慈聖光献曹皇后

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曹皇后(そうこうごう、1016年 - 1079年)は、北宋の第4代皇帝仁宗皇后慈聖光献

生涯[編集]

建国の功臣・曹彬の曾孫として生まれる。明道2年(1033年)、郭皇后が廃されたため皇后として招聘され、景祐元年(1034年)に皇后として冊立される。慈悲深く質実な人柄で、禁苑に畑を作って種々の穀物を育て、また養蚕を好み、布帛を作ることに巧みであった。

慶暦8年(1048年)の正月三日、宮中の衛兵が乱を起こし、寝殿へ侵入した。このとき、皇后はまさに仁宗の側にいたが、いちはやく異変を察して扉を封じ、都知事の王守忠に命じて軍隊を派遣させた。また、賊が火を放つことを懸念して、密かに人をやって水を撒かせておいたところ、はたして賊は松明を簾へ投げてきたが、全て水に浸かって消えてしまった。夕方になると、皇后は待機していた侍臣らのもとへ赴き、手ずからその髪を切り「明日の論功行賞で、あなた方がここにいたことを、この切られた髪で示しなさい。」と言った。これによって彼らは大いに奮起し、死力を尽くして戦ったので、反乱は忽ち鎮圧された。

あるとき、妃嬪の一人である張妃(温成張貴妃とは別人)が、曹皇后が寵愛されていることを妬み、皇帝に讒言して皇后が追放されるようにと画策した。折しも、曹皇后が帝を呼び出し、それに平然としていたため、張妃はこのことを仁宗へ告げ口した。すると、仁宗は「国家に制度や儀礼があるように、上下にも秩序があるのだ。張妃よ、お前が朝廷へ出て行ったなら、朝廷ではお前をそこへ置いておかないものだ。」と、逆に張妃をたしなめた。それきり、張妃は曹皇后を悪し様に言うことをやめた。

嘉祐8年(1063年)、仁宗が急死すると、曹皇后は皇太后として4歳の英宗を補佐し、朝政に臨んだ。後に英宗が病にかかると、皇太后に対して国事に関する権限を同じくするよう請い、太后は後宮ではなく、朝廷で政治を見ていた。しかし、決して我意を通すようなことはせず、未決の奏事があるときは「皆さんでもう一度、審議なさい」と言い渡すのが常であった。よく経書や史書をひもといて決済の助けとし、自分の仕事は人任せにせず寸暇を惜しんで務めたため、官省の勤務態度も粛然とした。

神宗が即位すると、曹氏を尊んで太皇太后とし、その住まいを慶寿宮と命名した。神宗はすこぶる孝行心が厚く、曹后を迎えるときはあらゆるもてなしを行い、彼女に同行するときは常に先払いして歩くほどであった。曹后もまた、朝夕に屏風の陰から皇帝に挨拶し、自ら膳を運ばせて親しく会食することもあった。曹皇后が水疾を患い危篤に陥ると、神宗は寝食も忘れて付き添ったという。

元豊2年(1079年)冬、曹皇后は崩御し、永昭陵に葬られた。

神宗の治世は、王安石が新法による改革を実行した時期に当たる。曹后は改革に対し、性急に法を改めるべきではないと考えており、そのように神宗へ意見したという記事が『宋書』に見える。

あるとき、神宗が曹后のもとへ赴くと、后は言った。「昔、私は民が苦しんでいると聞くと、必ず仁宗陛下にこれを伝え、そのお許しを得て行動を起こしてきました。今、それをあなたにも行おうと思います。」神宗が「今、そのような事柄があるでしょうか」と言ったところ、曹后は「今の民は、青苗や助役の法に苦しんでいると聞きます。このような法は、おやめになって下さい。王安石はまことに才知と学問を備えた人物ではありますが、彼を恨む者もはなはだ多いのです。帝におかれては、安石を愛惜するあまりこれを庇っておられますが、しばらくは彼を国事の外へ追うべきです。」と諫めた。

しかし、仁宗の治世末期から深刻化してきた社会的・政治的な矛盾に対して、行動を起こす必要性を感じていた神宗はそれを容れず、王安石を支持し続けた。一方、曹后の方は蘇軾の恩赦を願い出ている。蘇軾は人となり傍若無人なところがあり、加えて直言の人であったため、投獄されている間、彼の死罪を求める運動が広がっていたという。蘇軾と蘇轍は、仁宗の頃に制科の功績があったため、曹后はこれを理由に赦免を願い出た。これには神宗も折れたという。