ペトロニウス・マクシムス

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フラウィウス・ペトロニウス・マクシムス
Flavius Petronius Maximus
西ローマ皇帝
Solidus Petronius Maximus-RIC 2201.jpg
在位 455年3月15日 - 455年5月31日

出生 396年
死去 455年5月31日(58-59歳)
継承者 アウィトゥス
配偶者 おそらくルキニア
  リキニア・エウドクシア
子女 パラディウス英語版
アニキウス・プロブス
父親 アニキウス・プロビノス英語版
母親 マグナ
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フラウィウス・ペトロニウス・マクシムス(Flavius Petronius Maximus[1]/恐らくはFlavius Anicius Petronius Maximus[2]396年頃 – 455年5月31日[3][4])は455年に即位し、2か月半在位した西ローマ皇帝である。裕福な元老院議員であり傑出した貴族であった彼は西ローマ軍のマギステル・ミリトゥム(軍務長官)であったアエティウスそして西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の暗殺に関与した。マクシムス帝はヴァンダル族によるローマ劫掠英語版 の際に殺害された。

生涯[編集]

出自と官歴[編集]

ペトロニウス・マクシムスは396年頃に生まれており[3]、彼の確かな出自は不明だが、名門アニキア英語版家に属していたと考えられている[5]。後に皇帝となるオリブリオスとは親戚であり、祖父母は裕福な貴族で371年に執政官を務めたセクストゥス・クラウディウス・ペトロニウス・プロボス英語版とアニシア・ファルトニア・プロヴァ、父はアニキウス・プロビノス英語版であった。父のアニキウス・プロビノスは364年にイリュリクム属州長官になり、366年にはガリアそして368年から375年にはイタリア英語版の民政総督をおのおの務め、395年に執政官に就任していた。

マクシムスは若くから官界入りしており、知られている最初の官職は411年頃に就任した法務官であり[6]、415年には帝国官僚の登竜門である護民官書記官英語版となり、次いで416年から419年の間に帝室財務長官 (英語版を務めている[6]

420年1月/2月から421年8月/9月に彼は首都長官英語版に就任し、聖ペテロ大聖堂英語版の修復を行い、439年以前に彼はもう一度この官職に就いている。さらに彼は421年から439年の間のいづれかに近衛軍団長官に任命され、この官職かまたは二度目の首都長官の時期の433年に執政官に選ばれた[7]

439年8月から441年2月までイタリア民政総督英語版に就任し[8][9]、その後、443年に二度目の執政官に選ばれた。445年にパトリキ(貴族)に叙爵され、この年までにラビカナ街道聖クレメンテ聖堂英語版の間の カエリウスの丘公共広場を建設した[7]。この年、彼は西ローマ帝国で最も名誉ある地位にあったが、それも翌年に軍務長官アエティウスが三度目の執政官に選ばれるまでであった[6]

ペトロニウス・マクシムスと有力者のアエティウス将軍との不和が西ローマ帝国に次々と災厄をもたらすことになる[10]。しかしながら、当初はこの災厄で最も利益を得たのはペトロニウス・マクシムスであり、454年にアエティウスが、次いで翌455年3月16日に皇帝ウァレンティニアヌス3世が暗殺されたことにより、彼が帝位を手に入れることになった[6]

ウァレンティニアヌス3世暗殺とマクシムスの即位[編集]

ウァレンティニアヌス3世

歴史家アンティオキアのヨハネス英語版の記述によれば、マクシムスはアエティウスを粛清するよう皇帝ウァレンティニアヌス3世を唆し、その結果、皇帝自らの手によってアエティウスが殺害されたという[11]

ヨハネスの年代記によれば、ある日、皇帝ウァレンティニアヌス3世とマクシムスが賭博を行いマクシムスが負け、手持ちの金がなかった彼は指輪を担保として取られた[12]。ウァレンティニアヌス3世はかねてからマクシムスの美人で貞淑な妻ルキニアに懸想しており、この指輪を使ってルキニアを宮廷に呼び出した[12]。夫の呼び出しを受けたと信じて疑わなかったルキニアだが、そこはウァレンティニアヌス3世の寝室だった[12]。皇帝の誘惑を頑なに拒んだ彼女だが、皇帝は彼女の衣を脱がせて犯してしまった[12]。夫が皇帝に自分を売ったと信じた彼女は帰宅すると彼の裏切りを激しく非難した[12]。マクシムスは復讐を誓うと同時に人々から憎まれていた、この卑しむべき仇に取って代わる野心を抱いた[12]

アンティオキアのヨハネスの年代記によれば、マクシムスはマギステル・ミリトゥム(軍務長官)のアエティウス将軍が生きている限り復讐は実現できないと考え、彼を除くことにした[6]。そのため、彼はウァレンティニアヌス3世の宦官である侍従長 (英語版ヘラクレイオス英語版と共謀した。皇帝への影響力を強めることを望んでいたヘラクレイオスはアエティウスと長い間対立していた。二人はウァレンティニアヌス3世に対し、アエティウスが彼を暗殺して自らが皇帝になろうとしていると吹き込み、彼を抹殺するよう説得した。454年9月21日、ウァレンティニアヌス3世はアエティウスとの会合の席において、ヘラクレイオスの助けを受けてアエティウスを自らの手で刺殺した[13][14]

リキニア・エウドクシア
ウァレンティニアヌス3世とマクシムス帝の二人の皇帝の皇后となった。

アエティウスが殺されるとマクシムスはウァレンティニアヌス3世に対してアエティウスの役職だった軍務長官職に就けてくれるよう頼むが、皇帝はこの望みを拒否した[15]。これはヘラクレイオスが何者にもアエティウスが有していた権力を与えてはならないと皇帝に助言していたためであり、アンティオキアのヨハネスによれば、マクシムスはウァレンティニアヌス3世の拒否に苛立ち、彼を暗殺すると決めたという。彼はスキタイ族のオプティリヤとトラウスティラを共犯者に選び、彼らはアエティウスの元部下であり、将軍の死後はウァレンティニアヌス3世の護衛を務めていた[6]

マクシムスはウァレンティニアヌス3世がアエティウス殺害の首謀者であり、二人は元上官の仇を討たねばならないと説得し、さらに報酬も約束した[16]。455年3月16日、ローマに滞在していたウァレンティニアヌス3世はオプティリヤとトラウスティラそしてその部下たちを護衛に従えてカンプス・マルティウスを訪れた[6]。皇帝が弓射の訓練のために下馬するとオプティリヤと部下たちが近寄り、神殿内で彼を刺した。ウァレンティニアヌス3世が暴漢を見ようと振り返ったところでオプティリヤが止めを刺した。同時にトラウスティラがヘラクレイオスを殺害した。二人のスキタイ人は帝冠と紫衣を剥ぎ取り、マクシムスに送り届けた[6]

ウァレンティニアヌス3世の突然のむごたらしい死により、西ローマ帝国は明確な皇帝後継者が存在しない状態となり、皇帝官僚や軍隊は幾つかの党派に分かれておのおの皇帝候補を推した。とりわけ軍隊は三派に分かれた[6]。一人目がアエティウスの元護衛隊長英語版だったマクシミアヌスで、彼はローマで資産家となったエジプト人商人ドミィノスの子であった。二人目が後に皇帝となるマヨリアヌスであり、彼はアエティウスの没後に軍隊の指揮を執り、皇后リキニア・エウドクシアの支持を受けていた。そして三人目がマクシムスであり、元老院の支持を取り付けていた。結局、この競争に勝ったのはマクシムスで、3月17日に即位し、帝位を確保するために廷臣たちに金をばらまいた[6]

治世と死[編集]

ヴァンダル族のローマ劫掠。
カール・ブリューロフ画、1833年 - 1836年

宮廷を掌握したマクシムス帝は自らの権力を固めるためにウァレンティニアヌス3世の未亡人リキニア・エウドクシアと結婚した[15]。エウドクシアは亡帝の暗殺にマクシムス帝が関与してると疑っており、不承不承この結婚を受け入れた[17]コンスタンティノープルの東ローマ宮廷は彼の即位を承認せず、このため、マクシムス帝は自らの立場を強化するためにアウィトゥスマギステル・ミリトゥム(おそらくイタリア軍区司令官)に任命してトゥールーズへ送り、西ゴート族の支援を受けようとした[18][19]。さらにマクシムス帝はウァレンティニアヌス3世の皇女エウドキア英語版と息子のパラディウス英語版415年頃/425年頃 - 455年3月)とを結婚させた。ウァレンティニアヌス3世は生前、ヴァンダル王ガイセリックとの間で皇女エウドキアとヴァンダル王子フネリック英語版との結婚が取り決めていたようであり[20]、さらに絶望したエウドクシアがヴァンダル宮廷に助けを求めたことが彼に口実を与え、ヴァンダル族はイタリア侵攻を準備した[21]

マクシムス帝が即位して2か月たった5月にガイセリックがイタリアへ向けて出帆したとの知らせがローマに届いた。この知らせが広まると市内はパニックに陥り、住民の多くが逃げ出し始めた[6]。マクシムス帝はこの事態に全くの無為無策だった[22]。期待していたアウィトゥスが引き連れてくるはずの西ゴート族の援軍はいまだ到着しておらず、皇帝はヴァンダル族を防ぐことはできないと考え、逃亡を試み、元老院議員たちにともに逃げるよう急き立てた[22]。だが、大混乱の中、マクシムス帝は護衛や側近たちに見捨てられ、自身で逃げる算段をせねばならなくなる[6]

455年5月31日、街頭に出たマクシムス帝は激昂した群衆に遮られ、彼らは皇帝に石を投げつけ死に至らしめた(ある史料によれば皇帝はウルサスという名の一兵士に殺害されたという)[23]。彼の死体は切り刻まれ、テヴェレ川に投げ捨てられた[6][24]。彼の在位は僅か75日間だった。副帝(カエサル)に任じられていた皇子パラディウスもおそらく処刑されている[25]

マクシムス帝の死から2日後の6月2日、ガイセリックは市内に入り、2週間にわたり略奪の限りを尽くした。ローマ教皇レオ1世の懇願に応えて都市の略奪につきものの放火、虐待そして殺人は控えたものの、ガイセリックは大量の略奪品に加え、皇后エウドクシアと彼女の二人の皇女のエウドキアとプラキディア英語版を連れて町を去った[26]。456年に皇女エウドキアはヴァンダル王子フネリックと結婚させられた[27]

混乱の中、しばらく西ローマ皇帝は空位のままだったが、ガリアにいたアウィトゥスが西ゴート王テオドリック2世の後ろ盾を得て7月9日に皇帝たるを宣言し、元老院はやむなくこれを認めさせられた[28]

オリブリオスとの関係[編集]

先述のとおり、マクシムス帝は後に短期間、西ローマ皇帝となったオリブリオスとは親戚関係にあることは確実であるが、その続柄に関しては諸説ある。

第一に、実の親子関係にあるとの説。

第二に、マクシムス帝が従伯父で、オリブリオスが従甥という関係にあるとの説。具体的には、マクシムス帝の父と目されるアニキウス・ペトロニウス・プロビヌスの兄弟アニキウス・ヘルモグニアヌス・オリュブリウス(375年頃 - 没年不明)がオリブリオスの父方の祖父にあたるという。

先祖[編集]

マクシムス帝の母マグナはグラティアヌス帝を殺害して帝位を簒奪したマグヌス・マクシムスの娘である。マグヌス・マクシムスはテオドシウス1世の又従兄とされており、テオドシウス朝の血脈に連なる人物となる。その外孫であるマクシムス帝も傍系・女系ながらテオドシウス朝の血筋に属することにもなる。一説にマグヌス・マクシムスの父はフラウィウス・エウケリウス(310年生誕)、祖父はフラウィウス(285年生誕)、曾祖父はフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス・ダルダヌス(255年生誕)、ダルダヌスはコンスタンティヌス1世(大帝)の父コンスタンティウス・クロルスの弟(コンスタンティヌス大帝の叔父)。テオドシウス1世はマグヌス・マクシムスの祖父フラウィウスの兄弟の孫とされている為、テオドシウス朝はコンスタンティヌス朝の傍系血族ということになる。

また、父方の祖母と目されるアニキア・ファルトニア・プロバ(355年頃 - 413年頃)の高祖母の1人であるマエキア・プロバ(270年頃生誕)は軍人皇帝の1人ゴルディアヌス3世の孫娘であり、3世の祖父ゴルディアヌス1世の玄孫、1世の息子で3世の伯父ゴルディアヌス2世の曽姪孫(妹の曾孫)にあたる。また、ゴルディアヌス3世の父ユニウス・リキニウス・バルブスを通して五賢帝の1人ハドリアヌスの親類ルキウス・アエリウス・カエサルマルクス・アウレリウス・アントニヌスの共同皇帝ルキウス・ウェルスの父)の血を引く。故にマクシムス帝はルキウス・アエリウス・カエサル、ゴルディアヌス1世、ゴルディアヌス3世の末裔となる。なお、オリブリオスの父とされるアニキウス・プロブスの母方の先祖の1人マエキア・ケルテギッラ(265年頃生誕)はマエキア・プロバの姉にあたる。

子孫[編集]

マクシムス帝には皇子パラディウス以外にアニキウス・プロブス(435年 - 没年不明)という子供がおり、プロブスはマリア(440年生誕)という女性との間に娘マグナ(460年生誕)を儲けた。娘マグナは460年頃の生まれの為、プロブスは父と兄が殺された455年のローマ劫掠の惨劇を経緯は不明だが生き残ったことになる。娘マグナは東ローマ帝国皇帝アナスタシウス1世の弟パウルス(445年 - 496年以降に没)と結婚。プロブス(480年 - 542年以降に没)、イレーネー(485年生誕)兄妹の母となる。プロブスはニカの乱の際に民衆によって皇帝に擁立されかけたが、直前に逃亡して怒った民衆によって自宅に放火されている。民衆はプロブスの父方の従兄弟ヒパティウス(ヒュパティウス)を擁立したが、乱は鎮圧され、ヒパティウスとその兄弟ポンペイウスは処刑された。

プロブスは名前不詳の同世代の女性との間にフラウィウス・アナスタシウス・パウルス・プロブス・サビニアヌス・ポンペイウス(500年 - 517年以降に没)を儲けた。 サビニアヌス・ポンペイウスは東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の皇妃テオドラがヘケボルスという男性との間に儲けた非嫡出子の娘テオドラ(515年生誕)と結婚。アナスタシウス(530年 - 571年以降に没)、ヨアンネス(532年生誕)、アタナシウス(535年生誕)の父となった。

プロブスの妹イレーネーはマクシムス帝が殺害したウァレンティニアヌス3世の曾孫にあたるアニキウス・オリブリウス・ミノール(マクシムス帝の親類で数代後の西ローマ皇帝オリブリウスの孫でもある)と結婚。一人娘プロバ(510年生誕)がいる。娘プロバは西ローマ皇帝オリブリウスの弟アニキウス・オリブリウスの息子アニキウス・プロブス(495年 - 525年以降に没)と結婚。娘ユリアナ(533年生誕)を儲けた。イレーネーの夫の弟アレオビンドゥスはゲオルギアという女性との間に息子プロブス(510年 - 542年を儲け、プロブスは妻アウィエナ(520年生誕、西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスの孫娘、バルバラ(495年生誕)とルフィウス・マグヌス・ファウストゥス・アウィエヌス(485年生誕)の娘)と結婚。、プロバ(540年生誕)を儲けた。プロバはRogasという男性との間に娘ファビア(580年 - 612年)を儲けた。後にファビアはヘラクレイオス1世の最初の皇妃となり、1男1女を儲ける。なお、ルフィウスの系譜を遡ると、祖先には皇帝プピエヌス、五賢帝の1人マルクス・アウレリウス・アントニヌスに対して反乱を起こして敗死したガイウス・アウィディウス・カッシウス小ユリア、小ユリアの両親であるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ大ユリア、大ユリアの父でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスコンマゲネ王家、セレウコス朝プトレマイオス朝リュシマコスアレクサンドロス3世(大王)などに辿り着く。

サビニアヌス・ポンペイウスの長男でプロブスの孫アナスタシウスと、イレーネーの孫娘ユリアナが結婚している。なお、アナスタシウスは最初、ユスティニアヌス1世配下の将軍ベリサリウスとその妻アントニナの一人娘ヨアンニナと結婚していたが、アントニナによって離婚させられている。よって、アナスタシウスにとっては再婚である。アナスタシウスとユリアナにはアレオビンドゥス(550年生誕)、プラキディア(552年生誕)、プロバ(生没年不詳)の2男1女がいる。

プロバはゲオルギウスという男性と結婚したが子女は確認できない。

アレオビンドゥスには娘アナスタシア・アレオビンダ(570年生誕)がおり、皇帝マウリキウスの弟ペトルス(545年 - 602年)の妻となり、一女フラウィア・ユリアナ(590年生誕)を儲けた。フラウィア・ユリアナ西ゴート王国キリスト教の宗派の違い(カトリックアリウス派)に端を発した内乱(ヘルメネギルドの乱)の際に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに拉致、養育されていた西ゴート王子で合法的な西ゴート王国王位継承者アタナギルド(ヘルメネギルドの息子で内乱時の西ゴート王レオヴィギルド直系の孫)と結婚。息子アルダバストを儲けている。アルダバストは後に理由は不明であるが東ローマ帝国から追放処分を受け、西ゴート王国に亡命している。アルダバストの妻は西ゴート王キンダスウィントの姪ゴダであり、その間に息子エルウィグが誕生した。エルウィグは西ゴート宮廷で育てられ、次第に傲慢になって西ゴート王への野心を露わにしていき、数多くの陰謀を巡らす様になる。遂に680年、時の西ゴート王ワムバ(キンダスウィントの次の次の王)を毒を持って瀕死に追い込み(一命は取り留めた)、王位簒奪に成功、7年間西ゴート王国を統治した。エルウィグの血筋は少なくとも玄孫の代まで存続している。

プロバとアレオビンドゥスの姉妹プラキディアはアルサケス王家の血筋とされるヨアンネス・ミュスタコン(545年 - 591年)と結婚。エウフェミア(575年生誕)、ウァレンティヌス(580年 - 644年/645年)、マヌエル(585年 - 634年以降に没)の3人を儲けている。

マヌエルは一女(620年生誕)を儲け、その子孫が後世に存続している。

エウフェミアはグレゴリウス(ユスティニアヌス1世の妹ウィギランティアの曾孫(ウィギランティア(495年生誕、夫はドゥルギディウス)ープラエイエクタ(522年 - 550年以降に没)ーウィギランティア(540年生誕、父の名はアレオビンドゥス(510年 - 546年))ーグレゴリウス))と結婚。息子ニケタス(590年 - 629年)を儲けた。ニケタスは従姉妹グレゴリア(585年生誕、西ゴート王国ニケタスの父方のおばエピファニア(560年生誕)とヘラクレイオス(大ヘラクレイオス、550年 - 610年の娘、後の東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世の妹)と結婚(いとこ婚)し、グレゴリア(612年 - 650年以降に没。コンスタンティノス3世の皇妃、コンスタンス2世の母)、ニケタス(パトリキオス。615年 - 630年以降に没)、グレゴリウス(647年に戦死)の2男1女を儲けた。

コンスタンス2世は母方の曾祖母エウフェミアの弟ウァレンティヌスの娘ファウスタ(625年/630年 - 681年以降に没)と642年に結婚した。東ローマ皇帝の舅という地位を手に入れたウァレンティヌスは共同皇帝になろうとしたが、周囲の反対で失敗した。ウァレンティヌスは644年もしくは645年に娘婿でもあるコンスタンス2世から皇位を奪おうとしたが再び支持を得られずに失敗、失脚した。テオファネス(758年/760年 - 817年/818年)が記した年代記によれば、この二度目の試みがウァレンティヌスの命を奪った。

コンスタンス2世はファウスタとの間に男子3人(コンスタンティノス4世、ヘラクレイオス、ティベリオス)を儲けた。この3人の肖像はラヴェンナにあるサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂のコンスタンティノス4世のモザイク画に描かれている。681年、コンスタンティノス4世は弟2人の共同皇帝という地位を剥奪し鼻を削いだ。

コンスタンティノス4世には皇妃アナスタシア(650年 - 711年以降に没)との間にユスティニアノス2世、ヘラクレイオスという2人の息子がいる。ヘラクレイオスは667年から685年の間に生まれたが、父の死後の記録は無い。ユスティニアノス2世は最初の皇妃エウドキア(695年以前に没)との間に一女アナスタシア(685年生誕)を、2番目の皇妃テオドラ(690年 - 711年以降に没)との間に男子で共同皇帝ティベリオス(705年 - 711年)を儲けた。なお、テオドラはユスティニアノス2世の曾祖父コンスタンティノス3世の同母姉エウドキア・エピファニアの玄孫である。ユスティニアノス2世は暴政を行い、711年の反乱で殺された。ティベリオスもコンスタンティノープルで祖母アナスタシアの必死の助命嘆願にも関わらず、処刑された。ユスティニアノス・ティベリオス父子の死により、ヘラクレイオス王朝による東ローマ帝国支配は終わりを告げた。一方、ユスティニアノス2世の皇女でティベリオスの異母姉アナスタシアはブルガリア王テルヴェル(675年 - 721年)との間に息子テレリグ(706年 - 777年、後にブルガリア王)を儲けている。

なお、コンスタンティノス4世の皇妃アナスタシアの父はヨアンネス・アタラリック(600年 - 637年以降に没)という人物でコンスタンティノス4世の曾祖父ヘラクレイオス1世の庶子である。ヨアンネス・アタラリックの母はユスティニアヌス1世の甥ゲルマヌスの子ゲルマヌス(550年 - 605年)の次女(585年生誕。名前不詳)でヘラクレイオス1世の側室となった女性である。ゲルマヌスの妻は皇帝マウリキウスの皇妃コンスタンティアの姉カリト(560年生誕)である。なお、ユスティニアヌス1世の甥ゲルマヌスの母は西ローマ皇帝オリブリウスの孫娘(アニキア・ユリアナの娘)の可能性が指摘されている。ヨアンネス・アタラリックの祖父ゲルマヌスの母は東ゴート王国初代国王テオドリック大王の孫娘マタスンタ(517年/518年 -551年以降に没)であり、マクシムス帝の血筋は東ゴート王国の王家であるアマル家とも遠い縁戚関係がある。

脚注[編集]

  1. ^ Jones&Martindale 1992, p. 749.
  2. ^ Drinkwater&Elton 2002, pp. 117-118.
  3. ^ a b Drinkwater&Elton 2002, p. 118.
  4. ^ Norwich 1989, p. 162.
  5. ^ Drinkwater&Elton 2002,p.117.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m Mathisen, Ralph (1999年). “Petronius Maximus (17 March 455 – 22 May 455)”. De Imperatoribus Romanis. 2012年10月5日閲覧。
  7. ^ a b Jones&Martindale 1992,p.750.
  8. ^ Norwich 1989, p. 160
  9. ^ ギボン 1996,p.288.
  10. ^ Cameron&Ward-Perkins&Whitby 2002,p.18.
  11. ^ John of Antioch, fragments 200–201.
  12. ^ a b c d e f ギボン 1996,p.281.
  13. ^ Cameron&Ward-Perkins&Whitby 2002, p. 473.
  14. ^ Canduci 2010, p. 160.
  15. ^ a b Jones&Martindale 1992, p. 751.
  16. ^ ギボン 1996,pp.281-282.
  17. ^ ギボン 1996,pp.289-290.
  18. ^ Canduci 2010, pp. 161-163.
  19. ^ Cameron&Ward-Perkins&Whitby 2002, p. 20.
  20. ^ 松谷 2007,p.80.
  21. ^ Cameron&Ward-Perkins&Whitby 2002, p. 125.
  22. ^ a b ギボン 1996,p.290.
  23. ^ Browne 1859, p. 350.
  24. ^ Canduci 2010, p. 161.
  25. ^ Cameron&Ward-Perkins&Whitby 2002, p. 21.
  26. ^ Norwich 1989, p. 162.
  27. ^ 松谷 2007,p.85.
  28. ^ ギボン 1996,p.296.

参考文献[編集]

  • Browne, Robert William (1859), A history of Rome from A.D. 96 to the fall of the Western empire, Society for Promoting Christian Knowledge, http://books.google.com/books?id=mmoBAAAAQAAJ 
  • Cameron, Averil; Ward-Perkins, Bryan; Whitby, Michael (2001), The Cambridge Ancient History, Volume 14: Late Antiquity: Empire and Successors, A.D. 425–600, Cambridge University Press, ISBN 9780521325912 
  • Canduci, Alexander (2010), Triumph & Tragedy: The Rise and Fall of Rome's Immortal Emperors, Pier 9, ISBN 978-1-74196-598-8 
  • Drinkwater, John; Elton, Hugh (2002), Fifth-Century Gaul: A Crisis of Identity?', Cambridge, England: Cambridge University Press, ISBN 0-521-52933-6 
  • Jones, Arnold Hugh Martin; Martindale, John Robert (1992), The Prosopography of the Later Roman Empire volume 2, Cambridge, England: Cambridge University Press, ISBN 0-521-20159-4 
  • Norwich, John Julius (1989), Byzantium: The Early Centuries, Penguin 
  • エドワード・ギボン朱牟田夏雄訳 『ローマ帝国衰亡史〈5〉第31‐38章―アッティラと西ローマ帝国滅亡』 筑摩書房、1996年。ISBN 978-4480082657 
  • 松谷健二 『ヴァンダル興亡史―地中海制覇の夢』 中央公論新社、2007年。ISBN 978-4122048249 

外部リンク[編集]