エリトリア

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エリトリア国
ሃገረ ኤርትራ (Hagere Ertra)(ティグリニャ語)
ادولة اإريتريا(アラビア語)
エリトリアの国旗 Emblem of Eritrea (or argent azur).svg
国旗 (国章)
国の標語:なし
国歌Ertra, Ertra, Ertra
エリトリアの位置
公用語 ティグリニャ語アラビア語
首都 アスマラ
最大の都市 アスマラ
政府
大統領 イサイアス・アフェウェルキ
首相等肩書 なし
面積
総計 12万1320km296位
水面積率 ごくわずか
人口
総計(2012年 5,600,000人(???位
人口密度 37人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 226億[1]ナクファ
GDP (MER)
合計(2008年 14億[1]ドル(163位
GDP (PPP)
合計(2008年 37億[1]ドル(155位
1人あたり 746[1]ドル
独立
 - 日付
 - 承認
エチオピアより
1991年5月29日
1993年5月24日
通貨 ナクファ (ERN)
時間帯 UTC (+3)(DST:なし)
ISO 3166-1 ER / ERI
ccTLD .er
国際電話番号 291
Eritrea - Location Map (2013) - ERI - UNOCHA.svg

エリトリア国(エリトリアこく)、通称エリトリアティグリニャ語: ኤርትራ Ertra, アラビア語: إرتريا‎ Iritriyya)は、アフリカの角とよばれるアフリカの北東部にある国である。

西にスーダン、南にエチオピア、南東部にジブチと国境を接し、北は紅海に面する。1991年5月29日エチオピアからの独立を宣言し、1993年5月24日に独立が承認された。首都はアスマラ

独立以降、エチオピアと常に紛争状態であり、独立体制維持をするために開発独裁制を敷いている。紛争による社会情勢により難民が増え、中東と西欧の難民受け入れが問題になっている。

国名[編集]

正式名称は、ሃገረ ኤርትራ (Hagere Ertra)。通称、ኤርትራ (Ertra)。アラビア語では دولة إرتريا‎ (Dawlat Iritriyá)。通称 إريتريا‎ (Iritriyá)。エリトリアという国名は、イタリアが植民地として支配するにあたり、ラテン語で「紅海」を意味する『Mare Erythraeum』にちなんでつけられたといわれる。約2千年前に紅海からインド洋にかけての古代貿易について著した「エリュトゥラー海案内記」のエリュトゥラーも古代ギリシア語を意味する。

公式の英語表記は State of Eritrea(ステイト・オヴ・エリトレイア[2])。通称 Eritrea [ˌɛrɪˈtreɪə]

日本語の表記は、エリトリア国, 通称、エリトリアイタリア語に由来してエリトレアと書かれることもある。

地方行政区分[編集]

エリトリアの地方

エリトリアは6つの地方に分けられる。

  1. マアカル(中部)地方
  2. デブブ(南部)地方
  3. ガシュ・バルカ地方
  4. アンセバ地方
  5. セメナウィ・ケイバハリ(北紅海)地方
  6. デブバウィ・ケイバハリ(南紅海)地方

この地方がさらに複数の地区に分けられている。

主要都市[編集]

主要な都市はアスマラ(首都)、ケレンがある。

地勢[編集]

エリトリアの地図

北岸は紅海に面し、エチオピアスーダンジブチと国境を接する。紅海にはダフラク諸島があり、イエメンとの間のバブ・エル・マンデブ海峡は非常に狭くなっている。南東部にはアフリカ大地溝帯の一部で海抜マイナス75mの低地(ダナキル砂漠)がエチオピアから広がり、その東は火山地帯となっている。北西部では高原地帯が狭い海岸平野に迫っている。最高峰はアスマラ南方の国境に近いソイラ山(標高3018m)。気候は全体として乾燥気候(BS・BW)を示す。海岸沿いでは年平均気温約30℃、年降水量は200mm以下で、大半が雨季の11~4月に降る。高原地帯では年平均気温約20℃、年降水量は約300mmで、雨季は6~9月である。

経済[編集]

人口の多くが農業牧畜業などの第一次産業に従事しているが、食糧の自給率は低く、7割を輸入や援助に依存している状態にある。産業別のGDPでは運輸業が3割以上を占め、工業・その他サービス部門を含めると8割以上に達している。エチオピアとの国境紛争は、難民・避難民の大量発生、紛争地域のインフラ破壊等、エリトリア経済に深刻な影響を及ぼしている。

国民[編集]

民族[編集]

民族構成(エリトリア)
ティグリニャ人
  
55%
ティグレ人
  
30%
サホ人
  
4%
ビリン人
  
2%
ラシャイダ人
  
2%

大多数の国民は黒人アラブ人の混血で、ティグリニャ人が最大民族であり、人口の55%を占める。次いでティグレ人(30%)サホ人(4%)、ビリン人(2%)、ラシャイダ人(2%)(アラブ系)、アファル人(エチオピア系)、ベジャ人クナマ人ナラ人等主たる民族は9民族で構成されている。[3]

言語[編集]

公的に公用語としての規定はされていないが、ティグリニャ語アラビア語が最も広く使われ、商業や業務、教育で使われているなど実質的な公用語となっている。イタリアとイギリスの占領・植民地時代の名残でイタリア語英語は広く理解され中等・高等教育などで使われる。
2000年にはアフリカの諸言語の保護、育成、活用に重点が置かれたアスマラ宣言が採択され、エリトリアではティグリニャ語ティグレ語、ラシャイダ語(アラビア語ヒジャーズ方言)、アファール語サホ語ビリン語(ビレン語)、ベジャ語クナマ語英語版ナラ語英語版の9つの民族語が初等教育では平等に扱われている。たいていのサブサハラアフリカ諸国では小学校3~4年次から、宗主国の欧米系言語による指導がなされるが、エリトリアでは小学校6年までは各民族語で教育を受け、国会などでも通訳を介して行われている。アフリカでは珍しい国である[4]

宗教[編集]

宗教に寛容な文化が形成されており、教会の集会では他の宗教の牧師をゲストとして呼ぶことがある。 テフワド(エリトリア正教)と呼ばれるコプト教、キリスト教のプロテスタント、イスラム教ユダヤ教、アンナ教。 コプト教会のコプト暦の「ゲエズカレンダー」を採用しているため西暦は7年遅れだが、国民は一般的なグレゴリオ暦も認知している。
コプト教伝来以前は南アラビア のサバ人から伝わった月崇拝をしていた。

教育[編集]

小学〜大学迄の学費は無料である。 国民の識字率は65.3%(男性77%、女性54.5%)、若年層の識字率は90%である。 教授言語は初等教育は各民族語とアラビア語で行われ、中等・高等教育ではアラビア語、英語となる。

エリトリアの大学は以下の8校が存在する。

医療[編集]

医療費は無料である。 国家主導で新しい医療施設の増設と医療設備の強化を行ったことで、乳児死亡率や妊産婦死亡率を下げた。

スポーツ[編集]

イタリア植民地時代に自転車競技が導入され、エリトリアの国技と言われるほどにロードレースは人気。エリトリア人の体格とエリトリアの地形が自転車競技に合っており、ヨーロッパの大会で活躍する選手は国民的英雄として喝采される。アスマラ市内で開かれる大会や国際大会の「ツールドエリトリア」で国際交流が行われる。 ツールドフランスで活躍したダニエル・テクレハイマノ選手が国際的に有名になった。
陸上競技では世界陸上2015北京大会ギルメイ・ゲブレスラシエ選手がマラソンで優勝し同国初の金メダリストとなった。

ロードレースのダニエル・テクレハイマノ選手

文化[編集]

コーヒー・セレモニー[編集]

リトリアの伝統的な習慣であり、コーヒーを飲むことを儀式化した作法の一つである。 日本の茶道と同様、コーヒーを飲むという行為に精神的な要素や教養などが含まれる文化的な習慣であり、他者に対する感謝ともてなしの精神を表すものである。 女性が執り行うものであり、エチオピアでは結婚前の女性が身につけるべき作法の一つとされている。冠婚葬祭の際や、大切な客を迎える際などに行われる。使われるポットやカップなどの茶器は女性が実母からや嫁ぎ先で代々受け継がれてきたものであることもある。 客の前でコーヒーの生豆を煎るところから始め、3杯飲むことが正式であることから、1時間半から2時間以上かかる場合もある。その間は香を焚き、客はパンやポップコーン(ファンディシャ)などを食べながら待つ。

コーヒー・セレモニー

歴史[編集]

先史時代[編集]

ダナキル砂漠現生人類が進化した場所であり、近くにあるエリトリアは氷河期終わりにはすでに現生人類が占領していた地域であった。北部のカローラから南東のベイルルにいたるまで51箇所の先史時代の遺跡が見つかってる。 エチオピアのブヤではイタリアの科学者によってホモ・エレクトスホモ・サピエンスの間をリンクする100万年前の骨格が発見された。
12.5万年前のアブドゥールの石器は海岸の海洋環境にヒトが住んでいたことのもっとも古く証明する物で、エリトリアの紅海沿岸部のマッサワでは旧石器時代のアサリやカキを捕獲する漁の道具が見つかっている。
アフリカの角地域でもっとも岩絵が見つかっており、主なモチーフは家畜化された牛であり、家畜への描写が豊かであるのと同時に、野生動物をほとんど描いていないことから、牧畜民的な性質のものと言えます。

古代[編集]

プント国[編集]

紀元前25世紀〜
ジプチ、エチオピア、エリトリア、北部ソマリア、スーダン紅海沿岸に形成されていたプント国エジプトハトシェプストの統治時代からプント王国と貿易をしており、エジプトにはプント王パラフとその王妃アティの肖像が葬祭殿壁画に残っている。

エジプトの壁画に残るプント国アティ王妃の肖像

オナ文化[編集]

〜紀元前4世紀
プント文化に続くオナ文化はホーン地域において牧畜や農業といったコミュニティによって形成された都市文化。アスマラの近郊のセムベル遺跡からはアメンホテプ2世の時代のエジプトの都市テーベと貿易していた貨物が発掘された。

ガシュ・グループ[編集]

エリトリア内陸部に位置するガシュ・バルカ地方アゴルダトのバルカ川渓谷沿いにナイル川の上流山脈系統の遊牧民文化が栄えた、同時期のスーダンヌビアケルマ文化と共通する特徴を持っている。
ケルマ文化に属する民族はアフロ・アジア語族に属し、ベルベル語派クシ語派に分類される言語を用いていたと言語学的な証拠から推定している。

ダモト王国 (D'mt)[編集]

紀元前10世紀〜紀元5世紀
ダモト王国はエリトリアと北部エチオピアの地域にあった。エリトリア南部のタマラがダモトの都市であり、大規模な寺院の遺跡があることからかなり栄えていた可能性が高い。
北方の港町アドゥリスとマタラの中間にあるコハイトは政治的に重要な中心地であり、イエメン水利システムが使われたシバの女王のダムや土塁、岩絵、彫刻、円柱構造、墓所、貯水池、ネクロポリス(集団埋葬地)、時計塔、窯などの750の遺跡が発見された。
5世紀にダモト王国が崩壊したあと、アクスム王国が現れるまでのプレ・アクスム期には後継の小さい王国によって支配が続きました。

紀元前400年頃のダーマトと近隣王国
プレ・アクスム期のコハイトの遺跡

アクスム王国[編集]

1世紀〜940年頃
アクスム王国は、エリトリアとエチオピア北部とアラビア半島の紅海沿岸部に栄えた交易国である。アフリカで初めて独自の硬貨を持った国であり貿易で栄えた。 ダモト王国との継続性があるが、南アラビアから来たサバ人により建国されたと考えられる。
320年代にコプト派キリスト教が伝来した、現在でも教典はアクスム王国の独自の文字であるゲーズ又はゲエズ (Ge'ez又はGeez) 語で書かれている。
王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していた。
350年ころにはヌビアのクシュ王国を征服し、最盛期には現在のエリトリア、北部エチオピア、イエメン(ヒムヤル王国)、北部ソマリア、ジブチ、北部スーダン、に広がっていた。首都はアクスムで現在の北部エチオピアにあった。他の主要都市にイェハ (Yeha)、ハウルティ (Hawulti) 、そして現在エリトリアにある重要な港湾都市アドゥリス(Adulis) をはじめとしてマタラ (Matara) およびコハイト(Qohaito) がある。この時アクスムの住民は、エチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていた。アクスムは国際的に且つ文化的に重要な国だった。エジプト、スーダン、アラビア、中東、インドといった様々な文化が集う場所で、アクスムの都市にはユダヤ教徒やヌビア人・キリスト教徒・仏教徒さえいた。

アクスム王国の最盛期の範囲
エザナ王の石柱(スッテレ)。高さ23mに達する。

中世[編集]

1137年、この地域に「ミドゥリ・バリ英語版」と呼ばれる国が勃興した。主な住民は、エチオピアのアムハラ人とは文化を異にするティグレ人である。北西エチオピアにen:Damotがあった。

オスマン帝国[編集]

1557年オスマン帝国en:Habesh Eyaletとなった(en:Ottoman conquest of Habesh)。以後、エジプト領・エチオピア領の一部となった。

イタリア王国[編集]

山岳部を走るエリトリア英語版時代に建設されたエリトリア鉄道

1869年エジプトでヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河が開通すると、イタリアがエチオピアに介入を始め、1882年にイタリアが植民宣言をし、1885年に占領した。1889年、エチオピアはイタリア王国ウッチャリ条約を結び、この地(エリトリア)をイタリアの支配に委ねた。翌1890年、イタリアはこの地を「エリトリア英語版」と名づけた(イタリア領東アフリカ)。第一次エチオピア戦争1889年 - 1896年)。第二次エチオピア戦争1935年 - 1936年)。

当時の首都アスマラはイタリア人移民が人口の60%を占め、イタリア首相であったベニート・ムッソリーニが第2のローマ(ピッコラ・ローマ)を目指し、1920年〜1930年代にイタリアの新進気鋭の建築家達により奇抜なアール・デコ建築や未来派建築が多く建設された。現在では観光資源になっており、世界遺産登録に向けて準備している。

イギリス軍政下[編集]

第二次世界大戦中の1941年イタリア軍を駆逐し、イギリス軍が当地を占領する。その後、イギリス保護領だった。

1962年までのエリトリアの旗

エチオピア・エリトリア連邦[編集]

1952年エチオピア・エリトリア連邦を形成した。

エチオピア軍政下[編集]

1962年にエリトリア議会が連邦離脱を決議すると、エチオピアは軍で議会を包囲。併合されてエリトリア州になると、当地の住民の不満は高まった。

エリトリア独立戦争[編集]

1960年代からはエリトリア独立戦争として、解放勢力は独立運動を展開するようになった。 1991年、独立勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線英語版 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こしメンギスツの社会主義政権は崩壊。

独立[編集]

1991年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心としたエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)によるエチオピア新体制(メレス・ゼナウィ政権)の確立に伴い、1993年5月24日に独立承認された。5月28日には国際連合へ加盟申請、承認された。

政治[編集]

アスマラの政庁
首都アスマラ中心部

エリトリアは1993年の独立以来、旧エリトリア人民解放戦線 (EPLF) が改組した民主正義人民戦線 (PFDJ) 率いる暫定政府が、事実上の一党独裁制のもと統治している。恒久政府樹立に向けての憲法1997年、制憲議会により制定されたが、未だに施行されていない。

元首[編集]

国家元首大統領。独立以来、中国に留学して毛沢東思想や軍事知識を学んだPFDJ書記長イサイアス・アフェウェルキが一貫して就任している。憲法規定によれば、大統領は5年の任期を持ち、国民議会により選出されることとなっているが、憲法が未施行のため、選挙は無期延期となっている。

行政[編集]

首相職は設置されていない。内閣は大統領が任命する閣僚で構成されるが、実際の行政権は大統領が行使し、内閣はその執行機関に過ぎない。よってその権力は極めて小さく、大統領の輔佐機関であるといえる。

立法[編集]

議会一院制国民議会。104議席で、PFDJ中央委員会の委員40名と、任命制の議員64名で構成される。だが列国議会同盟(IPU)によれば、エリトリアの国民議会はPFDJ中央委員会の委員75名、旧制憲議会議員60名、在外エリトリア人代表15名で構成される150議席の議会とされている。いずれにせよ、国民による選挙は行なわれておらず、PFDJの政策を追認する役割しか持たない。また、憲法が未施行であるため暫定的な権能しか有しておらず、任期も定められていない。

政党[編集]

政党設立には国家による許可が必要であり、PFDJが唯一、政党としての活動を認められている。だが反政府勢力としてエリトリア解放戦線(ELF)やエリトリア国民同盟(ENA)などが存在している。

司法[編集]

最高司法機関は高等裁判所で、その下に地方裁判所などが存在。行政裁判などを担う特別法廷も設置されている。

軍事[編集]

陸軍、海軍、空軍の三軍を保有しており、2005年時点の国防支出は6,500万ドルである[3]。 国民全てが公務員でありナショナル・サービスという国民皆兵徴兵制度を有する。兵役の他に国が運営する土木工事や鉱山作業に携わるが、低賃金労働と突然の徴兵により不満が多く、徴兵逃れのために国外に移住する者が絶えない。

兵力(2009年)[編集]

  • 陸軍:20万人[3]
  • 海軍:1,400人[3]
  • 空軍:400人[3]

国際関係[編集]

独立以来、エチオピアジブチイエメンとは国境問題を抱え、緊張状態にある。

難民問題[編集]

同国からは2014年半ばまでに約35万7000人余りが国外へ脱出し、現在も毎月5000人近くの国民が脱出している。国民は国境に近付いただけで厳しく処罰され、外国から帰国すれば拘束され、拷問を受ける場合もある。一時は越境を図った者はその場で射殺され、一部の証言者は国連の調査に「標的にされたことがある」と話した。

難民がヨーロッパ(特に旧宗主国のイタリア)に向かうために地中海を渡ろうとして遭難死する事故が毎年多発している[5]。EU加盟国、特に上陸地点となるイタリアやギリシャでは、同国を含むアフリカからの難民が受け入れの限度を越え、深刻な問題となっている。

エチオピア・エリトリア国境紛争[編集]

1998年からはバドメの帰属をめぐるエチオピア・エリトリア国境紛争が武力衝突に発展。2000年に和平合意成立、国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が展開した。国境案が提案されたものの、両国間の合意が進まなかった。2008年にUNMEEは撤退、エチオピア・エリトリア間の緊張状態が続いている。

2010年、エチオピア・エリトリア国境で軍事衝突。エリトリア側23名とエチオピア側3名が死亡。

対ジブチ関係[編集]

2008年6月10-13日、ジブチ・エリトリア国境紛争。双方100名あまり死亡。

対イエメン関係[編集]

天然ガス田をめぐってハニーシュ群島紛争1993年 - 1998年)が勃発。

エチオピア・国際機関との情報戦[編集]

エリトリアは独立以降、エチオピアと常時紛争状態のため情報戦が深刻であり、また開発独裁をスムーズに行う為に支援団体や海外メディアを監視して入国受け入れを拒み続けて来た。その態度により欧米の国際機関と敵対関係にあり、国際機関との情報戦が国際問題に発展している。
敵対する国際機関は、エチオピアがエリトリア制裁案を提出できる国連と、国外記者の拉致を監視する国境なき記者団である。 民主化が遅れている独裁政権や徴兵制度や難民問題は紛争という複雑な問題が絡んでいるにも関わらず、エリトリア政府が常に悪いという国際意見を作り出し、一方的な情報操作を全世界に発信している、日本のテレビ番組「池上彰の伝える世界の今」でも同様の誤った印象を番組で取り扱い問題となった。

以下の報道が欧米の国際機関が発信する情報操作である。

2014年6月、国連人権理事会はエリトリアの人権状況の調査を決定した。500人余りの聞き取り調査で作成した報告では、同国政府による重大な人権侵害が指摘された。 報告書によると、政府に対する抗議やデモは、平和的でも一切許可されない。政府は国内に厳格な監視制度を設け、国民は生活のあらゆる面に干渉され、常時監視されている。そのためエリトリアは「アフリカの北朝鮮」とも呼ばれる[6]。エリトリア国民は男女とも全員、無期限の兵役義務がある。また「ナショナルサービス」と呼ばれる、政府の計画する事業での勤労奉仕活動(事実上の強制労働)に従事させられる[7]。国外への渡航は厳しく制限され、国内での移動にも事前の許可が必要である。政府はカトリックやイスラム教スンニ派など4つの宗教だけを公認し、ほかの宗教はすべて非合法化された。宗教的な書物は押収され、信者が姿を消したケースも少なくない。国民は裁判所の令状なく突然拘束されたり、拷問を受けたりする。裁判手続きなしの処刑が横行しており、死者や行方不明者も後を絶たない。国連の報告書は「この国で公正な裁判は不可能で、基本的人権を守れる状況ではない」と結論している。同国政府は、この報告を「捏造だ」として批判している。

同国は外国人記者の入国を認めず、全ての報道を情報省が管理している。ジャーナリスト保護委員会2012年、エリトリアを報道の自由が少ない「検閲国家ワースト10」の第1位に選んだと発表した。また、国境なき記者団による「世界報道自由ランキング」でも最下位にランク付けされている。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 「エリトリア」『データブック オブ・ザ・ワールド 2010年版』 二宮書店(編)、二宮書店、2010年1月15日ISBN 978-4-8176-0340-1

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
日本政府

座標: 北緯15度 東経38度 / 北緯15度 東経38度 / 15; 38