フラウィウス・オレステス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

フラウィウス・オレステスラテン語: Flavius Orestes, 435年頃? - 476年)は、西ローマ帝国の将軍。ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスの父。

概要[編集]

オレステスは、パンノニア管区サウィア英語版属州で裕福なローマ人貴族の家に生まれたとされる[1]。父は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世に仕えたタトゥルス、妻はノリクムロムルスイタリア語版の娘。パンノニアがフン族アッティラに譲渡された後もオレステスは一族の所領があるパンノニアに残ってアッティラに仕えた。オレステスはアッティラの重臣となり、449年にはアッティラからテオドシウス2世への特使として同じくアッティラに仕えていたエデコとともにコンスタンティノポリスへ派遣されている。

アッティラの死後は西ローマ帝国の諸帝に仕えた。475年、西ローマ帝国ではローマ皇帝グリケリウスユリウス・ネポスによって追放され、ユリウス・ネポスが新たにローマ皇帝を名乗った。ユリウス・ネポスはオレステスを軍司令官(マギステル・ミリトゥム)に任命したが、この人事はユリウス・ネポスの命取りとなった。

オレステスは彼の傭兵を率いて475年8月28日までにユリウス・ネポスが皇帝府を置いていたラベンナを占領した。 ユリウス・ネポスは戦わずしてダルマチアへ逃亡し、オレステスは息子のロムルスにローマ皇帝を名乗らせた。 しかし、この皇帝は東ローマ帝国のローマ皇帝ゼノンからも、ゼノンの対立皇帝であるバシリスクスからも承認されなかった。

この皇帝の名はロムルス・アウグストゥルスとして知られているが、「アウグストゥルス」とは「小さなアウグストゥス」の意味で、これはロムルスが僅か14歳の少年であったことにより呼ばれたものである。

短い統治[編集]

オレステスはネポスを倒す前に、傭兵達にイタリアの3分の1を領地として与えることを約束していた。しかし、オレステスは、ヘルール族スキリア族テューリンゲン族英語版の傭兵にイタリアの領土を与えることを拒否した。これに不満を抱いた傭兵らは傭兵隊長オドアケルの下に集い、476年8月23日に彼を王であると宣言して蜂起した。オレステスはパヴィーアへ逃亡し、パヴィーアの司教によって匿われた。

しかしオドアケルは傭兵らを率いてパヴィーアを襲い、パヴィーアに火を放ち、パヴィーアでは多くの建物が灰燼に帰した。オレステスはパヴィーアから逃れ、イタリア北部に駐留していた少数の生き残った部隊を集め、ピアチェンツァに小さな軍隊を組織した。しかし寄せ集めの帝国軍とオドアケルの傭兵部隊とでは勝負にならず、オレステスは8月28日に捕らえられ、処刑された。彼の息子ロムルス・アウグストゥルスも数週間のうちにラヴェンナで捕らえられ、廃位された。

この出来事は18世紀の歴史家エドワード・ギボンの『西ローマ帝国の滅亡』というロマンチックな記述によって後の2世紀の人々に大きな意味が与えられた。しかし現代の学問的見方においては、この出来事はローマ帝国の分裂の過程における重要な段階の一つではあるものの、この出来事が西ローマ帝国の滅亡を意味しているとは考えられていない。一方で、オレステスと彼の息子の敗北は、古代後期から中世初期への移行を区切る出来事としては用いられている。

脚注[編集]

  1. ^ 出自についてはゲルマン系の民族に属したという論がある一方、東ローマ帝国の外交官がフン族の貴族階級出身であったとも記述しており、双方の可能性も含めて議論が続けられている。