エリトリア
- エリトリア国
- ሃገረ ኤርትራ (Hagere Ertra)(ティグリニャ語)
ادولة اإريتريا(アラビア語) -


(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:Ertra, Ertra, Ertra

-
公用語 ティグリニャ語、アラビア語 首都 アスマラ 最大の都市 アスマラ 独立
- 日付
- 承認エチオピアより
1991年5月29日
1993年5月24日通貨 ナクファ (ERN) 時間帯 UTC (+3)(DST:なし) ISO 3166-1 ER / ERI ccTLD .er 国際電話番号 291
エリトリア国(エリトリアこく)、通称エリトリア(ティグリニャ語: ኤርትራ Ertra, アラビア語: إرتريا Iritriyya)は、アフリカの角とよばれるアフリカの北東部にある国である。
西にスーダン、南にエチオピア、南東部にジブチと国境を接し、北は紅海に面し、紅海対岸側にはサウジアラビアとイエメンがある。1350km以上にも及ぶ紅海に面した長い海岸線を持ち、領海域には、およそ350の島があり、世界でも最も船舶交通が混雑する海域である。 1991年5月29日にエチオピアからの独立を宣言し、1993年5月24日に独立が承認された。首都はアスマラ。
独立以降、書記長のイサイアス・アフェウェルキによって選出された国会議員で一党独裁状態が続いている。「アフリカのシンガポール」というスローガンを上げて独裁国を手本にした国作りを進めている。[2]周辺諸国との紛争や兵役、抑圧的な政治体制により大量の国民が国外に脱出して国際的な難民問題になっている[3][4]。
国名[編集]
正式名称は、ሃገረ ኤርትራ (Hagere Ertra)。通称、ኤርትራ (Ertra)。アラビア語では دولة إرتريا (Dawlat Iritriyá)。通称 إريتريا (Iritriyá)。 古代ギリシャ語の「赤」を意味するerythrosから派生したエリュトゥラー(Ἐρυθρά)は古代ギリシア語で赤を意味し、紀元前4世紀のヘレニズム時代の作品に紅海の赤の意味で使われている記録があり、1世紀に紅海からインド洋にかけての南海貿易について記された航海案内書「エリュトゥラー海案内記」にも登場する。 エリトリアの名前はイタリアが19世紀に植民地として支配するにあたり、ラテン語で「紅海」を意味する『Mare Erythraeum』にちなんでつけられたといわれる。 公式の英語表記は State of Eritrea(ステイト・オヴ・エリトレイア、エリトリーア)。通称 Eritrea [ˌɛrɪˈtreɪə][5]、[ˌɛrɪˈtriːə][6]。
日本語の表記は、エリトリア国, 通称、エリトリア。イタリア語に由来してエリトレアと書かれることもある。
地方行政区分[編集]
エリトリアは6つの地方に分けられる。
この地方がさらに複数の地区に分けられている。
主要都市[編集]
地勢[編集]
西にスーダン、南にエチオピア、南東部にジブチと国境を接し、北は紅海に面し、紅海対岸側にはサウジアラビアとイエメンがある。海岸線は1350km以上にも及び、領海域には、およそ350の島があるダフラク諸島があり、イエメンとの間のバブ・エル・マンデブ海峡は非常に狭くなっている。
国を二分する中央部から北部に続く山脈のアフリカ大地溝帯と地質の特性により、東部の乾燥した半砂漠地域と、西部の肥沃な大地の2つの地域に分けることができます。
また気候特性の違いにより3つのエリアに分割することができます。紅海海岸平野地域、中央高原地域、西部高原平野地域。
海岸平野部は、アファール盆地にあり、ダナキル砂漠と高温の影響ため降水量が300ミリ以下と少なく乾燥しています。乾燥地のため河川は雨期の降水で現れる季節性のものが多く、主なものは北部を流れるアンセバ川とバルカ川、エチオピア国境に沿って西に流れスーダンに至るガシュ川(上流はメレブ川)、テケゼ川などがある。河川の流入が無いことから海の透明度が高くダイビングが盛んです。[7]半砂漠植生、マングローブ沼地などがあります。北東側は砂漠から離れ湿度が高くなります。海岸平野部は最も暑い地域です。気温は30~39℃になり、最も暑い時期(6月~9月)にはさらに暑くなることもあります。涼しい時期(10月~5月)には25~32℃になります。
南東部高原にはアフリカ大地溝帯の一部で海抜マイナス75mの低地ダナキル砂漠がエチオピアから広がり、その東は火山地帯となっている。最高峰はアスマラ南方の国境に近いソイラ山(標高3018m)。人口密度が高い地域でもある。平均気温は、約18℃(アスマラでは17℃)になります。最暖月は5月で、気温は30℃に達します。最寒月は12月から2月で、気温は夜間には氷点に達します。雨季は6~9月で平均降水量は540mmです。北西部の高原地帯は海岸平野に迫っていて、紅海からの暖かく湿った卓越風により海抜700~2000mの高さに「フィルフィルの森」と呼ばれる亜熱帯林の壁が広がっている。[8]
西部の高原平野部のアンセバ地域とガシュ・バルカ地域は牧畜と農耕が盛んな肥沃な大地が広がっています。最も住民の健康が保たれている地域です。4月から6月は30℃から41℃にもなる最も暑い地域です。最寒月は12月で、13℃から25℃になります。
気候[編集]
北東海岸
| マッサワ(セメナウィ・ケイバハリ地方)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 平均最高気温 °C (°F) | 29 (84) |
29 (84) |
31 (88) |
33 (91) |
36 (97) |
40 (104) |
40 (104) |
40 (104) |
38 (100) |
35 (95) |
33 (91) |
30 (86) |
34.5 (94.1) |
| 日平均気温 °C (°F) | 24.5 (76.1) |
25 (77) |
27 (81) |
29 (84) |
31 (88) |
33 (91) |
35 (95) |
34 (93) |
33 (91) |
30 (86) |
28 (82) |
25.5 (77.9) |
29.7 (85.5) |
| 平均最低気温 °C (°F) | 20 (68) |
21 (70) |
22 (72) |
24 (75) |
25 (77) |
27 (81) |
29 (84) |
28 (82) |
27 (81) |
25 (77) |
22 (72) |
21 (70) |
22.4 (72.3) |
| 雨量 mm (inch) | 33 (1.3) |
25 (0.98) |
8 (0.31) |
8 (0.31) |
4 (0.16) |
0 (0) |
9 (0.35) |
11 (0.43) |
4 (0.16) |
16 (0.63) |
33 (1.3) |
33 (1.3) |
184 (7.24) |
| % 湿度 | 79 | 79 | 78 | 75 | 69 | 58 | 57 | 61 | 65 | 70 | 74 | 79 | 70.3 |
| 出典: [9] | |||||||||||||
東海岸
| アッサブ(デブバウィ・ケイバハリ地方)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 平均最高気温 °C (°F) | 32 (89) |
32 (90) |
34 (94) |
37 (99) |
37 (99) |
37 (98) |
40 (104) |
39 (103) |
38 (100) |
37 (99) |
35 (95) |
33 (91) |
35.9 (96.8) |
| 平均最低気温 °C (°F) | 20 (68) |
19 (67) |
21 (69) |
24 (75) |
26 (78) |
28 (82) |
31 (87) |
30 (86) |
28 (82) |
26 (78) |
22 (72) |
21 (69) |
24.7 (76.1) |
| 降水量 mm (inch) | 5 (0.2) |
3 (0.1) |
3 (0.1) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
15 (0.6) |
8 (0.3) |
5 (0.2) |
0 (0) |
0 (0) |
20 (0.8) |
59 (2.3) |
| 出典: Weatherbase [10] | |||||||||||||
中央高原
| アスマラ(マアカル地方)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 平均最高気温 °C (°F) | 22 (72) |
24 (75) |
25 (77) |
25 (77) |
25 (77) |
25 (77) |
22 (72) |
22 (72) |
23 (73) |
22 (72) |
22 (72) |
22 (72) |
23 (73) |
| 日平均気温 °C (°F) | 14 (57) |
15 (59) |
16 (61) |
17 (63) |
18 (64) |
18 (64) |
16 (61) |
16 (61) |
16 (61) |
15 (59) |
14 (57) |
13 (55) |
16 (61) |
| 平均最低気温 °C (°F) | 4 (39) |
5 (41) |
8 (46) |
9 (48) |
10 (50) |
11 (52) |
11 (52) |
11 (52) |
9 (48) |
8 (46) |
7 (45) |
5 (41) |
8 (46) |
| 降水量 mm (inch) | 4 (0.16) |
2 (0.08) |
15 (0.59) |
33 (1.3) |
41 (1.61) |
39 (1.54) |
175 (6.89) |
156 (6.14) |
16 (0.63) |
15 (0.59) |
20 (0.79) |
3 (0.12) |
518.6 (20.417) |
| 出典: NOAA[11] | |||||||||||||
西部高原
| アゴルダト(ガシュ・バルカ地方)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 平均最高気温 °C (°F) | 32 (89) |
33 (92) |
36 (96) |
39 (103) |
40 (104) |
37 (99) |
33 (91) |
32 (89) |
35 (95) |
37 (99) |
36 (96) |
33 (92) |
35.3 (95.4) |
| 平均最低気温 °C (°F) | 14 (58) |
14 (57) |
14 (58) |
18 (65) |
22 (72) |
22 (72) |
21 (69) |
21 (70) |
21 (69) |
21 (70) |
19 (67) |
16 (61) |
18.6 (65.7) |
| 降水量 mm (inch) | 0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
10 (0.39) |
30 (1.18) |
100 (3.94) |
140 (5.51) |
40 (1.57) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
320 (12.59) |
| 出典: Weatherbase [12] | |||||||||||||
経済[編集]
人口の多くが農業、牧畜業などの第一次産業に従事しているが、食糧の自給率は低く、7割を輸入や援助に依存している状態にある。産業別のGDPでは運輸業が3割以上を占め、工業・その他サービス部門を含めると8割以上に達している。エチオピアとの国境紛争は、難民・避難民の大量発生、紛争地域のインフラ破壊等、エリトリア経済に深刻な影響を及ぼしている。
国民[編集]
民族[編集]
大多数の国民は黒人とアラブ人の混血で、ティグリニャ人が最大民族であり、人口の55%を占める。次いでティグレ人(30%)サホ人(4%)、ビリン人(2%)、ラシャイダ人(2%)(アラブ系)、アファル人(エチオピア系)、ベジャ人、クナマ人、ナラ人等主たる民族は9民族で構成されている。[13]
言語[編集]
公的に公用語としての規定はされていないが、ティグリニャ語とアラビア語が最も広く使われ、商業や業務、教育で使われているなど実質的な公用語となっている。イタリアとイギリスの占領・植民地時代の名残でイタリア語と英語は広く理解され中等・高等教育などで使われる。
2000年にはアフリカの諸言語の保護、育成、活用に重点が置かれたアスマラ宣言が採択され、エリトリアではティグリニャ語、ティグレ語、ラシャイダ語(アラビア語ヒジャーズ方言)、アファール語、サホ語、ビリン語(ビレン語)、ベジャ語、クナマ語、ナラ語の9つの民族語が初等教育では平等に扱われている。たいていのサブサハラアフリカ諸国では小学校3~4年次から、宗主国の欧米系言語による指導がなされるが、エリトリアでは小学校6年までは各民族語で教育を受け、国会などでも通訳を介して行われている。アフリカでは珍しい国である[14]。
宗教[編集]
宗教に寛容な文化が形成されており、宗教関係のイベントがある時は、他宗教・宗派の人をゲストとして招待する伝統もある。[15] テフワド(エリトリア正教)と呼ばれるコプト教、キリスト教のプロテスタント、イスラム教、ユダヤ教、アンナ教。 コプト教会のコプト暦の「ゲエズカレンダー」を採用しているため西暦は7年遅れだが、国民は一般的なグレゴリオ暦も認知している。コプト教伝来以前は南アラビア のサバ人から伝わった月崇拝をしていた。
教育[編集]
小学〜大学迄の学費は無料である。 国民の識字率は65.3%(男性77%、女性54.5%)、若年層の識字率は90%である。 教授言語は初等教育は各民族語とアラビア語で行われ、中等・高等教育ではアラビア語、英語となる。
エリトリアの大学は以下の8校が存在する。
- エリトリア科学技術大学(エリトリア工科大学、Institute of Science and Technology)
- ハメルマド農業大学(ハメルマロ農業大学、College of Agriculture at Hamelmalo)
- ハルハレ農業大学(College of Agriculture at Halhale)
- 人文社会科学大学(人文社会大学、College of Arts and Social Sciences at Adi Keyih)
- 経営経済大学(経済商業大学、College of Business and Economics at Massawa)
- 海洋科学技術大学(海洋科学大学、College of Marine Sciences and Technology at Massawa)
- 保健科学大学(College of Nursing and Health Technology at Asmara)
- オロッタ医科大学(Orota School of Medicine)
医療[編集]
30年に及んだ隣国エチオピアとの紛争の後、エリトリアは破壊された施設の再建、保健医療従事者のトレーニング、薬剤や機器の提供改善に投資してきた。サハラ以南のアフリカでは数少ない、ミレニアム開発目標4達成への歩みが順調な国のひとつである。予防接種の普及により予防可能な疾病が減少し、ポリオがなく、妊婦や新生児の破傷風は根絶され、はしかによる死者は報告されていない。マラリアの羅漢率も2001年の12万5750 症例から2005年には3万4100 症例へと急激に減少しており、死者も2001年の129人から2005年には38人に減っている。 コミュニティを基盤とした治療的栄養療法や、保険サービスチームの定期巡回訪問を行うことで医療施設が整っていない地方まで保険サービスを広めた。[16] 医療費は無料である。
スポーツ[編集]
イタリア植民地時代に自転車競技が導入され、エリトリアの国技と言われるほどにロードレースは人気である。エリトリア人の体格とエリトリアの地形が自転車競技に合っており、ヨーロッパの大会で活躍する選手は国民的英雄として喝采される。アスマラ市内で開かれる大会や国際大会の「ツールドエリトリア」で国際交流が行われる。ツールドフランスで活躍したダニエル・テクレハイマノが国際的に有名になった。
陸上競技では世界陸上2015北京大会にて、ギルメイ・ゲブレスラシエが男子マラソンで優勝し同国初の金メダリストとなった。
文化[編集]
コーヒー・セレモニー[編集]
コーヒー・セレモニーとはエリトリアの伝統的な習慣であり、コーヒーを飲むことを儀式化した作法の一つである。日本の茶道と同様、コーヒーを飲むという行為に精神的な要素や教養などが含まれる文化的な習慣であり、他者に対する感謝ともてなしの精神を表すものである。女性が執り行うものであり、エチオピアでは結婚前の女性が身につけるべき作法の一つとされている。冠婚葬祭の際や、大切な客を迎える際などに行われる。使われるポットやカップなどの茶器は女性が実母からや嫁ぎ先で代々受け継がれてきたものであることもある。客の前でコーヒーの生豆を煎るところから始め、3杯飲むことが正式であることから、1時間半から2時間以上かかる場合もある。その間は香を焚き、客はパンやポップコーン(ファンディシャ)などを食べながら待つ。
歴史[編集]
先史時代[編集]
ダナキル砂漠は現生人類が進化した場所であり、近くにあるエリトリアは氷河期終わりにはすでに現生人類が占領していた地域であった。北部のカローラから南東のベイルルにいたるまで51箇所の先史時代の遺跡が見つかってる。 エチオピアのブヤではイタリアの科学者によってホモ・エレクトスとホモ・サピエンスの間をリンクする100万年前の骨格が発見された。
12.5万年前のアブドゥールの石器は海岸の海洋環境にヒトが住んでいたことのもっとも古く証明する物で、エリトリアの紅海沿岸部のマッサワでは旧石器時代のアサリやカキを捕獲する漁の道具が見つかっている。
アフリカの角地域でもっとも岩絵が見つかっており、主なモチーフは家畜化された牛であり、家畜への描写が豊かであるのと同時に、野生動物をほとんど描いていないことから、牧畜民的な性質のものと言える。
古代[編集]
プント国[編集]
紀元前25世紀〜
ジプチ、エチオピア、エリトリア、北部ソマリア、スーダン紅海沿岸に形成されていたプント国、エジプトはハトシェプストの統治時代からプント王国と貿易をしており、エジプトにはプント王パラフとその王妃アティの肖像が葬祭殿壁画に残っている。
オナ文化[編集]
〜紀元前4世紀
プント文化に続くオナ文化はホーン地域において牧畜や農業といったコミュニティによって形成された都市文化。アスマラの近郊のセムベル遺跡からはアメンホテプ2世の時代のエジプトの都市テーベと貿易していた貨物が発掘された。
ガシュ・グループ[編集]
エリトリア内陸部に位置するガシュ・バルカ地方のアゴルダトのバルカ川渓谷沿いにナイル川の上流山脈系統の遊牧民文化が栄えた、同時期のスーダンのヌビアのケルマ文化と共通する特徴を持っている。ケルマ文化に属する民族はアフロ・アジア語族に属し、ベルベル語派、クシ語派に分類される言語を用いていたと言語学的な証拠から推定している。
ダモト王国 (D'mt)[編集]
紀元前10世紀〜紀元5世紀
ダモト王国はエリトリアと北部エチオピアの地域にあった。エリトリア南部のタマラがダモトの都市であり、大規模な寺院の遺跡があることからかなり栄えていた可能性が高い。5世紀にダモト王国が崩壊したあと、アクスム王国が現れるまでのプレ・アクスム期には後継の小さい王国によって支配が続いた。紅海対岸側にあるアラビア半島南部のシバ王国からの勢力が進出しており、影響された遺跡が見つかっている。
北方の港町アドゥリスとマタラの中間にあるコハイトは政治的に重要な中心地であり、イエメンの水利システムが使われたシバの女王のダムや土塁、岩絵、彫刻、円柱構造、墓所、貯水池、ネクロポリス(集団埋葬地)、時計塔、窯などの750の遺跡が発見された。
アクスム王国[編集]
1世紀〜940年頃
アクスム王国は、エリトリアとエチオピア北部とアラビア半島の紅海沿岸部に栄えた交易国である。アフリカで初めて独自の硬貨を持った国であり貿易で栄えた。 ダモト王国との継続性があるが、南アラビアから来たサバ人により建国されたと考えられる。
王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していた。350年ころにはヌビアのクシュ王国を征服し、最盛期には現在のエリトリア、北部エチオピア、イエメン(ヒムヤル王国)、北部ソマリア、ジブチ、北部スーダン、に広がっていた。首都はアクスムで現在の北部エチオピアにあった。他の主要都市にイェハ (Yeha)、ハウルティ (Hawulti) 、そして現在エリトリアにある重要な港湾都市アドゥリス(Adulis) をはじめとしてマタラ (Matara) およびコハイト(Qohaito) がある。この時アクスムの住民は、エチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていた。アクスムは国際的に且つ文化的に重要な国だった。エジプト、スーダン、アラビア、中東、インドといった様々な文化が集う場所で、アクスムの都市にはユダヤ教徒やヌビア人・キリスト教徒・仏教徒さえいた。320年代にコプト派キリスト教が伝来した、現在でも教典はアクスム王国の独自の文字であるゲーズ又はゲエズ (Ge'ez又はGeez) 語で書かれている。ソロモン王国の影響によりユダヤ教徒も一定数おり、時代によってはコプト教よりユダヤ教の勢力が上回った。
ナイル川周辺の王国のほとんどがキリスト教国であったが、周辺国がイスラム教に改宗すると経済的に孤立し、王国は弱体化していった。
中世[編集]
| この節の加筆が望まれています。 (2015年9月) |
1137年、この地域に「ミドゥリ・バリ」と呼ばれる国が勃興した。主な住民は、エチオピアのアムハラ人とは文化を異にするティグレ人である。北西エチオピアにen:Damotがあった。
オスマン帝国[編集]
1557年、オスマン帝国領en:Habesh Eyaletとなった(en:Ottoman conquest of Habesh)。以後、エジプト領・エチオピア領の一部となった。
イタリア王国[編集]
1869年にエジプトでヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河が開通すると、イタリアがエチオピアに介入を始め、1882年にイタリアが植民宣言をし、1885年に占領した。1889年、エチオピアはイタリア王国とウッチャリ条約を結び、この地(エリトリア)をイタリアの支配に委ねた。翌1890年、イタリアはこの地を「エリトリア」と名づけた(イタリア領東アフリカ)。第一次エチオピア戦争(1889年 - 1896年)。第二次エチオピア戦争(1935年 - 1936年)。
当時の首都アスマラはイタリア人移民が人口の60%を占め、イタリア首相であったベニート・ムッソリーニが第2のローマ(ピッコラ・ローマ)を目指し、1920年〜1930年代にイタリアの新進気鋭の建築家達により奇抜なアール・デコ建築や未来派建築が多く建設された。現在では観光資源になっており、世界遺産登録に向けて準備している。
イギリス軍政下[編集]
第二次世界大戦中の1941年にイタリア軍を駆逐し、イギリス軍が当地を占領する。その後、イギリスの保護領だった。
エチオピア・エリトリア連邦[編集]
1952年、エチオピア・エリトリア連邦を形成した。
エチオピア軍政下[編集]
1962年にエリトリア議会が連邦離脱を決議すると、エチオピアは軍で議会を包囲。併合されてエリトリア州になると、当地の住民の不満は高まった。
エリトリア独立戦争[編集]
1960年代からはエリトリア独立戦争として、解放勢力は独立運動を展開するようになった。 1991年、独立勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こしメンギスツの社会主義政権は崩壊。
独立[編集]
1991年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心としたエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)によるエチオピア新体制(メレス・ゼナウィ政権)の確立に伴い、1993年5月24日に独立承認された。5月28日には国際連合へ加盟申請、承認された。
政治[編集]
エリトリアは1993年の独立以来、旧エリトリア人民解放戦線 (EPLF) が改組した民主正義人民戦線 (PFDJ) 率いる暫定政府が、書記長のイサイアス・アフェウェルキによって選出された国会議員150人による事実上の一党独裁制のもと統治している。恒久政府樹立に向けての憲法が1997年、制憲議会により制定されたが、未だに施行されていない。
元首[編集]
国家元首は大統領。独立以来、中国に留学して毛沢東思想や軍事知識を学んだPFDJ書記長のイサイアス・アフェウェルキが一貫して就任している。憲法規定によれば、大統領は5年の任期を持ち、国民議会により選出されることとなっているが、憲法が未施行のため、選挙は無期延期となっている。
行政[編集]
首相職は設置されていない。内閣は大統領が任命する閣僚で構成されるが、実際の行政権は大統領が行使し、内閣はその執行機関に過ぎない。よってその権力は極めて小さく、大統領の輔佐機関であるといえる。
立法[編集]
議会は一院制の国民議会。104議席で、PFDJ中央委員会の委員40名と、任命制の議員64名で構成される。だが列国議会同盟(IPU)によれば、エリトリアの国民議会はPFDJ中央委員会の委員75名、旧制憲議会議員60名、在外エリトリア人代表15名で構成される150議席の議会とされている。いずれにせよ、国民による選挙は行なわれておらず、PFDJの政策を追認する役割しか持たない。また、憲法が未施行であるため暫定的な権能しか有しておらず、任期も定められていない。
政党[編集]
政党設立には国家による許可が必要であり、PFDJが唯一、政党としての活動を認められている。だが反政府勢力としてエリトリア解放戦線(ELF)やエリトリア国民同盟(ENA)などが存在している。
司法[編集]
最高司法機関は高等裁判所で、その下に地方裁判所などが存在。行政裁判などを担う特別法廷も設置されている。
国内問題[編集]
人権問題[編集]
2014年6月、国連人権理事会はエリトリアの人権状況の調査を決定した。500人余りの聞き取り調査で作成した報告[17]では、同国政府による重大な人権侵害が指摘された。 同報告書によると、政府に対する抗議やデモは、平和的でも一切許可されない。政府は国内に厳格な監視制度を設け、国民は生活のあらゆる面に干渉され、常時監視されている。そのためエリトリアは「アフリカの北朝鮮」とも呼ばれる[18]。エリトリア国民は男女とも全員、無期限の兵役義務がある。また「ナショナルサービス」と呼ばれる、政府の計画する事業での勤労奉仕活動(事実上の強制労働)に従事させられる[19]。突然徴兵されたり、低賃金の長期間労働によって貧困層がより増える原因になっており、徴兵を忌避して国外に脱出する者が絶えない。国外への渡航は厳しく制限され、国内での移動にも事前の許可が必要である。政府はカトリックやイスラム教スンニ派など4つの宗教だけを公認し、ほかの宗教はすべて非合法化された[4][20]。宗教的な書物は押収され、信者が姿を消したケースも少なくない。国民は裁判所の令状なく突然拘束されたり、拷問を受けたりする。裁判手続きなしの処刑が横行しており、死者や行方不明者も後を絶たない[3]。同報告書は「この国で公正な裁判は不可能で、基本的人権を守れる状況ではない」と結論している。同国外務省は、この報告を根拠のない下劣な中傷であるとして批判している[21]
同国は外国人記者の入国を認めず[22]、独立したメディアは存在しない[23]。ジャーナリスト保護委員会は2012年、エリトリアを報道の自由が少ない「検閲国家ワースト10」の第1位に選んだと発表した[24]。また、国境なき記者団による「世界報道自由ランキング」でも最下位にランク付けされている。
難民問題[編集]
周辺諸国との国境紛争問題や徴兵制度への不満により[25][26]、 同国からは2014年半ばまでに約35万7000人余りが国外へ脱出し、現在も毎月5000人近くの国民が脱出している。国民は国境に近付いただけで厳しく処罰され、外国から帰国すれば拘束され、拷問を受ける場合もある[23]。一時は越境を図った者はその場で射殺され、一部の証言者は国連の調査[27]に「標的にされたことがある」と話した。
難民がヨーロッパ(特に旧宗主国のイタリア)に向かうために地中海を渡ろうとして遭難死する事故が毎年多発している[28]。EU加盟国、特に上陸地点となるイタリアやギリシャでは、同国を含むアフリカからの難民が受け入れの限度を越え、危機的な問題となっている。
軍事[編集]
陸軍、海軍、空軍の三軍を保有しており、2005年時点の国防支出は6,500万ドルである[13]。 国民全てが公務員であり国民皆兵の徴兵制度を有する。徴兵された国民は軍務の他に、ナショナル・サービスという国が運営する土木工事や鉱山作業に動員される。
兵力(2009年)[編集]
国際関係[編集]
独立以来、エチオピア、ジブチ、イエメンとは国境問題を抱え、緊張状態にある。
エチオピア・エリトリア国境紛争[編集]
1998年からはバドメの帰属をめぐるエチオピア・エリトリア国境紛争が武力衝突に発展。2000年に和平合意成立、国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が展開した。国境案が提案されたものの、両国間の合意が進まなかった。2008年にUNMEEは撤退、エチオピア・エリトリア間の緊張状態が続いている。
2010年、エチオピア・エリトリア国境で軍事衝突。エリトリア側23名とエチオピア側3名が死亡。
対ジブチ関係[編集]
2008年6月10-13日、ジブチ・エリトリア国境紛争。双方100名あまり死亡。
対イエメン関係[編集]
天然ガス田をめぐってハニーシュ群島紛争(1993年 - 1998年)が勃発。
脚注[編集]
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ “アスマラ便り3”. 佐藤寛. 2015年9月20日閲覧。
- ^ a b “Eritrea's human rights record comes under fire at United Nations”. the gurdian (25 October, 2013). 19 october, 2015閲覧。
- ^ a b Eritrea Human Rights Overview Human Rights Watch
- ^ Eritrea - definition of Eritrea in English from the Oxford dictionary
- ^ Eritrea | Definition of Eritrea by Merriam-webster
- ^ “ダイビングについて”. エリトリア大使館. 2015年10月19日閲覧。
- ^ “フィルフィルの森”. エリトリア大使館. 2015年10月19日閲覧。
- ^ Massawa-climatemp.info 2012年6月26日閲覧。
- ^ Weatherbase:Historical Weather for Assab, Eritrea,2012年6月26日閲覧。
- ^ “Asmara Climate Normals 1961–1990”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2015年1月13日閲覧。
- ^ “Weatherbase: Historical Weather for Ak'ordat, Eritrea”. Weatherbase (2011年). 2015年5月閲覧。 Retrieved on November 24, 2011.
- ^ a b c d e データブック オブ・ザ・ワールド(2010)p.259-260
- ^ ―「アスマラ宣言」の意義 京都精華大学 楠瀬佳子
- ^ “アフリカNOW No.73(2006年発行)”. アフリカ日本協議会. 2015年9月20日閲覧。
- ^ “アフリカ子供白書2008”. 日本ユニセフ協会. 2015年10月19日閲覧。
- ^ “Report of the commission of inquiry on human rights in Eritrea”. UNHRC website (2015年6月8日). 2015年6月9日閲覧。
- ^ “地中海難民という「臭い物」にフタをしたいEUの人道主義また排外主義について”. Yahoo!ニュース. (2015年5月8日) 2015年5月9日閲覧。
- ^ “エリトリア難民、命がけの逃亡 失う物は何もない”. スイス放送協会. (2014年9月16日) 2014年9月24日閲覧。
- ^ CSW-USA on Eritrea CSW
- ^ “Eritrea: Asmara Lashes Out at UN's 'Vile Slanders'”. AllAfrica news website (2015年6月10日). 2015年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月24日閲覧。
- ^ “Eritrea Tops List of World Press Censors”. Media Alliance (3 May, 2015). 19 October, 2015閲覧。
- ^ a b “ERITREA 20 YEARS OF INDEPENDENCE, BUT STILL NO FREEDOM (PDF)”. Amnesty International Publications (2013年). 19 October, 2015閲覧。
- ^ “The 10 Most Censored Countries in the World”. The Cheat Sheet. 19 October, 2015閲覧。
- ^ “エリトリア国内事情の調査報告書”. デンマーク入国管理当局. 2015年9月20日閲覧。
- ^ “私の闇の奥 なぜエリトリアだけを”. 2015年9月20日閲覧。
- ^ 28 May 2013. UN Human Rights Council. Report of the Special Rapporteur On the Situation of Human Rights in Eritrea, para. 43
- ^ “地中海難民という「臭い物」にフタをしたいEUの人道主義また排外主義について”. Yahoo!ニュース. (2015年5月8日) 2015年5月9日閲覧。
参考文献[編集]
- 「エリトリア」『データブック オブ・ザ・ワールド 2010年版』 二宮書店(編)、二宮書店、2010年1月15日。ISBN 978-4-8176-0340-1。
関連項目[編集]
- エリトリア関係記事の一覧
- エリトリア航空
- エリトリアの国道
- エリトリア鉄道
- エリトリアの空港の一覧
- 千葉晴信- エリトリア独立軍に空手を教えた
外部リンク[編集]
- 政府
- 駐日エリトリア大使館 (日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - エリトリア (日本語)
座標: 北緯15度 東経38度 / 北緯15度 東経38度
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