大空位時代

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ドイツの歴史
Coat of arms featuring a large black eagle with wings spread and beak open. The eagle is black, with red talons and beak, and is over a gold background.
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大空位時代(だいくういじだい、ラテン語: Interregnum)は、神聖ローマ帝国で王権が不安定であった時代のことである。期間は1250年[1]1254年[2]または1256年[3]から1273年[1][2]まで。この時期にローマ王(ドイツ王)を世襲する有力な家門はなかった。そこで、選帝侯など有力諸侯が帝国の直轄領を蚕食し、帝国の権利の多くを奪った。彼らはライン都市同盟までも分解し、影響力を極端に増した。

定義と特徴[編集]

「大空位時代」とはローマ王(ドイツ王)の不在を意味する言葉であるが、この時期に決して王が不在であったわけではなく[4]、この言葉は皇帝の空位時期を示す言葉でもない。大空位時代以前にも皇帝にならなかったローマ王はコンラート3世フィリップなどがいる。大空位時代の終焉はルドルフ1世のローマ王即位に置かれるが、ルドルフは皇帝として戴冠していない。語義的にも「王権」(regnum)を対象としており、「帝権」(Imperium)と「王権」にはこの時期明確な区別が存在した[要出典]。したがってこの時代の特色は、二重選挙によってローマ王権が著しく衰退したこと、また王位が弱小諸侯もしくは帝国外の人物によって獲得され、ほとんどローマ王不在と同じような状況に陥ったことである。また、ローマ王の選挙権は7人の選帝侯にあるという考えが、大空位時代の時点で確立していたことにも注目される[2]

歴史的展開[編集]

ホーエンシュタウフェン朝では、1250年フリードリヒ2世が死去した後、次男のコンラート4世が後を継いだが、コンラート4世は1254年に在位わずか4年で死去した。コンラート4世の子コンラディン(コッラディーノ)はローマ王位に就けず、継嗣もなかったため、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。

コンラート4世には対立王としてホラント伯ウィレム2世(ヴィルヘルム・フォン・ホラント、在位:1247年 - 1256年)がいたが、コンラート4世の死で対立者がいなくなり、形の上では唯一のローマ王となった。ウィレムは「神聖ローマ帝国」を正式な国号として使用した最初の君主であったが、1256年に遠征の帰路で溺死し、ローマ王位は空になった[5]

皇帝不在となった神聖ローマ帝国では、諸侯による複雑な権力闘争が起こる一方、1257年のローマ王選挙で帝国外から2人の次期皇帝候補者が推された。ケルン大司教マインツ大司教ライン宮中伯ボヘミアオタカル2世イングランドヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードを推薦し、リチャードが候補に挙げられた3か月後にトリーア大司教ザクセン大公ブランデンブルク辺境伯、支持者を変えたオタカル2世がカスティーリャアルフォンソ10世(賢王)を推薦した[2]。このうちアルフォンソ10世はローマ教皇の強硬な反対と国内事情から国を離れて神聖ローマ帝国に駆けつけることができず、即位はならなかった[2]。リチャードは4度帝国に渡ったが、滞在期間はごく短いものだった[2]

その後、ボヘミア王として帝国内で大勢力を誇るオタカル2世(母クニグンデがローマ王フィリップの次女でアルフォンソ10世の従兄)が王位獲得を目指したが、帝国諸侯やローマ教皇はオタカル2世のような強力な君主の出現を望まなかった[6]。しかし長引く空位は帝国内の荒廃を招き、シチリアカルロ1世(シャルル・ダンジュー)は甥のフランスフィリップ3世を帝位につけ、ヨーロッパをフランス勢力でまとめる野望を抱いていた[6]。そのため、諸侯や教皇は1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかったハプスブルク家ルドルフ1世をローマ王として擁立した。これによって大空位時代は終わりを告げた。ただしルドルフ1世はローマで皇帝としての戴冠を受けることはなかった。

ルドルフ1世が帝国君主として諸侯から擁立されたのは、ルドルフ1世の祖父・ハプスブルク伯ルドルフ2世がホーエンシュタウフェン家の一族の娘アグネス・フォン・シュタウフェンと結婚していてその血を引いていたこと、フリードリヒ2世とコンラート4世の時代にルドルフ1世が皇帝・ローマ王に忠実に仕えていたのが評価されたため[7]でもあった。しかし、ルドルフ1世は諸侯の思惑に反して優秀な人物であり、1278年にはオタカル2世をマルヒフェルトの戦いで敗死させ、オーストリア公国を獲得するなどして勢力を伸張させるとともに、帝国の安定化に努めた。

ただし、これによってハプスブルク家が帝位を独占することにはならず、ナッサウ家アドルフルクセンブルク家ハインリヒ7世といったその時点での弱小勢力の君主擁立というパターンがなおも続いた。

脚注[編集]

  1. ^ a b 菊池『神聖ローマ帝国』、129頁
  2. ^ a b c d e f 山内進「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録(木村靖二編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、71-72頁
  3. ^ 菊池『神聖ローマ帝国』、131-132頁
  4. ^ 菊池『神聖ローマ帝国』、128-129頁
  5. ^ 菊池『神聖ローマ帝国』、131頁
  6. ^ a b 瀬原義生『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, ミネルヴァ書房, 2009年11月)、3-4頁
  7. ^ 菊池『神聖ローマ帝国』、137頁

参考文献[編集]

  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)

関連文献[編集]

  • ハンス・K・シュルツェ著、五十嵐修ほか訳『西欧中世史事典Ⅱ』ミネルヴァ書房、2003年
先代:
コンラート4世
神聖ローマ皇帝
1254年/1256年 - 1273年
次代:
ルドルフ1世