犬塚惟重

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犬塚 惟重
Koreshige Inuzuka.JPG
生誕 1890年7月11日
死没 1965年2月19日
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1912年 - 1939年
最終階級 海軍大佐
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犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1965年2月19日)は、日本海軍軍人ユダヤ問題研究家。最終階級は海軍大佐

経歴[編集]

本籍佐賀県佐賀藩士、翻訳家・犬塚浩道の長男として東京で生れる。

軍歴[編集]

早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。「肥前」「春日」「八雲」「北上」「木曾」「日進」の各分隊長を歴任したほか、海軍大学校選科学生としてフランス語を学んだ。1923年12月、海軍少佐に進級。なお中尉時代に第二特務艦隊所属の駆逐艦・「」乗組として、第一次世界大戦に参戦。「榊」は地中海で雷撃を受け、艦長・上原太一少佐以下59名が戦死したが、犬塚は混乱した状況で事態収拾に努めている。

その後、「武蔵」運用長、軍事参議官鈴木貫太郎大将・同山下源太郎大将の各副官舞鶴要港部副官兼参謀フランス大使館付武官補佐官となる。フランス語を学んだ犬塚であったが、発音が通じずノイローゼ気味となり、一時静養している[1]1929年11月、海軍中佐へ進級。第1艦隊連合艦隊副官、「富士」「球磨」の各副長、運送艦「青島」特務艦長軍令部第3部出仕などを歴任し、1934年11月、海軍大佐に進級した。軍事普及部委員、上海出張駐在、兼支那方面艦隊司令部付(犬塚機関長)となり、1939年12月、予備役に編入され、引き続き機関長を嘱託された。

太平洋戦争開戦に伴い召集され、支那方面艦隊司令部付(上海在勤海軍武官特別調査部長)、佐世保鎮守府付、「鹿野丸」監督官、「いくしま丸」艦長、第2海上護衛隊司令部付、同運航指揮官横須賀鎮守府付、第31警備隊司令、横須賀鎮守府付となり1945年5月、召集解除となった。1946年3月から翌年7月まで、マニラにおいて戦犯容疑で拘留された。

フリーメイソンとの係わり[編集]

1939年昭和14年)夏、犬塚機関が上海のフリーメイソンリーの拠点三ヶ所を強制捜査し、祭祀用具、進級問答集など大量の貴重品を押収した。押収物は「極秘軍令品」として1942年昭和17年)春に、上海から東京に運ばれた。戦後、犬塚惟重海軍大佐の未亡人である犬塚(旧姓:新明)きよ子が、それらの「上海フリーメイソン文書」を公開し、ソ連・支那のメイソンが大東社系であること、当時の中国国民党内部に支那人のメイソンが多数居た事や、彼らがフリーメイソンリーを介してアメリカ・イギリスの意向を汲む行動を取っていた事などが、明らかとなった。

ユダヤ問題との係わり[編集]

ドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進むにつれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。しかし、彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を非常に制限し、ほとんどシャットアウトの政策であった。英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであった。そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口地区だけだった。犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に努力した。

脚注[編集]

  1. ^ 高木p78

文献[編集]

  • 犬塚きよ子『ユダヤ問題と日本の工作』日本工業新聞社1982年
  • 犬塚きよ子『フリーメイソンのアジア管理』新国民社、1985年
  • 犬塚きよ子『フリーメイソンの占領革命』新国民社、1985年。
  • 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、1971年。

関連項目[編集]