蘇軾
蘇 軾(そ しょく、拼音: 、景祐3年12月19日(1037年1月8日) - 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は、中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、
生涯[編集]
眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身である[2]。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる[2]。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した[1]。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた[3]。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた[3]。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた[3]。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため[4]、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された[2]。最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である[2]。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受ける事になる。この時、御史台の取り調べの際に蘇軾が残した供述書は、後に「烏台詩案」と呼ばれ、問題とされた蘇軾の作品への彼自身の解釈が述べられている。この「烏台詩案」を書き残した時は死を覚悟していたが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった[2]。 左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した[2]。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた[2]。平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした[2]。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破ったことで知られる[2]。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる[2]。
元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位すると、幼い哲宗に代わって宣仁太后の垂簾朝政が8年間続く。彼女の後押しも有って旧法党の官僚は要職に就き、元豊9年(1086年)には司馬光は宰相となる。蘇軾も同時期に名誉を回復され50歳で中央の官界に復帰し、翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した。[5]。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争し、次第に旧法派の内部の分裂が見られるようになる。司馬光の死後は対立が先鋭化し、蘇軾、蘇轍兄弟を中心にした蜀党と、程頤、程顥兄弟の洛党の二つの派閥が党争を起こす事になる。その後は紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された[5]。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった[5]。
詩人として[編集]
蘇軾は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』に纏められている。
題西林壁(西林壁に題す)
横看成嶺側成峰(横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる)
遠近高低各不同(遠近・高低いつも同じきは無し)
不識廬山真面目(廬山の真面目を知らざるは)
只縁身在此山中(ただ身のこの山中にあるによる)
また、王安石とは政治的に対立していた一方で、詩文を通じた交流が有った。要職を退いた後の王安石は蘇軾に対して以下の七言絶句を送っている。
北山
北山輸緑漲横陂 (北山緑を輸横陂漲る)
直塹回塘艶艶時 (直塹、回塘、艶艶たる時)
細數落花因坐久(細かに落花を數ふるは坐すること久しきに因る)
緩尋芳草得歸遲(緩やかに芳草を尋ねて歸ること遅きを得たり)
蘇軾はこれに対して
次荊公韻(荊公の韻に次す)
騎驢渺渺入荒陂(驢に騎って渺渺として荒陂に入る)
想見先生未病時(想見す先生の未だ病まざりし時を)
勧我試求三畝宅(我に勧めて試みに三畝の宅を求めしむ)
従公已覚十年遅(公に従うこと已に十年遅きを覚ゆ)
と、答えている。
※「荊公」は王安石のこと。
書家として[編集]
書家としても著名で、米芾・黄庭堅・蔡襄とともに宋の四大家と称される。蘇軾ははじめ二王(王羲之と王献之)を学び、後に顔真卿・楊凝式・李邕を学んだ。代表作に、「赤壁賦」(せきへきのふ)・『黄州寒食詩巻』などがある。『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんじきしかん、『寒食帖』(かんじきじょう)とも)は、元豊5年(1082年)47歳のとき、自詠の詩2首を書いた会心の作で、この2首は何れも元豊5年春、寒食節(清明節の前日)を迎えたときの詩である。縦33cmの澄心堂紙に行書で17行に書いたもので、「年」・「中」・「葦」・「帋」の字の収筆を長くして変化を出している。落款はないが、黄庭堅の傑作といわれる跋(『黄州寒食詩巻跋』)があり、両大家の代表作をあわせ見ることができる貴重な作品である。[6][7][8][9]
家庭[編集]
| 蘇軾の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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祖父:
父親:
母親:
兄弟姐妹:
蘇洵と程氏には三男三女があるが、長男の景先と三名の娘は皆早世している[10][11]。
- 蘇景先、早卒している。
- 蘇氏、蘇軾の一番上の姉、早卒している。
- 蘇氏、蘇軾の二番目の姉、早卒している。
- 蘇八娘(1035年—1052年)、蘇軾の三番目の姉で、16歳で母の兄の程濬の子程之才に嫁ぐ。二年後に夫の実家の虐待を受けて死亡している[12][13]。清朝の袁枚の『隨園詩話』には誤って蘇軾の妹としている[14]。
- 蘇轍、蘇軾の弟で、唐宋八大家の一人である。
伝説では、蘇軾に蘇小妹という妹がおり、成年後秦少游に嫁いだとされる[15]、また、虚構の人物として蘇軾より一切年長の蘇八娘がおり、蘇軾の弟である蘇轍は、自己を最も若いとしたという[16]。また、秦少游の之妻は徐文美であり、秦氏の家譜である『秦譜』には、秦少游が蘇氏の娘を娶ったという記述はない。
妻妾:
- 王弗、蘇軾の妻で、16歳の時に19歳の蘇軾と結婚した。結婚後の二人の間は親密であった。結婚後11年で、病により逝去している。時に27歳であった。蘇軾が40歳の時に作った詩で、亡妻を悼んでいる(江城子·乙卯正月二十日夜記夢)。
- 王閏之、蘇軾の妻で、王弗の妹である。王弗が逝去した三年後、蘇軾に嫁いでいる。蘇軾が58歳の時に逝去している。享年は46である。
- 王朝雲、蘇軾の妾で、もともとは歌妓であった。38歳の蘇軾が12歳の王朝雲を手に入れている。後に侍妾とした。蘇軾が流罪を受けても一緒にいた。紹聖三年、享年34で逝去した。
子女:
この外、宦官梁師成が蘇軾が梁姓友人の婢妾が産んだ子を「蘇軾出子」と自称しているが、蘇家によって否認されている。翰林学士の孫覿は蘇軾が人に送った婢妾の産んだ子を彼の私生子としている。
堂妹:
備考[編集]
中華料理のポピュラーな品目である「東坡肉」(トンポーロー、ブタの角煮)は、彼が黄州へ左遷させられた際に豚肉料理について詠じた詩からつけられたという。
蘇軾の死後、蔡京が握ると旧法党の弾圧が再び行われて遺族は困窮に悩まされていたが、かつて蘇軾の部下であった高俅(物語『水滸伝』では最大の悪役とされている)は蘇軾から受けた恩義に報いるために秘かに遺族を支援していたという。
日本語文献[編集]
| 蘇軾 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 蘇軾 |
| 簡体字: | 苏轼 |
| 拼音: | Sū Shì |
| 和名表記: | そしょく |
| 発音転記: | スー シー |
| ラテン字: | Su1 Shih4 |
| 英語名: | Su Shi |
注解[編集]
- 近藤光男編訳 『蘇軾』 集英社〈漢詩選11〉、1996年、初刊は1967年
- 近藤光男編訳 『蘇東坡』 小沢書店〈小沢クラシックス:中国名詩鑑賞7〉、1996年。初刊は集英社、上記の抄版
- 小川環樹・山本和義編訳 『蘇東坡詩選』 岩波文庫、1975年 重版多数
- 小川・山本編訳 『蘇軾』 岩波書店<中国詩人選集 2・3>、初版1962年/「新修 中国詩人選集6」、1983年
- 小川・山本共編 『蘇東坡詩集』 筑摩書房、1983-90年。第4冊目まで刊
- 飯田利行訳 『禅喜集』(全2巻)、国書刊行会、2003年
- 『唐宋八大家文読本〈蘇軾〉』、向嶋成美・高橋明郎訳著、王連旺編、明治書院<新書漢文大系39>、2018年
伝記・研究[編集]
- 田中克己 『蘇東坡』 研文出版、1983年
- 横田輝俊 『蘇東坡 天才詩人』 「中国の詩人-その詩と生涯11」集英社、1983年
- 石川忠久 『蘇東坡100選 漢詩をよむ』 NHK出版<NHKライブラリー>、2001年。入門書・選書判
- 山本和義 『詩人と造物 蘇軾論考』 研文出版、2002年
- 山本和義 『理と詩情 中国文学のうちそと』 研文出版〈研文選書〉、2012年。第1章「蘇軾研究」
- 山本和義 『中国詩文選19 蘇軾』 筑摩書房、1973年
- 小川・山本訳著 『中国文明選2 蘇東坡集』 朝日新聞社 1973年、再版1977年
- 内山精也 『蘇軾詩研究 宋代士大夫詩人の構造』 研文出版、2010年
- 林語堂 『蘇東坡』 合山究訳、講談社学術文庫(上下)、1987年、復刊2007年
刊行の古い文献[編集]
- 竺沙雅章 『蘇東坡』 <第2期 中国人物叢書6>人物往来社、1967年
- 佐伯富 『蘇東坡全集索引』 彙文(イブン)堂、1958年
- 久保天随 『蘇東坡全詩集』(全6巻組) 日本図書センター。戦前刊の復刻版
漫画[編集]
脚注[編集]
- ^ a b 興膳(2008年)182ページ
- ^ a b c d e f g h i j 興膳(2008年)183ページ
- ^ a b c 井ノ口(2012年)97ページ
- ^ 井ノ口(2012年)98ページ
- ^ a b c 興膳(2008年)200ページ
- ^ 木村卜堂 P.171 - 173
- ^ 書道辞典 P.31
- ^ 藤原鶴来 P.132 - 133
- ^ 鈴木翠軒 P.69 - 70
- ^ 蘇洵『祭亡妻文』:“有子六人,今誰在堂?惟軾與轍,僅存不亡。”
- ^ 欧陽脩『蘇明允墓誌銘』:“生三子:曰景先,早卒;軾,今為殿中臣直史館;轍,權大名府推官。三女皆早卒。”
- ^ 蘇洵『自尤(并叙)』:“蓋壬辰之歳而喪幼女,始将以尤其夫家,而卒以自尤也。女幼而好学、慷慨有過人之節、爲文亦往往有可喜。既適其母之兄程濬之子之才、年十有八而死。而濬本儒者、然内行有所不謹、而其妻子尤好爲無法。吾女介乎其間、因爲其家之所不悦。適會其病、其夫与其舅姑遂不之視而急棄之、使至于死。始其死時、余怨之、雖尤吾之人亦不直濬。獨余友發聞而深悲之、曰:‘夫彼何足尤者!子自知其賢、而不撰以予人,咎則在子、而尚誰怨?’予聞其言而深悲之。其後八年、而予乃作自尤詩。”
- ^ 蘇軾『乳母任氏墓誌銘』:“乳亡姊八娘及軾。”
- ^ 袁枚『隨園詩話』:“東坡止有二妹;一適柳,一適程也。今俗傳爲秦少游之妻,誤矣!”
- ^ 『的対』には、「東坡之妹,少游之妻也。」とある。
- ^ 蘇轍『祭亡兄端明文』:「念我伯仲、我處其季。」
参考文献[編集]
- 西川寧ほか 「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年)
- 木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)
- 鈴木翠軒・伊東参州 『新説和漢書道史』(日本習字普及協会、1996年11月)ISBN 978-4-8195-0145-3
- 藤原鶴来 『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X
- 西林昭一 『中国書道文化辞典』 (柳原出版、2009年6月) ISBN 4-8409-3018-X
- 井ノ口哲也著『入門中国思想史』(2011年)勁草書房
- 興膳宏著著『中国名文選』(2008年)岩波新書