カタラウヌムの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
カタラウヌムの戦い
Attila in Gaul 451CE.svg
カタラウヌムの戦いでのフン族(黒)と西欧諸民族連合軍(グレー)の進路、およびフン族に脅かされるか、あるいは略奪された都市
戦争
年月日451年6月20日
場所シャロン=アン=シャンパーニュ
結果:戦術的引き分け。フン族の撤退。
交戦勢力
Labarum.svg西ローマ帝国
西ゴート族
フランク族
ブルグンド族
サクソン族
フン族
東ゴート族
ルギイ族英語版
スキリア族
トゥリンギ族
アレマン族
ゲピド族
バスタルナエ族
ヘルリ族
指導者・指揮官
テオドリック1世
Labarum.svgアエティウス
メロウェク
ゴンディオク
サンギバン
アッティラ
ウァラミル
アルドリク
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

カタラウヌムの戦い(カタラウヌムのたたかい ラテン語: Pugna Catalaunica : Bataille des champs Catalauniques : Schlacht auf den Katalaunischen Feldern : Battle of the Catalaunian Plainsフランス語読みでシャロンの戦いとも、: bataille de Châlons : Battle of Châlons)は、451年6月20日カタラウヌム平原にて行われた戦闘。西ローマ帝国の将軍アエティウス西ゴート族族長テオドリック1世らが率いる反フン族連合軍と、アッティラ率いるフン族とその隷下の部族らが衝突した。この軍事作戦は西ローマ帝国が行った最後の軍事遠征の一つとされているが、このローマ帝国軍の大半を占めるのは、ローマに忠誠を誓ったフォエデラティと呼ばれるゲルマン人部隊であった。

概要[編集]

451年アッティラの率いるフン族はライン川を渡り、ガリアに侵攻し、オルレアンを包囲した。西ローマ帝国の将軍アエティウスゲルマン諸族の軍と共にこれを討ちカタラウヌムの野(今の北フランスシャロン=アン=シャンパーニュ付近)で決戦した。激戦の末、アッティラは大打撃を受けて本拠のハンガリー平原に退き、西欧はフン族の征服を免れることができたが、フン族の勢力は維持された。

ローマ軍側も追撃不可能なほどの被害を受けたことで、西ローマの勢力は弱まり、ガリアへのフランク族の侵入が始まることとなった。

この決戦は世界史上の東西両民族の大衝突の1つとしても名高い。

戦いまでの経緯[編集]

450年頃まで、ローマ帝国の威光はガリア地方の隅々にまで行き届いていた。しかし、遠く離れたイタリアからのガリア地方の統治は上手いこといかず、徐々に廃れていくこととなる。時が進むにつれて統治力は低下しアルモリカ地方においてはすでに名目上ローマ帝国の配下にだけに過ぎなかった。また同時にローマ帝国内の領土をゲルマン人各部族は武力をもって占領し、結果的にフォエデラティとしてローマ側と協定を結び、各部族長の下定住し始めるようになる。

また、ライン川北部のクサンテンからレイエ川流域に至る領域はすでにサリアン系フランク人によって非公式に占領されており、  

戦闘[編集]

アッティラのガリア侵攻の報を耳にした当時の西ローマ帝国軍司令官:アエティウスは、イタリアからガリアへ自軍を急展開させた。シドニウス・アポリナリスによると、アエティウスは少数の徴集兵しか率いておらず通常兵は一人も率いていなかったと言う[1]。しかしこれは、『アエティウス配下の軍団の大部分はガリアに常駐していたから』とされている[2]。アエティウスはガウルに着くや否や、テオドリック1世西ゴート王国の緒王らに対してアッティラと戦うよう説得、

参戦民族[編集]

名言[編集]

  • 「我は第一の投槍を投ずるであろう。我に続くことを拒むものはただ死あるのみ」(アッティラが味方を鼓舞する際に言った言葉)

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ Sidonius Apollinaris, Carmina, 7.329.
  2. ^ Hughes, Ian (2012). Aetius: Attila's Nemesis. Barnsley, South Yorkshire: Pen & Sword Military. p. 159. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]