反ユダヤ主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見を意味する[1]。 旧約聖書エステル記に離散したユダヤ人(ディアスポラ)に対する反ユダヤ的態度がすでに記述されており、 19世紀以降に人種説に基づく立場は反セム主義(はんセムしゅぎ、英語: Antisemitism)またはアンティセミティズムとも呼ばれる[1]

反ユダヤ主義の歴史[編集]

ドイツにおける「ユダヤ教徒解放」[編集]

  • 1812年 - プロイセン王国ユダヤ教徒解放勅令を出す[3]
  • 1848年、三月革命でユダヤ人に参政権が認められた[3]。統一的な選挙規則のないままであったが、選出された議員による憲法制定国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた[3]。そのユダヤ教徒の一人ガブリエル・リーサーは「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して、「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた[3]。またオットー・フォン・ビスマルク議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない。また、彼らが私の敵であろうとも、私は彼らを許す。どんな場合にも、私は彼らを愛する。私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」と演説した[3]。こうして、自由主義的な統一ドイツ国家を創出した三月革命の大義の下、「ユダヤ教徒の解放」はドイツのナショナリズムと幸福な結合として位置づけられる[3]。しかし、同年9月28日にはバーデン大公国ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された[3]。翌年の1849年には革命勢力がプロイセン軍に敗北し、「ユダヤ教徒解放」は撤回された[3]。しかし、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒の法的平等が実現し、ユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した[3]

「ユダヤ人からの解放」論の台頭[編集]

  • 1861年 - 匿名で『ユダヤ人迫害とユダヤ人からの解放』が刊行され、そのなかで「貨幣の権力、すなわち、自らは労働せずに、いわゆる営業の自由の利益を独り占めし」ている権力が批判され、金権支配の物質主義と官僚支配の機械主義が進行しているなか、貨幣権力は大部分ユダヤ教徒の手中にあり、ユダヤ人は近代自由主義のすべてを独占することに成功したと主張された[3]。ここでは「ロートシルト家(ロスチャイルド家)を筆頭としてヨーロッパの証券取引所を支配しているユダヤ人金融家」を論じる一方で、ユダヤ教徒迫害は愚かで退けるべきであるとし、「ユダヤ人迫害ではなく、ユダヤ人からの解放!」と述べられた[3]
  • 同年 - 『ユダヤ人とドイツ国家』が匿名(H.G.ノルトマンであることが判明している)で発表され、ベストセラーになった[3]。この本は伝統的なキリスト教的なユダヤ教徒への嫌悪(Judenhaß)を復活させ、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』からシャイロックの台詞が何度も引用され、「ユダヤ人であること(das Judenthum)は、極端な分離主義と人種的思い上がりによって特徴づけられ、ユダヤ人の人間としての範囲はアブラハムの 子孫を越えることはない」「ユダヤの血とユダヤの意識は分離できないのであり、 我々は、ユダヤ教(das Judenthum)を宗教や教会としてだけではなく、人種的特性の表現として把握しなければならない。だから、ユダヤ人とドイツ人の宗教的分離が廃止されれば二つの民族のあらゆる本質的区別がなくなるとか、両者の融合がさらに進めばユダヤ的性格がドイツ人に影響を及ぼすことはなくなるとか、思ってはならない」と主張し、ユダヤ人を人種(Race)、種族(Stamm)として論じた[3]
  • 1862年 - ブルーノ・バウアーが「異邦人の中のユダヤ人」で「ユダヤ人支配はキリスト教徒の所業だ。それは我々の責任だ。しかし、まさにそれが我々の責任であるがゆえに、我々はまだ負けてはいない」「人道主義的に軟化した瞬間に我々がユダヤ教徒を同等なもの、仲間として取り扱った」こと、それが「我々の誤り」であったと主張し、「我々がユダヤ人に対して自らを防衛しなければならないことの責任は、我々のみに、とりわけ我々ドイツ人にある。ユダヤ人が一時的に手に入れた勝利は、彼らが闘い取ったものではなく、我々が彼らにプレゼントしたものなのだ。彼らではなく、我々こそが現代にそのユダヤ的性格を刻印したのだ」と述べた[3]
  • 1878年 - ベルリン条約(諸宗教の平等規定を含む)
  • 1879年、ウィルヘルム・マルが反ユダヤ主義という語を用いた[4]。同年、ハインリヒ・フォン・トライチュケが論文を発表し、その中の「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズはナチス時代にもよく引き合いに出された[5]
  • 1880年代 - ドイツ語圏では1880年代以降、反ユダヤ主義的な言説が流布するようになり、「ユダヤ教徒の解放」をもじって「ユダヤ人からの解放」というスローガンが流布した[3]。ドイツでユダヤ人の解放が実現した19世紀後半は後発の産業革命の時代でもあり、さまざまな商工業分野で成功したユダヤ人が少なくなかった。この時代に勃興した近代の反ユダヤ主義の背景には、このような躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感があったとも指摘される[6]


オーストリア・ハンガリー帝国[編集]

フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)の治下でオーストリア・ハンガリー帝国が成立(1867年)。しかしプロイセン王国ドイツサルデーニャ王国イタリアに破れ、ドイツから締め出された形となった上にロシアとの深刻な対立を抱えていた。内には、妥協策として成立した二重帝国の複合民族国家としての苦悩があった。ここにおいてオーストリアは、多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった皇帝フランツ・ヨーゼフは対ユダヤ人融和策をとり、1860年代の自由主義的な風潮の中で、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。

ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵

1894年、フランスでドレフュス事件。これは、参謀本部に勤めるユダヤ人大尉であったアルフレド・ドレフュスに対する冤罪事件である。フランス民衆の間に反ユダヤ主義の声がことさらに高まった。

ルエーガーとシェーネラー[編集]

ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーは、当時、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーからも強い影響を受けていた。

20世紀前半[編集]

1905年のポグロムで犠牲になったユダヤ人の子どもたち
  • 1903年 - ユダヤ人が世界征服を企んでいるとする『シオン賢者の議定書』(プロトコル)がロシアで初めて世に出る。アメリカではヘンリー・フォードが、ドイツではヒトラーが熱狂的な信奉者となった。
  • 1921年には英『タイムズ』紙の記者により捏造本であることが解明・報道されたが、すでにこの本を読んだ民衆は内容を信じ込み、いっそうあからさまにユダヤ人の排斥運動(ポグロム)が起きるようになった。
  • 1903年 - 4月、キシネフの虐殺。49人のロシア系ユダヤ人が犠牲となり、92人が重傷、500人が軽傷を負い、多くのユダヤ人の住宅や商店が破壊された。この事件は全世界に報じられ、世界中のユダヤ人を激怒させた。
  • 1913年 - ロシアでベイリス事件が起こる。ユダヤ人メンデル・ベイリスが「儀式殺人」の疑いで逮捕。
  • 1913年 - アメリカ合衆国レオ・フランク事件が起こる。
  • 1917年 - ロシア革命が起こる。
  • 1920年 - ヘンリー・フォードの著書『国際ユダヤ人英語版』が発売される。
  • 1928年 - ソ連極東のアムール川沿岸の現在の中ソ国境地帯に「ユダヤ民族区」が設置される。しかし、結果的にこの計画は失敗する。現在のユダヤ自治州である。

ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害[編集]

反ユダヤ主義的政策を実行に移したのがドイツにおける国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ナチ党はその創設当初から強い反ユダヤ主義を掲げ、ナチ党の権力掌握後はドイツの国策の一つとなった。1933年にはユダヤ人などを公職から排除する「職業官吏再建法ドイツ語版)」が制定され[7]、1935年にはいわゆる「ニュルンベルク法」によってユダヤ人は公民権を奪い去られた。第二次世界大戦が勃発すると、ヒトラーらはヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島に移送するマダガスカル計画を立てたが、中止された。代わって「ユダヤ人問題の最終的解決」の手段とされたのが絶滅収容所であった。移送された者の多くは大量虐殺の被害にあった。これは「ホロコースト」と呼ばれている。

20世紀後半[編集]

反ユダヤ主義の地域差[編集]

ユダヤ人の迫害についても時代と地域によって大きな差がある。セファルディムエリアス・カネッティは、オスマン帝国領であったブルガリアからドイツ語圏に移住して初めてヨーロッパのユダヤ人差別の実態を知り、「驚いた」と述べている。イスラーム教国でもユダヤ人は二等市民として厳しく差別される存在であったが、ヨーロッパに比べれば比較的自由と権利が保障されていた[8][9]

南フランスでは歴史的にユダヤ教徒追放はあったものの、フランス革命前まで南フランス文化の一部として、数々の美しいシナゴーグが建設され、数多くのラビが誕生した。ヴィシー政権下、村ぐるみでユダヤ人を匿(かくま)った歴史も知られるところである。歴史的に見て、南フランス・ラングドックはある時期までイル・ド・フランスの中央政府の政治とは無縁で、中世にアルビ派ワルドー派が弾圧された地域でもあり、ユダヤ教徒を迫害の標的にする必要などなかった、ということが言われるが、中世には南フランスでもユダヤ人に対する迫害があった。14世紀フランスで井戸や泉に毒が入れられたという噂が流れ、多くのハンセン病者とユダヤ人が犯人とされ、火刑に処されたが、これはカルカソンヌでも発生した事件である[10]

ユダヤ陰謀論[編集]

『シオン賢者の議定書』には多数の類書があるが、たんに相互参照を繰り返して話がふくらんでいるだけで、陰謀の直接的証拠は全くない。しかし陰謀論者たちが秘密結社フリーメイソンとユダヤ人を結びつけたことにより、両者が結託して陰謀をめぐらしているという根も葉もない俗説が広まった。実際には、ドイツのフリーメイソンリーはもとよりユダヤ人の扱いには賛否両論であり、『議定書』の独語版が出版されるとユダヤ人の加入を断るようになった[11]。『シオン賢者の議定書』が作られた当時のロシア宮廷にはパピュスことジェラール・アンコースフランス語版等のオカルティストがコネクションを有しており、後年、パピュスに『議定書』捏造の濡れ衣を着せる記事がポーランドで書かれたこともあった。『議定書』の草稿のロシアへの持ち込みに関与したとされるユリアナ・グリンカという女性も神智学に傾倒していた[12]

日本[編集]

1918年日本シベリア出兵を行うが、日本軍と接触した白軍兵士には全員『シオン賢者の議定書』が配布されていたことにより、日本軍は反ユダヤ主義の存在を知ることになる。シベリアから帰った久保田栄吉1919年に初めて日本にこの本を紹介した。最初に一冊の本で『シオン賢者の議定書』を紹介したのが北上梅石(樋口艶之助)の『猶太禍』(1923年)であった。樋口艶之助はロシア語通訳としてシベリア出兵に参加しており、直接白軍将校と接触している。樋口の翻訳を読み酒井勝軍1924年に『猶太人の世界征略運動』など3冊を相次いで出版した。陸軍の将軍であった四王天延孝も『シオン賢者の議定書』を翻訳し、また反ユダヤ協会の会長を務めた。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げたが、日本に帰ってくると1924年に包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。また、独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触し、陸海軍のみならず外務省をも巻き込んだ「ユダヤの陰謀」の研究が行われた。しかし、陰謀の発見等の具体的成果を挙げられなかった[13]

安江仙弘や犬塚惟重は、満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することなどによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。結局河豚計画は失敗するが、数千人のユダヤ人が命を救われたりと成果も残すこととなった[14]。ゲーム会社のタイトー創業者であるロシア系ユダヤ人ミハエル・コーガンも安江らの影響で日本で活躍の場を求めるようになった。

『シオン賢者の議定書』が日本に持ち込まれる際に、シベリアから『マッソン結社の陰謀』というわら半紙に謄写版刷りの50枚ばかりの小冊子が持ち込まれた。これが日本では、フリーメイソン陰謀論がユダヤ陰謀論と同時に語られるきっかけになった。『マッソン結社の陰謀』は1923年に「中学教育の資料として適当なものと認む」という推薦文とともに全国の中学校校長会の会員に配布された[15]

1924年には「日本民族会」、1936年には「国際政経学会」という組織が結成され、『国際秘密力の研究』や『月刊猶太(ゆだや)研究』という雑誌が発行された。これらの組織の主要メンバーであった赤池濃は貴族院議員であった。1928年9月に、誕生したばかりの思想検事の講習会が司法省主催で開催された。その中で四王天により『ユダヤ人の世界赤化運動』が正科目として講座が開かれた[16]

ナチス・ドイツの成立以前の新聞報道では、反ユダヤ主義はほとんど積極に取り扱われていなかった[17]ナチ党の権力掌握から間もない頃には、東京朝日新聞などでもナチスのユダヤ人迫害に対して批判的な論調が見られた[18]

ナチスに対する支持が増幅するについて、反ユダヤ主義的な見解が広がり、黒正巌大阪毎日新聞の紙上でナチスの経済政策を激賞し、労働精神を有しないユダヤ人はドイツ国民と断じて相容れず、「国民を利子の奴隷より解放しようとするならば、当然にユダヤ人を排斥せざるを得ないのである」と論じている[19]。1938年のアンシュルス後には大阪朝日新聞ではオーストリアのドイツへの統合問題を述べた「ユダヤ人を清掃すればよい程度」という表現が用いられ[20]、大阪毎日新聞も水晶の夜後にユダヤ人に対して課せられた賠償問題についても「ドイツ人がユダヤ人を煮て食はうが焼いて食はうが米国の口を出すべき問題ではない」と論じている[21]

1944年1月26日の第84回帝国議会で四王天はユダヤ人問題について政府要人たちに質問をするが、回答した安藤紀三郎内相、岡部長景文相、天羽英二(内閣情報局総裁)いずれも四王天の意を迎え、反ユダヤ主義的回答を行った[22]。大阪毎日新聞は四王天を講師として迎えた企画展「国際思想戦とユダヤ問題講演会」などの、類似の反ユダヤ主義勉強会やイベントをたびたび開催し、主筆の上原虎重も講師として加わっていた[23]。大阪毎日新聞はこのほか、連合軍によるローマ空襲でバチカンが被害を受けたことも「ユダヤ人とユダヤ思想を基礎とするフリー・メーソンリの計画」であると社説に掲載したほか、連合国の指導者を「ユダヤ民族の総帥」であるとするなど、たびたび反ユダヤ主義・陰謀論的な論説を掲載している[24]。このほか白鳥敏夫大串兎代夫大場彌平長谷川泰造といった執筆陣によってこの見解を敷衍する連載も行われている[24]

吉野作造1921年に『所謂世界的秘密結社の正体』という文章を書き、フリーメイソンの弁護を行った[25]。吉野はユダヤ陰謀論者が用いている「マッソン結社」という呼称をまず批判したが、これは逆に酒井勝軍らに再批判されている。また、吉野は『シオン賢者の議定書』に種本があることを指摘した。

八太徳三は『想と国と人』誌に『猶太本国の建設』という文書を著し、ここで『シオン賢者の議定書』の捏造状況を記述した。

厨川白村は『改造』誌1923年5月号の『猶太人研究』に「何故の侮蔑ぞや」という文書を著し、ここで「個人主義傾向のユダヤ人に大きな団体的な破壊活動などが出来る筈がない」と主張した。

新見吉次1927年5月に『猶太人問題』を刊行した。その中でユダヤ人の陰謀説が日本に相当根を張っている状況を憂い、歴史的事実を通してその批判を行っている。

最も積極的にユダヤ陰謀論を批判したのが、満川亀太郎であった。1919年の『雄叫び』誌に載せた文章をはじめ、継続的にユダヤ陰謀論を批判している。1929年に満川は『ユダヤ禍の迷妄』を、1932年に『猶太禍問題の検討』を著しユダヤ陰謀論を批判している。その他、ユダヤ人陰謀説を批判している人もいるが、妄説を相手にしているのは大人げなく黙殺するという態度を取る人が多く、結果的に陰謀説の方が優勢を示すこととなった[26]オトポール事件河豚計画にも関わった樋口季一郎は、第1回極東ユダヤ人大会に招かれてナチスの反ユダヤ主義政策を批判する演説を行っているが、日本の新聞では大会の存在すら報道されなかった[27]

作家山中峯太郎は少年向け雑誌『少年倶楽部』に1932年から1年半『大東の鉄人』という小説を連載する。この小説では、ヒーローが戦う相手は日本滅亡を画策するユダヤ人秘密結社シオン同盟とされた。山中は安江の陸軍士官学校における2年先輩であった。また、海野十三[28]北村小松らもユダヤ人を敵の首領とする子供向け冒険小説を書いている。太宰治もユダヤ陰謀論的に自著が扱われた事実を戦後書いており(『文化展望』誌に1946年6月に書いた文章「十五年間」)、戦前ユダヤ人の否定的イメージが子供達でさえ了承することを自明視していたほど反ユダヤ主義的言説が日常的に流通していた[29]。1938年10月7日、外務省から在外公館長へ『猶太避難民ノ入國ニ關スル件』(猶太避難民ノ入国ニ関スル件)という極秘の訓令が近衛文麿外務大臣の名で発せられた。

戦後1986年宇野正美によって『ユダヤが解ると世界が見えてくる』(徳間書店)が出版され、一大ベストセラーとなった。1987年1月17日付の読売新聞は、宇野の説を好意的に取り上げた。自民党保守派は憲法記念日の大会に宇野を招待した。ユダヤ陰謀論は一部のマニアックな言説としてだけではなく、日本のメインストリームにも受け入れられていた[30]

1981年五島勉によって出版された『ノストラダムスの大予言III-1999年の破滅を決定する「最後の秘史」』でもユダヤ陰謀説は展開された。

内田樹は英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語ではたんに「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」、「〜民族」、「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいる(実際にはユダヤ人と他の民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はない[31])。

反ユダヤ主義と反イスラエル[編集]

イスラエルへの批判が反ユダヤ主義へと直結している事例をここでは述べる。パレスチナ問題をめぐり、学校なども攻撃対象にして、市民を巻き込む作戦も実行するイスラエル[32]に対し、この軍事活動を批判するデモが世界各地で発生しているが、この内の一部に反ユダヤ的言動を唱えるデモがあるとされる[33]

2014年のイスラエル軍によるガザ侵攻では欧米でイスラエルを批判するデモなどが発生した。この行動は、反ユダヤ主義を煽ることに繋がるとする主張がある。例えば、イスラエルの侵攻について、ペネロペ・クルスハビエル・バルデムなどの俳優や映画監督など数十人は、イスラエル軍パレスチナ人大量虐殺を批判、停戦を求める書簡に署名した。この時、ジョン・ヴォイトハリウッド・リポーターのコラムに「今回のような行動は、世界中で反ユダヤ主義をあおりかねません」とコメントを寄せ、中東問題に関して行動を慎むよう警告した。このヴォイトの発言に、署名したハビエル・バルデムは「私たちは悲惨で痛ましい戦争を心から憎むと同じように、反ユダヤ主義を嫌悪しています」と反論している[34]

フランスでは7月13日のデモでイスラエル支持派と反イスラエル派が衝突しており、7月20日のデモではパリのユダヤ人地区で反ユダヤ主義的な主張が起こっている[35]。ドイツでは7月後半にユダヤ人へ軽蔑やシナゴーク批判が発生し、火炎瓶の投げ込みも起こっており、7月末のオランダでも反ユダヤ主義を煽るデモが起こっている[36]

2015年1月9日にはISILに感化された男によるユダヤ食品店人質事件が起きている。犯人は犯行の際に店の客らに向かって「お前たちはユダヤ人だから全て殺す」と発言していた[37]

出典・脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 「反ユダヤ主義」世界大百科事典 第2版
  2. ^ 立川昭二 『病気の社会史 文明に探る病因』 日本放送出版協会〈NHKブックス 152〉、85頁。ISBN 978-4-14-001152-2
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 植村邦彦「解放表象の反転 人種主義的反ユダヤ主義の成立1848-1862」關西大學經済論集 49(3), 45-60, 1999-12
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)
  5. ^ 谷喬夫 『ヒムラーとヒトラー』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2000年、37-38頁。
  6. ^ 大澤武男 『ユダヤ人とドイツ』 講談社〈講談社現代新書〉、1991年、89-97頁。
  7. ^ 山口和人 (2014年9月1日). “ドイツ公務員制度の諸問題 (PDF)”. 国立国会図書館. p. 9. 2014年11月12日閲覧。
  8. ^ 鈴木董「オスマン帝国」参照
  9. ^ イスラム世界におけるユダヤ人の恐怖
  10. ^ カルロ・ギンズブルク 『闇の歴史』 竹山博英訳、せりか書房、1992年、59-91頁。
  11. ^ 有澤玲 『秘密結社の事典』 柏書房、1998年、259-260頁。
  12. ^ 横山茂雄 『聖別された肉体』 書誌風の薔薇、1990年、86-97頁。
  13. ^ ノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話―シオン賢者の議定書』[要ページ番号]
  14. ^ ノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話―シオン賢者の議定書』[要ページ番号]
  15. ^ 松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』p.77
  16. ^ 満川亀太郎『ユダヤ禍の迷妄』自序 p.18 他
  17. ^ 宮澤正典 2015, pp. 9.
  18. ^ 宮澤正典 2015, pp. 10.
  19. ^ 宮澤正典 2015, pp. 11.
  20. ^ 宮澤正典 2015, pp. 12.
  21. ^ 宮澤正典 2015, pp. 14.
  22. ^ 松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』p.26
  23. ^ 宮澤正典 2015, pp. 15.
  24. ^ a b 宮澤正典 2015, pp. 16-17.
  25. ^ 『所謂世界的秘密結社の正体』1921年6月発行の『中央公論
  26. ^ 満川亀太郎『ユダヤ禍の迷妄』p.101-128
  27. ^ 宮澤正典 2015, pp. 19.
  28. ^ 『浮かぶ飛行島』
  29. ^ 松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』p.74-76
  30. ^ 『世界の陰謀論を読み解く―ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』 (講談社現代新書)p.29-
  31. ^ 内田樹 『私家版・ユダヤ文化論』 文藝春秋〈文春文庫〉、2006年、26頁。
  32. ^ “イスラエルのガザ学校攻撃、米政府が非難”. Reuters. (2014年7月30日). http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0FZ2B420140730 2014年8月31日閲覧。 
  33. ^ “【イスラエル・ガザ侵攻】欧米で反イスラエルデモ拡大 「反ユダヤ」的言動を警戒する仏独”. 産経新聞. (2014年8月3日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/140803/amr14080323460008-n1.htm 2014年8月31日閲覧。 
  34. ^ “ジョン・ヴォイト、ガザ空爆を非難したペネロペ・クルスとハビエル・バルデムを批判!”. 海外ドラマNAVI. (2014年8月6日). http://dramanavi.net/news/2014/08/post-3018.php 2014年8月31日閲覧。 
  35. ^ 毎日新聞 2014年(平成26年)8月4日21時28分配信
  36. ^ 産経新聞 2014年(平成26年)8月3日23時46分配信
  37. ^ 4人はユダヤ人ゆえに殺された長谷川良2015年1月16日、同年2月21日閲覧

参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

関連人物[編集]

外部リンク[編集]