ハンブルク

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ハンブルク
Freie und Hansestadt Hamburg
ハンブルクの旗 ハンブルクの紋章
市の旗 市の紋章
ドイツ国内におけるハンブルクの位置
面積 755.26 km² (第15位
人口
 - 総計
 - 人口密度
(2005/12/31)
1,743,627 人 (第13位
2,308.6 人/km²
座標 北緯53度33分
東経09度59分
標高 3 m
ナンバープレート HH
自治体コード 02 0 00 000
ISO 3166-2 DE-HH
公式サイト ハンブルク市
政  治
州参事会議長・第1市長 オーラフ・ショルツ (SPD)
与党 SPDGrüne
前回選挙 2015年2月15日
次回選挙 2019年
連邦参議院(上院)
での投票権数
3

ハンブルクドイツ語Hamburg低ザクセン語Hamborg (Hamborch) [ˈhaˑmbɔːχ])は、ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約100kmほど入った港湾都市。正式名称は自由ハンザ都市ハンブルクFreie und Hansestadt Hamburg, フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク)。

人口約175万人。行政上では、ベルリン特別市と同様に、一市単独で連邦州(ラント)を構成する特別市都市州)なので、ハンブルク特別市ハンブルク州と呼ばれる。

概要[編集]

ブレーメン市と同様に、中世以来の自由都市としての地位を現代まで維持している。ベルリン特別市に次ぐドイツ第2の都市である。欧州屈指の歓楽街を持ち、経済、芸術ともに盛んである。

「ハンブルグ」と慣例的に表記されることもあるが、ドイツ語では語尾の"g"は濁らないため、正確な発音は「ハンブルク」である。現地では低ザクセン語の中のハンブルク方言(de:Hamburger Platt)による「ハンブイヒ」([ˈhambʊɪç]) や、低ザクセン語の「ハンボーホ」の発音も聞かれる。街の語源は、古ドイツ語の「湾の城」に由来する(Ham = 湾、Burg = 城)[要出典]。漢字表記の「漢堡」は、「Hamburg」の音訳であり、日本語と中国語の両方で同一表記である(※漢字の「堡」は「とりで」を意味しており、「burg」の直訳)。ハンバーグの語源はハンブルクの労働者の食事として流行っていたタルタルステーキから来ている。英語でもハンブルクのことを“ハンバーグ”に近い発音で呼ばれる(英語でBurgはバーグ)。なお、フランス語では「Hambourg」(アンブール)と表記される。

地理[編集]

エルベ川の支流・アルスター川河口にある港湾都市で、ドイツ北部における経済の中心地。 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ニーダーザクセン州に境を接する。近隣の都市としては、約80km北のキール市、55km北東のリューベック市、95km南西のブレーメン市、95km西のブレーマーハーフェン市、90km東のシュヴェリン市などが挙げられる。

市域は、アルスター川東岸の旧市街と西岸の新市街、それらをとりまく地域からなる。旧市街は昔から商業地域の中心で、数多くの運河がながれている。町の景観の特色のひとつが運河にかかる橋で、アムステルダムヴェネツィアをあわせたよりも多くの橋がある。そのほかの名所としては、港にかかる長いつり橋ケールブラント橋や、アルスター川をせきとめてつくった内アルスター湖と外アルスター湖、現在では旧市街をかこむ公園・遊歩道となっている古い市壁跡地があげられる。また、ナイト・クラブがならぶレーパーバーン歓楽街として有名である。

歴史[編集]

6世紀には、エルベ川河口に港湾都市として存在しており、ヴァイキングの襲来を受けている。808年、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞が築かれ、811年にはキリスト教の布教をさらに推進する目的で、砦の近くに大聖堂を建設し、「ハンブルク」としての基礎が整えられる。この大聖堂はまもなく北ヨーロッパのキリスト教文化の中心となったが、しばしば敵対する民族に攻撃された。834年ベネディクト会の大司教座がおかれたが、北方民族の略奪をうけて、848年に近くのブレーメンに移された。

ハンブルクはデーン人スラブ人の襲撃にももちこたえ、1189年には神聖ローマ帝国フリードリヒ1世から船舶航行の特許状をうける。この特許状は第3回十字軍への貢献の報償としてあたえられたもので、商業上の特権をみとめるものだった。また、関税特権、経済特権を獲得したことで交易都市としての発展が進み、1241年にリューベックと、1249年にブレーメンと防衛同盟をむすんだ。同年、シャウエンブルク伯爵より完全な自治を許され、貨幣製造権も与えられる。このことがやがてハンザ同盟の成立へとつながっていく。たかだか同盟のビール生産地にすぎなかったハンブルクは、リューベックが衰えるのと反対に繁栄し富裕な有力都市のひとつとなった。ハンブルクは同盟の規則を破って、イギリス人を最初の例として、それからオランダ人とポルトガルのユダヤ人へ市民権を与えた[1]。なかんずくイギリス人には諸特権を付与した[1]。このようなハンブルクであったが、1410年、1510年、1618年と三度神聖ローマ皇帝から自由都市の特権を与えられ、自治権を獲得維持した。

1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派カルバン派、そしてユダヤ人の避難場所となった。1558年、アントウェルペン取引所にならってハンブルク取引所が設立され、そこでは植民地生産物だけでなく証券・保険に関する取引も集中処理された[2]。そしてポルトガルとの取引関係から、1600年ごろにブラジルと貿易を始めた[1]。1616年にハンブルク評議会が指針を立て、3年後にハンブルク銀行が設立された。この銀行はドイツに初めてうまれた振替システムであった。その後、三十年戦争によりハンブルクの商業は大打撃をこうむった。しかしフランスフォンテーヌブローの勅令が出て逃げてきたユグノーが、当時において先進的な工業技術と潤沢な資金により復興させた。1709年からアメリカへの移住が始まった。1720年、ユグノーに厚いプロイセン王国がオランダへ黄金海岸を売却した。このころよりサンクトペテルブルクの開発が進み、それに呼応してロシア帝国に干渉しオスマン帝国を攻撃するための、政治・経済・軍事拠点としてハンブルクは活躍するようになった。

1800年のハンブルク

1770年、ハンブルク銀行が預金通貨単位「バンコ・マルク」を制度化した。1783年にアメリカと通商関係をむすび国際金融市場として飛躍的に発展した。南ドイツのマーチャント・バンカーないし個人銀行家のほとんどが当時アメリカへ親戚をもっていたといわれている。1790年代、フランス革命軍が追い出したオランダの証券ブローカーがドイツのハンブルクへ逃げてきた[3]。そこでにわかに現金・手形・振替取引が増えたが、特にフランスからアメリカへの支払とイギリスから対仏大同盟へのそれは際立っていた[3]。1798年、M・M・ヴァールブルク&COができた。1806年、ベーレンズ商会ができた。これはロスチャイルドゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダーと関係の深い個人銀行であった。1810年、ハンブルクはナポレオン1世の軍隊に占領された。しかし、ナポレオンの没落後ふたたび自由都市となり、1815年にドイツ連邦に加盟した。このころにスペイン・ポルトガルから独立していたラテンアメリカ諸国が欧州との貿易を望み、ハンブルクは旧来の取引関係をさらに拡充する機会として積極的に応じた。

1890年のハンブルク倉庫街
1890 - 1900年のハンブルク

1842年に4日間にわたる火災で市街地は被害をうけた(ハンブルク大火)。1850年代から南米ラプラタ川流域諸国との貿易に往来する船舶数が、それまで年平均で数隻だったのが50隻にもなった[4]。1856年、シュローダー系のVereinsbank Hamburg が設立された。この年メルク商会(現バークレイズ)その他7行が参加する北ドイツ銀行も、ロスチャイルド商会の定款を習い発足した。アメリカで南北戦争が起きたとき、ドイツの証券取引市場は活況となった。1869年、ハンブルクとリオデジャネイロサントスとの間に直通定期便がスタートした[4]。1871年のドイツ帝国成立の際、ハンブルクはどこの州にも属さず独立を維持した。1875年、ハンブルク銀行がライヒスバンク支店となった。1870年には4行しかなかった株式銀行が1875年には17行となった。またこのころハパックが台頭した。

1892年にはコレラの流行で8605人もの死者が出た。このときプロイセン王国に属するアルトナ市は、市街地をハンブルクに隣接させていたが、水道を濾過する設備を整えており、コレラの侵入を全く阻んで瘴気説の終焉をもたらした[5]。 1895年、北ドイツ銀行がディスコント・ゲゼルシャフト(現ドイツ銀行)に吸収された。このころに北米からの輸入額が倍化していった。ブルーバナナと合衆国の独占資本は大本が同一であったので、貿易摩擦はそれほど深刻なものとはならなかった。1906年ごろからフォレスタルが営業を展開した。1909年において、ハンブルクの手形交換所は交換額でベルリンの倍以上であった。ネットの取引高においても、1890-1910年においてベルリンと互角以上であった[6]

1918年11月のハンブルクの人民蜂起はドイツ帝国崩壊の先触れとなり、短期間ではあるが、社会主義レーテ共和国が樹立された。1938年にアルトナハールブルクワンツベックなどを併合。第二次世界大戦では潜水艦基地がおかれ、連合国軍のハンブルク空襲により多くの市民が命を失った。1949年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、その1州となった。

現在も市民にはプロテスタントが多い。政治的には中道左派のドイツ社会民主党 (SPD) が長期間市政を担うなど、南ドイツ第一の都市・ミュンヘン市とはサッカーに限らずあらゆる点で対照的である。ミュンヘンのあるバイエルン州はカトリックの地盤であり、政治では保守政党のキリスト教社会同盟 (CSU) の勢力が強い[7]

ハンブルク・スカイラインのパノラマ風景

政治[編集]

市議会[編集]

ハンブルク市議会の議場

ハンブルク市議会ドイツ語版の定数は121。2015年2月15日に行われた前回選挙の結果は以下の通りである[8]

2011年に惨敗したCDUはさらに議席を減らし、反EUの右派新党「ドイツのための選択肢」が6.1%の得票を得て、初めて議席を獲得した。一方、2011年の選挙で単独過半数を確保したSPDも第一党の座は維持したものの過半数を割り込んだため、緑の党との連立政権を樹立した。2013年の連邦議会選挙で全議席を失うなど、党勢の退潮が続いていたFDPは議席を維持している。

市長[編集]

地方行政[編集]

行政区[編集]

ハンブルク特別市は、七つの区域(Bezirk)に区分されている。

Hamburg-Stadtteilkarte.jpg
  1. アルトナ区 (Altona)
  2. ベルゲドルフ区 (Bergedorf)
  3. アイムスビュッテル区 (Eimsbüttel)
  4. ハンブルク・ミッテ区 (Hamburg-Mitte)
  5. ハンブルク・ノルト区 (Hamburg-Nord)
  6. ハールブルク区 (Harburg)
  7. ヴァンツベック区 (Wandsbek)

経済[編集]

コメルツ銀行アトリウム

中世よりハンザ同盟の中心的役割を果たした都市の一つでもあり、エルベ川沿いの港湾商業都市として発展した。コンテナ貨物用の広大な施設をそなえ、造船と船舶修理用の大きなドックを持つ港は、ドイツ第一、欧州連合第二の港湾規模、大小約500の海運関係企業があるといわれている。鉄道と高速道路網によって中央ヨーロッパの諸都市とむすばれ、ドイツ最大の物流拠点となっている。近年は産業構造の変化にともない、医療産業、バイオ産業、航空産業など技術集約産業の誘致に熱心で、日本の大手電機メーカーをはじめ、多くの国際企業が拠点をおいている。特に航空産業についてはエアバス社が専用滑走路をもつドイツ最大の工場を置いている他、ハンブルク空港にはルフトハンザ・テクニック社がある。また、モンブランや日本名ニベア花王で知られるバイヤーズドルフの本拠地でもある。現在、大型クルーズ船の桟橋や文化・商業・居住機能をもつ臨港地域「ハーフェンシティ」の開発計画が進行中である。

文化[編集]

音楽[編集]

オペラハウス(実際は市立だが、独立性の高い政府組織を持つ他の州立歌劇場と同様、一般にはハンブルク国立歌劇場と呼ばれる)は、モーツァルト以前のイタリア語オペラ全盛期にもドイツ語オペラ上演を盛んに試みていた名門であり、専属オーケストラはハンブルク・フィルハーモニーの名でコンサートも行う。同歌劇場は1970年前後に北ドイツ放送と共同で質の高いオペラ映画を多数製作し、それらの一部は現在でもDVDなどで親しまれている。

18世紀にはゲオルク・フィリップ・テレマンカール・フィリップ・エマヌエル・バッハがハンブルク市音楽監督を勤めた。ロマン派時代の作曲家フェリックス・メンデルスゾーンヨハネス・ブラームスの生誕地でもあり、北ドイツ放送交響楽団の本拠地でもある。ビートルズが下積み時代に活動していたことでも知られ、その英国デビューは「ハンブルクから来た男たち」の触れ込みで行われたためドイツ人バンドと誤解されたというエピソードもある。

スポーツ[編集]

ハンブルク特別市を本拠地とするブンデスリーガ(1部)所属のプロサッカークラブ。近隣のブレーメン市に本拠地をおくヴェルダー・ブレーメンとの試合では、とりわけダービー戦のような盛り上がりをみせる。
このクラブもハンブルク特別市を本拠地としており、ブンデスリーガ(2部)に所属している。サポーターの層は、ザンクトパウリの方が庶民的かつ熱狂的でやや危険である。

観光[編集]

市の中央にアルスター湖があり、観光客も多い。観光では、最近はエリカ街道の起点にもなっている。

倉庫街
税関近くの運河
アルスター湖
夜の倉庫街
ハンブルク市庁舎
ハンブルク港

交通[編集]

姉妹都市[編集]

姉妹港[編集]

国際機関[編集]

国際海洋法裁判所がある。

ハンブルク出身者[編集]

ア行

カ行

サ行

タ行

ナ行

ハ行

マ行

ヤ行

ラ行

ワ行

脚注[編集]

  1. ^ a b c H.C.E.Baasch, "Das Wirtschaftsleben in der Vergangenheit", Hamburg, in seiner politischen, wirtschaftlichen und kulturellen Bedeutung, Hamburg, 1921, S.56.
  2. ^ G.Klein, Vierhundert Jahre Hamburger Börse, 1558 bis 1958, Hamburg, Anfänge.
  3. ^ a b E.Klein, "Von den Anfängen bis zum Ende des Alten Reiches (1806)", Deutsche Bankengeshichite, Bd.1, Frankfurt an Main 1982, S.145.
  4. ^ a b E.F.Alemann, Hamburgsschiffahrt und Handel nach dem la Plata, Heidelberg, 1915, SS.16-19.
  5. ^ Norman Longmate, King Cholera: The Biography of a Disease, London, 1966, pp.228-229.
  6. ^ Die Reichsbank, 1876 bis 1910, Berlin, 1912, SS.118-121.
  7. ^ ただし、ミュンヘン市の市政レベルではSPDが戦後の大半の市長を輩出している
  8. ^ 121 Abgeordnete im Überblick(ハンブルク市議会公式サイト)
  9. ^ Kunst und Handwerk in Japan by Justus Brinckmann Published 1889 arcive.org
  10. ^ Ephemeral beauty in the lives of Edo womenThe Japan Times, Nov 12, 2010

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公式
日本政府
2013年1月1日在ハンブルク日本国総領事館から再編。
観光
その他