フン族

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フン族を描いた19世紀の歴史画(ヨーハン・ネーポムク・ガイガー画)
フン帝国は中央アジアステップから現代のドイツ黒海からバルト海にまで広がっていた

フン族(フンぞく、Hun)は北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられる[1]が、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている[注釈 1]

4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった[2]。5世紀中頃のアッティラの時代に統一帝国を築いて最盛期を迎えたが、453年に王の死去、翌年には帝国は瓦解、急速に衰退した。

同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀東ヨーロッパ中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。

歴史上の記録[編集]

フン族の西方への移動の推定図

アッティラ以前[編集]

139年ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(ΧοῦνοιまたはΧουνοἰ)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族英語版ロクソラン族英語版の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」 (Χοῦνοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (Χοῦνοι) と「ウーノイ」(Ουννοι) の類似は偶然である可能性もある[3]5世紀アルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツ英語版は「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。

確実な記録としては、フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年頃に黒海北方に到来した。フン族はヴォルガ川を越えてアラン族を攻撃して彼らを服従させた。6世紀の歴史家ヨルダネス英語版[4]によるとバランベル英語版(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている[3])に率いられたフン族はグルツンギ英語版東ゴート族)の集落を襲撃した[3]。グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメールVithimiris)が後を継いだ。376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した[3]。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus)はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウス英語版サフラスク英語版に委ねられた。難民はドニエストル川西方のテルヴィンギ英語版西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。(ゴート族のローマ帝国侵入後については「ゴート戦争 (376年–382年)」も参照)

フン族の都市包囲戦を騎士道的空想に基づいて描いた14世紀の絵画。注)武器と鎧と都市は時代錯誤である。ハンガリーのピクタム・クロニクル英語版1360年
フン族による略奪。ジョルジュ・ロシュグロス英語版画。1910年

逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族はアタナリック英語版の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキアへそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。

395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[3]。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを却略した。彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、ユーフラテス属州を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年に宦官エウトロペ英語版がローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。

一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年ラダガイスス英語版率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年ヴァンダル族スエビ族そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである[3]。この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。ウルディン(個人名が知られる初めてのフン族[3])はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族のガイナス英語版の首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープルで晒された。

408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた[5][6]。それから程なく、ウルディンは死去している。

西ゴート王アラリック1世の義弟アタウルフは、409年ジューリア・アルプス山脈南方でフン族の傭兵を雇っていたようである。彼らは皇帝ホノリウスの最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。409年後半に西ローマ帝国は、アラリックを防ぐためにイタリアとダルマチアに数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。

410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した[7]。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ[8]

一方で、フン族は西ローマ帝国の将軍アエティウス(少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。433年、フン族は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母后ガッラ・プラキディアとの内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア(とイリュリクムの一部)の支配を西ローマ帝国に認められた[9]

アッティラ統治下の統一帝国[編集]

アッティラの指導の元でフン族は複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立した。フン族はローマ諸都市からの略奪と貢納金によって富を蓄えて、ゲピド族スキール族英語版ルギイ族英語版サルマタイ族東ゴート族といった従属部族の忠誠を維持していた。フン族の状況に関する唯一の長文の直接的な文書は、アッティラへの使節の一員だったプリスクス英語版によるものである。

434年ルーア王が死去して、甥のブレダアッティラの兄弟が共同王位に就いた。即位直後にブレダとアッティラは東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結んだものの、440年に和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を荒らしまわった。東ローマ帝国軍は敗退し、443年に皇帝テオドシウス2世は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされた。445年頃にブレダが死に、アッティラの単独統治となった。447年、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破している。

レオ1世とアッティラの会見
ラファエロ画。

451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。

452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている[10][11][12])。

パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した(脳出血または脳梗塞という説が有力である)。

ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。

アッティラ以後[編集]

5世紀の蛮族の侵入372年から375年のフン族による両ゴート王国破壊が契機になっている。ローマ410年西ゴート族455年ヴァンダル族に掠奪された。

アッティラの死後、彼の息子のエラク英語版が兄弟のデンキジック英語版およびイルナック英語版との争いに勝ってフン族の王となった。だが、従属部族たちがゲピド族長アルダリック英語版の元に集まり、454年にネダオ川でフン族に挑んだ(ネダオ川の戦い英語版)。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。パンノニア平野は東ゴート族にトランシルヴァニアはゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した[13]

後代の歴史家たちは、アッティラの民たちの離散と解明についての一瞥を提供している。伝統に従ってエラクの死後、彼の兄弟たちは二つに分離しているが近く関係する遊牧集団を黒海北方の平原で率いた。デンキジックはクトリグール英語版・ブルガール族およびウトリグール英語版・ブルガール族の王(カーン)となったと信じられ、一方プリスクスはクトリグール族とウトリグール族はイルナックの2人の息子に率いられ、彼らにちなんで名づけられたと主張している。このような区別は不明確であり、そして状況はそれほど明快ではなさそうである。

デンキジックとイルナックに率いられたフン族の一部は、パンノニアの東ゴート族に復讐を挑むが撃退され、ダキア・リペンシス英語版スキュティア・ミノル英語版といった東ローマ帝国領へ避難した[14]。おそらく、その他のフン族と遊牧集団はステップへ撤退した。事実その後、クトリグール族、ウトリグール族、オグール族(Onogur)、サダギール族(Sarigur)と云った新たな同盟が出現し、これらはひとまとめに「フン族」と呼ばれている。同時に6世紀のスラブ人たちも、プロコピオスによってフン族として紹介されている。

指導者[編集]

※アッティラ以前のフン族の指導者については不明な点が多く、諸説ある。

名前 治世 備考
バランベル英語版 360年 - 378年? その実在は疑われている[3]
バルタザール英語版 378年 - 390年?
ウルディン 390年 - 411年 フン族全体を統べる指導者ではなく、複数いたフン族の族長の一人と考えられる[15][16][17]
ドナート 410年 - 412年 ウルディンの後継者。
カラト英語版 410年 - 422年 ウルディンとは別系統。
アッティラにつながる系統の初代フン王とされる。
オクタル英語版 425年 - 430年?
ルーア 420年代[18]または432年 [19]
- 434年
弟オクタルとの共同統治で、420年代に初めてフン族全体の統治を形づくったとの見方もある[20]
ブレダとアッティラの伯父。
ブレダ 434年 - 445年? アッティラの兄、アッティラと共同統治
アッティラ 434年 - 453年
エラク英語版 453年 - 454年
デンキジック英語版 458年 - 469年
イルナック英語版 469年 - 503年

社会[編集]

フン族の野営地の想像画。シャーロット・メアリー・ヤング英語版作『少年向けローマの歴史(Young Folks' History of Rome)』の挿絵。19世紀

外見[編集]

ヨルダネスはフン族について以下のように述べている。

元々は沼沢地に住んでいた野蛮な種族で矮小で汚らしく、弱々しい部族であり、かろうじて人間で、そして他者をうんざりさせる言語だが、僅かに人間の言葉に似ている。フン族は恐怖によって敵を逃げ出させた。なぜなら彼らの浅黒い顔つきは恐ろしく、そして彼らは寧ろ巨大な不細工な塊とも言うべき顔、針の孔とも言うべき眼である。彼らの強健さはその野蛮な外見に現われており、惨たらしいことに彼らは赤子が生まれたその日に剣で男子の頬を切開し、彼らは母乳の滋養を受ける前に傷を耐えることを学ばねばならない。従って成年になってもその切痕のために鬚なしの醜態の相を示す。彼らの背丈は短く、身動きは素早く、機敏な騎手で、肩幅は広く、弓矢を用いるのに巧みであり、そして誇りを持って常に直立した頑丈な首を持っている。彼らは人間の形をしているが、野獣の獰猛さを有している。

『ゴート人の事跡』XXIV (127-8) [21]

フン王アッティラと会見した東ローマ帝国プリスクスの所伝を引用したヨルダネスは「アッティラは背が低く、胸は広く、巨大な顔を持ち、眼は小さくて落ちくぼみ、髯は薄く、鼻は低く、顔色は黒ずんでいた」と記しており、フンがモンゴル型種族(モンゴロイド)であったことを示している[22]

文化と習慣[編集]

フン族の大釜

4世紀の歴史家マルケリヌス・アンミアヌスはフン族の生活習慣について「食料を煮たり焼いたりせずに生のままで食べ、鞍の下に蓄えた腐肉も食する。女子供は常に荷車の中で生活し育てられる」と述べてる[23]

フン族の弓矢の複製品:屈曲型短弓複合弓

フン族は牛、馬そして山羊と羊の群れを飼っていた[3]。彼らの他の食料源は狩猟と野草の採集だった。衣類は山羊の皮からつくった丸い帽子、ズボンまたレギンスと亜麻または齧歯類の皮の上着を着ていた。アンミアヌスはフン族はこれらの衣類がぼろぼろになるまで着ていたと伝えている。戦闘では彼らは弓と投げ槍を用いた。矢じりと槍先は骨でつくられていた。また、接近戦では鉄剣と投げ縄を用いた。フン族の剣は長く、真っ直ぐな両刃のサーサーン朝形式のものである[24]。フン族の中の地位の象徴は金箔の弓である[24]

彼らは男児の顔を剣で切るスカリフィケーション(傷による身体装飾)を行う。その他の一般的なフン族の習慣は、顔面を広げて敵に恐怖心を与えるために、幼児の頃から子供の鼻を縛り付けて平たくすることである。発掘されたフン族の頭蓋骨は、幼児期に頭を儀式的に縛り付けた結果である人工的な頭蓋骨奇形の証拠を示している[25]

フン族はこの時代の他の蛮族と異なり、ヨーロッパに入ってからも定住生活を行わず、遊牧による移動生活を続けていた[26]。アッティラの時代になると、フン族社会の経済は遊牧ではなく、略奪と従属部族からの搾取によって成り立っていたと考えられている[27]

アンミアヌスは、フン族には王はおらず、貴族たちに率いられていると述べている。重大な事柄については、彼らは会議を開き、馬上で議論する。ルーア王の頃にフン族全体をまとめる王権が形づくられ[28]、次のアッティラ王の時代に全盛期を迎えた。

フン族の人口は、ローマ側の史料では女子供を含めた60万から70万人とあるが[29]、現代の研究者は実際の人口はかなり少なく、兵力は数千騎程度だったと考えている[30][31]

言語[編集]

19世紀初頭、ドイツJ・クラプロートフンの言語ウラル語系のフィノウグール語ではないかと提唱した。日本白鳥庫吉もこの説を支持した。この時代の説を引いて、フィン・ウゴル語派に属する「フィンランド人がフン族の裔」とする説も流れた。しかしこの説は、東ローマの僧の「ハンガリー人はフンと同一民族である」との言い伝えと、同様の内容のハンガリーの古記録、フンの種族名の一つにOungri/Ougri(ハンガリー)とあったのを根拠としていた。

1882年、ハンガリーのヴァーンベーリは『マジャール人の起源』において、フン語トルコ語であるとした。その後様々な研究者によってフン語=トルコ語説が支持され、その中でもM・A・アリストフチュヴァシ人(現在はフンの子孫とされている)の言語がフィノウグール語の影響を受けてはいるが、トルコ語がその語幹をなしていると論じた。 一方、ポッペはその説に対して反論を行い、フン語はアルタイ諸語で、蒙古語でもトルコ語でもない別の言語であるとした。これをバルトリドも支持し、フン語はテュルク語系統の古トルコ語ブルガール語近縁とされるチュヴァシ語が分岐する前の古チュヴァシ・トルコ語であるとした。

やがて、かつては同族だったとするウラル・アルタイ語族説も否定され、アルタイ諸語に分類されると考えられている。

民族系統の考察[編集]

古代歴史書の見解[編集]

4世紀の歴史家アンミアヌスは「氷結した大海に近い北方からやって来た」と述べた[32]

5世紀のローマ外交官でギリシャ歴史学者でもあったプリスクスは、フン族が独自の言葉を持っていたことに言及している。

6世紀の歴史家ヨルダネスはフン族の起源をゴート族魔女と不浄な魂との交合によるものであると述べている[33]

アラン人を移民に追いやった経過からは、フン族がヴォルガ川以東のかつてのスキタイ方面からの遊牧民の可能性が高いをことを示しているが、これらの古い記述は、フン族が少なくともかなりの北方から渡来してきたことを示唆した。しかし、これ以上の具体的な起源は不明であった。

「フン族」 = 「匈奴」説[編集]

250年頃の匈奴の領域

「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴の子孫であり[34]テュルク系民族ユーラシア大陸に広がった最初の端緒である[35]。」とする説がある。

初めフン=匈奴説は、17~18世紀の中国に渡来したフランスイエズス会宣教師のクロード、ヴィスデルー、アントワヌ、ゴービル等が唱えたものである。[要出典]つづいて、フランスのコレージュ・ド・フランス教授ジョゼフ・ド・ギーニュが『フン・トルコ・モーコ通史』(1756年)において、紀元前3世紀にはフン族と匈奴が中国北部で接していた、と主張した。

さらに、ミュンヘン大学F・ヒルト博士は『ヴォルガフンネンと匈奴について』(1899年)において、『魏書』西域伝に見える「粟特国」を、アッティラの死後フンが退居したクリミア半島の「スグダク」に比定し、西史に見える「フンのアラン族征服」を、『魏書』西域伝の「匈奴の奄蔡(阿蘭)征服」に比定し、「フルナス(アッティラの末子)」を「忽倪」に比定した。また、『魏書』西域伝に見える「(粟特国の)別名は溫那沙」に注目したJ・マルカルトは『ブルガール王侯表中に於ける非スラブ的表現』(1910年)において、「溫那沙=Un-na-sa」の「-sa」の中に、オセット語接尾語「ston」、アラン語の「stān」が存在すると論じ、「溫那沙」はアラン語またはペルシャ語の「Hūnastān」すなわち「フンの国」の音訳であるとし、ヒルト説を補強した。

これに対して、前出の歴史学者白鳥庫吉は、「粟特国はスグダクではなくソグディアナであり、匈奴が粟特国を征服したとあるのは、フンがアランを征服したのではなく、エフタルがソグディアナを征服した記述である」と反論している。

一方、フン族の指導者たちの名はテュルク諸語で表されているとされている説がある[36][37]。これに白鳥自身が当初フン族をフィン・ウゴル語派としていたため、言語が異なる異民族であると否定している。しかし、匈奴がテュルク語族であったことは否定しなかった。

これらの学説の論拠は名称や墓相・装飾品の類似などである。一部の研究者は「匈奴」の当時の発音が「フンナ」もしくは「ヒュンナ、キョウナ」など、フンを想起されると主張し(匈奴#読みを参照)、また後漢が北匈奴を討ったこと(91年)を根拠に、以降に匈奴の一部が西方に逃れてフン族となったとする説の他、当時の北アジア中央アジアに至る草原地帯の地域的気候変動が遊牧経済に打撃を与えたことが彼らの大移動の要因になっているとする説があるほか、王名などの分析から言語学的にはモンゴル系に属するという説もある。しかし、それ以外の言語学的資料が少なく不詳となっている。

しかし、大半の学者はフン族と匈奴の関連性について断定的な態度はとっていない。遊牧民の集団は血統を重視するため首長家の婚姻や政治的連合によっても主要な中枢集団の構成要素は容易に変動しないが、フン族集団全体としては匈奴の西走集団と系譜的に繋がるとしても、これを中国北方から西走した匈奴国家の部民が元の体制を維持したまま西方にフン族として登場した可能性には疑問がある。

西ゴート族襲撃以前のフン族については、決定的な証拠はいまだなく、正確に分かることは何も無いため、現状は広く受けいられている学説ではない。

遺伝子学的なアプローチ[編集]

フン族が含まれるとされる Y染色体ハプログループQの分布。

フン族の遺骨から古代のDNAを分析するアプローチも行われ、これまでにいくつかの手がかりが得られている。フン族でY染色体ハプロタイプを調べたところ、Q-M242N-TATC-M130R1a1 が見つかっており、複数の研究から Q のY染色体ハプログループY-DNA Q)に属するとされている。[要出典]この Y-DNA Q はテュルク語族には含めない、古シベリア諸語ケット語を話すデネ・エニセイ語族に見られる分布である[38]。ケット語は言語的にはテュルク諸語からの借用語を多く含む語だが、現代の DNA の分布はシベリアとともに南北アメリカネイティブ・アメリカンに多い。

現代の解釈[編集]

近代の民族集団を形成論的に考察した解釈に[39]、歴史上の大草原における部族連合 は民族的に同種ではなく[39]、むしろテュルク語族エニセイ語族en)、ツングース語族ウラル語族イラン語族[40]モンゴル語族などのような多民族の連合である。これはフン族も同様であることを示唆している[39]、とするものがある。

説では、威信と名声に基づいて多くの氏族が自らをフン族であると主張したであろうし、それは彼らの共通の特徴や信じられていた起源の場所、評判を記述した部外者のためである[39]、と断ずる。

同様にギリシャ語やラテン語の年代記編纂者たちも「フン族」という名称を「蛮族」と同様により大まかな感覚で用いていたことを想起させる。

これらの要素によって、同様の集団の中に民族的な均質性がなく、そして外部の年代記編纂者たちによるフン族の名称との相関関係から、多くの現代の歴史家たちはフン族の起源の説明について民族集団形成(en:Ethnogenesis)のアプローチに向かった。民族集団形成のアプローチでは集団が単一の土地を起源とするか単一の歴史を持つ言語学的または遺伝学的に均質の部族を想定しない。寧ろ貴族階級の戦士たちの小集団が土地から土地へ、世代から世代へと民族的な慣習を受け継ぐであろうとしている。臣下たちはこれら伝統の中枢の周辺に合同したり、離散したりする。フン族の民族性はこれらの集団に受け入れさせることを必要とするが、その際に「部族」の中から生まれたことは必要条件ではない。「私たちが差支えなく言えることは古代末期(4世紀)におけるフン族の名称は草原の戦士の名声のある支配集団を表現していると云うことである」と歴史学者ヴァルター・ポールは述べている[39]

同様の解釈をフランク王国を建国したサリー族にもあてはめる議論があり[41]、現代の主流となりつつある。

後継国家[編集]

フン王ブレダの名に由来するブダ城

フン帝国の崩壊後、フン族は東ヨーロッパ一帯に子孫を残したが、彼らがかつての栄光を取り戻すことはなかった。その理由の一つはブルガール人やマジャール人、金帳汗国と異なり、フン族が税制や官僚制度といった完全な国家機構を確立することがなかったためである。いったん組織が崩れると、フン族はより組織化された政治体に吸収されてしまった。彼らの後のアヴァールと異なり、一度フン族の政治的統一が崩れると、フン族はアッティラを頂く多民族帝国になっていたため、それを再建する手段はなかった。フン族は(少なくとも通常は)様々な人々の大群を含んでおり、彼らの各々が自らをフン族の「子孫」であると考えていた。しかしながら、フン族は固有の人民や国家ではなく政治的産物であったので、454年の敗北がこの政治体の終わりとなった。その後に発生した新たな政治体は、以前のフン族連合の人々から構成されており、同じステップ文化を継承していたが、彼らは新たな政治的産物である。

後の多くの国々がフン族の民族的、文化的後継者であると主張している。ブルガール王侯表en)は、ブルガリア王家がアッティラの子孫であると信じていたことを示している。ブルガール人はおそらくフン族の民族同盟の主要構成員であったであろう。フン族とブルガール人の文化には幾つかの類似があり、例えば人工的頭蓋変形の習慣などの考古学的証拠は、両者の強い連続性を示唆する。フン族とブルガール人の最も特徴的な武器(複合弓や長く垂直の両刃の剣など)はその外観がほとんど同じである。何人かの学者はチュヴァシ語ブルガール語の後裔であると信じられている)はフン語en)に最も近い同族言語であると仮説を立てた[42]

マジャル人(ハンガリー人)はフン族の相続者たるを特に強く主張している[43]。マジャル族はフン部族連合が消滅した約450年後の9世紀末に現在のハンガリー地方に定住し始めたが、マジャル起源伝説を含むハンガリー先史時代(en)は幾つかの歴史的事実を残しているとされる。ヨーロッパを侵略したフン族は様々な人々の緩やかな連合を代表し、マジャル人の幾らかもその一部であったろうし、または後になって依然としてフン族を名乗っていたアッティラの子孫に参加したのかもしれない。確定的な歴史学的または考古学的証拠がないにもかかわらず、賛称(ハンガリー国歌)はハンガリー人を「ムンズクBendegúzen)の血統」(アッティラの父)であると述べている。アッティラの兄ブレダBleda)は現在のハンガリー語ではブダ(Buda)と呼ばれている。ブダペスト西側のブダ地区は彼の名に由来するとされている。20世紀前半まで、ハンガリーの歴史学者の多くはセーケイ人はフン族の後裔であると信じていたが、現在では学界の一般的見解ではない。

伝説[編集]

聖ウルスラの受難』。結婚を拒否した聖ウルスラを矢で突き刺すフン王。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ画、1610年。

フン族の征服の記憶はゲルマン民族の中で口伝伝承され、古ノルド語の『ヴォルスンガ・サガ』や『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』そして中高ドイツ語の『ニーベルンゲンの歌』の重要な構成要素となった。これらの物語は千年紀前半の民族移動時代の事件を題材としている。

『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』では、ゴート族は弓を巧みに扱うフン族とはじめて接触し、ドナウ川の平原で勇壮な戦闘を行う。

『ニーベルンゲンの歌』では、ブルグント王グンテルの陰謀により重臣ハゲネに夫ジーフリトを殺されたクリエムヒルトが、フン族の王エッツェル(アッティラ)と結婚する。その後、彼女はエッツェルの妻としての権力を用いて、ハゲネとグンテル王だけでなく全てのブルグント騎士に血なまぐさい復讐を行った。

『ヴォルスンガ・サガ』では、アッティラはフランク王ジゲベルト1世en)とブルグント王グントラム(en)を打ち負かしたが、グントラムの妹でジゲベルトの王妃だったフレデグンドに暗殺された。

中世のキリスト教伝説では、1万1千人の処女とともに巡礼の旅に出た聖ウルスラはフン族に襲われ、聖ウルスラはフン王の矢で射殺され、1万1千人の処女たちは虐殺されている。

16世紀のノルウェー南部の農民反乱において、叛徒たちは法廷で「フン王アトル(Atle)」が大軍とともに北から来援することを期待していたと主張している。

第一次世界大戦時のイギリスの対独プロパガンダのポスター。敵国ドイツを"Hun"と形容している。

近代になって、フン族(Hun)の名称は第一次世界大戦第二次世界大戦におけるドイツのあだ名として用いられた[44]1900年義和団の乱に際してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が「敵に対してフン族のように容赦するな」と将兵に命じた[45]。この演説が第一次世界大戦の際にドイツ人の野蛮性を強調すべく、連合国に利用された。第二次世界大戦でも、連合国の人々は同じようにドイツ人を形容している。

注釈[編集]

  1. ^ テュルクの音写として丁零が知られており、中国のからの時代に匈奴と覇権を争っていたことがわかっている。モンゴル諸語はテュルク諸語、ツングース諸語とともにアルタイ語族にまとめられているが、まだ弱い相関しか知られておらず系統接続ははっきりしていない。

参照[編集]

  1. ^ Transylvania through the age of migrations
  2. ^ コトバンク。
  3. ^ a b c d e f g h i Thompson, E.A. (1996), The Huns, The Peoples of Europe (Revised ed.), Oxford: Blackwell, ISBN 0631214437 
  4. ^ ヨルダネスは6世紀のアリウス派僧侶のローマ帝国官僚でゴート人についての歴史家。
  5. ^ クローウェル、p47-49
  6. ^ アンビス、p53
  7. ^ アンビス、p55-58
  8. ^ アンビス、p60
  9. ^ アンビス、p61
  10. ^ アンビス、p123-124
  11. ^ クローウェル、p66-67
  12. ^ トンプソン、p158-159
  13. ^ アンビス、p130
  14. ^ アンビス、p130-131
  15. ^ クローウェル、p48
  16. ^ アンビス、p55-56
  17. ^ トンプソン、p66
  18. ^ トンプソン、p67
  19. ^ クローウェル、p55
  20. ^ トンプソン、p67-69
  21. ^ Jordanes. http://www.acs.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/jordgeti.html The origins and deeds of the Goths XXIV (127-8), translated by Charles C. Mierow
  22. ^ 内田、p154
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  24. ^ a b Nicolle, David; McBride, Angus (1990), Attila and the Nomad Hordes, Osprey Military Elite Series, London: Osprey, ISBN 0850459966 
  25. ^ Delius, Peter; Verlag (2005), Visual History of the World, Washington D.C.: National Geographic Society, ISBN 0-7922-3695-5 
  26. ^ クローウェル、p48
  27. ^ トンプソン、p177-182、p192
  28. ^ トンプソン、p67-70
  29. ^ クローウェル、p50
  30. ^ トンプソン、p52-56
  31. ^ クローウェル、p50-51
  32. ^ Peter Heather. The Goths. Page 98
  33. ^ Jordanes. http://www.acs.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/jordgeti.html The origins and deeds of the Goths XXIV (121-2), translated by Charles C. Mierow
  34. ^ De Guignes, Joseph (1756-1758), Histoire générale des Huns, des Turcs, des Mongols et des autres Tartares 
  35. ^ Frucht, Richard C., Eastern Europe, (ABC-CLIO, 2005), 744.
  36. ^ Pritsak, Omeljan. 1982 "The Hunnic Language of the Attila Clan." Harvard Ukrainian Studies, vol. 6, pp. 428–476.[1]
  37. ^ Otto Maenchen-Helfen, Language of Huns Ch. XI.
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  39. ^ a b c d e en:Walter Pohl (1999), "Huns" in Late Antiquity, editor en:Peter Brown, p.501-502 .. further references to F.H Bauml and M. Birnbaum, eds., Attila: The Man and His Image (1993). en:Peter Heather, "The Huns and the End of the Roman Empire in Western Europe," English Historical Review 90 (1995):4-41. en:Peter Heather, The Fall of the Roman Empire (2005). Otto Maenchen-Helfen, The World of the Huns (1973). E. de la Vaissière, "Huns et Xiongnu", Central Asiatic Journal 2005-1 pp. 3-26
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  41. ^ 福井憲彦『世界各国史12 フランス史』
  42. ^ Encyclopaedia Britannica, 1997: Turkic languages.

    "Formerly, scholars considered en:Chuvash probably spoken by the Huns."

  43. ^ アンビス、p7-9
  44. ^ クローウェル、p38
  45. ^ Weser-Zeitung, July 28, 1900, second morning edition, p. 1: 'Wie vor tausend Jahren die Hunnen unter ihrem König Etzel sich einen Namen gemacht, der sie noch jetzt in der Überlieferung gewaltig erscheinen läßt, so möge der Name Deutschland in China in einer solchen Weise bekannt werden, daß niemals wieder ein Chinese es wagt, etwa einen Deutschen auch nur schiel anzusehen'.

参考文献[編集]

  • Otto J. Mänchen-Helfen (ed. Max Knight): The World of the Huns: Studies in Their History and Culture (Berkeley, University of California Press, 1973) ISBN 0-520-01596-7
  • Maenchen-Helfen, Otto (1944-1945), “The Legend of the Origin of the Huns”, Byzantion 17: 244–251 
  • E. A. Thompson: A History of Attila and the Huns (London, Oxford University Press, 1948)
  • de la Vaissière, E. "Huns et Xiongnu", Central Asiatic Journal, 2005-1, p. 3-26.
  • Lindner, Rudi Paul. "Nomadism, Horses and Huns", Past and Present, No. 92. (Aug., 1981), pp. 3–19.
  • J. Webster: The Huns and Existentialist Thought (Loudonville, Siena College Press, 2006)
  • 内田吟風『北アジア史研究 匈奴篇』(同朋舎出版、1975年)ISBN 978-4810406276
  • ルイ・アンビス著、安斎和雄訳「アッチラとフン族」(白水社、1973年)ISBN 978-4560055366
  • E・A・トンプソン著、木村伸義訳「フン族―謎の古代帝国の興亡史」(法政大学出版局、1999年)ISBN 978-4588371080
  • トマス・クローウェル著、蔵持不三也訳「図説 蛮族の歴史 〜世界史を変えた侵略者たち」(原書房、2009年)ISBN 978-4562042975
  • ピエール・リシェ著、久野浩訳「蛮族の侵入―ゲルマン大移動時代」(白水社、1974年)ISBN 978-4560055670

外部リンク[編集]