クルト・マズア

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クルト・マズアKurt Masur [kʊɐt maˈzʊɐ], 1927年7月18日 - 2015年12月19日)は、旧東ドイツ出身の指揮者

クルト・マズア
Kurt masur.jpg
基本情報
出生名 Kurt Masur
生誕 1927年7月18日
ドイツの旗 ドイツ国 ニーダーシュレジエン州英語版ブリーク
(現:ポーランドの旗 ポーランド オポーレ県ブシェクドイツ語版ポーランド語版英語版
死没 2015年12月19日(満88歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
担当楽器 指揮
活動期間 1960年 - 2015年
レーベル フィリップステラーク

来歴[編集]

ドイツ東部シュレージエン地方のブリーク(現在のポーランドオポーレ県ブジェクポーランド語版英語版)に生まれ、ライプツィヒピアノ作曲指揮法を学ぶ。1960年1964年ベルリン・コーミッシェ・オーパー1955年1958年および1967年1972年ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務める。1970年にライプツィヒ市の楽長ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者(1970-1996)に就任。同時期、西ヨーロッパ・アメリカ・旧ソ連の主要オーケストラへ客演指揮も活発に行い、日本でもNHK-FM放送で頻繁に放送された。

1979年には、読売日本交響楽団の名誉指揮者に就任、何度も共演を繰り返してきた[1]

ベルリンの壁崩壊につながったとされる1989年10月9日ライプツィヒ月曜デモにおいて、民主化を要求するデモ参加者が7万人に達し、秘密警察と軍隊の銃口が市民に向けられた際は、4ヶ月前に起きた天安門事件の二の舞になることを恐れたマズアは、東ドイツ当局に対して市民への武力行使を避け、平和的解決を要望するメッセージを発表した。この行動は当時国際的にも注目を集めた。また、ドイツ統一後の1994年5月にリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が退任した際には、一時ドイツキリスト教民主同盟から大統領候補に擬せられたこともあった[2]

1991年から2002年まで、ズービン・メータの後を受ける形でニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督を務めた。2000年ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者に就任(2000-2007)、2002年4月からはフランス国立管弦楽団の音楽監督(2002-2008)も務めた。

2008年ドイツ・ボンにてヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞を授与された。

1995年にドイツ政府から大功労十字章、2002年に大功労十字星章、そして2007年には大功労十字星大綬章と3度の功労勲章を授与された。また、フランス政府からは1997年レジオンドヌール勲章(コマンドール章)を授与されている。
2009年10月9日、「無血に終わったことは奇跡」と評されたライプツィヒの「月曜デモ」から20年目にあたるこの日、ライプツィヒのゲヴァントハウスで、その20周年を祝う記念式典がおこなわれた。記念式典には、メルケル首相、ケーラー大統領、ティリッヒ・ザクセン州首相、ユンク・ライプツィヒ市長らが出席し、各要人のスピーチ、そしてマズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏のもと、ドイツ国歌斉唱に続き、20周年の記念コンサートがおこなわれた。

また、1990年代からライプツィヒにゆかりのあるフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの作品の研究と普及に努め、荒廃していた住居を再建したほか、1991年にフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ基金を設立し、メンデルスゾーンの再評価を進めた[3]

私生活では3度の結婚歴があり、1972年には居眠り運転により2番目の妻イルムガルトを含む数人を死亡させた。その後、声楽家の桜井偕子と結婚し息子ケン・マズア(Ken-David Masur)をもうけた。現在彼はサンアントニオ交響楽団常任指揮者を務めている。また先妻の娘カロリン・マズア(Carolin Masur)はオペラ歌手として活躍している。

2015年12月19日に死去[4]。88歳没。

脚注[編集]

外部リンク[編集]


先代:
ヴァーツラフ・ノイマン
ベルリン・コーミッシェ・オーパー
首席指揮者
1960年 - 1964年
次代:
ロルフ・ロイター
先代:
ホルスト・フェルスター
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
首席指揮者
1967年 - 1972年
次代:
ギュンター・ヘルビヒ