クラウディオス・プトレマイオス

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1584年パリで出版されたVrais portraits et vies des hommes illustrésに描かれたプトレマイオスの想像画。アンドレ・テヴェフランス語版作。

クラウディオス・プトレマイオス古代ギリシア語: Κλαύδιος Πτολεμαῖος, ラテン語: Claudius Ptolemaeus, 83年頃 - 168年頃)は、数学天文学占星学音楽学光学地理学、地図製作学など幅広い分野にわたる業績を残した古代ローマの学者。英称トレミー(Ptolemy)。エジプトアレクサンドリアで活躍した。

アルマゲスト』、『テトラビブロス』、『ゲオグラフィア』など、古代末期から中世を通して、ユーラシア大陸の西半分のいくつかの文明にて権威とみなされ、また、これらの文明の宇宙観や世界観に大きな影響を与えた学術書の著者である。

生涯[編集]

天文学のミューズに導かれ王冠をかぶった姿で描かれたプトレマイオス。グレゴール・ライシュドイツ語版によるMargarita Philosophica(1508)の挿画。アブー・マアシャル・バルヒー英語版のようにプトレマイオスがアレクサンダー大王ヘタイロイの一人でエジプトの王になったプトレマイオスと同族であると考えた例もあるが、本図の「プトレマイオス王」は自然科学の領域でプトレマイオスが上り詰めた地位を称賛しての呼称であると一般的に考えられている。

クラウディオス・プトレマイオスの生涯については、ほとんど何もわかっていない[1][2]。情報源がほぼ、プトレマイオス自身の著作と、後期古代のギリシア人の著作に限られ、プトレマイオスの生涯についてはこれらに基づいて推測するしかない[1]。プトレマイオスの著作『アルマゲスト』には、彼が西暦127年3月26日から141年2月2日の間にエジプトのアレクサンドリアで実施した天体観測の記録が載っており、これが彼の生涯を知るための最も確実な情報源になっている[1][2]。上記期間はハドリアヌス帝からアントニヌス・ピウス帝の統治期間内に収まる時期である[1]。この事実と、内容的に見て『アルマゲスト』より後に書かれたと推定される著作が何冊かあるという事実は、昔から言われている「クラウディオス・プトレマイオスはハドリアヌス帝からアウレリウス帝(統治期間161年-180年)の時期に活動していた人物である」という説と矛盾しない[1]

21世紀現在では、もう1点だけ「カノポス碑文 Canobic Inscription の写し」という、プトレマイオスの生涯の時期の特定に使えそうな資料があるが、真正なものであるかどうかが疑わしい[1]。カノポス碑文の写しは、アントニヌス帝統治10年目の年(147年)に、当時ナイル川の河口にあったカノポス英語版でプトレマイオスが天体観測記録を「救い主に」捧げるといったことが書かれている[1]。カノポス碑文中のデータは『アルマゲスト』中にあるデータと同一である[1]

「クラウディオス・プトレマイオス」という名前の「プトレマイオス」の部分はヘレニズム時代のエジプト人の名前であり、「クラウディオス」の部分はローマ人の名前である[2]。このことは、彼がエジプトに住むギリシア系人且つローマ帝国人であり、ローマ皇帝が彼の先祖の誰かに恩恵として「クラウディオス」の氏族名を与えたことを示している[2]。なお、そのローマ皇帝はおそらくクラウディウスネロである[1]

10世紀イスラーム圏の地理学者マスウーディーは、「クラウディオス」をクラウディウス帝の子孫の意味であると信じる者がいると述べる[3]。マスウーディーはまた、この天文学者がプトレマイオス王朝の王統とつながりがあるという説に反論している[3]。9世紀イスラーム圏の天文学者アブー・マアシャル・バルヒーは『テトラビブロス』の著者「プトレマイオス」がプトレマイオス王朝の王のひとりであると書いたが[4]、この記述は混同によるものである[5]

中世イスラーム圏ではマスウーディーのほか、10世紀のアブル・ファラジ・イスハーク・ワッラーク・ナディームや11世紀のサーイド・アンダルスィー英語版がプトレマイオスの小伝を書いている[3]。サーイドによると、プトレマイオスは上エジプト出身であるという[6][7]。14世紀ビザンツの天文学者テオドロス・メリテニオテス英語版は、プトレマイオスの出身地を上エジプトのナイル河畔の町プトレマイサ・エルミアギリシア語版と記載している[1]。テオドロス・メリテニオテスの説は正しい可能性がある[1]。なお、ルネサンス期のヨーロッパの文献では、プトレマイオスが下エジプトのペルジウム英語版の出身であるとされる場合があるが、これは、中世のラテン語翻訳者が、「クラウディオス」からアラビア文字に音転写された "qalūdī" を "falūdī" と読み間違え、「ペルジウム出身の」を意味する "Phelud(i)ensis" にラテン語翻訳してしまった結果である[1]

主な業績[編集]

天文学[編集]

天動説にもとづく天球図

主著『アルマゲスト』は、ペルガのアポロニウスヒッパルコス(BC190年?-BC120年?)によって始められた幾何学的な数理天文学を集大成したものである。その後、様々な疑問も提出され修正も施されたが、16世紀中ごろのコペルニクス『天球の回転について』登場まで、最も重要な天文学書であり続けた。『アルマゲスト』の天文学は、地球宇宙の中心にあり、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという天動説に基づくもので、アリストテレス的な世界観との相性も比較的よかった上に、(修正を経たうえではあるが)観測データともよく合ったからである。また、その記述が体系的・論理的で、宇宙論から計算・観測までの天文学に関わる様々な話題を要領よくまとめられていたことも、基本的な書物として重視された理由であった。

紀元前4世紀のエウドクソスアリストテレスは、同心球体説(各天体が各々地球を中心にする別々の透明な球面に張り付いていて、それぞれの球が固有の向きと速さで回転するモデル)によって惑星逆行などを大雑把に説明することに成功していたが、これは観測データの説明に応用できるものではなかった。一方、長期にわたる観測データと(60進法の)位取り記数法に基づいた便利な算術を背景として絶頂をむかえつつかったバビロニアの数理天文学は、算術的な方法でこれらの天体の位置の数値的な予測に成功していた[注釈 1]

そこでバビロニア天文学の長所を取り込み、数値的な方法を兼ね備えた新たな幾何学的な天文学が模索されることになった。史料が少なく詳しい経緯は不明だが、紀元前2世紀のヒッパルコスの頃にはバビロニア天文学を凌駕していたようである。

新たな天文学では、バビロニアの長所(算術やデータ、天文定数)が取り入れられたのは勿論のこと、さらに従円と周転円に基づく新たな幾何的な説明が考え出された。これは、天体が「周転円」という小さな円を描きながら、地球の中心から少しずれた点の周りを回転するものだった。幾何的な説明を数値に結びつけるべく生み出されたのが「弦の表」で、これは今の三角法の起源である[注釈 2]

この路線の到達点といえるのが『アルマゲスト』である。ヒッパルコスが太陽と月を扱ったのに対して、本書は全ての惑星の運行を説明し、また、月の運行の説明はより精度が高くなった(出差も取り込んだ)[注釈 3]

『アルマゲスト』によって天体の運行を計算するには膨大な数値計算が必要だった。そこで頻繁に利用される結果を表にし、使用方法の説明を添えたある種のハンドブックが『簡便表』である。これもアラビア語やラテン語に翻訳されて広く用いられた。

また、『アルマゲスト』『簡便表』は主に星々の見かけの位置(特に黄経)の計算を扱ったが、三次元的な軌道を構成して背後にある宇宙論を詳細に明らかにしてみせたのが『惑星の仮説』である。

アルマゲスト』は古代において既に有名で、哲学者のプロクロスなども言及しており、パップスやテオンの名による注釈がある。しかしそれら注釈の内容は初等的で、本書を超えた内容はみられない[8]。『アルマゲスト』と『簡便表』が天文学において活発に利用され、かつ改良されるのはイスラム期の中東や中世後半の欧州においてであって、膨大な観測データの蓄積を促し、科学革命を準備した。

こういった天文学の基礎としての側面の他、地球中心の宇宙像を定着させる上で本書が果たした役割は絶大である。本書は数理天文学の水準を著しく向上させたが、一方天動説以外の宇宙論を淘汰する役割も果たした。『アルマゲスト』『惑星の仮説』の数理的な詳細を省いてその宇宙像を描写した書物も現れ[注釈 4]、また古代末期以来、哲学者たちはこの宇宙像を積極的に利用して自らの哲学を展開した[注釈 5]

アルマゲスト』の理論は、エウドクソス=アリストテレスの同心球体説よりも比較にならないほどデータにあう。しかし一方で、そこで用いられた新たな数学的な仕組みエカントはアリストテレスの自然学の原理に反するのみならず、物理的にどう実現されうるのか全く不明だった。また、月の理論は黄経は非常によく説明したが、見かけの大きさ(視半径)については観測と全く合わなかった。これらの欠点は中世においても一度ならず指摘され、最終的にはコペルニクスが新たな体系を志向するきっかけになる。

なお、『アルマゲスト』の本来の書名はギリシャ語で『Μαθηματικὴ Σύνταξις』(Mathematike Syntaxis、Mathematical Treatise、数学全書)である。通称として『Ἡ Μεγάλη Σύνταξις』(He Megale Syntaxis、The Great Treatise、大全書)が用いられており、アラビア語に翻訳された際に付いた定冠詞Alが、ラテン語に再翻訳されたときにもそのまま残り、Syntaxis(Treatise)が省略されて『Almagest』(The-greatest、最大)になった。当時、天文学は幾何学、算術、光学、音楽、機械学などとともに数学(的な諸学)の中に含められており、また『アルマゲスト』は球面幾何学三角法など最先端の数学的な内容を含んでもいた。

本書に現れるデータの由来や取り扱いについては様々な議論がある。特に「恒星表」については、自らの観測ではなく(『アルマゲスト』での説明と異なって)ヒッパルコスのデータから計算しなおしたものではないかという疑問がティコ・ブラーエ以来一度ならず取り上げられている[注釈 6]

占星術分野[編集]

プトレマイオスの著書『テトラビブロス』(Tetrabiblos、四つの書)は、占星術の古典として知られている。古代において既に基本的な書物として認識され、イスラム期の中東においても同様であった。本書がもたらした権威故にプトレマイオスはルネサンス期ヨーロッパの占星術師・学者から「最も神聖なるプトレマイオス」と呼ばれることとなった。

『テトラビブロス』の原題は「影響」である。プトレマイオスは、本書を通して、常に変化する星々の位置が世界にもたらす「影響」について説明(ロゴス)を与えることを意図した[9]。星々の位置は、地球、太陽、月、惑星、星辰の運動により常に変化する。この運動については前著『アルマゲスト』において、数学を道具として用いて論じた。これに対して、星々の位置の影響について論じる『テトラビブロス』においては、哲学を道具として用いて論じた[9]。このように『アルマゲスト』を第一部とした場合、『テトラビブロス』は第二部に相当する[9]

地理学[編集]

プトレマイオスの地図(150年ころ)、15世紀の書写。図の欧州の北部部分には後代の知識が混入している。

プトレマイオスの著作『ゲオグラフィア』(Geographia、地理学)は、地球球体説に基づいた最古の体系的な数理地理学書で、古代の人々の地理に関する知識を集成したものである。本書には本書には、緯度の測定方法などの測量に関する理論、球面を平面に投影して図示する様々な方法が説明され、地球の周長(子午線一度分の長さ)や各地点の緯度や経度といったデータが収められている。また、地中海世界の各地域ごとの地図と左図のような世界地図を載せている。これは世界で初めて緯線を用いたものである。

天体観測を用いて比較的容易に計測できた緯度と異なり、本書に記される各地の経度は誤差が大きく、地中海の東西の経度差を過大に見積もっている。これは、相互の距離の測定に大きく依拠していたためだと思われる。このため後に中国についての地理的な情報が付け加えられたとき、その場所が実際よりも大幅に東に位置づけらてしまった。 このため、約1,000年後の大航海時代クリストファー・コロンブスは「東よりも西方に航海したほうがアジアへは近道である」と考えてアメリカ大陸を発見する事になる。

なお、本書は地球の周長の値を1800スタジオンとし、それを「(一般に)受け入れられている値」としている。距離の単位「スタジオン」が時代や地域によって長さがまちまちであるため、現代の計測結果との比較は難しい[注釈 7]が、大きく見積もっても誤差は数割程度で、また原理的には正しい計測方法を用いている。

楽理分野[編集]

音楽については、音程を二つの音の数比で表すピュタゴラス派の方法論を批判的に継承した。定性的な方法を示した古典期のアリストクセノスの『ハルモニア原論』を新ピュタゴラス派(ピュタゴラス派の伝統は紀元前4世紀の末に一度途切れている)の立場から痛烈に批判し、独自の見解を提起したハルモニア論(全三巻)を著した。

ラファエロ画「アテナイの学堂」の一部。天球儀を手にするヒッパルコス王冠をかぶり地球儀を手にするプトレマイオス。

『ハルモニア論』第1巻冒頭では、ハルモニアの判別者について述べている[10]。判別者は質料としての聴覚と形相としての理性の二者であるとして、聴覚と理性によりハルモニアが調和であることが判別可能となる[10]。その上で調和音程をどのように定めるかというピュタゴラス以後、古代ギリシア世界で考えられてきた問題を論じる[11]。ピュタゴラス及びその教団は、万物の根源は数であると考え、特に総和が10となる1,2,3,4の4つの数(テトラクテュス英語版)を神聖視し[12]楽音音律もこのテトラクテュスに基づく数比により設定した(ピュタゴラス音律[13]。これに対し、古代ギリシア思想の古典期に登場したアリストクセノスは、最初はピュタゴラス派の教説に学んだものの飽き足らず、アリストテレスの学説を学んだ人物であるが[13]完全四度の音程の間に設定する2つの楽音を定めるにあたって[注釈 8]完全四度の音程が完全五度完全四度の音程の差を単位音程(トノス)として、単位音程二個半であるとした[14]。つまり数比を徹底的に用いる方法によらず、聴覚に従った定性的な方法を示した。プトレマイオスの時代から見て500年前の説であるが、『ハルモニア論』によると徐々に紀元2世紀頃のアレクサンドリアの若い世代に広まっていたとされる[15]。これに対してプトレマイオスは、アルキュタスディデュモス英語版ら、ピュタゴラス派の先人の説を批判的に継承しつつ数比を用いた音律を示し、これが聴覚にも調和として判別されることを説いてアリストクセノス派に反論した。

『ハルモニア論』第2巻では主に第1巻の論証で得られた音律に基づく旋法について述べられている[16]。続く第3巻後半で、プトレマイオスは、死すべきものども、その中でもとりわけ人間が判別するハルモニアを論じることから離れて、完全なる調和の世界である天上の世界で奏でられている調和の音楽(宇宙の諧調英語版)を解き明かそうとする[17]。しかしながら、現伝する筆写本は中途半端なところで切れており、これについてはテキストが散佚したと見る説と、未完成であると見る説とがある[16]。また、そもそも第3巻後半部自体が偽作であるという説もある[18][19]。当該箇所は3、4世紀には早くも一度散佚しており、14世紀ビザンチンの学者ニケフォロス・グレゴラス英語版が再発見して補填したとされる[18][19]。真作説をとる場合、この部分の筆致の確信に満ちた様子から、『ハルモニア論』が『アルマゲスト』や『テトラビブロス』を書き上げた後の最晩年の作であるという見方もある[16]

『ハルモニア論』は、執筆後1500年近く経ってヨハネス・ケプラーが読んだことによって、思いがけない形で科学史に影響を及ぼすこととなった[18][20]。ケプラーはプトレマイオスが宇宙の諧調英語版を解き明かしていると考えられる第3巻の散佚した章の復元を試みるうちに、数々の重要な発見へと至る道を見つけた[18]

光学分野[編集]

「占星学者、アレクサンドリアのクラウディオス・プトレマイオス」と題された16世紀の想像画

古代においては、光学に相当する内容は、いくつかの分野に分かれて研究されていた。光と視覚の関係が明らかにされてそれらの研究が統合されるのは、中世に入ってのことである。その時に土台を提供したのは、古代の幾何学的な視覚論、特にその最高峰たるプトレマイオスの大著『光学』であった。

古代における視覚の議論は、アリストテレスの霊魂論の一部としての視覚論、ガレノスによる解剖学や生理学の立場からの視覚論、そしてユークリッドやヘロン、プトレマイオスらによる、幾何学的な視覚論などがあった。これらではいずれも、光は視覚の成立の補助的な役割しか果たしていなかった。そしてアリストテレス以外は、眼から照射される「視線」が対象に届いて視覚が成立するとした(出射理論(英語版))く[21]

プトレマイオスの著書『光学』は、質のよくないアラビア語への翻訳と、そのアラビア語訳版からラテン語へ翻訳した写本、20冊のみが伝わるのみである。アラビア語からラテン語への翻訳はパレルモのエウゲニウス英語版により1154年頃になされた。

本書は屈折の本格的な理論が展開されている、現存する最古の書物である。屈折については古代のみならず中世のイスラム世界においても混乱した記述が後を絶たなかった[注釈 9]が、本書の屈折についての観察は概ね的確である。 また、簡単な実験器具を用いた入射角と屈折角の関係の計測について述べ、この二つの量の関係を空気ー水、水ーガラス、空気ーガラスの場合に表として掲げている。 ある時期までこれは実験データだと思われていたが、数値がある規則を完全に満たしている[注釈 10]ので、理論的な計算だと思われる[22][注釈 11]。そして、表の数値はスネルの法則を用いた計算と比較しても極端な外れはなくい。イスラム圏では、この表はイブン・ハイサムの『光学』に若干の値が(出所を明言せずに)用いられたのみであるが、欧州ではウィテロの『光学』に若干の修正したものが掲載されて流布した。さらに、大気層の上部の屈折で星の見かけの方向が真の方向からわずかにずれることにも触れている。

反射光学においてもユークリッドの名を冠する『反射光学』よりもはるかに込み入った問題、例えば球面鏡や複数の鏡の組み合わせによる像が論じられている。球面鏡に関する難問「アルハーゼン(イブン・ハイサムのラテン名)の問題」を最初に提起したのも本書である(ただし、解法を初めて与えたのはイブン・ハイサム。)。

これらの反射光学や屈折光学の研究は高度なものであるが、いずれも「視線」の反射・屈折であることに注意する必要である。扱われる問題は全て、反射や屈折を通してどのように物の見え方が変わるかを問うものである。また、基本法則を確認する実験でも標的を反対側から覗いたときに眼に入る角度を計測しており、意識されているの飽くまで「視線」である。例えば当時、光を一点に集めるための鏡(Burning mirror)の研究がかなり進んでいたが、それには一切ふれない[注釈 12]

一方、視覚論の書物にふさわしく、本書は様々な錯視を扱い、照度、色彩、大きさ、形、動き、両眼視に関する多くの現象に説明を加えている。また、錯視については「光学」的な要因によるものと、認識論的な要因によるものとに分けて考えた。太陽や月が地平線近くにあると見かけの大きさが大きく見えるという錯視現象については、空を見上げるのが難しいという原因によるものであるという、よくわからない説明をしている[23][24]。 錯視を扱った第二巻には、複数の色が塗られた物体を回転させると、それらが混ざった色が観測されることが記されているが、後年ジェームズ・クラーク・マクスウェルが混色の実験で用いるのは、正にこの方法であった。

本書は古代の光学の最高峰であったが、『テトラビブロス』『ハルモニア論』などが早々に教科書的な地位を獲得したのとは正反対に、古代においては引用も言及も非常に少ない[25]。中世イスラム圏においても、むしろ古く内容も劣るユークリッドの『光学』が広く知られ、本書を利用した研究はやっと10世紀末に現れる。まず、光のスネルの法則を先取りしたイブン・サフル(en:Ibn Sahl (mathematician))の屈折に関する研究は、プトレマイオスの影響を抜きには考え難い。また、光学を刷新したイブン・ハイサムの『光学の書(Kitab al-Manazir)』にはプトレマイオス『光学』の影響が顕著である。ただし、イブン・ハイサムが光学を大きく書き換えたため、この後はイスラム圏においてもラテン西欧においても、直接の影響は限定的である[26]

数学[編集]

上に述べたように、天文学書『アルマゲスト』は高度な数学を含んでいた。ほかに、現存していないが平行線公準に関する著書もあったと推定されている。エウクレイデスの『原論』の第1巻にプロクロスが付けた注釈の中にプトレマイオスの著書に対する言及があることがその根拠である。[27]

脚注[編集]

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Quadripartitum, 1622

注釈[編集]

  1. ^ 名高いアンティキラの機械も、バビロニアの理論に基づいているとされる。ヒッパルコス以降もバビロニア天文学は簡便な計算方法として生き残り、プトレマイオスの占星術書『テトラビブロス』に名残りを留める。また、バビロニア由来の天文定数は古代ギリシャ天文学にも引き継がれる。古代バビロニアの天文現象の記録英語版Asger Aaboe, Episodes from the Early History of Astronomy, New York: Springer, 2001, pp. 62–65. Alexander Jones, "The Adaptation of Babylonian Methods in Greek Numerical Astronomy," in The Scientific Enterprise in Antiquity and the Middle Ages, p. 99.
  2. ^ これがのちに東伝してインドでsinやcosが導入され、や中世イスラム世界で洗練を経て現在の三角法になった
  3. ^ ヒッパルコスに始るこの新たなギリシャ流天文学は、インドにまで伝わり独自の発展を遂げ、それが中世イスラム期に『アルマゲスト』と再合流する。インドの月の理論は出差を欠くため、プトレマイオス以前の理論が伝わったと思われる。
  4. ^ アルフラガヌスの『天の運動と天文知識の集成』やイブン・ハイサムの『世界の配置』などがあり、それらは西欧でも中東でもよく読まれた。
  5. ^ ファーラービーイブン・シーナなど。イブン・シーナは自らプトレマイオス流の天文学の研究にも乗り出し、後にイスラム圏で哲学の基本的な書物として読まれた『治癒の書』にも『アルマゲスト』の要約を収めた。
  6. ^ 一連の議論については、例えば Evans, J. On the Origin of the Ptolemaic Star Catalogue - Part One, Journal for the History of Astronomy, Vol.18, NO. 3/AUG, P.155, 1987 や Gerd. G., The History of Ptolemy’s Star Catalogue,Springer, 1990 などを参照。これらの文献ではまた、プトレマイオスの他のデーターの取り扱いについても簡単なコメントがあり、体系的な誤差の処理の方法がなかったこと、全てのデータではなく取捨選択した結果のみがのせられていること、理論に合うデータを恣意的に選んでいる場合があること、またそれが必ずしも非合理的とも言えないことなどが指摘されている。
  7. ^ Diller, A., “The Ancient Measurements of the Earth”,Isis, 40, 1, No 119, 1949, 7–8. 本論文によると、エラトステネスの値とプトレマイオスの値の差は用いた「スタジオン」の違いに起因する可能性が高い。古代の地球の計測についてはウィキペディアのエラトステネスの項目なども参照。
  8. ^ この問題は「テトラコルドの分割」と呼ばれ、キタラーという四弦琴の内側の二弦を調律する際に重要な問題であった[12]
  9. ^ 例えばファーラービーナスィールッディーン・トゥースィーのような碩学にすらこの例外ではない。
  10. ^ 例えば、二次関数に正確に乗っている。また、二階差分が空気ー水、水ーガラス、空気ーガラスの3つの表ですべて共通の値。
  11. ^ Smith(Smith 1996)は古代バビロニア天文学で用いられた手法だと推定している。また、Boyer(Boyer 1959)は入射角60度の場合を除いては理論計算だと述べている。
  12. ^ ただし、光線と視線が同じ屈折や反射の法則に従うことは自明とされた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Jones, Alexander (2020-10-16). “Ptolemy (or Claudius Ptolemaeus)”. Complete Dictionary of Scientific Biography. https://www.encyclopedia.com/people/science-and-technology/astronomy-biographies/ptolemy 2020年11月23日閲覧。. 
  2. ^ a b c d O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Claudius Ptolemy”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews, http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Ptolemy.html .
  3. ^ a b c Plessner, M. (1960). "BAṬLAYMŪS". In Gibb, H. A. R.; Kramers, J. H.; Lévi-Provençal, E.; Schacht, J.; Lewis, B.; Pellat, Ch. (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume I: A–B. Leiden: E. J. Brill. pp. 1100–1102.
  4. ^ Abu Ma’shar, De magnis coniunctionibus, ed.-transl. K. Yamamoto, Ch. Burnett, Leiden, 2000, 2 vols. (Arabic & Latin text); 4.1.4.
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  7. ^ J. F. Weidler (1741). Historia astronomiae, p. 177. Wittenberg: Gottlieb. (cf. Martin Bernal (1992). "Animadversions on the Origins of Western Science", Isis 83 (4), p. 596–607 [606].)
  8. ^ Pingree 1994を参照。Pingreeは、これらの内容が余りに初歩からはじまり、また内容に混乱もあることから、パップスやテオンの学生らが講義を筆記したものだと推測している。
  9. ^ a b c テスター 1997, pp. 77-78.
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参考文献[編集]

著作の日本語訳[編集]

二次資料[編集]

  • Boyer, Carl Benjamin (1959). The Rainbow: From Myth to Mathematics 
  • Jones, Alexander, ed (2010). Ptolemy in Perspective: Use and Criticism of his Work from Antiquity to the Nineteenth Century. 23. New York: Series: Archimedes. ISBN 978-90-481-2787-0 
  • Pingree, David (1994). “The Teaching of the Almagest in Late Antiquity.” In The Sciences in Greco–Roman Society, edited by Timothy D. Barnes. Edmonton: Academic Printing and Publishing, pp. 73–98. (For the survival of Theon's commentary on the Almagest.)

外部リンク[編集]

関連項目[編集]