李鳳娘

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李 鳳娘(り ほうじょう、1145年 - 1200年7月23日)は、南宋光宗の皇后。慈懿皇后(じいこうごう)とされた。

生涯[編集]

慈懿皇后李鳳娘

相州安陽の人。李道と妻の張氏の娘。隆興2年(1164年)、恭王趙惇(後の光宗)にとつぎ、栄国夫人に封ぜられた。乾道4年(1168年)、趙拡(後の寧宗)を生んだ。同7年(1171年)、皇太子妃となった。淳熙16年(1189年)、光宗が即位すると、皇后に冊立された。

光宗は早く即位したがったが、父の孝宗は躊躇し、光宗は恨みを抱いた。光宗が即位すると、鳳娘は趙拡を皇太子に立てるよう願ったが、太上皇の孝宗に反対された。鳳娘は「拡は長男であり、本妻である私の実の子です[1]。なぜ駄目なのですか。」と抗議した。その後、太上皇が廃立を企んでいると光宗に讒言した。光宗は皇后の言に惑わされて、父と険悪な関係になった。鳳娘はまたきわめて嫉妬深く、宮女の虐殺を行い、光宗の寵愛を受けていた黄貴妃をも殺害した。

紹熙5年(1194年)に孝宗が崩ずると、光宗が喪を執り行わなかったので、群臣らの憤りを引き起こした。老齢の太皇太后呉氏趙汝愚韓侂冑などと協力して垂簾聴政し、光宗の廃位を宣布の上、寧宗を立てた。鳳娘は寿仁太上皇后の号を贈られ、寿儀殿にうつった。慶元6年6月4日(1200年7月23日)、崩御した。

逸話[編集]

「黒い鳳凰」と呼ばれるほどの凶暴な美女であった。光宗が侍女の美しい手を誉めれば、李鳳娘はその手を切り取って盆に盛り、光宗に捧げた。黄貴妃を殺害した時には、光宗が官員たちと祭祀中にもかかわらず、すぐさま知らせた。これに強いショックを受けた光宗は祭祀を中止し、李鳳娘は自ら祭壇へ行って光宗と直接話した。

脚注[編集]

  1. ^ 孝宗は高宗の養子、孝宗の后の太上皇后謝氏は側室上がりの継妻、また光宗は孝宗の三男であった。

伝記資料[編集]

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』
  • 『建炎以来朝野雑記』