バル・コクバの乱

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バル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)
1世紀のパレスティナ

戦争
年月日132年-135年
場所ユダヤ属州
結果:ローマ帝国の勝利
交戦勢力
Vexilloid of the Roman Empire.svgローマ帝国 ユダヤ人 他
指導者・指揮官
Vexilloid of the Roman Empire.svgハドリアヌス
Vexilloid of the Roman Empire.svgティネイウス・ルフス
シモン・バル・コクバ
アキバ・ベン・ヨセフ
戦力
ローマ軍団12個(60,000名 - 120,000名) 200,000 - 300,000

バル・コクバの乱(バル・コクバのらん、ヘブライ語מרד בר כוכבא)は、2世紀ローマ帝国支配に対しておきたユダヤ属州での反乱であり、ユダヤ人側の指導者の名からこのように呼ばれる。なお、66年からの反乱(いわゆるユダヤ戦争)を「第一次ユダヤ戦争」とするのに対して、この戦争を「第二次ユダヤ戦争」と称することもある。(イタリア語では、キトス戦争(115年 - 117年)を第2次と考え、第3次ユダヤ戦争Terza guerra giudaicaと呼ぶ。)

経緯[編集]

勃発まで[編集]

第一次ユダヤ戦争の後もユダヤ人たちの反ローマ感情と独立願望は高まっていた。115年にはユダヤ本国だけでなく、ディアスポラのユダヤ人たちも含めて各地で同時多発蜂起を起こしている。こういったユダヤ人の鬱憤が指導者を得ることで爆発したのがバル・コクバの乱であった。

そのころ、シメオン・バル・コクバという男が自分こそはユダヤ民族を救う救世主(メシア)であるといい始めた。これに対して当時のユダヤ教の精神的指導者ラビアキバ・ベン・ヨセフが支持を表明したことから人々の期待が一気に高まる。当時のユダヤ教思想の中に救世主待望論が持たれ続けていたのである。その救世主は政治的な指導者であり、人々を異民族の支配から解放してくれる人物であると人々は疑わなかった、といわれる(福音書には、イエス・キリストに政治的な指導者であることを求める人々に対し、それをたとえ話の形で否定するイエスの姿が描かれている)。シメオン・バル・コクバは「星の子」(シメオン・バル・コクバ)というメシア称号を自称するようになる。

きっかけは130年ハドリアヌス帝の巡幸であった。彼は精力的に帝国領内をめぐったが、70年エルサレム攻囲戦でローマ軍に破壊されたまま荒れ果てていたエルサレムにも足を伸ばした。彼はユダヤ人たちに同情し、エルサレムの再建・修復を約束した。しかし、自分たちの聖地エルサレムが「アエリア・カピトリナ」という名前に変えられること、およびその計画にエルサレム神殿跡地にユピテル神殿を立てることも含まれていることが判明するとユダヤ人の怒りが爆発した。また、モーセ以来神との契約のしるしであった割礼を時代遅れの野蛮行為として禁止しようとしたことなどもユダヤ人には耐えられないことであった。

ラビ・アキバの尽力によって最高法院も反乱の実行を計画。第一次ユダヤ戦争の問題点を徹底的に研究した上で、バル・コクバをリーダーとして対ローマ反乱に踏み切った。

「イスラエルの復興」[編集]

当初、この反乱計画はスムーズに進行し、各地でローマ軍の守備隊を打ち破り、ユダヤの支配権をとりもどすことに成功した。2年半にわたって、バル・コクバは政治的指導者の座におさまり、ラビ・アキバが宗教的指導者となるユダヤ的支配構造が確立された。彼らは「イスラエルの復興」を宣言し、コインを鋳造し、神殿の再建を計画した。

しかし不意打ちを食らったローマ軍も決して事態を静観していなかった。ハドリアヌス帝はブリタンニアから勇将ユリウス・セウェルスを召喚し、ドナウ川流域に駐留していた軍団を与えてユダヤへと出動させていた。ユダヤ人は意気盛んで戦闘は困難であったが、ついに135年にエルサレムを陥落させることに成功した。

バル・コクバは戦死し、ラビ・アキバは首謀者として捕らえられ処刑された。多数のユダヤ人の死と完全に廃墟となったエルサレム、荒れ果てたユダヤ全土を残して反乱は終結した。

戦後処理[編集]

ハドリアヌス帝はユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶をはかった。ユダヤ暦の廃止が命じられ、ユダヤ教指導者たちは殺害された。律法の書物は神殿の丘に廃棄され、埋められた。さらにエルサレムの名称を廃して「アエリア・カピトリナ」とし、ユダヤ人の立ち入りを禁じた。紀元4世紀になってはじめてユダヤ人は、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことを許された。ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスティナ」とした。これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったものである。現代まで続くパレスティナの名前はここに由来している。

関連項目[編集]