天動説

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天動説の図

天動説(てんどうせつ)、または地球中心説: Geocentrism)とは、球形の大地(地球)は宇宙の中心に静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説で、コスモロジー宇宙論)の1つの類型のこと。古代ギリシャに淵源をもち、古代ローマや中世の欧州、西アジア~北アフリカ地域、そしてインドにおいて、近代的な宇宙論に置き換えられるまでは支配的な宇宙論だった。

原始的な宇宙論と同じく大地を世界の中心に置くものの、神話的な要素は皆無で、観測の説明のための学問的な宇宙論であって、幾何学的な数理天文学を伴い、また自然の基本原理についての学説や世界観とも深く結びついていた。上記の中世インド以外においては、前者はプトレマイオス(紀元2世紀)が、後者はアリストテレス(紀元前4世紀)が体系化したものを採用した。

プトレマイオスの理論は、当時の観測精度の範囲では、ほぼ十分に現象を説明していたが、アリストテレス的な自然学と整合しない部分もあることが度々指摘され、こういった批判がコペルニクスによる新たな宇宙体系への導線の一つにもなった。コペルニクス以降の天動説の動揺は、アリストテレス的な自然学にも影響をあたえ、また逆に後者の不備は、新たに登場した地動説に有利な論拠とされた。そして、両者はほぼ同時に近代的な理論に道をゆずることになる。

天動説は単なる科学理論ではなく、思想や世界観とも繋がっていたので、この変革の影響は科学の内部に留まらなかった。

古来より大地を不動とする宇宙論は世界各地に認められるが、本項目では上述の特定の宇宙論を主に扱う。また「天動説」という用語は、近代初頭に確立した地動説との対比を意識しいる。これらは各々欧州の「Geocentric theory 」、「Heliocentric theory」の訳語であるが、より原語に忠実な「地球中心説」「太陽中心説」を用いる場合もある。中国語では「地心説」という。

概要[編集]

古来より、大地を不動とする宇宙論は世界各地にあった。しかし本項目では、古代ギリシャに起源をもち、アリストテレスプトレマイオスといった人々によって体系化された宇宙論を指すことにする。

天動説によると、宇宙の中心には球形の大地(地球)があり、太陽を含め全ての天体も球形で、約1日かけて地球の周りを公転する。恒星は地球、月、太陽と惑星を包む固い球(恒星天)に張り付いており、宇宙はこの恒星天の内側だけに展開する。

原始的な宇宙論と同様に大地を不動とするものの、天動説には神話的な要素はなく、現象を理性的に説明することを目指した宇宙論であり、幾何学的に美しい理論を可能にした。例えば、太陽や月の日周運動の説明は、シュメールの宇宙論のように山の下のトンネルを通したり、インドの須弥山説のように須弥山による遮蔽を考えるよりも、はるかに幾何的に整った説明を可能にする。また、恒星球の仮定も、天の北極付近と赤道付近での恒星の運動の違いを単純に説明できる。月の満ち欠けも、太陽との相対的な位置関係で説明できる。これらは、古代に於いては現代ほどは自明ではなかった。紀元前3世紀になっても、原子論者エピクロスは、天体の明かり自体が消える可能性や、大気の影響などを列挙して、天文学者たちの即断を非難する[1]

天動説の起源を特定することは難しいが、例えば紀元前4世紀の天文学者エウドクソスは、地球を中心をした速度が一定の円運動の組み合わせで天体の運動を説明した(同心球体説. en:Concentric spheres)。この理論を取り込んで、アリストテレスは独特の宇宙論を展開した[2]。彼はエウドクソス理論で用いられる同心球は、透明で固く、地球を中心に等速で回転する球体で、天体はそれに張り付いているとした。アリストテレスはまた、天動説と強く結びついた自然学[3]を構築する。これは近代以前は、自然現象を説明する基本原理として受け入れられる。彼は世界を月の下とそれより上方の天界に二分し、あらゆる変化は月下だけで起き、天体は均質な球体で地球を周回し続け、変化はしないとした。

アリストテレスが依拠したエウドクソスの理論は、非常に美しい理論ではあったが、当時盛んであったバビロニアの天文学のような、定量的な予測はできなかった。それを可能にしたのは、2世紀クラウディオス・プトレマイオスが主著『アルマゲスト』において体系化した理論である。これは、エウドクソスと同様、円運動を基本としながら、周転円や離心円といったより複雑な仕組みを用いていたおり、バビロニア天文学を遥かに凌駕した精度で、惑星の軌道を説明することができた。観測の精度が向上して『アルマゲスト』の改良では手に負えなくなったのはティコ・ブラーエ以降であった。

プトレマイオスはまた、『惑星仮説』で『アルマゲスト』の背後にある宇宙論を明確に提示した。そこでは、アリストテレスと同様に、天体は透明な球体に張り付けられており、アリストテレスの宇宙像の拡張系といえる。一方、中心が必ずしも地球の中心ではなく、回転も等速でない球を用いるなど、アリストテレスの自然学にそぐわない点があった。また、周転円面の振動のように、円運動では説明が難しそうな部分もあった。この問題は、中世後半よりアラビア語圏で系統的な批判がはじまり、ラテン語圏にも引き継がれる[4]。この一連の批判は、コペルニクスの新体系の背景として無視できない要因である。

プトレマイオスによる完成以前のある時期に、ギリシャの数理天文学はインドに伝わり、紀元6世紀初めにアーリヤバタの『アーリヤバティーヤ』において、在来の要素も合わさって新たなインド流の天文学が生まれる[5]。ただし、アリストテレス的な宇宙論は伝わっておらず、円運動を硬い球体の回転と見なすこともなかった。伝統的な須弥山説と摩擦を起こしながらも、新たな天文学はインドに根付き、逆に西に伝わった。インドの天文学は15世紀ー16世紀のケーララ学派のニーラカンタにおいて、ティコ・ブラーエと比較できる水準に達する[6]

中世アラビア語圏の天文学は、まずはインドの影響の色濃いペルシア天文学から出発する[7]。のちに『アルマゲスト』が主体になるが、特に三角法などの計算手法はインド系がむしろ主流になる。中世アラビア語圏やそれに影響を受けたラテン語圏では、この新たな数理的な手法に加えて観測体制の充実もあいまって、天文現象への理解は大いに深まった。

しかし、地球から見た惑星の運動は、太陽中心の記述よりも複雑になることは否めない。

  1. 内惑星と外惑星の運動が定性的に全く異なって見える。このことが影響してか、『アルマゲスト』においても『アーリヤバティーヤ』においても、内惑星と外惑星との統一的な理論を作るこが出来ていない。特に後者では、内惑星と外惑星で理論の構成が完全に異なっている。
  2. 惑星は太陽を中心に見れば、ある軌道面からほぼはみ出すことなく公転している。しかし、これを地球中心にみると、太陽の軌道(黄道)からの距離(黄緯)が複雑に振動しているように見える。『アルマゲスト』の理論のこの部分は過度に複雑で、実用上も理論上も様々な難点を生じた。ただし、インドの天文学のこの部分は、現代からみてもほぼ妥当である。
  3. 天動説には、天体の間の距離を決める手掛かりが非常に少なかった。各々の天体の軌道を、地球を中心にバラバラの比率で拡大・縮小しても、観測の説明には全く齟齬を生じないからである。これは、コペルニクスの体系で、黄経のデータが太陽までの距離の比率を与えるのとは対照的である。そして、プトレマイオスの理論では天体までの距離について不備な点が多く、特に月については、わざわざ計測するまでもないほどに不合理であった。この問題もまた、コペルニクスの動機の一つとなる。

コペルニクスは『アルマゲスト』の様々な矛盾を契機にして地動説を構想するに至るが、また同時にその影響を強く引きずっており、ケプラーが「コペルニクスは自らの仮説の豊かさに気が付かなかった」と評したように[8]、太陽中心説のメリットを生かし切れていなかった。しかし、ティコ・ブラーエを経てケプラーに至るとプトレマイオスの影響はほぼ払拭され、上記の1や2も解消した。また、このころにはアリストテレス的な自然学は、かつてのような影響力をもたなくなっていた。そして、ニュートンに至って近代的な力学と、それに基づく天体の理論が完成する。

天動説は単なる自然科学上の仮説ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。ルネッサンス期には、神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが人間の住む特別の天体だからだとされた。地球は宇宙の中心であると共に、全ての天体の主人でもある。全ての天体は地球のしもべであり、主人に従う形で運動する。14世紀に発表されたダンテの叙事詩『神曲』天国篇においても、地球の周りを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた。それゆえ、天動説から地動説への変化は、世界観の転換でもあった。

中国では、唐の玄宗の頃にインドから瞿曇悉達らが、そして元のクビライの頃にアラビア語圏からジャマールッディーンらが訪れ、ギリシャ系の天文学がもたらされる。しかし、前者は利点が理解されずに浸透せず、後者では優秀性は理解されたものの、暦作成のための知識としてイスラム系天文学者の間に継承されるのみであった。西方の宇宙論が中国の知識人一般に影響を与えるのは明末になってのことで、マテオ・リッチイエズス会士を介してである。地動説の紹介はずっと遅れ、ケプラーの理論もティコ・ブラーエ的に地球中心に書き直して紹介された。

日本には、宣教師の著述を元に書き直された『乾坤辨説』[9]や輸入漢籍『天経或問』によって天動説が紹介され、『和漢三才図会』のような百科事典でも紹介された [10]

天動説の歴史[編集]

古代ギリシャの様々な宇宙論[編集]

古代ギリシアでは、天動説の他にも様々な宇宙論があった。ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシャ哲学者列伝』第9巻によれば、原子論の創始者レウキッポスは大地を円筒形とし、太陽その他の天体とともに宇宙の中心を周回するとした。同書第10巻によると、エピクロスは太陽などの天体の大きさを見かけ通りの大きさとし、それらの巨大さを否定した。

また、地動説の先駆とみなせる説を唱えたものもいた。エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは地球も太陽も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、原著は失われたが紀元前280年頃アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた。ガリレオ・ガリレイはコペルニクスの事を太陽中心説の発明者ではなく「埋もれていた仮説を復活させて確認した人」と書いている。

ただし、これら古代ギリシャの地動説は、天文学の理論としての精密さでは、プトレマイオス以降の天動説と比べるべくもなかった。また、基本的なアイデアの点でも、コペルニクス説の先駆として見れるかどうかは慎重論もある[11]

エウドクソスの同心天球説とアリストテレス的な世界観 [編集]

紀元前4世紀古代ギリシアエウドクソスは、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星が散りばめられており(恒星球)、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する(日周運動)。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する(年周運動)。太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその南中高度が変わり、季節が説明される。恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた。地球から見て惑星星座の中をゆっくりと動くように見える。これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星は天球上で速さを変えたり、逆行といって一時期だけ逆に動くことがある。逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した。これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない。弟子のカリッポスは、球の数を増やして、水星と金星の理論を改良した。

エウドクソス・カリッポスの理論は、極めて単純で美しく、科学史家ノイゲバウワーが「天文学の理論で、この理論ほど魅力的な理論はほとんどない」と評したほどである[12]。その上、プトレマイオスの理論と異なり、アリストテレスの自然学に完全に整合していた。それゆえ、コペルニクスの直前まで、この理論を改良する試みは現れた。

同心天球説は、若干の改変を経て、アリストテレスの宇宙像に組み入れられた。アリストテレスは、エウドクソス・カリッポスの理論の天球を、単なる数学的な便宜ではなく、実在する透明な球だと明言した。そして、内側の天球が外側の天球の回転で乱されないようにするための仕組みを追加した。『形而上学 (アリストテレス)』Λ巻(第XII巻)においては、天球の動く原因を「不動の動者」に求め、天球ごとに別の「不動の動者」を割り振った。一番外側の天球を動かすのが「第一の不動の動者」で、後世、ネオプラトニズム一者や、ユダヤ教系の宗教の唯一神と同一視される。

アリストテレスの世界観においては、宇宙は四元素が絶えず転変する月下の世界と、第五元素(エーテル)で構成される不変でそれゆえに完璧で神聖な天界に二分された。両者は、全く異なる運動と変化の法則に従うとされた。天体はすべて完全に均質で完全な球形とされた。

この理論に基づき、上空の現象のうち、不規則に見えるものを月下の現象とし、恒常的に見えるものを天界に帰した。アリストテレス自身は、流星のみならず彗星も月下の現象とされ、天の川のぼやけた光は、天体のほかに大気上層部が関与しているとした。しかし、どの現象をどちらに分類するかは古代や中世において様々な議論があった[13]。特に、天の川や月の模様に関する議論は有名である[14]超新星に関しては、月下の現象とされて、12世紀の超新星SN1006も天文学者たちの広い興味を引くことはなかった[15]

アリストテレス的な運動の理論では、地球の中心=宇宙の中心は特別な意味を与えられた。地上の重い元素はここに向かって直進し、軽い元素は遠ざかる。天体はこの点を中心に等速円運動をする。これによって、現在は重力と慣性の概念を用いて説明される現象を、ある程度は説明することができた。

地上の重力の関わる現象のうち、梃子、重心、浮力に関する一連の理論は、アルキメデスの理論も取り込んで、アリストテレス的な自然学のもと、「重さの学」として組織化され、天秤や機械の作成と運用、比重の測定などの基礎となった。この中で、地球の中心は重心の定義や梃子の原理と結びつけられ、また「重さ」の概念は地球の中心との位置関係によって変わるとされた。

プトレマイオスの体系[編集]

プトレマイオスによる惑星の運動
離心円の中心Xは地球の中心とは異なる。離心円の回転は、エカント点(・)から見る角速度が一定となるように動く。

2世紀アレクサンドリアで活躍したプトレマイオスアポロニウスヒッパルコスらの後をうけて、天動説に基づく数理天文学を体系化し、『アルマゲスト』を著した。

古代バビロニアのころより、惑星が黄道(太陽の通り道)から極端に大きくはずれないことが注意され、黄道にそった方向の回転角度(黄経)の計算方法が工夫された。ギリシャ天文学もその影響をうけ、プトレマイオスはまず天体の黄経を計算する理論を展開し、その後に黄道からのずれ(黄緯)の計算の方法を付け加える。

黄経の計算のために、紀元前3世紀頃のアポロニウス紀元前2世紀ヒッパルコスは、バビロニア天文学とは根本的に異なる、幾何学的な方法を発展させていた。彼らが用いていたのが、以下に説明する離心円周転円である。離心円は、地球の中心からずれる点に中心を持つ円で、この軌道を等速円運動させるだけで、太陽の運行を近似することができた。周転円は、最初は惑星の逆行を説明するために用いられた。すなわち、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を周転円、周転円が乗っている大きな円を従円と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、複雑な挙動を示す。アポロニウスは、離心円も周転円を用いて表現できることを示した。

プトレマイオスはアポロニオスやヒッパルコスの工夫に加えて、エカントを導入した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。

アルマゲスト』のこの部分は、単純で精度も高かった。例えば、外惑星と金星においては、図のような大きな離心円と小さな周転円のみで統一的に理論を作ることができた。現代の目で見ると、外惑星の場合は離心円は惑星の公転に相当し、周転円が地球の公転の効果をあらわしている。エカントを伴った離心円は、ケプラーの法則をよく近似した。

ただし、軌道の離心率の大きい水星と、複雑な軌道をとる月の場合は、非常に複雑な理論になってしまっている。なお、月の理論は複雑ではあったが、出差まで取り込む精確さを備えていた[16]。後のケプラーの月の理論も複雑で、ニュートンも運動方程式を機械的に解いて月の軌道を導くことはできず、半現象論的な手法によっている。

黄経の理論が大きな成功を納める一方、『アルマゲスト』の黄緯方向の運動を説明する理論は、悪くない予測は引き出したものの、過度に複雑であった[17]。外惑星の場合は、離心円を黄道面に対して傾け、さらに周転円の傾きを振動させている。内惑星ではさらに複雑であった。この理論は複雑すぎて計算を遂行するのも困難で、『アルマゲスト』では精度のよくない近似で済ませている。また、周転円の振動が黄経に与える影響は考慮されなかった。この複雑な構造は、『アルマゲスト』を参考にしながら作られたコペルニクスの理論に悪影響を及ぼし、ティコ・ブラーエをも悩ませた。

プトレマイオスの理論において、地球と天体の距離についての部分は不備が多かった。地球を中心に軌道を拡大・縮小しても、視方向は変わらないので、黄道座標を計算する彼の理論は、距離についての手掛かりを与えない。コペルニクスの体系で、黄経の最大値などに太陽-惑星間の距離と地球-太陽間の距離の比率の情報が含まれているのとは対照的であった。

プトレマイオスは太陽や月までの距離はアリスタルコスの理論に依拠して決め、とりあえず地球から月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった。この際、周転円の重なりを避けて配置したが、それは周転円を透明で硬い球体としていたことからである。しかし、ジャービル・ブン・アフラフが指摘するように、金星や水星の視差についての記述は、太陽の視差についての記述と矛盾していた[18]。また、月と地球の距離は、最短と最長で2倍になる。見かけの大きさはこれほどには変動しないから明らかに不合理で、イブン・シャーティルコペルニクスの月の理論の動機になった。さらに太陽については距離の変動を認めながらも見かけの大きさを一定としており、日食においては金環食はあり得ないとした[19]

上述したように、プトレマイオスは周転円や従円の物理的な実体は、等速で回転する透明な球体だという。この宇宙像は、エウドクソスアリストテレスの同心天球の拡張形とも言える。しかし、この「透明な等速回転する球」という描像では、(エカントを取り入れた)離心円は説明できず、球の回転速度を複雑な規則に従って変化させる必要があった。さらに、周転円の傾斜の振動については、回転する球でどのように実現されるのか、全く不明であった。そもそも、アリストテレスの自然学では、宇宙の中心の周りの等速回転しか認められないので、周天円も離心円も正当化されなかった。

古代においては、『アルマゲスト』の検証や精密化を目指した研究は、今のところ知られていない。わずかにテオンやパップスの名を冠した、教育目的のレベルの低い注釈と、プロクロスによる哲学的な注釈が残っている。

インドでの展開 [編集]

プトレマイオス以前にヒッパルコスらの系譜の天文学は東伝し、インドでは5世紀末から6世紀アーリヤバタ (Aryabhata)以降、ギリシャ流天文学が一般的になる。7世紀の前半には、ブラフマグプタが『ブラフマ・スプタ・シッダーンタ』でアーリヤバタの学派に対抗する。また、8世紀ごろには著者不明の『スールヤ・シッダーンタ』が現行の形になり、新たな学派が生まれた。これら3つの学派は、12世紀の始めのバースカラ二世のころまでは活発な活動を続ける。

インドの天文学は、三角法や算術的な技法に特徴があり、理論計算のための必須の道具を提供した。こういった要素は西に伝わって、アラビア語圏で洗練を経てヨーロッパにも取り入れられた。

天文学の理論そのものにおいても、西方より優れた点もあった。たとえば、ブラフマグプタの理論では、プトレマイオスと異なって金環食を予言することができた。この理論はビールーニーによってアラビア語圏に取り入れられ、14世紀初頭に観測によって検証される[20]。また、『アルマゲスト』で過度に複雑になっていた黄緯の計算については、インドの天文学の方が適切な対処をしていた。外惑星においては、周転円は黄道面に対して水平に保たれ、『アルマゲスト』のように振動させられることはなかった。現代的な視点から見ると周転円は地球の公転の効果を表しているので、これは適切な方針であった。

12世紀ころまでのインド天文学の理論は、内惑星と外惑星の理論が完全に異なった構成になっていた。この両者の統一の機運が起こったのは、インド南部に13世紀ころから起こったケーララ学派においてで、15-16世紀のニーラカンタは両者を統一的に扱う理論を提出した。この理論は惑星の理論を作る際に、平均太陽の運動で補正をかける方針をとった。このため、理論計算としてはティコ・ブラーエのような、(平均)太陽の周りを地球以外の惑星が回転する理論と同一になる。ニーラカンタの『アーリヤバティーヤ注解』には「(水星と金星)の軌道は地球の周りを回らない。地球は常にそれらの軌道の外にある。…」とある[21]が、解釈は分かれている[22]

コペルニクスやティコの理論と比較すると、黄緯の理論に『アルマゲスト』に由来する不要な複雑さが含まれないこと、外惑星のみならず内惑星も同一の論理で理論化され、平均太陽の運動と(現代からみると)平均太陽周りの運動の和に分解されている、といった点で優れている[23]

アラビア語圏での展開[編集]

8世紀アッバース朝が建設した都バグダードは、ペルシア文化の影響が強く、まず導入されたのはインドの影響を受けたペルシア流の天文学、ついでインド流の天文学であった。このときに導入された天文学書の形式が「天文表(zij)」であり、天文計算の手順と(球面)三角法の説明、そして数表などからなり、内容的にもインド天文学の影響が強い。

9世紀知恵の館を中心にギリシャ語文献の翻訳が盛んになると、『アルマゲスト』も翻訳され、徐々にインド流天文学を置き換えていく。ただし、インド的な要素は天文表などを介して長く残存し、『アルフォンソ天文表』にも持ち込まれる[24]。この頃、シリア地方で活躍したバッターニーは、非常に精確な観測を行い、Savi zijを編む。これは欧州にも影響を及ぼす。彼の精度の高い観測データは、近代に入っても使用された。

中世のアラビア語圏では、インド系天文学の影響を受けて、計算手法の洗練が著しく進んだ。また、支配階層が占星術に関心を示し、宗教的な儀式や行事の正確な日時の決定を好む風土があったため[25]、古代に比べると著しく観測体制が充実し、比較的精度の高いデータの継続的な蓄積があった。これにより、古代はほとんどなされなかった『アルマゲスト』の検証や修正が進み、インド的な要素も一部取り入れられた。ただし、ティコ・ブラーエ以降に比べれば精度はまだ限定的で、天体の黄道座標のデータと『アルマゲスト』の理論との差は、修正を施せばで乗り切れる程度であった。

そこで、宇宙論(haya)の主要な問題は、『アルマゲスト』の議論の不自然な点や、アリストテレス自然学の間の不整合な点の解消であった。また、アリストテレス自然学は、大枠では受け入れられたとはいえ、個々の論点では異論は絶えなかった。異論の中には天界の永遠不変性や月の均質性についてなど、本質的な問題に発展しかねないものもあった。そして、『アルマゲスト』で不備の多かった、天体までの距離に関係する様々な問題、すなわち視半径、視差、惑星の太陽面通過、金環食などの問題も、折に触れて論じられた。とくに天体までの距離の問題は、エウドクソス的な同心球体説の可否との関係からも論じられた。同心球体説では天体までの距離は不変だからである[26]

例えば、10世期のビールーニーは、『マスウード宝典』黄緯の理論やエカントについての不満を述べる。また、プトレマイオスは太陽の遠地点を不動とし、金環食の存在を否定していたが、ビールーニーは観測や観測例の報告に基づき、修正する。後者については、ブラフマグプタの理論による予測の可能性も提起する。イブン・スィーナーとの論争では、天界の不変性は根拠が薄弱として慎重論を示すほか、アリストテレス自然学の様々な命題に反論を提示する[27]

同じ頃、アル=クーヒーはアリストテレスの運動論の命題のいくつかに反論し[28]、また流星や彗星の高度の計測を提案する[29]イブン・ハイサムは観測に基づいて天の川までの距離を見積もり、気象現象であることを否定し[30]、月の模様は月が均質でない証拠だとする[31]。また、『プトレマイオスへの懐疑』を含む一連の著作でプトレマイオス批判を展開し、東西アラビア語圏での議論を誘発する。そして、黄緯の理論における周転円の振動を球の回転で近似する方法を提案する。

ややおくれて11世紀の後半、スペインのアラビア語圏は、東方とは異なる伝統を確立する。例えば、太陽の遠地点の移動は、ザルカーリー (又はal-Zarqali)によって独自に発見される[32]。また、en:Ibn Muʿādh al-Jayyānīは大気圏の厚さが薄明かりの観測から見積もった[33]

11世期の終わりから12世紀にかけて、イブン・ハイサムの議論にも刺激され、プトレマイオス体系の批判と改革の一連の議論が盛んになされた。イブン・バーッジャイブン・トゥファイル、そして「注釈者」として名高いイブン・ルシュドは、アリストテレス主義の観点から、プトレマイオス理論を批判する[34]。これらの議論を受けて、アル・ビトゥルージは、エウドクソス流の同心球体仮説を改良する[35]が、プトレマイオス理論の予測を再現することはできなかった。ジャービル・ブン・アフラフは、『アルマゲスト修正』で内惑星の視差と太陽の視差についての、『アルマゲスト』の矛盾を指摘し、太陽面通過が観測されないことから、これらを太陽よりも上方に置いた。これらは翻訳を通じて、ラテン語世界の議論を刺激する。

この西方での動きは、マイモニデスなどを通じて東方にも伝わったと思われる。13世紀には、東方アラビア語圏でも天文学改革が始まるが、西方とはやや方向性が異なっていた。13世期のナスィール・アル=ディーン・トゥースィー (Nasir al-Din Tusi) の率いたマラーゲ天文台では、大規模で高精度の観測が長期に渡って行われるとともに、プトレマイオス理論の改革が志向された。ただし、西方と異なり、同心球体説へのこだわりはきっぱりと捨てられている。そのかわりに、全てを等速回転する球で構成すること(エカントなどの除去)、そしてその上でプトレマイオスと同等の予測が出来ることを求めた。

まず最初に大きな成功を収めたのは al-Urdiで、「Urdiの補題」をもちいて、外惑星の理論のエカントを除去した。一方、トゥースィーは、マラーゲに来る以前から、イブン・ハイサムの試みを引き継いで、周転円の上下振動の回転による実現を目指し、トゥースィーの対円Tusi-coupleを編み出す。そして、これがエカントの除去にも使えることに気がつき、外惑星や月の理論に用いる。al Shiraziは、この両者の成果を総合し、水星の理論を作り、金星の理論の改善案を7つ提示する。ビザンツ帝国から派遣された天文学者により、これらの成果の一部はギリシャ語訳され、コンスタンチノープルの陥落とともにローマに行き着くことになる。なお、ビールーニーの提案に基づいて、金環食の理論的な予測と観測が成し遂げられたのも、このマラーゲ天文台であった。

14世紀マムルーク朝ダマスカスに居たイブン・シャーティル (Ibn al-Shatir) は、マラーゲ天文台で発展した手法を用いて、さらに改良された理論を作り、太陽と月の視半径の変動を観測に合わせることできた。この時、太陽の視半径のデータはマラーゲ天文台のものも用いている。また、黄緯については、周転円の傾きを固定した理論を作る。これは、外惑星についてはプトレマイオスの理論とほぼ同じ予測を生み出す。

これらの理論と、コペルニクスの理論の類似性はかねてより指摘されており、様々な状況証拠から、アラビア科学史の専門家には、理論の伝搬を主張したり仄かしたりする研究者は少なくない。しかし、著作のラテン語訳は存在せず、仄かされる伝搬経路は仮説の域をでない [36]

ヨーロッパでの受容と展開[編集]

十字軍遠征やイベリア半島におけるレコンキスタ、地中海貿易などは、ヨーロッパとイスラム世界との接触を活発にした。11-13世紀にかけて、アラビア語圏の科学の成果はシチリア王国の首都パレルモカスティーリャ王国の首都トレドなどで精力的に研究され、翻訳が成された(→12世紀ルネサンス)。アリストテレス、プトレマイオスなど古代ギリシアの文献も、その後の進展や不明瞭な点を捕捉する注釈を伴ったアラビア語版からの重訳という形でヨーロッパにもたらされた。

それまでのカトリック教会神学アウグスティヌスなどラテン教父による、ネオプラトニズムを基盤にしたものであった。1210年にパリの聖職者会議がアリストテレスを教えることを禁止するなど、新しく流入した知識を採り入れることに抵抗はあったものの、13世紀後半に活躍するアルベルトゥス・マグヌストマス・アクィナスらにより、結局はアリストテレスの哲学はスコラ学の主流となる。

天文学は主にスペインにおいて導入が始まる。まず12世紀においては、天文計算の具体的な手続きが書かれた天文表およびアルファンガスの数学を使わない宇宙論を説明する著作から翻訳が始まるが、13世紀の教科書的なテキストなどには、幾何学的な惑星理論の理解がうかがわれ、『アルマゲスト』の理解が進行しているさまがわかる。イスラム系やユダヤ系の天文学者の協力も得て、13世紀カスティーリャ王国アルフォンソ10世のもとで編纂された『アルフォンソ天文表』は、その後の補正を受けながらも17世紀までヨーロッパで使われていた。このころ、アヴェロエスのアリストテレス主義の立場からのプトレマイオスへの批判や、アル・ビトゥルージの同心球体理論の改良が翻訳されることになる。つまり、中世後期の欧州では、プトレマイオス理論の導入の比較的早い段階で、プトレマイオス批判や代替案が知られることになった。同心球体を用いた代替理論の模索は、アラビア語圏よりもむしろヨーロッパにおいて盛んであった。

15世紀のドイツでプトレマイオスなどの研究をしたレギオモンタヌス(ヨハン・ミューラー)の業績は、彼の死後1496年に『アルマゲスト綱要』として出版され、コペルニクスの研究に大きな影響を与えた。レギオモンタヌスもまた、同心球体を用いた代替理論を模索している。

地動説[編集]

16世紀のヨーロッパでニコラウス・コペルニクス地動説を唱えた。コペルニクスの説は太陽を中心に地球を含む惑星が公転するという点で画期的であると共に、エカント点を排除して全ての運行を大小の等速円運動で記述した。しかしながらコペルニクスの説も、円運動を前提にしているという点においては、従来の天動説と同じであった。本当であれば楕円運動をしている惑星の運動を円運動で説明するために小周転円が必要だったので、計算の手間はプトレマイオスと大して変わらなかったし、予測精度も大きく上がることはなかった。地球の位置が動くならば恒星の見える方向が変化するはずなのに、当時の観測精度ではそれ(年周視差)が認められなかったことも、コペルニクスの説が直ちには受け入れられなかった理由である。コペルニクスの説を受け継いで、エラスムス・ラインホルトが、『プロイセン星表』を作成したが、周転円の数をプトレマイオスの天動説よりも増やしてしまい、さらに計算を煩雑にしてしまった。

ティコの太陽系。動かぬ地球を中心に、他の惑星を引き連れた太陽が回転する。

コペルニクス説の影響を受けて、17世紀ティコ・ブラーエは、動かぬ地球を中心にしながらも、月と地球を除く惑星が太陽の回りを周回する宇宙を考えた。ティコの太陽系はプトレマイオスの天動説の発展形とも言える。プトレマイオスの体系でも太陽系というものが全く存在しなかった訳ではない。内惑星である水星と金星の離心円の回転角は、太陽のそれと同じであった。しかし外惑星は別扱いされた。内惑星を地球から見ると太陽からある程度以上は離れることはないが、外惑星は太陽の反対側へも回り込む。

プトレマイオスの体系では、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていた。この配列で水星、金星、太陽を見ると、この順に離心円の径が大きくなる。しかし、ティコはこれらを同じにした。周転円が重なり合うことを問題にしなければこれができ、これに応じて周転円の径を変えると地球からの視方向が同じであるものができる。この系では太陽の回りを水星、金星が回る。さらに外惑星も同じようにできるが、この場合は離心円の径と周転円の径の大小が反転する。しかし、元々 離心円の径 > 周転円の径 であったのは、周転円同士が重なり合わないための要請で、それを取り払うと問題ではなくなる。すなわち、ティコが破ったプトレマイオスの掟は周転円同士の重なりであった

16世紀ニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた後にも、天動説を脅かす事件は続いた。新星が観測されたことは、恒星の中にも変化が見つかったことになる。月より遠方ではいかなる変化も起きないというアリストテレス的宇宙観にとって、これは大きな問題となった。さらに、ティコ・ブラーエ彗星を観測し、この天体が月より遠方にあるとする結果を得た。更に17世紀になって望遠鏡が発明され、天動説に不利な観測結果が次々ともたらされる。これらは激しい論争を巻き起こした。天動説の優位性は、太陽の周りを地球が公転するなら月は軌道を保てずに飛んで行ってしまうであろうという批判に対し、当時の地動説が反証できなかった点にあった。しかし、1610年ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を用いて木星衛星があることを発見した。この発見により、天動説は木星の月が飛んでいってしまわない理由の説明に窮した。

さらに、ヨハネス・ケプラーの新たな理論が登場する。彼は、各々の惑星が太陽を通るある軌道麺の上にのっていること、ただしそれらは互いに傾いているとした。コペルニクスの理論においては、惑星の地球の軌道面からのずれが地球の位置に依存してきまるという、極めて不合理で複雑な理論になっていた。これは、プトレマイオスの黄緯の理論から出発したからである。ティコもまた、惑星の黄緯の理論には手を焼いていた。ケプラーによれば「コペルニクスは自らの仮説の豊かさに気が付かなかった」のである。また、ティコの精密な観測データを説明するため、これまで以上に精度に拘って理論を探索した結果、彼は惑星の運動は楕円運動であることなどを主張する、いわゆるケプラーの法則を発見する。ケプラーの説は天動説やそれ以前の地動説モデルよりも遥かにシンプルに天体運行を説明でき、しかもケプラーの法則に基づくルドルフ表(天文表)の正確さが誰の目にも明らかになり議論は収束に向かった。

恒星の年周視差が未だ観測できないという地動説モデルの弱点は、これら一連の発見の前には些事でしかなかった。ニュートンは、ケプラーの法則を支持する慣性の概念を始めとした運動の法則、および万有引力の法則という普遍的な法則を導きだした。これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力及び月が飛ばされない理由に回答を与えた。さらに、惑星に限らず、石ころから恒星まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった。これらの圧倒的な功績によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった。

しかし、カトリックが公式に地動説を支持したのは21世紀に入ってからのことで、1992年10月31日におけるローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のガリレオに対する公式謝罪[37]を経て、2008年12月21日ベネディクト16世が公式に地動説を認めた[38]。ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』を上梓してから340年、ガリレオが異端とされた宗教裁判より実に400年近くが過ぎての認定であった。

他文明の宇宙論[編集]

高度な数理天文学を備えた宇宙論で、古代ギリシア系統とは異なる系統に属するものとしては、中国の宇宙論がある。以前に起源をもつ時代より蓋天説に加え、後漢から盛んになった渾天説や、無限宇宙論として有名な宣夜説があったが、後漢以降は渾天説が主流であった。これは、平板な大地をくるむようにして宇宙が展開しており、その点では天動説に類似している。しかし、大地の形を平面と見、また天体の運動については、天球表面の運動に専念し、三次元的な運動を幾何的に論じることはなかった。他文明において、古代ギリシアに先行するメソポタミア文明では、精緻な数理天文学が展開し、古代ギリシアに大きな影響を与えた。また、インドでは、ギリシア系天文学の到来以前は、須弥山説に依っていた。

地動説後の宇宙観[編集]

地動説以降、宇宙の中心は地球ではなく、太陽にあると考えられるようになった。例えば宇宙空間での恒星の分布図を描いたウィリアム・ハーシェルは、太陽が銀河系の中心に存在すると考えていた。しかし、その後、太陽は宇宙の中心ではない事が明らかになった。ニュートンの力学法則は、結果的に旧来の地動説をも葬り去ることになった。そして恒星の年周視差の評価から、恒星が非常に遠方にあることが判明し、にもかかわらず恒星の光が届くことから、恒星が太陽に匹敵、もしくはそれ以上に明るく輝く天体である事が明らかになった。つまり太陽もまた、宇宙に数多く存在する恒星のひとつに過ぎない。

現在では太陽は銀河系を構成する無数の星の1つとして、他の星々と共に銀河系の中心の周りを回っていることが知られており、銀河系の中心からは約26,000 - 35,000光年の距離にある。その銀河系もまたこの宇宙で移動し続ける、無数の銀河の1つに過ぎないことが知られている。すなわち、太陽が宇宙の中心であるとする古典的な地動説は間違いであった。

現代の一般的な宇宙観では、宇宙のどこかに中心があるという考えを支持しない。宇宙には特別な場所も方向も存在しないのであり、この考え方を宇宙原理という。ただし、計算のためにはどこかに座標原点をえらばねばならず、また、太陽などを静止するとする座標系も、近似計算には有用である。

脚注[編集]

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  1. ^ ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』X巻
  2. ^ 天体論 (アリストテレス)』第I、II巻および『形而上学 (アリストテレス)』Λ巻
  3. ^ 自然学 (アリストテレス)』など
  4. ^ Hasse, Dag Nikolaus. “AVERROES’ CRITIQUE OF PTOLEMY AND ITS RECEPTION BY JOHN OF JANDUN AND AGOSTINO NIFO.” Averroes’ Natural Philosophy and Its Reception in the Latin West, edited by Paul J.J.M. Bakker, vol. 50, Leuven University Press, Leuven (Belgium), 2015, pp. 69–88. JSTOR, www.jstor.org/stable/j.ctt1b9x1jn.6. Accessed 27 Feb. 2021.
  5. ^ インドの幾何学的な天文学のギリシャ起源説には、直接的な証拠はなく、どのような文書が伝来したのかも全く分からない。理論の内容の比較などによる推測に強く依存しており、異論の余地がないわけではない。ギリシャ系天文学のインドへの伝搬に関する様々な議論については、K. Plofker, Mathematics in India, Princeton University Press, 2009, 4.6節を参照。
  6. ^ ケーララ学派およびそれ以前の惑星理論の概要は、、Ramasubramanian K. (2015) Kerala School of Astronomy. In: Ruggles C. (eds) Handbook of Archaeoastronomy and Ethnoastronomy. Springer, New York および Ramasubramanian, K., “Model of planetary motion in the works of Kerala astronomers”, Bulletin of the Astronomical Society of India, vol. 26, p. 11, 1998.
  7. ^ 三村太郎『天文学の誕生-イスラーム文化の役割』岩波書店 2010
  8. ^ Swerdlow NM, Neugebauer O (1984) Mathematical astronomy in Copernicus’ De revolutionibus. Springer, New York, p.483
  9. ^ https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2009/shiryo/kaisetsu07.html
  10. ^ https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2009/shiryo/kaisetsu08.html https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/035/ など
  11. ^ Carman, C.C. The first Copernican was Copernicus: the difference between Pre-Copernican and Copernican heliocentrism. Arch. Hist. Exact Sci. 72, 1–20 (2018). https://doi.org/10.1007/s00407-017-0198-3
  12. ^ Neugebauer, O., Astronomy and History - Selected Essays Springer (1983), pp. 305-.
  13. ^ Paul Lettinck, Aristotle's Meteorology and its reception in the Arab world. with an Edition and translation of Ibn Suwār's Treatise on Meteorological Phenomena and Ibn Bājja's commentary on the Meteorology, Aristoteles Semitico-Latinus Vol. 10. pp. ix, 505. Leiden, Brill, 1999
  14. ^ 全般的には、Paul Lettinck, 1999, Chap. II を参照。天の川についてはEckart, A. (2018). THE EARLY GREAT DEBATE: A COMMENT ON IBN AL-HAYTHAM‘S WORK ON THE LOCATION OF THE MILKY WAY WITH RESPECT TO THE EARTH. Arabic Sciences and Philosophy, 28(1), 1-30. doi:10.1017/S0957423917000078, 月の模様については、鈴木孝典, 月の模様に関するアラビアの論考 : イブン・アル=ハイサムの『月の模様について』, 東海大学紀要. 開発工学部 創刊号, 27-44, 1992-03-30
  15. ^ ただし、イブン・スィーナーは記録を残している。Neuhäuser R, Ehrig‐Eggert C, Kunitzsch P. An Arabic report about supernova SN 1006 by Ibn Sına (Avicenna). Astrono. Nachr./AN. 2017; 338: 19– 25. https://doi.org/10.1002/asna.201613200 を参照。また、医師で占星術に造詣の深かった、Ali ibn Radiwan は詳しい記述を残している。https://muslimheritage.com/ibn-ridhwan-observ-supernova-1006/ 
  16. ^ 『アルマゲスト』の月の理論については、 https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B7EEA4CEB8F8C5BEB1BFC6B0.html。
  17. ^ 『アルマゲスト』の黄緯のモデルとその問題点およびコペルニクスへの影響については、Swerdlow, N.M. 2005. Ptolemy’s theories of the latitude of the planets in the Almagest, handy tables, and planetary hypotheses. In Wrong for the right reasons, ed. J.Z. Buchwald, and A. Franklin, 41–71 (Springer) が詳しい。本論文には、『惑星仮説』のモデルがはるかに優れていたが、後にほとんど影響を与えなかったことも述べている。中世アラビア語圏における展開およびインド天文学での扱いについては、Mozaffari, S.M. Planetary latitudes in medieval Islamic astronomy: an analysis of the non-Ptolemaic latitude parameter values in the Maragha and Samarqand astronomical traditions. Arch. Hist. Exact Sci. 70, 513–541 (2016).
  18. ^ Lorch, R.P. (1975), The Astronomy of Jãbir ibn Aflah. Centaurus, 19: 85-107.
  19. ^ Mozaffari, S. (2014). A Case Study of How Natural Phenomena Were Justified in Medieval Science: The Situation of Annular Eclipses in Medieval Astronomy. Science in Context, 27(1), 33-47.
  20. ^ S. Mohammad Mozaffari, Wābkanawīʼs prediction and calculations of the annular solar eclipse of 30 January 1283, Historia Mathematica, Volume 40, Issue 3, 2013, Pages 235-261, Mozaffari, S. (2014). A Case Study of How Natural Phenomena Were Justified in Medieval Science: The Situation of Annular Eclipses in Medieval Astronomy. Science in Context, 27(1), 33-47. doi:10.1017/S0269889713000379
  21. ^ Ramasubramanian K. (2015) Kerala School of Astronomy. In: Ruggles C. (eds) Handbook of Archaeoastronomy and Ethnoastronomy. Springer, New York, NY.
  22. ^ Kim Polfker, Mathematics in India, Princeton University Press (2009), pp.250- 及び Pingree, David. Nilakantha’s planetary models. Journal of Indian Philosophy 29, 2001, 187–195.
  23. ^ Ramasubramanian K. (2015) 及び Ramasubramanian, K., “Model of planetary motion in the works of Kerala astronomers”, Bulletin of the Astronomical Society of India, vol. 26, p. 11, 1998.
  24. ^ 数学以外のインド的要素の残存については、Mozaffari SM. The Orbital Elements of Venus in Medieval Islamic Astronomy: Interaction Between Traditions and the Accuracy of Observations. Journal for the History of Astronomy. 2019;50(1):46-81. doi:10.1177/0021828618808877 などを参照。
  25. ^ ただし、イスラム教などの宗教の教義では特に正確な日時の決定を求めてはいない。
  26. ^ 金環食と同心球体説との関係についての、古代および中世の議論については、Mozaffari, S. (2014). A Case Study of How Natural Phenomena Were Justified in Medieval Science: The Situation of Annular Eclipses in Medieval Astronomy. Science in Context, 27(1), 33-47. など。
  27. ^ 鈴木孝典『アリストテレス自然学に対するビールーニーの疑問』総合教育センター紀要 (24), 43-57, 2004、東海大学、Berjak, Rafik, and Muzaffar Iqbal. "Ibn Sina--al-Biruni correspondence." Islam & Science, vol. 3, no. 1, 2005, p. 57
  28. ^ Rashed, R. (1999). Al-qūhī Vs. Aristotle: On Motion. Arabic Sciences and Philosophy, 9(1), 7-24.
  29. ^ 三浦伸夫『アラビア数学における幾何学的発想の起源と展開 クーヒーの幾何学的著作から』国際文化学研究 (25), 65-106, 2006-01 神戸大学 に「地球の中心と流星との間の距離を知ることについて」なるクーヒーの著作の手短な概要がある。また、Rashed, R. (2001). Al-Qūhī: From Meteorology to Astronomy. Arabic Sciences and Philosophy, 11(2), 157-204.を参照のこと
  30. ^ Eckart, A. (2018). THE EARLY GREAT DEBATE: A COMMENT ON IBN AL-HAYTHAM‘S WORK ON THE LOCATION OF THE MILKY WAY WITH RESPECT TO THE EARTH. Arabic Sciences and Philosophy, 28(1), 1-30. doi:10.1017/S0957423917000078
  31. ^ 鈴木孝典, 月の模様に関するアラビアの論考 : イブン・アル=ハイサムの『月の模様について』, 東海大学紀要. 開発工学部 創刊号, 27-44, 1992-03-30
  32. ^ Puig R. (2007) Zarqālī: Abū Isḥāq Ibrāhīm ibn Yaḥyā al‐Naqqāsh al‐Tujībī al‐Zarqālī. In: Hockey T. et al. (eds) The Biographical Encyclopedia of Astronomers. Springer, New York, https://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Zarqali_BEA.htm
  33. ^ Calvo E. (2007) Ibn Muҁādh: Abū ҁAbd Allāh Muḥammad ibn Muҁādh al‐Jayyānī. In: Hockey T. et al. (eds) The Biographical Encyclopedia of Astronomers. Springer, https://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Ibn_Muadh_BEA.htm
  34. ^ Hasse, Dag Nikolaus. “AVERROES’ CRITIQUE OF PTOLEMY AND ITS RECEPTION BY JOHN OF JANDUN AND AGOSTINO NIFO.” Averroes’ Natural Philosophy and Its Reception in the Latin West, edited by Paul J.J.M. Bakker, vol. 50, Leuven University Press, Leuven (Belgium), 2015, pp. 69–88. JSTOR, www.jstor.org/stable/j.ctt1b9x1jn.6. Accessed 27 Feb. 2021.
  35. ^ Samsó J. (2007) Biṭrūjī: Nūr al‐Dīn Abū Isḥāq [Abū Jaҁfar]Ibrāhīm ibn Yūsuf al‐Biṭrūjī. In: Hockey T. et al. (eds) The Biographical Encyclopedia of Astronomers. Springer, https://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Bitruji_BEA.htm
  36. ^ その中で最も確実と思われるのは、ビザンツ帝国からローマに伝わったギリシャ語の草稿で、コペルニクスのツゥーシーの対円の図が点の名前を含めて類似していることが見出されている。しかし、仮にこれを筆写の証拠と認めても、この簡単な草稿だけでは理論の全貌は伝わりようがない。
  37. ^ 時事ドットコムニュース 今日は何の日?
  38. ^ ローマ法王、地動説初めて認める/ベネディクト16世 四国新聞社 2008年12月22日 21:43

参考文献[編集]

  • スワンテ・アーレニウス『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』寺田寅彦訳、岩波書店岩波文庫〉、1951年12月。ISBN 4-00-339301-5
  • ガリレオ・ガリレイ『天文対話』上下巻、青木靖三訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1959年、1961年。上巻: ISBN 4-00-339061-X、下巻: ISBN 4-00-339062-8
  • コペルニクス『天體の囘轉について』矢島祐利訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1953年。ISBN 4-00-339051-2
  • プトレマイオス『アルマゲスト』上下巻、薮内清訳、恒星社厚生閣、1958年。
    • プトレマイオス『アルマゲスト』薮内清訳、恒星社厚生閣、1982年3月。NCID BN01292971
    • プトレマイオス『アルマゲスト』薮内清訳、恒星社厚生閣、1993年7月。ISBN 4-7699-0754-0
  • Swerdlow, N.M. 2005. Ptolemy’s theories of the latitude of the planets in the Almagest, handy tables, and planetary hypotheses. In Wrong for the right reasons, ed. J.Z. Buchwald, and A. Franklin, 41–71 (Springer)

外部リンク[編集]