黄金海岸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

座標: 北緯5度27分 西経0度58分 / 北緯5.450度 西経0.967度 / 5.450; -0.967

ゴールドコースト

黄金海岸の国旗
国旗
英領ゴールドコーストの国章 of 黄金海岸
英領ゴールドコーストの国章
赤が黄金海岸
赤が黄金海岸
ガーナの地域区分。沿岸部が本来の黄金海岸。東部の緑(ヴォルタ)が旧英領トーゴランド。中央の赤(アシャンティ)およびその北の黄色(ブロング=アハフォ)が旧アシャンティ。
ガーナの地域区分。沿岸部が本来の黄金海岸。東部の緑(ヴォルタ)が旧英領トーゴランド。中央の赤(アシャンティ)およびその北の黄色(ブロング=アハフォ)が旧アシャンティ。
地位 多民族国家ガーナ共和国
住民の呼称 ゴールドコースト人 (ガーナ人)
面積
• 合計
238,535 km2 (92,099 sq mi)
人口
• 推計
およそ 29,767,108[1]
時間帯 UTC+0 (GMT)
• 夏 (DST)
UTC+0 (GMT)

黄金海岸(おうごんかいがん、: costa do ouro[2]は、石油スイート原油天然ガスが豊富な西アフリカギニア湾に面した地域の名称だった。この地域は現在、ガーナとして知られている。

語源と位置[編集]

黄金海岸は象牙海岸奴隷海岸胡椒海岸(穀物海岸)と同様に、その地の主要な輸出資源にちなんで名付けられた[3]

黄金海岸は象牙海岸の東、奴隷海岸の西に位置する[3]

しかし、この定義が最初から一貫していたわけではなかったようである。特に、ポルトガルが既に到達していたガンビア川でも(量は違うにせよ)金が得られていた。このため16世紀のポルトガル語と英語の文書では、この地方は、通常、「ミナ海岸」として言及される。おそらく、黄金海岸という用語は17世紀にオランダ人とともに登場した。1596年のBernardus Paludanus(別名Bernardus ten Brocke)に由来するギニアに関するの最古のオランダ語の記述(そして実際にはヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテンの旅を記述している)は、まだこの名について言及していない。しかし、シュヴァーベンのアンドレアス・ジョスア・ウルスハイマーは、オランダの船の船医として、1603年に黄金海岸にも航海した。この旅に関する彼の報告には次のような記述がある。

„Alldieweil ich nun den frühling zue Amsterdam zu brachte, waren von Genuesischer Compania zwey schif zu gericht, nachher Guinea auf die Goldkust zu fahren (welche in Africa ligt und ihren Anfang zu Capo Palmas 4 Grad von der Linea Equinoctiali nemet biß nachher kust Acora ob Monte), als in die 120 meilen sich erstreckht...
...Darnach seind wier immer fordt gesegelt, auf das C. de 3 puntas (gemeint ist das Kap der drei Spitzen), an welchem ort sich der recht Goldkust anhebt.

Pieter de Marees(1601年にそこにいた)による別のレポートが1602年に登場した。17世紀の終わりまでに[4]、黄金海岸の概念はより正確に定義されていた。それはおそらくこの地でのヨーロッパ勢力の領土争いによるものだったのだろう。

なお、黄金海岸という用語は、初期は文字通り海岸地帯を指す語で、内陸部は含まなかった[3]。この語が海から遠く離れた地域をも指すようになったのは19世紀になってからだった[3]

領土[編集]

黄金海岸の領有の変遷は次のとおり。

ガーナは、黄金海岸と大まかに呼ばれるこの地域の正式名称であり、独立の直前には次の4つの部分からなり、法的立場は明確に分かれていた[3]


このため、独立に先立ち、まずこの4地域を統合して1957年に英連邦独立自治領(independent dominion)ガーナが成立した。英連邦関係省次官ジョン・ホープ英語版はこの名前は「ゴールドコーストの住民の希望に従って」選ばれたと説明した [5]

歴史[編集]

1930年代ジョージ6世黄金の床几を描いた英領黄金海岸の切手。

ヨーロッパ人は1482年にアフリカのこの地域に到達し、その後何世紀にもわたって、さまざまなヨーロッパの植民地帝国と商社がそこに商館として知られる交易所を設立した。彼らはこの拠点を利用して、移民して開発するのではなく、利益を吸い上げることに専念した。


ポルトガル領黄金海岸が最初に設立された[3] 。オランダ人は1598年に到着し、1642年にポルトガル領をオランダ領黄金海岸に編入した 。オランダ人は1871年までこの地域にとどまり、最後は英領黄金海岸に引き継がれた[3]

ブランデンブルク領黄金海岸もあり、1682年にこの地域に植民地が設立された[3]後に、プロイセン領黄金海岸になった。1721年にオランダがそれを購入した[3]。スウェーデン領黄金海岸の入植地は1650年にさかのぼる。デンマーク人は1663年に到着し、後にスウェーデンの領土を占領し、デンマーク領黄金海岸に組み込んだ[3]。1850年にすべての入植地はイギリスのゴールドコーストの一部となった[3]

イギリスは1871年までに黄金海岸全域を占領していた[3]アングロ・アシャンティ戦争英語版後の19世紀後半には、内陸部の土地も多く占領していた[3]

その後、1957年の英連邦内のガーナ自治領の成立を経て1960年に正式にガーナは独立した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Population Country Economy”. 2020年9月28日閲覧。
  2. ^ Vocabulario portuguez e latino. Collegio das artes da companhia de Jesu. (1720). https://books.google.co.jp/books?id=IuVMAAAAcAAJ&dq=%22Costa%20do%20Ouro%22&hl=ja&pg=PA487#v=onepage&q=%22Costa%20do%20Ouro%22&f=false 2020年9月28日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m "The Legislation Providing for the Grant of Independence to Ghana", Journal of African Law, Vol. 1, No. 2 (Summer, 1957, pp. 99–112, Published by Cambridge University Press.
  4. ^ たとえばSamuel Purchas (1625). Purchas His Pilgrimes, 第 2 巻. William Stanby. pp. 929,946. https://books.google.co.jp/books?id=vuXF22kvgrsC&vq=gold%20coast&hl=ja&pg=PA745#v=onepage&q=gold%20coast&f=true 2020年9月29日閲覧。 ではすでに「黄金海岸はスリーポインツ岬から始まり、ヴォルタ川まで続く」「ミナの黄金海岸」「穀物または黄金海岸、そして牙海岸」などの記述がある。
  5. ^ HC Deb, 11 December 1956, vol. 562 cc229-326, Ghana Independence Bill, The Under-Secretary of State for Commonwealth Relations (Lord John Hope) "First, there is the name "Ghana." This has been conferred on the new country in accordance with local wishes. It was the name of an ancient kingdom, in what is now French territory south of the Sahara, which has acquired great historic significance in the Gold Coast."

参考文献[編集]

  • Wilhelm Crecelius: Josua Ulsheimers Reisen nach Guinea und Beschreibung des Landes. In: Alemannia. 7, 1879, ISSN 0934-4896, S. 97–120 (online).
  • Wilhelm Bosmann: Reyse nach Guinea oder ausführliche Beschreibung dasiger Gold-Gruben / Elephanten-Zähn und Sclaven-Handels / nebst derer Einwohner Sitten / Religion / Regiment / Kriegen / Heyrathen und Begräbnissen / auch allen hieselbst befindlichen Thieren / so bishero in Europa unbekannt gewesen. Heyl & Liebezeit, Hamburg 1708.