来社、2010年
  • テア・ライトナー 『ハプスブルクの女たち』 新書館、1996年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世後期の歴史像』 文理閣、2011年
  • エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社、2000年
  • 江村洋 『ハプスブルク家』 講談社現代新書、1990年
  • ジクリト=マリア・グレーシング 『ハプスブルク愛の物語―王冠に優る恋』 東洋書林、1999年

関連項目[編集]

  オーストリア大公
1521年 - 1564年
次代:
カール2世
(内オーストリア大公)
次代:
フェルディナント2世
(前方オーストリア大公)
 
 
先代:
カール5世
ローマ王
1531年 - 1564年
次代:
マクシミリアン2世
  神聖ローマ皇帝
イタリア王
1556年/1558年 - 1564年
 
先代:
ラヨシュ2世
ボヘミア王
ハンガリー王
1526年 - 1564年