ネポティアヌス

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ネポティアヌス
Julius Nepotianus
ローマ皇帝
Centenionalis-Nepotianus-rome RIC 200.2.jpg
コイン
在位 350年

全名 インペラートル・カエサル・フラウィウス・ユリウス・ポピリウス・ネポティアヌス・コンスタンティヌス・アウグストゥス
出生 不詳
イタリア
死去 紀元350年6月30日
ローマ
配偶者 マルケリヌス英語版の妹
王朝 コンスタンティヌス朝
父親 ヴィリウス・ネポティアヌス
母親 エウトロピア
宗教 キリスト教カトリック教会
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ユリウス・ネポティアヌスラテン語:Julius Nepotianus[1]、在位:350年6月3日 - 30日)は、ローマ皇帝位の僭称者。ローマの統治者でもあった彼は、在位中ほとんどの時間を敵対者・マグネテンィウス帝との敵対に費やした。のちに妻として、総督・マルケリアヌスの妹を娶った。コインベアリングのネポティアヌスという称号を自称し、彼は、28日間ローマ市を統治した。英語では「ネポティアン」と呼ばれることもあり、コンスタンティヌス朝の一員であった。彼は、ライバルであったマグネンティウスの将軍マルケリヌスに殺された。

なお、西ローマ皇帝・ユリウス・ネポスの父とは別人であり、コンスタンティヌス1世の甥である。

生涯[編集]

ネポティアヌスは、コンスタンティヌス1世皇帝の姉妹であるエウトロピアの息子であり、ヴィリウス・ネポティアヌスの息子だった[1]。出生日は明らかではない。しかし、彼は、コンスタンティヌス朝のエリートに列席する人物であったため、かなり質の高い養育を受けたと言えよう。のちに、当時の名誉職であった元老院の議員の称号を賜った。そこでの繋がりが、のちに皇帝となるときの支持者となったのであった。それと同時にローマ帝国の貴族(伯、コムス英語版)となった。

336年には、ローマの執政官にも就任している。

350年6月、ネポティアヌスは、マグネティウスの反乱の後、ネポティアヌスは自分自身を「ローマ皇帝」であるとと宣言し、剣闘士の一団とともにローマに入城した。350年6月3日の出来事であった。入城とともに、彼のライバル・マグネンティウスの支持者であるアニシウス、またはアニセトゥスが街を脱出した。

ネポティアヌスが皇帝位を宣言したことを知ったマグネティウスは、彼の信頼した官吏であり将軍である、マルケリヌスをローマに送ることによって、この反乱に素早く対処した。ユートロピウスによれば、ネポティアヌスはその結果生じた闘争(6月30日)によって、マルケリヌスに殺害された。彼の首は槍をかぶってローマの街中を担がれ、晒し物にされた。翌日、元老院議員であったネポティアヌスの支持者の迫害の間に、彼の母親であるエウトロピアも殺害された。

脚注[編集]

  1. ^ a b DiMaio, Michael, "Nepotian (350 A.D.)", ''DIR''”. Roman-emperors.org (1996年8月6日). 2014年6月2日閲覧。

関連項目[編集]