フランク・ローマ皇帝

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フランク・ローマ皇帝ないし西方帝位 (フランス語: Empereur d’Occident)は、フランク国王カール1世800年12月25日ローマにてローマ教皇レオ3世によりローマ皇帝として戴冠されて以降のカロリング朝カロリング帝国)における君主号の仮定上の表記である。最後のフランク・ローマ皇帝は924年に死去したベレンガーリオ1世である。

フランク・ローマ皇帝は大概は«ローマ人の皇帝» (ラテン語: imperator Romanorum) ないし«ローマ帝国の皇帝» (ラテン語: imperator Romanum gubernans imperium)の称号を帯びている。962年オットー1世大帝の戴冠によって始まる神聖ローマ皇帝はフランク・ローマ皇帝の後継者であることを自認している。

歴史[編集]

797年東ローマ帝国エイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放してローマ皇帝史上初めての女帝を名乗るクーデターが発生した。この女帝即位はローマ帝国の西方では僭称として認められず、帝国西方においてはローマ皇帝が空位の状態であるとみなされた[1][2]。そのためローマ教皇レオ3世800年12月25日ローマサン・ピエトロ大聖堂にてクリスマスミサが執り行われている最中に、コンスタンティノス6世の正統な後継者としてフランク国王カール1世ローマ皇帝の冠を授けた[3]。自らを古代ローマ皇帝の後継者であると見做していた東ローマ皇帝(東方帝位、フランス語: Empereur d'Orient)は当初はカールの皇帝号を承認しなかった。しかし、812年に東ローマ皇帝ミカエル1世ランガベー811年の対ブルガリア戦で自軍が壊滅した際にカールからの支援を考慮に入れてその皇帝号を正式に承認した。カールはその見返りとしてヴェネツィアダルマチアを東ローマ帝国に譲渡した。しかし、1213世紀に東ローマ皇帝はこの皇帝号に対して異議を申し立てている。

このローマ皇帝位は東ローマ皇帝との対比から西ローマ皇帝と表記されることもあるが、この皇帝位はあくまでコンスタンティノス6世の正統な後継者である「ローマ帝国全土の皇帝」であって、ロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えていた(同じく西ローマ皇帝と表記される)西方正帝の復活ではなかったことに注意を要する[3][4]。また、カールの戴冠は建国ではなく、フランク王国もカールの戴冠によって帝国へと変貌を遂げたわけではない。カールは戴冠によって既にあったローマ帝国の皇帝位を受け継いだだけであり何らかの帝国組織や帝国制度を創出したわけではないし、フランク王国もカール戴冠の時点では既に帝国の様相を呈しており、教皇は既にあったカールの帝国に聖別を施しただけというべきだからである[4]。この勢力は厳密にはローマ帝国と異なる国家ではなくローマ帝国内での皇帝権を巡る争いでしかなかったため「ローマ帝国」以外の特別な国名を持たなかった[5]が、歴史学では西の帝国(フランス語: Empire d’Occident)、西ローマ帝国[6]フランク帝国カロリング帝国神聖ローマ帝国の『ローマ帝国期』など様々な名前で呼ばれており、それらの名前が指し示す範囲は必ずしも同一ではいない。

814年に帝位を継承したカール大帝の息子・フランク王ルートヴィヒ1世敬虔王は自身の息子への帝位継承権を固めることを望んでおり、817年7月アーヘンにて«帝国の秩序について» (Ordinatio imperii)の布告を出した。その長子ロタール1世は父との共同皇帝として共同統治者であることが宣言されてネウストリアアウストラシアザクセンテューリンゲン, アレマニアセプティメーヌプロヴァンス及びイタリアといった帝国のかなりの領域の支配権を委ねられた。他方、次男のピピン1世フランス語版にはアキテーヌバスコニア及びスペイン辺境伯領が、三男のルートヴィヒ2世ドイツ人王にはバイエルンケルンテンがそれぞれ与えられた。しかし公的文書においてロタール1世の名が父と併記して見受けられるのは825年まででしかない。

823年4月5日にローマのサン・ピエトロ大聖堂にてロタール1世はローマ教皇パスカリス1世の手によって皇帝として戴冠している。 皇帝に即位後のロタール1世は父ルートヴィヒ1世に対抗するために兄弟達との仲を回復したことは一度もなく、父の廃位を何度も試みたものの果たすことは出来ずに834年にその主力軍が壊滅したことで自身は赦免を乞うことを余儀なくされた。結果、ロタール1世は共同皇帝の称号を剥奪されて父の支配権のもとで僅かにイタリアだけが残されたのである。

840年にルートヴィヒ1世が死ぬとロタール1世は父の遺産を全て相続しようと試みたが、これが弟のルートヴィヒ2世及びシャルル2世禿頭王との争いを引き起こすことなった。841年にロタール1世はフォントノワの戦いで完敗して843年に弟達との間で帝国が三分割されたことが明白となったヴェルダン条約を締結した。ロタール1世が保持できたのは、中部イタリア、ブルゴーニュプロヴァンス、西アウストラシアといった中部フランク王国の領域及び皇帝号である。

855年にロタール1世が死ぬとその領域は息子達の間で分割された。皇帝号は父の存命中に戴冠したロドヴィコ2世が手に入れたが、これと同時にイタリア王の称号とも結び付けられたことが事実上明白となった。ロドヴィコ2世は南イタリアを従属化におき、さらに弟の死後にプロヴァンスとロタリンギアを相続することで領土を拡大させることに成功した。だが、その南イタリア支配は東ローマ帝国が支援を打ち切ったことで終焉を迎えた。

875年にロドヴィコ2世が没したことでイタリアにおけるカロリング朝の血筋は断絶した。皇帝号とイタリアは西フランク国王シャルル2世が獲得した。877年にシャルル2世が死ぬとイタリア王位は甥のカール3世肥満王が獲得した。881年には皇帝として戴冠し、884年にはカロリング帝国の復興を果たしたが、その統一は非常に短命であったのは明白であった。カール3世は887年末の段階で既に廃位され、皇帝号は最終的に幾つかに分裂した。

それ以降、皇帝の座はその地位を喪失することになったものの、それを巡る争いは継続された。最初はカロリング家の遠縁であるフリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世(母はルートヴィヒ1世の娘)がイタリア王として戴冠したが、同じくイタリア王に即位したスポレート公グイードによってじきに取って代わられた。両人の争っている間はイタリアは事実上二分化されていた。891年にグイードは皇帝として戴冠して892年には ランベルトにイタリア王位を授けることに成功している。

894年にグイードが死ぬとベレンガーリオ1世は王位を巡る争いを再開させたが、895年にカール3世の甥にあたる東フランク国王アルヌルフの侵略を受けてランベルトと休戦を結んだ。アルヌルフはローマを征服することに成功して896年12月に皇帝として戴冠した。 己の成功を発展させることは病気によって妨げられて東フランクに帰還することを余儀なくされ、そこで3年後の899年に死んだ。896年末にランベルトとベレンガーリオ1世は東フランクの勢力をイタリアから一掃することに成功し、正式に二度目のイタリア分割を行った。

898年にランベルトが死んだことでベレンガーリオ1世は単独のイタリア王となったが直ぐにロドヴィコ2世の娘を母とする下ブルグント国王ルイ3世に取って代わられた。ルイ3世の統治はベレンガーリオ1世時代のイタリア上流層からの不平不満を呼ぶこととなった。900年秋にルイ3世はイタリア王として戴冠して翌901年2月22日にはローマ教皇ベネディクトゥス4世の手でローマにて帝冠を授けられた。しかしベレンガーリオ1世は戦いを止めることはなく、905年6月21日ヴェローナにてルイ3世を捕虜とすることに成功している。捕虜となったルイ3世は盲目にされてプロヴァンスに追放されてそこで余生を送ることとなった。

916年になってようやくベレンガーリオ1世はローマ教皇ヨハネス10世の手で皇帝として戴冠した。 数年後に再び皇帝に不満を抱く勢力が結成され、彼らは上ブルグント国王ルドルフ2世に支援を求めた。 923年6月23日に決定的な敗北を喫したベレンガーリオ1世はマジャル人に支援を求めたものの、このことは最終的に自らの支援者の離反を招き、924年4月7日に裏切りに遭って殺害される羽目に陥ったのである。

ベレンガーリオの死を以て皇帝号は消滅し、以後、イタリアは数十年間に渡って幾つもの北イタリアやブルグントの貴族達が支配権を巡って争う競合状態に陥った。ローマの教皇の地位はパトリキの完全な統制下におかれたことが明白となった。しかし、イタリアの貴族層に打ち勝ったドイツ国王オットー1世962年に即位のための塗油の儀式を受けて皇帝として戴冠した。これを以て神聖ローマ皇帝の誕生と見做されている。

もっとも見たところによると、オットー1世自身は新しい皇帝号を創始しようとする意図はなく、もっぱらカール大帝の後継者であると見做していたそうである。最終的に東フランク王国(ドイツ)が西フランク王国(フランス)から分離してドイツと北イタリアの領域を根幹とし、ローマ皇帝の後継者及び教会の保護者の地位を求める者が支配する新国家が形成された時点を以て皇帝位がドイツ王位に事実上移行されたことが示されたのである。

歴代皇帝一覧[編集]

カロリング朝[編集]

肖像画 名前 生涯 戴冠日 退位ないし死去 先代との関係 貨幣
Charlemagne-by-Durer.jpg
カロルス1世
(大帝、シャルルマーニュ)
742年4月2日
-
814年1月28日
800年12月25日 814年1月28日 初代フランク・ローマ皇帝
Charlemagne denier Mayence 812 814.jpg
Ludwik I Pobożny.jpg
ルドウィクス1世
(敬虔王)
778年
-
840年6月20日
816年10月5日 840年6月20日 カロルス1世の息子
Louis le Pieu denier Sens 818 823.jpg
Lothar I.jpg
ロタリウス1世 795年
-
855年9月29日
823年4月5日 855年9月29日 ルドウィクス1世の長男
Lothaire 1er denier 840 855.jpg
Reichsschwert ludwig das kind.jpg
ルドウィクス2世 825年
-
875年8月12日
1次 850年の復活祭
2次 872年5月18日
875年8月12日 ロタリウス1世の息子
Jean Dassier - Louis II. roy de France.jpg
Karl den skallige, Nordisk familjebok.png
カロルス2世
(禿頭王)
823年6月13日
-
877年10月6日
875年12月29日 877年10月6日 ルドウィクス1世の四男
Charles le Chauve denier Bourges after 848.jpg
Charles the Fat.jpg
カロルス3世
(肥満王)
839年6月13日
-
888年1月13日
881年2月12日 888年1月13日 ルドウィクス1世の孫
Sceau de Charles le gros.jpg

グイード朝[編集]

肖像画 名前 生没年 戴冠日 退位ないし死去 先代との関係 貨幣
Wido rex Italiae.jpg
グイド 855年
-
894年12月12日
891年5月 894年12月12日 ロタリウス1世の曾孫
Spoleto, denaro di stampo largo del duca guido, 889-894.JPG
Sin foto.svg
ランベルトゥス 880年
-
898年10月15日
892年4月30日 898年10月15日 グイドの息子 -

カロリング朝[編集]

肖像画 名前 生没年 戴冠日 退位ないし死去 先代との関係 貨幣
Arnulf Korutanský hlava.jpg
アルヌルフス 850年
-
899年12月8日
896年2月22日 899年12月8日 カロルス2世の甥
かつ
ルドウィクス1世の曾孫
-

ボゾ朝[編集]

肖像画 名前 生没年 戴冠日 退位ないし死去 先代との関係 貨幣
Sin foto.svg
ルドウィクス3世
(盲目王)
880年
-
928年6月28日
901年2月22日 905年7月21日 ルドウィクス2世の孫 -

ウンロシング朝[編集]

肖像画 名前 生没年 戴冠日 退位ないし死去 先代との関係 貨幣
Berengario emperador.jpg
ベレンガリウス 845年
-
924年4月7日
915年12月 924年4月7日 ルドウィクス1世の曾孫 -

脚注[編集]

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  1. ^ ハンス・シュルツェ 『西欧中世史事典』 ミネルヴァ書房、1997年
  2. ^ 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝』 白水社、2009年
  3. ^ a b ジェームズ・ブライス 『神聖羅馬帝国』 国民図書、1924年
  4. ^ a b アンリ・ピレンヌ 『ヨーロッパ世界の誕生』 創文社、1960年
  5. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館
  6. ^ デジタル大辞泉

参考文献[編集]

  • Лебек С. Происхождение франков. V—IX века / Перевод В. Павлова — М.: Скарабей, 1993. — Т. 1. — 352 с. — (Новая история средневековой Франции). — 50 000 экз. — ISBN 5-86507-001-0.
  • Тейс Л. Наследие Каролингов. IX — X века / Перевод с французского Т. А. Чесноковой — М.: «Скарабей», 1993. — Т. 2. — 272 с. — (Новая история средневековой Франции). — 50 000 экз. — ISBN 5-86507-043-6.
  • Фазоли Джина. Короли Италии (888—962 гг.) / Пер. с итал. Лентовской А. В. — СПб.: Евразия, 2007. — 288 с. — 1 000 экз. — ISBN 978-5-8071-0161-8.

関連項目[編集]