楊宗妙

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楊 宗妙(よう そうみょう、1019年 - 1073年)は、北宋仁宗の修儀(側室)。

生涯[編集]

曹州定陶県の人。侍衛の楊忠の娘。初め、原武郡君に封ぜられ、正四品美人に進んだ。仁宗は楊美人の父を昇進させたいと思ったが、楊美人は「外官当積労以取貴、今以恩沢徼幸、恐啓左右詖謁之端[要説明]」と言った。これは仁宗を喜ばせ、楊美人の5人の親族に官職が与えられた。楊美人は尚美人とともに仁宗の寵愛を受け、郭皇后としばしば諍いを起こした。

明道2年(1033年)、尚美人が仁宗の御前において、皇后の言葉を遮って話すという無礼を犯した。怒った郭皇后が尚美人の頬を叩こうとしたところ、止めに入った仁宗の顔を誤って叩いてしまい、また皇后の爪が仁宗の頬を傷つけた。激怒した仁宗は郭皇后を浄妃に降格した。尚美人は得意のあまり、しばしば朝政に干渉し、楊美人と仁宗を誘って酒色に溺れた。楊太后に諫められ、仁宗は尚美人とも楊美人とも疎遠になった。景祐元年(1034年)、郭妃は瑤華宮に移り、尚美人も廃されて洞真宮で道姑として出家、楊美人も別宅に置かれることとなった。同年、曹氏が皇后として冊立された。

しかし後年、仁宗と曹皇后との仲が悪くなると、楊氏は尚氏とともに皇宮に召され、美人に復された。楊美人は女子を1人産んだが、夭折した。皇祐2年7月2日(1050年7月29日)、尚美人は薨去し充儀(正二品嬪)を贈られ、楊美人も正三品婕妤に上った。

英宗嘉祐8年(1063年)3月、修儀(正二品嬪)の位に進んだ。熙寧5年12月(1073年)薨去し、徳妃の位を贈られた。

女子[編集]

伝記資料[編集]

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』
  • 『皇宋通鑑長編記事本末』