グスタフ・マーラー

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グスタフ・マーラー
Gustav Mahler
Gustav Mahler 1909.jpg
1909年のマーラー
基本情報
生誕 1860年7月7日
出身地 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、イーグラウ
死没 (1911-05-18) 1911年5月18日(満50歳没)
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家・指揮者
マーラーのサイン

グスタフ・マーラーGustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアウィーンで活躍した作曲家指揮者である。交響曲歌曲の大家として知られる。

出生[編集]

マーラーの生家
1865年のマーラー
1892年のマーラー
1902年のマーラー
夫妻の間には14人の子供が産まれている[注釈 1]。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し[1][注釈 2]、第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられる。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となる。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死ぬまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をした[2]
  • 父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしている。馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため、「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていた[3]。独力で類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた[4]。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は非常に強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した[5]
  • 母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘であった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄はよかったが、心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった[6]」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた[7]
  • ベルンハルトの母(グスタフの祖母)は、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きなを背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気は毛頭なく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている[8]

略歴[編集]

ウィーン宮廷歌劇場(1898年)
ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場(1905年)
マーラーの眠る
  • 1910年(50歳) 4月、ヨーロッパに帰る。クロード・ドビュッシーポール・デュカスに会う。8月、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日ミュンヘンで交響曲第8番を自らの指揮で初演。大成功を収める。
  • 1911年(50歳) 2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症死去。暴風雨の夜であった。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)[16][注釈 5]」。長女マリア・アンナと同じ、ウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない[17][18]

人物[編集]

1909年のマーラー

出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている[19][注釈 6]。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず[注釈 7]、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている[20][21][注釈 8]

酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった[22]。しかし本人はあまり酒に強くなかった[23]

アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズ交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。

マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルターオットー・クレンペラーらにも大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき[24][25]、そのことについて後年までマーラーに感謝していた[26][注釈 9]。そのほか、ウィレム・メンゲルベルクオスカー・フリートといった当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでもメンゲルベルクはマーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほどに高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した[27]

一方、マーラーにはその一徹な性格から、周囲の反発を買うことも多かった。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時に当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ[注釈 10]。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った[28]。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義に基づく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。

なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している[29]

“マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”

加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ[30]、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定している。

マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ[31]

しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場している。以下がその一文である[32][33]

“彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!”

指揮者として[編集]

カリカチュア「超モダンな指揮者」(ハンス・シュリースマン作)

マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者であった。音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法は、カリカチュア化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。その代表的なカリカチュアである「超モダンな指揮者」(Ein hypermoderner Dirigent)には、1901年ウィーン初期の頃の、激しい運動を伴ったマーラーの指揮姿が描かれている。なおその指揮ぶりは次第に穏やかなものとなり、晩年、医師から心臓疾患を宣告されてからは「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルターによる証言)と変化した[34]

マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月にブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたヨハネス・ブラームスは、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったという[35]

マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、アルトゥーロ・トスカニーニはマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという逸話が残っている[36][注釈 11]。もっとも、シューマンの『交響曲第2番』、『交響曲第3番』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。

オーケストラ演奏の録音は時代の制約もあり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信頼性に問題がある)が残されている。

指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている[37]

“全ての音の長さが正確に出せるなら、そのテンポは正しい”
“音が前後互いに重なり、フレーズが理解できなくなるとしたら、そのテンポは速過ぎる”
“識別できる極限のところがプレストの正しいテンポである。それを超えたらもはや無意味である”
“聴衆がアダージョについてこられない時は、テンポを速くするのではなく、逆に遅くせよ”

マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、ハンガリー語で統一したワーグナーを上演した[38]。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部の「スター歌手」が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が雑多に混じることすらあった。マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーは「さくら」を廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した[39]。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、やらせ拍手ブラヴォーをし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。

ブルックナーとの関係[編集]

ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。

17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーはブルックナーの交響曲第3番(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は大失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている[40]

ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが[41]、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している[42]。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している[43]

シェーンベルクとの関係[編集]

マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。

彼の弦楽四重奏曲第1番室内交響曲第1番ホ長調の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モル英語版が男を押さえ込んだ。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた[44][45]。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆に「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った[46][47][48]。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」

シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している[49]。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている[50]

ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのであった[51]

作品[編集]

マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である[52]

“諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。そしてこれらの主題は、リズムの性格も旋律の性格も全く違ったものでなければならない。音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーとの唯一の違いは、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて、ひとつの調和に満ちた全体を造り上げることだ”
マーラーの作曲小屋

マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲であるが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。

楽器に関し、マーラーはカウベルチェレスタマンドリン鉄琴木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた[53]。1907年1月に描かれたカリカチュア「悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)」では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)

歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。

多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からであるが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり[54]、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された[55]

現在、マーラーの交響曲作品はその大規模さや複雑さにも関わらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている[56]

“マーラーが偶像視されるようになったのは偶然ではない。演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう”

主要作品[編集]

自作の交響曲第1番を指揮するマーラーを描いたカリカチュア(テオ・ツァッシェ作)。マーラーの勇猛な指揮ぶりと極めて型破りな作品が共に皮肉られている。

交響曲・管弦楽曲[編集]

声楽曲[編集]

その他の作品[編集]

オペラ[編集]

以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。

  • 『シュヴァーベン候エルンスト』(Herzog Ernst von Schwaben, 1875-78)
  • 『アルゴー船の人々』(Die Argonauten, 1878-80)
  • 『リューベツァール』(Rübezahl, 1879-83)

編曲作品[編集]

原曲は1820年から21年にかけて作曲されたが未完成に終わったため、作曲者の孫にあたるカール・フォン・ウェーバーがマーラー(当時26歳)に補完を依頼し、1887年に完成された。補完版の初演は1888年にライプツィヒの市立歌劇場でマーラーの指揮により行われている。
1878年に原曲を4手ピアノ用に編曲したもの。
交響曲第9番の第1楽章や第3楽章にトロンボーンを取り入れている。
原曲を弦楽合奏版にしたもの。
原曲を弦楽合奏版にしたもの。
  • シューマン:交響曲全曲
近年ではリッカルド・シャイーがこの編曲版を全曲録音している。
これは原曲の第2番と第3番のなかから5曲を選び、新しい組曲の形式へと編曲したものである。

楽団[編集]

グスタフ・マーラーの名を冠した楽団が存在する。

映画(マーラーを扱った作品)[編集]

  • マーラー』 - 1974年、ケン・ラッセル監督の映画。
  • クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』 - マーラーをモデルとした人物が描かれているとされる。
  • トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』 - 主人公(グスタフ・フォン・アッシェンバッハ Gustav von Aschenbach)は、マーラーにインスピレーションを得て創作された人物とされている。
  • ベニスに死す』 - 上記小説の映画化。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品。原作での小説家という設定は作曲家に変更されて更にマーラーを思わせるものになっただけではなく、マーラーの交響曲第5番の第4楽章(および交響曲第3番の第4楽章)が映画音楽として使われた。さらに劇中、原作にはない「アルフレッド」という名のシェーンベルクを思わせる人物を登場させ、主人公と音楽論を戦わせるシーンを用意している。
  • 同じくマンの小説『ファウストゥス博士』 - 主人公(アドリアン・レーヴァーキューン Adrian Leverkühn)が作曲家に設定されており、こちらもマーラーを想定しているとされている。
  • サントリーローヤル テレビCM(1986年)
  • 『Bride of the Wind』 - 2001年、ブルース・ベレスフォード監督の映画(日本未公開)。『Bride of the Wind』(風の花嫁)は、アルマ未亡人の恋人になった画家、オスカー・ココシュカの代表作(1914年)のタイトルでもある。
  • 『グスタフ・マーラー 時を越える旅』(Gustav Mahler - Sterben werd'ich um zu leben) - 1987年ヴォルフガング・レゾウスキー監督のオーストリア・西ドイツ合作映画(原題は交響曲第2番終楽章の歌詞「私は生きるために死のう」に基づく)
  • マーラー 君に捧げるアダージョ』 - 2010年、パーシー・アドロン、フェリックス・アドロン監督のドイツ・オーストリア合作映画
  • 『Requiem in Vienna』 - 2010年、J・シドニー・ジョーンズ(J. Sydney Jones)作のウィーンを舞台にしたミステリー・シリーズの第2作。- ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督グスタフ・マーラーの命を狙う事件が続発し……。
  • 『The Premiere: A Case of the Ridiculous and the Sublime』- 2012年、スティーヴン・リース(Stephen Lees)作の小説。1910年、交響曲第8番のロンドン初演をめぐる物語。語り手はマーラーの友人のフリードリヒ・レーア。

注釈[編集]

  1. ^ イージドール、グスタフ、エルンスト、レオポルディーネ、カール、ルドルフ、アロイス、ユスティーネ、アルノルト、フリードリヒ、アルフレート、オットー、エマ、コンラート。
  2. ^ 当時のヨーロッパは乳幼児の死亡率が極めて高かった。
  3. ^ ただし、いじめを受け成績不振に陥ることになる。
  4. ^ 曲はフランツ・リスト編曲「結婚行進曲と妖精の踊り」
  5. ^ “erl”は、南ドイツおよびオーストリア方言における指小辞の変種である。「モーツァルト」を愛称形にしている。
  6. ^ マーラーが生まれ育った時期は、長らくドイツ民族地域の盟主として君臨してきたオーストリアが普墺戦争での完敗という結果をもってプロイセンによって統一ドイツから除外されるという激動の時代である。さらにアウスグライヒでハンガリー人に内政面での大幅な譲歩を強いられ、チェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃でもあった。
  7. ^ マーラーの交響曲作品がウィーンで好評を博するようになったのは晩年からである。それ以前は、マーラーの自作演奏についてウィーンのジャーナリズムなどから「自作の宣伝に憂き身をやつしてばかりいる」と中傷されることすらあった。
  8. ^ この「ボヘミアン」という表現には、「ボヘミア地方の出身者」という文字通りの意味のほかに、ヨーロッパでは「流浪者」「自由奔放の民」(ボヘミアニズム)を表す比喩でもあり、いささか侮蔑的ながらも特別な含意がある。実際にボヘミア地方の出身者であると同時に「定住の地・定職がないが自由な芸術家」という意味を掛けており、一種の自嘲あるいはユーモアを込めた回答であると解することもできる。
  9. ^ クレンペラーはこの件について、交響曲第8番になぞらえマーラーを「創造主なる精霊」(creator spiritus)であると賛美している。
  10. ^ 「ユダヤ人ではない」という意味。
  11. ^ これはマーラーとトスカニーニの指揮者としての姿勢の違いを考慮する必要がある。マーラーが活躍した時代、指揮者は「作曲者がいま生きていたらこうするはず」と、楽器や演奏技術の進歩を念頭に置いた「主観的修正」をし演奏することが作法であり教養だった。当然、その姿勢は(マーラーとは6年半しか年齢差がないとはいえ)「新しい指揮者」であるトスカニーニとは全く違う。

出典[編集]

  1. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 10頁より。
  2. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 18頁より
  3. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 12頁より。
  4. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 11頁より。
  5. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 12頁より。
  6. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 16頁より
  7. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 12頁より。
  8. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 17頁より
  9. ^ 村井翔 『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』 5頁より。
  10. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 17、18頁より
  11. ^ 村井翔 『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』 5頁より。
  12. ^ 『文藝別冊 マーラー』 190頁より。
  13. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 22頁より。
  14. ^ 村井翔 『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』 6頁より。
  15. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 125頁より。
  16. ^ 村井翔 『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』 166頁より。
  17. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 183頁より。
  18. ^ アルマ・マーラー 『マーラーの思い出』 酒田健一訳 228頁より。
  19. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 19頁より。
  20. ^ Mathis-Rosenzweig, Alfred. Gustav Mahler: New Insights into His Life, Times and Work 14頁より。
  21. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 19頁より。
  22. ^ アルマ・マーラー 『マーラーの思い出』 酒田健一訳 101頁より。
  23. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 154頁より。
  24. ^ シュテファン・シュトンポア 『クレンペラー 指揮者の本懐』 野口剛夫訳 112頁より。
  25. ^ ルーペルト・シェトレ 『指揮台の神々 世紀の大指揮者列伝』 喜多尾道冬訳 191頁より。
  26. ^ シュテファン・シュトンポア 『クレンペラー 指揮者の本懐』 野口剛夫訳 123頁より。
  27. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 184頁より。
  28. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 32頁より
  29. ^ シュテファン・シュトンポア 『クレンペラー 指揮者の本懐』 野口剛夫訳 112頁より。
  30. ^ シュテファン・シュトンポア 『クレンペラー 指揮者の本懐』 野口剛夫訳 119頁より。
  31. ^ 『マーラー 音楽の手帖』「立ったまま夢見る男」(辻井喬)14頁より。
  32. ^ アルマ・マーラー 『マーラーの思い出』 酒田健一訳 259頁より。
  33. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 184頁より。
  34. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 137頁より。
  35. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 54頁より。
  36. ^ Taubman, Howard (1977). The Maestro: The Life of Arturo Toscanini. 119頁より。
  37. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 100頁より
  38. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 54頁より。
  39. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 99頁より。
  40. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 26、27頁より。
  41. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 27頁より。
  42. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 194頁より
  43. ^ 土田英三郎 『ブルックナー カラー版作曲家の生涯』 155頁より。
  44. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 200頁より
  45. ^ 村井翔 『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』 130頁より。
  46. ^ アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 201頁より
  47. ^ 村井翔 『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』 130頁より。
  48. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 156頁より。
  49. ^ 土田英三郎 『ブルックナー カラー版作曲家の生涯』 155頁より。
  50. ^ アルマ・マーラー 『マーラーの思い出』 酒田健一訳 428頁より。
  51. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 154頁より。
  52. ^ 船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 148頁より。
  53. ^ 村井翔 『マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)』 231頁より。
  54. ^ 長木誠司 『クラシック音楽の20世紀 第2巻』 234頁より。
  55. ^ 長木誠司 『クラシック音楽の20世紀 第2巻』 113頁より。
  56. ^ ゲオルク・ショルティ 『ショルティ自伝』 255、256頁より。
  57. ^ 前島良雄 『マーラーを識る』 144頁から。
  58. ^ 前島良雄 『マーラーを識る』 174頁から。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
アルトゥル・ニキシュ
ライプツィヒ歌劇場
総監督
1886年 - 1888年
次代:
オットー・ローゼ
先代:
初代
プラハ国立歌劇場
指揮者
1888年 - 1891年
次代:
カール・ムック
先代:
ハンス・フォン・ビューロー
ハンブルク市立歌劇場
音楽監督
1891年 - 1897年
次代:
オットー・クレンペラー