若宮卯之助

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若宮 卯之助(わかみや ゆうのすけ、明治5年〈1872年9月23日 - 昭和13年〈1938年4月30日)は、日本社会学者新聞記者国粋主義者反ユダヤ主義思想家として知られた。慶應義塾大学社会学教授。原理日本社同人、国際政経学会常務理事、新聞「日本」社長兼主筆、中央新聞主筆等を歴任。号は泰山(たいざん)。

経歴[編集]

富山県生まれ。

郷里の小学校を約2年で中退して曹洞宗落飾し、のち上京して蕎麦屋の出前等の職を転々としながら1898年(明治31年)にアメリカ大陸に渡り、約10年間の放浪生活を経たのちに帰国して日本新聞社に入社したという異端の経歴を持つ人物である。帰国後、東亜研究所や『新東北』などに執筆し、『中央新聞』主筆となる。

1921年(大正10年)に田中一貞に見出されて、慶應義塾大学の講師として聘され、田中の亡き後、福谷益三加田哲二新館正国奥井復太郎藤林敬三佐原六郎米山桂三等々と共に慶應義塾における社会学の基礎を築くと共に、同大学教授の蓑田胸喜と共に原理日本社の機関紙『原理日本』に寄稿する。

傍ら、時の司法大臣小川平吉を擁して日刊新聞『国粋』を創刊し、ここで独自の日本主義を主張し、「回教ユダヤ問題研究調査委員会」設立に動いた。続いて1935年(昭和11年)に赤池濃(貴族院議員)が中心となって日本初の公式ユダヤ問題研究機関である国際政経学会が組織されると、小磯国昭板垣征四郎大久保弘一らの後援を受けて、增田正雄と共に常任理事に選出され、月刊『猶太研究』の編集を主導する。若宮はここで蒙古来襲ユダヤ人の征服陰謀論を主張し、軍の一部や政財界にユダヤ問題が注目され始め、軍令部の犬塚惟重も、これに大きな影響を受けた。

原理日本社関連の書物は敗戦後にGHQによって図書の焚書が行われたため、若宮の活動も判明していない部分が多い。胃潰瘍のため本郷神保病院で逝去、享年67。

後年、桜沢如一がユダヤ問題において最も尊敬する人物として、若宮を挙げている[1]ほか太田龍らに連なるユダヤ陰謀論(陰謀説)の原点を創った人物でもある。

著書[編集]

翻訳書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 櫻澤如一『健康と幸福』成史書院、1939年。111頁、「此の頃、ユダヤ問題の權威者とか言はれるのでありますが、それの權威者としては、日本に私の最も尊敬する若宮卯之助先生がありました」

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]