11世紀

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千年紀: 2千年紀
世紀: 10世紀 - 11世紀 - 12世紀
十年紀: 1000年代 1010年代 1020年代 1030年代 1040年代
1050年代 1060年代 1070年代 1080年代 1090年代
カノッサの屈辱。教皇権の伸長は皇帝権との間で衝突を生み出し、叙任権闘争を激化させた。画像は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(中央)と、破門された彼を教皇グレゴリウス7世にとりなすトスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。
バイユーのタペストリーに描かれたヘイスティングズの戦いにおけるイングランド王ハロルド2世の死。この戦いに勝利したノルマンディー公ギョーム2世がイングランド王ウィリアム1世になる。
マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。
紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。
宇治平等院鳳凰堂阿弥陀仏極楽浄土に往生すること(浄土思想)を願う関白藤原頼通によって建てられた。
山西省応県の仏宮寺釈迦塔(応県木塔)。遼の章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔。
北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。
山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。
敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。
チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。
カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。
シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。
イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。
「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンイランカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派アラムート要塞もある。
商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアウォルターズ美術館蔵)。
キリストと東ローマ皇帝コンスタンティノス9世と皇后ゾエの肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生した。画像はハギア・ソフィア大聖堂内のモザイク画。
第1回十字軍。西ヨーロッパのキリスト教徒は血みどろの戦いにより聖地エルサレムをイスラム勢力から奪還した。画像は13世紀に描かれたエルサレム攻囲戦の細密画。
トゥーラ=シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコ後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。

11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀2千年紀における最初の世紀である。この項目では、国際的な視点に基づいた11世紀について記載する。

11世紀の歴史[編集]

イスラム圏[編集]

11世紀は、西アジアトルコ系のイスラム王朝ガズニ朝セルジューク朝の台頭が著しく、前者は北インドに侵入しインドのイスラム化の契機をつくり、後者は東ローマ帝国を打ち破って、小アジアにまで勢力を伸ばした。北アフリカモロッコ近辺ではムラービト朝などベルベル人のイスラム王朝の台頭が始まって、レコンキスタを停滞させる一方、サハラ交易で繁栄したガーナ王国を滅ぼした。

ヨーロッパ[編集]

東ヨーロッパでは東ローマ帝国が第一次ブルガリア帝国を征服してバルカン半島全土を回復して最盛期を迎えるが、11世紀後半に入ると衰退に転じ、国内の反乱やセルジューク朝、ノルマン人などの外敵に悩まされることになる。西ヨーロッパでは教皇権が伸長する一方、東西教会の分裂が起こっている。また、東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端で、十字軍の遠征が開始された。

東アジア・東南アジア[編集]

東南アジア南インドでは、1025年を境にシュリーヴィジャヤの衰退と、チョーラ朝クディリ王国が全盛を極めた。東アジアでは、北宋の経済的繁栄は続くものの、西夏への歳幣の負担と社会的格差の進行が重くのしかかり、王安石の改革が始まった。

日本では平安時代中期から後期の初めにあたる。院政の開始以降を中世に区分する場合がある。11世紀の前半から中葉にかけては、藤原北家による摂関政治が全盛を極めたが、地方では国司苛政上訴が行なわれ、小領主の有力武士が台頭していた。名目的な寄進荘園に課税するなど税の公平さを保つために荘園整理令が行なわれた。11世紀の後半になると藤原氏の力が及ばない後三条天皇の親政が契機となり、院政がはじまった(院政時代)。荘園公領制はこの院政期を通じて発展していくことになる。

できごと[編集]


1000年代[編集]

1010年代[編集]

1020年代[編集]

  • 1020年 - 遼と高麗が和平を結び、高麗は遼の服属国となる。
  • 1021年 - ファーティマ朝カリフのハーキムが消息不明となる。
    • ハーキムの子ザーヒルがカリフとなり、姉シットゥ・アル・ムルクが摂政となる。
  • 1022年 - フランス王ロベール2世の命によりオルレアン異端者に対する最初の火刑が行われる。
  • 1023年 - 北宋で交子が紙幣として発行される(世界最古の紙幣)。
  • 1025年
  • 1027年 - エルヌ教会会議(トゥールージュ会議)で「神の休戦(トレグア・デイ)」が布告される。
  • 1028年

1030年代[編集]

1040年代[編集]

1050年代[編集]

1060年代[編集]

1070年代[編集]

1080年代[編集]

1090年代[編集]

1100年代[編集]

  • 1100年 - 北宋で哲宗の死去により徽宗即位。欽聖太后が摂政となり新法・旧法両党から登用し融和を促す( - 1101年)。

フィクションのできごと[編集]

  • 1021年以降 - イングランド生まれのロブ・コールが医師になる志を持ち、当時最高の医学を求めエスファハーンイブン・スィーナーのもとへと旅立つ(ノア・ゴードン『ペルシアの彼方へ 千年医師物語』)。
  • 1025年 - 洛北紫野の雲林院菩提講にて190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹がそこに集まった聴衆に向けて昔語りをする(『大鏡』)。
  • 1040年 - スコットランドの将軍マクベス三人の魔女英語版たちから「王になる」との予言を受け、国王ダンカン1世を殺害する(シェークスピアマクベス』)。
  • 1075年 - 1094 - 陸奥国掾岩城正氏の子である厨子王が関白藤原師実の知己を得て丹後の国司に赴任し、かつて厨子王とその姉安寿に虐待を加えた山椒大夫に復讐を果たす(説教節「山椒大夫」/森鴎外『山椒大夫』)。

人物[編集]

キリスト教世界[編集]

神聖ローマ帝国[編集]

イタリア[編集]

フランス[編集]

イングランド[編集]

スコットランド[編集]

北欧[編集]

東ローマ帝国[編集]

東欧[編集]

十字軍国家[編集]

イベリア半島[編集]

イスラム世界[編集]

南アジア・チベット[編集]

東南アジア[編集]

東アジア[編集]

北宋[編集]

  • 寇準961年 - 1023年) - 北宋の宰相・南遷を拒絶して真宗皇帝の契丹親征を主張し澶淵の盟にもちこむ
  • 王欽若962年 - 1025年) - 北宋の宰相・遼の南進に際しては南遷を主張・真宗に封禅を勧め『冊府元亀』の編纂も行う
  • 林逋967年 - 1028年) - 北宋の詩人・西湖中の孤山に隠棲し詩作した・『林和靖先生詩集』がある
  • 真宗968年 - 1022年) - 北宋の第3代皇帝(在位997年 - 1022年)・遼と澶淵の盟を結ぶ
  • 張君房(生没年不詳) - 北宋の道士・真宗皇帝の命で道蔵「大宋天宮宝蔵」を編纂し後に要約本「雲笈七籤」を撰述
  • 范寬(活躍時期11世紀前半) - 北宋の山水画家・山林に分け入り自然観察を重視・代表作に「谿山行旅図」がある
  • 范仲淹989年 - 1052年) - 北宋の政治家・仁宗に仕え「君子の朋党」を称す・「龍圖老子」と呼ばれ「先憂後楽」の語でも有名
  • 畢昇(? - 1052年頃) - 北宋の技術者・慶暦年間に膠泥活字を用いて印刷を行ったとされる
  • 欧陽脩1007年 - 1072年) - 北宋の政治家・詩人・文学者・歴史学者・唐宋八大家の一人・『新五代史』『新唐書』を編纂
  • 韓琦1008年 - 1072年) - 北宋の政治家・仁宗から神宗に仕える・四川の飢饉や西夏の侵攻に対処し王安石の改革には反対
  • 蘇洵1009年 - 1066年) - 北宋の文人で唐宋八大家の一人・蘇軾蘇轍兄弟の父・著作に『蘇老泉全集』がある
  • 邵雍1011年 - 1077年) - 北宋の儒学者・北宋の五子の一人・官途にはつかず市井で活躍・易学に詳しく「先天図」を大成
  • 周敦頤1017年 - 1073年) - 北宋の儒学者・宋学の祖とされる・『太極図説』の著者・北宋の五子の一人
  • 曾鞏1019年 - 1083年) - 北宋の政治家・散文家・唐宋八大家の一人・著作に『元豊類藁』がある・曾布は異母弟
  • 司馬光1019年 - 1086年) - 北宋の政治家(旧法党)・元祐更化で新法を廃止・歴史学者として『資治通鑑』がある
  • 張載1020年 - 1077年) - 北宋の儒学者・宋学の「周程張朱」の一人として名を成す・北宋の五子の一人
  • 王安石1021年 - 1086年) - 北宋の政治家(新法党)・神宗のもとで熙寧新法を実施・唐宋八大家の一人
  • 郭煕1023年頃 - 1085年頃) - 北宋の山水画家・李成と並んで「李郭」と呼ばれる・代表作に「早春図」がある
  • 沈括1030年 - 1094年) - 北宋の政治家・学者・『夢渓筆談』は中国の科学技術史の記録として重要
  • 呂恵卿(1032年 - 1111年) - 北宋の政治家・司農寺長官として王安石の改革を支えるがのちに反目する
  • 宣仁太后1032年 - 1093年) - 北宋の英宗の皇后(高氏)・神宗の死後に哲宗の摂政となり旧法党の元祐更化を支持
  • 程顥1032年 - 1085年) - 北宋の政治家・儒学者・弟の程頤とともに「二程子」と称される・北宋の五子の一人
  • 程頤1033年 - 1107年) - 北宋の政治家・儒学者・兄の程顥とともに「二程子」と称される・北宋の五子の一人
  • 章惇1035年 - 1105年) - 北宋の政治家・哲宗の親政(紹聖の紹述)とともに新法を復活し旧法党を弾圧する
  • 曾布1036年 - 1107年) - 北宋の政治家・曾鞏の異母弟・章惇失脚後の新法党の中心となり向太后政権を支える
  • 蘇軾1037年 - 1101年) - 北宋の政治家・文人として唐宋八大家の一人・書家として宋の四大家の一人・代表作に「赤壁賦」がある
  • 蘇轍1039年 - 1112年) - 北宋の政治家・文人として唐宋八大家の一人・蘇軾の弟・『欒城集』ほかの著作がある
  • 黄庭堅1045年 - 1105年) - 北宋の文学者・書家・画家・書家・宋の四大家の一人・代表作に「伏波神祠詩巻」がある
  • 神宗1048年 - 1085年) - 北宋の第6代皇帝(在位1067年 - 1085年) ・王安石の新法を支持し元豊の改革を推進
  • 欽聖太后1046年 - 1101年) - 北宋の神宗の皇后(向氏)・哲宗の死後に徽宗の摂政となり新法党と旧法党の融和を図る
  • 米芾1051年 - 1107年) - 北宋の文学者・書家・画家・収蔵家・宋の四大家の一人・代表作に「蜀素帖」がある

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西夏[編集]

大越[編集]

日本[編集]

脚注[編集]

注釈

出典

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関連項目[編集]