オーストリア大公国

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オーストリア大公国
Erzherzogtum Österreich (ドイツ語)
オーストリア公国 1453年 - 1806年 オーストリア帝国
オーストリアの国旗 オーストリアの国章
国旗国章
国の標語: Alles Erdreich ist Österreich untertan(ドイツ語)
全世界はオーストリアに属する
オーストリアの位置
1477年のオーストリア大公国の領土(オレンジ色)
公用語 ドイツ語バイエルン・オーストリア語オーストリア・ドイツ語
宗教 カトリック
首都 ウィーン
大公
1453年 - 1457年 ラディスラウス・ポストゥムス
1792年 - 1806年フランツ1世
1916年 - 1918年カール1世
変遷
大公号の公認 1457年
フェルディナント1世がハンガリーとボヘミアの王位を獲得1526年
三十年戦争1618年 - 1648年
第二次ウィーン包囲を打破、大トルコ戦争開始1683年
オーストリア継承戦争1740年-1748年
フランツ1世がオーストリア皇帝を称する1804年8月11日
神聖ローマ帝国解体1806年8月6日
アウスグライヒ1867年8月30日
君主制廃止1918年11月18日
通貨グルデン
(1867年 - 1892年)

クローネ
(1892年 - 1918年)

オーストリア大公国(オーストリアたいこうこく、ドイツ語: Erzherzogtum Österreichハンガリー語: Osztrák Hercegségチェコ語: Rakouské arcivévodství)は、神聖ローマ帝国内の領邦の一つで、現在のオーストリア共和国の前身である。1457年の成立から1806年の神聖ローマ帝国の解体まで、ハプスブルク家、のちその後身のハプスブルク=ロートリンゲン家が統治した。いわゆるハプスブルク帝国の中核をなし、オーストリア帝国の成立以後もその重要な構成国となった。

元来のオーストリア公領に含まれない領域であっても、オーストリア・ハプスブルク家が支配した地域を合わせて「オーストリア(エースタライヒ)」と呼称することが多いため、本項ではその部分も含めて記述する。

概要[編集]

前身はオーストリア公国で、さらにバーベンベルク家オストマルク東方辺境伯領が起源である。

神聖ローマ帝国の南東辺境部の一領邦ではあるが、オーストリア大公であるハプスブルク家当主はこの時代以降に神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲化したため、中央ヨーロッパの大国として帝国内で主導権を有していた。中世後期には既に形骸化しつつあった神聖ローマ帝国が、近世初期のヴェストファーレン条約によって完全に有名無実化すると、ハプスブルク家の「オーストリア」として中東欧方面に領土を拡大、列強国の一つとして君臨し続けた。

1804年ナポレオン・ボナパルトフランス皇帝を称すると、オーストリア大公でもあった神聖ローマ皇帝フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世を称した。そして1806年には、神聖ローマ帝国が正式に解体され、所領はオーストリア帝国として再編された。

ハプスブルク家の旗
18世紀後半のハプスブルク家オーストリア大公の領土

歴史[編集]

参考文献[編集]